1 キリストの全生涯は神秘である

信条がキリストの生涯に関して述べているのは、ただ受肉(受胎と誕生)と過越(受難、十字架刑、死、埋葬、死者のもとに下ったこと、復活、昇天)の神秘についてです。ナザレでのイエスの生活と宣教活動を開始されてからの生活の諸神秘については、明白には何も語っていません。しかし、イエスの受肉と過越に関する信仰箇条は、キリストの地上の生活のすべてを解明します。「イエスが行い、また教え始めてから、……天に上げられた日までのすべてのこと」(使徒言行録1+2)は、降誕と過越との神秘に照らして見なければなりません。

カテケージスは、状況に従ってイエスの神秘のすべての富を展開します。ここでは、まずキリストの生涯のあらゆる神秘に共通な幾つかの要素(1)を示し、次に、イエスのナザレでの生活(2)と宣教活動が開始されてからの生活(3)におけるおもな神秘を概説するにとどめます。

福音書には、イエスについて人々の好奇心を満たすようなことがらは多く描かれてはいません。ナザレでの生活についてはほとんど何も語られていませんし、宣教活動が始まってからの生活の大部分すら伝えられていません。福音書に書かれているのは、「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によりいのちを受けるため」(ヨハネ20∙31)に必要なことだけです。

福音書は、最初に信仰を持ち、それを他の人々にも分かち与えたいと望んだ人々のうちの幾人かによって記されました。この人々はイエスがどのようなかたであるかを信仰によって知ったので、イエスの生活全体のひとこまひとこまにその神秘の痕跡を見、また人々に知らせることができたのです。誕生の際の産着から受難の際の酢、復活の際の亜麻布に至るまで、イエスの生涯のすべてはその神秘のしるしです。イエスはご自分の態度、奇跡、ことばを通して、「〔ご自分〕のうちに」、「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」(コロサィ2∙9)いることを明らかにされました。したがって、イエスの人性は「秘跡」として、すなわち、神性とご自分がもたらされる救いのしるし、および道具として現れています。この世のイエスの生涯において目にすることができたことがらは、イエスご自身が神の御子であり、あがないの使命をお持ちだという、見えない神秘に導くものでした。

イエスの諸神秘の共通点

キリストの全生涯は御父を啓示するものです。そのことば、行い、沈黙、苦しみ、生き方、話し方、すべてがそうです。イエスは「わたしを見た者は父を見た」(ヨハネ14∙9)ということができました。そして御父は、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9∙35)とおおせになりました。キリストは御父のみ旨を果たすために人となられたので、その神秘のどんなにささいなものであっても、わたしたちへの神の愛を表しているのです。

キリストの全生涯はあがないの神秘です。あがないはなによりもまず十字架の血によるものですが、この神秘はキリストの全生涯において行われています。すなわち、すでに受肉に際しては自ら貧しい者となられ、その貧しさによってわたしたちを富める者となさいました。ナザレでの生活の間にはその従順によっでわたしたちの不従順を償われ、ことばによって聴衆を清め、治癒と悪魔払いによって「わたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担われ」(マタイ8∙17)、復活によってわたしたちを義としてくださいました。

キリストの全生涯は統合の神秘です。イエスが行い、語り、苦しまれたことの一つ一つが、堕罪の人間を最初の状態に修復することを目的としていました。 「神の御子は、受肉し人となられたとき、ご自分のうちに人間の長い歴史を統合され、わたしたちの救いを成就されました。その結果、わたしたちがアダムにおいて失っていたもの、すなわち、神の似姿、神のかたどりであることも、キリスト・イエスによって回復されたのです」。「キリストがご自分の人生のひとときひとときを通して生きられたのは、そのためでした。そうすることによって、キリストはすべての人閭を神との交わりに戻してくださいました」。

イエスの諸神秘に結ばれる

キリストのあらゆる富は「すべての人間に提供され、すべての人間のものとなります」。キリストはご自分の生涯を自らのためではなく、わたしたちのために生きられました。「わたしたち人間のため、わたしたちの救いのため」に人となられたときから、「わたしたちの罪のために」(一コリント15∙3)死なれ、「わたしたちが義とされるために」(ローマ4∙25)復活されるまでそうだったのです。そして今もなお、キリストは「御父のもとで」(一ヨハネ2∙1) わたしたちの弁護者であり、「つねに生きていて」、わたしたちのために「執り成して」(ヘブライ7∙25)おられます。キリストは、永遠に価値あるものとしてその生涯中にわたしたちのためにただ一度行い、甘受したすべてのことがらを携えて、いつも「わたしたちのために神のみ前に」(ヘブライ9∙24)とどまっておられます。

イエスはご自分の全生涯をわたしたちの模範となさいました。イエスは「完全な人間」であり、わたしたちが弟子となり、ご自分の後に従うよう促しておられます。自ら身を低くされることによってわたしたちに倣うべき模範を示し、その祈りによって祈りに招き、貧しさによっては貧しさと迫害を自由に受け入れるように招いておられます。

キリストの全生活は、わたしたちがご自分とともにそれを生き、ご自分がわたしたちとともにそれを生きることができるようにするためのものでした。 「神の子は受肉することによって、ある意味で自らをすべての人間と一致させた」のです。わたしたちはキリストと一体となるように召されています。 ですから、わたしたちのために模範として生きられたキリストの全生涯に、その肢体であるわたしたちは一致することができるのです。

「わたしたちは、イエスのさまざまな状態と神秘を自分のうちに継続し、成就し、また、イエスがこれらをわたしたちと教会全体のうちにあって完成し、成就してくださるよう祈らなければなりません。……神の御子はわたしたちと教会全体をご自分の神秘にあずからせ、これらを延長させ継続させる意図をお持ちですが、わたしたちに分け与えたいと望まれる恵みと、御子の神秘がわたしたちのうちに生じさせてくれる効果とによって、それが可能となります。イエスはこのようにして、わたしたちのうちにご自分の神秘を成就したいと望んでおられるのです」。