第3節 全能の神

神のすべての属性の中で、信条ではただ「全能」だけが挙げられています。これを公言することには、わたしたちの生活にとって大きな意義があります。わたしたちは神の全能がすべてのものに及ぶことを信じます。なぜなら、神はすべてを創造し、すべてを治め、すべてがおできになるからです。神の全能には、いつくしみがこもっています。なぜなら、神はわたしたちの父であられるからです。さらに、それは隠されたものです。なぜなら、それは「弱さの中でこそ十分に発揮される」(ニコリント12∙9)ものなので、信仰だけが識別できるからです。

聖書は、すべてに及ぶ神の力をたたえてうむことがありません。神は、「ヤコブの勇者」(創世記49∙24。イザヤ1∙24など参照)、「万軍の主」(詩編24∙10)、「強く雄々しい主」(詩編24∙8)と呼ばれています。神が「天において、地において」(詩編135∙6)全能であるのは、それらを創造されたからです。したがって、神におできにならないことは何一つなく、造られたものを望みのままに用いられます。神は宇宙の主であり、宇宙の秩序を定められたので、森羅万象はまったく神に従い、神の意のままになります。神は歴史の主です。思いのままに人々の心と出来事とをつかさどられます。「あなたはつねに偉大な力を備えておられる。あなたのみ腕の力にだれが逆らえよう」(知恵11∙21)。「全能のゆえに、あなたはすべての人をあわれまれる」(知恵11∙23)

神は全能の父です。神の父性と神の権能という二つの面が相互に作用し合いながら、それぞれの意味∙内容を明らかにしてくれます。実際、神は父としてのご自分の全能を、わたしたちの必要を配慮したり、わたしたちを子とする(「わたしはあなたがたにとって父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、全能の主はこう仰せられる」くニコリント6∙18〉)ことによって、また、その無限のあわれみを通して示しておられます。さらに、罪を思いのままにゆるすことで、ご自分の権能を極限まで表しておられるのです。

神はご自分の全能を恣意的に用いられるようなことは決してありません。「神にあっては、能力と本質、意志と知性、知恵と正義はただ一つの同じものなので、神の正しい意志やその賢明な知性にないことは、神の能力にもありえないのです」。

全能の父である神への信仰は、悪と苦しみの体験によって試みられることがあります。神は存在せず、悪を妨げることもおできにならないと思えるようなことがあります。ところが、神は御子が進んで自らを無とし、復活したというきわめて神秘なしかたで、ご自分の全能を示し、悪に打ちかたれました。このように、十字架につけられたキリストは神の力、神の知恵なのです。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(一コリント1∙25)。キリストの復活と栄光化に際して、御父はご自分の「力」を働かせ、「わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる」ご自分の「力が、どれほど大きなものであるか」(エフェソ1∙19-22)を示されました。

ただ信仰によってのみ、わたしたちは神の全能の人目にはつかない道をたどることができます。この信仰は自らの弱さを誇ることで、キリストの力を引き寄せます。おとめマリアが、この信仰の最高の模範です。マリアは「神にできないことは何一つない」(ルカ1∙37)ことを信じ、「力あるかたが、わたしに偉大なことをなさり、そのみ名は尊い……」(ルカ1∙49)といって、主をあがめることができました。

「したがって、わたしたちの信仰と希望を強固にするために最適なものは、神におできにならないことは何もないと、心中に深く刻まれた信念にほかなりません。実際、神の全能の概念を持ちさえすれば、〔信条で〕引き続き述べられている信じなけれぱならない一つ一つのこと、大変偉大で、まったく理解しがたく、また自然の通常の法則をはるかに超えることがらに閧しても、理性はそれらを直ちに、容易に、何のためらいもなく容認するでしょう」。

要約

わたしたちは正しい人ヨブとともに、「あなたは全能であり、み旨の成就を妨げることはできないと悟りました」(ヨブ42∙2)と宣言します。

教会は聖書の教えを忠実に受け継ぎ、しばしば「全能で永遠である神」に(「全能、永遠の神よ……」と)祈りをささげますが、それは「神にはできないことは何一つない」(ルカ1∙37)ことを固く信じているからにほかなりません。

神はわたしたちを罪から回心させ、恵みによって友愛関係を取り戻させることによって、ご自分の全能を現されます(「全能の神よ、あなたのゆるしは限りなく、そのあわれみはすぺてに及ぴます」)。

神の愛は全能だと信じないならば、御父がわたしたちを創造し、御子がわたしたちをあがない、聖霊がわたしたちを聖化してくださると、どうして信じられるでしょうか。