2 受肉

「みことばは肉となられた」(ヨハネ1∙14)というヨハネの表現を踏襲して、教会は神の御子がわたしたちの救いを実現するために人性をとられたことを「受肉」と称しています。教会は、パウロが遺した賛歌の中で、受肉の神秘を次のように歌います。
「互いにこのことを心掛けなさい。それはキリスト・イエスにも見られるものです。キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2∙5-8)。

ヘブライ人への手紙も、同じ神秘についてこう述べています。
「それで、キリストは世に来られたときに、次のようにいわれたのです。「あなたは、いけにえやささげものを望まず、むしろ、わたしのためにからだを備えてくださいました。あなたは、焼き尽くすささげものや罪をあがなうためのいけにえを好まれませんでした。そこで、わたしはいいました。「ごらんください。わたしは来ました。……神よ、み心を行うために」』」(ヘブライ10∙5-7、ギリシア語版詩編40∙7-9の引用を含む)。

神の御子が真に受肉されたと信じることは、キリスト教信仰の特徴的な点です。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公にいい表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(一ヨハネ4∙2)。これこそ、教会がその当初から、「キリストは肉において現れた」という「秘められた偉大な真理」(一テモテ3∙16)を奏でるときに持ち続けてきた喜ばしい確信なのです。