2 …おとめマリアから生まれ

カトリック教会がマリアについて信じることは、キリストについて信じることに基づいていますが、また一方では、マリアについての教会の教えが、キリストヘの教会の信仰を解明していきます。

マリアについての永遠からの予定

「神は御子をお遣わしになりました」(ガラテヤ4∙4)。しかし、その「からだを備えるため」に、神は一人の女性の自由な協力を望まれました。そのため、永遠から、神は御子の母として一人のイスラエルの娘、ガリラヤのナザレに住む「ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめ、その名はマリア」(ルカ1∙26-27)というユダヤ人の娘を選んでおられました。 「あわれみの父は、女が死への役割を持ったと同様に女が生命への役割を持つようにと、母として予定された婦人の承諾が受肉に先だつことを望まれました」。

旧約の時代を通して、マリアの使命は聖女たちの使命によって準備されていました。まず、エバがいます。不従順の罪を犯しはしましたが、悪魔に打ちかつ子孫の約束と、生きとし生けるものの母となる約束とを受けます。この約束のおかげで、サラは高齢にもかかわらず、一人の息子を宿します。あらゆる人間的な期待に反して、神はご自分の約束に対する忠実さを示すため、無力で、弱者とみなされていた女たち、サムエルの母アンナ、デボラ、ルツ、ユディト、エステル、その他多くの女性を選ばれます。マリアは、「主の謙虚な貧しい人々、すなわち信頼をもって主から救いを希望しそれを受ける人々の中で、……とくに秀でています。……ついにこの婦人すなわち卓越したシオンの娘とともに、約束に対する長い待望の時期が終わり,時が満ちて新しい計営(救いの営み)が始まります」。

無原罪の宿り

救い主の母となるため、マリアは「これほどの任務にふさわしいたまものを神からいただきました」。天使ガブリエルはお告げのときに、「恵まれたかた」とあいさつしています。マリアは、使命を告げられてこれに信仰によって自由に同意できるには、神の恵みに満たされていなければなりませんでした。

時の流れとともに、教会は神の「恵みに満たされた」マリアがその母の胎内に懐妊された瞬間からあがなわれていたことを明らかに知るようになりました。教皇ピオ9世によって1854年に宣言された無原罪の宿りについての教義が、これを告白しています。 「人類の救い主キリスト・イエスの功績を考慮して、処女マリアは、全能の神の特別な恩恵と特典によって、その懐胎の最初の瞬間において、原罪のすべての汚れから、前もって保護されていました」。

マリアが「ご自分の御やどりの最初の瞬間から」飾られていた「まったく特別な聖性の輝き」は、全面的にキリストに由来するものです。マリアは「子の功徳が考慮されて格別崇高なるしかたであがなわれ」たのです。御父は他のいかなる人間にもまして、マリアを「キリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」(エフェソ1∙3)。「天地創造の前に」神は、マリアを「愛して、ご自分の前で」聖なる者、汚れない者にしようと、「キリストにおいてお選びになりました」(エフェソ1∙4)。

東方教会の教父たちは、神の母を「まったく聖なる者」(パナギアンΠαναγίαν)と呼び、「聖霊によって造られ、新しい被造物に形成された者、あらゆる罪の汚れを免れた者」として祝います。神の恵みにより、マリアはその全生涯にわたって自分で罪を犯すことはまったくありませんでした。

「おことばどおり、この身になりますように」

男を知らずに聖霊の力によって「いと高きかたの子」を産むという告知を受けて、マリアは神にできないことは何一つないことを確信し、「信仰による従順」によって、「わたしは主のはしためです。おことばどおり、この身になりますように」と答えました(ルカ1∙37-38)。こうしてマリアは、神のことばに同意してイエスの母となり、いかなる罪にも妨げられることなく、神の救済のみ旨を心から受託し、神の恩恵によって、子から出て子とともにあるあがないの神秘に仕えるために、子とその働きに完全に自分をささげたのです。

「聖イレネオがいっているとおり、マリアは『従順によって、自分と全人類にとって救いの原因となった亅のです。このために少なからざる古代の教父は……、『エバの不従順のもつれがマリアの従順によって解かれ、処女エバが不信仰によって縛ったものを、処女マリアが信仰によって解いた』と好んで説いています。そしてエバと比較して、マリアを『生ける者の母』と呼び、『エバによって死、マリアによって生命』としばしば述べています」。

神の母マリア

福音書で「イエスの母」(ヨハネ2∙1、19∙25)と呼ばれているマリアは、その子の誕生前からすでに、聖霊に促されたエリザベトから、「わたしの主のお母さま」(ルカ1∙43)と呼ばれています。実に、聖霊によってマリアに宿り、肉によって真にマリアの子となられたかたは、ほかならぬ御父の永遠の御子.聖三位の第二のペルソナです。教会は、マリアが真に神の母(テオトコスΘεοτόκος)であると公言します。

おとめマリア

教会は、信条作成の当初から、イエスが聖霊の力のみによっておとめマリアの胎内に宿られたと公言し、この出来事の肉体的な面について言及して、イエスは「精子なしに、聖霊によって」身ごもられたと断言しています。教父たちは処女受胎を、まことに神の御子がわたしたちと同じ人間として来られたことのしるしとみなしています。
アンチオケの聖イグナチオ(2世紀初頭)は、こう述べています。「皆さんがわたしたちの主について深く確信しているように、主は肉によれば、まことにダビデの子孫として生まれ、神の意志と力によれば、神の御子であり、まことにおとめからお生まれになりました。主は、わたしたちのためにポンティオ∙ピラト……のもとで、わたしたちのために肉においてまことに十字架につけられました。主はまことに苦しみを受け、まことに復活されました」。

福音書の物語は処女受胎を、人間のあらゆる理解、能力を超える神のわざとして受け取っています。天使はヨセフに、そのいいなずけのマリアのことについて、「マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(マタイ1∙20)と告げました。教会はこれを、預言者イザヤを通して与えられた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む」(イザヤ7∙14一マタイ1∙23に引用されているギリシア語訳による)という神の約束の実現とみなしています。

マルコ福音書と新約聖書の書簡とがマリアの処女受胎について語っていないのを見て、当惑する人がいました。また、もしかするとこれは、史実を主張することを意図しない伝説ないし神学的説明にすぎないのではないかと考える人もいました。この問題には次のように答えるべきです。イエスが処女受胎によって生まれたという信仰は、当時のユダヤ教徒や異教徒の側からの激しい反対、嘲笑、または無理解に出合いました。この信仰は異教徒の神話に影響されたのでもなければ、時代の考えに順応して形づくられたものでもありません。この出来事の意味を把握するには、「諸神秘の相互関係」の中での、つまり、受肉から復活に至るまでのキリストの諸神秘の全体の中での、この位置づけを眺める信仰が必要です。アンチオケの聖イグナチオは、すでにこの相互関係を明らかにしています。「この世の支配者は、マリアの処女性とその出産、また主の死を知りませんでした。これらは、神の沈黙のうちに実現された、高々と宣言すべき三つの神秘なのです」。

「終生の乙女」であるマリア

教会は、処女である母への信仰を深めるにつれ、マリアは人となられた神の御子を産んだときをも含めて、真に終生の処女性を保たれたと公言するに至りました。事実、キリストの誕生は、「母の完全な処女性を傷つけることなくかえって聖化しました」。教会の典礼は、マリアを「終生の処女(アエイパルテノス άειπαρθένος)」としてたたえます。

これに対し、聖書はイエスの兄弟姉妹について語っているではないか、という反対の声が上がります。教会はつねに、このようなくだりはおとめマリアの他の子供を指しているのではない、と受け止めてきました。聖書によれば、「イエスの兄弟」(マタイ13∙55)と呼ばれるヤコブとヨセフは、明らかに「もう一人のマリア」(マタイ28∙1)と呼ばれているキリストの弟子マリアの息子たちです。イエスの兄弟姉妹と呼ばれている人々はイエスの近親なのです。旧約聖書では、近親はしばしば兄弟か姉妹と呼ばれています。

イエスはマリアのひとり子です。しかし、マリアは霊的な意味で、イエスが救いに来られたすべての人の母です。「マリアは子を生み、神はその子を多くの兄弟、すなわち信者たちの長子(ローマ8∙29)とされました。マリアはこの兄弟たちを生み育てるために母の愛をもって協力されます」。

神の計画の中で、おとめのままで母となられたマリア

神は救いの計画の中で、なぜ御子がおとめから生まれるよう定められたのでしょう。信仰の目は、啓示全体と関係づけながら、この神秘の理由を見いだすことができるのです。これらの理由は、キリストご自身にも、そのあがないをもたらす派遣にも、また、マリアがすべての人のためにこのキリストの派遣を受諾したことにもかかわっています。

マリアの処女性は、神のみが御子を受肉させてくださったことを示します。イエスの父は神だけです。イエスは「人性をとったからといって、決して御父から離れることはありませんでした。……神性においては本性上御父の御子であり、人性においては本性上その母の子ですが、二つの本性においてまさしく神の御子なのです」。

イエスが聖霊によっておとめマリアの胎内に宿られたのは、新しい創造を始める新しいアダ厶だからです。「最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です」(一コリント15∙47)。キリストの人性は、身ごもられたときから、聖霊に満たされていました。神がイエスに「霊を限りなくお与えになるから」(ヨハネ3∙34)です。わたしたちは、あがなわれた人類の頭であるかたが持つ「満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた」(ヨハネ1∙16)のです。

新しいアダムであるイエスは、処女受胎によって生まれることによって、信仰により聖霊において神の子らとされる人々の新しい誕生の発端となられます。「どうして、そのようなことがありえましょうか」(ルカ1∙34)。神のいのちにあずかることは「血によってではなく肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神による」(ヨハネ1∙13)ものです。このいのちは処女の状態で受け取ることになります。なぜなら、それはまったく霊によって人間に与えられるからです。人間が神に召されるのは、神の花嫁になるようなものです。このことはマリアがおとめのままで母となられたことにおいて完全に実現したのです。

マリアは、処女性のしるしである少しも疑いの曇りのない信仰と神のみ旨への純粋な自己奉献という特質を備えているという意味で、処女です。信仰によってこそ、マリアは救い主の母となることができました。「マリアが幸いなのは、キリストの肉体を宿したからよりも、キリストヘの信仰を自分のものとしたからなのです」。

マリアはまた、教会の象徴であり、それを完璧に実現しているという意味で、処女でもあり、母でもあります。「教会は信仰をもって受け入れた神のことばを通して、自らもまた母となります。事実、教会は、宣教と洗礼をもって、聖霊によって懐胎されて神から生まれた子供たちを、新しい不死の生命に生むからです。教会はまた処女でもあります。すなわち花婿に誓った忠実を清く完全に守るからです」。