5 神は計画を実現される

被造界は固有の善と価値とを備えていますが、創造主からまったく完成したものとして造られたものではありません。神が定めた、これから到達しなければならない究極の完成に「向かう途上」にあるものとして造られました。神がご自分の被造物をこの完成に向かって導かれるはからいのことを、摂理と呼びます。「神は、ご自分が造られたすべてのものを摂理によって保ち、治められます。『この世の果てから果てまでその力を及ぼし、すべてのものを巧みにつかさどり』(知恵8∙1参照)、また被造物の自由な行動をも含めて、『神の前に隠れることができるものは何一つない』(ヘブライ4∙13)のです」。

聖書の教えは異口同音に、摂理のはからいは具体的∙直接的であり、ささいなことがらから世界と歴史の大きな出来事に至るまで、すべてを配慮すると述べています。聖書は、出来事が進行する過程で神が絶対の主権を持っておられることを断固主張します。「わたしたちの神は天にいまし、み旨のままにすべてを行われる」(詩編115∙3)。そして、キリストについては、「このかたが開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(黙示録3∙7)と述べています。「人の心には多くのはからいがある〔が、〕主のみ旨のみが実現する」(箴言19∙21)。

ですから、聖書の第一の作者である聖霊は、第二原因について触れることなく、さまざまの行為をしばしば神に帰しています。それは原始的な「話し方」ではなく、神の首位、歴史と世界に対する主権を想起させるものであり、神への信頼を培う奧深い方法なのです。詩編の祈りはこの信頼の偉大な学びやです。

イエスは、子らのささいな必要にも心を配られる天の御父の摂理に対して、子としての信頼を寄せるように求めておられます。「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』……といって、思い’悩むな。……あなたがたの天の父は、これらのものが皆あなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる」(マタイ6∙31-33)。

摂理と第二原因

神は、ご自分の計画を実現する最高の主です。しかし、その実現のために、被造物の協力もお求めになります。それは弱さのしるしではなく、全能の神の偉大さといつくしみのしるしです。実際、神は被造物に存在を与えられるだけではなく、被造物が自ら行動し、互いに原因および出発点となり合って、ご自分の計画の達成に協力する資格をお与えになるのです。

神は人間に地を従わせ、支配する責任をゆだね、摂理に自由に参与できるようになさいます。そのために神は、人間を、創造のわざを発展させ、自分たちと隣人の益のためにそのわざの調和を完成させるための要因、知性と自由を備えた原因となさるのです。人間はしばしば無意識のうちに神のみ旨に協力していますが、意識的にも、行為と祈りとによって、また、苦しみによっても、神の計画に進んで加わることができます。そのとき人間は、完全に「神の協力者」(一コリント3∙9)、神の国の協力者となるのです。

神は被造物のすべての行為のうちで働いておられます。これは、創造主である神への信仰と切り離すことのできない真理です。第二原因の中で、また、それらを通して働くのは第一原因です。「あなたがたのうちに働いて、み心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2.13)。この真理は被造物の尊さを減じるどころか、いっそう高めます。神の力と英知と善とによって無から引き出された被造物は、その存在の起源となるものから切り離されるなら何もできません。「創造主なくしては被造物は消えうせる」からです。ましてや、恵みの助けなしには、その究極の目的に到達するすべもありません。

摂理と悪のつまずき

全能の父であり、秩序あるよい世界の創造主である神が全被造物を配慮しておられるなら、なぜ悪が存在するのでしょうか。この避けがたい、緊急の、神秘で、悲痛な問題には、どのような即答も満足がいかないでしょう。この問題に答えうるのは、キリスト教の教えの全体です。そしてそれは、以下のような内容となります。被造物はよいものであり、罪は悲劇的な出来事です。神は忍耐強い愛から、契約により、あがないをもたらす御子の受肉により、聖霊を与えることにより、人々を教会に集めることにより、秘跡の力により、至福ないのちへの招きにより、人間を迎えに来ておられます。そして、自由意志を持つ被造物がこれに同意するよう呼びかけておられます。しかしまた、恐るべき神秘ですが、それに逆らうこともできるのです。キリスト教の教えの全体が、悪の間題に対する回答となっています。

神は、なぜ、何の悪も存在しないほどの完全な世界を造られなかったのでしょうか。神は無限の力を持っておられるので、つねによいものを造ることがおできになれるはずです。しかし、神は無限の英知と善とをもって、世界を究極の目的に「向かう途上」のものとして創造することを自由にお望みになりました。神の計画によって、この生成には、ある存在が出現すれば他のものが消滅し、より完全なものがあればより不完全なものも存在し、自然的な形成もあれば破壊もあることになっています。したがって、被造物が完成に至らない限り、物理的善と物理的悪とが共存するのです。

理性的で自由意志を備えている被造物である天使と人間は、自由に選択し愛を優先させることによって究極目的に向かって進まなければなりません。ここで、正道を踏み外すこともありえます。実際、彼らは罪を犯しました。こうして、道徳的悪が世界に入りましたが、これは物理的悪とは比較にならないほど重大なものです。神は直接にも、間接にも、いかなる意味においても、道徳的悪の原因ではありません。それにもかかわらず、神は被造物の自由を尊重して、道徳的悪を妨げません。また、神秘としかいえませんが、そこから善を引き出すことがおできになるのです。 「全能の神は……、最高に善であられるので、悪からでも善を引き出すほどに力あるよいかたでなかったとしたら、そのわざのうちに何らの悪の存在もゆるさなかったはずです」。

このように、神がその全能の摂理により、被造物によって作られた悪、たとえそれが道徳的悪であっても、その悪の結果から善を引き出すことがおできになることを、人々は時とともに理解することができるのです。ヨセフは兄弟たちに次のように語っています。「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。……あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」(創世記45∙8、50∙20)。これまでに行われた最大の道徳的悪は、神の御子を排斥し殺害したことです。これはあらゆる人問の罪が原因ですが、神は満ちあふれる恵みによって、そこから最大の善であるキリストの栄光とわたしたちのあがないを引き出されました。とはいえ、悪が善になるわけではありません。

「神を愛する者たちには、万事が益となる」(ローマ8∙28)。聖人たちの証言がこの真理を確認し続けています。

たとえば、シエナの聖カタリナは「自分たちに起こることがらにつまずき、反抗する人々」に語っています。「すべては愛から生じます。すべては人間の救いに向けられています。神が行われるのは、ただこの目的のためです」。
また、聖トマス∙モアは殉教を間近にして、娘にこう書いています。「起こることは何であれ、神様のお望みなのだ。ところで、神様が望まれることはすべて、たとえわたしたちには最悪に見えても、最善のものなのだよ」。
ノリッジのジュリアンはこういっています。「神様のお恵みによって学んだことですが、わたしは信仰をしっかり守り、すべてがよくなることを同様に固く信じなければなりません……あなたは、すべてがよくなることが分かるでしょう」。

わたしたちは、神が世界と歴史の主宰者であることを固く信じています。しかし、多くの場合、摂理によって敷かれた道を知りません。ただ、道の終わりに至り、完全な知識を得て、「顔と顔を合わせて」(一コリント13∙12)神を見るとき、初めて摂理の道を十分に知ることができます。神はその道を通して、被造物に悪と罪の悲劇を踏み越えさせながら、天地を造られた目的である最終の安息の日の休息へと導いておられるのです。