3 信仰に関する教えの中での三位一体

三位一体の教義の形成

聖三位一体という啓示された真理は、教会の当初から、主として洗礼を授けることを通して、いつも教会の生きた信仰の根底に置かれてきました。この真理は、洗礼式の信仰宣言では一定の形式をもって表現されていた、ということが分かります。教会の宣教、カテケージス、祈りの中に定式化された定句は、すでに使徒たちの書に見られ、感謝の祭儀の中で踏襲されている次のあいさつからも明らかです。「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同とともにあるように」(ニコリント13∙13)。

最初の数世紀に、教会は三位一体の信仰をより明示的に表明することに努めました。この信仰について自らの理解を深めると同時に、それをゆがめていた誤謬に反駁するためです。これは、教父たちの神学的研究に助けられ、キリストの民の信仰心によって支えられた、古代の諸公会議の仕事でした。

教会は三位一体の教理の形成のため、「実体」、「ペルソナ」または「ヒュポスタシス」、「関係」などの哲学に由来する概念を借りて、固有の用語を展開していかなければなりませんでした。そうしながら、教会は信仰を人間の知恵に従わせたわけではなく、これらの語にまったく新しい意味を与え、以後は、「入間の尺度で測り得るすべてのものを無限に超える」神秘を意味するようにしたのです。

教会は「実体」(たびたび「本質」あるいは「本性」と置き換えられる)という語を用いて、神の一体性を示し、「ペルソナ」または「ヒュポスタシス」の語を用いて互いに実際に区別される父と子と聖霊を示し、「関係」の語を用いて、それぞれの区別は相互の関係によることを示します。

三位一体の教義

三位は一体です。三つの神々ではなく、三者としての唯一の神、すなわち、「実体として一つである三位の神」を、わたしたちは信じています。三者が唯一の神性を分かち持つのではなく、それぞれは神そのものなのです。 「父は子と同じ存在、子は父と同じ存在、父と子は聖霊と同じ存在、すなわち、本性において唯一の神です」。「三つのペルソナのそれぞれが、神的実体、神的本質ないし本性という、同じ状態なのです」。

神の三者はそれぞれ実際に区別されています。「神は唯一ではあるが、孤独ではありません」。「父」と「子」と「聖霊」は神の存在の様式を示す単なる呼称ではなく、実際に区別されたかたがたです。「子は父ではなく、父は子ではなく、父も子も聖霊ではありません」。三者の区別は、それぞれの起源の関係に由来します。「父が生み、子は生まれ、聖霊は発出します」。一体の神は、三位です。

神の三者は、相互関係のうちにあります。各ペルソナ間の実際の区別は、一体の神を分割することによって生じるものではなく、相互の関係によるものです。「各ペルソナの相互関係を表す名によって、父は子に、子は父に、聖霊は両者に対するものとして表されています。相互関係にある者として三つのペルソナが語られますが、ただ一つの本性または実体を信じているのです」。実際、「相互関係の間柄の違いを除けば、三位のすべてが一つです」。「この一体性のゆえに、父全体は子のうちにあり、また聖霊のうちにあります。子全体は父のうちにあり、また聖霊のうちにあります。聖霊全体は父のうちにあり、また子のうちにあります」。

「神学者」という称号を与えられたナジアンズの聖グレゴリオは、コンスタンチノープルの洗礼志願者のために三位一体の信仰を次のように要略しました。 「何よりもまず、このすばらしい預かりものを守ってください。わたしはそのために生き、そのために戦っています。これを胸に抱いて死ぬつもりですが、これはわたしにあらゆる不幸を耐えさせ、あらゆる快楽を軽んじさせるものです。この預かりものとは、父と子と聖霊への信仰宣言です。わたしは、今日、それをあなたにゆだねます。ゆだねた上で、わたしはあなたを水の中に入れ、引き上ぼます。わたしはその預かりものをあなたの生涯の伴侶、保護者として授けます。わたしはあなたに唯一の、全能の神を授けます。神は唯一ですが、それぞれ区別された三位として存在しておられます。神において、三位は区別したものとして存在しています。神において、実体または本性の相違はなく、上下関係もありません……。無限の同じ本性を持たれる無限の三位です。おのおのが、神の全体であり……、三位がともに神の全体です……わたしが唯一の神を思い始めるや否や、すでに三位がわたしをその光輝で覆ってしまわれます。三位を思い始めるや否やたちまち、唯一の神がわたしをとらえてしまわれます……」。