4 地獄

わたしたちは自由意志をもって神を愛することを選ばない限り、神に結ばれることはできません。しかし、神に対し、隣人に対し、あるいは自分自身に対して大罪を犯すならば、神を愛することはできません。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠のいのちがとどまっていません」(一ヨハネ3∙14-15)。キリストが戒めておられるように、もし貧しい人や小さい人の大きな困窮を顧みないならば、わたしたちはキリストから離れることになります。彼らは主の兄弟だからです。痛悔もせず、神の慈愛を受け入れもせずに、大罪を犯したまま死ぬことは、わたしたち自身の自由な選択によって永遠に神から離れることを意味します。自ら神と至福者たちとの交わりから決定的に離れ去ったこの状態を、「地獄」ということばで表現するのです。

イエスはしばしば、消えることのない火の「ゲヘナ」について話されました。それは、生涯の終わりまで信じることも回心することも拒み続ける人々のために残されたもので、そこでは霊魂も肉体もともに滅ぼされうるのです。イエスは深刻なことばで、「人の子は天使たちを遣わし、……不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませる」(マタイ13∙41-42)と述べ、また、「のろわれた者ども、わたしから離れ、永遠の火に入れ」(マタィ25∙41)という宣告を下すことを予告しておられます。

教会は、地獄の存在とその永遠性とを教えています。大罪を犯したまま死ぬ人々の霊魂は、死後直ちに地獄に落ち、そこで、地獄の苦しみ、「永遠の火」に耐えなければなりません。そもそも、人間はただ神のうちにおいて、自分が造られた目的であり願望の的であるいのちと幸せとを得ることができるのですが、地獄の苦しみの中心となるのは、この神との決別の状態が永遠に続くということなのです。

地獄に関する聖書の主張と教会の教えとは、人間が自分の永遠の行く末のことを考えながら自由を用いなければならないという責任遂行への呼びかけであると同時に、回心を促す招きでもあります。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、いのちに通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7∙13-14)とキリストはいわれました。
「主も忠告されたように、わたしたちはその日も時も知らないのですから、たえず警戒を怠ってはならないのです。わたしたちの地上生活一回限りの行程を終えた後、主とともに婚宴に入り、祝された人々のうちに数えられることがゆるされるよう心掛け、また、怠惰な悪いしもべのように、『嘆きと歯がみのある』外のやみの中へ、永遠の火の中へ離れ去るように命じられることのないよう警戒しなければなりません」。

神は、だれ一人地獄に予定してはおられません。自分の意志で、神から離れる態度(大罪)を持ち続け、死ぬまでその態度を変えない人だけが地獄に落ちるのです。教会はエウカリスチアの典礼と信者の日々の祈りとの中で、「一人も滅びないで皆が悔い改める」(二ペトロ3∙9)ことを望まれる神のあわれみを祈願します。
「わたしたち――奉仕者と全家族――のこの奉献を快く受け入れ、あなたの平和を日々わたしたちに恵み、永遠の滅びから救い、選ばれた者の群れに加えてください」。