2 キリスト・イエスに結ばれて死ぬ

キリストとともに復活するには、キリストとともに死に、「からだを離れ、主のも牛に住」(ニコリント5∙8)まなければなりません。世を去るとき、つまり死ぬときに霊魂はからだから離れ、死者の復活の日に、自分のからだに再ぴ合わされるでしょう。

「死を前にして初めて、人間の条件についてのなぞは頂点に達します」。ある意味で、肉体の死は自然なことですが、信仰の立場から見ると、「罪が支払う報酬」(ローマ6∙23)なのです。また、キリストの恵みのうちに死んでいく人にとっての死とは、キリストの復活にあずかることができるためにキリストの死にあずかることなのです。

死は、この世のいのちの終わりです。わたしたちには寿命があって、その間わたしたちは変わり、老いていきます。そして、この世のすべての生物に見られるように、いのちの終わりには当然死がやってきます。死のこうした面は、わたしたちの人生に、ある緊迫感を与えます。つまり、死を思うとき、わたしたちは自分の人生をまっとうするために限られたひとときしか持たないことに気づくからです。
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。……ちりが元の大地に帰り、霊が与え主である神に帰る〔日が来ないうちに〕」(コヘレト12∙1,7)。

死は罪の結果です。教会の教導職は、聖書と聖伝とを正しく解釈する者として、死は人間の罪のゆえにこの世に入ったと教えています。人間は死すべき本性を持っているにもかかわらず、神は人間を不死に定めました。したがって、死は創造主である神の意図に反するもので、罪の結果としてこの世に入ってきました。「人間が罪を犯さなかったならば、それを免れたはずの」肉体的死は、人間の打ちかつべき「最後の敵」(一コリント15∙26)なのです。

死はキリストによって変質されました。神の子であるイエスもまた、すべての人が負うべき死を受け入れられました。しかし、死を前にして恐れながらも、イエスは御父のみ旨に対する全面的で自発的な服従によって死を受容されました。イエスの従順が、死ののろいを祝福に変えたのです。

キリスト教的死の意味

キリストのおかげで、キリスト教的死は肯定的な意味を持つことになります。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」(フィリピ1∙21)。「次のことばは真実です。
『わたしたちは、キリストとともに死んだのなら、キリストとともに生きるようになる』」(ニテモテ2∙11)。キリスト教的死の本質的な新しさとは、キリスト者は新しいいのちに生きるためにすでに洗礼によって秘跡的には「キリストとともに死んで」おり、わたしたちがキリストの恵みのうちに死ぬならば、肉体的な死はその「キリストとともに死ぬこと」を完遂し、わたしたちをキリストのあがないのわざに完全に組み入れるということです。 「わたしには、王として地の果てに至るまで支配するよりも、イエス・キリストに一致するために死ぬほうがよいのです。わたしが求めるのは、わたしたちのために死んでくださったキリストであり、わたしが望むのは、わたしたちのために復活してくださったキリストなのです。わたしには陣痛が迫っています。……わたしに清い光を受けさせてください。そこに行き着くことができたとき、わたしは人間となるでしょう」。

死において、神は人間をご自分に呼び寄せられます。ですから、キリスト者は死に対し聖パウロと同じように、「この世を去って、キリストとともにいたいと熱望」(フィリピ1∙23)することができます。そして、キリスト者は自分の死を、キリストにならって、御父への従順と愛の行為に変えることができるのです。
「この世的なわたしの望みは十字架につけられました。……わたしのうちには一筋の生ける水が流れていて、わたしの中でささやきながら、『御父のもとに来なさい』と語りかけています」。
「わたしは神様を見たいのです。見るためには、死ななければなりません」。
「わたしは死にません。いのちに入るのです」。

死に関するキリスト教的な見方は、教会の典礼にすばらしく表現されています。 「〔主よ、〕信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」。

死は地上における人間の旅路の到着点であり、神が人間にお与えになる恵みとあわれみの時の終わりです。人は自分の人生を神の意図に沿ってまっとうし、また行く末を決定しなければなりません。「わたしたちの地上生活の一回限りの行程」が終わると、わたしたちは、別の人生を生きるためにこの世に戻ることはありません。「人間にはただ一度死ぬことが定まっている」(ヘプライ9∙27)のです。死後に「転生」はありません。

教会は死の時を準備するようわたしたちに勧めます(昔の諸聖人の連願には、「主よ、突然の、不測の死からわたしたちを救ってください」という祈りがあります)。また、「死を迎えるとき」(「聖母マリアヘの祈り」)わたしたちのために執り成してくださるようマリアに祈り、自分たちをよい臨終の擁護者である聖ヨセフにゆだねるよう勧めます。
「あなたが行い、考えるときはいつも、今日死ぬようなつもりでそうしなさい。あなたの良心にやましさがなければ、あまり死を恐れるべきではありません。死を避けるよりも罪を犯さないようにするのがよいのです。今日用意ができていなかったら、どうして明日用意ができるでしょうか」。
「主よ、生きている者はだれ一人死を逃れられません。わたしたちの姉妹である肉体的死のため、あなたはたたえられますように。大罪をもって死ぬ人は不幸です。聖なるみ旨を果たして死ぬ人は幸いです。第二の死が彼らを苦しめることはないからです」。