2 神はご自分の名を啓示される

神はご自分の民イスラエルにご自分の名を知らせて、御自らを啓示されました。名というものは、その人の本質、その人自身、その人の生き方を表します。神には名があります。非人格的な力ではありません。そもそも自身の名を告げることは、他の人々に自分を知らせることです。いわば、自分を差し出して、近づきやすいものにし、より親密に知られ、個人的に呼びかけられることができるようにするのです。

神はご自分の民に、ご自分を徐々に、種々の名で啓示されました。しかし、旧約および新約のための根本的な啓示は、エジプトからの脱出とシナイ山での契約の端緒となった、あの燃える柴の中で神がモーセに現れ、ご自身の名を啓示されたことです。

生きている神

神は、燃え尽きることのない柴の間からモーセをお呼びになり、「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3∙6)、といわれました。神は父祖たちの神、旅する族長たちを呼ばれ、導かれたかたです。彼らとの約束を覚えておられる、忠実で、思いやりのある神です。彼らの子孫を奴隷の状態から解放するために来られるのです。いつどこででも、それができ、それを望み、その計画を実現するために全能の力を注がれる神です。

「わたしは、わたしはあるという者である」
モーセは神に尋ねた。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神がわたしをここに遣わされたのです』といえば、彼らは、『その名は一体何か』と問に違いありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」といわれ、また、「イスラエルの人々にこういうがよい。『わたしはある』というかたが、わたしをあなたたちに遣わされたのだと。……これこそとこしえにわたしの名、これこそ、世々にわたしの呼び名」(出エジプト3∙13-15)。

「わたしは、あるという者である」、または、「わたしは、わたしはあるという者である」、あるいはまた、「わたしは、わたし自身で存在する者である」ということばでご自身の神秘な名(YHWH)を明かすことにより、神はご自分がどのようなかたであるか一またどのような名で呼ばれるべきかを示されました。神が神秘であるのと同じように、神の名は神秘的です。それは明かされた名であると同時に、名づけることの拒否ともとれます。まさにそのことから、それは神をありのままにもっとも正しく表現することになります。事実、神はわたしたちの理解とことばのすべてを無限に超越しておられます。神は、「ご自分を隠される神」(イザヤ45∙15)なのです。そのみ名は名状しがたいものですが、人間に近づかれる神です。

神はみ名を明かしながら、同時に、ご自分の永久的な忠実を啓示されます。神は過去においてそうであったように(「わたしはあなたの父の神である」〈出エジプト3∙6〉)、将来においても忠実であられます(「わたしは必ずあなたとともにいる」〈出エジプト3∙12〉)。「わたしはある」という名を明かされる神は、救いのためにつねに民のもとにおられる神としてご自分を現されるのです。

ご自分のほうへ引き寄せる神の神秘的な現存を前に、人間は自らの卑小さを発見します。燃える柴を前にして、モーセは履物を脱ぎ、聖なる神に向き合って顔を覆いました。至聖なる神の栄光を前にしたイザヤは叫んでいます。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者」(イザヤ6∙5)。イエスが行われた奇跡を目の当たりにしたペトロは、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5∙8)と叫びました。しかし、神は聖なるかたですから、ご自分の前で罪びとであることを認める人間をゆるすことがおできになります。「わたしは、もはや怒りに燃えることはない。〔なぜなら〕わたしは神であり、人間ではない〔からである)お前たちのうちにあって聖なる者」(ホセア11∙9)。使徒ヨハネも同じことをいいます。「わたしたちは神のみ前で安心できます、心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」(一ヨハネ3∙19-20)。

聖なるかたへの畏敬から、イスラエルの民は神のみ名を口にしません。聖書を読む場合には、啓示された名の替わりに、神の称号「主」(Adonai、ギリシア語ではΚύριος〈キュリオス〉)を用います。イエスの神性がたたえられるのは、「イエスは主である」との称号によってです。

「いつくしみとあわれみの神」

イスラエルの民が神から離れて、金の子牛をあがめるという罪を犯した後、神はモーセの執り成しを聞き、不忠実な民に同行することを承諾し、その愛を示されました。栄光を示してくださるように願うモーセに、神、「わたしはあなたの前にすべてのわたしのよいたまものを通らせ、あなたの前に主〔YHWH〕という名を宣言する」(出エジプト33∙19)といわれます。こうして、主はモーセの前を通り過ぎて宣言されました。「主、主〔YHWH、YHWH〕、あわれみ深く恵みに富む神、忍耐強く、いつくしみとまことに満ちた者」(出エジプト34∙6)と。そこでモーセは、主はゆるす神であると告白します。

「わたしはある」、または、「ある」という神のみ名は、神の忠実さを示します。実際、神は、人々の罪による不忠実と、それに値する罰にもかかかわらず、「幾千代にも及ぶいつくしみを守られます」(出エジプト34∙7)。神は、ご自分の御子をお与えになるほどに、ご自分が「あわれみ豊かである」(エフェソ2∙4)ことを啓示されます。イエスはわたしたちを罪から解放するためにご自分のいのちをささげることにより、ご自身が神の名をお持ちであることを示されます。「あなたたちは、人の子を上げたときに、初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう」(ヨハネ8∙28)。
神のみが存在する

世紀の流れの中で、イスラエルの信仰は神の名の啓示に含まれている豊かさを展開し、深めていくことができました。神は唯一であり、ほかに神は存在しません。神は世界と歴史を超越するかたです。天と地は神に創造されまし。「それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられますべては衣のように朽ち果てます。……しかし、あなたが変わることはありません。あなたの歳月は終わることがありません」(詩編102.27-28)。神のうちには「移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(ヤコブ1∙17)。神は永遠から永遠まで「ある者」であり、そのため、いつまでもご自分に忠実であり、その約束を守られます。

したがって、「わたしは、わたしはあるという者である」という、えもいわれぬ名の啓示は、神のみが「自ら存在する(EST)」という真理を含んでいま。すでに聖書のギリシア語七十人訳と、その後の教会伝承が神のみ名を理解したのは、まさにこのような意味においてです。すなわち、神は存在と完全性の充満であり、初めも終わりもありません。すべての被造物はそれぞれの存在と所有を神から受けましたが、神だけは存在そのものであり、ご自分の存在のすべてはご自分よりのものです。