4 神の御子が人間であるということはどういうことか

受肉の神秘な結合において、人間性は「取り上げられたのであって消滅したのではない」ので、教会は時代がたつにつれて、知性と意志の働きを備えたキリストの人間的魂と人間的肉体のまぎれもない現実を強調しなければなりませんでした。同時に、ことあるごとに、キリストの人性はそれを担われた神の御子の神的ペルソナに固有のものであることも指摘する必要がありました。キリストのすべて、人として行われたことのすべては「聖三位の一者」のものです。したがって、神の御子はご自分の人性に、聖三位の中のご自分に固有のペルソナの存在様式をお与えになります。こうして、魂においても肉体においても、キリストは聖三位の神的行動様式を人として表されます。 「神の御子は……人間の手をもって働き、人間の頭をもって考え、人間の意志をもって行動し、人間の心をもって愛しました。彼は処女マリアより生まれ、真実にわたしたちの一人となり、罪を除いては、すべてにおいてわたしたちと同じでした」。

キリストの人としての魂と知識

ラオディケアのアポリナリスは、キリストにおいて、みことばは人間的霊魂に取って代わったと主張しました。教会はこの誤謬に対して、永遠の御子は人間の理性的魂をも担われたと公言します。

神の御子が担われたこの人間的魂は、真の人間としての知識を備えています。人間的なものであるこの知識には限界があり、時空の中で存在するものとして、具体的状況に従って機能しました。このため、神の御子は人間となって、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛され」(ルカ2∙52)ることを受け入れたばかりか、人間である以上、経験によって学ぶべきことを尋ねたりしなければならないという人間の条件に従いました。このことは、自分を無にして「しもべの身分」(フィリピ2∙7)をとられた実情に対応していました。

しかし同時に、神の御子のこの真に人間としての知識は、ご自分のペルソナの神的いのちを表していました。「神の御子の人性は、それ自体によってではなく、みことばとの結合によって、神にふさわしいすべてのことを知り、自らのうちに表していました」。何よりも、人となられた神の御子が御父について抱いておられた親密で直接的な知識がそうです。御子はまた、ご自分の人間的知識の中に、人間の心の隠れた思いを見通す神の洞察力が含まれていることを示されました。

キリストは、人となられたみことばのペルソナにおいて神の知恵と結合していましたから、ご自分が啓示しなければならなかった神の永遠の計画の知識を、人間として十分に持っておられました。この分野で、何かを知らないといわれたことがありますが、同じことについて、他の場合には、それを啓示する使命を受けていないと言明しておられます。

教会はこれと並行して、第6回公会議で次のように公言しています。キリストは本性上二つの意志と二つの働き、すなわち、神としての本性と人としての本性によるそれぞれの意志と働きを持っていますが、いうまでもなく、二っの意志と働きは協調して、対立することはありません。したがって、人となられたみことばは、わたしたちの救いのために御父と聖霊とともに神として決定されたすべてのことを、御父への従順から人間としての意志によって受け入れられたのです。キリストの人間としての意志は「神としての意志に従い、抵抗も反対もせず、かえって、この全能の意志に従属しています」。

キリストの真の肉体

みことばは肉となって真の人性を担われましたから、キリストの肉体には限界がありました。そのため、イエスの人間としての容貌を「描く」ことができます。第7回公会議で、教会はキリストが聖画像で表されるのが当然であると認めました。

また、教会は、イエスの肉体において「本来見えないかたである神がわたしたちの目に見えるものとなられた」ことをつねに認めてきました。キリストの肉体の個人的特徴は神の御子の神的ペルソナを表しています。神の御子はご自分の人間としてのからだの特徴をまったくわがものとされたので、聖画像に表されたそれを崇敬の対象とすることができます。神の御子の聖画像を崇敬する信者は、「それに表現されているかたを崇敬している」のです。

人となられたみことばのみ心

イエスはご生涯中、苦悩や受難の中にあってもわたしたち一人ひとりを思い、わたしたち各自のためにご自分を渡されました。神の御子は「わたしを愛し、わたしのために身をささげられた」(ガラテヤ2∙20)のです。イエスはわたしたちの一人ひとりを、人間としての心で愛されました。そのために、わたしたちの罪によって、わたしたちの救いのために刺し貫かれたイエスのみ心は、「神であるあがない主が永遠の御父とすべての人間にたえず寄せておられる愛の卓越したしるし、象徴とみなされています」。