聖母マリアへのまことの信心 5章完全な奉献の理由

短くまとめています。

理由①マリアの御手を通して、イエズスに、すべてをささげることのすぐれた点


「この信心業は、他の信心業と比べ

  1. 外部的な地上の善だけではなく、内部的な霊的な財産をも、すべてささげる
  2. 私たちの善業にひそむある種の執着を、容易に取り除く

という点がすぐれている。」

理由②この奉献は、正しいことであり、益あることである 


マリアに従うことは、主イエズスの模範に従うことである

  1. イエズスは、そうお出来になられたのに、直接ご自身お一人で人間の中に下ろうとはなさらなかった。聖なるおとめの肉体を通してこの世にお下りになった。
  2. イエズスは、誰にも服従しないでもよい年齢のときに、この世に下るのをお望みにならず、おん母の養育と世話のもとに服従する小さな貧しい子として来られた。
  3. イエズスは、おん父である神に栄光を帰し、全人類を救うという大事業を果たすために、もっとも完全な、もっとも手早い手段として、聖なるおん母に、30年間、完全に服従された。
  4. イエズスは、聖母に服従した30年間に、奇跡を行いつつ、全世界に宣教し、全人類を改心させること以上の栄光を、おん父である神に帰すことができた。

これらの模範に従うのである。


聖三位一体は、マリアを介して、私たちに恩恵をお与えになる

  1. おん父である神は、マリアによって、ご自分のおん子を人類に与え、また、与え続けられる。そしてマリアによって、神の子たちをつくり、ご自分の賜物をお与えになる。
  2. おん子である神は、マリアによって、全世界のためにつくられ、しかも聖霊との一致において、今も日々つくられ、生まれている。
  3. 聖霊である神は、マリアによって、イエズス・キリストをお生みになり、マリアによって神秘体の肢体をつくり、マリアによって賜物と恵みとを分配される。

聖なる三位一体のこの模範を見るならば、

マリアを通さないで神に至り、マリアに服従しないで神に奉仕しようと思うほど盲目なことはあるだろうか?

この信心業では、自分の全てと、自分が所有する全てを、聖なるマリアに奉献する。

それは、マリアの仲介によって、私たちの感謝と栄光とを、主がお受けになるためである。

人間は、直接、無限の神に近づける値打ちがない。だから、聖母のおん取り次ぎを願うのである。

理由③完全な奉献の感嘆すべき効果 


マリアは、あらゆるものを捨ててマリアに奉仕する人に対して、マリアもまた、すべてをこの人に与えられる。

「マリアは、この人を

  • 恩恵で包み、ご自分の功徳で飾る
  • ご自分の力で支える
  • ご自分の光で照らす
  • ご自分の愛で燃やす
  • ご自分の徳、謙遜、信仰、純潔を分配する

そして、イエズスのみ前で、その人のイエズスのみ前に、保証人、補う者となられる。」

マリアに完全な奉献を行うことで、マリアの完全なしもべとなり、子となったものは、

福音史家ヨハネと共に、「マリアを自分の財産のうちに引き取った」と言うことが出来る。 



この人が、もし忠実であるなら、自分自身を大いに軽蔑し、そして、よき女主人に対して、大いに信用と委ねとを持つようになるだろう。

今までは、自分の資格、意志、功徳、善徳、善業などに信頼を置いていたのであるが、それらを皆、このよい母によって、イエズス・キリストに捧げるのである。

したがって、この人の手中にあるのは、マリアだけである。

こうなると、この人は、小心な恐怖を忘れて、主に近づき、大きな信頼をもって、祈ることができるようになる。

 マリアは、私たちの善業を清め、飾り、おん子に受け入れられるものとしてくださる 

この信心業によって、私たちのすべての善業を、聖母にささげるとき、

「聖母は、私たちのささげた善業を

  1. その善業の中にさえある自愛心と執着とを、浄めてくださる。
  2. ご自分の功徳で美しく飾ってくださる。
  3. ご自分に贈られたものを、すべて、イエズスに渡される。

このようにして、主におささげくださる。」


3について

その昔、聖母が、聖女エリザベットから称賛されたとき、その称賛をご自身には何も残さず、神にその称賛をおささげになった。「私の魂は主をあがめる」(ルカ1・46)。

それと同じように、

マリアが称賛されるなら、すぐマリアは、ご自身には何も残さず、イエズスを称賛される。

 イエズスは、聖母み手を通った贈り物は、どんなに小さな貧しいものであっても、かならず受け入れてくださる。 

もし私たちが、善業を、直接、イエズス・キリストに捧げたとしても、

その善業に、自愛心の汚れがあれば、拒否される場合が時々ある。

しかし、聖母の汚れないおとめのみ手を通して捧げれば、

捧げ物そのものよりも、それを持ってくるおん母をかえりみ、

おん母のみ手を通して運ばれた物であるということによって、それを拒否なさらない。 


理由④この信心は、神にもっとも大いなる栄光を帰すものである


聖母は、神の最大の光栄が、どこにあるかを、よく知っておられる。

ある人が、自分の善業、功徳を、聖母にささげるならば、

聖母は、そのささげられたものを、神の最大の光栄にために、お使いになる。

このおん母に、自分自身のすべてを捧げたしもべは、自分の行い、考え、言葉が、すべて神の栄光のために最大限に使用されていると、大胆にも言い切ることができる。

理由⑤この信心は、神との一致に導くものである

容易な道である

イエズスに至る道はたくさんあるが、そこには多くの十字架、困難がある。

マリアの道は、もっと安易な安心な道である。

マリアの道にも、戦いと困難とがあるが、

「聖母が、彼らの

  • 疑いを晴らす
  • 闇を照らす
  • 恐怖を消す
  • 戦いを助ける

これらのために、その道におられる。

したがって、他の道と比べるなら、バラと蜜の道、と呼んでもよい。」

聖母への信心が、イエズス・キリストに至るための容易な道であるが、

聖母の忠実なしもべは、たくさん苦しむ。

他の人であったら、何度も足を止め、あるいは倒れる場合でも、このしもべたちは、そうではない。

「なぜなら、このよいおん母が、

彼らの担う十字架を、母のようなやさしい純粋な砂糖の上に立てるからである。

したがって、彼らは、

その十字架を、にがい苦しみと思わず、砂糖菓子のように喜んで食べる。

マリアの弟子たちは、砂糖菓子にたとえられる十字架を担うことで、最後まで忍耐することができるのである。

手早い道である 

マリアへ道を通るならば、他の道を通るよりも何倍も早く、目的地に達することができる。

なぜならば、マリアに従順なものは、どんな敵にでも打ち勝つことができるからである。

マリアの支えと助けと導きに頼れば、

  • 彼は倒れることなく、
  • 退却することなく、
  • 遅れることもなく、
  • 巨人の歩みをもって、

イエズス・キリストに近づいて行くことができる。」

完全な道である 

この信心は、イエズス・キリストと一致するための完全な道である。

「マリアは、全被造物の中で、

  • もっとも完全な、
  • もっとも聖なる

ものである。」

「イエズス・キリストは

  • ただ、マリアの道を通って、私たちの中においでになった
  • マリアの道を通るとき、その神性と聖性の何ものも失うことはなかった

のである。」

したがって、小さい私たちも、マリアを通して、何の恐れることもなく、いと高き者に、完全に届くことができる。


無限に大きいイエズスは、なにもを失うことなく、小さいマリアにお宿りになった。

それによって、私たちの人生に近寄り、一致なさった。

そして、無限に小さい私たちを無限に大きい神に一致させようとして、

イエズスは、完全に、ご自身を乙女マリアに与えられ、服従なさった。

したがって、私たちも、自分を無とし、マリアに、完全に自分を与えることによって、

マリアを通じて、恵みと栄光とを受け、神に似たものとなることができるのである。


安全な道である 

聖母へのこの信心は、イエズス・キリストに至り、「イエズス」と一致するための、もっとも安全な道である。

聖母の務めは、私たちを安全に、イエズス・キリストに導くことにあり、

イエズス・キリストの務めは、私たちを確実に、おん父に導くことにある。

イエズス・キリストは、つねに聖母マリアと共におられる。

それで、完徳を目指す霊魂にとって、マリアが妨げになるどころか、マリアほど、私たちの力となり、支え手となるものはない。

そして、マリアは、ご自分が分配する恵みによって、人間と神との一致を助ける。

神で心を満たされるのは、マリアによってであり、マリアによって、悪魔の迷いから守られる。

「一人ですべての異端を亡ぼした」のはマリアだけである。

したがって、マリアの忠実な信心家は、異端に走ったり、意識的に迷いに落ち込むことは、絶対にない。 

この人は、虚偽と真理とを、悪霊と善とを区別することができる。

万が一、迷いに落ちることがあるとしても、遅かれ早かれ、その過ちを悟り、そして、頑固に迷いに踏み止まることはしないだろう。

この道は、主イエズス・キリストが開拓なさった道である。

肢体である人間は、この道を通れば間違うことがない。

理由⑥この信心は内的自由を与える 

この信心を忠実に実行する人とは、内的な自由、「神の子らの自由」を与えられる。

この信心によって、イエズス・キリストの奴隷として自分自身を捧げれば

イエズス・キリストはまた、その愛の奴隷に、次のように報われるであろう。 

1、霊魂をせばめ、迷わし、混迷させる奴隷的恐怖心をぬぎとらせる。 

2、まかせきった心で神に頼り、心を広め、神を父と仰がせる。 

3、神への孝心に満ちた愛を注がれる。 



理由⑦この信心は、隣人にすぐれた善を与える

この信心を行う人は、隣人に対して、すぐれた愛徳を行うことができる。

この信心を行う人は、マリアを通して、私たちの善業の、償いの価値と取り次ぐ価値を与える。

私たちのすべての善業は、聖母の思し召しにしたがって、罪人の改心のためとか、煉獄の霊魂の救いのためにとかに使用される。

これは大きな愛徳の業である。

私たちの善業が、マリアのみ手を通れば、その清さを増すばかりでなく、功徳と、償いの価値と取り次ぐ価値も増す。

したがって、私たちの善業は、マリアのみ手を通ることによって、

罪人を改心させ、煉獄を救うために、よりいっそう強力なものとなる。

また、自分を捨て、没我的な愛徳によって行った業は、どんなに小さくとも、

マリアのみ手を通すことによって、神の怒りをなだめ、そのあわれみを招くための実に強力な手段となる。


理由⑧この信心は、善の道を続けさせる感嘆すべき手段である 

この信心は、人々を善の道に勧め、忠実にそれを行い続けるための非常にすぐれた手段である。

多くの人が、改心が長続きしないで、再びたやすく罪におちいる理由は、

人間は全く腐敗した、弱い、根気のないものであるのに、自分自身に信頼しすぎて、自分で恵みや功徳を守ることができると考えるからである。

この信心を行う人は忠実な聖なるおん母に、自分が持っているものを全部ゆだねる。つまり、

聖母は、その人の、自然的な、超自然的なすべての善を委任された人となる。

その人は、聖母の真実を信じ、力に依り頼み、あわれみと愛とに自分をまかせるわけである。

いくら、悪魔や世間がそれを奪い取ろうとしても、

聖母は、任せられたその人の徳や功徳を守り、そして増やされるであろう。

あなたの愛徳を、清さを、天の恩恵を、功徳と徳を、不完全で、汚れた、あなたという器に入れるな。

もしそうすれば、昼夜となく隙間をうかがっている盗人の悪魔に盗まれてしまうだろう。

また、自愛心やうぬぼれなどの悪臭によって、せっかく神からいただいた罪も清いものが汚れてしまうだろう。

あなたたちのすべての宝、すべての恵みを、マリアのふところに納めよ。

「神のおん母よ、あなたに希望して、私は救われるでしょう。あなたの保護があれば、私は恐れないでしょう。あなたの助けがあれば、私は敵を敗走させるでしょう。なぜなら、あなたへの信心は、神が救おうと望んでおられる人々に神が与えられる武器だからです」

ダマスコの聖ヨハネ