1 罪が増したところに、恵みはなおいっそう満ちあふれた

神は無限に善であり、そのすべてのわざはよいものです。ところが、苦しみや自然界の災害被造物固有の限界に付随するものと思われる悪一を経験しない者、とくに道徳的悪の問題を抱えていない者はだれもありません。悪はどこから来るのでしょうか。「わたしは悪の由来を探しましたが、答えを得られませんでした」と聖アウグスチヌスは述懐しています。そして、この悲痛な探求が解決を見たのは、ただ生ける神への回心によってでした。「不法の秘密〔悪の神秘〕」(ニテサロニケ2∙7)は信心の秘められた真理に照らして、初めて明らかになります。キリストにおける神の愛の啓示は、悪の広がりと同時に、恵みの満ちあふれる豊かさを明らかにしました。したがって、悪の起源の問題を考察するにあたっては、悪に対する勝利者であるただ一人のかた、すなわち、キリストに信仰の目を注がなければなりません。

罪の現実

罪は人間の歴史に現れています。それを無視し、この暗い現実に他の名を与えようとするのはむだなことです。罪とは何かを理解するためには、まず、人閭が神に結ばれている深いきずなを認める必要があります。この関係を抜きにしては、人間の生活と歴史につねに重くのしかかっている罪の悪の正体が暴かれることはありません。なぜなら、罪とは、神を拒絶し、神に反対することにほかならないからです。

罪の現実、わけても原罪の現実は、神の啓示に照らしてしか明らかにされません。啓示が神についてわたしたちに与える知識なしには、罪を明確に認めることはできず、罪を単なる未成熟さ、心理的弱さ、間違い、不適切な社会構造の必然的結果などとみなしがちです。神は、人間がご自分を愛し、また人間相互が愛し合うために自由意志をお与えになりました。人間に対する神のこの意図を知って初めて、罪は与えられた自由の濫用であることが理解されてくるのです。

信仰の本質的真理である原罪

啓示の漸進的な進展とともに、罪の現実も明らかにされました。旧約時代の神の民は、人間の境遇の苦の問題を創世記の中で語られている堕罪の出来事に照らして理解しようとしましたが、この物語の究極の意味を把握することはできませんでした。それはただ、イエス・キリストの死と復活に照らしてのみ明らかにされます。アダムを罪の源と認めるには、恵みの泉としてのキリストを知らなければなりません。復活したキリストによって遣わされた弁護者である聖霊は、罪をあがなうかたを啓示して、「罪について〔の〕世の誤り」(ヨハネ16∙8)を明らかにするために来られたのです。

原罪についての教えは、イエスがすべての人の救い主で、すべての人は救いを必要とし、その救いはキリストのおかげですべての人に差し出されているという福音の、いわば「裏」にあるものです。キリストの思いを持つ教会は、原罪の啓示に異を唱えるならば、キリストの神秘が傷つけられてしまうことを知っています。

堕罪の物語の読み方

堕罪の物語(創世記3章参照)は比喩的なことばを用いていますが、原初の出来事、すなわち、人間の歴史の初めに起こった出来事を明言しています。人間の全歴史が、人祖の自由意志に基づいて犯された原初の過ちの影響を受けているということは、信じなければならない確かなことである、と啓示は教えています。