最後の審判 神の国からの抜粋

聖アウグスティヌス「神の国」からの抜粋

神の審き

この世において、善人がまるで悪人であるかのように禍いを被り、悪人もまるで善人であるかのように幸いを得ることがある。私たちは、これらのことについてなぜそうなるかわらない。このような例はたくさん見出される。例えば、その堕落した生活のために悲嘆にくれるものが喜び、その称賛すべき生活を送っているものが悲しむのはなぜか。罪のないものが法廷から不当を押しつけられ有罪判決を受けるのに、逆に罪ある相手方が罰を受けないばかりか、無罪放免となって飛び回るのはなぜか。不敬虔なものがこのうえなく健康であるのに、敬虔なものが病気でやつれているのはなぜか。人間社会に有用な人が早死にし、生まれてこなかったほうがいいと思われる人が非常に長生きするのはなぜか。多くの犯罪を重ねたものが名誉を与えられ、非難の余地のないひとが世に知られないのはなぜか。などその他にもたくさんある。そして、ただ悪人のみがはかない地上の幸福を得て、善人は不幸を耐え忍ぶほかがないならば、これらは、神の正しい、恵み深い審きに帰すことができるだろう。永遠の至福に至らない人は一時的な幸福でだまされ、永遠の至福に至るものは、ささいな罪であってもその償いのため禍を受ける。しかし逆に、悪人が罰せられ、善人が幸福が訪れることがあるので、神の審きははかり難い。神は最高の知恵であり、最高の正義があって、何らかの弱さも、何らかの無配慮も、何の不正はない。したがって、私たちは、これら善人の善人と悪人に共通である幸福や不幸を高く評価しないことを学ぶのである。しかし最後の審判のとき、すべての審きは明らかになり、その正しさがわかるであろう。

最後の審判についてのキリストの言葉

しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。 (マタイ1122
しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」 (マタイ1124)
ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。(マタイ1241、42 

このみ言葉からわかる二つのこと
1、裁きが到来すること、それが死者たちの復活と共に到来すること。
2、ニネベの人々と南の女王は、死者たちのことを指し、その死者は裁きの日に復活するであろうと預言した。「彼らは罪に定めるであろう」とは彼ら自身が裁くのではなく、彼らと比較されて、この世の人々が正当に罪に定められることをいう。

「良い種を蒔く者は人の子、 畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。 そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」  (マタイ13・37~43) 

はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を裁くことになる。(マタイ19・28 

イエスが私たちとともに審くことを言っている。ここで十二は、十二人だけが審くことを言っているのではなく、裁くものの全体的な数を指し、すべての弟子たちのことを指す。また裁かれる者も、十二の部族だけではなくすべての部族を表している。新しい世界」は死者復活言っている 

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」  

父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。 また 裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。  (ヨハネ5・22~29

第一の復活(洗礼による魂の復活)と第二の復活(この世を去ったあとの死者の復活)

「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また 裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。 」 (ヨハネ5・22~29) 

はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。
これは洗礼による魂の復活(第一の復活)を言っている。大罪の状態にある魂は死んでいる。それゆえ魂が死んでいる人に「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」 と仰せになる。この第一の復活には、永遠に祝福されている者でなければあずからないが、ここでキリストは善人と悪人の区別は何もしていない。というのも、不敬虔の死から敬虔の生に移ることにより、神の声を聞いて生きることは、すべての人にとって善だからである。

また 裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。ここでキリストは彼が人々をその肉体において裁くために来るであろういうことを示している彼はまさにその肉体において裁かれるためにこの世に来たのであったが、そのために、彼は「人の子だからである」と言うのであるそれから彼は続けて驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだこの裁きは断罪の意味で用いられているわたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っているつまり、今死から生命へと移す第一の復活に与ることによって裁きという語で意味される断罪には至らないであろうこれは悪を行った者は復活して裁きを受けるために言われている裁きは、これも断罪の意味で用いられていそれゆえ第二の復活において断罪されたくない者は第一の復活においてよみがえるとよいというのも死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きるすなわち第二の死と呼ばれる断罪には至らないであろうその第二の死へは魂の復活である第一の復活においてよみがえらない者が、身体の復活である第二の復活のあとで突き落とされるであろう。「墓にいるすべての人がその声を聞いて墓を出る時がくるであろう」(ここでキリストは、今来ているとは言わない。それは時の終わりにおいてあるだろうから) 

また彼は第一の復活におけるように、「それを聞く者は生きるであろう」とも言わなかった。なぜなら、そのときのすべての人が、神に祝福されるように生きていないからである。彼らは、光栄ある肉体をもって墓から出てくることはできない。その理由を、キリストはそれに続く箇所で教えている。善を行った者は復活して命を受けるため―これは生きる人のことである。悪を行った者は復活して裁きを受けるため―これは、第一の魂の復活において再生しなかったか、あるいは再生しても、邪悪に生きたために、その状態を終わりまで保たなかったためである。

それゆえ、二つの再生がある。

  1. その一つは信仰による再生であって、これは洗礼によって今起こる。
  2. もう一つは肉体に従っての再生であって、これは最後の審判によりその不朽と不死において起こる。

そこでまた二つの復活がある。

  1. その一つは第一の復活であって、今起こり、また魂の復活であって、第二の死に至ることを許さない。
  2. もう一つは第二の復活であって、今は起こらずに世の終わりに起こり、また魂の復活なしに身体の復活であって、最後の審判によってある者を第二の死に送り、他のある者を死ぬことのない生へと送るのである。 

第一の復活である魂の復活(つまり洗礼)は、身体においては起こらない。なぜなら身体は死によって倒れていないからである。また第二の復活は、体の復活であり、魂の復活ではない。なぜなら霊魂は不滅であるからである。

最後の審判についてペトロの預言(2ペトロ3・3~13)

『まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」 らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、当時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。 しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。 ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。 』 

ここでペトロは死者の復活について何も語っていないがこの世界の滅亡については充分に語っている。そして彼が洪水以前の出来事に言及する時、世の終わりにおけるこの世界の滅亡がどの程度であると信じたらよいかを、告げ知らせようとしている。すなわちペトロはその洪水の際に、そのときあった世界は地球だけでなく天も滅びたと言っているが、その天は実は私たちが大気と解するものであって、その場所と空間には水が増えて溢れていた。それで風の多い大気の全体は、あるいはほとんど全体は、湿った性質に変化し、地と共に滅びた。実際、それ以前の地の様子は、洪水によって消滅してしまった。ペトロは言う。「現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。 したがってこの天と地は、すなわち洪水によって滅びた世界の代わりに、例の水から更新された世界は、裁きと不敬虔な人々の滅びの日まで、最後の火そのものが保たれているのである。彼らはためらうことなく、人間もまたある大きな変化のためにいつかは滅びる。しかしその本性は、永遠の罰においてさえも存続するという。
 

 

 

聖アウグスティヌス「神の国」から抜粋。