「すべてのことを、マリアのうちで行う」

「すべてのことをマリアのうちで行う。」この表現はわかりにくいが、聖フランシスコ・サレジオの「信心生活入門」の「霊的孤独のすすめについて」「思いを寄せること、念祷およびよき思いについて」に参考となるところがあったので記します。

①信心生活入門「霊的孤独のすすめ」について

1 天主は、常に、無限の慈しみによって、私たちを見守ってくださっている

天主のみ前にいることを思い起すための4つの手段

  • 祈り(口祷)
  • 黙想(とくに聖主の御生涯と御受難との黙想):
  • 念祷:神としばし語り合う、友愛の親密な交わり。
  • 日々の日課(朝の務め、夜の務めのなど)。

この4つの手段の一つを用いて、私たちは

  • 天主が目の前におられること
  • 天主がしてくださっていること
  • 私自身がしていること

を常に思い起こすことができます。」

「私たちは、次の二つを気づきます。

  1. 天主の御目は、絶えず私の上に注がれている。
  2. 天主は、無限の慈しみをもって、私を見守りくださっている。」

2 私たちは、心の中に、天主のお側にいるための隠れ家が必要である

「天主は、こうなさっているのに、

どうして、私たちは、主のことを考えないのあろうか。

私たちの真の住居は、天主のお側にある。

しかし、いま私たちはどこにいるのか。」

小鳥は、木の枝に巣をかけて、そこに隠れ、

鹿は森の陰や、ほら穴に退いて夏の暑さを避けます。

私たちの心にも、また、どこか一つの隠れ家が必要です。

「私たちも、例えば、

  • カルワリオ山の頂、
  • 聖主の御傷の中、
  • 聖主のそば近く、(聖母マリアの信心では、聖母のそば近く

これらを自分の隠れ家とすることができます。」

3 心の隠れ家の中で、心は、妨げを受けずに、ひとりで天主のみ前に出ることができる

「そのいずれかに機会あるごとに、私たちは

  • 退き隠れ
  • 休息する
  • 誘惑に対する砦とする

ことができます。」

私たちは、体は世間にあって、俗事に従事していても、

心は常にそのような隠れ家を持っていなければいけません。

「この心の孤独は、

  • あなたの周囲にいる人々によって、妨げられることはありません。
  • 周囲の人々の騒ぎによって、決してあなたの心を乱すことはできません。

そうすることで、私の心はただ独りで天主の御前に出ることができます。」

4 心の中に聖堂をつくり、そこに隠れる(シエナの聖カタリナ)

シエナの聖女カタリナの父母は、祈ったり黙想したりする余暇と場所とを、娘より、全く奪いました。このとき、

聖なる主は、カタリナに、心のなかに聖堂を設けて、精神的にそこに隠れ、外面的な俗務の間に、心の尊い孤独の勤めをすることを教えてくださいました。

それからは、たとえ、他人が聖女を妨げても、もはや、少しの苦痛も与えることができませんでした。

彼女は、心の小部屋に隠れて、そこで天の与える慰めを受けることができたからです。

後に、聖女は、その教えを請うものに心の中に一つの小部屋を設けてその中に住むように勧めました。


②信心生活入門「思いを寄せること・念祷およびよき思い」について

1 天主に思いを寄せるのは、主の側に隠れるためでもある。

天主のそばに退くのは、天主に思いを寄せるからです。

また、天主に思いを寄せるのは、主のそばに隠れるためでもあります。

天主へ思いを寄せること、および、霊的孤独は、このようにお互いが影響しあいます。

その上、両者とも、よい思いから生まれるのです。

2 心の底から、短い、熱烈な祈りによって、天主に思いを寄せる(主の側に隠れる)

主の側に隠れるために、心の底から、短い、しかし熱烈な祈祷をもってしばしば、天主に思いを寄せることが大切である。

「短い祈りの例として

  • 天主の美しさを讃える
  • 御助けを願う
  • 心の中で十字架のもとにひれ伏す
  • 主の慈しみを礼拝する
  • あなたの救霊を切望する
  • 繰り返し、繰り返して心を主に捧げる
  • 内心の眼を主の甘美に注ぐ
  • 天主の美しさを讃える
  • 御助けを願う
  • 心の中で十字架のもとにひれ伏す
  • 主の慈しみを礼拝する
  • 救霊を切望する
  • 繰り返し、繰り返して心を主に捧げる
  • あなたの内心の眼を主の甘美に注ぐ
  • 幼子のように、手を伸ばし御導きを願う
  • よい香りがする花束のように、主をあなたの胸に抱く
  • 堂々とした旗印のように、主をあなたの霊魂の真ん中にたてる

その他、天主の愛を増し、愛情を深くするために、種々様々のことをする。」

これが、すなわち、かの偉大なる聖アウグスチノが、敬虔なる貴婦人プロパに勧めた射祷です。

このようにして、私たちの心は、天主と仲良くなり、馴れ親しんで、天主の完徳の芳香に向かうようになります。

3 霊的孤独の務めは、俗務の妨げにならない

この勤めは、少しも不便ではありません。私たちの俗務の中に織り込まれていても、何の妨げにはなりません。

なぜならば、これらの短い祈祷は、むしろ、私たちの仕事や俗務の成功と助けとなるくらいだからです。

心を休め、唇をうるおすために、少量のブドウ酒を飲む旅人は、たとえ、そのためにしばしば立ち止まっても、それで旅を中断するとは言えません。

止まるのは、さらに早く歩くため、旅行に必要な元気を回復するためではありませんか!

4 天主への愛こそが、天主への思慕の祈りのもとになる

多くの射祷を集めた書物も少なくありません。みな、有益なものです。

しかし、一定のことばを用いることなく、愛する心が思いついた祈りを、心でなり、口でなり、唱えるのが一番いい。

人間世界の恋愛する人々は、常に愛する人を思い、その心は恋愛の情にたえず、その口は愛する人を休むことなく称え、離れていても忠誠を誓う。

神を愛する人も同じで、常に主を思い、主のために生き、主を慕い、主をうわさし、できることならば世界のあらゆる人々の胸にイエスの尊い御名を記そうとこい願います。

愛する人は、見るものにつけ、聞くものにつけて、その愛する人を想い出します。愛する人を讃えない人はこの世にはいません。

聖アントニオにならい聖アウグスチノがいった言葉があります。

「世のすべてのものは、愛するもののために、沈黙のうちに、明らかに語ります。

天主にたいするたくさんの思慕の祈りはこれから生まれます」と。

5 霊的孤独の勤め、射祷は、信心を進歩させるための、最も必要な二大手段である

霊的孤独の勤め、および射祷(短い祈り)は、信心を進歩させるのに、もっとも必要な二大手段であります。

この2者は、他の種類の祈祷に欠けているものを補うことができますが、この2者の欠乏は、他のいかなる方法をもってしても補償は難しいです。

これなくしては、観想の生活をよく営むことは不可能であります。また、活動の生活も、無意味な生活となるばかりです。

これなくしては、休息は怠惰と変わり、労働はいら立ちとなります。

ですから、あなたは心の底からこの二手段を愛して、これを忘れないように努めなければいけません。

(参考)信心生活入門「霊的孤独のすすめ」について(全文)

愛するフィロテアよ、私は、次に述べるところをあなたが、特に忠実に守ることを切望します。なぜならば、これが、あなたの霊的進歩に、最も重要な方法の一つだからです。

私が教えた四つの手段の一つを利用して、一日のうちに、なるべくしばしば、天主の御前にいることを思い起こし、現在、天主がしてくださっていること、あなた自身がしていることを考えなさい。

天主の御目は、絶えずあなたの上に注がれていて、言いつくしがたい慈しみをもって、あなたを見守りくださっています。

ああ主よ、主は常に私を見てくださるのに、どうして私は主を仰ぎみないのでしょうか。主は常に私を思ってくださるのに、どうして私は主のことを考えないのでしょうか。

ああ私の霊魂よ、どこにあるのでしょうか。私たちの真の住居は、天主のお側にあるのに、いま私たちはどこにいるのでしょうか。小鳥は木の枝に巣をかけて、そこに隠れ、鹿は森の陰や、ほら穴に退いて夏の暑さを避けます。

フィロテアよ、私たちの心にも、また、どこか一つの隠れ家が必要です。

私たちも、あるいは、カルワリオ山の頂、あるいは、聖主の御傷の中、あるいは、聖主のそば近く、そのいずれかに機会あるごとに隠れ退き、あわただしい外面的の俗務の間に休息し、あるいは、これを誘惑に対する砦としなければいけません。

真にその心の底から、聖なる主に向かい、「主は私の隠れ家、私の砦、雨をしのぐ屋根、暑さを防ぐ木陰」と言うことができる霊魂は幸いです。

フィロテアよ、たとえ、あなたの体は世間にあって、俗事に従事していても、あなたの心は常にそのような隠れ家を持っていなければいけません。

この心の孤独は、あなたの周囲にいる人々によって、妨げられることはありません。彼らはあなたの肉体の周囲でうるさく騒いだとしても、決してあなたの心を乱すことはできません。そうすることで、あなたの心はただ独りで天主の御前に出ることができます。

ダビデ王は、その最も忙しい生活の中で、この勤めを行っていました。そのことは、彼の詩編に散見する多くのことば、たとえば、「ああ主よ、私は常にあなたとともにあります。私は私の神をいつも見ています。天にまします私の神よ、私は、あなたに私の眼を注ぎます。私の眼は常に天主に向かっています」などから分かります。

私たちは忙しい日常、仕事に従事していたとしても、ダビデのように、ときどき、自分の心を天に向けることが許されないほど、絶えず緊張しているものではありません。

シエナの聖女カタリナの父母は、祈ったり黙想したりする余暇と場所とを、娘より、全く奪いましたが、その時、聖なる主は、カタリナに、心のなかに聖堂を設けて、精神的にそこに隠れ、外面的な俗務の間に、心の尊い孤独の勤めをすることを教えてくださいました。

それからは、たとえ、他人が聖女を妨げても、もはや、少しの苦痛も与えることができませんでした。彼女は、心の小部屋に隠れて、そこで天の与える慰めを受けることができたからです。

後に、聖女は、その教えを請うものに心の中に一つの小部屋を設けてその中に住むように勧めました。

ですから、あなたも、時々、自分の心の中に退き、あらゆる人間を離れ、天主にあなたの霊魂を向け、心より心へ語りなさい。

そして、ダビデとともに、「私は目をさまし、私は荒れ野のペリカンのようになり、廃墟のフクロウのようになっています。私は友を失くして屋根の上いるスズメのようになりました」(詩編102・6,7)と言いなさい。その言葉は、その文字通りの意味の他には(すなわち、この言葉は、偉大なダビデ王が、天の事柄を黙想するために、孤独の場所に退いたことを証明するものであるが)、神秘的な三つの優れた隠れ家を示しています。

その意味は次の三つです。1、救い主は、カルワリオ山においては、その血潮をもって、死んだひな鳥をよみがえらせる荒れ野のペリカンのようであられます。2、誕生にあっては、町はずれの馬小屋において私たちの罪悪のために泣く廃墟のフクロウのようであられ、3、ご昇天の日においては、群れを離れて世界の屋根である大空を駆け巡るすずめのようであられます。

私たちもまた、救い主にならい、この3つの隠れ家を作って、世間の煩いのなかで、そこに隠れることができます。

ブロヴェンスのアリアン伯、福者エルゼアルが、あるとき、貞淑敬虔な夫人、デルフィンと長く別れて暮らしたことがありました。その時に、夫人は、人を遣わし、伯の健康を尋ねさせましたが、伯爵の返事は次のようでありました。

「いとしい妻よ、私は大丈夫です。しかし、もし、私に会いたければ、聖主の胸の御傷においでください。私はそこにいます。他のところで、私を探しても無駄でしょう」と。

本当に、こういう人こそ真の信者である武士というべきです。

(参考)信心生活入門「思いを寄せること・念祷およびよき思い」について全文

天主のそばに退くのは、天主に思いを寄せるからです。また、天主に思いを寄せるのは、主のそばに隠れるためでもあります。

天主へ思いを寄せること、および、霊的孤独は、このようにお互いが影響しあいます。その上、両者とも、よい思いから生まれるのです。

フィロテアよ、ですから、心の底から、短い、しかし熱烈な祈祷(短い祈り)をもってしばしば、天主に思いを寄せなさい。

天主の美しさを讃え、御助けを願い、心の中で十字架のもとにひれ伏し、主の慈しみを礼拝し、あなたの救霊を切望し、繰り返し、繰り返してあなたの心を主に捧げ、あなたの内心の眼を主の甘美に注ぎ、幼子のように、手を伸ばし御導きを願い、よい香りがする花束のように、主をあなたの胸に抱き、堂々とした旗印のように、主をあなたの霊魂の真ん中にたて、その他、天主の愛を増し、愛情を深くするために、種々様々のことをしなさい。

これが、すなわち、かの偉大なる聖アウグスチノが、敬虔なる貴婦人プロパに勧めた射祷であります。

フィロテアよ、このようにして、私たちの心は、天主と仲良くなり、馴れ親しんで、天主の完徳の芳香に向かうようになります。

この勤めは、少しも不便ではありません。私たちの俗務の中に織り込まれていても、何の妨げにはなりません。

なぜならば、これらの短い祈祷は、むしろ、私たちの仕事や俗務の成功と助けとなるくらいだからです。

心を休め、唇をうるおすために、少量のブドウ酒を飲む旅人は、たとえ、そのためにしばしば立ち止まっても、それで旅を中断するとは言えません。

止まるのは、さらに早く歩くため、旅行に必要な元気を回復するためではありませんか!

世に、多くの射祷を集めた書物も少なくありません。みな、有益なものです。しかし、私の考えでは、一定のことばを用いることなく、あなたの愛する心が思いついた祈祷を、心でなり、口でなり、唱えるのが一番いいと思います。

あなたは、必要なだけ、いくらでも射祷を作って差し支えありません。もっとも、特別に私たちの心を満たす能力を有するあることばはあります。

たとえば、ダビデ王の詩編のなかにある多くのことば、イエスの御名を唱え、雅歌に現れた愛のささやき等です。讃美歌も、気をつけて歌えば、同じ目的を達する手段となります。

人間世界の恋愛する人々は、常に愛する人を思い、その心は恋愛の情にたえず、その口は愛する人を休むことなく称え、離れているときは手紙を交わして忠誠を訴え、森に遊ぶや、愛する人の名前を樹に刻みます。

このように、天主を愛する人も、常に主を思い、主のために生き、主を慕い、主をうわさし、できることならば世界のあらゆる人々の胸にイエスの尊い御名を記そうとこい願います。

愛する人は、見るものにつけ、聞くものにつけて、その愛する人を想い出します。愛する人を讃えない人はこの世にはいません。

聖アントニオにならい聖アウグスチノがいった言葉があります。「世のすべてのものは、愛するもののために、沈黙のうちに、明らかに語ります。天主にたいするたくさんの思慕の祈りはこれから生まれます」と。

以下にその例を挙げます。ナジアンズの司教、聖グレゴリオが、自ら信者に語った話があります。ある日、聖人は浜辺を散歩していました。見ると波打ち際には小貝や海藻や小さな貝殻や、またその他のゴミくずが海から吐き出されたように打ち上げられていました。次の大波が来ると、その一部分は波にさらわれて、どことも知れずなくなっています。かなたにそびえ立つ岩礁は、激しく波立つ大波に微動だにしません。これを見た聖人の胸には、次のような思いが浮かびました。「小貝や海藻や小さな貝殻のようにか弱いものは運命の波に寄せるがままに、かわるがわる、あるいときは悲しみ、あるときは喜びと、本当に頼りないものであります。これに反して、勇敢な人は、暴風雨のなかにも、確固不抜の信念を有しています」と。この思いより、さらに聖人は、ダビデの祈祷を思い出します。「ああ主よ、私を救ってください。洪水が私の霊魂に迫っています。主よ、水底より私を救ってください。私は深海の底にいます。暴風は私を沈めました」と。

ちょうど、このとき、聖グレゴリオはマクシモにその司教を奪われて、苦しみ悩んでおられたのでありました。ルスパの司教、聖フルジェンシオは、ある時、ローマ貴族の集会において、ゴード王テオドリックが演説をしたその席に連なり、位階を正して居並ぶ美しい服装の貴人を見て、心の中で叫びました、「ああ天主よ、地上のローマにして、すでにこのように美しいならば、天上のエルサレムはどうでありましょう。虚栄を追う人々に、この世において、すでに、このような美しさが与えられるのであるならば、来世における真理の美しさを見ることは、どのような光栄が宿っているでしょうか」と。

カンタベリーの大司教アルセルモは、このよき思いの勤めに秀でていました。ある時、聖人が馬に乗って行かれた時、一匹の子ウサギが、犬に追われて、突然、馬腹の下に飛び込んで、そこを唯一の逃れ場としました。犬は聖人の周囲を吠え回ったが、あえて獲物に近づけませんでした。この不思議な光景を見て、お供していた人々は面白く思い、大笑いしましたが、聖アルセルモは涙を流して激しく泣きました。「お前たちは笑っているが、かわいそうなこのウサギは笑うどころではありません。霊魂も一生の間、悪魔に追われ、罪悪の罠におびやかされ、臨終の際には、恐ろしい悪魔の手を逃れようと、最後の逃れ場を求めるものです。それでも、もしそれが見つからないと、彼の敵は、笑い、からかいます」。こう言って聖人は暗然としてその場を去られました。

コンスタンチン大王が、聖アントニオにていねいな書簡を送ったことがありました。聖アントニオの弟子たちは、たいへんびっくりしましたが、聖人は静かに言いました。「王が、一個人に手紙を書いても、それほど驚くことではありません。それよりも、永遠の天主が、人類に律法をお与えになり、それだけではなく、御子の口をもって、直接にみ言葉をくださったことを驚きなさい」と。

聖フランシスコは、ある日、ヤギの群れの中に、一匹の羊がいるのを見て、その一緒にいた人に言いました。「このヤギのうちにいる子羊はなんとかわいいではないか。ファリザイ人に囲まれている聖なる主の、柔和・謙遜のお姿通りであります」と言って泣いたそうです。

現代の偉大な聖フランシスコ・ボルネオは(まだガンチア公であった頃に)、狩りに行っている間にも、少しも信心の思いを忘れませんでした。後日、人に語るには、「私は、タカがこぶしに舞い戻り、おとなしく目隠しをさせ、止まり木につながせるのを見るごとに、人々が天主の御声に強情ではないかと考えました」と。

大聖バジリオは、『いばらの中のバラは、「この世の美しいものにも、悲しみが混じる。悔恨は、楽しみに伴わない、結婚の後にはやもめ暮らしが来る。繁盛にも骨折りがいる。名誉の裏には恥辱があり、高い位も入費がかかり、楽しんだ後には不快が起こり、健康の後には病気が来る」と人々に告げます。バラは美しい花でありますが、私には悲しみの種です。なぜならば、私は自分の罪悪と、そのために、大地がいばらを生やさなければならなくなった、原罪のことを思い出すからです』と言いました。

ある敬虔な人が、一夜、小川の側に立って、水のなかに映る、晴れた空と星屑とを見ていった言葉があります。「ああ天主、主が、私を、天国の幕屋に住ませて下さる日には、この美しい星も私の足元になりましょう。また、これらの星が、こうしてここに映っているように、地に住む人々は、天において神の愛の生ける泉を宿しておりましょう」と。

また、聖女フランシスカは、美しい小川の岸にひざまずいて祈ったときに、恍惚の状態に陥って、「天主の聖寵は、この小川のように、静かに快く流れます」と繰り返したと言います。またある人は、美しい花園で、「教会の花園の中で、なぜ、私一人、善徳の花が咲かないのであろう」と嘆きました。

またある人は、雛が母鳥のもとに集まる様子を見て、「ああ主よ、主の御翼の陰に私を守ってください」と祈りました。またある人は、ヒマワリの花を見て、「ああ主よ、私の霊魂の、この花のように、主の慈愛にひかれるのはいつでしょうか」と言い、眼に美しいが香りのない三色のスミレを見て、「私の思いもこれに似ています。言葉は美しくても、なんの効果ももたらしません」と嘆きました。

フィロテアよ、この世の中の種々の機会に、この思いを起こし、尊く思いを寄せるには、以上の例にならえばいいでしょう。被造物を創造主から引き離して、罪悪のために用いるものは災いであることか。被造物によって、創造主の栄光を讃えさせ、被造物の空虚を、真理の賛美に用いるものは幸いであることか。

ナジアンズの聖グレゴリオは言います。「私は万物をして、私の霊的進歩をさせます」と。聖イエロニモが聖女パウラのために書いた敬虔なる碑銘を読みなさい。聖女があるゆる場合に抱いた尊い思慕を知ることは、私たちにとって、この上もない心の喜びです。

以上に叙した霊的孤独の勤め、および射祷は、信心を進歩させるのに、もっとも必要な二大手段であります。この2者は、他の種類の祈祷に欠けているものを補うことができますが、この2者の欠乏は、他のいかなる方法をもってしても補償は難しいです。

これなくしては、観想の生活をよく営むことは不可能であります。また、活動の生活も、無意味な生活となるばかりです。これなくしては、休息は怠惰と変わり、労働はいら立ちとなります。ですから、あなたは心の底からこの二手段を愛して、これを忘れないように努めなければいけません。