短く、まとめています。
■目次
第二部 聖マリアへのまことの完全な信心
聖母に対するまことの信心は、大きくわけて三つです。
第一の方法は、罪をさけて信者のつとめを忠実に守りながら、マリアを神のおん母として尊敬し、ときどき祈りを捧げることです。
第二の方法は、マリアに対して、尊敬と愛と信頼の心をつちかい、ロザリオの信心会と、カルメルのスカプリオの信心会というような聖母信心会に入ることです。
第三の方法は、次から記す方法です。
第一章 完全な奉献
1 聖母マリアに自分のすべてを完全にささげる
聖母マリアに対するまことの信心とは、

①マリアにすべてを与える
「完全にささげるものは、体、霊魂、家も家庭も、利益のような外部的財産、孤独、恵み、善徳、慰めのような霊的富などもすべてを含めています。」
この信心を行う霊魂は、すべてを、マリアを通じて、イエズスにささげます。
②善い行いから生じる功徳を聖母におまかせする
善い行いは、つぐないにもなるし、また恵みを願うことにもなります。
善い行いをすべてささげるので、善い行いから生じる功徳(償いの価値、祈りの価値)を全部マリアにまかせることになります。
この奉献は、それをしなくても罪にはなりません。
しかし、マリアにすべてを捧げたのですから、わたしたちは、もうそれについてきめる権利を放棄します。
2 マリアは、私たちのささげたものを、神の大きなみ栄えのためにお使いになります
私たちは、聖母に、善い行いから生じる功徳をおまかせします。
そうすれば、
マリアは、その善い行いの功徳を煉獄の霊魂を解放するためとか、罪人を改心に導くために使うことがおできになります。
わたしたちの功徳も、このようにマリアのみ手にゆだねられます。それは、マリアが、これを保存し、ふやし、より値打ちのあるものにしてくださるためです。
わたしたちが祈りと、善い行いをマリアにまかせるときには、マリアは、これをお望みの者のために使うことがおできになるのです。
こうして、すべてをマリアにおまかせして後、もし、わたしたちが、煉獄のある霊魂を助けたり、ある罪人を救ったり、あるいは、祈りや、苦業や、ほどこしや、犠牲をもって、ある友人、または、ある敵の利益のために役立てたいと望むときは、まずマリアの許可を願い、マリアがきめてくださることに、まかせねばなりません。
わたしたちは、マリアが、それらを、どのようにお使いになるかを知る必要はありません。なぜなら、わたしたちの善い行いを、マリアが神のより大きなみ栄えのためにお使いになるのは確実ですから。
3 マリアの奴隷
まことの信心は、わたしたちを、どれいであるかのように、マリアに奉献することにあります。
どれい制度には、三つの種類があります。
- 第一のものは、自然によるもので、善い人も悪い人も、すべての人は、生まれながら神のどれいです。
- 第二のものは、強制的などれいです。これは、悪魔と亡びた人々のためのどれい制度です。
- 第三のものは、自発的に、愛のためにどれいになることです。
マリアの奴隷は、この三番目の奴隷です。
マリアの奴隷は、自発的に、愛のために、マリアの奴隷となります。
マリアの奴隷は、マリアを通じて、自分を神に奉献します。
これは、被造物が創り主に自分を奉献する最も完全な方法です。
どれいと、”しもべ”との間の大きな違いがあります。
- しもべは、奉仕のために給料をうけますが、どれいは、給料を受けません。
- しもべは、望むときに自由に主人から離れることができ、それに、奉仕は、ある期間のためだけです。これと異なり、どれいは、主人の所有物であるため、主人から離れることはできません。
- しもべは、また、生死の自分の権利を決して主人にゆずりません。かえって、どれいは、完全に主人に従属します。主人は、どれいを殺すことさえも認められていました。
洗礼をうけて、悪魔の奴隷制度から解放されてのち、自分を愛の奴隷として、マリアを通じて、自分を完全にイエズスに奉献するものは、きわめて幸福なものである。
※キリスト信者の間では、このようなどれい制度は認められていません。しかし、異教徒と偶像崇拝者では、それを認めています。
第二章 マリアを通じて、イエズスに奉献することのすぐれた点
1 至聖三位一体の神の模範にならうことになる
「マリアを通じて、自分をイエズスに奉献する」ことは三位一体の神の模範に従うことになります。
父である神にならうことになります。なぜなら、おん父は、マリアを通じておん子をわたしたちにお与えになったからです。
イエズスの模範にならうことになります。イエズスは、マリアを通じて、わたしたちのところに来られました。わたしたちも、マリアを通じて、イエズスのもとに来るように招かれています。
聖霊にならうことになります。聖霊は、マリアを通じてだけ、ご自分のめぐみと賜とをお与えくださいます。
「恵みがわたしたちに届いたのと同じ運河を通って、その泉である神に戻るのは、当然なことではありませんか」。
聖ベルナルド
2 謙遜の徳を守ることができる
マリアを通じて、イエズスのところに行くのは、犯した罪のために、わたしたちが、無限に聖なるお方であるイエズスに直接近づく値打ちがないものであることを示すことになります。
それで、聖なるおん母が、わたしたちの仲介者であるイエズスのみ前に、弁護者と仲介者となってくださる必要があるのです。
このようにすることで、わたしたちは、イエズスをわたしたちの兄弟とも仲介者とも仰ぎますが、それと同時に、イエズスが、わたしたちの神であり、裁き主であることを、けんそんに認めることになります。
こうして、わたしたちは、けんそんの徳を守りますが、けんそんこそ、神のみこころを奪うものです。
3 マリアは、自分のささげものを、神に受け入れやすくしてくださる
マリアを通して自分をイエズスに奉献することは、わたしたちの善い行いをマリアのおん手に、ゆだねることになります。
わたしたちの行いは善いもののようにみえますが、そのじつ、多くの場合、あまりにも汚れていて、神はそれを受け入れ、ご自分の喜びとする値打ちがありません。なぜなら、神はどんな小さな欠点も見通しておられるからです。
それで、わたしたちは、善い母であるマリアに向かって、わたしたちの、つまらない、おくりものを受け入れて、これを清め、聖なるもの、値打ちがあるもの、美しいものとして、神に受け入れやすくしてくださるように願うのです。
「なにか小さいものを神にささげたいとき、断られたくないと望むなら、マリアのおん手を通じて捧げなさい」。
聖ベルナルド
わたしたちが、マリアの名誉のために、もっているものを全部おささげするなら、無限に寛大であるマリアの報いはきわめて大きい。
わたしたちが、マリアに卵一個を捧げるなら、もっと寛大なマリアは、牛一匹をわたしたちにくださるでしょう。
つまり、マリアは、ご自分を完全に、功徳も善徳も全部与えてくださって、ご自分の愛徳の上に、わたしたちの、おくりものをそえて、イエズスに捧げられる。
それだけではなく、マリアは、すべてをささげた者に、イエズスの功徳を着せる。
それで、わたしたちがマリアのどれいと、しもべとして、マリアのみ栄えのために、すべてのものを捧げたのなら、その二倍のものをマリアから頂くことになります。
つまり、イエズスとマリアの服と飾りと香料と功徳を豊かに受けることになります。
4 他人に対する愛徳を最高度に守ることになる
わたしたちがもっている最も貴重なものを全部マリアにまかせるのですから、マリアは、それを生きている人と亡くなった人の利益のために自由に使うことがおできになります。
5 マリアは、ささげられたものを、安全に保たれる
まことの信心が教えるように、わたしたちの恵みと功徳と善徳をマリアにまかせるとき、これらを安全に保つことになります。
つまり、わたしたちは、マリアに、こんなふうに言うことになります。
「わたしの愛する天の母よ、わたしが、おん子イエズスの恵みによってすることのできた善いことを、あなたのおん手におまかせします。どうぞ、おうけとりください。わたしは弱くて、忍耐強くないし、わたしの霊的敵は多く、悪意にみち、昼となく、夜となく、わたしを攻撃しますから、わたしは、自分の力では自分を守ることができません。わたしは毎日、レバノンの糸杉のような強い人が倒れ、また、太陽にまで、まいあがっていた鷲が夜の鳥のようになってしまうのを毎日見ています。また、千人の義人が、私の左に、一万人もの人が、わたしの右に倒れていくのもみています。もっとも力づよい姫ぎみよ、わたしが倒れないように支えてください。わたしの財産が盗まれないように守ってください。わたしは、あなたの力を知っています。このためにこそ、あなたに完全にわが身をおまかせします。あなたは、あなたにまかせた人をひとりも失われるのをお許しになりません。あなたは強いお方ですから、だれも、あなたを攻撃して、あずかったものを奪い取ることができません」。
聖ベルナルドの言葉をききましょう。
「マリアに従うなら、迷うことはありません。マリアを探すなら、失望することはありません。マリアを考えるなら、まちがいません。マリアが支えてくださるなら、倒れることはありません。マリアに導かれるなら、疲れる心配はありません。マリアが守ってくださるなら、目的地に着くでしょう。マリアは、おん子の、いきどおりをやわらげ、悪魔に損害を加えさせません。マリアは、その子らの善徳を守り、功徳を保持し、神の恵みのうちに生きることを助けます」。
聖ベルナルド
6 この信心によって、霊魂は自由になる
この信心のおかげで、霊魂は神の子らの自由を得て、実際に自由になります。
わたしたちが、自発的に愛のためにマリアのどれいになるなら、この愛すべき姫ぎみは、報いとして、わたしたちの心を広げ、神のおきての道を巨人の足どりをもって進ませてくださるでしょう。
この信心は、嫌気、悲しみ、小心を遠ざけます。
第三章 奉献生活の内的実行
マリアに対するまことの信心は、自分の行いをすべて、マリアと共に、マリアのうちに、マリアを通じて、マリアのためにすることにあります。
この奉献を常に行うにおいて、大切なことは、この信心の内的精神に入ることです。しかし、これは容易にできることではありません。
問題は、霊魂が、内的に、聖母のどれいとなり、マリアを通じて、イエズスのどれいになることにあります。
1 すべての行いを、マリアと共にする
しようと思うすべてのことを、マリアを完全な手本として、マリアにならい行動する
このために、まず最初にすることは
- 自分と自分の考えを放棄する。
- どんな善業も、自分の力だけでは行うことはできないことを認め、神のみ前にへりくだる。
次に、
わたしたちは、聖母のご意向を理解できなくても、聖母マリアに、よりすがって、聖母のご意向に一致しなければなりません。
こうして、マリアを通じて、イエズスのご意向に一致する必要があります。
つまり、わたしたちの内的生活の行いも、霊魂の働きもみんな、マリアにきめていただくのです。
2 すべてのことを、マリアのうちで行う
自分の心の中に、聖母の小さな絵を作るようにする。
マリアを、心の中に、迎え入れる。
心の中に迎え入れた聖母を、心の聖堂とする。
自分の心の中におられる聖母に祈る。また聖母と共に祈る。
マリアを神に祈りをささげるための聖堂とし、聖母と共に祈りを捧げたら、確実に聞き届けられると信じる。
マリアは、ダビデの塔のようになり、その中で、わたしたちは、すべての敵から守られる。
マリアは、燃える灯のようになって、霊魂のいちばんかくれたところも照らして、神の愛に燃えたたせる。
マリアはまた、ご聖体の顕示台のようなもので、その中で、わたしたちは、神の姿を仰ぎみることができる。
マリアが霊魂にとって、希望と安全の、よりどころとならねばならない。
祈るときは、マリアと共に祈り、聖体拝領によってイエズスご自身をいただくときは、イエズスが喜ばれるように、イエズスをマリアにまかせる。
どんなことをする時も、マリアのうちで行いすべてにおいて、自分から離脱しなければなりません。
3 すべての願いを、マリアを通じて願う
マリアは、おん子の前で取りつぐ力があり、また信頼されているので、どんなことを願うにしても、マリアを通じて願うようにすることは、たいせつです。
結局、わたしたちは、おん子に祈るとき、自分ひとりで祈るのではありません。
4 すべての行いをマリアのためにする
マリアの愛のどれいになった人は、このやさしい善良な姫ぎみのために働きます。
そして、直接の目的として、マリアのみ栄えのために、最後の目的として神の栄えのためにだけ、行わねばなりません。
もちろん、利己心を放棄しなければなりません。なぜならば、利己心は、わたしたちが気づかないうちに、どこでも入りこんでしまうからです。
それで、なん回もなん回も、心の深いところで、こういわなければなりません。
「わたしの愛する姫ぎみよ、わたしは、あなたのために、これこれの行いをし、そこ、あそこに行き、これこれの悩みと侮辱をがまんします」と。
この信心を行うさいに注意すべきこと
①イエズス・キリスト、あるいは神の所に直接に行くほうが、もっと完全であると考えないように、注意する。
マリアの仲介がなかったら、あなたの行いも意向も、たいした値打ちはありません。
しかし、かえって、マリアを通じてするとき、あなたの行いは、もうあなたの行いではなく、あなたのうちに働いてくださるマリアのものとなり、そのために神のみまえにもっと貴重なもの、うけ入れられるものとなります。
②あなたが、聖母のためにする、あるいは、話すことのために満足感を無理にでもよけいに感じたいと望まない。
マリアは地上に生きておられた時にもっておられた、その清い信仰が、あなたのすべての言葉と行いに満たされるようにしなさい。
マリアは、きっと適当な時に、この清い信仰をお与えてくださるにちがいありません。
愛の小さなどれいである、あなたは、神を明らかに仰ぎみること、愛にもえること、精神の喜びと富と楽しみをあなたの姫ぎみマリアに残しなさい。
あなたは、かえって、悩みと放心と、嫌気と、無味乾燥と、苦しみにみちた純粋な信仰だけを、自分のために探しなさい。
そして、「わたしは、今のところ、これ以上のことができないから、わたしの姫ぎみマリアが天においてなさることに対して、わたしは賛成します」といいなさい。
③聖母のやさしい現存を心のなかで、すぐ味わうことができないことを悩んだり苦しんだりしないようにしてください。
この恵みは、すべての人に与えられるものではありません。神が、大いなる、おんあわれみによってこの恵みをお与えになっても、もし度々集中しないなら、これを容易に失うことがあります。
もし失ったら、マリアによりすがり、マリアのことを忘れたことについて、許しをねがいなさい。
第四章 奉献の感嘆すべき効果
①この信心を実行するなら、
- 言い尽くしえない喜びを感じることができる
- 沢山の恵みも受ける
なぜならば、まことの信心を忠実に守れば、聖母の魂は、わたしたちと一致するので、救い主である神は、その霊魂を喜ばせてくださるからです。
②この信心を忠実に守るなら、沢山の恵みを得る。中でも一番に目立つのは、
マリアが、わたしたちの霊魂の中に生きるようになるから、その霊魂は、自分が生きるのではなく、マリアがその霊魂のうちに生きるようになり、いわば、霊魂の霊魂となることです。
マリアが、ある人の女王となられるとき、
マリアは、大きな不思議を行いになりながら、とくべつに、心の中で働いておられます。
多くの場合に、本人が気づかないうちに働いておられるのです。
霊魂が、もし、その不思議な恵みに気づくなら、虚栄心が生じて、それを失う危険があるからです。
マリアは、みのり豊かなおとめで、人の霊魂のうちに生きておられるときは、心と体の清さ、正しい意向と、豊かな善い行いをみのらせます。
マリアは、その人の霊魂がいつもイエズス・キリストのために生きるようにすると同時に、イエズスが霊魂の中に生きるようになさいます。
イエズスは、マリアを通じて、この世においでになりましたが、それと同様に、マリアを母とも女王とも認める人にとって、イエズスは、マリアの実、マリアの傑作となります。
イエズス・キリストの次に、マリアは、人々のために、なくてはならないお方です。
マリアは、
- その純粋な信仰をもって、その人の精神を照らし、
- その愛徳をもって豊かにし、
- その清さをもって、その母性愛をもってその人を高め、富ましてくださいます。
第五章 自己奉献の外的業
この信心は、内的業のほかに、外的業もあって、これをないがしろにしてはなりません。
第一になすべきことは、特別な日を選んで、マリアのおん手を通じて愛のどれいとして、イエズス・キリストに自分を奉献することです。
そのためには、この日に聖体拝領をし、祈りのうちにすごすようにしなければなりません。
この奉献は、少なくとも、毎年一度、同じ日に新たにしなければなりません。
第二の業は、毎年、自己奉献の記念日に、わたしたちの愛のどれいとしての、しるしとして、聖母マリアに、小さなおくりものをすることです。
それにしても、わたしたちがマリアに捧げるものが、ささやかなものであるにしても、けんそんな心と感謝をもってしなければなりません。
第三の業は、毎年、とくべつな信心をもって、お告げの祝日を行うことです。
この祝日は、この信心のおもな祝日であって、わたしたちは、わたしたちへの愛のために、マリアの中で人となられたみことばの従順を考え、それを尊敬し、これにならうことがたいせつです。
第四の業は、聖母マリアの小さなロザリオを毎日となえることにあります。この小さなロザリオとは、天にまします三回、めでたし十二回からなります。
しかし、これをとなえないと罪になると考えてはなりません。また、聖母マリアのマニフィカトを、たびたびとなえます。これは、わたしたちに伝わった聖母マリアの唯一の歌です。これをとなえるのは、神の恵みを感謝し、新しい恵みを願い求めるためです。
第五の業は、祝福された小さな”くさり”を首、あるいは腕に、あるいは足に、あるいは腰につけることです。げんみつに言えば、この業をぬかしても、この信心の本質的な部分を少しも、そこないません。
それにしても、この業を軽蔑したり、まちがっているときめつけるのも霊的損害にならないことはありません。
この外的なしるしを身につけるにあたっては、有利な理由があります。
①今まで、わたしたちを縛っていた原罪や自罪の危険なくさりから解放されます。
②イエズス・キリストがわたしたちを実際に自由なものとするために、ご受難のときに結ばれたなわと、くさりを記念する刺激となります。
③「わたしは、愛のきずなで、かれをひいた」(ホゼア11・4)と書いてあるように、愛のきずなを示していて、わたしたちが、いつも愛によって行わねばならないことを思い出させるために役立ちます。
④わたしたちが愛のどれいとして、イエズスとマリアに従属していることを思い出させるために役立ちます。じじつ、どれいは、くさりで縛られています。
イエズスとマリアの愛のどれいとして身を捧げた人は、これらの”くさり”を身につけるのを名誉と考えていたのです。かれらは、トルコ人のどれいのように、くさりを公に、ひきずって歩くのをゆるされていないのを残念に思っていました。
おお貴重なくさりよ!それは、地上のすべての王たちの黄金のくさりと真珠よりも、ずっと光栄にみちたものです。なぜならこれによって、わたしたちは、イエズス・キリストと最も聖なるおん母にむすばれ、それは、この従属関係のしるしと紋章だからです。
これらの小さなくさりは銀でないなら、鉄のものにして、らくに運べるようにしなければなりません。これらのくさりは、一生涯にわたって、決してはずさないで、裁きの日まで、身につけることができるようにしなければなりません。
最後の審判でラッパがひびきわたる時、地から出てくる骨が、まだ残っている愛のどれいの”くさり”で結ばれているとしたら、これを忠実に身につけた人は、どれほど大きな喜びと光栄と勝利をうけることでしょう。
このことを考えるだけで、これを身につけるのは、つごうが悪くても、決してそれを、はずさない大きな刺激となります。
祈り
イエズスに対する祈り
66 最愛のイエズスよ、あなたの最も聖なるおん母を、あなたのご威光のみ前にわたしの弁護者とし、わたしのこの上もない貧しさをおぎなうものとしてくださったことを心から感謝いたします。
わたしをマリアのどれい(しもべ)にするために、マリアに対する信心の恵みを感謝いたします。
ああ主よ、これほどみじめなわたしに、これほどよい母がなかったなら、かならず亡びてしまったでしょう。
そうです、マリアは、すべてのことのために、あなたのみ前でわたしに必要です。わたしがこれほどあなたをぶじょくし、毎日ぶじょくしつづけているから、あなたの正しいおんいきどうりを和らげるために、マリアは必要です。
あなたの正義による永遠の罰をさけるために、マリアは必要です。あなたをながめて、あなたと話し合い、あなたに祈りをささげて、あなたに近づいてあなたの気にいるものとなるために、マリアは必要です。
一言でいえば、いつもみ旨をはたし、すべてにおいてあなたの最大の光栄をさがすために、マリアは必要です。
ああ、あなたがわたしに示してくださったこのおんあわれみを、わたしが全世界に知らせることができましたら!
マリアのおん助けがなかったら、わたしはすでに亡びたに違いないことを、すべての人に知らせることができましたら!この大きな恵みのためにふさわしい感謝を示すことができましたら!
マリアはわたしのうちにおいでになります。おお何という宝!何という大きな慰め!
これからわたしは、全部マリアのものにならないなら、何と大きな忘恩でしょう!
わたしの最愛の救い主よ、そんなことになるより、むしろわたしは死んだほうがましです。
全部マリアのものにならないなら、わたしは死を選びます。
十字架のもとに福音史家ヨハネのように、わたしはマリアを、幾度となくわたしの宝としました。わたしは、幾度となくわが身をマリアにささげたいのです。
しかし、もし、あなたが望むまえにわたしがこの奉献をしなかったなら、ああ、わたしの愛するイエズスよ、この奉献を、お望みのままにします。
もし、わたしの魂と体のなかに、この尊い姫君にふさわしくないところがあったら、これをわたしからとり去って遠く投げすててください。なぜなら、マリアのものでなければ、あなたにもまた、ふさわしくないからです。
67 おお、聖霊よ、すべての恵みをわたしにお与えください。まことの生命の木である愛すべきマリアを、私の心に植え、養い、水を注いで、世話してください。この木が成長し、花咲き、ゆたかに実りますように。
おお、聖霊よ、マリアに対する深い信心と、熱烈な愛を注いでください。わたしが、マリアのふところにだきしめられ、そのおんあわれみに常によりすがりますように。
それはあなたが、マリアを通じてわたしのうちにイエズス・キリストを育て、“みちみちたキリストの背丈にまでいたる完全な人間をつくるためです”(エフェソ4・13)。アーメン。
マリアに対する祈り
68 めでたしマリア、あなたは、永遠のおん父の最愛の娘、神のおん子の感嘆すべきおん母、聖霊の忠実な花嫁。
めでたしマリア、わたしの愛するおん母、わたしの愛すべき先生、わたしの力づよい女王、わたしの喜び、わたしの栄光、わたしの心と、わたしの魂!
あなたは、あわれみによって、すべてわたしのものであり、わたしは、正義によって、すべてあなたのものです。でも、まだ十分にそうではありません。
それで、わたしは、自分のため、他人のために何も保留することなく、永遠のどれいとして、再びわたし自身を完全にあなたにゆだねます。
わたしの中に、まだあなたのものでないところを、ごらんになったら、どうぞそれを、ご自分のためにお取りになってください。わたしの中にある神のみ心にかなわないことをすべて亡ぼし、根こそぎにし、全滅してください。それは、神のみ心にかなったものをすべて、植え、建て、つくるためです。
あなたの信仰の光が、わたしの精神の暗闇を照らし、あなたの深いけんそんが、わたしの高慢さのかわりとなり、熱烈な観想のあなたの精神が、心を散らすわたしの想像の不注意を遠ざけますように。
たえず神を仰ぎ見ているあなたの心にならって、神のことをいつも思い出し、あなたの愛の熱烈さが、わたしの心の冷淡さと冷たさをもやしつくし、わたしの罪があなたの善徳にかわり、あなたの功徳が、わたしの飾りとなって、神のみ前で、わたしのたりないところを補いますように。
最後に、わたしの最も愛すべき、やさしい母よ、できるなら、わたしに、あなたの精神をもたせてください。こうして、イエズス・キリストを知り、そのために、あなたのように清い熱烈な愛をもって神を愛するあなたの魂、あなたの心をお与えください。
69 わたしは、まぼろしも、示しも、楽しみも、慰めも、霊的慰めまでも願いません。
暗闇なしに明らかに見ること、にがみなしに完全に楽しむこと、どんなはずかしめもなくおん子の右に光栄のうちに、勝利を得ること、絶対的な権利をもって、そのうえ、誰にも妨げられないで、天使たちと人間と悪魔に命令をくだすこと、何も保留されることなく、神のすべての宝を自由自在にすることは、あなたの特権です。
これこそ、あなたに与えられ、あなたから決して取りさられることのない、あなたのよりすぐれた特長です。それは、わたしにとって最大の喜びになります。
地上における、わたしの遺産として、あなたが経験なさったこと以外に、わたしは何も望みません。
すなわち、何も見ないで、何も味わないで、無味乾燥のときにも信じること、被造物からの慰めなしに、喜んで苦しみを耐えしのぶこと、疲れることなく、たえず自分自身に死ぬこと、あなたの最も小さなしもべの一人として、どんな利益も要求しないで、死ぬときまであなたのために沢山働くこと、これが、わたしの望みです。
おんあわれみだけによりすがって、わたしが願う唯一の恵みは、一生涯のすべての日々、すべての瞬間に、わたしが、あなたに三回アーメン(承知します)と、いえることです。
あなたが地上に生きておられた時になさったすべてのことに対して、アーメン。あなたが、わたしの霊魂の中で働かれるすべてのことに対して、アーメン。わたしのうちに今も永遠にもイエズス・キリストを完全にほめたたえるために、あなた以外に、なにも望みませんように、アーメン。
むすび 命の木
すなわち、マリアが、わたしたちのうちに生き、支配して頂くための方法。
イエズスのおん血によってあがなわれた霊魂よ、わたしが、今までいったことを聖霊にみちびかれて理解したでしょう。そのことを神に感謝してください。このことは世間のわずかの人だけが知っている秘密です。
もし、あなたは、マリアの畑に、福音書がいっているように、かくれた宝、貴重な真珠をみつけたなら、それを買うために、すべてを売ってください。
神だけをみいだすために、自分自身を完全にマリアにまかせ、喜んで自分を放棄してください。
わたしが説明してきた信心は、命のまことの木にあたります。聖霊が、あなたの心に、これをお植えになったのなら、あなたは全力をつくして、これを養い、適当なときになったら、みのらせるようにしなければなりません。
この信心は、福音書にある“からしだね”のようなものです。それは、種の中で、いちばん小さいものであるにしても、非常に大きく成長して、空の鳥、すなわち選ばれた人々が、その枝の中に巣をつくり、酷暑のときに、そこで休み、野獣から守られます。
では、ここで、この木を養う方法を教えましょう。
①この木がひとたび信者の心の中に植えられたなら、人間からの、なんの支えもなしに、自由に風にあたりたいのです。
この木は神から植えられたものであるからこそ神に向かって枝をのばします。このためにどんな被造物の助けも必要としません。かえって、被造物の助けは、自由に伸びるのを妨げる危険さえあります。また、自分の自然的な“たまもの”や、人間の賛成や助けによって命の木を支えることも可能です。
それで、ひたすらマリアにだけよりすがって、そのおん助けだけを、支えとしなければなりません。
②この命の木を植えられた霊魂は、よい庭師となって、常にこれを守り世話してあげねばなりません。なぜなら、この木は生きていて、命の実を結ばねばならないからです。それで、たえず注意して、これを養い成長させねばなりません。
ほんとうに完全になりたいと望む霊魂の世話は、次のようにします。すなわち、たびたびその目標について考え、それだけを自分の大切な仕事にすることです。
そしてまた、“いばら”と“あざみ”を根こそぎにしなければなりません。もしこれを怠ったら、この木を窒息させて、みのりを妨げることになるのです。
具体的にいえば、犠牲心と自己放棄によって、無益な楽しみと、空しい世間的な用件を砕いたり、刈り込んだりするように、いつも注意しなければならないのです。
あからさまにいうなら、毎日の十字架でもって肉欲をおさえ、専心、五感をつつしむようにしなければならないのです。
③昆虫と、寄生虫が命の木に損害を加えないように、気をつけなければなりません。
みどりの葉を食いつくし、みのりの美しい希望を破壊する寄生虫は、自己愛と、ぜいたくな生活に対する執着です。
なぜなら、自己愛と、聖母への愛は決して、あいいれることは出来ないからです。
④野獣が近づくのも妨げねばなりません。野獣とは、大罪のことです。大罪を犯してしまったら、命の木を死なせる結果になります。
小罪さえも、この木にふれてはなりません。もし意識して犯した場合は、小罪でも大きな危険になります。
⑤この木には、たびたび水を注がねばなりません。それは、信心業、告解、聖体拝領、個人的、あるいは共同体でする他の信心業を熱心にすることです。そうしないなら、木は実をつけることができません。
⑥風がこの木をゆさぶったり、動かしたりしても心配してはなりません。なぜなら、いざないの風がその木を倒したり、霧と寒さが、この木を襲うのは、やむをえないことだからです。
つまり、マリアに対するこの信心は、攻撃されたり反対されたりすることはさけられないことです。それにしても、忍耐してこの木を守るなら、何も心配することはありません。
あなたの中に、植えられた命の木を聖霊によって、今いったようにして養うなら、間もなく、それは、高く成長して、空の鳥さえもそこに住むようになるでしょう。
この木は、こうして立派な成長をとげて、適当なときに、きっと恵みの実をむすぶでしょう。その実とは、マリアのただ一つの実、愛すべきイエズスです。
マリアという命の木を植えていただいた霊魂は、幸せです。その木が成長して花を咲かせることになれば、その霊魂はもっと幸せです。
でも、この実を味わい、その時まで、そして、永遠にいたるまで、この木を保存する霊魂は、なおさらにすぐれた程度に幸せです。アーメン。
「この教えをもっている人は、忠実にそれを守りますように」。
おわり。
どれいのように完全に自分を与え、マリアを通じてイエズスにあたえることです。