3 イエスの公生活の神秘

イエスの洗礼

イエスの公生活の始まりは、ヨルダン川でヨハネから洗礼をお受けになったときです。ヨハネは、「罪のゆるしを得させるために悔い改めの洗礼」(ルカ3∙3)をのべ伝えていました。おびただしい罪びと、徴税人、兵士、ファリサイ派、サドカイ派の人々、娼婦たちなどがやって来て、ヨハネから洗礼を受けました。「そのとき、イエスが来られた」のです。洗礼者ヨハネはためらいますが、イエスは願い続けて、洗礼を受けられました。そのとき、聖霊がはとの形でイエスの上にくだり、「これはわたしの愛する子」(マタイ3∙13-17)と宣言する、天からの声がします。これはイエスを、イスラエルのメシア、神の御子として現す出来事(「公現」)でした。

イエスの側からすると、その洗礼は神の苦しむしもべとしての使命の受諾であり、その開始でもあります。イエスは罪びとの列に加わります。イエスはすでに「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1∙29)であり、はや、流血の死の「洗礼」を先取りしておられます。御父のみ旨に余すところなく従い、わたしたちの罪のゆるしのため死の洗礼に愛をもって同意することで、すでに「正しいことをすべて」(マクイ3∙15)行っておられます。イエスの受諾にこたえて、御父からの声があり、御子がご自分の心にかなう者であることを示されます。受胎のときからイエスを満たしていた聖霊が彼の上にくだり、「とどまります」。イエスは全人類のために霊の泉となるのです。洗礼の際、アダムの罪が閉ざしていた「天がイエスに向かって開いた」(マタイ3∙16)のです。イエスが水に入り、霊がくだることによって水は聖化されます。これは新しい創造の前触れです。

イエスはご自分の洗礼において、その死と復活とを先取りされました。 キリスト者は洗礼の秘跡によってこのイエスに同化されます。キリスト者はこのへりくだりと悔い改めの神秘にあずかり、イエスとともに水に下らなければなりません。それは、イエスとともに水から上がり、水と霊によって再生し、御子において神の愛する子となり、「新しいいのちに生きる」(ローマ6∙4)ためです。

「洗礼によってキリストとともに葬られましょう。キリストとともに復活するために。キリストとともに下りましょう。キリストとともに上げられるために。キリストとともに上がりましょう。キリストにおいて栄光を受けるために」。
「キリストの上に起こったすべてのことは、洗礼の後に」わたしたちの上にも起こったのです。すなわち「聖霊が天からわたしたちの上にくだり、天の栄光の塗油が行われ、御父の声によって、神の子とされたのです」。

イエスの誘惑

福音書は、イエスはヨハネから洗礼を受けられた直後、一時、荒れ野で一人過ごされたといっています。「霊によって荒れ野に送り出された」イエスは、四十日間食を断ってそこにとどまります。その間、野獣とともに暮らし、天使たちはイエスに仕えました。この期間の終わりに、サタンがイエスを三度試み、神への孝心を試練にかけようとします。それは、楽園でのアダム、荒れ野のイスラエルの民が受けたすべての誘惑を凝縮した攻撃でした。イエスが誘惑を退けられると、悪魔は「時が来るまで」(ルカ4∙13)イエスを離れます。

福音記者は、この神秘な出来事の救済史的な意味を教えています。最初のアダムが誘惑に屈したのに対して、新しいアダムであるイエスは、最後まで忠実を貫きました。イエスはイスラエルの民の召命を完遂なさいます。かつて荒れ野で四十年の間神を挑発していた民とは反対に、キリストはご自分が神のみ旨にまったく従順な神のしもべであることを表されました。こうして、イエスは悪魔に打ちかたれたのです。イエスは強い者を縛り上げて、彼が略奪したものを奪い返しました。荒れ野での誘惑者に対するイエスの勝利は、御父への子としての愛による至高な従順の表れである受難の勝利を先取りするものです。

誘惑に対するイエスの対応は神の御子のメシアとしてのあり方を示していますが、それはサタンがイエスにもちかけたこと、人々がメシアに期待したこととは正反対のものです。こうして、キリストはわたしたちのために誘惑者に対して勝利を収められたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できないかたではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブラィ4∙15)。教会は、毎年、四旬節の四十日間を通して、荒れ野でのイエスの神秘に心を合わせます。

「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤヘ行き、神の福音をのべ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』といわれた」(マルコ1∙14-15)。「キリストは父のみ旨を果たすために、地上に天の国を開始されました」。ところで、御父のみ旨とは、「人々を神のいのちにあずかるよう高めること」にあります。御父は御子イエス・キリストの周りに人々を集めて、これを実現されます。この集まりが教会であり、教会は地上における神の国の「芽生えと開始」なのです。

キリストは「神の家族」として集う人々の中心を占めておられます。ことばと、神の支配を表す奇跡と、弟子たちの派遣とによって、人々をご自分の周りに招集されます。キリストは神の国の到来を、とくに、十字架上の死と復活という偉大な過越の神秘によって実現されました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12∙32)。すべての人はキリストと一つになるよう招かれています。

神の国の告知

あらゆる人が、神の国に入るように招かれています。このメシア的神の国は、まずイスラエルの民族に告げられましたが、すべての国の人を迎え入れるよう定められたものです。神の国に入るには、イエスのことばを受け入れなければなりません。 「主のおことばは、畑にまかれた種と比べられます。信仰をもって主のことばを聞き、キリストの小さな群れの中に数えられる者は、神の国そのものを受けたのです。それから種は自らの力で芽生え、収穫のときまで成長します」。

神の国は貧しい人々と小さい人々、すなわち、謙虚な心でこれを迎える人たちのものです。イエスは「貧しい人に福音を告げ知らせるために」(ルカ4∙18)遣わされました。イエスはこのような人々は幸いだと言明されます。「天の国はその人たちのもの」(マタイ5∙3)だからです。御父は、知恵ある者や賢い者には隠されていることを、これらの「小さな人々」にこそ示されるのです。イエスは、ベツレヘムの飼い葉桶から十字架に至るまで、貧しい人々の生活を体験されました。飢え、渇き、貧窮を経験されます。なおそのうえに、ご自分をすべての貧しい人々の立場に置き、こうした人たちへの積極的な愛を神の国に入るための条件となさいました。

イエスは罪びとを神の国の食卓に招かれます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」(マルコ2∙17)。イエスは罪びとに回心を促されますが、これなしには神の国に入ることができないからです。しかし、罪びとへの御父の限りない慈悲と、「悔い改める一人の罪びとについて〔の〕天にある大きな喜び」(ルカ15∙7)をも、ことばと行いによって示されました。この愛の至高のあかしは、「罪がゆるされるように」(マタイ26∙28)ご自分のいのちを犠牲にされたことにあります。

イエスは、たとえ話を通して、神の国に入るよう促しておられます。これはイエスの教えの特徴でした。たとえ話を用いて人々を神の国の祝宴に招き、同時に、根源的な選択を迫ります。すなわち、み国を得るためには、すべてを捨てなければなりません。ことばだけではなく、行動が要求されます。イエスのたとえ話は、人間にとっては鏡のようなものです。人は、イエスのことばを固い土のように受け入れるか、それともよい土のように受け入れるか、いただいたタラントンで何をするのか、と問われます。イエスとこの世における神の国とが、それとなくたとえ話の核心に隠されています。「天の国の秘密」(マタイ13∙11)を悟るには、神の国に入ること、つまり、キリストの弟子となることが必要です。「外」にいる人々(マルコ小11)には、すべてがなぞのままです。

神の国のしるし

イエスのことばには数多くの「奇跡と、不思議なわざと、しるし」(使徒言行録2∙22)が伴い、神の国がイエスのうちに到来していることを明らかにします。これらは、イエスが預言されたメシアであることを示します。

イエスが行われた奇跡は、イエスが御父から遣わされたことを示し、イエスを信じるよう促します。イエスは信仰をもって訴える人々の願いをかなえられます。そのとき、奇跡は御父のわざを行われるイエスヘの信仰を強め、イエスが神の御子であることを明らかにします。しかし、奇跡はまた、つまずきのもとともなりうるのです。奇跡は、人々の好奇心や魔力を見たい望みを満たすものではありません。きわめて明白な奇跡を行っているにもかかわらず、イエスはある人たちから排斥され、これらは悪魔によるものであるととがめられさえします。

イエスは、ある人々を飢え、不正義、病気、死など、この世の不幸から解放することによって、メシアとしてのしるしを示されました。しかし、イエスが来られたのはこの世のあらゆる不幸をなくすためではなく、もっとも重大な隷属、すなわち、罪の奴隷の状態から人々を解放するためでした。罪は神の子らとしての召命を妨げ、ありとあらゆる人間的束縛の原因となるのです。

神の国の到来はサタンの支配の破滅を意味します。「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ている」(マクイ12∙28)。イエスの悪魔払いは、人々を悪霊の支配から解放します。これは、「この世の支配者」に対するイエスの大勝利を先取りするものでした。神の国はキリストの十字架によって決定的に打ち建てられます。「神は木の上から支配されました」。

「天の国のかぎ」

公生活の初めから、イエスはご自分のそばに置くため、また、ご自分の使命に参加させるために、十二人をお選びになりました。そして、ご自分の権限に参与させ、「神の国をのべ伝え、病人をいやすために遣わ」(ルカ9∙2)されます。彼らはいつまでも、キリストのみ国の協力者となります。キリストが彼らを通して教会を導かれるからです。 「わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いをともにし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる」(ルカ22∙29-30)。

十二人の使徒団の中で、シモン∙ペトロが首位を占めます。イエスはペトロに特別な使命をおゆだねになりました。御父からの啓示を受けて、ペトロは「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16∙16)と宣言しました。それで、キリストはペトロに、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16∙18)と宣言されました。「生きた石」であるキリストは、ペトロの上に建てられた教会に死の力に対する勝利を保証なさいます。ペトロは自ら告白した信仰のゆえに、教会の揺るがない岩となります。ペトロは、この信仰がなくならないように守り、兄弟たちの信仰を固める使命を受けます。

イエスはペトロに、「わたしはあなたに天の国のかぎを授ける。あなたが地上でつなぐことは天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタィ16∙19)といって、特別な権限をおゆだねになりました。「かぎの権能」は、教会という神の家を治めるための権威を意味します。「よい羊飼い」(ヨハネ10∙11)であるイエスは復活された後に、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21∙15-17)といって、ペトロのこの任務を追認されました。「つなぎ、解く」権能は、罪をゆるし、教義上の判断を下し、教会の規律に関する決定を行う権威を意味します。イエスはこの権威を、使徒たちの奉仕の務め、とくに、ペトロの奉仕の務めを通して教会におゆだねになりました。そしてこのペトロだけには明白に天の国のかぎをゆだねられました。

神の国の前兆 変容

ペトロが、イエスをメシア、生ける神の子であると告白したときから、イエスは「ご自分が必ずエルサレムに行って、……苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められ」(マタイ16∙21)ました。ペトロはこのことばを受け入れず、他の弟子たちもこのことばを理解できませんでした。これを背景にして、イエスの変容という神秘的な出来事が語られています。変容はある高い山の上で、イエスが選んだ三人の目撃者、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの前で行われました。イエスの顔と衣服はまばゆいばかりに輝き、モーセとエリヤが現れ、「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話して」(ルカ9∙31)いました。三人は雲に覆われ、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」(ルカ9∙35)という声が天から聞こえました。

つかの間、イエスは神的栄光を示し、ペトロの信仰告白を裏づけられました。イエスはまた、「栄光に入る」(ルカ24∙26)には、エルサレムで十字架を経なければならないことを示されます。かつて、モーセとエリヤは山上で神の栄光を見、律法と預言者たちはメシアの苦しみを予告しました。イエスの受難は御父のみ心によるものであり、御子は神のしもべとして行動なさいます。雲は聖霊が臨んでおられることを示します。「聖三位の三者がそろって現れました。御父は声のうちに、御子は人間のうちに、聖霊は輝く雲のうちに」。

「あなたは山上で変容なさいました。弟子たちは可能な限り、神であるキリスト、あなたの栄光を見つめました。それは、弟子たちが十字架につけられたあなたを見たとき、あなたが進んで苦しみを受けられたことを悟り、あなたが真に御父の輝きであることを世に告げ知らせることができるようになるためでした」。

公生活の始めには洗礼があり、キリストの過越の始めには変容がありました。イエスの洗礼によって、「わたしたちの第一の再生の神秘が明らかにされました」。これはわたしたちの洗礼です。変容は、わたしたちの復活である「第二の再生を示す秘跡です」。わたしたちはすでに今、キリストのからだの諸秘跡のうちで働かれる聖霊によって、主の復活にあずかります。変容は「わたしたちの卑しいからだを、ご自分の栄光あるからだと同じ形に変えてくださる」(フィリピ3∙21)キリストの栄光の再臨を、前もってわたしたちに味わわせます。しかし、それはまた、「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」(使徒言行録14∙22)ことをわたしたちに想起させるものでもあります。

「ペトロは、山上でキリストとともに暮らそうと望んだときには、そのことをまだ理解していませんでした。ペトロよ、キリストはあなたの死後のために、これをあなたにとっておかれたのです。今、キリストはこういわれます。地上で労苦し、仕え、軽蔑され、十字架につけられるために下りなさい。いのちであるかたが殺されるために下り、糧であるかたが飢えるために下り、道であるかたが途上で疲れるために下り、泉であるかたが渇くために下られました。それにもかかわらず、あなたは労苦することを拒むのですか」。

エルサレムに向かうイエス

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9∙51)。この決断は、イエスが死を覚悟してエルサレムに上られたことを物語っています。イエスは、すでに三度、ご自分の受難と復活について予告しておられました。そしてエルサレムに向かう途中では、「預言者がエルサレム以外のところで死ぬことは、ありえない」(ルカ13∙33)と語られます。

イエスは、かつてエルサレムで殺された預言者たちの殉教のことを思い起こされます。それにもかかわらず、「めん鳥がひなを羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった」(マタイ23∙37)といって、エルサレムの人々がご自分のもとに集まるように呼び続けられるのです。エルサレムを目前にしたときには、エルサレムのために泣き、「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない」(ルカ19∙42)といって、再びご自分の心の願いを表されました。

イエスのメシアとしてのエルサレム入城

エルサレムは自分のメシアをどのように迎えたのでしょうか。いつもはご自分を王として担ぎ出そうとする民衆の手から逃れておられたイエスは、時を選び、「〔ご自分〕の父ダビデ」(ルカ1∙32)の町にメシアとして入城する準備をこと細かになさっておられます。イエスはダビデの子、救いをもたらす者として、歓呼の声に迎えられます(ホサナは「まず救ってください」という意味です)。「栄光に輝く王」(詩編24∙7-10)であるイエスは、「ろばに乗って」(ゼカリヤ9∙9)入城なさいます。すなわち、教会の予型であるシオンの娘エルサレムの心を、策略や暴力によってではなく、真理をあかしする謙虚さによってかちとられるのです。ですから、この日にイエスの王権を認めるのは、子供たちや「神における貧しい者たち」です。彼らは、天使がイエスの誕生を羊飼いたちに告げたときのように、歓呼の声でイエスを迎えるのです。そして教会は、「祝福あれ、主の御名によって来る人に」(詩編118∙26)というこの歓呼を、キリストの過越の記念祭である感謝の祭儀の「感謝の賛歌(聖なるかな)」の中で今でも繰り返しています。

イエスのエルサレム入城は、メシアである王がその死と復活による過越を通して実現しようとなさっているみ国の到来を表します。教会はこれを枝の主日の典礼で記念し、聖週間を開始します。