3 原罪

自由意志の試練

神は人間をご自分にかたどって造り、親しい交わりを結ばれました。霊的被造物として、人間がこの親しい交わりを生きることができるのは、ただ、神に自由に服従することによってです。これを表しているのが、善悪の知識の木からは決して食べてはならない、という禁止です。「食べると必ず死んでしまう」(創世記2∙17)と、神はいっておられます。「善悪の知識」(創世記2∙17)の木は、被造物としての人間が信頼をもって自由に認め、尊重しなければならない超えがたい限界を、象徴的に表しています。人間は創造主に従属します。創造の法則と、自由意志の行使を規制する道徳的規範とに従うべきなのです。

人間の最初の罪

悪魔に誘惑された人間は創造主への信頼を心の中で失い、自由意志を濫用して神のおきてに背きました。これが、人間の最初の罪です。その後のすべての罪は神への不従順、神のいつくしみへの信頼の欠如なのです。

この罪で、人間は自分自身を神に優先させ、まさにそのことによって、神を軽んじました。すなわち、人間は神に逆らい、被造物として要求されることに逆らい、したがって、自分自身の善に反して、自我を優先させたのです。聖性の状態に置かれた人間は、神によって栄光のうちに完全に「神化される」はずでした。しかし、人間は悪魔の誘惑に従って、「神なしに、神に先だち、神に従わずに」、「神のようになろう」としました。

聖書は、この最初の不従順の悲劇的な結末を示しています。アダムとエバは直ちに原初の聖性の恵みを失いました。二人は、神が自分の特権だけを守ることに執着しておられるのだと誤解して、神を恐れます。

原初の義のおかげで維持されていた調和は破れ、肉体に対する霊魂の制御力は弱められました。男と女の緊密な交わりには摩擦が生じ、両者の関係は欲望と支配に左右されます。被造界との調和も断ち切られ、見える被造界は人間にとってなじみのない、敵意あるものとなってしまいました。人間の罪のゆえに、被造界は腐敗に隷属するようになります。ついに、不従順の場合はこうなると明白に告げられた結末、すなわち、人間はそこから取られたちりに返るということが現実のものとなります。つまり、死が人類の歴史の中に入ります。

この最初の罪以来、罪が世界中に「蔓延」します。カインによるアベルの兄弟殺し、罪に基づく全世界的な堕落などを挙げることができますが、イスラエルの歴史の中でも、罪は頻繁に、とくに契約の神への不忠実、モーセの律法に対する違反として現れ、キリストのあがないのわざの後でも、キリスト者の間で、数限りもなく現れています。聖書と伝承は、人類史に見られる罪の存在と普遍的広がりをたえず述べてやみません。

「神の啓示によって知らされるこれらのことは、人間の経験と一致します。すなわち、人間は自分の内心をふり返ってみれば、自分が悪に傾いていて、多種多様の悪の中に沈んでいることを発見します。それらの悪が、人間をつくった善なる神から来ることはありません。人間はしばしば神を自分の根源として認めることを拒否し、また自分の究極目的への秩序づけを壊し、自分自身と他人と全造物界とに対する調和を乱しました」。

アダムの罪が人類にもたらした結果

すべての人間はアダムの罪に巻き込まれています。聖パウロはこう断言しました。「一人の人の不従順によって多くの人が罪びととされた」(ローマ5∙19)、「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5∙12)と。罪と死の普遍性に対して、使徒パウロはキリストによる救いの普遍性を説きます。「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされていのちを得ることになったのです」(ローマ5∙18)。

教会は、聖パウロに続いて、つねに次のように教えてきました。人間を抑圧するはかりしれない悲惨と、人間の悪への傾き、死すべき運命の由来は、アダムの罪およびアダムがわたしたちすべてに罪を伝えたという事実との関連なしには理解できません。その罪とは、人が生まれながらに担っている罪、すなわち「霊魂の死」です。信仰に基づくこの確信によって、教会は、自分で罪を犯したことのない幼児にさえ、罪がゆるされるために洗礼を授けます。

アダムの罪がどのようにしてすべての子孫の罪となったのでしょうか。人類全体はアダムのうちに、「ただひとりの人間の一つのからだのように」存在しているのです。この「人類はただ一つ」であることにより、すべての人問は、キリストの義に結ばれているのと同じように、アダムの罪に巻き込まれています。とはいえ、原罪が子孫に伝わっていくということは、わたしたちには十分に理解できない神秘です。しかし、わたしたちは、アダムが原釖の聖性と義を自分一人のためだけではなく、すべての人間のために受けたことを、啓示によって知っています。誘惑者に負けたアダムとエバは個人としての罪を犯しましたが、この罪は人間本性を傷つけ、その本性が堕罪の状態で子孫に伝わります。この罪は生殖によってすべての人間に伝えられますが、それは、原初の義と聖性とを失った人間の本性が伝達されるということになります。このため、原罪は類比的な意味で「罪」と呼ばれているのです。それは「うつされた」罪であって犯した罪ではなく、状態であって行為ではありません。

原罪は、一人ひとりのものであるにもかかわらず、アダムの子孫であるだれにとっても、その人が犯した過ちではありません。原罪は原初の義と聖性の欠如です。しかし、原罪によって人間本性が全面的に腐敗したわけではありません。人間本性の本来の固有な能力は傷つき、無知と苦と死に支配されるままになり、罪への傾き(この傾きが「欲望」と呼ばれます)を持つようになりました。洗礼は、キリストの恵みのいのちを与えて原罪をぬぐい去り、人間を神に向けさせます。しかし、人間の本性を弱め、悪への傾きを持たせた原罪の影響は人間のうちに依然として存在し、霊的戦いを促します。

原罪が全人類に伝わるという教会の教えが明確にされたのは、とくに5世紀において、わけてもペラギウス説に対する聖アウグスチヌスの省察によってでしたが、さらに16世紀にプロテスタントの宗教改革に対抗した形でもなされました。ペラギウスは、人間は自由意志の自然の力によって、神の恵みの必要な助けなしに、道徳的によい生活を送ることができると主張しました。つまりペラギウスは、アダムの罪の影響を単なる悪い模範の影響にすぎないと考えました。逆に、初期のプロテスタント宗教改革者たちは、最初の罪によって人間は根底から堕落し、その自由意志は失われたと教えていました。そして一人ひとりの人間が受け継いだ罪を、克服できない悪への傾き(欲望)と同一視しました。教会が原罪に関する啓示の意味をとくに明らかにしたのは、529年の第2オランジュ教会会議と、1546年のトリエント公会議においてです。

厳しい戦い‥‥

原罪の教え一キリストによる贖罪の教えと対をなすもの一は、人間の状況と世界における人間の行為とについての明晰な識別の目を与えます。人間は自由を失ってはいませんが、人祖の罪の結果、悪魔にある程度支配されるようになりました。原罪は「死の国を所有する悪魔の権力下に置かれた奴隷状態」をもたらしました。人間本性が傷つき、悪に傾いている事実を無視することは、教育、政治、社会活動、道徳の分野で重大な過ちを生じさせます。

原罪とすべての人が犯す罪の結果は、世界全体を罪の泥沼に陥れています。これが、聖ヨハネのいう「世の罪」(ヨハネ1∙29)です。世の罪というこのことばはまた、人間の罪の結実である社会状況と社会構造とが個人にもたらす悪い影響も指しています。

「全体が悪い者の支配下にある」(一ヨハネ5∙19)という世界の悲劇的な状況は、人生を戦いにします。

「やみの権力に対する苦しい戦いは、人間の歴史全体に行きわたっています。それは世の初めから始まったものであって、主がいわれるように、最後の日まで続きます。人間はこの戦いに巻き込まれているので、善につくためにはつねに戦わなければならず、神の恩恵の助けと大きな努力なしには、自己の統一を確立することもできません」。