聖マリアの秘密(1)

短くまとめています。

全文は、こちらから

■目次

第一部 聖母マリアを通じて聖徳を目指す義務について

第一章 私たちすべては、聖徳を得るよう招かれています


「私たちの魂は、

  • 神にかたどって造られた
  • イエズス・キリストの尊いおん血によって、あがなわれた

ものです。」

神は、

  • 私たちが、地上においては神の聖徳にならう
  • 私たちが、天国においては神の栄光にあずかる

ように望んでおられます。



私たちは、生涯、どんなときにも、聖徳を得るように招かれています。

なぜならば、

私たちは、聖徳によって

  • 創り主に似たものとな
  • 神の命にあずかることができる

からです。」


「この聖徳を得るための手段は、福音書に書かれているもので、

  • 心のけんそん
  • たえざる祈り
  • すべてにおいて自分をささげること
  • 神のみ摂理にわが身をゆだねること
  • 神のみ旨に一致すること

です。」

しかし、聖徳は人間の力だけでは絶対に得られないものです。

神の恵みなくしては、誰も聖徳を得ることができません。



この恵みは、その程度の差こそあれ、すべての人に与えられています。

程度の差があるというのは、神は、限りなく善い方であります。そして、すべての人に十分な程度の恵みをお与えになるにしても、みんなに区別なしに、同じ程度の恵みをお与えになりません。

大きな恵みをうけた人は、すぐれた行為をすることができますが、少ない恵みを受けた人は、限られた程度の行いしかすることができません。

わたしの行いに、ねうちを与えるのは、神から与えられた恵みです。

これに人間が協力しなければならないのです。これこそ誰も反対できない原則です。

第二章 救いの歴史におけるマリアの役わり


聖人となるための必要な恵みを頂くために、やさしい方法を見つけることはたいせつです。

まず、神の恵みをみつけるためには、マリアをみつけなければなりません。


第一節 神の恩恵を見つけるためにマリアを見つけなければいけない⑩の理由

理由①マリアだけが、ご自分のためと、人間の全ての人のために、神のみ恵みを得たからです

太祖たちが、どれほど、嘆願の吐息をついても、旧約の預言者や聖人たちが、四千年という長い間、どんなに祈願をこめても、

神のみ前に恵みを得て、イエズス・キリストを受けるにふさわしいとされたのは、ただ、マリアひとりであった。

この世は、直接、神のみ手から、御子を受ける値打ちのないものであった。

神は、マリアに御子を宿らせ、マリアから、この世は、御子を受けました。


理由②マリアは、すべての恵みの与え主であるイエズスに、肉体と命を与えられたからです

そのために、わたしたちは、聖マリアのことを恵みのおん母と呼びます。

理由③父である神は、マリアに、おん子を与えることをもって、すべての恵みもお与えになったからです


マリアは、イエズスにおいて、そして、イエズスと共に、神のみ旨さえもまかせられたのです。

理由④すべての神の恩恵は、マリアのみ手を通して与えられるからです


神は、マリアをその恵みの宝倉の責任者、すなわち、すべての恵みを管理し、分配するものとして選んでくださいました。

このために、すべての神の恩恵は、マリアのみ手を通して与えられます。

マリアは、天のおん父の恵みと、イエズス・キリストの功徳と聖霊のたまものを、ご自分が望む人に、お望みのままに、お望みの時に、お望みになるはかりに従って分配することができます。



理由⑤私たちは、霊的世界においても、霊的父、霊的母が必要だからです

自然の段階では、子どもに父と母が必要でありますが、同様に、超自然界の段階においても、教会のまことの子どもにそれが必要です。

すなわち、神を父に、マリアを母に持たねばならないのです。

神を父として持っていると誇りながらも、マリアに対する本当の孝心に欠けているなら、その人は悪魔を父としている、うそつきになります。

理由⑥マリアは、私たちの頭であるイエズスをお生みになったからです

マリアは、選ばれた人たちのかしらである、イエズス・キリストの母となられたように、

この頭イエズスの肢体である私たちも、キリストの母から生まれないといけません。

どんな母も、体のない頭は生まないし、頭のない体も生まれないのです。

従って、イエズス・キリストの「恵みと真理にみちた」肢体となりたい人は、

イエズスの恵みを通して、マリアから形づくられねばなりません。

この恵みをマリアが完全な程度にもっておられる理由は、すなわち、イエズス・キリストの肢体であり、マリアの本当の子どもである人々にそれを分け与えるためです。

理由⑦聖霊は、マリアのうちに、マリアを通じて、キリスト者を生むからです。


聖霊は、マリアをご自分の花嫁として選びマリアのうちに、マリアを通して、マリアから、その傑作である人となられたみ言葉イエズスを、この世にもたらしました。

聖霊がマリアから決して離別しなかったので、今でも、同じようになさいます

すなわち、毎日マリアのうちに、マリアを通じて、キリスト者を生みます。それは、不思議な、しかも本当の方法によってであります。




理由⑧神は、マリアに、その子である霊魂を養い、神のいのちに成長させる特別な能力をお与えになったからです

聖アウグスティヌスによれば、

わたしたちは地上にいるあいだ、マリアのご胎内に、霊的にとじこめられています。

マリアが永遠のいのちのためにお生みになる時に、はじめて光を見るようになります。

母の胎内にいる子が母を通じて生きているように、神の子どもたちも、霊的かてと、その力のすべて、マリアから受けています。

理由⑨御父である神は、マリアに、選ばれた人々の中に住まいを定めるようにと命じられているからです

また、同じように

おん子も、マリアに、ご自身が選んだ人々を、ご自身の遺産として受けるように命じています。

聖霊もまた、マリアに向かって、聖霊が選んだ所有地に住めと、命じられています。

したがって、神のみ心にかなった選ばれた人々は、

マリアを自分の住まい、すなわち、自分の魂の中に歓迎し、マリアがその中で深いけんそん、熱烈な愛徳、およびすべての善徳の根をおろすように、まかせなければなりません。

理由⑩私たちは、「神の完全な鋳型」であるマリアに捧げることで、簡単に、完全に、神の似姿になれるからです

なぜなら、マリアのうちにだけ、神であるイエズスが、人間に形づくられ、神としての特長を、そのまま保ちながら、人間となられたからです。

同じように、マリアにおいてのみ、人間は、実際に神性にあずかることができます。もちろん、人性がイエズス・キリストの恵みによって可能な程度にです。

彫刻家は、立像をつくるために、二つの方法を使うことができます。一つは、形のない固い材料に、のみ、または、他の適当な道具を用いてする方法で、もう一つは、鋳型をもってする方法です。

第一の方法より、第二の方法が、早くでき、簡単で、むずかしくもありません。

「それは、もちろん、

  • 鋳型が完全であり、作ろうと思っている像を忠実にあらわし、
  • 使う材料が適正であって、やわらかい

という条件のもとにです。」

イエズス・キリストの完全な鋳型は、マリアです。

マリアであるこの鋳型には、神の特長が一つも不足することがありません。

従ってこの鋳型に入り、形づくられるままに、まかせる人は、イエズスと霊的に似姿となれます。

これは、たいした苦労も、悩みもなく、また、だまされる心配のない安全な方法です。

なぜなら、

  • 悪魔は、マリアがおられるところに、入ることもできないからです。
  • マリアは、無原罪のお方で、どんな小さな罪の汚れもないお方だからです。

第二節 マリアは、神の天国であり、言い尽くし難い神の住まいである

「神は、

  • 私たち人間のために、この世界を創られました。
  • 光栄を受ける人間のために、天国をお創りになりました。
  • 神ご自身のために、もう一つの世界を創って、それを、マリアと名づけました。

このマリアという世界は、地上にある、ほとんどすべての人間に知られていない世界です。

かぎりなく偉大な神は、きわめて親密に、その世界(マリア)の中にかくれておられます。

マリアのうちには、かぎりなく聖であり、いいつくせない神だけがあります。

神は、無限にあわれみ深いお方です。神は、どこにでも、おいでになります。地獄にさえもおいでになります。しかし、

神は、マリアにおいてだけ、わたしたちにとって最も近くにおられます。

第三節 マリアと一致すればするほど、神と一致するようになります

あるいつわりの神学者はこう考えます。すなわち、マリアはたんなる被造物でしかないから、わたしたちにとって、神との一致のさまたげになる、と。

しかし、誰もこのようなことを考えてはなりません。

マリアは、かの女自身が生きるのではなく、神だけが、マリアのうちに生きておられるのです(ガラツィア2・20参照)。

天が地よりも、すぐれているように、聖マリアの聖徳は、聖パウロよりも、また他の聖人たちよりもすぐれてり、完全に神に開かれています。

マリアは、ただ神のためだけ生きており、マリアをさがす人々の霊魂を自分の中にとどめないで、その人たちを神にみちびきます。

それで、人の霊魂が、マリアと一致すればするほど、神と一致するようになります。

第四節 私たちがマリアを賛美すれば、神を賛美することになります

聖母マリアは、神の感嘆すべき山彦です。わたしたちが、かの女に向かって「マリア」と叫ぶとき、マリアは「神」と答えます。

また、わたしたちが、聖女エリザベットと共に、マリアに、「幸いなるお方」とあいさつをするとき、マリアは、神をほめたたえます。

マリアの行いは、今も、その時と同じである。

マリアが称賛され、愛され、尊ばれ、何か捧げものを受けるなら、つまり神が称賛され、愛され、尊ばれ、捧げものを受けられるのである。

第五節 マリアの道は、迷うことのない、安易な道である

あるいつわりの教師たちは、祈りの時にさえ、悪魔とそのまどわしによって、だまされたのですが、

もし、マリアを探しもとめていたなら、まちがわなかったでしょう。

なぜなら、かれらが、マリアを通じて、イエズスを、それから、イエズスを通じて神であるおん父をみつけたはずだからです。

マリアを通じてイエズスを、それから、イエズスを通じて父である神をみつけたなら、すべての善をみつけたことになります。

すべての善というとき、そこには、すべてが含まれているのです。

すなわち、神のすべての恵みと友情、神の敵から守られていること、いつわりではなく真理を、救いの道での困難に容易にうち勝つこと、生活のにがみの中で、喜びと甘美さです。

といっても、マリアに対するまことの信心があるからといって、十字架と苦しみをまぬがれることにはなりません。

この信心をする人は、他の人よりもかえって、十字架と苦しみが多いことがありえます。

生きる人の母であるマリアは、その子らに、イエズスの十字架の断片をお与えになります。

しかし、マリアはこれらの十字架を与えると同時に、これを耐えしのび、また喜びをもってさえ、十字架をになう恵みもお与えになります。

それで、マリアの子らに与える十字架は、苦いというより、かえって甘美なものさえなります。

もし、神の友人たちがどうしても飲まねばならない杯のにがみを、しばらくの間感じなければならないにしても、

この善い母が、悲しみの次に与える慰めとよろこびは、他の、もっと重くて、にがい十字架をになうための力と勇気になります。


第三章 この信心の本質は、すべてをマリアを通して、神にささげることである

神は、すべてのものの絶対的な主でありますから、お望みの時に、ふつうには、マリアを通じてだけお与えになる恵みを、直接、ご自身で与えることもおできになります。実際にある場合には、そうしておられるのは否むことができません。しかし、

神は恵みの世界において、マリアを通じてだけ、人間に恵みをお与えになるのが普通の道です。

それで、人が、神のところまで高められ、神と一致するために、神ご自身、人間となって、その恵みを与えようとして、わたしたちのところにくだるために同じ方法をお使いになるのは当然のことです。

「恵みがくだった同じ運河を通して、そのつくり主に帰るのは、何よりも正しいことである」(聖ベルナルド)

自分の全てと、自分が所有する全てを、聖なるマリアに奉献する。

それは、マリアの仲介によって私たちの感謝と栄光とを、主がお受けになるためである。

この方法こそ、聖マリアへのまことの信心なのです。