要約

まさに、「キリストの生活全体が不断の教えでした。つまり、その沈黙、奇跡、わざ、祈り、人間への愛、弱い者と貧しい者への特別な愛、人々のあがないのために引き受けた十字架上の犠牲、さらに復活そのものが、ことばの遂行であり、啓示そのものの成就です」

キリストの弟子たちは、自分のうちにキリストが形づくられるように、キリストに似たものとならなければなりません。「わたしたちがキリストの生命の諸神秘のうちに摂取されるのは、わたしたちがキリストに似た姿になり、キリストとともに死に、ともに復活し、ついにはキリストとともに支配するに至るためです」。

羊飼いや占星術の学者のように、ベツレヘムの飼い葉桶の前にひざまずき、か弱い幼子の姿に隠れた神を拝むことによって、わたしたちはこの世で神に近づくことができます。

イエスは、マリアとヨセフとに対する従順や、ナザレでの長い年月のつつましい労働を通して、家庭と労働とによって織り成される日常生活における聖性の模範を示されます。

イエスは、公生活の始めである洗礼のときから、受難の「洗礼」によって成就されるあがないのわざのために完全に奉献された「神のしもべ」です。

荒れ野での誘惑は、謙虚なメシアであるイエスが、御父の望まれる救いの計画に全面的に従われることによってサタンに打ちかたれたことを示します。

天の国は、キリストによって地上で開始されました。「この国は、キリストのことばとわざと現存によって人々の前に現れます」。教会はその天の国の芽生え、始まりです。そのかぎはペトロにゆだねられています。

キリストの変容の目的は、受難を前にして使徒たちの信仰を強めることにありました。「高い山」に登られたのは、ゴルゴタの丘に登るための準備でした。教会の頭であるキリストは、そのからだである教会が保有し、諸秘跡の中で輝いている「栄光の希望」(コロサイ1∙27)を表されます。

イエスは、罪びとたちの反対によって非業の死を遂げることを知りながら、進んでエルサレムに向かわれました.

イエスのエルサレム入城は、神の国の到来を明らかにします。子供たちや謙虚な人々からご自分の町に迎えられる王であるメシアは、その死と復活という過越を通してその到来を実現されるのです。