2 イエスの幼年時代とナザレでの生活の神秘

準備

神の御子が地上に来られたことは重大な出来事でしたので、神は幾世紀にもわたってそれを準備なさいました。「最初の契約」に見られる祭儀とささげ物、前表と象徴などを、キリストヘ向かうように仕向けられました。さらに神は、イスラエルに相次いで起こった預言者たちの囗を通して、キリストを告げられました。そのうえ、異邦人の心のうちにもキリストの到来へのおぼろげな期待を抱かせました。

洗礼者聖ヨハネはキリストの直前の先駆者として、道を備えるために神によって遣わされた者です。「いと高き方の預言者」(ルカ1∙76)であるヨハネは、すべての預言者にまさる、最後の預言者であり、福音の端緒となり、母の胎内ですでにキリストの到来を迎え、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1∙29)と呼ぶ「花婿」(ヨハネ3∙29)であるイエスの「友」であることを喜んでいます。「エリヤの霊と力で」(ルカ1∙17)イエスに先だち、説教と悔い改めの洗礼、ついには、殉教によってイエスをあかししました。

教会は毎年、待降節の典礼を行いながら、メシアヘの待望を再現します。キリスト者は救い主の最初の来臨に向かう長期の準備に心を合わせながら、再臨への熱い待望を新たにするのです。先駆者の誕生と殉教を祝うことで、教会は、「あのかたは栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3∙30)というヨハネの願望を自分のものとします。

降誕の神秘

イエスは貧しい家族の一員として、家畜小屋の貧しい環境の中でお生まれになりました。ただの羊飼いたちが、この出来事の最初の証人です。しかも、この貧しさのうちに、天の栄光が現れました。教会は、この夜の栄光を飽かずに歌い続けます。
「今日、おとめが永遠なるかたを産み
地は近づきがたいかたに洞穴をささげ
天使と羊飼いは彼をたたえ
博士たちは星を仰いで進む。
ああ、わたしたちのためにお生まれになった、
幼子よ、永遠の神よ」。

神に対して「幼子のようになること」は、天の国に入る条件です。そのためには、へりくだって幼子となる必要があります。さらにまた、神の子となるには、神によって、「新たに生まれる」(ヨハネ3∙7)必要があるのです。降誕の神秘がわたしたちのうちに成就するのは、キリストがわたしたちのうちに形づくられるときです。降誕は、この「驚嘆すべき交換」の神秘です。
「ああ、驚嘆すべき交換よ!人類の創造主は生きた肉体をとっておとめから生まれ、男を介せずに人となり、わたしたちにその神性を贈られた。」

イエスの幼年時代の神秘

イエスが誕生八日目に受けられた割礼は、イエスがアブラハムの子孫、契約の民の一員となり、律法に従い、イスラエルの民の礼拝を行うように派遣されたしるしです。イエスは実際に、生涯中この礼拝に加わられました。このしるしは、洗礼という「キリストの割礼」の前表です。

公現は、イエスがイスラエルのメシア、神の御子、世の救い主であることを表すものです。公現の祝日は、イエスのヨルダン川での洗礼やカナの婚礼という事実にも気をとめながら、占星術の学者たちが東方から訪れてイエスを礼拝したことを記念します。周辺の異教徒たちを代表するこの「占星術の学者たち」のうちに、福音書は、受肉による救いの福音を歓迎する諸国民の初穂を見ています。占星術の学者たちはユダヤ人の王を拝むためにやって来ました。彼らのエルサレム訪問は、ダビデの星であるメシアの光に導かれて、諸国の王となるかたをイスラエルに求めていることを表しています。この訪問は、異教徒がユダヤ人に目を向け、彼らから旧約聖書に記されたメシアについての約束を受け入れないかぎり、イエスを見いだし、彼を神の御子、世の救い主として礼拝できないことを示しています。公現は、数多くの異教徒が族長たちの家族に加わり、「アブラハムの子孫に約東された栄光」をかちえることを表しているのです。

イエスの神殿での奉献は、イエスが主に属する初子であることを示します。シメオンとアンナは、全イスラエルの待望を込めて、ビザンチンの伝統がそう呼んできた救い主の出迎えを行っているのです。このときイエスは、待望のメシア、「異邦人を照らす光」、「イスラエルの誉れ」とたたえられ、同時に、「反対を受けるしるし」であると告げられました。マリアに予告された苦しみの剣は、神が「万民のために整えてくださった」救いをもたらす十字架の、もう一つの、完全で、比類のない奉献を告げるものです。

エジプトヘの避難とえい児の殺害は、光に逆らうやみの対立を表しています。「みことばはご自分の民のところへ来られたが、民は受け入れなかった」(ヨハネ1∙11)のです。キリストの全生涯は迫害の連続でした。弟子たちもキリストとともに迫害を受けます。イエスのエジプトからの帰国はかつての「エジプト脱出」を想起させ、イエスを決定的な解放者として表すものです。

ナザレにおけるイエスの生活の神秘

イエスは生涯の大半を、大多数の人と同じ境遇を分かち合われました。平凡な日常生活、手仕事の生活、神の律法に従ったユダヤ人の宗教生活、地域の人たちとの生活など。この時期の全体にっいて、わたしたちに啓示されているのは、イエスが両親に仕え、「知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された」(ルカ2∙52)ということだけです。

イエスは母マリアと養父ヨセフとに服従することによって、十戒の第四戒をまっとうされました。これは、天の御父に対する子としての従順を地上で表すしるしです。イエスが毎日マリアとヨセフに仕えられたことは、ゲツセマネの園での「わたしの願いではなく、み心のままに行ってください」(ルカ22∙42)という祈りに見られる従順の前表であり、先取りなのです。キリストは、ナザレでの日常生活における従順により、アダムの不従順によって破壊されたものの再建をすでに始めておられたのです。

ナザレでの生活は、だれもがきわめて日常的な道を通してイエスに結ばれることが可能であることを教えます。 「ナザレは、わたしたちがイエスの生涯が初めてわかるようになる所です。福音を学ぶ所です。……まずそれは沈黙の教訓で丸この大切な、欠いてはならない精神の状態、沈黙をもう一度評価し直したいものです。……第二は家庭生活の教訓です。このナザレが家庭、その愛の共同体、その簡潔で単純な美しさ、聖にして侵すことのできない家庭生活の特質を教えてくれますように。……第三は労働の教訓です。ナザレは大工の息子の家でした。ここでわたしは、労働が人間にとっては厳しくても、あがないの力を備えたおきてであることを理解し、ほめたたえたいのです。……終わりにあたり、このナザレから全世界の労働者の皆さんに挨拶を送るとともに、皆さんの偉大な模範であり兄弟であるかた、皆さんの正しい願望を宣言する預言者であるイエス・キリストの姿をお見せしたいと思います」。

マリアとヨセフがエルサレムの神殿でイエスを見つけたという事件は、福音書がイエスの少年時代について沈黙を破るただ一つの出来事です。ここでイエスは、ご自分が神の子であることから生じる使命に全面的にささげられているという神秘をかいま見せられました。マリアとヨセフは「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」ということばの「意味が分からなかった」にもかかわらず、信仰によってこれを受け入れ、マリアはイエスが静かに平凡な生活にうずもれておられた間、片時も忘れることなく、「これらのことをすべて、大切に心に納めて」おられました。