4 主

神がモーセに明かされた神秘な名YHWHは、旧約聖書のギリシア語訳ではκύριος(キュリオス=主)と訳されています。したがって、主は、イスラエルの神の神性を表すための通常の名となっていました。新約聖書は「主」の称号が持つこの特別な意味を御父のみならず、そこが新しいことですが、イエスにも当てはめて、イエスが神であることを認めています。

イエスご自身、詩編110の意味についてファリサイ派の人々と議論されたときにはこの称号を暗にご自分に当てはめられましたが、使徒たちに語られたときには明らかに、これをご自分に帰しておられました。公生活中、自然界、病気、悪霊、死、および罪を制圧されたイエスのわざは、神としての主権をあかしするものでした。

福音書ではしばしば、人々は「主」とお呼びしてイエスに話しかけています。この称号は、イエスに近づいて、助けと治癒を期待する人々の尊敬と信頼とを示すものでした。聖霊に促されて、イエスが神であるという神秘を認識しているということを表しているわけです。復活したイエスに出会ったときには、「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20∙28)というトマスのことばのように、これがイエスヘの礼拝のことばとなりました。この場合、「主」の称号は愛情の意味合いを持っています。そしてキリスト教伝統においては、「主だ」(ヨハネ21∙7)ということばを使うときには、いつもこの愛情が込められるようになっていきます。

教会の初期にできたさまざまの信仰宣言は、当初から、イエスに主という神の称号を与えています。これは、父である神に固有の力と誉れと栄光がイエスのものであるとの主張にほかなりません。というのも、イエスは「神の身分」(フィリピ2∙6)であり、御父がイエスを死者の中から復活させ、栄光のうちに高く上げることによって、イエスの主権を明らかにされたからです。

また、キリスト教の歴史の初めから世界と歴史とに対するイエスの主権が主張されてきましたが、それは、人間は自分の自由をいかなる地上の権力にも絶対にゆだねてはならず、ただ父である神と主イエス・キリストのみにゆだねるべきである、ということを意味します。皇帝は「主」ではないのです。教会は、「全人類史のかぎ、中心、目的は、主であり師であるキリストのうちに見いだされることを信じ」ています。

キリスト者の祈りには、「主」の呼び名が目立ちます。祈りへの招きの「主は皆さんとともに」、あるいは祈りの結びの「わたしたちの主イエス・キリストによって」、さらに、信頼と希望とにみなぎる叫び「マラン∙アタ」(主は来られる!)、「マラナ∙タ」(主よ、来てください〈一コリント16∙22〉)、「アーメン、主イエスよ、来てください」(黙示録22∙20)などです。