引用で出典が記されていないところは、イエズスのコンソラータへの聖言葉
■目次
- イエズスから目を離さない
- イエズスのことだけを考える
- 無益な考えを退ける
- 無益な考えを退けることは、激しい戦いになる
- 無益な考えを退けるという激戦は、イエズスに光栄をもたらし、多くの霊魂を救うことができる
- 無益な話をひかえる
- 他人の事柄に対する興味を退ける
- 愛こそすべてである
- イエズスを愛するなら、すべてをささげることになる
- すべてのことを多くの愛をもって行う
- イエズスは、私たちの行いの成否よりも、その行いに添えられた愛を見られる
- すべてを尽くして、イエズスを愛する霊魂は、イエズスからすべてを受ける
- 愛によって、罪を償う
- 神を愛すれば、愛するほど、その人の欠点は改善する
- イエズスへの愛のみが、戦いの勝利へ、あらゆる成聖の極致へ導く
- イエズスを愛すれば愛するほど幸福になる
- 愛は、霊魂を、イエズスの御苦しみへと導く
- 愛によってのみ、苦しみを深い喜びに変えることができる
- 神を愛することで、深い、動かしがたい霊魂の平安を得ることができる
イエズスから目を離さない
「たとえどんな理由があっても、私から目を離さないようにしなさい。そうすれば、永遠の岸にもっと早く着くだろう!」
「私はあなたに何を望んでいるか? それはほんの一瞬間も気をそらすことのない、絶え間なき一致です。人と会話しないといけない時でも、いつも私と一致していなさい。」
イエズスのこの命令に、コンソラータは、共同生活において、いかなる時でも、イエズスから心を離さないように努めた。
イエズスのことだけを考える
「私の心は、あなたの愛とともにあなたのあらゆる考えを渇望している。……私はあなたのすべて、最も小さいことまでよくしてあげるから、あなたの考えを全部私に向けなさい。」
イエズスのコンソラータへの聖言葉
無益な考えを退ける
「あなたはただ私のことだけを考えていなければならない! 他のことを考えれば、私の頭を刺す茨のとげのように私を苦しめるだろう!」
イエズスを愛することを妨げる無益な考えは、イエズスとの一致を妨げる。
そして、この無益な考えを退けないならば、イエズスの御頭に茨のとげをさし、苦しめることになる。
無益な考えを退けることは、激しい戦いになる
イエズスの御頭に茨のとげを刺し込みたくないと望めば、そのとげは霊魂自身を刺し、苦しめる。
なぜなら、あらゆる無益な考えを退けることは猛烈な心戦を要するからである。
「頭に茨の冠をかぶらせられた瞬間から、私はもう二度とそれを脱ごうとしなかった。あなたも私と同じようにしなければならない。あなたの唯一の考えは、イエズスを愛することでなければならない。どんな時、茨の冠を脱いでしまうかわかりますか? それは無益な考えを自由に霊魂に入れて、外へ追い出さない時です!」
すべての無益な考えを退けることは非常に難しい。
この戦いは、賢明な方法(愛の絶え間ない祈り)を用いて、落ち着いて、根気強く、常に、臨終まで続けねばならない。
純粋な精神はこの世のものではないので、無益な考えはいつでも浮かぶ。しかし、望まないのに不意に入り込む無益な考えは不忠実の印にはならない。
無益な考えを退けるという激戦は、イエズスに光栄をもたらし、多くの霊魂を救うことができる
「私はあなたを苦しめるこの激戦を取り除かない。この戦いは私に光栄をもたらし、多くの霊魂をかち得させるから。朝から晩まで霊魂にはいりこんで、愛を妨げる無益な考えが、入り込もうとするたびごとに、『あなたと多くの霊魂のために!』と祈って、ささげなさい。そうすればその考えを、多くの霊魂への恵みと祝福に変えよう。」
無益な話をひかえる
必要、義務、隣人愛、礼儀作法によって、どうしても話さねばならない場合以外の話は、時間の損失となる。
あらゆる無益な言葉は、常に考えを散らし、イエズスとの一致を破る。
沈黙を愛すること。
他人の事柄に対する興味を退ける
考えと言葉を抑制できない原因は、他人に対する興味から離脱していないことである。
「コンソラータ、私への愛を妨げるものはなんだろうか?それは無益な考えと、他人の事柄に対する興味です」
他人の事柄に対する不健全な興味をすべて退け、イエズスを愛することだけに集中する。
*これはお互いに全然かまわず助け合わないという意味でなく、まず第一に、神に対する完全な愛の道を歩まなければならないという意味である。
すべてのこと、すべての人を忘れ、ただイエズスをもっと愛することだけを考える。
『コンソラータ、あなたがじっと空を見上げて黙想する時、目を隣の家の窓に転じれば、目の窓から、死が心にはいるだろう。同じように、あなたが私を愛する代わりに目を他人のすることに向ければ、死刑になります!』
愛こそすべてである
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ私が、預言する力を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。
1コリント13・1~3
あらゆるよいわざ──学問、信仰、施し、犠牲、殉教すらも、愛がなくては、無価値で、無に等しい。
つまり、ただ愛のみが重要で、すべてである。
イエズスを愛するなら、すべてをささげることになる
「私を愛しなさい。コンソラータ、私だけを愛しなさい! 愛はすべてだから、私を愛すれば、あなたは私にすべてを与えるのだ。」
「あなたが私を愛する時、私がその被造物から望むすべてをささげているのだ──愛を!」
「愛はすべてである! もしあなたがこの決心にだけ集中すれば、あなたは私にすべてを与えるのだ!」
すべてのことを多くの愛をもって行う
ある日コンソラータは黙想の時、聞いたことばに深く感動し、イエズスに尋ねた。「イエズスよ、もしある人が仕事に不熱心な時、非難されるなら、熱心に励んだなら祝福されるはずでしょうか。」
イエズスはお答えになります。「熱心に励むよりも、多くの愛をもってするように努力しなさい。あなたは働くにも、食べるにも、飲み、眠るにも、すべてのことを多くの愛をもってやりなさい。私は愛にかわいている。愛こそあらゆる仕事の中に私が求めているものである。」
「いや、コンソラータ、違う!私はあなたに大きなわざではなく、小さなわざを求めているのだ。でもその小さなわざを愛のかぎりを尽くしてささげなさい!」
イエズスは、私たちの行いの成否よりも、その行いに添えられた愛を見られる
ある朝、コンソラータは聖母マリアのために、花束を作っていた。だがその花束はかなりしおれていたので、嘆いていたら、優雅なお声がした。聖母はお答えになります。
「常に美しい徳の花を神にささげられるとはかぎりません。でもその花に愛をそえることならいつもできます。……イエズスは花をながめず、それにそえられた愛をごらんになります。」
すべてを尽くして、イエズスを愛する霊魂は、イエズスからすべてを受ける
愛の祈りをとなえる霊魂に、イエズスは引き寄せられる。
イエズスは、その霊魂に、ご自身の善徳をお与えになる。
霊魂が、愛の祈りを、純粋な愛で、絶え間なくとなえれば、となえるほど、イエズスはご自身の多くの善徳を、その霊魂にお与えになる。
霊魂が、愛の祈りのうちに、イエズス内に常に住み、イエズスとの一致に至るまでになると、イエズスご自身の善徳が、その霊魂のものとなる。
「もしあなたが私のうちにあり、私たちが一致してひとつのものであれば、あなたは善い実をたくさん結び、強くなるだろう。…私の謙遜、清さ、慈愛、寛容、忍耐、苦しみへのかわき、どんな犠牲を払っても救いたいと望む救霊への熱心も、あなたのものになるだろう」。
いろいろな善業のわざによって完全な愛に到達するのではなく、愛によって善徳のわざを行うことができるようになる。
「私はぶどうの木で、あなたたちは枝である。私がその人の内にいるように、私にとどまる人は多くの実を結ぶ。私がいないとあなたたちには何一つできないからである」。
ヨハネ15・5
「豊かな実を結びたいと熱望するなら次のことをよく覚えておきなさい。聖福音のなかで私は『もしあなたが特別の苦業をすれば多くの実を結ぶだろう。』とは言わず、『もしあなたがわたしのうちにとどまるならば、多くの実を結ぶだろう。』と言っている。だからぶどうの木である私としっかり一致して離れないようにあらゆる努力をしなさい。ただひとつの考え、無益なことばで、『イエズスのみ!』という考えから離れてはならない。私があらゆることを考えてあげよう!」
愛によって、罪を償う
自分の犯した罪の償いがしたいなら、イエズスを愛し、愛によって償うこと。
「あなたは罪の償いがしたいなら、私を愛しなさい! 愛によって償いなさい!」
他人の罪も愛によって償うことができる。
「愛によって、最もひどい汚聖の罪も償うことができる。愛によって、苦しみ、自分をささげ犠牲を果たすことができる! すべては愛をとおして! ただ愛をとおしてのみ!」
神を愛すれば、愛するほど、その人の欠点は改善する
その人が欠点だらけでも、神を愛するならば、欠点は愛によってゆるされ、だんだん消えてゆく。
そして神に近づき、ますます完全となる。
「コンソラータ、この小羊のように、あなたは黙想会の間、私の心に抱きしめられて私を愛し続けなさい。他のことは全部私がよくしてあげよう。あなたが愛し続けている間に、私はあなたの欠点、指導司祭が見つけた自己心、ごう慢、極端、単純さの欠如などを消してあげよう。すべて焼き尽くしてあげよう。」
イエズスへの愛のみが、戦いの勝利へ、あらゆる成聖の極致へ導く
「愛は成聖である。私を愛すれば愛するほど聖人となる!」
「愛によってのみ完徳の最高段階へ上げられることを覚えなさい!」
イエズスを愛すれば愛するほど幸福になる
イエズスを常に愛する生活を送って得られた宝を、何ものも、なんぴとも奪うことができない。
「誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう?」(ローマ8の35)との使徒のことばを自分のものにすることができる。
もし神がすべてを取っても、愛はすべてだから、すべてを有して、完全に幸福である。
私を愛しなさい。そうすればあなたは幸福になる。あなたが愛すれば愛するほどますます幸福になる! 全くの暗やみに落とされた時も、愛はすべての戦い、すべての試練において、光、力、喜びをもたらすだろう!」
「もし私の許嫁が全部私を愛すなら、まだ地上にいる間に、その心へ天国を注ぎ入れよう。天国とは私を愛することによって楽しむところだから!」
「ああ、人々がただ私を愛するなら、この不幸な世界を、至上の幸福が支配するだろうに!」
愛は、霊魂を、イエズスの御苦しみへと導く
「愛はあなたを苦しみの極致へつれて行くだろう。」
愛は、霊魂が、よく苦しむことができるように教える。
「よく苦しむためにあなたは絶え間なく愛さねばならない。熱烈に愛さねばならない!」
「愛は苦しみよりずっと偉大なものだ。あなたの愛が強まれば強まるほど苦しみは完全になる。」
愛によってのみ、苦しみを深い喜びに変えることができる
「愛をもって苦しみを受ければ、もう苦しみでなく喜びに変わる。」
これは霊魂が苦しみを感じないのでも、また完全に苦しもうとする努力を免除されるのでもない。
愛が苦しみに耐えるに必要な力を与えるのである。
霊魂は愛によって神の全能の力に参加するので、事実愛は死より強いのである。
神を愛することで、深い、動かしがたい霊魂の平安を得ることができる
不安の原因は、いつも新しい道、新しい手段、新しい信心を捜したり、達し得ない願望や種々の偏見をもつことからくる。
ただひとつの道、望み、仕事、目的、すなわち「愛」に専念することによって信心生活は全く簡単になる。
そして他のすべては愛によって自然に加えられてくる。