秋田の聖母マリア

まえがき


“秋田の聖母の出来事” は、今より十一年前、カトリック・グラフ誌の連載記事をきっかけに、週刊誌、テレビなどのマスコミに取り上げられ、日本全国に知れわたるようになりました。カトリック界の指導層は慎重を期して介入されませんでしたが、四年程前、志村辰弥師が勇断をもって「聖母像から血と涙」と題する小冊子を刊行し、ひろく頒布されました。この出版物はフランス語、ドイツ語に翻訳され、“秋田の聖母” は西欧の世界にも知られることとなりました。

一九八四年四月二十二日の復活祭を期して、所轄教区長の伊藤庄治郎司教は、教区民にたいし書簡の形式をもって “秋田の聖母の出来事” を公認し、同年十一月三日、みずから巡礼団とともに公式訪問されました。
その後は各地からの訪問者がいや増し、巡礼団を組織して来られる向きも多くなりました。

私は十二年前から実地に見聞したことを、当聖体奉仕会の会報に二年にわたって書き記してきましたが、このように熱心に関心を寄せられる方々のためにも、この記事を一本にまとめて提供したいと思いつきました。事実を明確にして、多くの方々に神の聖意を正しく把握し理解を深めていただくよすがともなれば、と願ってのことです。

現新潟教区長の佐藤敬一司教に、出版許可を申請したところ、御閲読の上快く認可を賜ったことは望外のよろこびで、読者の皆様と共に感謝申し上げたいとおもいます。

それにしても、今なお一般には根づよい疑惑や反対の声も聞かれるので、本書もマスコミによる宣伝よりも、心ある人から人へとおのずと知られてゆくことを希望しています。 筆者としては、このつたない著作によって一人でも多くの方がより豊かな霊的進歩をとげられることを、切に祈る次第であります。

一九八六年三月二十五日  神のお告げの祭日

湯沢台の聖母の丘にて
安田貞治

序章

(1)

私が “湯沢台のマリア像” のお膝もとに住むようになってから、早や十二年が過ぎ去った。
ここに来るまでのいきさつをかえりみれば、多くの遠因がみとめられるが、直接のきっかけとなったのは、旅先での天候異変という事故であった。

新潟市で催されたカトリック研修会で話すように、東京から招かれた私は、ついでに久しぶりの郷里に足をのばした。十二年前の二月のことである。ちょうど天候が不順であったが、珍しい猛吹雪のために、二日ばかり全交通機関がマヒ状態になってしまった。その間私は教会の食客となって、なす事もなく過ごしていた。そんな姿を見たある婦人から、湯沢台の姉妹たちの所にミサをたてに行ってもらえないか、と懇望された。このところずっと大雪で、山の修道院には絶えてミサがないという。ことわる理由もないので、承諾した。

その日の午後二時ごろ、近くに行くという牧場のトラックに便乗して出かけた。山に登る急な坂道は、雪も深く、最後のコーナーはブルドーザーの牽引で、ようやく這い上がることができた。はじめて見た修院は、まことに貧相そのものというたたずまいであった。その時の訪問記を、帰ってから吉祥寺教会の十二年前の会報にのせているので、そのまま引用してみよう。

「この冬、わたしはちょっとした機会に、ある貧しい人々の集まりに出会ったのです。この婦人たちは約十年前から、数人集まっては祈りをし、やがて離れた者もあったが、山の中に残って暮らす小さなグループでした。そこには司祭もおらず、いずれも貧しく、すべての財産を捨てて神に身を捧げた人たちでした。

人からは、あんな事をして何になるのか、と絶えず批判され、陰口をたたかれていたようです。そういううわさだけ聞いていれば、わたしも同じような見方をしていたかも知れません。ある人が、ある者によって軽蔑されているとすれば、それだけその人はキリストに現実的に近いものである、という逆説を、今も忘れてはなりません。神のみ前では、唾を吐きかける者と、かけられる人と、どちらが神に愛されるかは、イエズスの例を引くまでもないでしょう。

ところで、この婦人たちは、わたしに次のような事を話してくれました。“わたしたちが聖母マリアを通じて一生けんめい祈っていましたら、不思議にも、十字架を背負った木彫のマリア様の手に、赤い血と十字架の印が現れ、それが三週間以上もつづき、マリア様の苦しみが次々と示現されました” そして、そのマリア像をわたしに見てほしい、という事でした。

わたしは聖堂を訪ねて、ミサを捧げ、聖母を通じて祈りました。御手から血を流したという御像を仰いで、聖母が日本の教会のために血を流しておられる苦しみを、ひしひしと感じました。わたしは、今どんなに祈らなければならないか、と何かに胸を突き刺されたような思いで、その山を降ったのでした」

このような印象を受けて帰って来た私は、心のどこかに、マリアのみ心にふれた痛みをやどしていたようである。この出来事があって間もなく、私は吉祥寺教会の主任司祭を辞任することになり、身のおきどころを考えるようになった。すぐ思い浮かんだのは、あの血を流されたマリア像であった。あそこへ行って、まずこれから祈ることを教えて頂きたい、と何かに迫られるように、つよい望みが起こったのであった。

こうして “湯沢台のマリアさま” のもとに導かれ、今や十二年の歳月をへだててふり返ってみると、すべてに神の大いなるはからいをみとめずにいられない。 私がここに住むようになってからも、聖母像にはいろいろな変化が現れ、自然的には解明できない現象が起こった。その中で最も顕著なものは、御像の両眼からの涙の流出であり、これは今や日本全土に知れわたっている。

(2)

一九七四年三月十日、私はいよいよ湯沢台の人となった。
最初の仕事は、姉妹笹川を通じて与えられたという聖母のメッセージと、マリア像をめぐるふしぎな出来事を調べ、原稿にまとめることであった。まず姉妹笹川の当時の日記から関連記事を抜き出し、筋道を立て、資料として整理し、その原稿を、聖体奉仕会の姉妹たちに示し、伊藤司教の閲覧にも供した。

後に、カトリック・グラフの取材に会った際、このような事柄は、さらに広い立場から、多くの人々の客観的な判断を求めるのが妥当であろうと考え、私はあえて資料の公表に踏み切った。

その結果は、賛否両論が、次々とグラフ誌上を賑わす事になった。はじめの数年間は、いきり立った反対論がめだち、とくに指導層の聖職者の間で、否定的な態度が顕著に示された。(この強硬な否定論が今もって尾を引いている事は否めない)

その後、私の呈供した原稿の連載記事はそのままカトリック・グラフ側の編集で “極みなく美しき声の告げ” というタイトルのもとに出版された。このような刊行は、当時カトリック界上層部における反対の気運に遠慮していた私の関知するところではなかったのである。

しかし、嵐を一応くぐりぬけて来たこんにちの時点において、湯沢台の聖母像をめぐるふしぎな出来事に、神の干渉のしるしを今や疑いなく認める者として、私なりの事実の見直しと報告をする責務を感じるようになった。

当然、先の “極みなく……” の刊行物と重複する個所も多く、すでにこの書を読まれた方には煩わしい反復となるかも知れぬが、私見をまじえての再考という意味で、御諒承を得たいとおもう。

(3)

一九八四年五月、待ちに待った “よきたより” がとどいた。“湯沢台の聖母の事実” がいまようやく、当新潟教区の長である伊藤司教によって、「秋田の聖母像に関する司教書簡」の形で、公に、認められたのである。

この過ぎ去った十年間というものは、それこそ紆余曲折の茨の道であった。この司教書簡は、これまでのローマ聖庁との折衝のいきさつを述べた上で、教区長である自身の責任において、この聖母像に関連した出来事は、結局超自然的なもの(つまり神の働きかけに由るもの)と認めている。そして、そこにカトリック信者の信仰と道徳をそこなうものを見いだし得ない、と保証している。

いまふり返って明らかに見えるのであるが、“秋田の聖母の事件” が、人々の目にゆがんだ形で当初から伝達されたのは、いわゆる “超能力” 説がいち早く優先的に流布されたからであった。この有力な説は、事実の報道よりも先に、日本のカトリック界に根をはりめぐらしていたくらいであった。どんな驚異的な現象も、一修道女の超能力に由る、の一語で、簡単に、あるいは憫笑をもって、片づけられてしまった。引いては、そうした超自然的しるしを以て与えられた聖母からのお言葉も、まじめに取り上げるまでもないもの、とされてしまったわけである。

この根強い謬説とたたかうには、長い忍耐と神の摂理への信頼が必要であった。十年の歳月を経て、ようやく、超能力説は、教会の責任ある指導者によって、正式に否定されたのである。また、ふしぎな現象は悪霊のしわざ、とする説も、「良き木は良き実を結び、悪しき木は悪しき実を結ぶ」と聖句にある通り、その後生じたよい結果によって、反駁された。改心や信仰の恵みを得るとか、不治の病気から癒されるなどの例は、悪魔の仕業によるとは考えられないからである。

この実証には、韓国のテレジア・千善玉さんのケース(巻末の付録参照)が有力な一例として引かれている。すなわち、脳腫瘍による植物人間の状態から、秋田の聖母の出現によって完全に癒された事実である。さらにもう一つの顕著な事例として、姉妹笹川が不治と思われた全聾から、聖母のお約束通り、一瞬にして癒されたことも挙げられている。(それが御聖体の祝福を受けた瞬間であったことは、聖体の秘跡に現存されるイエズスによる奇跡と考えられる)

大体以上の理由によって、司教書簡は、“秋田の聖母像に関する一連の不思議な現象” の超自然性を、公に認めたのである。これをもって聖母崇敬への第一の門が大きく開かれたことを、心から喜び、また神のおはからいへの感謝と信頼のいよいよ深まるのを覚える次第である。

苦しみの器

もともと姉妹笹川は、早産児として生まれ、病弱であったが、あたたかい家庭の愛情にかこまれ、精神的には非常に恵まれて育った。

第一の大きな試練は、十九歳の時、盲腸の手術の失敗から中枢神経麻痺におかされ、十六年間も寝たきりの闘病生活を余儀なくされたことであった。病院を転々とし、再三の手術後入院した妙高病院で、熱心なカトリック信者のW看護婦と出会った。その献身的看護で病状も快方に向かい、またその導きで入信の恵みも得た。

神の愛にめざめた彼女は、神と隣人への奉仕の熱望にもえ、案ずる家族を説得し、病弱のハンディに理解を示された長崎の純心聖母会修道院に入会した。

が、わずか四ヵ月後、病気が再発、ふたたび妙高病院へ。こんどは十日間も意識不明となり、絶望状態に陥った。ちょうど純心から送られたルルドの水を口に含ませたところ、即座に意識がもどり、麻痺した手足も動くようになった。

リハビリ訓練ののちは、長崎の修院に復帰を志していたが、高田教会の主任司祭から新築の妙高教会の “聖堂守り” の役に懇望され、これも神への奉仕、と引き受けることにした。

昭和四十四年、在俗で修道生活を送れる聖体奉仕会を知り、創立者伊藤司教のすすめで入会、外部会員として、妙高教会での “聖堂守り” 兼カテキスタの奉仕生活をつづけることになった。

以上が、聖体奉仕会と結ばれるまでの姉妹笹川の経歴のあらましである。
試練にみちた前半生に、すでに特筆すべき神のはからいが見られるが、ここでは本稿の主旨に添い、聖体奉仕会会員としての姉妹笹川に焦点をしぼり、以下、この時点から詳述してゆきたいとおもう。

あらたな試練

一九七三年(昭和四十八年)の一月末ごろから、姉妹笹川の聴力の低下を感じはじめていたが、教会の仕事の忙しさにかまけて過ごしていた。

ところが三月十六日(金曜)の朝、奉仕会本部からの電話に出たとたん、突然聴力を失ったことに気づいた。ベルが鳴ったのは聞こえ、受話器を取ると同時に、相手の声も周囲の一切の音も消え失せてしまった。あまりの驚きに、呆然と聖堂にすわりこんでいるのを、折りよく激励訪問に来たC神父に見つかり、すぐ新潟労災病院に連れて行かれた。

耳鼻科の沢田医博は、数年前にも左耳の難聴に悩んでいた姉妹笹川を、他の病院で診察したことがあった。こんどは徹底的に調べた結果、左耳が全聾、右耳も80デシベルという状態で、明らかに進行性難聴であり、回復の見込みはない、と診断された。

すでに過労のため極度に疲労している本人は、直ちに入院加療と安静を命ぜられた。また、やがての社会復帰にそなえて、読唇術を学ぶこともすすめられ、すぐさま四日間の特訓ののち、退院するまで四十三日間、必死の努力を続けた。その時沢田医博が筆談用のメモ用紙に書いて与えられた宣告と助言を、彼女は次のように日記に書きとめている。

「責任のある仕事は、今のあなたには到底無理です。あなたの病気は、耳そのものにはなく、極度の疲労からきた聴覚神経麻痺とみられる。だから、責任のある仕事はおやめなさい。音のない世界に生きるのは、大変なことです。幸いあなたは信仰をもっておられるから大丈夫だと思うが、挫折しないでください。……入院中に、身障者の手続きも全部して上げます。社会復帰のため、私たちの出来る限りのことで助けましょう。…」

彼女はまた、この四十数日間の入院の間、どれほど多くの人々からあたたかい励ましと援助を受けたかを、感謝をこめてしるしている。読唇術の勉強のためには、病院側の親身の配慮のほかに、手早い筆談をやめて気長に口を動かして見せてくれた兄夫婦や友人の協力が大いに役立った。親族知己のほかに、妙高教会関係の人が三百人近くも見舞ってくれたことは、ともすればくずおれそうになる心の貴い支えとなった。

病床生活の間、彼女の脳裡を占めていたのは、当然、今後の身の振り方についての思案であった。教会のカテキスタの仕事が無理となれば、家族は家に引き取ろうとするであろう。しかし、神に身を捧げた自分としては、あくまで神への奉仕ひとすじに生きてゆきたい。聖体奉仕会の本部で、ひたすら祈りと犠牲をもって神に仕えることは、許されないものであろうか…と。

ここでちょっと私見を述べてみたい。
姉妹笹川の耳が、三月十六日の金曜日に突然聞こえなくなった事実に、私は明らかな摂理の手をみとめずにいられない。最初に診察した沢田医師同様、後年秋田大学の耳鼻科専門医も、彼女の耳自体にはなんら故障を発見できず、精密な機械の検査を経ても原因はつきとめられず、完全に聞こえるはずの状態と診断された。ところが実際には、彼女は「深海に引きこまれたように」と自ら表現する通り、全く音のない世界に住んでいた。これもふしぎなことであった。

それが、後に見られるごとく、一九八二年の五月三十日聖霊降臨の祝日に、聖母が “第一のお告げ” で約束された通り、全聾から突然癒されたのである。この出来事にも、神のはからいの一端がうかがわれる気がする。

三月十六日といえば、かつてかくれ切支丹が長崎の大浦天主堂で、聖母マリア像を中だちに、三百年来の闇の世界から再発見された記念日の前日にあたる。神は姉妹笹川を選んで、聖母のメッセージを世に送る道具とするために、まず全聾という音の闇の世界に閉じ込められたようにおもわれる。彼女の隠された使命は、この日から始まっているのである。

あえて聖書を引き合いに出せば、“荒野に叫ぶ声” として召された洗者ヨハネの使命は、父ザカリアの聾唖の試練によって準備されている。全知全能の神は、人間の思い及ばぬところに、その深いはからいと力強いはたらきを示されることを、考えずにいられない。

希望の山

身障者となれば、家に引き取って一生面倒をみよう、と家族は考えたが、姉妹笹川の決意は固く、両親も兄弟もついに折れざるを得なかった。折りしも、聖体奉仕会の本部から見舞の手紙がとどき、こちらで生活を共にしては、と書き添えられ、司教からも書簡や訪問でそれをすすめられた。彼女の胸は新たな希望にふくれ上がった。

そこへ意外な反対者が現れた。妙高病院以来の恩人で代母でもあるW看護婦である。もう一度入院して健康回復をはかるべきである、という強硬な反対意見をもって、いわば行手に立ちふさがったのであった。当人の体を案ずればこそ、のこの妨害は、愛される身にとって格別つらいものであったが、同じく深い愛情で見守る兄夫婦が懸命に代母の説得にあたり、ようやく道が開かれることになった。

一九七三年五月十二日、生家をあとにした姉妹笹川は、兄嫁と妹に付き添われて秋田に着いた。当時山の修院で共同生活をしていた六名の会員に、家族のように待ち迎えられ、彼女は安堵と喜びにあふれて神に感謝をささげた。

実家ではまだあやぶむ気持ちから、いつでも戻れるようにと、荷物を寄越そうとしなかった。自分でも、思い上がった行為ではなかったかと、一抹の不安を指導司祭に打ち明けてみた。五年あまり前からこの山の小さな修道会を指導して来たM師は、彼女をよく理解し、神の召命がここにあることを明言して、安心させてくれた。

十日以上もたって送られて来た身の回り品を整理したとき、小さな修室に長年住みなれたわが家のような心の安らぎをおぼえた。

ただ残念だったのは、よき励ましを与えられたM師が、彼女の落ち着くのを見とどけるとすぐ、他に移られたことだった。以後、毎日の御ミサもなくなったことは、とくに心ぼそいことであった。

ふしぎな光

一九七三年六月十二日、会員たちは新潟方面のカテキスタ集会に出席するため、姉妹笹川ひとりに留守をたのんで出かけた。目上の姉妹Kが、聖櫃の扉を開けて御聖体のイエズス様を礼拝するよう、言い残して行ったので、その命に従い聖堂に入ったとき、異常な現象がおこったのである。その時の驚愕を、のちに司教の命で委しく書きはじめた日記の中で、彼女は次のようにふりかえっている。

「長上の言葉通りに、聖櫃の扉を開こうと、そっと近づきましたところ、突然、聖櫃からまばゆいふしぎな光が現れ、それに射すくめられて、おもわずその場にひれ伏しました。もちろん、聖櫃を開く勇気はありませんでした。およそ一時間もそうしていたでしょうか。何かの威光に打ちひしがれたように、光が見えなくなっても畏れとおののきから、頭を上げることができませんでした。 あとで我に返って反省してみて、罪深いわたしを照らすために、御聖体にましますイエズス様が光をもって御自身をお示しくださったものであろうか、それとも自分の精神的錯覚であろうか、と思いまどいました。

かつて妙高巡回教会にカテキスタとして勤めていた頃、何回となく聖櫃の扉を開けて聖体礼拝をしておりましたが、このような経験は一度もありませんでした。それだけに、もしや頭がおかしくなったのでは、と考え、聖堂にもう一度行って祈ってみましたが、何も起こりませんでした。ともかく生まれて初めての、あまりにもふしぎな体験だったので、誰にも話さず、自分ひとりの胸におさめて、その夜は床につきました。……」

翌朝、彼女は早く目ざめたのを幸いに、他の姉妹より一時間前に聖堂に行った。昨日の光が一時の錯覚にすぎなかったのか、ためしてみたい気に動かされていた。祈りの姿勢で祭壇の奥の聖櫃に近づくと、たちまち、あの同じまばゆい光に打たれた。おもわず一歩さがり、ひれ伏して礼拝しつつ、「ああ、これは錯覚でも夢でもない。御聖体にましますイエズス様が、御自身をお示しくださったのだ」と確信し、その畏るべき光が消え失せたのちも、ゆかに伏していた。やがて入堂して来た姉妹たちに気づき、共に聖務をとなえたが、まだ威光に射すくめられたかたちで、上の空の口祷であった。

翌六月十四日(木曜)。姉妹たちと聖体礼拝を行っていると、これまでの威光の輝きだけではなく、聖櫃から流れ出るその光を包むかのごとく、そばの聖体ランプの赤い光が炎のように燃え上がるのが見えた。その尖端は金色に輝いている。聖櫃全体がその赤い炎に包まれているようである。…… またもや、彼女は畏れおののき、その場にひれ伏してしまった。

三日間つづいたこのような経験にたいし、いや増す驚愕ととまどいを、彼女は告白している。
「わたしの心はすっかり驚きに捕えられてしまい、聖堂ではひたすら聖主を礼拝し賛美する以外に何も考えられませんでした。いったん聖堂から出ると、我にかえり、日常の言葉では言い表し得ないあの内的甘美から解き放たれるのでしたが、こんどは、自分はどうかしているのではないか、と不安な疑惑にさいなまれるのでした。

そのうちに、あれが全くの現実であり自分の異常な精神の作用によるものでないとすれば、他の姉妹も同じく目にしているはずである、と思いつき、むしょうに知りたくなって、朝食の時、ふしぎな光のことをちょっと話題にしてみました。

ところが皆さんの反応は、何も見ないという様子なので、すぐに口をつぐみ、それ以上語らずにおきました。それに長上のIさんから『それはあなただけのことでしょうから、話さずにしまっておきなさい』と忠告され、ハッとしてうなずいたのでした」

午前八時半から九時半までの出来事であったという、この三回目の現象は、最も強烈な印象を残し、胸の奥に深く刻みつけられたごとく、どこに居ても忘れえないものとなった。ことに聖堂へはおのずと足が向き、聖体にましますイエズスへの賛美が心にみちあふれるのをおぼえた。

ふしぎな現象を思い返すたび、言い知れぬ内的甘美の念と聖主への愛に、心は焼きつくされるほどの喜びにみたされた、と彼女は控え目ながら内心の状態を打ち明け “これを書く今もなおその喜びの余韻が残っていて、聖主へのあこがれへと心を燃え立たせるのをおぼえます” と書いている。

検 討


姉妹笹川がこのように、反省的になりつつも、あらがいがたい霊的なぐさめに満たされているところに、錯覚ではない超自然的現象のしるしが見られるとおもう。 このような天来の光を見るのは、超自然界からの一つの招きとも考えられるが、それと明らかに言えるのは、後に来る一連の出来事によって証明されるからである。

聖パウロの改心と召命も、はげしい天来の光に遭うことから始まった。ダマスコへの道で、電光のごとき光に打たれ、“なぜわたしを迫害するのか” という声を聞いた時、パウロは地に投げ倒されたが、同行の者は立っていた。それは、パウロだけが天来の光の影響を受けるはずだったからである。

姉妹笹川と同じ家に住み、同じ聖務にはげんでいる他の姉妹たちは、全然このような光の作用にあずからなかった。つまり、これは後の特別な使命への第一歩ともいえる招きであり、姉妹笹川だけが呼びかけられていたからである。

また、ファチマにおける聖母の出現の場合も、ルチアたち三人の牧童は、最初に稲妻のごとき天来の光に驚かされている。これが聖母出現の前じるしであったことを思い合わせれば、姉妹笹川が、やがて湯沢台の聖母からのメッセージを受けるべく、天の光により心の準備をさせられたことも、うなずけるのである。

また、聖体の秘跡を通じてこのふしぎな光が現されたことは、“われは世の光なり” と仰せられるイエズスの本来のお姿を示すものであろう。

その上、姉妹笹川の九年間にわたる全聾の難病も、やがて聖体の秘跡に在すイエズスの祝福によって癒されることを思えば、この光との出会いは、さらに意味を深めるのである。 これが超自然の干渉でなくて何であろうか。

光の中の天使群

三日間の不思議な現象ののち一週間は何事もなくすぎた。六月二十三日土曜の昼すぎに、司教が新潟から秋田の姉妹たちを訪問された。その翌日の日曜は、聖体の祝日に当たっていた。この祝日は奉仕会にとっては大事な祝日であるのに、山の生活では、六月五日M師の出立以来指導司祭が不在のままであり、毎日のミサもなく、いつ代わりの司祭が来るというあてもなかったのである。

司教は聖体の祝日にみずから捧げたミサの中で、会の創立者として、次のような言葉をもって姉妹たちをはげました。「この会は、聖体に奉献された集いであり、聖体の中に在すイエズスの聖心への信心を特に深めることが必要です」

そして、一週間山に滞在して、指導に当たった。この聖体の祝日から三日間は、午前八時から九時まで聖体礼拝の時間が定められ、姉妹笹川をふくめて四人の姉妹が礼拝を行なった。聖歌、ロザリオ、共同の祈りをひととおり終わった後で、念祷の祈りに入る順序であった。“二、三人相集まって祈るところには、私も在る” というイエズスの言葉が思い合わされるほど、ごく少ない人数であるだけに、ただ一つの心にとけ合った深い祈りの雰囲気であった。

とりわけ姉妹笹川の心は聖体礼拝の信心に没入し、「御聖体の前をはなれて、聖堂からしりぞくことが、いつも惜しまれてなりませんでした。この三日間の礼拝を通して、私の心はひたすら聖主への愛に燃え、奉献の心でいっぱいでありました」と日記に書きとめている。

この三日ののち、イエズスの聖心の祝日の前日、木曜日のことである。この祝日は典礼の変革によって今の教会では大祝日とされていないが、聖体奉仕会にとっては、大いに祝うべき祭日であった。その前日たる木曜日には早朝のミサがあり、この日も午前八時から九時まで聖体礼拝の時間が定められた。いつもの四人で一緒に礼拝し、ロザリオの祈り、聖歌につづいて共同の祈りをとなえたのち念祷に入った。やがて起こったのは、姉妹笹川の日記と口頭での説明によると、次のようなことであった。

〈しばらくすると、以前に三回見たのと同じまばゆい光が御聖体から放射され、その光芒を包むかのように霞か煙のようなものが祭壇のまわりにただよっていました。そして祭壇をかこんで無数の天使たちのような姿が現れ、一せいに御聖体のほうに向かって礼拝していました。

(注 この “天使たち” という語は彼女がすぐ口に出した表現ではなかった。次頁にあるように司教に報告した際、この光の中に現れた無数の存在を何と説明してよいか分からず “人間ではないがはっきりと礼拝の姿勢を見せている、たくさんの霊的な…” と言葉に苦しんでいるのに対して司教が「それは天使たちでしょう」と言われたので、自分もこの語を使った、と言っている。なお小さな祭壇をかこんで「無数の群れ」が見えたのは、この時周囲の空間が無限に拡大された感じに変わっていたから、と説明している)

私は、その驚くべき光景に引きこまれてひざまずき、その光に向かって礼拝しました。が、ふと気づいてもしや外で誰か火を焚いていてその煙が祭壇に反映しているのではないかと思い、後方のガラス戸をチラとふり返って見ました。けれどもべつにそのような様子もなく、ただ祭壇だけがふしぎな光につつまれているのでした。御聖体から射し出る威光は直視できぬほどのもので、思わず目を閉じ、ひれ伏して礼拝せずにいられませんでした。聖体礼拝の時間が終わってもそのままの姿勢で、他の姉妹たちが聖堂を出て行かれたのにも気づかずにいました〉

外出するため留守を頼みに来た姉妹Kに背中を叩かれ、我に返ったときには、先のすべての光景は消えており常と変わらぬ貧しい聖堂があるのみであった。 彼女は留守居役として頼まれた昼食の支度にかかるまで、自分の仕事場に上がって、与えられた縫い物の仕事をしたが、先ほどの聖堂での光景が目の裏にちらついて、針を運ぶのが容易ではなかった。

司教の導き

やがて午後三時になり、お茶の盆をもって司教の部屋に向かった姉妹笹川は一瞬思案した。
“今がちょうどこれまでの異変について、司教様にお話して、正しい指導を得るよい機会ではなかろうか” と。“もしこのまま放っておけば、自分の頭がおかしくなるのではないか……あるいは、もうすでに幻覚を見るほどどうかしているのではないか、という心配さえある。もしも何か錯覚にとらわれて、自分を見失ったり、病気になって、姉妹方に迷惑をかけるようなことがあってはならない。この際勇気をふるってありのままを、見たことそのままをすべて打ち明けて司教様の賢明な判断を仰ぎ、指導していただこう” と即座に決心がついた。

そこで彼女は、おそるおそる司教に語りはじめたが、司教が終始真剣に耳を傾けられる態度に、内心救われたようにほっとし、すべてを打ち明けることができた。語り終えたときには、重い肩の荷を一気におろしたような気分になり、心がはればれとして嬉しくなった。

この打ち明けにたいして、司教は次のようにさとされた。 「あなたの見た現象が何であるのかはまだはっきり分からないことだから、誰にも話してはいけません。そしてそのことのみにとらわれないよう十分気をつけてください。いちばん気をつけなければならないことは、わたしにだけ見える現象だ、特別なんだ、と傲慢な心を起こしてはいけないということです。これからますます謙遜になるように努力して、そのことにこだわらないで平常通り、他の姉妹方と何ら変わらない生活をしてください。今あなたの話をきいていても頭がおかしくなった者の言葉でないようですから、心配しないようにしなさい。このような例はありうることですから、心配しなくてもよいのです。

ファチマの牧童たちにもいろいろなお現れがあったでしょう。
でも、あなたの場合はまだ何かよくわかりませんから黙って平常通り変わりない生活をしてください。御聖体についてよい黙想と祈りをしてください」  このようなさとしと導きを受けて、彼女は、慰められ、安心して引きさがったのであった。

“女の方” の出現

翌六月二十九日、金曜日は、イエズスの聖心の祝日であった。ミサは司教によって立てられ、御聖体に関する信心の説教があった。先に述べたごとく、姉妹笹川の耳はまったく聞こえないので、唇の動きから説教を読み取っていたが、心はおのずとイエズスの聖心の愛に引きつけられ、深い祈りを捧げつつミサにあずかっていた。

朝食ののち、交代で行う聖体礼拝の時間になり、姉妹笹川は目上の姉妹Kと組んで午前九時から十時まで礼拝することになった。彼女は三十分前から聖堂に入って念祷しながら交代の時を待っていた。やがて姉妹Kが現れ、二人だけで、扉の開かれた聖櫃の前に跪いた。姉妹Kの唇に「あなたがロザリオの祈りを先唱しなさい」という命令をよみとった彼女は「はい」と答えて、いつもの例によりまず御聖体への賛歌の一つをえらんで歌った。

ついでロザリオの祈りに移ろうとしたとき、不思議な現象が起こった。彼女の後日の日記と補足の説明によれば、次のようなことである。

〈ロザリオを取って祈りを始めようとした瞬間、一つの姿が私のすぐ右に現れました。まずおことわりしておかなければなりませんが、四年前に私が妙高教会でカテキスタをしていたとき、風邪の高熱で倒れ、意識不明となって妙高病院に入院していたことがありました。

四日間、意識はもどらず、外部の世界から完全に遮断されたかたちだったそうです。体温計いっぱいの高熱がつづき、二日目の夜とかに病油の秘跡が授けられたとき、ふしぎなことに、何も意識しないような私が感謝の祈りとして主祷文、天使祝詞、栄誦、使徒信経までを、はっきりとラテン語でとなえたそうです。

後日、その時の神父様から、ラテン語をいつ覚えたのか、と問われ、私は答えに困りました。ラテン語を自分で唱えられるほど勉強したこともないし今でも唱えられないのですから。これは、居合わせた人々の証言がなければ自分でも信じられないようなことです。

付添いの母の言では、私はどこからか光に照らされているような顔で、胸に手を組んだまま、たえず何か祈っていたそうです。私自身の記憶では、きれいな野原のような所で美しい人に手招きされているのに、ガイコツのようにやせこけた人々にすがりつかれて、そちらへ行けないでいたり、清水を求めて争い、人をおしのけて濁った河に落ちる哀れな人々の姿に胸をいためたりして、そんな人のためにも祈ったりしていました。とくにロザリオの祈りを唱えつづけていました。

ところが、そのうち、ふいに、ひとりの見知らぬうるわしい女の方がベッドの右側に現れてきて、一緒にロザリオの祈りを唱えて下さったのです。そして一連の終わりに、わたしの知らない祈りを加えられるので、おどろいてあとをついて唱えました。

すると、“ロザリオの各連のあとにこの祈りをつけ加えなさい” と教えられました。それはこうです。
“ああ、イエズスよ、われらの罪を許し給え。われらを地獄の火より守り給え。またすべての霊魂、ことに主のおん憐れみをもっとも必要とする霊魂を、天国に導き給え。アーメン”

あとから聞くと、このときKさんという友人が見舞いに来ていて、母が「もう遅くなるから」と帰宅をすすめたところ「今きれいなお祈りが始まったから、いっしょに祈りたい」といって、そのまま、母とふたり、わたしのロザリオに声を合わせ、この聞き馴れぬ祈りに耳を傾けたのだそうです。私としては、この時おぼえたこの句は、意識が回復したのちも心に深く刻みつけられていて、以後ロザリオの祈りには欠かさず加えるようになりました。

また、しばらく後のことですが、たまたまそれを唱えていた時、サレジオ会のK神父様のお耳にとまり、その美しい祈りを教えてほしい、どこで覚えたのか、とたずねられて、お教えしたことがありました。

しばらくたってお手紙があり “あの祈りはファチマで聖母が三人の牧童に教えられたもので、まだ日本語に訳されていないが、訳せばこの通りになるそうです” と教えて下さいました。それではじめて私も貴い由来を知ったわけでした。

ところで、前おきが長くなりましたが、今私の右手に現れた姿というのが、まぎれもなく、あの時のお方だったのです。私は夢中になってロザリオをにぎりしめ、珠の一つ一つを繰りながら、その方に合わせてゆっくりと祈りを唱えました。

もうとなりのKさんの存在も忘れて、夢見ごこちの状態でしたが、意識は、はっきりしていました。最後に「いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え」と結びを唱えたとき、その方の姿はもうありませんでした。

その後念祷に入って、暫くたつと、昨日と同様に御聖体からの烈しい光を感じました。思わずひれ伏して礼拝し、目をあげてみると、また霞か煙のようなやわらかい光線が祭壇を包んでおりました。その中に無数の天使たちが出現し、光り輝く御聖体に向かって「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と賛美する高く澄んだ声が私の聞こえない耳にひびいてきました。その声が終わると同時に、私の右側から祈りの声が聞こえてきました。

「御聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心よ、一瞬の休みもなく全世界の祭壇の上にいけにえとなられ、おん父を賛美し、御国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉る。願わくは、わがこのつたなき捧げをうけ取り、おん父の光栄と魂の救いのために、聖旨のままに使用し給わんことをこいねがい奉る。 幸いなるおん母よ、おんみのおん子より引き離すを許し給わざれ。おんみのものとして守り給え。アーメン」

これは司教様のつくられた、“聖体奉仕会の祈り” でしたので、私もその言葉に引きこまれて跪き、その声に合わせて唱えました。

これに引き続いて「すべての民の母」の祈りが聞こえました。
「おん父のおん子なる主イエズス・キリストよ、おんみの霊をあまねく全世界につかわし給え。しかして聖霊がすべての民の心に宿り退廃と凶災と戦争から彼らを守らしめ給え。すべての民のおん母が、われらの擁護者ならんことを。アーメン」。
この声は、例の女の方のものでしたが、こういうお祈りの時の声は、先の「各連の終わりに唱えなさい」というような指示の場合よりも一段と美しくきよらかで、まったく天上的なひびきをもってきこえました。

その声に合わせて一生懸命に祈るうち、ふと、前に跪いておられる司教様の服の背に紋章のようなものが現れました。そして私を含めて七・八人の会員が、司教服の両脇の赤いひもを同時につかんでいる姿を一瞬、幻のように見ました。そして祈りが終わるとともに、それらの光景はすべて消え失せていました。

そのあともどのくらい跪いたまま祈っていたか、Kさんに肩をたたかれて我に返り、ともにルルドの聖歌をうたって礼拝を終えたのでした。この時のこともあとで司教様に、“変わったことは報告するように” と先にご命令を受けていたので、すべてお話ししました。ついでに、司教服の背に紋章をつけておられるか、と伺うと、つけていません、とのお答えに、“Mの字の上にカリスと御聖体のある模様で……” と説明したら、それは私の紋章です、と驚かれました。七・八人の会員と思われる人たちと、お服のひもにすがっていたことを申し上げると、何か考え深い面持ちをしておられました〉

* * *

この礼拝で、姉妹笹川が、ふしぎな出現者とともにロザリオを唱えたとき、傍で祈っていた姉妹Kは「いつも早口の彼女が、非常にゆっくりロザリオを唱えたのがふしぎで、あとでその理由を聞いてみたら、天使がそのように唱えるから、と言いました」とその折の記憶を語っている。

先回にあったごとく、姉妹笹川はまた、聖体を中心とした、天来の光に打たれるのであるが、このたびはさらに、その光の中に天使の姿を目にしたのであった。これには何の意味が含まれているのか。われわれにとって、天使の礼拝といえば、美しい場面を想像させられるが、それはべつに神学的に新奇な事実を教えるものではない。聖書にもこのような、神秘な存在が神の玉座をかこんで、“聖なるかな、聖なるかな、……” と昼夜讃える光景や、天使たちと人間との交流の記事は、珍しくない。


つまり、これらの出来事は、後に来る聖母のメッセージの前ぶれのようなものであった、と考えられる。
彼女が以前妙高病院に入院したとき、美しい女性が現れて、ともにロザリオの祈りを唱え、ファチマの牧童に聖母が教えられたその祈りを口うつしに教えたという。これは天使でなくてだれができることであろうか。この女の方は、こののち、まる九年間にわたってしばしば姉妹笹川に現れ、何かと教え導き、ときには、忠告や叱責さえ与えることになる。

私自身は、先に述べたように、これから間もなく、思いがけずこの修道院に着任することになり、姉妹笹川に親しく接して、指導も受け持つようになった。以後の所見によれば、“女の方” が現れて来るのは、夢の中ではなく、おもに彼女が祈りのうちにある時である。またその教示や導きなども、彼女の希望とか意志になんら関係をもたない。そのかずかずの教えや警告は、私の長い経験から見て、天使でなければなしえないものと思われる。

姉妹笹川自身は、自分から先に “天使” と表現することはつつしんでいたが、司教に「天使でしょう」と明言されてから、次第に安心して、直感通り天使と呼ぶようになっている。それに、実はその出現者自身が、やがてはっきりそう名乗るのである。

私がここで前もってこの点を強調しておくのは、この天使の最初の登場を無視しては、やがて来る聖母像にかかわる一連のふしぎな出来事、および聖母のメッセージの正しい把握ができなくなるからである。ファチマにおいても、最初に天使が再三現れて、牧童たちに祈りなどを教え、聖母出現への準備を行ったことはよく知られている。当時の教会当事者が、初め聖母の出現もメッセージも受け容れようとしなかったのは、まず天使の出現をみとめなかったからである。

出発点において誤りがあったために、当然調査も正しい方向に導かれなかったと考えざるを得ない。この点については、湯沢台の聖母の場合も、順を追って詳述することにしたい。

掌の傷

六月三十日土曜、司教は一週間の滞在を終えて新潟へ帰るにあたり、姉妹笹川を部屋に呼び、“この八月に誓願を立ててもよいから、その準備をしなさい” と告げられた。思いがけぬ指示に、彼女は耳を、というより目を疑って問い返したが、やはり同じ言葉が唇に読み取れた。
「このお許しが出たことは、喜びの声を上げたいほど、うれしかったのです。いよいよキリストに召された者として、自分のすべてを公に主にお捧げできるということは、言い知れぬ喜びでした。司教様にお礼を申し上げるのが精いっぱいでした」と日記にその感動をしるしている。

ところで、実はこの前々日、木曜の夕方から、姉妹笹川にはまた一つ、ふしぎなことが起こっていたのだった。聖務の祈りの間に、左の手のひらがなんとなく疼きはじめた。これまで経験したことのない痛さで、気になった。痛みは翌日になってもおさまらず、ミサの間もつづき、とくに聖体礼拝の際にはげしく感じた。
礼拝を終え、聖堂から出たとき、握りしめていた左手をそっと開いてみると、手のひらの中央にくっきりと十字架の形のみみず腫れが現れていた。

これはどうしたことか!驚愕と同時に、自分はよほど罪深い人間なのだ、という思いに打ちのめされた。
傷は横が2センチ、縦が3センチほどあり、人並みより小さい彼女の手のひらには、非常に大きく見えた。ただ、痛みは鋭いが、ふつうの傷と全く様子がちがう。刃物などで作れるものではない。もし小さな十字架を強く握りしめたとしても、いくらか凹みが残る程度であろう。これはむしろ十字架の刻印を捺されたように、まっすぐなみみず脹れの線が交差している。色もピンクに近く、一般の傷が呼び起こす嫌悪感よりも、一種の美しささえ感じさせる。

痛みは三十日の土曜になってもつづていたが、とくに烈しくなる気配もないので、ひそかに心を痛めながらも、ひとりでひたすら耐えていた。ところが司教の帰られたあと、なんとなく左手をかばう様子を姉妹Kに見とがめられた。そこでおずおずと開き見せ、「どうしてこんなものが出たのでしょう。きっとわたしが罪びとだからでしょう!」と言った。姉妹Kは驚き、つぶさに眺めながら、「なんと神秘な色!」と思わずつぶやいた。そして、「なぜ司教様に、お帰り前にお見せしなかったの」ととがめた。それにたいしては「こわくて…」と答えるばかりだった。

なぜ司教に示さなかったのか。姉妹笹川自身も、あとからいぶかり自問している。まず「こわくて」と言ったのは、とっさに適当な言葉が出なかったからだが、恐れではなく畏れの意味だった。超自然の力を考えずにいられぬ現象だけに、軽々しく口にすべきことではない、という畏れつつしむ気持ちが先に立っていた。またこれまでの聖堂で経験した出来事とは異なり、自分の身に起こった一些事に過ぎない、という気もあって、事々しく報告するのをためらった。さらに、昔から病苦に常に親しんできたため、すべて苦しみはひそかに耐え忍ぶくせがついていた……そんな理由が考えられる、と説明づけている。

七月五日、木曜日。
この日も午前八時半から十時までの聖体礼拝の間、姉妹Kと二人でロザリオの祈りをはじめた姉妹笹川のかたわらに “天使” が現れ、ともに祈りを唱えられた。おかげで、感謝と熱意をもって聖なる務めをはたすことができた。

ついで夕方六時からの祈りの際、聖務の中ほどまで唱えたころ、急に左手に烈しい痛みが走った。こんどは錐でも揉みこまれるような激痛で、おもわず悲鳴をあげそうになった。が、大事な祈りの最中…と必死にこらえ、最後まで唱え終えた。

聖堂で一人になってから、傷の具合を見ようとしたが、痛くて手が開けられない。外に出てようやく開いて見ると、十字形の中央に小さな穴があき、血がにじみ出ていた。

すでに夕食の準備ができていたが、とても食事をとる気にはなれない。しかし、姉妹たちの注意をひく結果になって、何事か、という騒ぎになることをおそれ、無理に少量を口にした。食後の片付けだけは、あとを頼んで、自室に引きとった。

傷は痛みつづけ、とくにえぐられるような激痛がおそう時は、穴から鮮血が吹き出てくる。それを見るたび、自分の罪の深さを思い、キリストの十字架のお苦しみを偲ぶことで、痛みに耐えようとした。が、ともすればくじけそうになる弱さをおそれ、思いついてビーズのバッグ編みの手仕事を持ち出し、いくらかでも気を紛らそうとした。やっと伸ばした左の指にレース糸をかけ、ひと針ひと針に祈りをこめて編みはじめた。祈りといっても、「主よ、あわれみ給え!?わが罪を許し給え!」という程度のくり返しであったが。

どのくらいそうしていたか。ふいに肩をたたかれて、彼女は、とび上がるほどおどろいた。立っているのは姉妹Kで、この夜は姉妹Iと出かけて外泊のはずの人であった。その時のことを、姉妹Kは次のように語っている。

「あの晩は町のある婦人から夕食に招かれ、支部に泊るつもりで出たのですが、どうも笹川さんのことが気になって、山に帰ることにしたのです。すぐ部屋に行ってみると、彼女はベッドに腰をかけて編み物をしていました。わたしの問いに、手をやっと開いて見せて『あまり痛いので編み物をしています』と涙をいっぱいためています。『こうなったのは、わたしの罪が深いからかしら』と心を痛めている様子でした。わたしは、それが聖主からのおくりものであることを直感しましたが、『痛いでしょうけど、聖主のお苦しみを思ってがまんしてくださいね。わたしたちの分まであなた一人に負わせてごめんなさいね』といたわりなぐさめて、目上のIさんを呼びに行きました。それから二人でガーゼと包帯で傷の手当てをして、夜中にあまり苦しいようだったら、わたしたちを起こすように、といって部屋を出たのでした」

痛みと反省

その後の長い夜をどのように過ごしたか。姉妹笹川は回想する。
〈お二人が “おやすみなさい” と出てゆかれたとき、ちょうどもう九時の就寝時間になっていました。なんとか寝支度をして横になりましたが、痛くてとても眠るどころはありません。床の上にすわってロザリオをにぎりしめ、聖母にお助けをねがい、罪の許しを乞う祈りを一心に唱えました。ときどき、いわば間欠泉のように、烈しい痛みを伴って噴き出てくる血のため、ガーゼを取りかえます。ふき取ればその血がしばらく止まってしまうのも、ふつうの傷とちがうふしぎな感じでした。すこし横になって休もうとしても、また痛みにとび起きて、すわって祈らずにいられません。

そんなことをくり返すうち、次第に、心にうすら明かりがさすように、ひとつの反省がひろがってきました。─── いったい、何をそんなに心をさわがせているのか。 だいたい神さまの下さることに無意味な試練があるだろうか。これまで何かにつけて思い知らされてきたのは、お恵みに馴れて調子に乗った生活をしていると、思いがけぬ冷水を浴びせられることだった。うまく行って得意になった仕事や、とくに執着しはじめた対象は、かならず取り上げられる。……

あの妙高教会で、急に耳が聞こえなくなったときも、ちょうど万事が軌道に乗って、得意の絶頂といわぬまでも、いよいよ発展を目ざして張り切っていた最中ではなかったか。……  聖堂守りとして赴任したはじめは、どうなることかと不安だった。病院を出たばかりで、社会経験もなけらば、カテキスタとしての勉強もしていない。けれども周囲の援助で、何一つ困ることはなかった。長い病床生活で、ごはんの炊き方さえ知らぬからと、母が二週間つきそってくれたあとは、近所の親切な奥さんたちが三度々々の食事をひと月もはこんでくれた。歩いて三分ほどの病院へは、毎日のようにお風呂をもらいに行き、内の者同様の待遇をうけた。瀕死の患者から次々に呼ばれては神様の話をし、洗礼をさずけ、医師や看護婦たちから喜ばれた。

ひとりで教会にいても、きびしい務めは何もなく、“聖堂守りとしてマリア様のはしためになり、神と人とに奉仕させて下さい” と祈るだけが仕事だった。ある日聖堂でその祈りをささげているとき、戸が叩かれ、“ここで神様のお話を聞かせて頂けるでしょうか” と、求道者第一号が現れたときは、とび立つ思いで迎え入れたものだった。それからは、口伝えでひろまり、常に七・八人の求道者があった。

神学的知識など何もないのに、公教要理の小さな本をたよりに皆を満足させる話ができたのは、聖霊のお助けとしか考えられない。“理屈よりも信仰の喜びそのものを伝えたい。わたしの胸を開いてみせることができたなら、あふれている大きな喜びは、こういう文字の説明とは比較にならないと分かってもらえるのに” とくり返し訴えた。やはり言葉の力より、相手のために祈る心が通じたのか。あの小さな教会で、七十人も洗礼を受けるほどになった。

これは自分の力によるものではない、とよく承知していたつもりでも、いつか満足感がふくらんでいた。このやり甲斐のある仕事への執着もつよまっていた。だからこそ、あの突然の耳への打撃が、鉄槌のようにくだされたのではないか。

あのとき、突然音の無い世界に落ち込んで、聖堂で呆然とロザリオを握りしめているうち、あのあらゆる苦難のどん底でのヨブの言葉が、光のように心にさし込んで来た。“主与え、主取り去り給う。主の御名は讃むべきかな!” ほんとうにそう言うべきところではないか。このくらいの試練で打ちのめされている、信仰の弱さと信頼の乏しさがはずかしくて、涙があふれてきた。思いきり泣いたあと、いつか深淵の底に足がしっかり着いたかのように、動揺のおさまった心に、静かな思いがひろがっていた。聖旨ならば、音があろうとなかろうと、なんであろう。今お求めになることを、すべてよろこんでお捧げするはずではないか。……この力づよい反省に照らされ、あえて言えば殉教者の気持ちさえわかるような、心の高揚を感じた。それからは、もう何にも動ぜず、親兄弟がふびんがって泣いても、自分は涙一滴こぼさずにすんだのだった。

いよいよ妙高教会に別れを告げた日のことも、忘れられない。向こう三軒にあいさつ回りをすませ、もう一度教会をふり返ったとき、ちょうど降りはじめたぼたん雪が、自分の足跡をもうすっかり消し去っているのに、心を打たれた。ああ、ここの仕事はほんとうに終ったのだ。以後、なつかしい人々のために祈ることはしても、ここでのわずかな業績を誇りにしたり、人に語ってはならない。自分の足跡さえ消え失せるのに甘んじるべきなのだ、としみじみ悟ったことだった。いまこの山の生活にようやく馴れ、人手の少ない中で何かと活動しはじめたところで、神様はまたこうして試練をくださった。つまりは、仕事よりも御自分のほうに目を向けさせ、ひそかな祈りへと招いてくださったのではなかろうか。

すべては神の愛の御はからいから来ることと信じているのに、そして、今まであらゆる苦しみを乗り切る力を与えていただいた恩恵は身に泌みているのに、何を心をさわがすことがあろうか。───
どこからか湧き出てくるようなこれらの静かな思いに、いつか心の波立ちは鎮められていました。そして、相変わらず襲ってくる痛みの烈しさにたいしても、とりすがる支柱を得た者のように、ずっと耐えやすくなった気がしたのでした〉

* * *

右の反省にみられるように、この出来事が姉妹笹川の霊的生活の上で大きな意味をもつことは明らかであるが、それはそれとして、これも彼女が聖母のメッセージを受けるまでの長い準備期間の、一つの段階であったと思われる。

長い病苦とのたたかい、天使のような女性の出現、突然の聴力消失、ふしぎな光との出合い、天使の群れの幻視、ふたたび守護の天使らしき女性の出現……すべてこれらの意外な出来事には、超自然的とはいえ、筋道の立った一貫性がみとめられる。

とくにこのたびの手の傷には、いわゆる “聖痕” の現象に似たものが見られる。
周知のごとく、カトリックの信仰の世界においては、多くの聖人聖女がキリストの御受難のなまなましい傷あとである “聖痕” を身に受けている。アッシジの聖フランシスコやシエナの聖カタリナは、その最も有名な例である。しかし、聖人の名に値しないような者でも、この十字架の傷を受けることがある。そこで、教会はきびしくこうした現象を吟味し、何か特別なしるしとして軽々しく尊重せぬよういましめている。

とくに近代では、心理学的に、ヒステリー症のたぐいの患者に多くみられる事例とされ、一般に警戒あるいは軽視する風潮になっている。ただ、一つの弁別のしるしとして言えるのは、ヒステリー症の人がこの種の傷を身に受けた場合は、それを特別な名誉として誇るのが特徴である。あたかもキリストから勲章でも受けたかのように、見せびらかす態度になる。

姉妹笹川の場合は、あらためて指摘するまでもなく、およそ反対の態度がみられる。神秘な傷を目にした瞬間、反射的に自分の罪深さを思い、畏れつつしんで、人の目からかくそうと努めている。
後日、聖痕という言葉が念頭に浮かばなかったか、と試みにたずねてみたが、“とんでもない。聖痕という言葉は知っていた。けれどもあれは、聖フランシスコのような大聖人が、十字架のキリストの御出現に会って、脱魂状態の中でそのお傷を身に受けるものではないか。自分などにそのような大きなお恵みをチラとも思い合わせようがない” という単純な返事だった。傷を見た姉妹Kのほうは “聖主のおくりもの” と直感した、と言っているが、当人がひたすら罪を思って心を痛めているので、なんとかなぐさめ力づけようとしたのであった。

ヒステリー症の場合は、傷が痛めば痛むほど、一種の満足をおぼえ、他人に誇示するようである。そして人が認めてくれることによって優越感と信心の愉悦に充たされるらしい。姉妹笹川にはこのような自己満足はいささかも見られず、不可解な現象の前に、自分の罪のせいかと畏れの念を起こしている。どんな罪のせいかと思うのか、と聞いてみても、ただ、“信仰の弱さや感謝のうすさ” など、こまやかな良心を証するだけのごく一般的な弱点しか述べられない。およそ病的な思考など、みとめられないのである。

もちろん、一つの異常な現象を解明する場合、そこに神よりの干渉をみとめるか否かは、慎重に検討されねばならない。驚異的事柄に、直ちに神のおん手のわざを見るのは、軽率であろう。しかし、解釈のつけにくいケースには、簡単にヒステリー症のレッテルをはって片づけようとするのも、これまた軽率と言わねばなるまい。

姉妹笹川のこれまで辿って来た道を、丹念にふり返ってみるにつけ、この現象にも超自然的な干渉をみとめざるを得ない。この手の傷も、やがて聖母マリアのメッセージを受ける一つの前徴と思われる。次々の試練によって、彼女の心が清められ、メッセージを受けるにふさわしいものに調えられていくようである。 聖母のメッセージがいかに重要なものとされているか、この念入りな準備によっても、推量されるのである。

最初のお告げ

 姉妹笹川は、烈しい手の痛みに堪えつつ、これまでのかずかずの試練の意味と、それを通して導かれた恩恵を思い返すうち、聖旨への信頼の念が湧き起こり、ようやく一つの支えを得た心地になった。それでも、くり返し口にのぼる祈りは「主よ、あわれみ給え。わが罪をゆるし給え」であった。襲って来る激痛に、起きてみつ寝てみつ、一睡もできぬまま過ごしていた。そして夜はふけ、午前三時ごろ……起こったことは、このたびも本人の説明で追ってみたい。

〈また新しくガーゼをとりかえて、祈っていたときでした。ふいにどこからか、話しかける声がしました。
「恐れおののくことはない、あなたの罪のみでなく、すべての人の償いのために祈ってください。今の世は、忘恩と侮辱で、主の聖心を傷つけております。あなたの傷よりマリア様の御手の傷は深く、痛んでおります。さあ行きましょう」

その声とともに現れたのは、あのお祈りを一緒に唱えてくださった美しい女の方でした。 わたしの右肩に寄り添うように立たれたそのお顔を、いくらか馴れたせいか、初めて見返したわたしは思わず「お姉さん!」と呼びかけてしまいました。数年前に洗礼を受けて亡くなった姉によく似ているように見えたからです。

するとその方は、やさしくほほえんで頭を軽く振り、「わたしは、あなたに付いていて、あなたを守る者ですよ」 と言いながら、部屋を出るように促す身ぶりを見せて、ちょっと姿を消されました。

あわててねまきを服に変え、ドアから出たところで、お姿はまた現れ、いくらか先立つ感じで導かれます。まるで手を引かれている幼な児のような安心感をもって、暗く長い廊下をすばやく通りぬけ、聖堂に足をふみ入れた瞬間、頼もしい灯火のように身に添っていた導き手は、見えなくなっていました。

わたしは、ひとりで御祭壇にむかって礼拝し、それから聖母の御像の方に進みました。“御手の傷が深く、痛んでいる” と告げられた言葉が、耳にひびいているようで、御手を拝見しなければ……と思ったからです。

当時御像は、御祭壇の右手うしろの隅に安置されていました。私たちの居る畳敷きから一段高くなる敷居に足をふみかけようとした時、突然、木彫りのマリア様が生気を帯びて、何か話しかけられるような気がしました。見ると御像は、目もくらむほどの光につつまれています。おもわずその場にひれ伏した瞬間、極みなく美しい声が、わたしの全聾の耳にひびいてきました。

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。すべてを捨てて、よく従ってくれました。耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。最後の試練ですよ。手の傷は痛みますか。人々の償いのために祈ってください。ここの一人一人が、わたしのかけがえのない娘です。聖体奉仕会の祈りを心して祈っていますか。さあ、一緒に唱えましょう」

そして「御聖体……」と、会の祈りを始められると、あの導き手もまた脇に姿を現して、声を合わされます。わたしは夢中で、ひれ伏したまま「……のうちにまします……」と唱えかけるのにかぶせて、御像からのお声は「……まことにまします……」とつづけられます。そして、まごつくわたしに教えこむように、「これからは “まことに” と加えなさい」とその語に力をこめて仰せになります。〔注 創立者伊藤司教の起草した “聖体奉仕会の祈り” では単に「御聖体のうちにまします…」となっていた〕
わたしは「はい」と答えたかどうか、ともかく無我夢中で、天上から来るような美しいお声に合わせ、かたわらの優しい声に助けられて、会の祈りを唱えました。

「御聖体のうちにまことにましますイエズスの聖心よ、一瞬の休みもなく、全世界の祭壇の上にいけにえとなられ、おん父を賛美し、み国の来たらんことをこいねがう至聖なる聖心に心を合わせ、わが身も心も全くおんみに捧げ奉る。願わくは、わがこのつたなき捧げを受けとり、おん父の光栄と魂の救いのために、聖旨のままに使用し給わんことをこいねがい奉る。幸いなるおん母よ、おんみのおん子より引き離すを許し給わざれ。おんみのものとして守り給え。アーメン」

唱え終えたところで、美しいお声はまた仰せになりました。
「教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。あなたは、洗礼を受けてから今日まで、教皇、司教、司祭のために祈りを忘れないで、よく唱えてくれましたね。これからもたくさん、たくさん唱えてください。今日のことをあなたの長上に話して、長上のおっしゃるままに従ってください。あなたの長上は、いま熱心に祈りを求めていますよ」

お言葉が終わり、ひと息の間をおいて、こんどは傍の天使が(長上が以後そう呼ばれるのでそれに倣わせて頂きます) “すべての民の母の祈り” を始められたので、わたしもすぐ「おん父のおん子なる主イエズス・キリストよ……」と声を合わせました。 この祈りも唱え終わって、沈黙と同時にそっと頭をもたげてみると、すべての輝きはもう消え失せていました。天使の姿もなく、聖母の御像もいつもと変わらぬ様子に見えました〉

以上の説明のうち、まず注目したいのは、例の神秘な導き手の発言である。それも、姉妹笹川の想像でないしるしに、彼女の思いついた天国の姉の出現への呼びかけをはっきり否定してから、いわば自分の身分を明かしたことである。「あなたに付いていて、あなたを守る者」といえば、われわれが教理でその存在を教えられている “守護の天使” 以外の何者でもない。今後はそう名指してよい、と公認されたようなものである。

また、姉妹笹川がようやくその出現に馴れて、相手を見返し、思わず「お姉さん」となつかしげに呼んだことも、ほほえましい。これは、瓜ふたつというような容貌の似通いよりも、保護者的な優しさの感じが、より強く連想を呼び起こしたのであろう。

姉妹笹川の姉なる人は、彼女がこの山に来る八年前に、胃ガンで亡くなった。入院中は、彼女が母親とともに専心看護にあたった。病人の夫から頼まれて、“神様の話” を聞かせ、間もなく洗礼に導いた。幼い三人の子を残すのが気がかりな姉は、夫とも仲のよい姉妹笹川に、自分の主婦の座を継いでほしい、と願ったが、こちらは、今までの恵みを感謝するため、神に身を捧げる決心を告白した。姉はすぐ了解し、「天国に行ったら、修道院に行けるように祈ってほしい」との妹の頼みも聞き入れた。そして、「もし修院へ入れたら、天国へ行ったしるしね」と言い合ったのであった。もともと姉のほうは頑健なたちで、幼い時から病弱な妹をよく助けていた。しつけのきびしい両親から与えられる力仕事などは、そっと肩代わりし、陰に日なたにいたわり見守ってくれたのであった。

このようないきさつを思えば、優しい保護者の出現に、姉のおもかげを見たのも、うなずけるのである。
それゆえ、天使の容貌の説明を求めてみても、あまり定かではない。「姉と同じような丸顔で、やさしい感じで……」という程度のことである。服装も、いたって漠然としている。「雪のように白く輝くものに蔽われているような姿…」としか言えぬらしい。

ただし、その輝きも、あの話しかけられた時の聖母の御像の光輝とは比較にならない。こちらの強烈さは射すくめるようで、威光に打たれてたちまちひれ伏し、お顔の変化など、あったとしても、とても仰ぎ見るどころではなかった。ということである。

ところで聖母のお声はどうであったか。これは最も表現しにくいらしい。神秘な美しさのほどを言いたいあまりに、たびたび「極みがたい声」などと独自な形容がなされたが、これは思うに「何とも究めがたい…」と「極みなく美しい…」との方言的混用であろう。

先ごろ、司教の紹介で訪れたある外国人との一問一答で、やはり “聖母のお声” が問題になった。「今まで聞いたこともない、この世のものとは思われない…」と言葉に迷う彼女に、相手は「天使の声と比べてどうですか」と問い直す。

「どちらも美しいけれど、マリア様のほうがもっと神々しくて…」
「その違いは、例えてみればどんなふうですか」
しつこく迫られて一瞬考えた姉妹笹川は、こう言明した。
「たとえてみれば、天使の声が “歌” とすると、マリア様のお声は “祈り” といえます」
外人は大きくうなずき「大へん美しいたとえです。よく分かりました」と満足していた。

さて、本題にもどり、先刻のつづきに移ろう。
一切の輝きが消え失せ、我に返った姉妹笹川は、御像の手を調べることを思い出した。立ち上がろうとして、そばに姉妹が一人祈っているのに気づいた。時計はもう五時十分を指してしる。部屋を出たのは午前三時半ごろと思うのに、いつの間にか朝の聖務の時刻になっていて、姉妹たちが次々に入堂して来た。

朝の祈りのあと、こんどは目上に頼んで御象を見てもらおうかと思ったが、これから教会へ御ミサに行くのに、気を散らさせることになってもと思い返した。ひと目見たい心をおさえ、自分の手の痛みをおしかくして、姉妹たちと車に乗った。

司祭の居ない山の修院では、初金曜のミサも、町の教会か他の修道院に出向かねばならなかった。この日は市内のS修道院であずかった。聖体拝領の際、姉妹笹川は一瞬ためらったが、痛む手を包帯のまま開いて、他の人と同様に拝領をすませた。

帰院してからも、姉妹たちの前で御像をしらべに行く勇気がもてない。それに、時がたつにつれ、何かが起こっているような胸さわぎもつのり、自分で近づくのは僭越なような、畏怖の念も増してきた。とうとうたまりかねて、目上の姉妹Kに “聖堂に行って御像の手に傷があるか、見て頂けないか” と頼んだ。司教に告げる前に他人に語ることは気になったが、姉妹Kは司教に任命された修練長であり、またのちに報告するにもまず事実をたしかめておく必要がある、と思ったからであった。

自分の修室でしばらく待ったが、何の音沙汰もない。ついに待ちきれずに、聖堂へ行ってみた。
聖母像の前にただひとり、姉妹Kが跪いて両手を合わせている。こちらに気づくと、涙のあふれる眼でふり返り、手招きして、御像の右の手をさし示す。

姉妹笹川は、のぞきこんで、ひと目見るなり、電撃を受けたようにその場にひれ伏した。ほんとうに…あった!木彫りの小さな掌の中央に、自分と同じ形の傷が十字に交差しており、中心の穴から血が痛々しくにじみ出ている。

(これはいったいどうしたことでしょう)と畏れおののく思いにひしがれて、涙も出ない。
「人々の償いのために祈ってください」とおっしゃった夜明けのお言葉が、耳によみがえる。(神に対する忘恩と侮辱をお悲しみになるあまりのマリア様の御傷か、わたしたちの改心と償いを求めてのお苦しみのしるしなのか…。今こそすべてをゆだねて聖母におすがりし、祈らねばならない!)と自分の心に言いきかせた。

一方姉妹Kは「これはやはり目に見えている確かなことだから、ほかの姉妹たちにも、改心のために話したほうが…」と言い残して立ち去った。やがて姉妹T・Kが現れたが、御像の傷を見るなり、よほど驚いたとみえ、ひれ伏してしまった。

夕刻には、それぞれの仕事から帰って来た姉妹たちに報告された。姉妹笹川も「手の傷をみせてあげなさい」と命ぜられ、痛む手を従順に差し出した。自分からは何も告げず、「罪深いわたしのためにお祈りください」と心から願ったのであった。

* * *

この初金曜日の明け方の出来事に関しては、一つの事実を強調しておきたい。それは、姉妹笹川が手の痛みのため一睡も出来ずにいた、つまり肉体的にも精神的にも全く目ざめた状態にあった、ということである。理性も意志も充分にはたらいており、夢遊病的境地とは程遠いものであった。だいいち、時にあぶら汗の流れるほどの激痛は、そんな朦朧状態を許しはしなかった。

出現した守護の天使とのやりとり、聖堂に導かれる有様など、実に明瞭である。
聖母の御像の前にみちびかれ、神秘な光輝につつまれたお姿から、世にもうるわしい声のお言葉を受け、聖体奉仕会の祈りをともに唱え、“すべての民の母の祈り” を天使とも唱和する……これら一連の出来事は、夢うつつの境で起こりうるものではない。

そして、たしかに超自然的な現象であり、神の干渉がそこにあることを示すために、マリア像の右手に十字の傷の刻印を、目に見えるしるしとして与えられたのではなかろうか。

後日、ある神学者が、姉妹笹川のやがて受けた聖母からのメッセージを否定するために、これらすべてを、精神病的錯乱か夢遊病の発作で解釈づけようとした。聖母像の傷も “超能力による” という曖昧かつ便利な用語をもって、簡単に片付けた。

しかし、後にさらにふれることになるが、姉妹笹川にそのような病歴はなく、秋田大学における精密検査の結果でも、過去現在将来にわたって、精神病の可能性すらない、と確証されている。

さしあたって考えられるのは、今回の聖母からの思いがけぬ呼びかけは、姉妹笹川に対する、いわば最初のあいさつであった、ということである。重要なメッセージをつたえる前に、彼女があまり驚いて度を失ったりせぬための、準備段階であったと思われる。先ず、献身の生活に入ったことをほめ、耳の不自由をいたわり、みずから範を示して祈りにみちびく、など、いかにも天のおん母にふさわしい優しい配慮が感じられるではないか。

── 目撃者の証言 ──

(その後1年以内に記録されたもの)

《七月六日に関する姉妹Kの証言》

あの日笹川さんはいつもより早く起きたようで、わたしが聖堂へ行った時にはすでにマリア像の前にひれ伏していました。その後町の修道院の御ミサに与ってから帰ってくると、玄関で笹川さんが次のように申しました。「マリア様の御像に何か変わったことがないか、見て頂けないでしょうか。今朝、マリア像について言われたことがあり、心配なのです」

わたしはそれを聞いてすぐ聖堂へ行き、聖母の木彫の像の前に立ってみると、右の手のひらに黒々とした十字の印がついていました。それは細いマジック・ペンで描いたようにも見え、タテ一・五センチ、ヨコ一・三センチくらいのものでありました。〔注 身長七十センチほどの像の小さい掌には、かなり大きく見える傷である〕わたしはとっさに自分の罪深いことを考え、ひれ伏して涙を流し、声を出してゆるしを請いました。

わたしがあまり戻らないので不審に思った笹川さんが入ってきました。早速その状況を見せましたら、おそれ驚いた様子でした。暫くたってから、わたしはT・Kさんを呼びに行き、その事実を見せ、沈黙を守るように言いました。

わたしはそれから何回もお参りし、午後三時ごろには、マリア様の御手の十字の印から流れた血が乾いているのを発見し、笹川さん、T・Kさんにも教えました。Iさんが町から帰ってこられましたので、ことの成り行きを知らせ、御像の前に案内しました。「これ(十字形の傷)は前からあったのではないか」と聞かれましたのでわたしは「マリア像を二ヵ月かかってデッサンしていましたので、御像のすみずみまでよく知っておりますが、以前にはありませんでした」と証言しました。

初めて見る人たちは、T・Kさんを含めて、すこし疑い、ためらっているようでした。かわるがわる姉妹たちは見ている様子でしたが、互いに話し合うことは厳禁されていたので、その日の食卓では話題にのぼりませんでした。これが神のお恵みであり奇跡であるとすれば、軽はずみなおしゃべりによって神秘が汚されることを恐れましたし、また司教様によって禁じられていることでもあったからです。

《姉妹T・Kの証言》

「聖堂の聖母像の、右の手に十字形の傷ができている。司教様にはまだ話してないけれども、時を移さず見るように」とKさんに言われて、わたしはすぐ聖堂へ行き、聖母の御像の右手を拝見しました。十字形の傷が手に、確かにありました。タテ、ヨコそれぞれ一・六センチから一・七センチ程度、黒のボールペンで記しでもしたかのようなもので、線上に二ヵ所ほど、ちょっと濃い点がありました。いかにも暑いときボールペンのインキがむらになって出てしまったというふうなのです。Kさんが「針の穴のようなところから、血の吹き出るのを見ました」と言われたのは、この点からのことだったのではないか、と思いました。

自然の目で見ればまるでボールペンで書いたようなものですが、信仰の心でみつめる時に、深くまた遠くから満ちてくる静かな感動がありました。一般に物理的観察の意識が強く働く私ですが、それはそれとして、そのときは信仰の心でひれ伏して、祈らせていただきました。

いったん食堂に戻り、三十分か一時間くらいたってから再び聖堂に行き、マリア像の前に跪いてみました。今度は御手の傷がはっきり変化していました。十字形の大きさは前と同じでしたが、単にボールペンのにじみのような感じはなく、肉体に彫られた傷のそれでした。十字形の周囲は人間の肌そっくりで一ミリくらいの指紋のような、皮膚の目さえ浮き彫りになっています。この時、手が生きている、と思いました。そして深く驚くとともに、この変化は、信じきれないでいる自分への聖母の忠告ではないか、と強く感じました。

この日、御手は何回も変化しました。Kさんから「御血が流れました」と知らされ、急いで聖母像を見に行きましたが、血はあたかもその傷口から流れ出たように下方に流れており、まわりにまでにじんでいました。やはり木に血がにじめば、このようなものかと思われるほどでありました。

《姉妹Y・Iの証言》

七月の初金曜日午後六時頃、勤め先の学校から帰宅すると、Kさんがマリア像の手の傷について教えてくださいました。近寄って拝見してみると、木像の右手のひらの真ん中に、二センチから一・五センチくらいの長さで、はっきりと十字架の形に鋭利な刃物のようなもので傷が刻まれていました。以前、その手の部分に十字架の印がなかったことは確かです。私は五年くらいずっと香部屋の係を担当していましたので、マリア像を布でふいた経験もあって、間違いはないのです。その晩、また聖堂で、笹川さんの左手の傷を見せてもらいました。それは赤く十字架の線で、痛そうに思われました。

その後の日々

聖母の御像に異変が起こって以来、姉妹たちが、姉妹笹川にあらためて注目したのは、当然であった。先に姉妹笹川が手のひらにふしぎな傷を受けたのは、異常ではあるが、彼女個人の身におこった一変事に過ぎなかった。しかし今度は、その同じ十字の形の傷が、木彫の聖母像の掌にくっきりと現れた、となると……。
長上の命もあり、それを軽々しく口にしたり意見を述べ合うような態度をとる者はなかったが、めいめいひそかに思いめぐらすにつれ、聖母への信心をあらたにし、祈りにはげむ様子であった。

姉妹笹川自身も、聖母の御手のいたましい有様を思うたび、魂をゆるがす緊張を感じていた。と同時に、この現象の意味にもっぱら心はひかれ、それまで自分の傷にのみ囚われて、むげに己れを責めた苦しい反省から、いくらか解放されたようでもあった。

そうこうするうち、次の木曜七月十二日になった。
夕方の聖務日課に、姉妹笹川が聖堂に入ると、聖母像の前で他の二人と祈っていた姉妹Kが、あわただしくさし招いた。 「マリア様の御手から、また血がにじみ出ているのよ。まだ濡れている手のひらをごらんなさい」と示す。 いかにも、今ふき出たばかりらしい鮮血が、十字形の中心から小指のあたりまで流れて止まっている。それを目にしたショックは、前の時にまさるとも劣らぬほどだった。 その “晩の祈り” の最中から、姉妹笹川の手の傷も、また痛みだしてきた。

翌十三日の金曜は、車で全員町の教会のミサに出かけた。買物などもすませて山に帰り着いたのは正午ごろであった。ところが、閉ざした聖堂のカギを持ったまま、目上二人が仕事に回っており、入堂できない。やむなく食堂で “お告げの祈” を唱えた。

夕の聖務に、帰院した姉妹Kによって扉が開けられ、たちまち聖母像の掌にまた血の流れが発見された。各人が近くから眺め入ったが、つい今しがた出たようになまなましく、やはり小指の下あたりまで赤い筋が流れてたまっていた。

たび重なる痛ましい現象は、いや増す衝撃で姉妹笹川をおののかせた。
一週間前の最初の時は、天使に告げられていてさえ目を疑うほどの動転で、倒れるごとくひれ伏した。こうして、二度、三度とくり返されても、そのつど魂は奥底まで震撼される。回を重ねるにつれ少しは馴れる、というような尋常一様な出来事とは異なるのである。個人の手の傷など、問題ではない。この自然界の約束をとび越えた、驚異的なお示しは、何を意味するのか……何か差しせまった重大なことがあるにちがいない!……

恐懼[きょうく]と緊張にふるえる心をおさえ、つとめて平静をよそおい、平素の務めをとどこおりなく果たしてゆくのが、せいいっぱいの日々であった。
内心ではたえ間なく「主よ、憐れみたまえ。われらを憐れみたまえ」と祈っていた。
ふしぎなことに、姉妹笹川の手の傷も、普通の日の間は引きつづき痛むわけではなく、木曜の夕方から金曜にかけて、烈しくなるのを通例とした。

次の七月十九日の木曜も、夕刻から痛みだし、金曜は、好きな和裁の仕事も手につかず、台所の水仕事もできなかった。が、この日が過ぎて土曜になると、傷あとは残っているものの、痛みは消えるのであった。

司教に報告

七月二十四日、約一ヵ月ぶりで司教が来られた。
まず姉妹Kの挨拶を受けてのち、司教は、茶を持って来た姉妹笹川に、「お元気ですか」とやさしく声をかけた。傍らの姉妹Kから、この一ヵ月間に起こったふしぎな出来事の報告を、注意深く聞き取ると、「手を見せてごらん」と言われる。こちらは、この前お見せしそびれたことも気になり、はずかしさをこらえて掌を差し出した。

この日は火曜で、傷はいくらか小さくなった感じではあったが、十字の形は鮮明に残っていた。司教は眼鏡をはずして入念に眺めてから、何も言わず、姉妹Kと連れ立って聖堂へ、御像を調べに行かれた。
午後四時過ぎ、司教に呼ばれた姉妹笹川は、先日来のことをくわしく話すように命令された。そこで、自分の身に起きたことから聖母像の異変まで、一部始終をありのままに述べた。記憶がとぎすまされたように鮮明な上に、日記風にメモを取っていたため、正確な報告ができたことを、うれしく思った。メモは、何かの力にうながされたように衝動的に書いておいたのだが、このことにも神秘なお助けの手を感じずにいられなかった。

翌日は、司教のミサにつづき一時間の聖体礼拝が行われた。
その後、姉妹笹川はふたたび司教の部屋に呼ばれた。
きのうと同様に、起こったことをもう一度話してみよ、と言われる。問いに応じて述べる詳細は、まったく同じくり返しになる。増し減らしなく、真正直に答えれば、当然、何度語っても同じことである。一対一で、心の底まで洗いざらい示し終えて、かるがるとした安らぎをおぼえた。

司教からは、感想めいた言葉は聞かれず、前回の指導とほとんど同様の忠告が与えられた。「私にだけあらわれた特別な現象だ、私は特別なんだ、と思うような心をもたないように。くれぐれも気をつけて、謙遜になるように」と。

つつしんで聴く姉妹笹川の心は、まずはずかしさにみたされた。それを説明して、のちにこう述べている。
〈自分を特別だなんて、とても考えられたものではありません。何のとりえもないし、おまけに一人前の仕事もできない身障者です。ここの皆さんは、世間から先生と呼ばれて、それぞれ特殊な資格や技能をもっていらっしゃる。わたしはカテキスタの資格さえなくて、聖堂守りをさせて頂いたのがやっとの人間です。やはりいちばん罪深い者だからこそ、このような償いのわざがわたしに与えられたので、むしろ当然だ、とおもっていました。

ですから、傲慢になるな、とおっしゃる司教様の前にひれ伏して「この罪びとのためにお祈りください!」としんそこから叫びたい気持ちでいっぱいになりました。

やっとの思いで、今後もお導きとお祈りをお願いすると「はい、わかりました」と、あたたかいお言葉をくださいました。それで、平安と感謝にみたされて、おへやを出たのでした。

もっとも、考えてみると、あの一連のふしぎな出来事に遭って以来、心はいつも自分を責めるきびしい反省になやみながらも、魂の奥底には、ほのかな光のような平安がただよっているのを感じていました。これもひとつのお恵みだったのでしょうか……〉

* * *

あらためて指摘するまでもなく、このように、すべて自分の罪のため、と考えていた姉妹笹川にとって、聖母像の掌に同じ傷ができるなどとは、夢にも想いつかぬことであった。もしも、天使の予告によって、いささか心の準備が与えられていなかったなら、受けた衝撃はあまりに大きく、混乱におちいるほどであったかもしれない。

その天使の予告も、今あらたに吟味してみれば、いかにも姉妹笹川個人を超えた、重大な意味をふくんでいるごとくである。「あなたの罪のみでなく、すべての人の償いのために祈ってください。今の世は、忘恩と侮辱で、主の聖心を傷つけております。あなたの傷よりマリア様の御手の傷は深く、痛んでおります。……」

たしかに、この時までは、聖櫃からの光と言い、天使の礼拝と言い、彼女のみ与えられた示現であった。いま、天使に促されて拝しに行った聖母像から、まず思いもかけぬお言葉を耳にした。これも一応姉妹笹川なる修練女へのはげましと祈りの指導、とも受け取れるが、同時に一個人を超越した重さとひろがりをもつ呼びかけが感じられる。「……人々の償いのために祈ってください。……教皇、司教、司祭のためにたくさん祈ってください。……」
こうした促しは、やがて来るさらに重大な警告の前おきのようなひびきをもっている。

つづいて示されたのは、木彫りの掌のなま傷という、驚くべき、しかも信仰のあるなしにかかわらず誰の目にも見える、客観的現象であった。これはあたかも、その神秘な印章を以て、“お言葉” の超自然的な真実性を捺判されたような感がある。

姉妹笹川が、驚愕とともに、自分の思いわずらいを忘れ、“これは大変なことになった!” と緊張したのも、うなずける。“罪の懼[おそ]れというせせこましい考えにちぢこまっていた心が、すこし広げられ、浄められる気がした。それに、自分ひとりの肩には重すぎる荷を、姉妹一同も負うことになったようで、どこかホッとする思いもあった” と述懐している。

事実、天使と聖母のお声は、彼女にだけ聞こえた。これはいわゆる “気のせい” と、一蹴されても仕方のないところである。しかし、告げられた “御傷” の現象は、一同の目に示されたのである。

後に、カトリック・グラフ誌にこの事実が報ぜられた際、読者の中から “偽造である” とか “捏造もはなはだしい” との批判の声があがった。それは、自然の常識の立場からみて、普通には起こりえないことと思われたからであろう。

しかし、神の能力は、人知を超えるものである。聖書を引くまでもなく「神には何一つおできにならないことはない」(ルカ1・37)からである。神の力が、人間的限界を超えて、自然界に現れるとき、それを奇跡という。理知の納得を得ずとも、否みえない現実として、人の目を屈服せしめるのである。

また、神よりの何らかのメッセージがある場合には、そこにまず聖書の教えとの一致がみられるはずである。その上で、さらにふさわしい客観的なしるしとなる奇跡が示される。 この聖母像の場合は、人間的な働きかけは絶無という状態であった。

それを否定するために、姉妹笹川の “超能力” という説が創り上げられた。彼女が超能力を用いて、マリア像の掌に傷をつけた、とか、自分の血液を “転写した” などという説明である。これは実地に調査することもせず、ほしいままに組み立てた、机上の論断であった。

ここでついでに指摘しておけば、全聾の姉妹笹川が、天使と聖母の呼びかけを、はっきりと、“美しい声” として耳に聞き取ったことも、ふしぎである。読唇術を会得した彼女は、日常の会話に不自由はなかったが、人の音声どころか、いっさいの物音に耳はとざされていたのである。独特のカンのよさから、相手の唇をとりわけ注視することもなく、ふつうに相対して言葉を読み取るので、人はつい必要条件を忘れうしろ向きで話をつづけたりして、彼女をあわてさせたりした。

唇の動きがなければ何の信号も捕えられぬ、全くの音響不在の世界に住んでいたのである。その耳に、天界からの美しい音だけは、はっきりひびきを伝えた。つまりは、空気や鼓膜の振動などという、物質の条件に支配されぬ世界との交流だからであろう。

異常現象を目にした、姉妹一同の反応は、どうであったか。前回に、参考として引いた “証言” には、一様に敬虔なおどろきと、修道女らしい反省がみられる。だが、彼女らとて、ふつうの理性をそなえた人間である。まず、目を疑い、とまどいを感じたのは、自然であった。

たとえば、会長代理の姉妹Iは、いちばんの年長でもあり、世間での生活も長く、良識ゆたかな人間である。報告を受けて、聖母像の掌を検分したとき、さほど動揺を示さなかった。が、突然両手をふり上げ、ガバとひれ伏しつつ「わが主よ、わが神よ!」と叫んで、かたわらの姉妹たちをおどろかせた。

後日の説明によれば──(この傷は、だれかがいたずらに、マジックペンででも描いたのだろう)と思った瞬間、中央の小さい穴から血が噴き出てきた。思わず、あのトマの叫びが口から出た。御復活を疑って主に御傷を示されたあの弟子のように、畏怖の念にうたれて──ということであった。

他にも、同様の経験を告白した姉妹がいた。こうなると、数人が同時に目撃した現象を、錯覚とか幻覚で片づけることはできない。しかも、一瞬の出来事ではなく、日に何回も見直すこともされたのである。また “生きている傷” のごとく、その折々に多少の変化さえみとめられたのである。

ともかく、長上が、この異常な経験に関する語り合いを、とりあえず禁じたのは、賢明な処置であった。超自然の現象にしても、それがただちに神の御意志を意味するものとは限らぬ。他の何らかの神秘な力の干渉に由るものか…軽々しく断を下せぬ事柄だからである。

ただ、各人がひそかに感じていたように、この現象が、これだけのこととして、一時少数の姉妹たちを仰天させただけで、過ぎ去ってしまうものとは考えられない。たしかに “何か重大なこと” が、迫りつつある、との姉妹笹川の予感は、根のないものではなかった。これらの過程は、やはり、一つの周到な準備とみるべき段どりだったのである。

つよまる異常現象

七月二十六日、木曜日。
この日は聖母マリアの母聖アンナの祝日であった。午後五時からのミサで、姉妹Y・Iの誓願更新が行われるはずであった。その喜びにともに胸をはずませていたのは、かねて相談相手に任じられていた姉妹笹川だった。

午後三時過ぎ、姉妹Y・Iが姉妹笹川の部屋に来て、目上を探しているがどこにも見あたらない、という。
こちらはすぐ思いついて、聖堂に行ってみた。目ざす当人は聖母像の前にひざまずいて、司教と姉妹Iの間で熱心にロザリオを唱えていた。

ちょっとためらったが、そばに行き、探しあぐねている人のことを伝えた。ふり向いた姉妹Kの眼に、涙があふれている。「またマリア様の御手から血が流れているの。きょうのは、前よりたくさん出てきて、濃くて、ほんとに痛々しいの。あなた、わたしのかわりに祈っていてね」と言いおいて、席をゆずるように出て行かれた。

のぞいて見るまでもなく、おん手のくぼみに、鮮血が、こんどは流れの筋でなく、小さな溜りをつくっているのが、目を打つ。司教のそばに進むどころか、思わずあとずさりして、自分のいつもの座にひれ伏してしまった。こんなにまで、おん血を流されるとは!?……

ようやく頭を上げると、姉妹Iが顔をふり向けて、唇の動きを示されたので、心を引きしめてロザリオの祈りに加わった。

とたんに、自分の左の掌の傷も、うずきはじめるのを感じた。これまでは毎木曜日の夕の聖務の時から痛み出していたのに、今日は少し早いが、といぶかりながら、祈りに心を向けようと努力した。

五時過ぎ、ミサが始まった。ちょうど姉妹Y・Iが誓願更新の祈願文をとなえているとき、手の傷は突如、これまでにない烈しい激痛を姉妹笹川にもたらした。それはあやうく悲鳴を上げかけたほどの痛さであった。

掌の傷口から手の甲に向けて、ふとい錐でもさし込まれるような、おそろしい疼痛であった。痛みにつれて血もふき出てきた。全身の力をふりしぼって、やっとこらえたが、額にあぶら汗がにじんでくる。

…… “マリア様、助けてください!” と思わず胸のメダイに取りすがる気持ちで、イエズスの十字架のお苦しみを必死に思い偲んだ。

最も堪えがたかった激痛の時は、時間としては一瞬のものであったかもしれないが、痛みの烈しさからは、とても長い忍耐のひとときに感じられた。

聖体拝領の際は、そのころの習慣で、姉妹たちは手でお受けしたが、彼女はどうにも手を開くことができず、直接口に拝領した。

晩の聖務は、彼女が先唱の担当であったため、人知れず苦しい努力をつづけた。イエズスの御受難の思いを支えに、ようやくつとめたが、終わった時は全身汗びっしょりになっていた。

夕食は姉妹Y・Iを祝って、ささやかなパーティーであった。楽しい雰囲気をこわさぬよう、人に気づかれぬよう、手をかばいつつ食事をしたが、聖堂にいた時ほどの痛みはなくなっていた。

食後、司教に呼ばれ、その後の様子をたずねられた。さっそく、手のあらたな痛みと今のミサ中のことをお話しした。傷をお見せしようと手をさし出しても、指をわずかに動かすにも、とび上がりそうな痛みが走る。ようやく、半分握った形に開けた手を、司教はのぞきこんで、「ああ、痛そうですね。これは、手の甲まで突き抜けるかもしれませんよ」と、いたわりの眼を向けられた。

この晩は、さきの初金曜の夜と同様に、痛みで一睡もできなかった。寝床にすわってロザリオを唱えたり、手をかばいながら部屋を掃除してみたり……。体を動かすことでもしてまぎらさなければ、居たたまれないくらいであった。

ようやく夜が明け、何かにすがるように聖堂にいそいだ。よく声の出ないまま、一心に聖務を唱えた。
七時から始まったミサが “聖変化” にまで進んだとき、手の痛みはまた耐えがたい烈しさを加えた。血がふき出てきたようで、疼痛は手の甲まで突き刺さってきた感じであった。

はてしなく長く思われたミサが終わり、聖堂を出て手を開いてみると、血がかなり出ていた。拭き取ることをせず、すぐそのまま司教に示した。通りすがりの姉妹Y・Iも、痛ましげにのぞきこんだ。

この手の傷について、聖母像の御手に現れた傷と、全く同様なものであったかどうか、実際に見比べなかった者には、もう少し説明がほしいところである。姉妹笹川は次のように補足する。

〈傷が十字架の形をして、中央の穴から血が出ることは、まったく同じでした。ただ、御像の御手は人間の手よりずっと小さいので、十字形も小型になります。中央の穴も、ちょうど木綿針のメドぐらいの大きさでした。わたしのは、錐で開けられた穴の大きさで、ひどく痛む最中は、あのギザギザのある錐を手の甲に向けて揉み込まれる感じで、たまらない痛さでした。すると穴から血がふき出てきますが、あまり痛くてふき取ることもできず、半分握った形の指の間からそっとガーゼをさし込んで、吸いとらせるのがやっとでした。

マリア様の御手に流れ出た血は、ふしぎなことに、一度も下にしたたり落ちたことはありませんでした。『見るみる噴き出てきた』とKさんが、司教様とIさんとひざまずいて、涙ながらに告げられたあの時も、血は御手のわずかな凹みに溜まっていて流れ落ちませんでした。御像は手のひらを下に向けて開いておられるのに。……そういえばわたしの場合も、お聖堂で祈っているとき、掌の中に血がたまったことは感じても、それがしたたり落ちてゆかをよごすようなことは、一度もありませんでした。

また、この傷が、木曜と金曜にだけ口を開けて痛みだすのもふしぎなことでした。二十六日のいちばん痛かったときも、司教様は、これ以上ひどくなるようだったら病院に行ったほうがよい、とおっしゃったのですが、土曜になると治っていました。傷口は、中央の穴のところが、気のせいか、うす赤い色が残っている程度でした〉

このように、キリストの御受難にゆかりのある木曜・金曜にだけ神秘な傷が現れるのは、いわゆる “聖痕” の現象によくある例である。土曜になれば、幻のように消え失せるが、それがどこから来たにせよ、傷の痛みそのものは、おそるべき現実感をもって襲うのであった。「あの痛さは、とうてい忘れられません」と、この話になると彼女は今でも身ぶるいを抑える顔になるのである。

ともかく、この金曜の午前中も、部屋にもどって気をまぎらそうにも、好きな編み物はおろか、読書もできぬ有様だった。ただ十字架を仰ぎ、ひたすら聖主の御苦難の黙想に、時をやり過ごした。午後の自由時間に、前夜一睡もしなかった体を少し休めようと、横になってみた。が、痛みは一層増してきて、寝ても起きてもいられぬほどになった。

午後二時半、もの凄い激痛がおそってきた。もはや居たたまれぬ思いで、逃げるように、何かにすがるように、夢中で聖堂に走り込んだ。堂内では、一人の姉妹が祈っていた。痛さに押し倒されるように、姉妹笹川は床にうつぶした。

そのとたん、あの守護の天使の声が、心の耳にひびいてきた。
「その苦しみも、今日で終わります。マリア様が御血を流されるのも今日で終わりますよ。マリア様の御血の思いを大切に、心に刻んでください。マリア様が御血を流されたのには、大事な意義があります。あなた方の改心を求め、平和を求め、神様に対する忘恩、侮辱の償いのために流された尊い御血です。聖心の信心とともに、(主の)聖血の信心も大切に。すべての人たちの償いのために祈ってください」

苦痛をこらえて挙げた顔に、いかにも優しいいたわりのまなざしがそそがれている。が、畏れおののきに口がこわばったようで、返す言葉も出ない。 つづいて、

「御血が流されることは今日で終わることを、あなたの長上に話しなさい。あなたの痛みも今日で終わりますよ。今日のことを長上に話しなさい。長上はすべてのことをすぐ解ってくれます。そしてあなたは長上の御指示に従いなさい」 と、ほほえみのうちに語り終えて、姿を消された。

姉妹笹川は、あわてて、何か申し上げればよかったと心残りを感じたが、そのお姿と同時に手の痛みも消え失せたことに気づいた。あれほどの激痛が、まるで嘘のように去り、傷口の血も、別の手のように影もとどめていない。いそぎ聖母像のほうを眺めると、その御手にはまた傷口から血が流れているようであった。あらたに畏れの念と申しわけなさに胸がつまり、近く寄って検分するほどの図太さがもてない。ちょうどまだ傍で祈っていた姉妹にそれを確かめるよう依頼して、ひとまず自室へ戻ろうとした。

玄関の通りすがりに、かねて注文してあった絨緞が届いた、と知らされる。係の姉妹とともに二階へはこび、部屋に敷いているところへ、先の姉妹が聖堂からきて手を貸してくれた。やがて二人になったところで、御像のことをたずねてみた。やはり、御血があらたに出ていた、という。

「その血を、司教様にお見せしようとおもって、人さし指につけてきたけど、ここで手つだっているうちになくなってしまったから、行かないでおくわ」 との気軽な報告に、こちらは唖然として、返す言葉もなかった。

司教様に御血をお見せしそこねたことにも、気がとがめた。が、部屋にこもって書き物をしておられる様子に、自分と姉妹の失敗などの報告でおさわがせするのもはばかられ、心のうちでお詫びしつつ、この日はそのまますませた。

ここでひとつ、注釈を加えておきたい。
聖母像の掌の出血現象にたいして、姉妹たちのとる態度は、当然、各人各様であった。同じ信仰をもっていても、まず神秘への畏敬の念に打たれて平伏する者もあれば、実証的精神にかられて、御手の部分をにぎり近々とのぞきこむ者もある。目上の姉妹Iなどは、大きなルーペをかざして、丹念に検査する。

こういう態度は、責任者として義務感から取られたもの、と解釈されるが、姉妹笹川には到底できることではない。まして、御血を指につけて取るような、無邪気というか、大胆な仕草は、彼女には思いもよらぬことで、「とてもできない、こわくて」と身をすくめて言う。

ついでながら、彼女の口ぐせの「こわくて!」は、恐怖の意味ではない。誤解を招かぬため再言するが、これは生地の方言であって「畏れ多くて」の意味である。たとえば、高貴な人に近づく場合、「私など、とてもこわくておそばへなど…」というふうに用いる。

姉妹笹川がこの口ぐせを連発するのは、それだけ神秘への畏敬の念が深い証左であろう。一姉妹の指につけて来た御血が、部屋の敷物の手つだいの最中になくなった、と聞いて以来、“こわくて” いまだに絨緞の掃除は心して行う、という。

聖霊の七つの賜の第一に “敬畏” が挙げられている。姉妹笹川が、まずこの賜を充分に受けていることはたしかと思われる。

〔参考〕 《姉妹Y・Iの “出血現象” に関する証言》

一番印象に残っているのは、七月二十六日(木曜日)、午後二時過ぎ、祭壇の花を飾り、ミサの準備をしているときに気がついたのですが、今までになく大きな血のかたまりみたいなもの、黒みがかった赤色が像の手に見られたことです。すぐに台所にいたT・Kさんに知らせ、確かめてもらい、三時頃には司教様をお呼びして見ていただきました。

七月二十七日(金曜日)の朝、玄関で司教様に、こんなふうに血が出るんですよ、と言って手のひらをお見せしている笹川さんを見ました。偶然の通りがかりだったので、ちらりと脱脂綿ににじんでいる血を見ましたが、それは鮮血でした。七月中、特に木曜日の晩から金曜日にかけて傷が痛み、それもキリで刺されるような痛みで、血が流れていたようです。そのため、食卓の後片づけを彼女は免除されていました。

* * *

今回は、聖母像の掌の出血が、ほそい筋ではなく、血の溜りとしてみとめられたこと、また姉妹笹川の手の傷も、ほとんど堪えられぬほどの痛みと、それに伴うかなりの出血があったことに注意をうながされる。

この現象は、傷が十字架の形をもってすでに暗示しているごとく、キリストの受難との深い関連を強調するものと考えられる。十字架の奉献に、単なる感傷ではなく、実際にわが身に痛みをおぼえるほどの同感をもってあずかる重要さを、示唆するごとくである。日常生活のすべての苦しみを、キリストの苦難に合わせて献げる意義を、あらためて教えられるようである。

姉妹笹川が痛みに堪えかねて、聖堂で伏して祈っていた際、力づけるごとく現れた例の守護の天使は、聖母像から流された血の意味に注意を向けさせ、「マリア様の御血の思いを大切に、心に刻んでください」とさとす。「マリア様が御血を流されたのには、大事な意義があります。あなた方の改心を求め、平和を求め、神様に対する忘恩、侮辱の償いのために流された尊い御血です。…」と念入りな説明がつづく。

神は、木彫りの像の出血という奇跡によって、原罪の汚れなきマリアの御心の深い痛みを、血を流すほどの苦悩として、表明されたのである。

二千年の昔、聖母マリアは、生後四十日の幼いイエズスを神殿に奉献されたとき、義人シメオンから「この子は逆らいのしるしとして立つ人であり、あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」との予言を受けた。(ルカ2・34)

その言葉通り、聖母の心が剣でさし貫かれて血を流すほどの苦しみを味わったのは、言うまでもなく、十字架のもとに立って、御子イエズスの死苦をともにされたときであった。神の子キリストの十字架上の苦しみを招いたのは、世界開闢以来の人類の大いなる罪であった。現代においても、われわれの犯す罪とキリストの磔刑の死と聖母の御心の血を流す苦痛とには、一つの三角形をなす関連性がある。それゆえに天使は “マリア様の御血の大事な意義” に、あらためて注意をうながすのである。

しかも姉妹笹川は、手に刻印された傷のかつてない烈しい痛みに、感銘も身に泌みて焼きつけられている。錐の穴ほどの傷でも、あぶら汗を流す痛さであった。“小指ほどの太さ” と伝えられる釘を両の手足に打ち込まれる十字架上の激痛は、どれほどであったことか……。

姉妹笹川の体験を通じて、われわれも、キリストの十字架の死苦と聖母の御心の苦痛を、身に泌みて思いしらねばならぬ、と教えられているのである。われわれも、心を改めて、キリストの贖いとそれに参与する聖母の血を流すほどの心痛に、感謝と遷善の決心をもって応えねばならぬ、とさとること、そこにこのような現象を示された意義がみられるのではなかろうか。

聖母像の出血は “神に対する忘恩、侮辱の償いのために流された尊い御血” であるとも、天使は解説している。これは、キリスト信者以外の人々の罪ばかりではなく、まず、神の恩恵をもっぱらほしいままに蒙っているわれわれ信者の罪過にかかっている事柄であろう。

だが、この御血が流されるのも今日で終わる、と告げたのち、天使は姉妹笹川をいたわるように、彼女の痛みも今日で終わる、とほほえんでくり返した。そして事実はその通りになった。マリア像の手の傷痕は、あと二ヵ月ほど残っていたが、もう血の出ることはなかった。姉妹笹川の手の傷も、七月二十七日を限りに治り、痛みも消えた。治ったあとは、何の痕跡も残らなかった。

イタリアのカプチン会のピオ神父は、二十世紀の聖痕者として有名だった。彼の場合は、キリストさながらに貫かれた両手足と脇腹の傷から出血する痛ましいものであったが、その五つの傷口は、死後たちまち消え失せて人々をおどろかせた。息を引き取って十分後にとられた写真の手や足のうらは、全く白くすべすべしている。姉妹笹川の傷ははるかにささやかなものであるが、人の意表をついて現れかつ消滅するところに、同じ神秘の特徴をみるのである。

ともあれ、マリア像の “出血現象” は、いたずらに人の好奇心を煽るためのものだったはずはない。これから与えられるメッセージの重大性にかんがみ、そのためまず心の準備をととのえさせるための、視覚を通じての強烈な訴えとして、はじめて意義が了解されるのである。

第二のお告げ

七月二十八日、土曜日。
九時過ぎ、姉妹笹川は司教の部屋に呼ばれた。その後変わったことはなかったか、と問われ、昨日の午後の出来事を報告した。聖堂で祈るうち、守護の天使の声を聞いたこと、その言葉通り手の痛みが消え失せたこと、を委しく述べた。また聖母像の御手にまた出血があったことも、お目にかけそこねた失態をお詫びしつつ、申し上げた。

司教は注意深く耳をかたむけ、さらにいつもの例で、以前の出来事にさかのぼって、あらためて復習のように質問をくり返される。丹念にメモを取りながら聴取されるのは、何か矛盾点でも出て来ないか、との配慮からであろうか。こちらも問われるままに、何度も同じことをお答えする。最初の “聖母のお告げ” の再述を求められたときは、聖体奉仕会の祈りをご一緒に唱えた際「御聖体のうちにましますイエズスの聖心よ」の初句に「まことにまします」と加えるようにと御注意のあったことを、重ねて力をこめて申し上げた。何事にも慎重を期すなさり方から、まだその変更の指示は与えられなかったからであった。

終わりに司教は、一つの思いがけない注文を出された。
「こんどその方が来られたら、次のことをたずねてみなさい」といって示されたのは
(1) 私たちの会を、神様がお望みであるかどうか。
(2) また、このままのかたちでよいのかどうか。
(3) 在俗であっても観想部が必要かどうか。
という三つの質問であった。

簡単に言い渡され、そのまま「はい」と答えたが、時がたつにつれ、引き受けたほうは荷の重さが肩にのしかかってくるのを感じた。覚えこもうとくり返すにつれ、質問の重要さがわかってくる。これはしっかり伺わねばならない。とは言っても。自分でその機会をつくれるわけではない。いつ、またあのお声をきかせていただけることか、あるいは、もうまたとあんなお恵みの折はないのかもしれない……人間があてにしても、すべては神の思召し次第ではないか……。 こうした無力感をいだいて、できるわざといえば、しばしば聖堂にひざまずき、従順の名によって、任務をはたす機会が与えられるよう祈ることだけだった。

一九七三年八月三日、初金曜日。
それから一週間たった。初金曜を迎えて、姉妹笹川はいつもより長く聖体の前で祈った。午前中は平素と変わることなく過ぎた。そして午後の聖体訪問の際……起こったことは、彼女自身の説明によれば次の如くである。

〈午後二時ごろから、イエズス様の御受難をしのんで黙想し、ロザリオを唱え、一時間余りも聖堂で過ごしたでしょうか。この日は久しぶりに守護の天使が現れ、一緒にロザリオを唱えてくださいました。その祈りの間も、わたしは司教様に頼まれた重大な質問のことが心にかかり、それを申し上げる機会がいただけるように、とひそかに祈っていました。

その願いが通じたのか、お恵みの機会はさっそく与えられたのでした。
守護の天使が 「何か尋ねたいことがあるでしょう。さあ、遠慮なく申しなさい」
と、小首を傾けてほほえみかけてくださったのです。わたしは、さっと緊張して、質問を恐るおそる口にしました。

そのとたん、マリア様の御像のほうから、また前と同様に、えも言われぬ美しい声が聞こえてきました。

「わたしの娘よ、わたしの修練女よ。主を愛し奉っていますか。主をお愛しするなら、わたしの話を聞きなさい。これは大事なことです。そしてあなたの長上に告げなさい。

世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでおります。

おん父がこの世に対して怒りたもうておられることを知らせるために、おん父は全人類の上に、大いなる罰を下そうとしておられます。おん子とともに、何度もそのお怒りをやわらげるよう努めました。おん子の十字架の苦しみ、おん血を示して、おん父をお慰めする至愛なる霊魂、その犠牲者となる集まりをささげて、お引きとめしてきました。

祈り、苦行、貧しさ、勇気ある犠牲的行為は、おん父のお怒りをやわらげることができます。あなたの会にも、わたしはそれを望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人々の忘恩、侮辱の償いのために、改心して祈ってください。聖体奉仕会の祈りを心して祈り、実践して、贖罪のために捧げてください。各自の能力、持ち場を大切にして、そのすべてをもって捧げるように。

在俗であっても祈りが必要です。もはやすでに、祈ろうとする霊魂が集められております。かたちにこだわらず、熱心をもってひたすら聖主をお慰めするために祈ってください」

(ちょっと間をおいて)

「あなたが心の中で思っていることは、まことか?まことに捨て石になる覚悟がありますか。主の浄配になろうとしているわたしの修練女よ。花嫁がその花婿にふさわしい者となるために、三つの釘で十字架につけられる心をもって誓願を立てなさい。清貧、貞潔、従順の三つの釘です。その中でも基は従順です。全き服従をもって、あなたの長上に従いなさい。あなたの長上は、よき理解者となって、導いてくれるでしょうから」

それはまったく、言いようもなく美しい、天よりのものとしか思えないお声でした。心の耳にひびくのか、聞こえないはずの耳を通してか、そんな区別など考える余裕もなく、ただひれ伏して身動きひとつできませんでした。そして、ひと言も聞き洩らすまいと、それこそ全身を耳にしていました。

(主要なお告げのあと、わたしへの御注意を加えられる前、ちょっと間がありました。それはどのくらいの間であったか、といまたずねられても、無我夢中の状態で、何とも定められません。主祷文を一つ唱えるほどの間があったかも知れず、“天にまします” と言いかけるひまもないほどだったのかもしれません。どうも時間の感覚など抜け出た状態にいたように思われます。

それでは、お声がとぎれた以上、もうお話は終わったかと顔を上げてみたか、などとも聞かれますが、依然神秘な力に圧倒されていて、頭をもたげるどころではありません。それに、たとえすばらしい歌に聞き惚れていても、ちょっとの沈黙が休止符か終止符かはおのずと聞き分けられるように、まだ終わりでないことははっきり感じられます。

それで、最後のお言葉も、そのひびきが消えるとすぐ、まるで強烈な光が失せたかのように、“終わり” と感じました。そして頭を上げてみたら、そばの天使のお姿ももうなかったのでした。

ついでに、今のお言葉のうち、よく人から念を押して質される一句のことにも、ここで触れておきたいと思います。それは「あなたが心の中で思っていることは、まことか」とのお問いかけは「まことですか」とおっしゃったのではないか、という質問です。たしかにそのほうが、次の「覚悟がありますか」とも釣り合いがとれるようです。けれども、これははっきり申せますが、たしかに「まことか?」と仰せられたのです。語尾をすこし上げて、いかにも優しくしかも権威あるお質しの口調は、忘れられません。)

ともかく、この世のものならぬうるわしいお声が消え、わたしは身を起こしたものの、まだその余韻につつまれて、しばらく祈っていました。それでも、この大事なことを司教様に正確にお伝えしなければ、という思いにうながされ、いそぎ修室にもどりました。

先ごろからの一連のふしぎな出来事以来、すべてを “霊魂の日記” として記録しておきなさい、と司教様に命じられて書きとめていた大学ノートをひらき、さっそくペンを走らせました。一字一句もあやまらず、正確に、と心して、祈りながら書きましたが、あの長いお言葉が、ふしぎなくらいすらすらと、出てきます。すこしも記憶をさぐることもなく、胸に一語一語くっきり刻み込まれているように、あるいはそばから口述されているかのように、なんのためらいもなく、そのまま写しとることができました。これは自分の自然の能力ではとうてい考えられないことでした。

書き取りながら、あらたな感動とともに、この中に司教様の質問へのお答えも全部ふくまれていることに、ひそかな感謝と感激をおぼえたことでした。

その後、この報告は、八月十五日に私の初誓願のためおいでくださった司教様に申し上げましたが、この時も、ノートの必要もないほど、口頭で全部お伝えすることができました〉

この重要な出来事の検討に移る前に、些細なエピソードではあるが、この同じ八月三日の夜に起こった一事件にふれておこう。 真夜中ごろ、姉妹笹川は突然「起きなさい、起きなさい」と呼びさまされた。まぎれもない守護の天使の声であった。

とび起きてドアを開くと、何か焦げくさい異様な臭いが廊下にたち込めている。臭いをたどって階下に降り、台所に入った瞬間、火の玉のように真赤に燃えさかっているヤカンが目についた。ねむ気も吹きとび、かけ寄って反射的にガス栓をしめる。水を汲んで、今にも火を発しそうな灼熱の塊に遮二無二うちそそぐ。ようやくうすらいだ湯気の中にヤカンは無惨な姿でしずまる。底にはまっ黒に焦げた煎じ薬が、まだ異様な臭気を立てていた。

あとで聞けば、ひとりの姉妹が、煎じ薬をつくりかけたまま、忘れて寝てしまったのであった。まったくもう一歩で、火災の大事になるところであった。 一同が胸をなでおろし、あらためていましめ合った次第であった。「笹川さんが気づいてくれなかったら……」と、真相を知らぬ姉妹たちは彼女の鼻のよさにでも感謝するふうであったが、実は守護の天使にこのように実生活の上でも助けられることは、以後もたびたび起こるのである。

* * *

今回のお告げは、メッセージの核心となる重要な主題を呈示されたものである。ここには聖母像の御手の出血現象の奇跡に劣らぬ、刮目すべき重大な教示がみられる。

その中心主題は、“世の多くの人々は主を悲しませている” というお嘆きに始まっている。聖主を悲しませているのは、いまこの世に生きている人々であり、現にこの世界を舞台にしておかしているわれわれの罪によってである。聖母は世界を眺めわたして、“主を慰める者” を求められる。それは、“天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもって償う霊魂” を望まれるからである。

“おん父が天罰をくだそうとしておられる” という警告は、以上を敷衍して、切迫した事態への憂慮を訴え、具体的な要望へと導くためのものである。

またここに、司教が先に提出した三つの質問への答えが、明らかに示されている。

“この会を神はお望みであるか” との問いに対しては、“あなたの会にも私は望んでおります” の一言で応じられた。この会を肯定のかたちで認められるとともに、すべての人にも呼びかけておられることがわかる。

第二の “このままの形でよいか” の質問には、“形にこだわらず、熱心をもって、ひたすら聖主をお慰めするために祈るよう” と指示される。これは、観想的修道会、活動的修道会、あるいは在俗修道会などの区別に重きをおく態度を排し、神に奉献された身分に優劣をつけるような考えがあってはならぬことをも、示唆されるごとくである。とかく世間的な目での比較による順位づけに影響されて、会の形態で差別をつけようとする幣を、聖母はいましめられ、要は “形ではなく、神の聖意にかなうことである” と強調されるようである。

第三の “在俗であっても観想部が必要か” との質問には “在俗であっても祈りが必要” であり、“すでに、祈ろうとする霊魂が集められている” とのお答えが与えられる。これは、在俗であろうがなかろうが、また一般の信徒においても、祈りが生活の最も大切な中心となるべきことを示している。 もともと聖体奉仕会の当初の集まりには、修道会らしい規則も戒律も、生活の整った形態もなかった。ただ善意にみちた人々の、心からの祈りを捧げようとする貧しいささやかな共同生活があるのみであった。

司教の当面の関心事であった三つの疑問点にたいして、姉妹笹川の問いかけも待たずに与えられた、以上の応答を検討するにつけ、たしかに人間の知恵によるものでなく、天よりのもの、聖母御自身より賜ったお言葉である、と、わたしは深く感銘させられたのである。

悪魔の攻撃

これまで、姉妹笹川に現れて何かと助けられる守護の天使について、再三述べてきた。
このような事柄は普通一般にみられるものでないだけに、この種の話となると、現代人は聞く耳をもたず苦笑であしらうか、あるいは耳をかたむけても、精神障害の症例として片づけようとする。たしかにいわゆる幻視・幻聴の類ならば、病気が原因であって、治療の対象となり、それによって解消されるべきものである。姉妹笹川も、やがてある神学者から、病的幻視幻聴のレッテルをはられ、多くの試練と誤解になやまされることとなる。しかし、今さら指摘するまでもないが、精神病の場合には、本人の言動が異常なだけであって、客観的なしるしや奇跡をともなうことはないのである。

超自然の存在がわれわれの日常生活に介入してくることは、聖書はもちろん、神秘家の伝記等にしばしば記載されている事実である。それも、天使のような善い霊ばかりではない。妬みの霊、悪しき霊である悪魔も、働きかけずにはいないのである。

八月四日。典礼暦が変わって今は聖ヨハネ・マリア・ビアンネの記念日であるが、当時は聖ドミニコを祝う日であった。 夕の聖務に聖堂へ入ろうとした姉妹笹川は、突然背後からグイと肩をつかんで引き戻されるのにおどろいた。呼び止めるにしてはあまりに烈しい仕草に、(なんと乱暴な……)と、左うしろを見返ると、何か黒い影が蔽いかかっている。あわてて手を上げて肩のあたりを払いのけようとしたが、磐石のような力がわしづかみにしていて、身動きもできない。ゾッと身ぶるいしながら、とっさに「アヴェ・マリア!守護の天使、お助けください!」と心に叫んだ。

たちまち、いつもの天使が姿を現し、聖堂に導くように、先立たれる。とたんに肩にのしかかっていた力は消えた。彼女はふだんのように聖水を指につけ、十字の印をして入堂し、自席につくことができたのだった。 一瞬のこととはいえ、あきらかに人為的な域を超えた、異様なおぞましい襲撃であった。
その後も同じようなことが、同じ場所で再度起こったが、こんどは「主よ、お助けください。憐れみたまえ!」と祈り、即座に助けられた。

これが悪魔の攻撃とは、本人もすぐ気づいた。なぜなら、神の恵みとの出合いは、心の甘美さと深い平安を残すのに反し、こうした経験は、まことに気味のわるいあと味と、恐怖を残すからである。

姉妹笹川にとって、この山にきてからはじめての忌まわしい経験であったが、悪魔の攻撃を受けたのはこれが最初というわけではなかった。今でも身ぶるいの出る悪夢のようなその思い出を、彼女はこう語る。

〈この時より九年前、妙高の病院で療養していた時のことです。一月二十日ごろだったと思います。そのころ大分元気になっていたわたしは、温泉療法をすすめられていたので、毎朝、検温のあと入浴することにしていました。その日は、患者のひとりのおばあさんと連れだって行きました。ひと気のない浴場へ入り、脱衣室で支度をしかけたとたん、目の前に思いがけずTさんが立っているのを見ました。

Tさんというのは、重症の男子患者です。以前は熱心な信者だったのに、いつの頃からか教会を離れていました。もう先は長くないのに、とその霊魂の状態を心配する信仰厚い人たちが改心をうながしても、宗教の話にはてんで耳を貸そうとしません。そこで、病人同士なら心を開くかもしれないからと、わたしが頼まれて、たびたび見舞っていました。はじめはかたくなな態度でしたが、次第に心がほぐれてきて、祈祷書やロザリオなども受け取ってもらえるようになりました。そして、その頃は病院を出て、奥さんの実家で療養中と聞いていました。

そのTさんが目の前に立っているので、わたしはあきれて目を見はりました。何か苦しそうな感じでうつむいていて、眉間に深く皺をよせています。思わず「Tさん、どうしたんですか。ここは女湯ですよ」と声をかけた、その時です。

Tさんのうしろから蔽いかぶさっていた黒い影がヌッと伸びあがりました。そして、彼の両肩をわしづかみにしていた気味のわるい鉤型に曲った長い指を離し、大きな蝙蝠のような黒い翼をひろげて、わたしのほうへフワーッと飛びかかってきました。……あと、どうなったのか。つかみかかろうと迫る鉤なりの指を見たきり、わたしはあまりのおそろしさに気を失ってしまったのです。

のちに聞けば、仰向けに倒れようとするところを、そばにいたおばあさんが受けとめてくれたので、コンクリートの床に頭を打ちつけずにすんだとのこと。すぐ病室にはこばれ、それから十日間、意識不明で過ごしました。体はもう死人のようにこわばったままで、こんどこそもう絶望とみられて、三日目に病油の秘跡をさずけられ、医師からは、万一生命がたすかっても、知脳障害か失明のおそれがある、と言われたとか。事実、眼にはもう白い膜がかかっているのを見て、母は、今までさんざん苦しんできた者をこれ以上そんな哀れな目にあわせたくない、と思ったそうです。

それに、意識不明の本人は、子供のように安らかな顔をしており、ふしぎなことに、呼べば五、六歳の幼児の時の声で答え、問いかければあどけない返事をしたりする。「うち行く、うち行く」と言うので「何しに?」と聞くと「ボボサン(ままごと)やマリつきするの」などと答える。こんな罪のない状態で召されれば、まっすぐ天国に行けるだろう、と母は周囲の人たちと語り合ったそうです。

わたしのほうは、もちろん周りのことなど何も分かっていません。ただ、今でも記憶に残っているのは、行けども行けども果てしない広い野原を歩きつづけ、疲れ切って座りこんでいたことです。でも、あたりにはきれいな野花が咲いていて、退屈はしませんでした。

ともかく、意識不明がつづいた十日目、当時わたしがまだ籍をおいていた長崎の純心聖母会から、ルルドのお水が送られてきました。それをひと口飲まされたとたん、手足の硬直がとけたのです。マヒしていた手をひろげ、ねまきのボタンがちぎれるほどの力で胸を掻き上げ、ハーッと長い眠りからさめた伸びのように両手を頭上にさしのべ、「ああ、きれいだ!」といいながら目を開けたそうです。見ていた野原の花のことか、枕元に見た花瓶の花のことか、それはおぼえていません。その日から点滴を受けはじめ、体力もつき、ぐんぐんと回復に向かったのでした。

つい自分のことで横道に手間どりましたが、こうして元気をとり戻した二ヵ月後に、例のTさんの奥さんが見舞いに来てくださったのです。「主人は亡くなる前に、笹川さんのお祈りのおかげで救われた、と感謝していました」とお礼を言われます。そこで、あの浴場での出会いを憶いだして、話し合ってみると、ちょうどTさんが病油の秘跡を受けられたその日時であったことがわかり、お互いに深く感動したことでした〉

この経験談によっても明らかにされるように、一般に悪魔は、善を行う者、とくに自分の手中から霊魂を助け出す者を、はげしく憎むのである。なんらかの形で敵意を示し、妨害や仕返しをたくらむ例は、聖人伝のエピソードにもよく見られる。

ひとつ注目しておきたいのは、姉妹笹川が、そういう悪魔のはたらきに関して何の予備知識ももたなかったことである。悪魔の存在は、信仰個条として知っていたが、なぜ自分がこんなにこわい目にあうのか、全然合点が行かなかった。またその現れ方も、まったく想像を超えたものであった。

それに興味深い暗合として思い出されるのは、アルスの聖司祭ビアンネ師が悪魔につけたあだ名である。多くの霊魂を救ったため、しばしば悪魔から有形無形の攻撃を受けたことは有名だが、師は一向にめげず、寝室を焼かれるような被害に遭っても、「またあの “鉤指のやつ” めが…」と苦笑し、「鳥が捕れぬから鳥籠を焼きおった」と言われたと伝えられる。聖画などでも、悪魔は黒いコウモリの翼と、長い鉤型の爪や指をもつ魔物として表現されるが、姉妹笹川は、この種の画を見たこともなければ、前者の伝記も読んだことはなかったのである。

何にしても、このように忘れがたい怖ろしい経験を再三与えられたのは、彼女が祈りの生活において油断することなく、常に聖主、聖母、また天使のお助けに、信頼をもって寄りすがるべきことを、身に泌みてさとるためであった、と思われる。

光と汗と芳香

九月二十九日。大天使聖ミカエルの祝日にあたり、姉妹一同は山を下り、町の教会でミサにあずかった。
帰って昼食後、姉妹笹川はひとりの姉妹と聖堂に入り、ロザリオの祈りをはじめた。最後の第五玄義を唱えかけたとき、聖母像全体が白く輝いているのに気づいた。となりの姉妹の袖を引いて注意をうながし、口祷をつづけながらも、二人して眼をこらした。とくに御衣が白く輝き、両の御手からまぶしい光がさし出ている。……

五連目を唱え終えて、近づく。まず拝礼する姉妹笹川に、連れの姉妹が「あ、おん手の傷がなくなっている」と指し示した。
七月二十七日を最後に、御血が流れることはもうなかったが、十字の傷痕はずっと残っているのが、まるで拭われたように消え失せている。三ヵ月前と同じまったく無傷の掌となっているのに、おどろかされた。けれども、このことは司教様に報告するまでは皆には語らずにおこう、と二人で約束し合い、聖堂を出たのであった。

ところが、その夕方、数人の姉妹が聖堂で晩の祈りを唱えていた時、次の異変が起こり、掌の変化もおのずと皆に知られることになった。祈りが終わりに近づいたころ、御像がテラテラと光りはじめたのである。そのうち、最前列の一人が、汗のようなものが流れはじめたことに気づき、他の姉妹にも知らせに出て行った。

姉妹笹川は、まだ気づかずうつむいていたが、ふと人のけはいに目を上げると、守護の天使がかたわらに現れ、「マリア様が、おん血を流されたときよりもお悲しみになっておられますよ。お汗をふいておあげなさい」と言われた。

そこで脱脂綿の袋を持ってきた姉妹たちに加わり、五人ほどで、新しい綿を手に、おそるおそる御像をぬぐいはじめた。全身をしとどにぬらす汗という感じで、ことにひたいとお首のまわりは、ふいてもふいてもとめどなく、あぶら汗のようなものが滲み出てくる。愕きとともに、心は名状しがたい痛みをおぼえる。目上の姉妹Kは涙をこぼしながら「マリア様、こんなにお悲しみとお苦しみを与えて申しわけありません。わたしたちの罪とあやまちをおゆるしください。わたしたちを守り助けてください」と言いつつ手を動かすのに、だれもが同じ心で、ひたすら強懼のうちに、思い思いの個所をふき取っていた。脱脂綿は、しぼれるほどに濡れていた。

夕食後、一同が聖堂に行ってみると、御像はまた汗びっしょりになっていた。あわてて皆で拭いにかかった。いつも口数のすくない姉妹Oがこの時になって思いあまったように「わたしの綿はちっともぬれない。わたしがふくと汗は出ないようだ……」と悲しげにつぶやいた。とたんに、まるでその不安げな言葉への応答のように、彼女の手の綿は、水に漬けた海綿のように、したたるばかりに濡れたので、びっくりし、つよい感銘を受けたようであった。

そのうちひとりが「この綿からよい匂いがする」と言いだした。めいめい嗅いでみると、バラともスミレとも百合ともつかず、それらを合わせたようななんともいえぬ芳香が感じられた。生まれてはじめてと言えるすばらしい香りに、一同恍惚とした。姉妹Oの「この世の最高の香水も、こんな匂いは出せない!」との断言に、皆うなずき、まったく天国での香りとはこういうものだろうか、と言い合ったのだった。

翌三十日の日曜、聖堂に入った姉妹たちは、またその芳香にうたれた。目上はそれが御像から発することをたしかめに行き、姉妹は各自の席で身をつつむごとき香気に魅了されていた。昨夜の御汗にうちのめされた悲しみに引きかえ、だれの表情も明るさと平和にみたされていた。その後も芳香はつづき、聖堂に入るたび、一同の心をおのずと天上へ引き上げるようであった。

十月七日はロザリオの祝日である。姉妹笹川は、とくにロザリオの珠の一つ一つに心をこめて祈っていた。芳香はことのほか聖堂にたちこめ、さながら聖母の慈愛につつまれているごとく、心はおのずからキリストへの愛に引き上げられるようであった。よろこびに酔うあまりに「この香りはいつまでつづくかしら。ロザリオの月いっぱいつづいてほしい……」という思いがうかんだ。

たちまち、守護の天使が右に姿を見せ、ほほえみながら首をかるくふって、「十五日までですよ。それ以上は、この世にあって、この香りをかぐことはないでしょう。かぐわしい香りのように、あなたも徳を積んでください。一心に努力すれば、マリア様の御保護によって成し遂げられるでしょう」  と言って姿を消された。

芳香は、その予告どおり、十月十五日までつづいた。とくに小さき花の聖テレジアを記念する三日と、最終日の十五日には、強烈に感じられた。姉妹たちにとっても、この恵みは大きななぐさめとなり、今後どのような困難に遭ってもくじけぬほどの励ましを与えられたように思われたのであった。

***

このたびは、天使の訪ればかりではなく、悪魔まで登場することになった。これはとりわけ驚くべき奇異な事柄でもない。前に述べたごとく、神のはかり知れぬ摂理によって、天使の良き助力のほかに、悪霊の邪悪な働きかけも、時として許されるのである。とくに、われわれが何らかの霊的賜を受ける場合、“霊魂の城” の著者大聖テレジアの言うように「悪魔もだまっていない」のである。悪しき霊のはたらきは、無論天使のそれと正反対であって、神の思召しにそむく方向へ持って行くのである。聖堂に入ることを妨げるなどは、神に祈る行為を何より嫌悪するその性質をよく表している。

キリスト信者でも、精神分裂症の傾向がある者は、幻視を見ることがある。しかしその場合、前後にあきらかな病的現象がともなう。また、冷静な客観的判断を欠くゆえに、人が反対すれば、かたくなな自己主張にかたむく。さらに、その精神に内的静謐さがない。一方、一時的に悪霊の働きかけを受ける者は、その影響が去れば、以前の平安が光のごとく霊魂をみたし、神への信頼の心が一層強まるのである。
 姉妹笹川の場合も、この基準によって判断されるべきであろう。

つぎに、日本の保護者と仰がれる大天使聖ミカエルの祝日にあたって、聖母像にあらたな奇跡的変化が起こったことも、注目にあたいする。七月以来三ヵ月近く見られていた掌の傷あとが、輝く光とともに一瞬にして消え去ったのである。

その夕方、御像からおびただしい汗が流れ出た不思議も、姉妹全員が目にし、夢中でぬぐい取った、まぎれもない現実である。のちに秋田大学の法医学教室において脱脂綿が鑑定された結果、人間の体液と認められた。これは疑いをさしはさむ余地のない科学的な実証である。さらに、この “汗” をふくんだ脱脂綿から、また御像自体から、えもいわれぬ芳香が感じられたことも、超自然のしるしとなるであろう。

私自身は、この出来事より半年後に湯沢台に来ることになり、姉妹たちから報告を聞いたのであるが、即座には何とも判断のつきかねる話であった。性急に真偽をたしかめる必要もみとめず、いずれ時とともに何らかの形で判定がくだされるであろう、と思っていた。

その後、たまたま私への訪客に、姉妹の一人が話題の脱脂綿を持ち出して、香りをかがせることがあった。客の驚嘆する様子に、私も(若い時に鼻の手術を受けたので嗅覚に自身はなかったが)同じく綿を嗅いでみて、衝撃を受けた。たしかに、バラにも優る甘美な芳香が馥郁とたちのぼっている。同時に、私のそれまでのためらいと疑惑は一返に消え失せ、“出来事” の真実性を明確に把握したのであった。

われわれはみな、あの使徒トマのように、目で見、手でふれ、自分の感覚でたしかめなければ信じない、という弱点を有しているのではあるまいか。私もこの後、徐々に、マリア像のふしぎな現象に、自身立ち会うことになるのである。

守護の天使たち

ここで数日あともどりして、一つの挿話的出来事にふれておきたい。
十月二日は守護の天使にささげられた祝日である。姉妹笹川がだれよりも実感をもって、この感謝と祝賀の日を迎えたことは想像にかたくない。耳が不自由になってから、どれほど守護の手をまざまざとさしのべられたことか。時には姿を現してまで、導き、はげまし、護られたのである。その主な舞台であった此処の聖堂で、司教の捧げるミサにあずかって祈れるのは、ことさら感謝を表明できてうれしかったにちがいない。
そのミサ中の新たな経験を、彼女は次のように述べている。

〈朝六時半からはじまった御ミサが、“聖変化” にまで進んだとき、急にまばゆい光があらわれました。それは前に(六月十二日から三日間)御聖櫃から放射されるのを見た、あの威光の輝きのような光でした。それが、まぎれもなく御聖体からさし出る、イエズス様の御存在の尊い光輝とさとらされて、まるで射すくめられたように、「わが主よ、わが神よ」と心にくり返しました。

その瞬間、輝く御聖体に向かって礼拝している天使たちの姿が見えました。御祭壇を半円形にかこむかたちで、こちらに背を向けてひざまずいている感じで、八人並んで見えます。

(霊的存在である天使は、一位二位…と数えるようですが、目前に姿があると、人間のように八人と言いたくなります。もちろん、現実の人間ではありませんし、ひざまずくと言っても、足の様子まで見えているわけではありません。衣服もはっきりせず、なんとなく白い光につつまれているだけです。人間に似た姿ではあるけれども、大人とも子供ともつかぬ中間的…というか、年齢を超越した存在です。それでいて、幻影ではない実体感をもっています。しかも、翼などべつになくとも、人間と見まちがえることのない、一種の神秘な光を身に帯びているのです)

わたしはおどろいて、目の錯覚か、とまばたきしたり目をこすったりしましたが、八体の姿は依然うやうやしく御聖体を礼拝しています。

その神秘な光景を見ているうちに、感動のあまりか、威光にうたれてか、祈りの言葉も唱和できぬほど、われを忘れてしまいました。なにぶん小さな聖堂で、おまけにわたしの席は最前列のすこし左手でしたから、すぐ目の前に展開される輝かしい光景に、いやおうなく引き込まれてしまった感じでした。立ったりひざまずいたりの祈りの動作を、一同と合わせることも、出来ない、というより忘れていたような気がします。

やがて御聖体拝領の時になっても、なお呆然と居すわっていると、いつもの守護の天使がうながすように寄って来て、御祭壇のほうへ導かれました。その時、ありありと認めたのは、前に進む姉妹たちの右肩に寄り添うようにして、それぞれの守護の天使が(本人よりいくらか小柄な感じで)付き添っていたことです。わたしの天使と同じように、いかにも身近に、やさしく守り導いておられる様子です。これを目撃して、どんな委しい神学的説明よりも、ひと目で守護の天使の存在の意義を深くさとらされた思いがしました。

この一部始終は、夕食後の機会に、司教様に御報告しました。 今考えてみると、あの時天使たちはたしかに八体のお姿で見えました。私たちも、七人の姉妹と司教様とで八人。……守護の天使の祝日にちなんで、それぞれの天使が、礼拝の手本を示し、貴い導きの姿をかい間見せてくださったのでしょうか〉

第三のお告げ

十月十三日、土曜日。
いつものように、朝の聖務が終わり、つづいて聖体礼拝が始まった。ロザリオの祈りを唱えるうちに、姉妹笹川の目にまた “御聖体の威光の輝き” が現れた。それは聖櫃から発して、聖堂いっぱいに拡がってゆくようであった。同時にマリア像からあの妙なる芳香が、すべてをつつみこむように、漂ってきた。

陶酔のうちに、祈りの時間はたちまち過ぎ去り、なごり惜しくも聖堂をあとにする朝食の時刻となった。 食後、修室にしりぞいたが、まだ心は上の空で、仕事も手につかぬ有様であった。やがて、姉妹たちが外出するため、留守番を仰せつかったのを幸い、さっそく聖堂に行き、ひとりでロザリオを唱えることにした。
ここからまた、彼女自身の報告をみることにしたい。

〈 ロザリオを取り出してひざまずき、まず十字の印をしました。が、その動作が終わるか終わらぬうちに、マリア様の御像のほうから、あのえも言えぬ美しいお声が、わたしの聞こえない耳にひびいてきたのです。最初のお呼びかけを聞いたとたん、わたしはハッとひれ伏し、全身を耳にして聴きいりました。

「愛するわたしの娘よ、これからわたしの話すことをよく聞きなさい。そして、あなたの長上に告げなさい」

(少し間をおいて)

「前にも伝えたように、もし人々が悔い改めないなら、おん父は、全人類の上に大いなる罰を下そうとしておられます。そのときおん父は、大洪水よりも重い、いままでにない罰を下されるに違いありません。火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。

その時わたしたちに残る武器は、ロザリオと、おん子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。

悪魔の働きが、教会の中にまで入り込み、カルジナルはカルジナルに、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。

特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪のゆるしはなくなるでしょう。勇気をもって、あなたの長上に告げてください。あなたの長上は、祈りと贖罪の業に励まねばならないことを、一人ひとりに伝えて、熱心に祈ることを命じるでしょうから」

ここでちょっとお言葉が切れたので、そっと顔を上げてみると、聖母の御像はやはり光り輝いていて、お顔はいくらか悲しげに見えました。それで思い切って「私の長上とはどなたでしょうか」とおたずねしたところ、いつの間にかそばに付き添っておられた天使からたしなめられました。

(べつに声を出して何か言われたわけではありませんが、“このような機会に、伺うのなら、もう少し大事なことがあるでしょうに” という意見を感じたのです。わたしとしては、日ごろ司教様はもちろん、目上の三人の姉妹も長上と思っていましたから、間違いがあっては、とついお聞きしたのでした)

けれども、御像からはすぐお声があって、「それはあなたの会を導いている伊藤司教ですよ」と答えながら、にっこりほほえんでくださいました。

さらにつづけて、「まだ何か聞きたいですか。あなたに声を通して伝えるのは今日が最後ですよ。これからはあなたに遣わされている者と、あなたの長上に従いなさい。ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」 とお言葉がありました。

こんどはもう緊張のあまり口がこわばってしまい、「はい」とお答えするのが精いっぱいで、ひたすらひれ伏していました。しばらくして顔をもたげてみると、まばゆい光は消え失せ、粗末な聖堂の片隅に、いつもの聖母像がひっそりと立っておられるだけでした。

光は消えても、お声は魂の奥深く刻みつけられたようで、私のような者にこれほどのお言葉を下さるとは、と恐懼と感謝の思いがあふれてきました。またひれ伏して、「汚れなき聖マリアのみ心よ、われらのために祈りたまえ」「すべての者のおん助けなる聖マリアよ、われらのために祈りたまえ」の祈りをくり返すばかりでした〉

* * *

御像を通して聖母が姉妹笹川に与えられたお言葉は、三回にわたり、このたびが最後のお告げとなった。ファチマの聖母出現の出来事は六回あり、十月十三日が最後のものとなったように、秋田での聖母のお告げも十月十三日をもって終わっている。これは単なる偶然の一致とは思われない。

ファチマでの聖母の予言、いわゆる “第三の秘密” は、ルチア修道女によって教皇庁に伝達されたが、その内容はいまだに公表されていない。歴代の教皇もコメントを避けておられる。いきおい、恐慌を煽るような憶測が世に流れて、人々の好奇心を刺激している現状である。

しかし、この “秘密” は、全く伏せておくにはあまりに人々にとって重大な事柄であるゆえに、聖母は秋田の御像を通して、それをいくらか緩和された形で発表されたのではないか、と私は思う。

十年前に私は、カトリック・グラフ誌の掲載の前に、聖母像と姉妹笹川に関する一連の出来事を、彼女の日記のメモを元に記述したことがあった。その原稿をまず伊藤司教に提出したところ、一つの疑問点として指摘されたのは、この第三のお告げの項であった。これは、巷間に流れている “ファチマの第三の秘密” のいわば “焼き直し” ではなかろうか、という疑念をもたれたわけである。

本人の側になんら作為はなくとも、印刷物か何かの媒介による知識が深層心理に入り込み、無意識にはたらいたものではないか、という疑いは、誰にも容易に持たれるであろう。 司教はこの点に関し、何度も姉妹笹川に質問をくり返して、たしかめられたようである。もっとも、彼女をよく識る指導者として、これは念のための公正を期す配慮であったと思われる。

第一、最初にこの “第三のお告げ” の報告をしに来た時、お言葉の中にある “カルジナル” の語の意味を本人は知らず、「カルジナルって、どういうことですか」と無邪気に尋ねたことは、司教に感銘を与えたのである。「枢機卿のことですよ」と教えたところ、「ああ、そうだったのですか」とはじめて合点し「枢機卿という言葉なら公教要理で習ったことはあるけれど、こういう横文字は初めてで、何のことかと思っていました」と白状した。

この事実をとっても、このメッセージが彼女の創作能力を全く超えるものであることは、明らかである。
ともかく、長い十年の年月はこうした疑いも、さまよう霧のように吹きはらったのであった。 かくて、秋田の聖母の第三のお告げが、信ずるに足るものとなるなら、これに據ってファチマの第三の秘密も、ある程度想像がつくのではなかろうか。

これが最後と告げられた、今回のお言葉のかなめは、人々が改心せぬならば、やがて恐るべき天罰がくだされる、との警告である。お声がいったんとだえたとき、姉妹笹川が聖母像を見上げてみると、お顔が悲しげにみえた、という。これは、この要請に応えて、どれほどの者が祈りと贖罪の業にはげんでくれることか、を考えて、その心もとなさを暗に訴えられたのではなかろうか。

聖母はファチマでの御出現においても、同様のことを再三強調されたにもかかわらず、人々は無視してしまったのである。このたびは日本の秋田の地を選び、ささやかな木彫の像と素朴な一姉妹を通して、瞠目すべき超自然的現象の証印をもって、この重大な警告をくり返されたのである。各人に責任を問われる何か厳粛な気が、身に迫るのを覚えずにはいられない。
われわれもまた、聖母のこれほどの惻々たる憐れみのお呼びかけに、冷淡、無関心とまではゆかずとも、一時的な上すべりの好奇心を向けるのみで終わるのであろうか。

芳香と悪臭

十月十五日は大聖テレジアの記念日にあたる。先に七日のロザリオの祝日に天使から告げられていたように、天来の芳香はこの日をもって終わるはずであった。事実、聖堂には一段と馥郁たる香りが朝からみなぎって、一日じゅう姉妹たちを魅了した。地上のどんなバラも及ばぬ妙なる香りに、これこそ天国の花の匂い、と口々に言い合った。どれほど嗅いでも倦きたらぬ思いであった。

翌十六日、早朝の祈りに聖堂に入った姉妹たちを待ちうけていたのは、今度は芳香どころかものすごい悪臭であった。それも普通の臭気ではない。あの芳香が地上のものとは思えなかったように、これも何か神秘な、この世ばなれした無類の悪臭であった。さらに、ふしぎな “おまけ” まで付いていた。
姉妹笹川の回想によれば、次のごとくである。

〈お聖堂の戸を開けると同時に襲って来た臭いは、思わず花を蔽ったほどひどいものでした。香部屋が、その源のように、とくべつ臭うので、いそいで調べましたが、原因らしいものは何も見あたりません。それに動物の死臭ともちがう、今まで嗅いだことのない臭さですが、一同がすぐに連想したのは、タクアンの腐った臭いでした。でも漬物小屋は反対の方角にあります。ともかく、聖務の時間なので、むかつく気分をむりやりお祈りに集中させました。

そして、ロザリオの祈りが終わったときKさんが聖母の御像の前のロウソクを消しに立ち上がりました。とたんに「あっ」という身ぶりで、隣りのIさんの膝の前を指さしました。こちらは、何か白い米粒のような物を示されて、つまみかけ、その手ざわりに「ワッ、蛆!」と言われたようでした。同時にわたしたちも、それぞれ隣りの人の前に、這っている一匹の蛆虫を見つけて、「そら、そこにも」「あなたの前にも」と教え合って、身ぶるいしました。いったいどこから出て来たものか、手分けして調べましたが、これもふしぎな臭気と同様、原因をつきとめることはできませんでした。

この二つの出来事は、昼の食事のとき、当然にぎやかな話題となりました。あの悪臭は、十七日間もつづいた芳香を満喫したあとだけに、ひとしお烈しく身にこたえましたが、やはり自然の領域よりも神秘の世界に属するもの、と皆の意見が一致しました。

蛆虫のほうは、白く光っているいやらしい姿に、わたしはおのずと、自分の醜い真実の姿をむき出しに見せつけられた気分がしていましたが、姉妹たちも、めいめい同じ思いで深く反省をうながされていた、ということでした。二週間以上も天来の芳香をたのしませていただいて、なんとなく良い気分にのぼせていた私たちは、たちまち冷水を浴びせられたように、身をちぢめて恐れ入ったかたちになりました。

あの芳香こそ、いささかの罪の汚れもないマリア様の香り。この悪臭こそ、罪にまみれた私たちの臭い。聖母の御存在がみなぎらす妙なる香気が去れば、あとは臭気ふんぷんたる私たちの体臭が立ちこめる。神のお恵みが取り去られれば、われわれはいったい何者か。一匹の蛆虫に過ぎないではないか……と誰もが心から反省していたのでした。蛆虫はこの一回きりで姿を消しましたが、おぞましい悪臭はこのあと三日間もつづいたのでした〉

十一月四日。司教が来られ、例によって、何か変わった事があったかと訊ねられた。姉妹笹川は、十月十三日の聖母の第三のお告げと、先の芳香が十五日までつづいたこと、その翌日から三日間悪臭になやまされたことなど、一部始終を報告した。

翌朝、司教の捧げるミサにあずかり、聖体拝領を終えたときいつもの守護の天使が現れ、「あなたの長上は、前から考えていたこの会の創立のために、ローマへ正式な願いを出そうとしておられます。多くの困難があるでしょうが、マリア様が “貧しさを尊び贖罪にはげむように” 望まれている会として、パパ様のお心を喜ばせ、正式な認可がおりるでしょう、とお告げなさい」と語って姿を消された。このことは、ミサが終わってすぐ、司教に報告された。

年があらたまって、一月三十日にまた一つ、変わった出来事が起こった。
この年は、秋田気象台始まって以来という大雪に見舞われたことで、人々の記憶に残っている。とくに一月三十日は、一日中烈しい雪が降りつづけた。

その夜、姉妹笹川は、真夜中過ぎと一時半と三時四十分に目をさましたが、三回とも、雪の重みで屋根がつぶされそうになっている夢におびやかされた。夢の中で、つぶれかかってくる天井を両手で懸命に支えていたので、目がさめると、肩はこり胸は苦しく汗びっしょりになっていた。

夢でよかった、と思いながらも、なおも降りつづいている雪が気になった。夢の中では、落ちかかってくる天井の重みに、さし伸べた腕が堪えられなくなるたびに、守護の天使が現れ、代わって支えてくださった。

三回とも、そうして助けられた。どうもこの降りようでは、相当に雪が積もって、ほんとうに屋根に危険な重圧がかかっているのではなかろうか。朝になったらすぐ雪下ろしの作業を願わなければ……と夜の明けるのが待ち遠しかった。

四時半の起床では外はまだ暗いが、降りつづいている雪を透かして、向かいの司祭館の屋根に白いものが二メートルほども積もっているのが、みとめられた。これはあぶない、と思ったが、自分は力仕事など手も出せぬだけに、そういうことに口を出すのも常々遠慮がちであった。

朝の祈りが終わり、朝食になるのを待って、管理を受け持つ姉妹に、心配を話してみた。危険を暗示するような夢を三度も見たことを告げ、一刻も早く雪下ろしを、と願った。ところが全然相手にされない。この家を建てる時、太い柱を充分に使っているから、このくらいの雪ではビクともしない、と自信たっぷりである。こちらは、妙高での雪の猛威の経験を持ち出し、重圧で二階家もおしつぶされる恐ろしさを、しつこく説いてみたが、てんで受けつけてもらえない。

それでも不安で居たたまれず、他の姉妹に訴えて、口添えをたのんだ。一応念のためと外に出て見た責任者の姉妹は、二階の屋根の上を見上げて、色を失った。すでにかなりの垂木が折れたとみえ、母屋の屋根の大部分が窓がまちの上十センチ位まで落ち込んでいる。しかも、ふしぎなことに、姉妹笹川の部屋の上だけは元の高さに保たれているので、凸字形に左右になだれ落ちている。

夢の話の真実性をまざまざと見せられて、この目上の姉妹は 「ほんとに、これこそ神通力で助けてくださったのね。まったく大したものね」と感にたえて皆に告げた。
それから、早く手を打たねば、と大さわぎになった。思わぬ大雪で、家々はどこも雪下ろしに忙殺され、働ける人はすべて動員されていた。ようやく、下の村人が二人救援にかけつけて、大屋根にのぼり、軒先に白い崖をめぐらすほどに雪を落としてくれた。

なおも降りしきる雪空を仰いで、姉妹笹川は、もしもあのまま誰も何も気づかずに過ごしていたら……と想うだけで慄然とした。目前に迫っていた惨禍を免れさせて頂いた恵みを、心から感謝したのであった。
もっとも彼女自身には、夢の中での奮闘が、現実の身にひどくこたえていた。両腕の筋肉は固くこわばり、足全体は登山でもしたように萎え、胸は苦しく、体中の力が抜け、まさに疲労困憊の極にあった。何事にもがまん強いがんばりやが、とうとうその午後は目上に願い出て、休養を取ることにした。
その後、屋根は春の雪どけを待って修復されたが、大工は被害におどろいて、垂木が四十二本も折れている、と告げた。一同愕然として、あらためて感謝の祈りをささげたのであった。

* * *

今回の “事件” は、直接マリア像に結びつくものではなく、姉妹たちの間に起こった二つの出来事である。
その一は、十七日の間めぐまれた天上の香りに代わって、堪えがたい悪臭に三日間なやまされたことである。芳香はあきらかに聖母像から発散していたが、臭気の根源はつきとめられなかった。もしやネコかネズミの死骸でも、と手分けして探してみたが、何もみつからない。各自の前に忽然と現れた蛆虫も、どこから這い出たか、ついに分からずじまいであった。

悪臭も何かこの世ならぬ神秘なものを感じさせただけに、このふしぎな蛆も、象徴的な意味を荷って出現したように思われた。そういえば、まるで腐臭の溜り場のように、いちばん臭気の甚だしいのは香部屋で、ここは皆の告解場に使われている。誰からとなく、私たちの罪の臭いだ、と言いだし、頭を垂れてうなずき合った。タクアンの腐ったような汚臭は、“まさに私たち日本人の罪の臭いだ” とたびたび強調したという姉妹Kの感想は、なかなか穿った指摘といえる。

「芳香はマリア様の体臭で、この悪臭は私たち本来の臭いだった。良い香りのお恵みにいい気になっていたから、真実を思い知らされた」という姉妹笹川の告白は、一同の思いを代弁するものである。さらに、目の前につきつけられた蛆虫に、各人が自分の姿を見るごとく、おぞ気をふるって、「本来お前は何者か。神の尊前には一匹のみにくい蛆に過ぎないではないか」と反省をせまられていたという。

それにつけても、最初は自分の前の虫に気がつかず、めいめい隣人の蛆が目についた、というのも、意味深い。「己れのあさましい姿は、自分からは目につかないものなんですね」という彼女たちの述懐は、まことに当を得ていると思う。それに、蛆虫というものは、聖書にも罪の汚穢と苦渋の象徴として用いられている。地獄のおそるべき却罰の状態を「その火は消えず、その蛆は死なず」と、キリストも描写される。

われわれの生きているこの現実の世界は、神の祝福と恵みのゆたかに薫る場ともなれば、また、至聖なるおん者の不興と呪いを受けて悪臭をはなつ場ともなりうる。前者は神の恩寵のはたらきのもとに、やがてその光栄の充ちみてる天国へと導かれる前庭と考えられ、後者は神に唾棄されて自他ともに憎悪と絶望の底なき淵へとひらく断崖を想わせる。

これらは、イエズスの言葉にどのように従うか、世の人々に示された分かれ道の道標のように、くっきりと明暗を現している。そして、聖母像を通じての第三のお告げの直後の出来事であるだけに、とくに意味を含み、真摯な反省をうながす契機と考えられるのである。

その二は、天使に扶けられた姉妹笹川の夢の世界での “奮闘” によって、豪雪の被害を免れた事実である。彼女の弱い身体を盾として、聖体奉仕会の全員が自然の猛威から守られたことも、一つの象徴として見ることができよう。守護の天使の超自然的援助によることも含めて、聖母のお告げを遵守する者に、神の加護が約束されることを示しているごとくである。

こんにちの文明世界におけるキリスト教は、カトリックにおいても科学偏重にかたむいて、現実の世界にはたらく超自然の干渉を軽視しがちである。秘跡における超自然の有効性はみとめても、それ以外の分野では軽くあしらうきらいがある。現代人は、天上界に属する天使のはたらきや干渉が、この地上の人間社会に及ぶことを嫌うかのようである。とくに人文科学として心理学を尊重し、それによって宗教的超自然や天使の存在なども片づけようとしている。

今の場合、姉妹笹川の超自然的夢の世界とわれわれの現実の世界が、雪害との戦いを通して、まぎれもなく結びついていることをさとらされる。これは、天上界とこの地上界とが、天使のはたらきと仲介によって緊密に結ばれている真理の、一つのあかしではなかろうか。

聖母マリアが神の “みことば” をやどす神秘は、大天使ガブリエルのお告げによってはじまる。
天上界の至聖なる三位一体の神と、この地上の現実に生きるひとりの人間おとめマリアとのまじわりが、天使の仲介によってはじめて成立した。それを思えば、こんにちも神の聖旨の仲介者として守護の天使のはたらきかけがあることは、一向ふしぎではない。むしろ、神がすべてをしらしめしたもうという真理の一端を示すもののようである。

以上の一見ささやかな出来事にも、聖母像を通して与えられた “お告げ” の重要な意味を理解する助けが含まれているのではなかろうか、と思うのである。

隣人愛

二月二十五日、月曜日。
夕の聖務に先立つロザリオの祈りの時であった。二連が終わり、第三連目に移る瞬間、姉妹笹川に守護の天使が現れて、こうささやかれた。「いま悩み苦しんでいるひとりの姉妹がいます。あなたはこの姉妹の身につけている物を一つ借りてきて、初金曜日まで身代わりになってあげなさい。その日になったら、その人への返事をしましょう」そして姿を消されたので、彼女はロザリオの祈りからそっと脱け出て、まっすぐ台所へ行ってみた。

ちょうど当番で働いていた一人の姉妹にかけ寄り、身につけている手ごろな物を考える間もなく、首のメダイに目が行き、いきなり鎖をはずし「これをちょっとわたしに貸してください。お話はあとでするから」と言うが早いか自分の首にかけ、聖堂の祈りのグループに戻って行った。それは自分でもおどろくほどの早業であった。

ところがそのあと、もっと驚くべきことが起こった。聖堂に戻って、祈祷のつづきに加わってみると、まるで今までの自分がどこかへ行ってしまったように、全然祈りというものができない。

いま神の尊前にいる、心をこめて祈りを捧げねばならぬ、と理性は命じるのに、精神の集中がまったくできない。思考は散漫となり、心には雲のごとき雑念が去来する……。 “祈りができない” とはこういうことだったのか、とはじめて覚らされた気がした。

これまでもこの姉妹から「気が散って祈れない」との打ち明けを聞かされてはいたが、その訴えが理解できず、「なんで?」と問い返すばかりだった。「気が散るって、どういうこと?」とほかの姉妹たちにもたずねたりするうち、だれでも常に祈りに没入できるとは限らず、多かれ少なかれ心の散漫とたたかっているのだ、とわかり、自分の例外的恩恵をひけらかすごとき質問をつつしむようになっていた。

たしかに姉妹笹川は “祈りの人” としても稀な特典的恵みを受けていた。もともと幼い時から集中力に秀で、何をするにも一心に没頭するため、勉強も稽古事も上達が早かった。そのような具合だから、信仰に入ってからは、まっすぐに祈りに沈潜するようになった、という。

祈るのはどのようにするのか、と問いただしてみると、答は実に単純明快で、洗礼を授けた指導司祭が、祈りとは神様とお話することだ、と教えたので、以来その通りにしているだけ、という。相手から返事がなくてもかまわないのか、と問えば、そんなことは問題でない、という。もともと父親にかわいがられた父親っ子だから、神様にも父に対するようにお話する。マリア様には、やはり母に向かう気持ちでお話ししている……と天真らんまんである。

“幼な子のごとく” と言われるのは、こういう心根をさすのであろうか。それでも、祈りの途中でほかの考えが起こることはないのか、と念をおしても、神様の前に出てお話ししているのに、どうしてほかのことを考えられるのか、と不審そうである。それに口祷の時は、その祈祷文の意味を思うし、また今とくに祈ってあげるはずの人々の顔がずらりと見え、そのひとりひとりに心をとめてゆけば、時間がたりぬほどで、余計なことを考えるひまなどない、という。またそれがだれでも当然、と思っているらしい。

そういう恵まれた境地にいただけに、この経験は大きなショックだった。考えが右往左往するばかりか、周囲のすべてが気になる。今まで “人前をつくろう” とか “気どる” とかいうことは、言葉としてしか知らなかったのが、はじめてわが身に実感された。そんな心の状態のむなしさ、苦しさというものに、ようやく合点がゆき、深い同情をもって身代わりの祈りを捧げようとつとめたのであった。一方、当の姉妹は、「こんなにお祈りに集中できるなんて、はじめて!」とあかるい笑顔ではしゃいでいた。

一日おいて二十七日は、四旬節の灰の水曜日に当たり、大斎・小斎を守る日であった。かねて福音書に学んだ通り、この種の悩みには断食を伴う祈りが効力をあらわすことと思い、姉妹笹川はとくにきびしい断食をした。胃の具合を口実に、水一滴とらず一日を過ごし、ただ心をこめて、祈れぬままに「主よ、憐れみたまえ」を連発し、聖母に向かって「お助けください」と、言葉にならぬ射祷を必死にくり返していた。

その夜七時半から “十字架の道行” の祈りがあった。暗く閉ざされた精神をむち打って、苦しい信心業を終えたとたんに、暗黒のかなたから魂にサッと一条の光がさし込んできた思いがした。心の片隅に一点の灯がともったようなたのもしい感じであった。同時に、われに返ったように、いつもの祈りの精神がもどってきた。そうして翌日もそのまま静朗な朝をむかえた。

ところが、例の姉妹のほうはすっかりふさぎ込んでおり、人ともろくに口をきかず、ついに一日部屋にとじこもってしまった。その内心の苦しさというものを今は身に泌みて知る姉妹笹川は、たびたび見舞ってなぐさめ「お互いの弱さ醜さをみんなマリア様にさらけ出して、いっしょにお助けを願いましょう」と、同病相憐れむ態度で力づけた。かげでは、できるだけ断食と祈りをつづけていた。

ようやく月が替わり、天使に約束された初金曜日が来た。朝、例の姉妹と出会うが早いか「お祈りありがとうございました」とあかるい笑顔であいさつされた。そのおかげをはっきり感じた、という。こちらはなおも気をゆるさず、祈りをつづけた。

その夜の “十字架の道行” のあと、暗い聖堂にちょうど二人で残っていると、守護の天使が姉妹笹川に現れた。「信じなさい、委せなさい、祈りなさい」と隣りの姉妹への忠告のように言われる。そのままをくり返して伝え、その姉妹が「信じます、委せます。祈ります」と答えると、天使の姿は消えた。とたんに姉妹笹川は、前に借りたメダイを無意識に手に持っていることに気づき、それを隣りの姉妹に返した。彼女はすぐに首にかけ、聖母像の前にすすみ出てひれ伏した。「マリア様、私は信じます。委せます。祈ります」と声をあげて祈ったとあとから言っていた。

こうしてこの姉妹は、十字架として与えられていた苦しみから一挙に解放されたわけではないが、やがて遠い将来にせよ、試練をのり超えられる信頼と希望の光を、恵まれたのであった。

* * *

今回の出来事は、だれの目をおどろかすこともない、純然たる内面の世界の話である。ただ、一姉妹の内心の苦しみにともにあずかって祈った友情ものがたり、ともみえるが、実は姉妹笹川自信にとって、一つの予備的な恩恵であった。三つの忠告をもって信・望・愛の重要性を示し、これから起こるかずかずの困難にたいする見通しと心がまえを与えられたものとおもわれる。

現代の風潮では、宗教家でも神や仏をただ信じるというより、信仰の対象を学問のそれのように究明して、知的に把握することを重んじる傾向がある。カトリック界でも、神学的知識がむやみともてはやされ、求められている。しかし、研究して理解したことだけを信じるのでは、信仰といえるであろうか。それは知識に過ぎないのではないか。

だいいち、いくら人知をつくしたところで、神の神秘の深淵をきわめられるものではない。いくらかでも探りたければ、神から与えられる信仰の恵みにたよるほかない。人はよく、まず知らなければ、神に祈ることもそのはからいに身を委せることもできない、などという。そのように考える人は、自分の能力を信じ、自分にだけ頼る傾きがある。全くの他者であり、およそ計り知れぬ神という存在に祈る心にはなれないわけである。

目にみえる世界からして、そこに充満する神秘はわれわれの知識の遠く及ばず、理解をはるかに超えるものである。目にみえぬ精神界のふしぎにいたっては、人知の微かな光では何もつかめず、信仰の光によってのみ無限の神秘をさぐりうるのである。知識万能主義の人には、精神界の苦しみとその身代わりの事実など、およそ荒唐無稽の夢ものがたりとして、一笑に付せられるだけであろう。

姉妹笹川が、天使のすすめに従って、一姉妹の精神的苦痛にともにあずかってあげたことには、更に、隣人愛の模範を見ることもできる。こんにち、このような種類の隣人愛は、あまり顧みられぬようである。教会史上に残る聖人たちは、自分自身苦しみに身をゆだねて、隣人を愛する人々であった。わが身は安らかに保って、ただ宣教に従事しても、神のみ言葉は安易に実るものではないのである。

姉妹笹川を通して天使が教えたものは、目に見えぬ業とはいえ、具体的な隣人愛の実行にほかならない。現代は物質的なやりとりのみを、それも懐の痛まぬ程度の応酬を、隣人愛の実施としているようであるが、真に神の聖旨にかなう業であろうか。キリストはきびしいことを言っておられる。「自分を愛してくれる者を愛したからといって、あなたがたに何の報いがあろうか。自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、何か特別なことをしたのであろうか」

この試練に際して「信じなさい。委せなさい。祈りなさい」と教えられたことは、その後の十年間の苦難のかずかずを思うとき、他の誰よりも、姉妹笹川にとって貴重な恵みであったと言えよう。司教委嘱による二度の調査委員会から受けた心身の打撃──真相糾明という大義名分も先入見に牛耳られると、しばしば毒ある針をふくむことになる──に加えて周囲の疑惑の目──姉妹たちも弱い人の子であり、権威筋の断言には動揺せずにいられなかった──などの苦悩の嵐の中で、ひたすら信じ、委ね、祈ることに支えを見いだしていた。ここにも神の慈愛のはからいを見るのである。

以上、書きつづけてきたことは、私がここに来る前の一年ほどの間に起こった事象である。自分で見聞したわけではないから、詳述するについては、姉妹笹川の日記をもとに、その折々の事情をあらためて本人に問いただして正確を期した。

一九七四年の三月十日、まだ雪深い湯沢台にひっそりと住む姉妹たちの許に、私は身を寄せることになった。私にとっては社会での宣教生活に一年の休暇を許された形であったが、今思えばこれが半生の長い宣教活動にピリオドを打つものであった。ここで聖母像をめぐるふしぎな出来事に出合ったことは、私個人の予想や希望と全く関わりのないめぐり合わせであり、天の配剤の前に頭を垂れるのみである。

次章からは、私が直接見聞きした事柄を報告することになろう。
思えば、若いころ司祭職にあこがれたのは、神のみことばの宣教のつとめに惹かれたからであった。念願の司祭となった以上、わき目もふらず宣教ひとすじに生きるつもりであった。みちのくの山深い里の一修道院に、姉妹たちとかくも長期間生活をともにすることなど、毛頭考えもせず、意図せぬことであった。
今にして深まるのは、聖母の御心に惹かれるまま、まさに摂理の霊妙な糸にあやつられて来た、という感慨である。

ためらいの日々

春浅い湯沢台に住みついた私の最初の日課は、ここのささやかな生活のリズムに順応することであった。
やがて姉妹たちの口から、待ちかねたように、これまでのふしぎな出来事の委細が、語られはじめた。
まず私は当惑した。そのような事柄は、おいそれと信じられるものではない。それに、奇異な現象の中心人物とみられる姉妹笹川も、べつに他と変わる所のない、ごく普通人の感じである。聞かされる話だけが、夢の中か別世界の出来事のように、現実から遊離していて、私にはさっぱりつかみどころのない情況であった。

いきなり、天使がどうのこうの、と言われても、誰しも応対にこまるであろう。天使が自由自在にとび廻れる場としては、黙示録の世界くらいしか考えられないではないか。しかし、これまで述べてきたあれら一連の出来事は、姉妹笹川に出現する天使の事実を信じなければ、理解も解決も不可能なわけであった。

だいたい自分の今までの生活をふり返ってみても、聖書によむ以外に、天使が現れた話など、身近にも遠くにも、聞いたことがない。守護の天使にしても、そうたやすく姿を見せるものであろうか。私にとって、その実在は信じられても、それは信仰の世界にのみ存在する性質のものであった。

それゆえ、姉妹笹川の守護の天使が、まるで人間のひとりのように姿を見せて語りかけ、応答もする、などと聞かされても、そのまま呑みこむわけにはゆかぬ。いくら神秘の世界に属することとはいえ、何か現実に認識できるそれなりの証拠が必要であった。

そこで私は、頭から拒否はしないまでも、何か信じるに足る証明を、暗に求める心の状態にあった。
たとえ好意的にみても、その天使というのが、真の実在であるのか、いわゆる深層心理のはたらきに属する幻影であるのか、見きわめる必要が感じられた。

精神分裂症というような疑いは、全然念頭にうかばなかった。生活をともにするにつれ、彼女が、普通人と一向変わらぬことは、いよいよ明らかになる。ことに祈りにおいて、まったく異常性がみとめられぬし、信仰生活において特に恵まれているという印象も受けない。あらゆる点で、他の姉妹たちと異なるところがない。食卓の会話でも、皆と同様に、時におしゃべりであり、話しぶりに多少の誇張もあれば、言葉の意味のとり違えなどもしている、ほほえましさがみられた。ともかく、そんな状態のうちに一ヵ月半が過ぎ、私は常に、“信じるために必要な何か” を、心待ちにしていたのであった。

マリア庭園の発想

みちのくの遅い春も四月半ばともなれば、窪地の残雪もようやく消え、見わたすかぎりかげろうのゆらぐ世界となった。小さな修院をとりかこむ原野に立ち、遠くそびえる太平山、近くにならぶ丘々を眺めるうち、私のうちにひとつの夢がふくらみはじめた。

日本の風光の美は、山や川など自然の起伏に富み、四季の変化に恵まれる点に、負うところが多いと思われる。そして、そのような美の条件の具わっている所には、必ずといってよいほど、昔から宗教的な礼拝所が建てられている。私は、高野山をはじめ比叡山、永平寺その他の名刹を訪ねるたびに、その感を深めていた。ヨーロッパでも、キリスト教の有名な巡礼地は、きまってそのような場所にみられるようである。

また私はかねてから、日本人の心情に聖母への信心を植えつけることを念願としてきた。というのも、これまでキリスト教国の人々の信仰の根づよさや犠牲心をみると、それは単なる伝統や教義的理解によって養成されたものではない、と思われたからである。多くの聖人伝を読んでも、そこに聖母への素朴で強烈な信心を見いだすことができる。

ヨーロッパの人々が、カトリックの純粋な信仰を、二千年近くも養い育て、保ちつづけてきたというのは、ひとえに聖母への厚い信心の賜であったに相違ない。われわれに身近な日本の切支丹の人たちにしても、あのおそるべき迫害の中で、サンタマリアへの信心によって、キリストに対する信仰を守ってきた、という事実はまさに驚嘆に値する。

これらのことによって私は、日本の国土にキリスト教の信仰を根づかせるためには、とくに聖母の御保護と、人々の聖母に対するまことの信心とが、大きな意義をもつのではなかろうか、と気づいたのであった。
そういうわけで、以前、司牧の任にあたっていた教会において、聖母のルルド出現百年目を記念して聖母像の制作を依頼し、庭に安置したのであった。

さらに、聖母信心のために、ふさわしい庭も造りたいと考えた。とくに日本の庭は宗教的雰囲気にみちているので、そういう庭園の企画をたてた。だがいざ実行となると、資金の捻出が問題となり、信徒たちの一致した賛同は得られなかった。にもかかわらず私は、聖母の御保護に信頼して実施にふみ切った。こんにちも、その信頼が予想以上にむくいられたことに感謝し、多くの協力者のために祈りつづけている次第である。

そのような経験があるだけに、こんどの “夢” というのも、べつに突拍子もない思いつきではなかった。
まだ自分としては確信をもつに至らないけれど、ここが聖母に選ばれた土地であるとすれば、祈りの園としてマリア庭園を造ることも、将来のため有意義ではなかろうか、と考えるようになったのである。

そこで、聖体奉仕会の姉妹たちに思いつきを話し、それとなく意向をはかったところ、全員が賛成で、ぜひ実現させたいということであった。しかし、ここでもやはり問題となるのは、要する費用であった。
約二千坪という広さの地所を手がけるだけに、経費も並々ならぬものとなる。責任者の姉妹たちは、会の長上たる司教様が健康を害され入院中であったので、お見舞を兼ねて訪ね、この計画を語って許可を願った。が、案の定、費用をどうするかという点で、難色を示された。もちろん、まだ全然予算も立たぬ話なので、一応できるだけのことをし、可能な範囲での庭造りをしつつ、あとは御摂理に委ねる、ということで、ようやく納得して頂いたようである。“御許可” の報告は、修道会の全員に大きな喜びと希望をもたらし、日々の生活のはげみと支えにもなったのであった。

“聖母に捧げる日本庭園” は、毎日の共同祈願の意向に加えられ、また聖ヨゼフのお取り次ぎをも願うようになった。五月一日の “勤労者聖ヨゼフの祝日” を迎えて、経済的にも責任を感じる私は、御ミサを捧げる前に、一言申し述べた。「今日は勤労者聖ヨゼフの祝日でありますので、マリア庭園のために、とくに聖ヨゼフのご保護を願いましょう。聖ヨゼフは聖主と聖母のために、ご自分の一生涯を無にして尽くされた方ですから、天国においても、きっと、聖母のために造られる庭のために、喜んで協力して働いてくださるに違いありません。そのための御ミサを献げます」

御ミサが済み、朝食を終えたあと、いつものように聖体礼拝を行った。祈りの後、姉妹笹川が私に近づいてきて、次のような報告をしたのである。
「いつも大事なことを教えてくださる守護の天使が、今日、御聖体の礼拝中に現れて、 『あなたたちを導いてくださる方のお考えに従って捧げようとしていることは、聖主と聖母をお喜ばせする、よいことです。そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。しかし今日、あなたたちは聖ヨゼフ様に御保護を願い、心を一つにして祈りました。その祈りを聖主と聖母はたいへん喜ばれ、聞き入れてくださいました。きっと護られるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって信頼して祈りなさい。ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないことは、さびしいことです。今すぐでなくとも、できる日までに信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい』と言ってお姿が消えました」 (その後、聖堂に聖ヨゼフの御像が安置されたが、現在の御像は数年後にある奇特な方が、聖母像の製作者若狭氏に依頼され、同じ桂材をもって対になるように彫られたものである)

このようにして、私ははじめて、姉妹笹川を介して、天使の働きかけなるものを具体的に知ることになった。しかし、その真実性は、マリア庭園そのものが、将来天使のお告げのごとく、ほんとうに完成できるか否かにかかっていると思われた。そうして、私は以後、十年の歩みによって、次第に否応なく目を開かれるのである。

聖母に捧げる苑

みちのくの一隅に聖母崇敬のために日本庭園を造る思いつきは、すみやかに夢想の域を出て現実の企画の対象となった。それも “聖主と聖母を喜ばせるよい事である” と天使から知らされた以上、万難を排して事に当たるべきである、と私たちは勇み立った。常日頃、すべてを捧げて神に仕えたい、と志すほどの者ならば、聖旨にかなうとさとった業に伴う苦労は、甘受するはずである。

この時私は、教皇パウロ六世の教書 “マリアリス・クルトゥス” を思い出した。一九七四年二月二日、主の奉献の祝日にあたり、聖ペトロの教座から全世界の司教たちに宛てて送られた、聖母崇敬に関する長文の勧告文である。その最後は「私が、神の御母に捧げる崇敬について、これほど長く論ずる必要があると思ったわけは、それがキリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素だからです。また問題の重大性もそれを要求したのです」と結ばれ、また前文の部分では「キリスト教的敬神の真の進展には、必ず聖母崇敬の、真実で誤りのない進歩が伴うものです」と強調されている。

私は、この山に来てから、教皇のこれらの言葉に接して、聖母崇敬の念を一層鼓舞されるのを感じたのであった。かつて青年時代、カトリック司祭になる志望を固めたのは、聖母信心に関する説教を聞いた際であった。やがて司祭となってからは、宣教の務めのうちに聖母崇敬について多く語り、またロザリオの祈りをできるだけ唱え、人にもすすめてきた。このため「古めかしいマリア崇敬論者」との陰での批判の声も、たびたび耳にしたのであった。

近頃は、典礼刷新運動によってか、新築のモダンな聖堂の中に聖母像が見かけられぬことが多い。古い教会でも、マリア像を取り除いたり、小さな物に替えたり、出入口にまるで装飾品のように据えたりしている。
こういう情景を目にし、“古めかしいマリア狂徒” というような嘲笑を耳にするたび、この人たちは教皇パウロ六世の「キリスト教的敬神の欠かせぬ構成要素」という言葉を、どのように受け取っているのだろうかと、胸が痛くなるのである。

昔ある教会の司牧の任にあった時、私はやはり聖母崇敬をとくに信徒たちに植えつけようと努力した。当時、全学連の政治運動が、日本中に氾濫し、カトリック教会の中にも進歩的聖職者の先導によって浸透しつつあった。そのような機運に際して、聖母崇敬を説くことは、手痛い反撃を招くばかりであった。こちらも一歩もゆずらず防戦したが、あのはげしい攻防は今もって記憶にあざやかである。

これらを思うにつけ、“十字架の道行” の古い絵の一場面が目にうかんでくる。十字架を負って歩むキリストの前後に、あどけない子供や少年たちが、捨札を持ったり、キリストにつけられた綱を引いたりしている。それらの群れに、聖母を軽んじる若い信徒たちの姿が二重写しに重なって見え、どうしようもない悲しみがこみ上げてくるのである。

日本の在来の宗教はもとより新興宗教においても、土地や資材は惜しみなくその信仰の対象のために献げられている。ところが唯一最高の神の礼拝を標榜するカトリックの聖職者や信徒が、その尊崇を表わすに適当な場所を造ることには一向心を用いない。土地があれば、まず当節流行の諸施設をつくることを考えたりする。だが、土地もまず神様から頂いたものではないのか。先日見た例では、せっかく設けられた祈りの場 “ルルド” が、駐車場にされて、聖母像に近づくことも困難な有様になっていた。これでは、神に献げるどころか、神の物まで人が奪っているのではないか。

最近では、聖職者、信徒を問わず、“進歩的” な人々の間で、“今はもう聖堂を建てる必要はない。各家庭でミサを捧げれば充分だ。神のみことばに生きるとは、世俗社会に入って行くことである。隣人愛の奉仕をすることは、ミサに参加するよりも重要性がある” というような意見が巾をきかせているらしい。それが “キリストに生きる” という意味だ、と主張される。

しかし、真の隣人愛というものは、まず神と結ばれた愛から発生するものである。大いなる愛に捧げる犠牲的愛に生きることによって、はじめて可能であり、単なる人間関係の横のつながりのみの隣人愛は、畢竟、肉身の愛の域を超えるものでないことをさとるべきである。

近年、万事に “新しさ” がもてはやされ、革新とか新風の導入が安易に歓迎されるようである。教会の中でも、ミサ典礼の様式が刷新されたことが大いに喜ばれているが、もしもこの気運の行き過ぎでミサや典礼の本来の神聖さが失われてゆくならば、それは信仰生活に悲しむべき損失を招くこととなるであろう。こんにち、私たちの充分戒心すべきところと思う。

一九七五年一月四日、ここの聖母像から最初の涙が流されたとき(この件については、後の章に詳述するが)、姉妹笹川に守護の天使が告げた言葉の中に次のような語がある。
「……聖母は日本を愛しておられます。……秋田のこの地を選んでお言葉を送られたのに……聖母は恵みを分配しようと、みんなを待っておられるのです。聖母への信心を弘めてください」
この忠告にも、私は聖母崇敬を介して神に捧げる祈りの苑、マリア庭園の重要な意義の裏づけをみる思いがしたのである。

開園まで

一九七四年の五月一日以来、マリア庭園の構想を練りはじめたとはいうものの、すぐさままとまった形になるわけではなかった。それでも私は、姉妹たちとはかり、五月三十一日の聖母御訪問の祝日を期して、地鎮祭を行うことにした。

ところがその前日にふしぎなことが起こった。前晩の祈りのため聖堂に入って私も着座したとき、突然姉妹のひとりがふり返って「マリア様のお顔が変わっています」と上ずった声で告げた。はっとして仰ぐと、たしかに御像の顔の部分だけが、全体からきわ立って赤黒く、彩色されたかのように変色している。一同の動揺を感じた私は、いつもと同じ態度をとり、今は黙って祈るべき時である、という様子を示した。

聖堂を出てから姉妹たちは、それぞれ受けた同じ印象を語り合っていた。今あらためて回想を求めてみたところ、姉妹笹川はこう答えた。「御像から泌み出るおん汗をぬぐったり、おん手に傷を見たりしたときは、木の御像なのに…というショックをまず感じました。でもこの時は、“御像は活きていらっしゃる!” という印象をつよく受けました。御衣と髪の部分は白っぽい木地のままなのに、そこから脱け出ているお顔と両手と両足だけ、陽やけした肌のように、くっきり赤黒く色づいています。それも、色が黒い、といううす汚れた感じではなく、美しいつやを帯びたいきいきした赤黒さでした。ああ、生きていらっしゃるお母さまなのだ!という喜びにみたされたことを、おぼえています」

この時の変化は(両手の部分をのぞき)多少色がうすれたものの、今も残っている。先年、これを手がけた彫刻家の若狭氏が見に来られた際、木彫のある部分一帯が変色することはあっても、このように特定の個所だけがくっきり彩られたように色を変えることは自然では考えられない、と驚いておられた。また顔の表情など、製作した時とは異なってきている、と不審を洩らされたのであった。このお顔の表情が、その時により、見る人により、いろいろと変わることは、かねて人々のうわさする通りである。撮られた写真にも、同じ御像か、と思うほどの表情の違いがみとめられるのも、ふしぎの一つである。

それにしても、なぜこの時からお顔の色が変ったのでしょう、という質問をよく受けるが、最近発表されたゴッビ師(司祭のマリア運動指導者)への聖母のメッセージの一部に、私はその答を見いだせるように思う。
「私が “御像” を通じて行なうことも、私の “御像” や “御絵” に与えられる正しい尊敬を、どんなに私が喜んでいるかというしるしです。……私の顔色のしるし──色が変わる顔。……私の心のしるし──ある時はかすかな、またある時は強い香りを放つ私の心。
 ……母は、大きな喜びを感じるとき、顔が紅潮しますが、子どもの運命を心配するときには、その顔は白くなるでしょう。この地上の母に起こることは、私の場合にも起こるのです。これほどまで人間らしく、母らしい “しるし” を私が与えるのは、私があなた方の存在の各瞬間に、あなた方とともにあることを示すためです。……」
(ついでながら、この数行さきには、次のお告げも見られる──)
「私が、ある時は強く、ある時はかすかに放つ香りは、私が常に、またとくにあなた方がいちばん必要なときに、あなた方とともにいることを示す “しるし” なのです」
(これは前年の秋に十六日間つづいた “聖母像からの芳香” の現象を思い起こさせるお言葉である)

地鎮祭の当日は、開拓時代からお世話になった村の人々、隣の日境寺の尼さん、秋田教会の有志を招き、会の姉妹たちとその親族、また遠くからはるばる馳せ参じた支援の信者たちを交えて、三十名あまりが参集した。やがて聖母の石像が立てられるはずの空地に設けた仮祭壇をかこんで、ささやかな行事が行われた。
私は前おきとして、ここに聖母をたたえて日本庭園をつくるのは、皆様をはじめ日本全国、のみならず世界のはてからも人々が集まって祈る。マリア庭園なるものを願ってのことであり、本日その地鎮祭を行うわけである、というような挨拶をし、祝別の祈りを唱え、土地に最初の鍬を入れた。参加者も次々とスコップをにぎり、穴に土を入れた。穴の底には、“奇跡のメダイ” を深く埋めておいた。

この日は晴天であったが、風が強く、祭壇の白布が飛ぶほどだった。式典の終わりに一同をハッとさせる一瞬があった。祭壇係の姉妹笹川が、ロウソクを立てた二個のコップを両手に捧げ持って退こうとしたとたん、ピシッと音がして、コップの上から一センチほどの所が鋭い刃物で輪切りにされたかのように、けし飛んだ。飛んだ部分は破片も見あたらず、二つの本体はそのまま使えるほど、何の傷も受けていない。もちろん姉妹笹川に何の怪我もない。これは悪魔のいやがらせだ、という人もあれば、カマイタチの現象だという解釈もあり、何にしても縁起のよいことだ、と皆々驚きを笑いに納めたのであった。

次の段階として精出したのは庭園づくりに必要な大小の石あつめであった。会の車で、姉妹たちと太平山のふもとの河原や男鹿方面へ出かけ、拾った石をダンボール箱につめては持ち帰ることをくり返した。そのうち、ある人の紹介でNさんという格好の助け手を得、鳥海山麓の小砂川という所から、二百個に余る石を運搬することができた。しかし姉妹たちの手が離れたわけではない。石の重さに車輪が、庭園まであとひと息の所で路肩から落ちる。元気な者は手を貸しに駆け出し、あとの者は「お祈り!」と呼び合って、聖堂でロザリオを唱えはじめる。と、ブルドーザーが通りかかり、絶望的状態から救ってくれたこともあった。

こうして秋には、N氏が庭園予定地にブルドーザーを入れ、地ならしを始めるようになった。
冬の間は、戸外の作業ができないので、内にこもって英気を養い、雪の消えはじめる三月を待って、本格的な活動を開始した。造園に協力される農家の人々にまじって、私も労働服を身につけ、雪や雨にうたれ、風や日光にさらされながら、スコップをふるい、猫車を押してまわった。
こうして力仕事に身を投じることによって、私は労働の意義を深くさとらされた。キリストが十字架を背負ってわれわれの罪をあがなわれたことも、最大の重労働ではなかったか。そう思えば、ひたいや背筋を流れる汗の玉にも、宝石のような価値を感じとれるようになった。聖書によって神のみことばを読み黙想するのも大切な業であるが、労働の苦しみによって心身ともに聖言を学ぶことは、一層身に泌みてキリストの愛を悟り、一致に導かれるのではなかろうか。これも聖母にささげる庭園づくりのささやかな努力へのひとつの報いと感じられたのであった。

作業が順調にすすみ、七月を迎えたころ、会計係の姉妹から首筋に冷水を浴びせられるような報告を受けた。「神父様、働き手に今月の労賃を支払うと、あと何も残りません」。私は平静をよそおい、「姉妹の皆さん、よくヨゼフ様に祈ってください」と言った。そして心の中では、来月はちょうどお盆が来るから、働く人たちに、この月は労働を休みましょう、と告げることにしよう、と考えていた。ところが意外にも、その月末には、ある奇特な方から「自分で実地に手つだいのできぬ代わりに」と、数百万円の小切手が送られてきたのであった。このように文字通り天から降って来たような救援の手に支えられたのは、一度や二度のことではなかった。ともあれ、マリア庭園の作業は、常にとどこおりなくつづけられたのである。

こうして作業が三年目に入った、その五月末から六月にかけてであったと思う。一方で、聖母像のふしぎな現象について、伊藤司教の依頼により、調査のメスが入れられる運びとなった。(この章では、マリア庭園に関する点にのみ、ふれておくが)。 調査委員会の一員で、姉妹たちに黙想の指導をするとの名目で乗り込んで来た人が、マリア庭園の作業を目にした。私はちょうど教会の依頼による講和のため不在であった。で、その委員は姉妹たちに次のように説教された。「マリア像におこったふしぎな現象は、超自然的な恵みではない。ただ姉妹笹川の超能力によるものであるから、これをもって世間をあざむいてはならない。そしてマリア庭園を造るなどは、宣伝行為であり、さらに人をだますことになるから、ただちに止めるべきである……」

私がこれを知ったのは、帰って一週間もたってからで、姉妹たちから遠慮がちに知らされたのである。これを聞いておのずと頭にうかんだのは、あの守護の天使の言葉であった。「そのよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう」と。この予言が次々と実現されるのが、明らかに予感されるのであった。私はなにも、聖母像の現象と結びつけて、庭園の構想をいだいたおぼえはない。ふしぎな出来事を記念するために、などと思いもしなかった。ただ、静かに黙想しつつ祈れる場所をつくり、それを聖マリア崇敬のために奉献したい、と考えただけであった。どんな力によって聖母像に不思議が起こったにせよ、それとは別問題であった。そんな筋ちがいの非難をあびせられても、造園作業は断固つづけることにした。が、私もふつうの人の子である。心がふさぎ、一時は断念しようかと思ったことも、ないわけではない。

その秋の十月、多くの貴重な援助に支えられて、ついに “マリア庭園” なるものが、ほぼ出来上がった。十月十一日、市長をはじめ各方面の名士と遠近からの協力者をお招きして、開園の除幕式を挙行した。このたびは二百余名の参加者を数える盛会となった。その時のあいさつの中で、私は庭園の案内を次のように述べた。

「庭園のかなめとなっているのは、聖母像の立つ、日本列島の形の池であります。その背後の築山から滝が流れており、それはカルワリオ山のキリストの十字架の泉から人類救済の恵みが流れてくる表徴です。その恵みの水が、すべての聖寵の仲介者である聖母を通して、日本全土に注がれる、という表現をとっております。庭園の中央にある芝山は、まろやかな平和を表す丘陵と見なされ、キリストの山上の垂訓をも偲ばせるものです。列島をかたどる池は、九州と北海道の部分が、二つの橋で本州と区分され、ヨルダン川の流れが北海道の上手に流れ込むようになっております。まだ花は見られませんが、南側のアーチはやがてバラに蔽われ、それにつづいて梅林がひろがります。門構えは、樹齢二百年近い天然の秋田杉二本を用いて門柱とし、時代おくれと見られるかもしれませんが、茅葺の屋根をのせました。それは庭園に荘厳さと神秘性を加えるようにと、考案したもので、“天の門” と名づけました。中央の芝山も日本列島の池も、回遊式につくられ、庭園内に入ればどの場所にいても、ロザリオの祈りと黙想ができるように工夫したつもりです。借景として太平山を間近く眺められるように配慮し、その春夏秋冬の美しい眺望を妨げるような樹木は、植えつけないことにしました。庭内に移植された木々の種類は、約百種に近く、昨年の秋から今年の夏までに植樹されたものが大部分ですが、九十九パーセントが根着いております。これらの樹木が数年後にはどのような美しい容姿を呈することか、日本各地からの心のこもった聖母への献木であるだけに、たのしみな見ものであります。……」

三年間にわたって、北海道から九州の果てまで、まさに日本全土から、聖母の光栄のために寄せられた援助は、おどろくべきものであった。それらの期待にもこたえるべく、私たちとしては全力を傾けたものの、なお不足や不備はまぬがれず、心苦しく思っている。とにもかくにも試練の年月を一応くぐりぬけた今、“多くの困難と妨げ” があろう、との天使の予告があらためて思い合わされ、“内なる一致をもって信頼して祈る” ようにとの勧告が、さらに将来への指針として、胸にあらたにひびくのである。

予告された耳の治癒

さて、マリア庭園の着想を語ったついでに、その完成までを引きつづき述べたので、今ふたたび姉妹笹川に話をもどすには、造園開始の五月にまでさかのぼることになる。

私が姉妹笹川のノートをよみ、“聖母のお告げ” に接して、まず感じたのは、医学的に全聾とされる彼女が、天使の言葉や聖母のお声を聞く、という不思議であった。それは自然の聴力の問題ではなく、霊魂の感覚を通して悟るいわゆる “霊語” に属するもの、としか考えようがなかった。だいいち、天使の言葉や天国におられる聖母のお声は、この自然の次元に住むわれわれの耳には聞きとれぬ、超自然界に属するはずのものである。姉妹笹川自身も「それは、その時だけ耳が治ったかの如く鼓膜にひびいてくる、というような普通の音声ではなく、聞こえない耳を通してはっきりと心にひびいてくる声なのです」と説明している。

ところで、聖母が彼女に御像を介して語られた最初のお告げに「耳の不自由は苦しいですか?きっと治りますよ。忍耐してください」とのはげましの言がある。私はこの報告に接したとき、これは彼女の耳がいつか完全に癒されぬかぎり、聖母像に関する超自然の出来事の真正性もみとめられぬことになると思った。それも医療の結果でなく、超自然の力、すなわち奇跡をもって治されるのでなければ、聖母のお言葉の超自然性の証明とならぬように感じた。

それはともかく、私としてはその治癒が、どんな方法にせよ、聖母のお約束のごとくやがて実現することは、ごく素直に信じられた。そこで、姉妹笹川にノートを返すとき、「あなたの耳はいつかきっと聞こえるようになるでしょう。しかし神がこの犠牲をよろこんでおられる上は、癒されても癒されなくても、すべて思召しのままに委せて、耐え忍びなさい」とさとした。そうは言っても、本人にとってはさぞつらい犠牲であろう、と思われ、こちらの唇の動きを読みとっているその静穏な表情を見ても、神の御手のうちに安住しつつもやはり治癒の恵みを祈らずにいられぬであろう、と察したことであった。

一九七四年五月十八日。朝の聖体礼拝の終わったとき、姉妹笹川は私に話したいことがあると言い、次のように報告した。
「お礼拝のロザリオから念祷に入ってしばらくすると、守護の天使が現れて、こう告げられました。
『あなたの耳は八月か十月に開け、音が聞こえ、治るでしょう。ただし、しばらくの間だけで、今はまだ捧げものとして望んでおられますから、また聞こえなくなるでしょう。しかし、あなたの耳が聞こえるようになったのをみて、いろいろの疑問が晴れて改心する人も出るでしょう。信頼して善い心でたくさん祈りなさい。そしてあなたを導くお方にこのことを話しなさい。あなたはその日が来るまで、他に話してはなりません』と」

のちにそのお言葉を写したメモに、彼女は書き加えている。
「はじめはほほえみのお顔だったが、あとはきびしい表情に変わった。私は夢を見ているようだったが、きびしいお顔を見て、ハッとし、体が緊張して、ひれ伏してしまった。 心は躍り上がるほどの歓びでいっぱいになると同時に、すべて聖旨のままに、という思いも入り交じっていた。そして聖主の御あわれみに深い感謝をささげていた。

神父様にこのことをお知らせすると、大きくうなずかれ『八月か十月とおっしゃったのか』とくり返して、また深くうなずかれた」。私のほうは、こうたしかめたとき、それが八月に起こるとすれば聖母被昇天の祭日の十五日か、それとも聖母の他の記念日であろうか、むしろ十月のロザリオの月のほうがふさわしいのではあるまいか、などと想像をめぐらしていたのであった。

その後、姉妹笹川には、その恩寵の準備のように、意外な内的外的の試練がつづいていたようである。
一方、八月八日の木曜の朝、私がミサの最中に突然腹痛におそわれて倒れ、緊急入院という事故が起こった。すぐ開腹手術を受け、生命はとりとめたものの、九月四日まで病院生活を余儀なくされてしまった。この期間中にはおそらく彼女の耳の治癒は起こらないであろうと、私はベッドで考えていた。やがて退院して、ほぼ元通りの生活に復帰した九月二十一日(土曜)の朝、聖体礼拝のあと姉妹笹川が近づいて来て、次の報告をした。

「お礼拝中、念祷に入ってしばらくたったとき、いつもの天使が現れておっしゃいました。『今朝の食卓で、夢のことが話題になったでしょう。心配することはない。今日からでも明日からでも、あなたの好きな “九日間の祈” をつづけなさい。九日間の祈を三回つづけている間に、御聖体のうちにまことにまします主のみ前で、礼拝中のあなたの耳が開けて、音が聞こえ治るでしょう。

まっ先に聞こえてくるのは、あなたがたがいつも捧げているアヴェ・マリアの歌声ですよ。その次に、主を礼拝する鈴の音が聞こえるでしょう。 礼拝が終わったら、あなたは落ち着いて、あなた方を導いてくださるお方に、感謝の賛歌を願いなさい。そこで皆は、あなたの耳が聞こえるようになったことを知るでしょう。

この時、あなたの体も癒され、主は讃えられます。これを知ったあなたの長上は勇気に満ち、心も晴れて証しをするでしょう。しかし、皆がよい心をもって捧げようとすればするほど、多くの困難と妨げがあるでしょう。外の妨げに打ち勝つために、内なる一致をもって、より信頼して祈りなさい。きっと守られるでしょう』

ここでちょっと間をおいて『あなたの耳が聞こえるのは、しばらくの間だけで、今はまだ完全に治らず、また聞こえなくなるでしょう。聖主がそれを捧げものとして望んでおられますから……。このことを、あなたを導く方に伝えなさい』深いまなざしでじっとみつめられたあと、そのお姿は消えて見えなくなりました」

この報告を聞いた私は、それほどはっきり言われたのなら、九日間の祈を今日からでも始めなさい、とすすめ、このことは誰にも語らぬように、と念を押しておいた。 (なお、お告げの冒頭に指摘された “今朝の食卓で話題になった夢” については、次章で述べることにする)

それから、その治癒の恵みはいつ与えられるのであろうか、と考えた。アヴェ・マリアの歌声と鈴の音が聞こえる時、とあれば聖体降福式の場合であるから、それの行われる日曜日であることはまずまちがいない。次に、“三回の九日間の祈をつづける間に” ということであったが、私は三回の祈の、と思いちがいをして、では十月末の日曜であろうか、と見当をつけた。まったく、こんなにはっきり告げられた言葉でも、人間の知恵はすぐ取り違えをしてしまう。いかにも愚かなものだと思わずにいられない。

十月十三日

この日は晴天に恵まれたので、私はレクリエーションを兼ね久しぶりの釣りに男鹿半島の入口天王まで出かけた。夕方五時からの聖体礼拝と降福式に間に合うよう早目に帰り、少し休んでから聖堂に入った。
聖体顕示を行い、香を焚くとき、私の胸に “今日は何かありそうだ” とかすかにひびく思いがあった。償いの祈りののち、席にもどってロザリオを共唱する。つづいてアヴェ・マリアの歌……。

その終わりごろ、姉妹笹川が畳にひれ伏して、泣いているらしい様子が目にとまった。念祷、聖務の晩の祈りを終え、いよいよ聖体の祝福の時になった。姉妹のひとりの手によって鈴が高らかに振り鳴らされる。私は顕示台をかかげて十字の印を描きながら「主よ、思召しのままにお恵みを与えたまえ」と祈った。

次いで顕示台にむかってひざまずき「天主は賛美せられさせ給え……」と、賛美の連祷の先唱をはじめた。その祈りが終わり、聖歌の指定をしようとしたとたん、姉妹笹川が背後から「神父様、聖歌十二番のテ・デウムをお願いいたします」と声をかけてきた。

私はすぐふり返り「耳が聞こえるようになりましたか」と聞くと、「はい、今そのお恵みをいただきました」と私の唇の動きを見ることなく答える。

そこで列席の人々(日曜の式なので、外部からの参列者もあった)に向かい「皆さん、五月と九月の二回にわたって天使から姉妹笹川の耳が聞こえるようになるお約束がありまして、そのことが今日実現しました。今これからそのお恵みを感謝してテ・デウム(神への賛歌)をうたいましょう」と告げた。人々は大そう驚いたようで、それこそ自分の耳を疑う態であったが、賛歌はすすり泣く声もまじえての感動的なものとなった。

耳が癒されたときの模様を、彼女自身はこう述べている。
「降福式の礼拝中に、前もって天使に教えられていたとおり、まっ先にアヴェ・マリアの歌声が、夢の中のように、遠くから耳に聞こえてきました。歌声だけで、ほかには何も聞こえませんでした。それから少し念祷の時間があって、つづいて晩の祈りになりましたが、その時には皆さんの声は少しも聞こえませんでした。神父様が御聖体で祝福された瞬間、鈴の音がはっきり聞こえてきました。つづいて神父様の声が『天主は賛美せられさせ給え』と聞こえてきました。それは、初めて聞く神父様の肉声でした。

最初にアヴェ・マリアの歌声がひびいてきたとき、この取るに足らぬ者の上に神の御憐れみが与えられようとしていることをさとり、ああ有難いこと、もったいないと思ったとたん、感謝で胸がいっぱいになり、泣き伏してしまいました。声が出そうになるのをこらえるのに必死で、祈りの言葉さえ思いつきませんでした。音を失って一年七ヵ月、両親を悲しませ、神経をつかい、緊張の連続の毎日でした。でも今与えられた聴力も、また捧げものとして失われるはずと思うと、もっと心して祈らなければ、と気をとり直したのでした。ついでながら、天使はお告げの中で “この時あなたの体も癒される” と言っておられましたが、たしかに、そのころ内臓や体のあちこちに感じていた苦痛も、同時に癒されたことにはっきり気づきました。……」

この報告はさっそく電話で司教につたえられた。姉妹笹川自身がよろこびにはずむ声で、報告し、問いに答えた。また、故郷の両親や兄弟たちとも、感激の声を交したのであった。司教の指示に従い、私は翌日彼女を伴って、日赤と秋田市立の二つの病院へ行き、耳の検査を求めた。そして両病院から、診察の結果、聴力正常との証明書をもらった。

その二週間後、私は彼女の郷里の教会に講話を頼まれ、姉妹三人を同伴して出かけた。彼女も加わっていたので、両親はじめ身内一同が教会に来て待ちうけており、耳が聞こえるかどうかと一心に話しかけた。まことに、はた目にも涙ぐましい光景であった。

しかし、この耳の治癒も、天使の予告どおり、五ヵ月間だけのことであった。翌年の三月十日には再び全聾となった。本人は「しばらくの間だけ」との天使の予告を忘れず、一週間で元に戻るか、九日間か、それとも四十日間か、と日々覚悟をあらたにしていたが、やがて半年近くつづいたのを、予想外の恵みと感謝していた。二月の灰の水曜日あたりから、頭痛と耳鳴りが烈しくなり、ついにまた耳は全く閉ざされたのであった。

ともかく、一時的とはいえ、この予告通りの奇跡的治癒に、司教は大いに勇気づけられたようであった。それまでに私が姉妹笹川のノートを調べて書き上げた百枚ほどの原稿を持参して、神学者たちに検討を願うことにふみ切られたのである。こうして、この治癒は、湯沢台の聖母の出来事が世間に知られる導火線となった。ここにも神のはからいの不思議を感じさせられるのである。

奇跡的治癒の意味

天使の予告どおり、姉妹笹川のこのたびの耳の治癒は一時的であって、五ヵ月間だけの恵みであったが、それなりに深い意義をもつものであった。

彼女の手記をまとめた私の原稿について、司教から疑問点が指摘されたことは、前にちょっと述べた。それは、御像を通じての聖母のお告げのうち、第三のメッセージは、いわゆる “ファチマの第三の予言” によく似ているので、あれの焼き直しではないか、という疑いであった。彼女が妙高の教会でカテキスタをしていたころ、ガリ版刷りでも読んで、無意識に頭に入っていたのかもしれぬ、という指摘であった。

そこで私も、司教とは別に、その点を彼女に問いただしたが、そういう物を読んだことはない、とのきっぱりした否定が返された。それでも司教は、彼女の思いちがいを懼れ、この章をはぶいてはどうか、とまで言われたのであった。

そこへ、あたかも十月十三日に、天使の予告どおり耳の治癒が起こったことは、この第三のお告げの信憑性を裏書したのであった。

何もこの日に限らず、治癒の恵みはいつ与えられてもよかったであろう。なぜわざわざ十月十三日が選ばれたのか?先にも述べたごとく、私はその恩恵の日は十月末の日曜か、などと予測していた。事が起こってからはじめて、この日の意味に思い当たったのである。

カトリック信者なら周知のごとく、十月十三日といえば、ファチマに聖母が出現された最後の大きな奇跡の行われた日である。この出来事は今や全世界に知れわたっているが、ルチアたちに告げられた怖るべきメッセージは “第三の秘密” としてまだ非公開のままであり、ただ推測的コピーが世に出回っているだけである。
そして、一九七三年、聖母像からのお声が姉妹笹川に怖るべき天罰の警告を与えたのも、まさに同じ十月十三日であった。その時の御像は、光り輝くなかにも、すこし悲しげな表情に拝された、と記録されている。

この警告の真実性を立証するためには、やはり何か超自然的なしるしが必要とされるわけである。そこで、まず天使の予告を先立て、次にわざわざこの二重の記念となる日を選んで、奇跡的治癒を行われたのであろう。

姉妹笹川に托された聖母の第三のメッセージを、あらためて読み返してみると、いかにも警告の内容はほとんど一致している。ファチマで与えられてもまだ正式に公布されず重視もされぬ警告の重大性のゆえに、この東洋の一隅でふたたびくり返され、奇跡をもって証明されたのではないか、とやはり思われるのである。

“疑いが晴れて改心する人も出るであろう” と天使も告げられた。前述のごとく、司教自身もこの奇跡のしるしによって疑念をとき、“第三のお告げ” の部分を省くことをせず、原稿をそのまま神学者たちの検討に委ねられたのであった。

夢の幻視

前章の、耳の治癒に関する天使の予告の中で “今朝話題になった” 云々と指摘された姉妹笹川の夢は、単なる悪夢と片づけられぬものがあるので、一応取り上げておきたい。

六月十日(月曜)の朝、六時からのミサのため司祭館から聖堂に向かった私は、二階に並ぶ修室の一つの窓に布団が干してあるのに気づいた。早朝にこれまで見かけぬ干し物なので、目を引かれたのであった。だが、べつに問いただすほどのことでもなし、そのままミサを挙げ、朝食、礼拝といつもの午前中の日課をすませた。昼食のとき、ひとりの姉妹から、姉妹笹川の見た怖しい夢、という話題がもち出された。興味を引かれて私がその委しい話を求めると、彼女は恐るおそるという感じで語りだした。

「今朝ひどい迫害を受ける夢を見て、目がさめてもしばらく動悸がおさまらないくらいでした。私の前に大勢のそれぞれ宗教家とおもわれる一団が立っていました。それを率いる頭のような、ねずみ色の服のカトリック神学者とみえる外人が進み出て、私にこういう言葉をあびせかけてきました。

『三位一体の神がなぜ唯一であるのか。われわれはキリストが神であると信じることはできない。カトリックの教えの山はどこにあると思うのか。おまえが神を信じ、神に仕える者であるなら、なぜわれわれと同じく、八百万の神々を神とみとめないのか。

神を信ずる者だというなら、われわれ同様に、八百万の神々を信じろ。そうすれば、われわれも皆でカトリックになろう。われわれの仲間になれば、われわれのように面白おかしく人生をたのしんで生きられるものを。お前たちは好きこのんでそのような生活をしている。そんなお前を見るのがかわいそうだ。

いまお前ははっきりと、三位一体の神が唯一の神ではない、八百万の神々も神と信じる、ということを、われわれの仲間に言ってくれ。でなければ、この苦しみを受けよ!』そういって杖のようなものをふり上げましたが、見るとそれは大きな蛇で、私の体に巻きついてきました。

恐ろしさに声も出ないほどでしたが、必死に答えました。 『三位一体の神だけが唯一の神です。そのほかにいかなるものも神と信ずることはできません。キリストが神である、と信じられないなら、カトリックになることはできないでしょう。カトリックの山は、キリストが神であり、人である、ということだと思います』

すると相手は『キリストが神だというのか。いや、われわれはそれを信じることはできない。お前たちはキリストの復活を信じて、カトリックになったのであろう?』と念を押すので、

『はい、その通りです。そしてキリストが神であり人であることを信じて、カトリックになりました』
と答えると、蛇が一だんと強く巻きついてきて、身動きもできなくなりました。蛇はときどき赤いするどい舌をチロチロと出しながら、その口を私に向けて寄せてきます。怖ろしさと身を締められる苦しさで、あとは同じ質問をくり返しなげかけられても、答える元気もなくなってきました。ただ夢中でロザリオを握ってその祈りを唱えていました。蛇が赤い舌を顔に寄せてくる時だけは、ロザリオをふり上げて追いはらっていましたが、その力もだんだん弱ってきました。

助けを求めて見まわすと、右側には仲間の姉妹たちが並んでいます。どう助けることもできず、ただオロオロしているのが、手にとるようにわかります。眼が合うと『わたしたちがついているから、がんばってね』とそれぞれの眼ざしが言うだけです。日ごろ頼りにする長上も皆そろってお姿が見えるのに、だれからも救いの手は伸ばされません。

もう疲れはてて、蛇の頭をはらいのける力もつき、祈る声も出なくなったとき、ふいに安田神父様が目の前にとび出して来られました。『聖父と聖子と聖霊の御名によって、アーメン』と大きく十字架の印をしてから『彼女の言うように、われわれは皆、三位一体の神が唯一の神であると信じている。それを信じることができない者は、カトリック信者になってもらわなくてもよい』と声高くおっしゃいました。

すると、まず左側の気味わるい一団の先頭に立って私を責めたてていた頭分が、たじたじとなって退き、つづいて私に巻きついていた蛇も離れました。ヘナヘナとくずれおちた私をようやく姉妹たちが助けに来てくれました。私は神父様にお礼をいう力もないほど、弱りきっていました。汗がふき出るように流れるけれど、それをぬぐう気力も出ないでいると、守護の天使が現れてふき取ってくださいました。

そこで目がさめたのですが、実際に全身が汗びっしょりでした。ああ、夢でよかった、と起き上がろうとしましたが、胸がまだ締めつけられるように苦しくて、すぐには起きられませんでした。手足もつめたくなっているし、隣室の姉妹を呼ぼうとおもっても、喉が締められたなごりで声も出ません。枕もとの時計をみたら、午前四時半を過ぎたところでした。

やっと起き上がってみると、ねまきはもちろん、ふとんまで体のかたちに汗が滲み通っています。それで、まだ陽も出ていないけれど、窓に干したのでした。お聖堂に行っても、祈りのうちにも夢がまざまざと浮かんでくるので、一心にお助けを願いました。共同の祈りになっても、まだ体に力がなくて、声が出ませんでした。

この夢の話はだれにもしないつもりだったのに、あまりにも怖ろしかったので、つい隣席の姉妹に、こわい夢をみた、と口をすべらしてしまいました。どんな…と聞かれましたが、朝食中だったので、あとで、とことわりました。食後、お礼拝のあとで、その姉妹が私のへやまでわざわざ聞きに来られたので、一部始終を話しました。そしたら『こわかったでしょう。ほんとに、ふとんはまだ濡れている』と、おどろかれたようでした。それで、いま、神父様にも判断していただくように、この話題をもち出されたのだとおもいます」という報告であった。

聞き終わった私は、姉妹一同の物問たげな表情を見まわしながら、ただの悪夢とは思えない、と前おきして、自分なりの解釈を述べてみた。──これは笹川さんだけに関する事ではない。現代の教会の姿、その動向をも暗示しているように考えられる。教会は、宣教の旗じるしのもとに、次第に異教、多神教への接近をこころみる傾きがみられる。同時に、他宗教と妥協する傾向をたどり、信仰の生き方を、この世的に考えて比較的楽な方向に向けて行く。現在すでにそのような安易さへの迎合が、教会の指導層に見えてきている。そういう風潮に流されぬように、私たちも心をひきしめて、神のみ言葉を誠実に守る使命につくさなければならぬと思う。……

この意見を姉妹たちはうなずいて聞いていたが、中には、たかが夢に過ぎないことを…と、まじめに受け取る気にならない者もいたようであった。ともかく、これで一場の夢ものがたりとして、けりがついたかたちであった。

ところが、その夕方のことである。晩の聖務に先立つロザリオの終わったとき、姉妹笹川があわただしく寄って来て「神父様、となりのへやに蛇がいます」と告げた。立って行き応接間の戸を少し開けてみると、奥の壁ぎわに大きな蛇がとぐろを巻いている。姉妹たちも背後から目にしたらしいので、私はまず一同を落ちつかせるために、今は祈りの途中であるから続けるように、と命じて戸をしっかり閉めた。やがて晩の祈りの終わったところで、蛇を応接間から玄関口へ追い出し、戸外で始末したのであった。

あとから姉妹笹川の説明によると「ロザリオの終わりに “いと尊きロザリオの元后、われらのために祈り給え” と唱えているとき、守護の天使が現れて『いま隣りのへやに蛇がいるから、神父様に伝えなさい。あなたの夢の話をかるがるしく聞いた人があるので、それを正すためです。神父様がよく導いてくださるでしょう』と言って姿を消されました。おどろいて、先唱をちょっとやめて、境の戸をそっと開けてのぞいてみたら、夢に見たと同じような大きな蛇が丸くなって鎌首をもたげて、舌をチロチロ出しているので、いそいで神父様にお知らせしたのです」ということであった。

* * *

これは今から思えばもう十二年前の、一つの悪夢とそれにつらなる出来事であるが、あらためて吟味すると、いろいろな警告がふくまれているように思われる。さらに、近い将来にあてはまる重大な示唆がみとめられるようである。

姉妹笹川を責めたてた神学者めいた頭目の言い分を、とり上げてみよう。その第一は、三位一体の神がなぜ唯一の神なのか、という詰問である。天地創造の神を信じてきたユダヤ教にしても、神は唯一とみとめても、三位一体の秘義は知らなかった。この三位一体の秘義の啓示を受けなければ、イエズス・キリストが唯一の神の子であることも、信じることはできないわけである。

迫害者は「われわれはキリストが神であると信じることはできない」と宣言しているが、この問題は今に始まったことではなく、唯物論の抬頭と科学主義時代の幕明きと同時に、人間精神を揺すぶってきた課題である。今や教会の中にも、多種多様の形で婉曲な唯物思想やヴェールをかぶった無神論が入り込んでいることは、蔽いようのない事実である。

この夢では、ひとりの神学者が唯物思想をもって、戦いをいどんでいるが、これはまた現代精神の滔々たる趨勢を、表徴しているごとくである。彼の主張によれば、八百万の神々、すなわち昔から日本にあった在来の神々を信じれば、われわれも皆カトリックになる、という。これは妥協による容易な福音伝道をめざす、安易な宣教活動の態勢と合致するものである。

結論としては「われわれの仲間になれば、人生をおもしろおかしく、楽しく生きられるものを」と憐れむごとく誘いをかけ、信仰を現世的生活の享楽の補充とさえしているのである。つまりは、この世に生きる人間生活が大事なのであって、崇高なる神の次元に結びつく超自然の生活を否定するのである。

ここに、たかが夢の話として軽視できぬものを、私は感じとったが、実はやがて彼女の受けるべき試練の前知らせのようなものであったと思われる。そのような意味がふくまれる故にこそ、天使が先の治癒の予告にさいして「今朝の食卓で夢のことが話題となったでしょう。心配することはない」とわざわざ言及されたのであろう。そして、夢を軽んじた者のために、現実に蛇を目に突きつけて、反省をうながされたのであろう。

思いがけぬ訪問

“湯沢台の聖母の出来事” と題した私の原稿を、伊藤司教は日本で有名な神学者二、三人に見せて回られたが、反応はきわめて消極的であり、むしろ、否定的な声がつよく聞かれた。より詳細な調査の必要あり、とされる以上に、神学的にあまり意味のないものとして、軽くあしらわれたのであった。

しかしともかく結果としては、これまでここの小グループの姉妹たちの間で、ひそかにささやかれていた事実が、世間に洩れ出ることになったのである。

一九七四年十一月三日、突然聖体奉仕会の姉妹たちに、東京から電話がかかった。カトリック・グラフの編集部の一記者と名乗る人から、“うわさの出来事” について取材訪問をしたいとの申込みであった。驚いた姉妹たちは、遠慮を申し出たが、相手は強硬であった。司教によって極秘を命ぜられているから、とひたすら逃げの一手を打つ苦労話を聞かされて、私は、それではよい解決法になるまいと考えた。

当時カトリック・グラフという雑誌の編集方針は、宗教の因習にとらわれたいかがわしい部分を摘発して、カトリック界の刷新をはかろうと、進歩的使命に意欲をもやしているごとくであった。ここでわれわれが当面しているような、一般の常識とかけ離れた超自然的な出来事を、ただ秘密のヴェールでおしかくしてジャーナリストの自由な想像にまかせるのは、賢明なやり方ではない。それでは、わざわざ誤解の種をまくようなものではないか。想像をたくましくした報道がまかり通ることになっては、カトリック界のみならず、社会全体にひろがる悪影響をおそれなければならない。

そこで私は、姉妹たちに説き、自分が責任をとってこの件に対応することにした。やがて記者を迎えた日、姉妹たちはちょうどマリア庭園の石拾いということで、全員外出していた。ひとりで応接する私に、その記者氏は、ここの聖母像にまつわるふしぎな出来事のうわさを聞いて事実をたしかめに来たので、協力してほしいと申し出た。それに応えて私は、それまでの経過をかいつまんで述べた。

まず姉妹笹川が前年の三月、突然全聾となってこの修道院に移って来たこと。その後、彼女の左手に聖痕のような傷が現れたこと。七月の初金曜の未明、守護の天使に導かれて聖堂に入り、聖母像の右手に同じ傷のできているのを見たこと。御像を通じてメッセージを受け、その御手の傷から血が流れるのを見、姉妹たちも確認したこと……などを語った。

私の説明は、本来信仰を同じくする相手の心に、すんなり入って行ったようだった。ミイラとりがすぐミイラにならぬまでも、態度に頭からの否定の固さが消え、ノートをとるペンの構えにきびしさがうすれてゆくのが見てとれた。ともかく出来事を正直に報告させてもらう、と約束する彼に、私は、一応司教の許しを得るように、と念を押しておいた。そして早くも十二月号のカトリック・グラフ誌に、「秋田に聖母が出現!の噂を追う」と題した、写真入りのトップ記事が現れたのであった。

記事の内容

ひと昔前のことになるから、今はもう記憶される方も少ないであろう。記事の主な部分を(私自身のこれまでの記述との重複は避けて)ひろってみれば、次のようなものであった。

まず在俗会としての聖体奉仕会の位置する地形を述べ、「戦前まではおそらく踏み入る人とてない深閑とした霊山だったことだろう」と想像している。

次に「守護の天使に導かれて」と題して、“Sシスター” が聖母像の前ではじめてお告げを耳にしたこと、次に第二、第三のメッセージとして、忘恩の世に対する祈りのすすめと天罰の警告を紹介する。さらに、御像の掌の傷について、姉妹たちの証言を列挙している。

結論には「この “秋田事件” が果たして奇蹟なのかどうか、いまの時点で断定することは不可能である」とことわった上で、この種の話は世界各地に多く存在する、と述べ、イタリアのサン・ダミアノの例をあげ、コメントを援用する。── 「一九六四年以来、五月と十月の聖母月になると一人の農婦に聖母が現れ、いまも続いている。

これらの共通性について、東京放送秘書部のハリー・J・クイニー氏はこう説明する。『出現の場所は、ほとんどの例が周囲に山があったり盆地であること。これは秋田県の場合、該当するといえるでしょう。もう一つの条件は、現れ(に会っ)た当人の生活が貧しいことです。日本は経済発展がめざましく、貧しいとはいえませんが、Sシスターの生活はロザリオを熱心に唱える素朴なものだったと想像することができます』 

さらにクイニー氏によれば、「誰に出現があったか」「どの場所で…」はことさら問題にならないという。
「『出現があったから、その人が偉いのではありません。本人にすればすばらしい恵みにはちがいない。けれど、その人は聖者でもなんでもなく、単なる神の召使いなのです。最も大切なことは、メッセージの内容。それがもし教会のドクトリン(教義)に反しないならば、教会はその内容を一人でも多くの人に伝える義務がある。秋田県のメッセージには、全人類災難の予告と、回心が呼びかけられているし、実際に、予言が実現(耳の治癒をさす)したのだから、メッセージの信憑性はかなり高いと思いますね』」(ここにいう “耳の治癒” は天使の予言による一時的なそれで、聖母に告げられた完全な治癒はまだ後のことになる)

次に教会側の見解が加えられる。
「一方、カトリック教会側は、今世紀日本で初めての “聖母出現” のニュースにとまどいながら慎重な態度を見せている。代わって教義学の権威として知られるイエズス会のE・ネメシェギ神父が答えた。
『このような話は、とくにヨーロッパに多い。国民性にもよるでしょう。が、教会が詳しく調査をして、超自然的な働きが確かにあったと認めるケースはほとんどない。精神的、または心理的錯覚によって起こる場合が多いからです。しかし明言できることは、神だけには奇蹟を行ない得る力がある、ということです。もちろんその場合、神にふさわしい意味と目的がなければなりません』」

ここで、先の会見の際私の語った言葉が引用されて、記事は締めくくられている。
「この目的について、安田神父は『現代を救うためには信者が目を醒まして祈ることだ』と前置きして次のようにいう。『Sシスターの耳が治ったことは、メッセージが正しかったことの証明です。また、十字架印の傷という客観性もある。これから先、どんな奇蹟が起こるか、知らされていないが、私は祈りの体制づくりに全力を尽くしたい』(取材と文・米田記者)」

このようにして、山の小さな修院の中で極秘にされていた事実は、一つの衝撃的事件として世に知られることになった。これは私どもの思い及ばなかった神のはからいによるものであった。

ところが、これを皮切りとして、摂理は翌年早々に、こんどは聖母像から涙が流れる、というさらに瞠目的事件をもって、世の関心をいやが上にそそられることになった。

議論は沸騰した。人間の作為によるものとして、現象の超自然性を断乎否定する嘲声が、神の働きかけを素朴に信じようとする声を圧倒した。とくに教会の聖職者の側からは、一様に無視ないしは否定的態度が示された。…やがて十年の検討を経て、当該地区長である伊藤司教により事実の超自然性が公式に認められたにもかかわらず、今なお多くの聖職者が先入観にとらわれた領域にとどまっている。聖母マリアも、聖書にしるされている「反対のしるし」となっているのであろうか。

聖母像の涙

一九七五年一月四日、三ガ日のなごりの新春気分のただよう初土曜日、午前九時ごろのことであった。司祭館にいた私は、聖母像から涙が流れている、というあわただしい知らせを受けた。

この日は姉妹たちの黙想の最終日にあたっていたので、私はそのための説教の準備に取りかかっていたが、すぐペンをすてて立ち上がった。

かねがね、姉妹笹川の受けた三回にわたる聖母のお告げの正真性が証明されるため、神のおはからいの介入が当然期待され、さらに新しい奇跡があるのではないか、と私自身いくらか待ち設けていたことでもあった。

あとになって考えてみたが、聖母像から涙が流れる、とは誰も思いも及ばなかった異常現象ながら、新しい奇跡としてまさに最も適切なしるしではなかったか。メッセージの内容にもぴったり呼応する、実に感銘深いしるしを賜ったものと、事あらたに頭の下がる思いがするのである。

当時の様子を、最初の目撃者のひとり姉妹笹川のメモと回想によって再現すれば、次のようである。
〈朝食後のお礼拝のあとでした。聖堂のお掃除をしていたKさんがあわただしく出て来て、「笹川さん、ちょっと」と、廊下にいた私を呼びました。何事かとおみ堂について入ると、ものも言わずに聖母像を指さされました。「何?」とKさんを見れば、顔は土気色で、さしている指先はワナワナとふるえています。私は御像にもう一歩近づいて、お顔を仰いでみて驚きました。両のおん目に水がいっぱいたまっています。あら、水が…と思うとたん、スーッと鼻筋にそって流れ落ちます。眼から水が流れる……それでは涙ではないか、とはじめて気がついて、Kさんに「まあ、マリア様のお涙かしらね」と問いかけましたが、彼女は棒立ちにすくんだまま、唇をふるわせているばかりです。

私も急に腰くだけになりかけ、その場にひれ伏したくなりましたが、これはともかく大変なことだ、まず神父様にお知らせしなくては、と気をとり直して、司祭館へお電話したのでした。それからあとは、どうなったか、もう無我夢中でした。神父様はすぐとんでいらしたようでしたし、いつの間にか姉妹たちも聖堂にあつまっていたようです。私はもう御像に近づく勇気もなくて、一番うしろでひれ伏していました。(マリア様、おゆるし下さい。あなた様をお泣かせしているのはこの私です。ごめんなさい。主よ、罪深い私を憐みたまえ…)と必死にお祈りしていました。聖母を通してのあれほどのお恵みを無駄にしているため、マリア様は涙を流しておられる!と痛悔の念にうちひしがれていたのでした。

この日、あと二回もお涙の現象が起こりました。二回目は午後一時ごろでした。黙想参加の二、三名が早目に帰られるので、香部屋係だった私が、聖母像にお捧げしてあったメダイを取りに行ったときでした。メダイを台から取って、ごあいさつのつもりでお顔を仰いだとたん、またお涙を流されているので、びっくりしました。こんどは自分が発見者となって、まぢかに目撃したせいか、前よりも烈しいショックに、打ちのめされそうになりました。それでも気を張ってちょうど一人端の席で祈っていた姉妹に教え、それからいそいで皆さんに知らせに行きました。さっそく神父様と姉妹方があつまり、ロザリオの祈りが唱えられました。

四時から講話がありましたが、お涙はメッセージの保証である、との神父様の御説明に打たれ、それまで抑えていた私の感動は一時にあふれて、全身の力が脱けおちたようになってしまいました。
お説教が終わっても立てなくなっている様子を、神父様は気づかれましたが、姉妹たちは私が残って祈っていたいのだと解釈したようでした。

三回目は、そうしてずっと居残っていた私が祈りに気をとられているうちに、始まっていました。午後六時半、夕食のため呼びに来た姉妹が発見して、私ともう一人祈っていた姉妹に教えました。
こんどのお涙は、にじみ出るというより、大量にあふれ出る強烈な感じでした。それこそ止めどなく流れています。あとからあとから湧きあがる涙が、糸を引くように、頬からあごから胸へと流れ、したたりつづけているのです。私はまたもひれ伏したきり動けなくなり、ただ心の中で、(マリア様、マリア様、なんでそんなにまで……)と言葉にならない思いをくり返していました。

あつまって来た姉妹たちも、それぞれに胸を打たれたようでした。前の二回では、よく見えなかったりして半信半疑のていだった人も、こんどばかりは明らかな奇跡と信じたようでした。

この時はじめて立ち合われた司教様は、脱脂綿を持って来させて、お涙を何度もぬぐい取っておられました〉 この日の落涙現象を目撃した者は、二十名であった。ふだんなら姉妹の数は十名足らずであるが、ちょうど年の始めの黙想会中であったため、地方からも会員が参加していたからである。

わたしも三回にわたり、つぶさに観察したが、そのつど深い感動をおぼえずにいられなかった。
木彫の聖母像の両眼が、きらきらと光り、涙がたまり、あふれ出し、流れ落ちる光景は、まさに泣いているお姿としか見えなかった。あとでだれもが口にしたように「生きている人間が泣いている」感じであった。涙が涙腺のある眼がしらのあたりから湧き出、鼻すじや頬をつたわってしたたり落ちるのも、立ったまま滂沱たる涙を流している人間の場合とまったく同様である。涙のしずくはあごの下に玉のように留ったり、衣の襟にたまったり、さらに帯を越え衣のひだにそって流れ落ちて、足台をぬらしていた。

このようなことを、だれが自然の現象として説明できるであろうか。のちにこの “水分” は科学分析によって “人間の涙” と証明されるのであるが、いま乾き切ってヒビさえある木彫の両眼からあふれ出るものを見た時点で、これこそ神の能力によって創られた聖母の新たな涙である、と感じずにいられなかった。
信じるか、信じないかの問題を超えて、目撃者はみな「聖母が泣いておられる」と感じ、心を打たれた様子であった。

時がたつにつれて、のちには何かの疑いをもつ者もあったようである。超自然の奇跡というものは、人間の理知の光をあてはじめれば、理解も解決もできず、当然疑念のうまれる余地がひらけてくるのである。
だいたい、奇跡は自然の法則をはるかに超越したもので、神の全能の力によってのみ行なわれる、とすれば、奇跡の大小を論ずることも意味がない。ただ黙して頭を垂れるべきであろう。

現象を軽んずるばかりか、超能力説などを持ち出して片づけようとする執拗な試みが、以後つづくのであるが、それを裏づける根拠はついに得られない。十年にわたる科学的調査も、超自然性を否定するにいたらなかったのである。

あえて私見をのべれば、木材から人間の涙を出させるのは、水をアルコールに変えるのと同様に、人力を超えたことではなかろうか。ここに、ヨハネ福音書にみられる、カナの婚宴の席上でイエズスが水をブドウ酒に変えられた奇跡に匹敵する驚異的現象を見る思いがするのである。

地元の一流の彫刻家若狭三郎氏によって、十余年前に製作されたこの木像は、桂の木を材料としているが、当時すでにすっかり乾燥しきって、ひび割れの筋が細く走りはじめていた。そのような木材からあふれるばかり水が流れ出たことだけでも、驚異である。しかも、すこし塩分をふくんだ “人間の涙” そのものが、像の特定の部分、両眼だけから流れ出てきたのである。

はじめは驚きのあまり、誰も写真をとることなど思いつかなかったが、のちには、カメラにおさめられて、客観的な証拠が残されている。これさえも幻想や錯覚のたぐいと一蹴することができるであろうか。

こうして一九七五年一月四日に始まった聖母像の落涙現象は、時をおいてあるいは日を継いでくり返され、一九八一年の九月十五日まで延々と、百一回もつづくのである。もちろん、各回の状況は、判で押したように同一ではない。涙の量も流れ方も、人間の場合と同様まちまちである。以下、時を追って、その次第を述べてゆきたいと思う。

神秘に直面して

一月四日、聖母像からはじめて涙が三回流れるのを目撃した人々の驚きに大差はなかったものの、その精神的な受けとめ方はまちまちであった。とはいえ、各自が自分の目であきらかに認めた事象は、否定すべくもなかった。

人間はこのような不思議なこと、自然界には起こりえないことに直面すると、まず衝撃の一時が過ぎたのち、その意味を問うものである。魂に受けたショックが大きいほど、真意をさぐらずにいられぬであろう。あるいは神から与えられた何らかのしるし、と考えられるならば、畏れつつしんでその意味するところを慎重にさぐるであろう。

いわゆる不可思議現象が、人間の巧妙なトリックによる奇術のたぐいであるならば、驚嘆のひと時が過ぎるとともに、かんたんに忘れ去られるのである。また、自然現象を超えても悪霊のはたらきによって生じる場合は、人は一瞬異常な衝撃を受けても、それは時とともに薄れ、魂に深い影響をのこすことはない、と神秘神学者たちは言っている。

反対に、神からの超自然的働きかけである場合は、かならずその “しるし” にふさわしい意味が伴うものである。それを認め受け入れることによって、人は神意に添うようになる。これは福音と矛盾するものではなく、むしろイエズスの「われは世の終わりまで汝らとともにあらん」とのお約束の、一つの現れとみてもよいであろう。ところで “聖母のお涙” は、どのように解釈されたであろうか。

天使のことば

先に記したごとく、姉妹笹川は二回目の “御涙” を発見してから、驚きと感動のあまり、身動きができぬ有様になっていた。黙想会を閉じる最後の祝福としての聖体降福式が終っても、まだ腰が立たない彼女は、居残っていた姉妹を送って “御報告があるから” と司教様と私に聖堂に来るよう頼んできた。

その時われわれに伝えられたことは、のちに正確を期して記録させたが、次のようである。
「御講話のあと、ロザリオの祈りの時、久しぶりに(私の耳が聞こえるようになってからはじめて)守護の天使が現れて、いっしょに唱えてくださいました。それがすむと一時お姿が消え、準会員の奉献式が終って念祷の祈りに入ってしばらくたったとき、また現れて、次のようにお告げになりました。

『聖母のお涙を見てそのように驚かなくてもよいのです。聖母は、いつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまと御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。

今日、あなた方を導いてくださる方が、最後の説教で言われた通りです。あなた方は見なければ信心を怠ってしまう。それほど弱いものなのです。聖母の汚れなき心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。

しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです。しかも秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに、主任神父様までが反対を恐れて来ないでいるのです。恐れなくてもよい、聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです。

聖母への信心を弘めてください。今日聖母を通して、聖体奉仕会の精神に基づいて、イエズスさまと御父に献げられた霊魂を喜んでおられます。このように献げられる準会員の霊魂を軽んじてはなりません。あなた方が捧げている “聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように!” との願いをこめての祈りは喜ばれています。

聖母のお涙を見て改心したあなた方は、長上の許しがあれば、主と聖母をお慰めするために、一人でも多くの人々に呼びかけ、聖母を通して、イエズスさまと御父に献げられる霊魂を集めて、聖主と聖母の御光栄のために、勇気をもってこの信心を弘めてください。このことをあなた方の長上とあなた方を導くお方に告げなさい』と言って、私の顔をのぞきこむようにされてから、そのお姿は消えてゆきました」

天使がはじめに「そのように驚かなくてもよい」と言われたのは、姉妹笹川が “お涙 ” から受けたショックで、なおも身動きできぬ状態にあったことへの慰めと励ましのように受けとれる。

次いで、聖母のお涙は、一人でも多くの改心する霊魂を求めてのものである、と明かされる。そして、聖母を通して聖主と御父に献げられる霊魂を望んで涙を流される、との説明によって、それがどれほどの切なるお望みであるかを強調される。

次に、今し方行われた準会員の奉献にふれて、「聖体奉仕会の精神に基づいて献げられる霊魂」が聖主とともに御父に喜んで受け容れられることを保証し、この奉献行為を軽々しく考えぬよういましめられる。たしかに、教会の古くからの伝統として、聖母を通してイエズスへ、イエズスを通して御父へ、すなわち三位一体の神へと向かう、いわば奉献の手順も思い合わされるのである。

また、天使に指摘されるまでもなく、聖母がとくに秋田のこの地をえらんで、お言葉を下さり、日本全土に神への改心の恵みを与えようと、手をひろげて皆を招いておられるとは、実におどろくべき御厚志である。これこそ、聖フランシスコ・ザビエル以来、四百年も、多くの殉教者とその子孫たるわれわれが、血と涙を流してあこがれ求めてきた恩恵ではなかったか。

人々のことば

この二日後の一月六日(月曜)の夕方、秋田地区の司祭たちの新年の会合があり、私も司教のお伴をして出席した。一応会の議事も終わり、座談に入ったとき、一員から次のような発言があった。
「このたび、聖母像の涙のうわさを耳にしましたが、それはどの程度確実なものなのか、また、それを司教様はどのように受けとめておられるのか、お考えをうけたまわりたい」 。

これにたいして他の者はすぐ「聖母像に関するそのような一連の出来事などは、現代においてはタブー視される事柄であり、むしろ積極的に拒否すべきである」と強硬意見を述べた。

またある人は、「自分がかつて神学を学んだ過程において、とくに “聖母” を研究テーマにえらんだので、教父たちの著書も多く調べてきました。その結果二つの点が明らかになりました。当時はまだ聖母被昇天の教義はドグマになっていませんでしたが、必ず将来の教会で信仰個条として発表される確実性をつかんだのでした。他の一つは、今もまだドグマではありませんが、“すべての聖寵の仲介者なるマリア” という点です。これもやがて信仰個条として発表されることは確実とさとりました。先に、修道院の聖母像の手から血が流れたという話を聞いたとき、木の材質によっては何年かたつと、樹液というか、ヤニのような赤いよごれが滲み出るのを見た経験があるので、それがたまたま聖母像の手の部分におこったもの、と考えていました。しかし、こんどは涙が流れたということになると、これには否定できない条件が具わっているようで、半ば信じる気もちになっています。ただし、それがほんとうに神の仕業であるか、奇跡であるか、ということは、こんにちの科学の分野での裏づけがないかぎり、認めるわけにいきません」と主張した。

これらの発言に対し、司教は、個人の立場として、「自分は以前に聖母像の手の傷も、そこから流れ出た血も見ているが、今回、眼から流れ出た涙を綿をもって拭ったとき、血の場合とははるかにちがって、その不思議さを感じた。これこそ奇跡ではなかろうか、と思った」と述べられた。

このほかにもいろいろ意見が出されたが、聞いているうちに私に一つの決意が起こり、強く固まった。では科学の証明を求めよう、と。

日ならずして私は、一年半前に聖母像の右手の傷から流れた “血” を拭きとったガーゼ、その後の “汗” をふいた綿、一月四日の “涙” をぬぐった綿を取りそろえ、秋田大学医学部を訪ね、奥原教授に相談をもちかけた。そしてその御仲介で同大学法医学研究室において、勾坂先生に精密な検査をお願いすることになった。もちろん、これらの検査対象がどこから採られたかは明かさず、純客観的な調査を依頼したのであった。

心待ちにした二週間後の結果は、“ガーゼの付着物は完全な人血である” こと、“二個の脱脂綿塊に付着する「汗」と「涙」は、ヒト由来のものと考えられる” ということであった。それらの鑑定物件には、他の人間が触れたための多少の汚れは付着していたということであったが、それとは関係なく、完全な科学証明が成立したのであった。

さらに、出所を知る者にとって意外なことに、鑑定によると血液型はB型であり、汗と涙のヒト体液はAB型である、と判定されたのである。同一人物の血液型と体液の型とが相違することは、普通考えられず、科学的には不可能とされている。

ここでちょっとした混乱が生じることになった。先に “聖母像のふしぎ” をいち早くとり上げていたカトリック・グラフ誌は “聖母の血液型はB型” とすぐ報じてしまっていた。そこで、次に汗と涙はABとなっても、それも同じB型で押し通す結果になった。辻つまを合わせる善意からであろうか。それとも、綿に付着していた他の人間の手の汚れの故に、体液のAB型は無視したのであろうか。

ともかくそれで、この事件に関する第一次調査委員会では、聖母像よりの血液のB型のみを取り上げ、涙も汗も当然同型のものとしてしまった。しかも、姉妹笹川の血液型がB型であるところから、この一致ですべてが解決できると考えられた。すなわち、姉妹笹川はいわゆる超能力をもった特異の人間であり、聖母像の涙もその能力によって自分の涙を転写したものである、というまことしやかな解釈である。いかにも想像力をたくましくした、早急な結論である。しかし真実は、もっともらしい空論のフタで蔽い切れるものではないのである。

その後、一九八一年八月二十二日、天の元后聖マリアの祝日に、聖母像から久しぶりに涙が流れることが起こった。先の血液型のこじつけから来る悶着で悩まされてきた私は、再検査を求めようと思いついた。その意外な結果については、後にあらためて詳述したい。

聖母と聖ザビエル

一五四九年八月十五日聖母被昇天の祭日に、聖フランシスコ・ザビエルがキリストの福音の使徒として、はじめて日本の鹿児島に上陸したのは、まぎれもない歴史上の事実である。ほかならぬこの日が、ザビエルを通じて、日本民族とキリストの最初の出会いの日となったことは、聖母のお引合せをおのずと思わせるのである。

これが、神の祝福と恩恵の端緒となって、多くの人々が入信し、いわゆる切支丹となったことは、あらためて記すまでもないめざましい事実である。ザビエルは、ついに志を果たして日本列島の一端に足をふみ入れたとき、ひとかたならぬ航海の苦難をなめたあとだけに、聖母の御保護に心から感謝をささげたことであろう。またこの日が奇しくも聖母のもっとも光栄ある大祭日にあたることに意をとめ、聖母の汚れなきみ心に日本全土を奉献して神への改心の恵みを祈り求めたに相違ない。

むかしわたしはコロンブスのアメリカ大陸発見を主題とした映画を見たことがある。一行が見知らぬ海岸の波打ち際に上陸するやいなや、そこに跪いて敬虔に祈りをささげた、その感動的なシーンをいまだに忘れることができない。

ザビエルのような福音宣教の熱に燃える聖人が、はじめて日本の海岸に降り立ったとき、まず熱烈な祈りを神にささげなかったということは考えられない。またとくに史実として資料の裏づけがなくとも、その大祝日に当たった聖母に向かって、宣教のよき効果のためお取り次ぎを願わずにすませたとは、到底思えないのである。

ともかく、聖人の祈りと聖母のお力ぞえによって、日本の布教はまずいちじるしい成果をあげた。が、間もなく為政者によるおそるべき迫害が起こり、教会史上に例のないほどの殉教の哀史がつづられることになった。聖母のお涙は、人々の眼には見えなかったけれども、そのときから、無数の殉教者とともに、日本の上にそそがれていたのではなかろうか。

秋田における殉教

先にしるしたごとく、姉妹笹川を通じての天使のお告げの中に、「聖母が秋田のこの地をえらんでお言葉を送られたのに……」とあるところから、私は秋田の地に先に蒔かれていた恩恵の種をさぐる心で、秋田殉教史をひもといてみた。キリスト信者ではない著者武藤鉄城氏の労作「秋田切支丹研究・雪と血とサンタクルス」から、以下少し紹介したい。

「寛永元年(一六二四)六月三日、ついに秋田キリシタン史の悲しき記念日、秋田藩最初の殉教の日が到来した。
六月三日
一、 御城御銕砲にて罷出候
一、 きりしたん衆三十二人火あぶり、内二十一人男、十一人女
一、 天気よし

これが、信者たちから鬼のように恐れられた奉行、梅津半右衛門憲忠の弟政景の、その日の日記である。しかもこの大殉教をわれわれに教える日本における唯一の記録である。……

それにしても最後の『天気よし』の一語が、三百年も過ぎた今日でも、私たちの胸をなんと強く打つことであろう。十字架に釘付けられた幾十人もの信者を生きながら焼く煙の、ほのぼのと炎天にのぼる光景が瞼に映るではないか。……

クラッセの “日本西教史” には、その日の光景を次のように描写している。
……宗徒すでに刑場に達するや、一人ごとに柱に縛し、少許を隔て薪を積み、これに火を放てり。ここにおいて各人同声救主の救援を希願し、皆一様に天を仰ぎ救主を呼んで死を致し、殉教の素顔を遂げたり。……
殉教者の遺骸は三日間人をもつてこれを守らしむ。ここに不思議なるは、夜間天光明を放つといふ出者あり。はじめこれを見認たるは守衛にして、その者よりして基督信者に告げ、ミナの人は霊妙なる示現を見んとして、夜中屋瓦上に登る者もあり。第三夜に至り密雲天を覆ひ、降雨甚だしきに観者三百人に過ぐ。これによつて基督信者は弥々信心肝に銘じ、異教者はただその奇怪に驚くのみ。ジアン喜右衛門が柱に縛せられたる時、その懐中より一書を落せり。その記する所は実に聖母を信ずるの深きを見るに足る。よつて一語を略せず左に陳述す。

『至神至聖なる聖母、余がごとき不似の者にして聖子耶蘇基督を信じ、その恩を謝するを得たるは実に聖母の慈仁に出づるを知る。仰希す。余の妻、余の子ら地獄に陥るの苦を救ひ、なほ余らをして死に至るまで信心を失はざらしめよ。聖母、余は実に怯懦なり、いづくんぞ大苦難に堪ふることを得ん。希ふ所は聖子救世妙智力を施し、もつてこれに克つを得せしめんことを。余や地獄に墜つるをおそれ、ために聖母に救苦を祈る者にあらず。ただ身を炙肉となして供祭せらるるを願ふ者なり。至仁なる聖母、幸に余の祈願を放棄するなく、余および余の妻子および同社の夥伴を保庇して、死に至るまで信心を聖教に強固ならしめよ。
 余は日本において奉仕する聖教と、これを聞き、これを修めて倦むことなき師父らの事を至心渇望す。これらをみだりに祈請するは実に僭越粗暴たるを知るといへども、かつて聖子耶蘇は架上にありて聖母をもつて衆生の母となす例あり。これ余が恐懼を顧みず、この懇請をなす所以なり』
右と同じ日の光景を、パジェスの “日本基督教史” にも記録されている。……」

このような殉教者を出した土地柄の秋田を聖母がえらんで、お言葉を賜り、お涙を示されたのも、理由のないことではない、と思われる。天使はつづけて、「恐れなくてもよい。聖母はおん自ら手をひろげて、恵みを分配しようとみんなを待っておられるのです」と保証される。このたのもしい促しにさえ、われわれは真剣に耳を傾けようとしないのであろうか。

日本の再布教

殉教の血にいろどられた二九五年を経て、ようやくフランスの外国宣教会の一員フォカード師が、日本の再布教を志して渡来した。一八四四年五月一日、琉球の那覇港に到着した彼は、軍艦内の病室でミサを捧げ、感謝の祈りにつづいて “聖母の汚れなきみ心” にこの新布教地を奉献して祈った。この祈りを、少し長いが、浦川和三郎師著の「切支丹の復活」(前篇)から左に引用紹介しておきたい。

「ああマリアの至聖なる聖心、諸の心の中にも至つて麗しく、清く、気高き聖心、善良柔和、哀憐、情愛のつきぬ泉なる聖心、諸徳の感ずべき奥殿、いと優しき美鑑なる聖心、ただイエズスの神聖なる聖心に遜色あるばかりなる聖心よ、我はきはめて不束なる者なれども初めてこの琉球の島々に福音宣伝の重任を托されたるにより、我力の及ぶ範囲内に於て、この島々をば特に御保護の下に呈し奉り、献納し奉る。その上、いよいよ布教を開始して、その基礎を固め、この島人を幾人にても空しき偶像礼拝よりキリスト教の信仰に引き入れ、一宇の小聖堂にても建設するを得るに至らば、直ちにローマ聖座に運動してこの国を残らず、公に又正式に御保護の下に托すべきことを宣誓し奉る。ああ慈悲深きマリアの聖心、神聖なるイエズスの聖心の前に於ていとも力ある聖心、何人たりともその祈祷の空しかりしを覚えしことなき聖心よ、卑しき我祈願をも軽んじ給はず我心を一層善に立帰らしめ、数々の暗黒に閉され居るこの心の雲霧を払ひ給へ。我は大なる困難、危険の中に在るものなれば、願くは、謙遜、注意、鋭智、剛勇の精神を我が為に請求めさせ給へ。全能、哀憐の神なる聖父と聖子と聖霊とはこの賤しき我を用ひて『強き所を恥かしめ、現に在る所を亡し(コリント前一、二八)』幾世紀前より暗黒と死の蔭とに坐せるこの民をば福音の光と永遠の生命とに引き戻し、之に立向はしめ、辿り着かしめ給へ。アメン。」

その後日本の政治の流れも変わり、鎖国の長い眠りも破られ、切支丹迫害の血なまぐさい歴史も一応幕をおろした。しかし、迫害が止んだからといって、日本のキリスト教化がたちまち進展するものでもなかった。むしろ遅々として、布教の効果は一向にあがらないのが実情であった。

やがて、日本民族にとって有史以来最大の惨事ともいうべき大東亜戦争が起こり、ついに広島・長崎の大いなる犠牲をもって終局を迎えたが、一九四五年のその記念すべき日が、八月十五日という聖母被昇天の祭日であった。このことは、終戦当時九万そこそこのカトリック信者に、神の摂理による暗合を思わせ、聖母とのゆかりをあらためて想起させるものであった。

このとき、日本の司教団は一致して、先に述べたフォカード師の範にならい、「聖母の汚れなき聖心に日本を捧げる」ことを決議し、信者たちにもその信心がすすめられたのであった。

ところで、一九七五年一月四日、聖母像から三回も涙が流された日に、天使から姉妹笹川に告げられた言葉の中に「聖母の汚れなきみ心に日本を献げられたことを喜んで、聖母は日本を愛しておられます。しかし、この信心が重んじられていないことは、聖母のお悲しみです」との指摘がある。

昔から、神のおん母、人類に賜った母、聖マリアを愛し尊ぶ聖母信心は、教会の伝統から言っても聖書に照らしてみても、もっとも正統な、いつの時代にも重んずべきものであった。先の切支丹たちも聖母への信心によって、苛酷な迫害に堪え、殉教をとげる力を与えられていたのであった。そのように、聖母はいつも日本を愛し、日本民族を心にかけてこられた。その聖母が、なぜ今涙を流されるのであろうか。

「聖母の汚れなき御心に日本を献ぐる祈」は、今でも “公教会祈祷文” の二四一ページに、そのまま記載されている。しかし、もし誰かが、天使のような眼力をもって、現在の日本のカトリック教会をくまなく見わたしたとしたら、どこかでこの祈りが唱えられているのを発見できるであろうか。口に出して唱えぬまでも、この心を忠実に保って聖母信心にはげんでいる教会を、いくつか見いだせるであろうか。

こんにちでは、聖母を通して神にお恵みを願うことを、軽んじるばかりか、あたかも迷信か邪道のように言う人さえ、稀ではない。それに対しては、まじめに論議をまじえる前に、まず理解に苦しむ提言、といわざるをえない。

第二バチカン公会議は、聖母信心に関して、はっきりと言明している。
「すべてのキリスト信者は、神の母、および人びとの母に対して、切なる嘆願をささげ、教会の発端を祈りをもって助けられた聖マリアが、すべての聖人と天使の上にあげられた天において、今もなおすべての聖人の交わりのうちで、御子の許で取り次ぎを続けて下さるよう祈らなければならないのです」
聖母は、この公会議の条項が少しも信者たちにかえりみられないことを、泣いておられるのではなかろうか。

先の天使のお告げのつづきに「あなた方が捧げている “聖母マリアさまを通して、日本全土に神への改心のお恵みを、お与えくださいますように!” との願いをこめての祈りは喜ばれています」とのはげましの言葉がある。

この祈りは、聖体奉仕会において、毎日の聖体礼拝中、ロザリオの祈りに先んじて提示される共同祈願の意向の第一として唱えられるものである。日ごろ姉妹たちと口にし馴れたこの祈りが、聖ザビエルにはじまり、フォカード師から日本司教団へと受けつがれてきた由緒ある、聖母の御心にかなった日本民族のごあいさつであり、敬愛と信頼をこめたすぐれた祈祷であることに、今さらに気づき、感慨をあらたにした次第である。

求められた犠牲

先に姉妹笹川の耳が聞こえなくなったのは、一九七三年三月十六日のことであった。起床後しばらくは、話す相手もないまま耳の異常には気づかなかった。朝六時半、電話のベルがかすかなのをいぶかりながら、受話器を取り、相手が本部からの姉妹とわずかにみとめたきり、あとは音がなくなってしまった。何も聞こえなくなった、と告げたので、本部でも騒ぎになったのであった。これが神の摂理によるものであったことを、その後のいきさつによって、十年以上も歳月を経てから、われわれは次第に明白に認識するようになったのである。

当時は降って湧いた災難のようにも思われた、不意の聴力消失の故に、姉妹笹川は、せっかく馴れた仕事場を離れて、この山奥の静かな祈りの場に移って来たのであった。
そのころ本部には姉妹の数も少なく、訪れる客とてもなく、全員心を一つにして、ひたすら祈りに明け暮れる日常であった。姉妹笹川は、与えられた一室で和裁の仕事に精を出す時も、ひと針ひと針に心をこめて、常に神の尊前で祈りつづける境地におかれていた。

こうして、彼女自身としては夢にも思わぬことながら、のちに聖母のお言葉を承るにふさわしい、純な信仰と祈りの心の下地がととのえられて行ったのであった。

やがて、先に順次述べてきたごとく、かずかずの不思議な現象と、聖母像を通しての “お告げ” が始まったのである。これら一連の出来事は、いずれも注目すべきことではあるが、とくに聖母のメッセージが、重大な意義をもつものであることは、言うまでもない。

聖母は姉妹笹川に、第一のお言葉として「耳の不自由は苦しいですか。きっと治りますよ。忍耐してください。……人びとの罪のために祈ってください」と語られた。そのお言葉からも、神の摂理をうかがえるように思われるのである。

現代のわれわれは、こぞって、何を目標に生きているか、といえば、ひたすらこの世の幸福、の一言につきるであろう。現世的楽しみに、生きる意義を見いだしているごとくである。モットーは、レジャーと快適な生活であり、よく働くのはあとでより多く楽しむため、という考えが、良識のようにまかり通っている。肉体的には快楽追求、精神的には、一切の苦悩・憂慮追放が、至上目的のごとくである。もしそれを可能とする条件が与えられなければ、社会正義とか人権擁護などの旗をかかげて、人を相手どった闘争に熱を上げることも、当然のごとく考えるのである。

現代社会のこのような大勢にまきこまれて生きている信徒としてのわたしたちも、宗教生活においてももはや “神のために生きる” とか “神の意志のあるところを求めて、償いの苦しみや犠牲を甘受する” などという心は、あまりもたなくなってきたようである。カトリックの信仰に拠って立ち、お恵みに支えられて生きる者、と自負していても、周囲の快楽主義の滔々たる流れにいささかもゆるがされず、何の影響も受けずにすますのは、たやすいことではない。

多少の苦しみや困難を忍ぶにしても、それがやがて何らかの形でこの世の幸福をもって酬いられなければ、人々は納得できないようである。“苦あれば楽あり” の法則に適わない、とみるごとくである。そのような “常識” に反して、精神的不幸や肉体的苦痛をひたすら神への奉仕と愛の献げものとして甘受し、聖旨のままに耐え忍ぶ、などということは、まさに宗教の吹き込む愚直なわざとしか思われないらしい。

そういう立場からキリストの十字架を眺めるなら、この贖罪の受難を嘲弄した群集の心理がよくわかる。
「あなたが救主であるなら、十字架からおりて、自らを救え」
現代の時流に応じた生活をしているわれわれも、ある意味でこのように叫んでいるのではなかろうか。現世的欲求に目がくらんで、天の正義の要求は見えなくなり、神の真意をさぐることも忘れてしまっている。求められる犠牲は厭い、与えられる病苦は力をつくして避けている。今の平穏無事な幸福だけを願い、それをいつの間にか生き甲斐のように求めていれば、キリスト教の真の意義からはおのずと遊離してしまうのである。

このような時代に、姉妹笹川に与えられた聴力喪失という試練は、たとえそれが自然的原因による疾病であっても、とくに意義あるもののように思われる。その全聾状態が、一九七四年十月十三日に、一時的とはいえ、奇跡的に癒されたいきさつは、先に詳述した。その治癒は、その年の五月十八日に天使によって予告されていた。再記すると──

「あなたの耳は、八月か十月に開け、音が聞こえ、治るでしょう。ただし、しばらくの間だけで、今はまだ捧げものとして望んでおられますから、また聞こえなくなるでしょう。しかし、あなたの耳が聞こえるようになったのをみて、いろいろの疑問が晴れて改心する人も出るでしょう。信頼して善い心でたくさん祈りなさい」

次いで九月二十一日の予告では、耳の癒される時の状態がくわしく語られ、それが一時的な治癒であることを更に念を押して「今はまだ完全に治らず、間もなくまた聞こえなくなるでしょう。おられますから」と強調されたのである。

私たちは彼女の耳がほんとうに癒されたのを見て、驚嘆し、大いに慶賀し合った。が、予告通り治った耳は、またやがて予告通りに再び犠牲の捧げものとして閉ざされるはずである、と思えば、手放しで喜ぶわけには行かなかった。それがいつのことであろうかと、当人はもとより、皆が一抹の不安をもって、推し測らずにいられなかった。もうすぐ起こることのようでもあり、希望的観測をもってすれば、案外遠い将来の話のようにも思えたのであった。

一九七五年三月六日の木曜日、わたしはマリア庭園のためにえらんだ重さ数トンもある巨石を、四人の人夫たちと共に、雪の上を橇で運ぶ作業に専念していた。昼ごろ、一人の姉妹が修院から私を呼んでいるのに気づき、遠くから電話でもかかったのかと急ぎ近づくと、今聖母像から涙が出ている、ということであった。
これは、一月四日以来の、お涙の現象であった。すぐ野良着のまま御像に寄って拝した瞬間、木像の足もとのあたりがぬれており、一滴の涙のしずくが顎の下にたまっているのが、目についた。そこへ司教様が見え、手でさわってみなければ分からない、と言いつつ、人さし指でその水滴をぬぐわれたところ、しずくはそのまま指に移り、皆が見ることができた。

ちょうどこの時、一台のタクシーが玄関に着き、カトリック・グラフのY記者が訪ねて来た。まさに恵まれた好機とばかり、さっそくカメラがかまえられたが、せっかくの御涙が終わったところだったので、とくに見るべき写真とはならなかったようである。この出来事は、一月四日以来の再度のお涙の現象という以外に特筆すべき点もなかったので、これまで取り上げて述べることもせずに過ごしたのであった。

ただこのことのあった日から、姉妹笹川は、ただならぬ頭痛に人知れず苦しんでいたようである。翌日の初金曜のミサ中にとくにひどくなり、聖体拝領後、彼女が後頭部を手で押さえてひれ伏しているのが見られた。 朝食をすすめられてもことわり、そのままの姿勢でひとりとどまっていた。

後刻、私のところへ来て、次のように報告した。
「わたしの耳は、天使の予告のお言葉のように、また聞こえなくなりました。守護の天使が、あわれみ深いまなざしで『御父のお望みの時まで、耐え忍びましょう』と言って、姿を消されました」

前日のはげしい頭痛から、姉妹笹川は、すでに覚悟しはじめていたようである。のちの説明によれば、この頭痛は、その性質が前の難聴の先駆症状とそっくりであったらしい。頭が重いというより、まるで釜でもすっぽりかぶせられたように重苦しく、耳鳴りもトンネル内の騒音か飛行場の爆音にさらされているような、圧倒的なものであった、という。

私はその日のうちに姉妹笹川を伴って、秋田市立病院と日赤病院の耳鼻科を訪れ、診断を乞うた。この時の私立病院の診断書には「両側突発性難聴の疑。初診、昭和五十年三月七日。比較的安静を要し、当分の間加療を要する。(医師名)」とあり、日赤病院の診断証明は次のごとくである。「病名、両感音難聴。高度難聴で計器最大出力でも測定できません。したがって良くなっているかどうかの判定は不能。今後の改善はあまり期待できません。上記のとおり診断証明します。(日付、医師名)」

こうしてこの日から、姉妹笹川はまた、二年前の一切の音から遮断された沈黙の世界に閉じ込められることになった。さらに医師の厳密な検査によって、治療の可能性のないことまで宣告された。

ただ天使の先の予告に「あなたの耳が聞こえるのはしばらくの間だけで、今はまだ完全に治らず……」とあったことから、いつかは完全に治ることが期待されるわけで、そこに希望が残されていた。しかもこんどは、「御父のお望みの時まで」耐え忍ぶよう、はげまされたのである。その時がいつか分からぬながら、われわれは、ともに信頼をあらたにし、心を一つにして、祈ったのであった。

さて、これまで述べてきた聖母像をめぐるかずかずのふしぎな出来事は、何を意味するものであるか、という考察を、もう一度とり上げてみたい。

先に記したごとく、奇跡というものは、無意味に与えられるものではない。魔術師は人を驚かせるためにふしぎな術を見せるが、神はただ人間を驚嘆させるために自然法則を破るようなことはなさらない。

聖母像からの血や汗や芳香や百一回の涙にいたるまでの奇跡は、何のためであったのか。それは御像を通じて──また奇跡的治癒の恵みを受けた姉妹笹川の耳を通じて──与えられた聖母の “お告げ” の超自然性と真正性を証するため、にほかならない、と言えよう。

その “お告げ” は、第一回が姉妹笹川へのあいさつとはげましの言葉、第二回は、神のお怒りをやわらげるため捧げる犠牲と祈りへの招き、第三回は、天罰の警告と聖母への信頼のうながし、というふうに、要約できる。しかし、聖母のメッセージとして最も重要な部分は、第二回に告げられた、次のお言葉ではないかと思われる。

「世の多くの人びとは、主を悲しませております。私は主を慰める者を望んでおります。天の御父のお怒りをやわらげるために、罪人や忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、御子とともに望んでおります。……」

多くの人びとは、主を悲しませている。……この御指摘から思い浮かぶ現在の世相は、キリストの十字架の道行きの現代版、とも言えよう。今やキリストを知らぬ者は全世界で皆無のように思われ、皆その名を耳にし、何かの形でキリストに出会っている。その現代人という大群衆は、十字架を荷うキリストをかこんで、二千年前のユダヤの民衆と同様な態度をとっているのではないか。

誰も救い主を慰めようとする者はない。自分自身を慰めることに汲々としている。どよめいているのは、嘲弄の罵声とそれに迎合する声ばかりではないか。「私は主を慰める者を望んでおります」とのお嘆きには、切なるひびきがある。

今、主をお慰めするには、あの十字架の道に走り出て敢然とお顔拭きの布を捧げたヴェロニカのように、周囲の思惑や反対を押し切って、キリストに近づき、心身をささげてその聖なる犠牲に参与すること、が求められるのではなかろうか。

くり返して言うが、現代の時流──苦しみからの逃避と快楽追求に終始する風潮──に押し流されて、信者までが十字架を忌避するようになって来ている。十字架なきキリストを求め、苦しみ抜きの安易な救済をあてにしている。

このような有様を嘆いて、聖母は涙をあまたたび流されたのではなかろうか。
そして、木彫の像が百一回も落涙する衝撃的現象を示されながら、なお人々が無関心を装い、重大な御警告を無視しつづけるとしたら……。

聖書のルカ一章に、次の印象的な記述がある。
キリストの先駆者・洗者ヨハネの父親ザカリアが神殿で香を焚いている時、天使ガブリエルが現れ、妻エリザベトの懐妊を予告した。彼はそれをすぐ信じなかったので、天使は「私はあなたにこの良いおとずれを告げるために遣わされた。しかし、あなたは口がきけなくなり、このことが起こる日まで話すことができないであろう。それは、時がくれば実現する私の言葉を信じなかったからである」と告げた。(ルカ1・20)

姉妹笹川の耳が聞こえなくなったのは、べつに天使の言葉を疑ったからではない。むしろ、すぐ信じたからこそ、予告通りに耳は奇跡的に癒されたのであった。

ここで注目したいのは、神が天使の言葉への不信を、直ちに肉体的に罰せられるほど、きびしく扱われることである。

だいたい、これまでの例をみても、神が天使の介入を許されるのは、このように重要性をおかれる出来事の場合である。湯沢台における天使の介入、奇跡の種類と度数の少なからぬことは、顕著な事実である。しかも、神の聖旨によって、お告げをもたらされたのは、天使だけではなく、聖母御自身である。それもお涙を示しながらの訴えかけである。人間の訴えさえ、声涙倶にくだる時、聴く者はまじめに耳をかたむけるものである。聖母のこれほどのお呼びかけに、いつ人々は粛然と襟をただし、真剣に応じるのであろうか。

今日の日を大切に


一九七六年五月一日、土曜(勤労者聖ヨゼフの祝日)
この日は東京から十一人の男子訪問客が予定されていた。主に東京西部に居住し、社会の第一線にそれぞれの分野で活躍しつつ、“安信会” と名乗るグループを結成して信仰の練磨も怠らぬ壮年の信徒たちである。かれらが姉妹一同とミサにあずかり祈りをともにできるよう、私は早朝のミサを夕刻に変更し、朝は聖務ののち聖体拝領のみを行なった。

朝食後、姉妹笹川が聖堂に入って、聖母像から涙が流れているのを発見した。前年の三月六日以来とだえていたことで、一年二ヵ月ぶりの現象である。知らせを聞いて全員ただちに集まり、御像の前でロザリオの祈りを一環唱えた。

その後、九時二十分ごろ、姉妹Kが聖母像をスケッチするため近づいたところ、またも涙の流れているのを目にし、おどろいて姉妹たちを呼び集め、ふたたびロザリオを一環唱えた。この二度目の落涙現象には私は立ち会えなかった。町に買物に出ており、正午少し前に帰院して、報告を聞いたのである。

夕方五時からの “晩の祈り” の始まる三十分前に、一人の姉妹が聖堂に入って、聖母像からまたも涙が流れるのを発見した。そこで一同早目の入堂となり、三たびロザリオの祈りが捧げられた。

東京からの “安信会” の一行は、予定よりおくれて八時ごろ到着した。私たちはミサを先にするため、夕食をとらずに待っていた。ほかにも、五月の連休とあって、新潟や仙台その他の地方からも二十数名の訪問客があった。

八時過ぎからのミサは、聖ヨゼフに感謝と御保護を願う意向をもって捧げることにした。終わったのは九時ごろであった。一同退堂したのち、姉妹笹川だけが、聖体拝領の直後から、畳にひれ伏したままの姿で、身動きもせず残っているのが、目にとまった。

しばらくして、彼女は一つのメモを手にして、私の許に報告に来た。聖体拝領後、天使の出現があったそうで、紙片にはその “お言葉” が書きとめてあった。それをそのままここに写せば、次のごとくである。

「 “世の多くの人びとは聖主を悲しませております。私は聖主を慰める者を望んでおります。貧しさを尊び、貧しさの中にあって、多くの人びとの忘恩、侮辱の償いのために改心して祈ってください。ロザリオの祈りはあなた方の武器です。ロザリオの祈りを大切に、教皇、司教、司祭のためにもっとたくさん祈ってください”

この(マリア様の)みことばを忘れてはなりません。聖母はいつも一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズスさまとおん父に捧げられる霊魂を望んで涙を流しておられるのです。外の妨げにうち勝つためにも、内なる一致をもって、みなが心を一つにし、信者はもっと信者の生活をよくして、改心して祈ってください。聖主と聖母の御光栄のために、今日の日を大切に。みなが勇気をもって一人でも多くの人びとにこの信心をひろめてください。このことをあなた方の長上とあなた方を導く方に告げなさい」
こう告げてお姿が消えた、という。

私はこの報告を受けてのち、安信会のメンバーと司祭館で遅い夕食をとっていた。約七百キロの道のりの車の旅をねぎらい、道中の話に耳をかたむけ、ゆっくりと食卓をかこんでいた九時四十分ごろ、聖母像からこの日四度目の涙が流れている、との知らせが入った。

皆一せいに外の暗やみにとび出し、走り込むようにして聖堂に入った。御像の涙を目にするや、ある者はひれ伏し、ある者は感涙にむせび、それぞれの反応を示した。私は例によって、ロザリオを取り出し、先唱して “苦しみの玄義” を一環唱えはじめた。

その間、聖母像の両眼からは涙があふれつづけ、頬をつたわり、あごから胸部にしたたり、像の足もとまでぬらしていった。ロザリオの祈りの第二連を唱えているうちに、涙はようやく止まったのであった。
この夜の宿泊客のうち、他の二十数名もはじめて聖母像の涙に接した人びとで、中には何か人為的なトリックでもあるのでは、と疑われた向きもあったらしい。

翌日は復活節第三主日にあたり、私はミサの説教に前日の天使の言葉を引いて、聖母のお涙にたいしての省察をうながした。この日は、さらに四人の医師と他の多くの訪問客も加わった。にぎやかに昼食の卓をかこんでいる最中の十二時半ごろ、聖母像のあらたなお涙が発見された。

ただちに聖堂に、ひしめき合うほどの人数が参集した。このたびは、きのう疑念をかくしえなかった人までが、みずからも涙を流し嗚咽を洩らしている有様がみられた。四名の医師たちも、これは奇跡でしかありえない、と語り合っていた。会の記録によると、当日の目撃者は、姉妹たちを合わせて五十五名となっている。

二日にわたり計五回涙が流されたあと、今までみとめられなかった涙の流出の痕跡が、聖母像の頬に見られるようになった。十二年を経たこんにちも、それはなお見ることができる。

目撃者の証言

その後この時の目撃者の代表として、安信会のメンバー十一人が、カトリック・グラフの求めに応じて座談会形式で証言を行なった。それは後日出版された “極みなく美しき声の告げ” という本にも再録されているので、次に主な部分を引いておく。

三技信義氏の証言
ミサに与ってから男子宿舎に充てられたヨゼフ館で夕食をいただきました。もう九時半になっていたでしょうか、遅い夕食でした。その食事中に別棟から電話があり、「いま、また涙が出ています。どうしますか」と神父様から言われた瞬間、私たちは反射的にヨゼフ館をとび出していました。
聖堂に駆けつけると、聖母像はたしかに涙を流しています。一番早く聖堂に入った私は、声を出して嗚咽していました。  ロザリオの祈りが始まったとき、私は祭壇の脚近くにいましたが、とめどなく流れる自分の涙をどうすることもできませんでした。この時のお涙の量は、翌日の涙に比べてかなり多かったと思います。祈りを終えてから皆宿舎へ戻って食事を再開しましたが、誰一人として声もなく、感激溢れる食卓風景となりました。

川嶋美都雄氏の証言
翌日正午過ぎ、私たちが昼食を始めたところへ知らせがあって、皆が二度目の目撃をしたわけです。まだ前夜の涙のあとが聖母像の顔の部分に残っており、さらに新しい涙が湧いて頬を伝う、という情況でした。

鈴木功氏の証言
私など技術畑出身なので、とかくアタマでものを考えてしまいます。超自然より自然法則を尊ぶんですね。だから一回目の目撃時には、雨のせいではないか、湿気はどうか、といった疑いが頭を横切りました。完全にショックだったのは二度目です。そこにはもう、自然作用の入り込む余地がありませんでしたから。

広井栄次氏の証言
涙が出たという知らせを初めて受けたとき、私もやはり雨露の影響ではないかと考えて、像を目と鼻の先に見据え、そうでないと解ったあと、今度は、誰かがスポイトで演出したのではないかと思いました。ところが二度目の涙は、像の目からジワッとにじんであふれ、私たちの目の前で次から次へと流れたのです。私たちの理解を超越したこの事実に、やはり感動せざるを得ませんでした。

宮田斉門氏の証言
二回目の、目がうるんだあと美しく光り、涙が流れていくさまを見て、なんともいえない感銘を受けました。

増子武之氏の証言
私の場合、盲人が親切な人に導かれてマリア像の前へ立ったようなもので、何となく湯沢台にひかれて、非常に忙しい中、あたふたと行ったわけです。予想していたわけではないのに、「涙が出た」と聞いたとき、予感が当たった、と思いました。といっても一回目は呆然と見ていた、というのが実感で、像の台座まで涙が流れていたことが印象に残っているだけです。二回目は、涙を見ようという意識をはっきり持って見つめました。像の目は、キラキラと光って濡れていました。

藤井清和氏の証言
一回目の涙は予想もしないことでびっくりしました。罪の赦しを願ってロザリオを唱えましたが、実は顔を上げることも出来ず、足もとに流れている涙を見ただけで全体をこまかく見ていないのです。
二回目のときは、はっきり見ました。左目から大粒の涙が頬を伝わって流れるさまは、自然の作為のない超自然の事実と感じました。

守口忠夫氏の証言
私も一回目は、涙がよく見えなかったくらい感動しましたが、その夜はまだ信じられない気持ちでした。そして翌日の二回目になって自分の目ではっきりと見極めたのです。これは単なる自然現象ないし精神現象として説明できるものではありません。無神論者でない限り、自分が理解できないことはありえないことだと決めてしまって、私がこの目ではっきり見たことまで調べもせずアタマから否定する傾向があるとすれば、納得のゆかぬことです。私の場合、超自然の力を自分の目で見たことを、私の本当の信仰を強める機会にしたいと思っています。

伊崎泰弘氏の証言
秋田への旅立ちの動機はあったものの、私の場合、マリア様の涙は、まったく予期しないものであったわけです。もちろん御血、御汗、芳香など一連の奇跡的事柄を信ずるにやぶさかではありませんでしたけれども、聖母の御涙をじかにこの目でたしかめたいなどという、大それたというか大きな望みは、心のどこかにも持ち合わせていませんでした。静かに湧き出て目頭にたまった御涙が頬を伝って流れ落ちるのを、私はこの目でしかと見ました。瞬間、私は現世の一切を忘れてひれ伏しました。私事にわたる願望などは末のまた末のことだ、という思いに強くとらわれました。これを上智の賜というのでしょうか。「神はこれらの事を学者智者には示されず、いと小さき者の上にお顕しになった」と聖書に書かれておりますように、ぐうたらな私に無限なる神がどうして、というおののきにとらわれます。信仰は個人の一部でもなくまたアクセサリーでもむろんない、全人格、全行動とのかかわりをもたねばならないと痛感しました。

小野文雄氏の証言
第一回目の涙を見たあと、私と広井さんの二人は風呂を浴びながらやはり “スポイト説” を論じたものです。二度目には「狂信的になってはいけない」と気持ちをおさえながら、同時に「よし、この際徹底的に見てやろう」と決心しました。
涙はあふれて落ち、またあふれては落ちました。私は像に近づき自分の目でそれを確かめました。そして疑うことの非を悟り、皆と一緒に無心にロザリオの祈りを唱えました。

川崎弘氏の証言
二度目のとき、私は像から三〇センチの近さで、右目から米粒大の涙がキラキラ光って湧き落ちるのを見ました。人為的方法では芸術をもってしても表現できない美しさでした。他に人がいなければ、像の足もとに落ちた涙を自分のロザリオにつけてみたい──そんな思いに駆られました。──

これらの証言を列挙したあと、当時の編集者は “注” として、次の言葉をもって結んでいる。
「十一人の中にも『何といわれようと私は見たままを知らせる』という積極派から、『人を見ながら慎重に』という慎重派まで各人各様だ。

しかし十一人は声をそろえてこういう。『湯沢台の出来事をいたずらに否定したり無視してはいけないと思う。一日も早く客観的調査に踏み切り、結果を公表すべきではないか』」

私自身は、この二日間にわたる落涙現象に(外出中の二回目をのぞき)立ち会い、目撃したままを上に述べたわけである。以後、問われるままに、多くの訪問者にも語ってきた。とくにこの日の現象は、天使の言葉をもって裏書されているところも、もっと注目すべきことのように思われる。

「今日の日を大切に」とは、聖ヨゼフへの信心が主に嘉せられることの保証をあたえられたようで、今後も記念として残し、心に銘ずべき事柄であろう。が、更にもっと重大なのは、聖母のメッセージへの真剣な対応への促しである。

ことにこんにちでは、管轄教区長の公認をすでに得ながら、これらの度重なる奇跡とメッセージの意義を公に世に問うこともなしに、いたずらに時を過ごしている。

このような重大事に当たっても、超自然性は日常の自然性の邪魔ものかのごとく、現代社会の思惑をはばかり、世間一般と足並みをそろえることにのみ専念しているようでは、やがて大いなる責任を問われるようになるのではあるまいか。

教会側とマスコミ

一九七六年五月十三日。
五月十三日といえば、カトリック信者の間では、先にポルトガルのファチマに聖母が出現された記念日として知られている。

この日たまたま湯沢台に、カトリック・グラフの編集者山内継祐夫妻が訪問、聖母像のお涙を親しく目撃するということが起こった。すでに一年半前からカトリック・グラフは “秋田の聖母像” に関する記事を独占的に報道していた。いくつかの週刊誌もこれを追い、二、三のテレビ会社も取り上げて放映するようになった。

こうして世の注目を集めはじめると、かえって国内のカトリック新聞雑誌は目をそむけ、意固地に黙殺の態度をとった。

私自身はカトリックの報道機関を通じて正しい情報を提出し、適正な判断をもとめたいと願ったが、ことごとく拒否された。そこでカトリック・グラフの編集者たちの革新的報道方針の熱意を頼みとして、これまでの資料を提供したのであった。

この珍しい報道は、グラフの読者層を一時ひろげたが、一方反対者の怒りも買ったようである。山内氏は「聖母像の出来事を取り上げて以来、われわれの仕事は危急存亡の瀬戸ぎわに立つことになった」と私にたびたび述べていた。

その彼が、五月十三日にはからずも自身の目で聖母像の涙を確認することとなった。その報告記事には、まずそれまでの苦しい心境の告白が述べられている。
「(聖母が)メッセージを広く伝えよ、と命じられたと聞いて、グラフではすべてを書きました。私たちとしては、この使命ゆえにこそグラフが刊行され続けているのではないかとさえ思っています。そうでなければ、司教団首脳にきらわれ、資産の乏しいグラフが、今日まで生き続けることは出来なかったかもしれません。それにしても、一連の出来事のために修道院とグラフが浴びている批難は、小さくありません。ことに、私にとってはもう、耐え切れない重荷になってしまいました。…」

山内氏はなおも次の号のために、先の五月一日と二日の “お涙の現象” の目撃者たちの座談会も企画していた。重荷によろめく心境で秋田にたどりつき、御像の前にぬかずいた彼は、にがい思いを聖母に訴えかけずにいられなかった、という。

「カトリック社会に何とか真の報道機関を、と願って、私は肩ひじ張って来ましたが、もう疲れました。まったく余力がありません。これまで毎月の経済的危機を乗り越えられたこと自体、あなたのお取り次ぎによる奇跡だ、と私は思っています。その恵みには感謝いたしますが……。予定される目撃者の座談会だって、しょせん誰が何を見たかを伝える形式のもの。もし出来事が真実なのなら、私にもお見せください。そうすれば私はグラフの一人称で胸を張って書くことが出来るではありませんか。……といっても、涙を出すも出さぬもあなた次第ですね。ま、あなたのお望みどおりなさってください。とにかく私は、もう疲れました」

神の答え

山内夫妻は夜行で上野を発ったので、湯沢台に着いたとき、私たちはすでに朝食をすませ、聖体礼拝も終えていた。 山内氏の報告を追ってみると──まず聖堂の入口で夫人が聖水入れを指さし “いい香りがするでしょう” という。“べつに” と答えると、彼女は聖水に浸した指先で何度も十字を切りながら “ほんと、今度は香らないわ” と首をかしげていた。

午後、彼ら二人はひと気のない聖堂に入った。彼が何気なく祭壇右手のマリア像に目をやると、顔ばかりか全体が白々と輝くように見えた。午前に見たときは黒っぽい顔だったと思いだし、“オーイ” と夫人に呼びかけておいて、自分は聖母像に歩み寄った。

「私はマリア像に近づき、象の顔から三十センチ、いや十センチくらいの位置で観察しようとした。その鼻先に、水滴が光っていた。水滴は大粒で丸く、像の右頬に止まっている。右目が濡れて光り、下まぶたから水滴まで一筋の水跡がついている。……一歩退いて像を見たまま、出てるぞ、と私は言った。“恐い” と叫んで妻が私にすがりついた。私は像から目を離さずにいたが、頭の中では様々な思いが交錯した。……」

彼は冷静を取りもどして “天使祝詞を唱えよう” としたけれども、声の震えをどうしようもなかった。彼がゆっくりと祈りを唱えはじめたとき、夫人は声を上げて泣きだした。(彼は生まれてこのかた、初めて無心に祈れた、といい、神がすぐそばにおられることを実感した、と付言している)

やがて彼が私の部屋にとびこんで来て「いま、涙が出ています」と告げたので、私もすぐ聖堂におもむいた。この日ちょうど秋田教会の婦人たち二十名が、一日黙想のため来訪しており、知らせに全員集まって、御像の涙の目撃者となった。私は例によって先唱してロザリオ一環を一同と唱えた。祈りが終わったのちも、聖母像の木肌の涙にぬれた部分が赤く染まっているのが目についた。

山内氏の記事はこう描写している。
「ロザリオの祈りが一環の終わりに近づいたとき、像の胸元の濡れがすうっと消えていった。あ、涙が消えてゆく、消えてゆく…と思っている間に、絵にかいたような消失ぶりである。そのとき私の位置からは、頬の涙やアゴの涙は確認出来ず、胸元のにじみの変化だけが鮮やかに目に映った」

そして “現象” が終わったあと、彼は「これが神の答えだな」と確信し、苦しくとも辛くともグラフ刊行を続けよ、との神の意志を感じ取ったという。
こうして、カトリック・グラフはその後数年間は発行をつづけたのであった。

増大する試練

このようにカトリック・グラフが “秋田のマリア像の涙の出来事” を確信をもって大々的に報道するにつれ、反対と否定の声も四方から高まってきた。

当事者のうちでも最高の責任者である伊藤司教は、騒ぎをそのまま傍観していたわけではない。すでに一年ほど前、神学者の中でもマリア神学の研究で知られるE神父に依頼して、ことの真相を究明するようはかっていたのである。そこでE師は湯沢台を訪問、姉妹たちと会い、姉妹笹川を観察したついでに、彼女の日記を貸してほしい、と申し出た。

彼女はそれを私に告げに来て、どうしたものか、とたずねた。あちらの言い分では、安田神父の記事は良いことばかり取り上げ、悪い方面には少しもふれていないので、正当な判断のための資料とならないから、とのこと。そう聞いて私はしばらく考え、何も隠しだてをすることもない、真偽をたしかめるため必要とあらば、日記をそのままお貸ししなさい、と答えた。

この日記はE師によって完全にコピーされ、一年後に彼女に返された。これを証拠資料のように用いて、姉妹笹川は異常性格者、超能力所有者に仕立て上げられたのであった。

この烙印によって決定的となったおそるべき試練は、姉妹笹川の上に、ひいては彼女をめぐる人々の上に、十年間、すなわち一九八四年の復活の祝日、教区長伊藤司教の公式書簡によって、事実の超自然性がみとめられるまで、つづいたのである。

さて、先の山内夫妻の訪問の四日後、五月十七日から七日間、ほかならぬE神父の指導のもとに姉妹たちの静修が行なわれることになった。これは先に調査を依頼した伊藤司教がE神父の便宜をはかるためにも賛同した企画であった。私はその間、三重県鈴鹿市の教会から、話題の聖母像をめぐる出来事に関する講演を頼まれ、留守にしていた。姉妹笹川は、これも御摂理の許されたことと思われるが、ちょうど母危篤の知らせを受け、黙想第一日の終わりに郷里へ帰った。こうしてE神父には一週間も、誰はばからず弁舌をふるう場が残されたのであった。

旅から戻った私は、姉妹たちの異様な沈黙と重苦しい雰囲気におどろかされた。数日後の日曜、ミサを終え、朝食をすませた私の居室に姉妹たちが集まって来た。あらたまって語り出すところを聞けば、E神父の黙想指導によって、自分たちの信念はぐらついてしまった、との告白である。姉妹笹川の異常性格による超能力のはたらきによって万事が作為されたことは明らかである、と専門の神学者から理路整然と説き明かされてみれば、何の反論も出せぬ自分たちとしては、その判断を信じその意見に従うほかないのである、という。

私は咄嗟に「そんなばかなことはありえない」と答えたものの、あとから思案して、又聞きでただ否定してみても、根拠のある反論とはならない、と気づいた。やはりE師のそれほど確信にみちた意見というものを直接委しく聞いた上で、あらためて事の真相をたしかめなければならない、と思い返した。姉妹たちにしても、その道の権威の自信にみちた解釈で説き伏せられれば、心情的信頼はもろくも覆され、信念の失せる不安に陥ったのも、無理からぬこと、と今は静かにかえりみられる。しかし、この暗く閉ざされた空気の中で、私自身の心の動揺もただならぬものがあった。マリア庭園の花をみても木をみても味気なくむなしく、絶望に近い灰色がすべてを蔽っていた。自らも足元をすくわれる動揺を全くは否定できず、人間の信念というもののはかなさに、暗澹たる心地であった。

二日ほどして、私は二人の上位姉妹を伴い、E師の意見を直接たずねるべく、上京した。そして神学院の応接間に迎えられ、二時間ほど話を交した。彼は、姉妹笹川の日記による研究レポートを引いて説明し、彼女はもともと生まれつきの異常性格であった上に、仏教からカトリックへの改宗以前にも超能力者であったことが判明し、改宗後もこうした超能力を発揮したものと分かった、という。聖母像の手の傷やそこから流れ出た血、汗や涙の現象すべてが超能力によって惹き起こされたものである。すなわち、彼女は自分の血を像の手に移しかえることができ、涙も自分の涙を転写したものである。などと、密教の修験の例を援用して、得々と説明された。

聞き終わって私は、つまり今後の研究課題は、彼女のいわゆる “超能力” と聖母像の客観的現象とにいかなる密接な因果関係があるか、ということであろう、と胸にきざんで、一応引きさがった。この高名な神学者の説は、すべてにおいて、私を納得させるに不十分なものであった。

一方、教区長として責任の重圧をいよいよ感じる伊藤司教は、問題を教皇大使にはかったところ、東京大司教に頼んで調査委員会をつくり正式に調査を始めるがよい、とすすめられた。さっそく事はそのように運ばれたが、もちろんかの神学者E師はその主要なメンバーの一人となったのである。

伊藤司教は調査委員会の指示をうけて、カトリック界の公報機関であるカトリック新聞に、“秋田の聖母像の崇敬について、公の巡礼的団体行動を禁止する” 旨の公示を出した。

その同じ頃、姉妹笹川は調査委員会のリーダーE師に個人的に呼び出され、丸一日、誘導尋問や説得に次ぐ説得、つまり洗脳を受けた。

彼はすでに自分の意見として、湯沢台の姉妹たちをはじめ、各方面に、“姉妹笹川は特殊な精神分裂症であり、守護の天使を見るのは、自分で自分に語っている二重人格的構成をもつ精神分裂の一種にほかならない。指導している神父が、彼女を利用してマスコミにものを書いたり、事業の利益をはかったりしているのは、許しがたい罪である” などと言明していた。

しかし姉妹笹川本人にたいしては、その歓心を買うためか、非難めいたことは一言もいわず、慈父のごとき言動を示した。姉妹笹川は次のように回想している。「弟と妹につきそわれて来た私を、E神父様は両腕をひろげてにこやかに迎えてくださいました。たっぷりの朝食をすすめられるまるでお父様のような優しさに私たちは感激しました。

それから一対一になって、午前中いっぱい、午後は五時過ぎまで、息つく間もない説得をうけました。
私は精神異常とでも宣告されるかと、ひそかに覚悟していましたが、そのような言葉は一つも出ず、超能力の持ち主だ、と言われて、はじめて聞く話にびっくりしました。何のことかと伺うと、潜在意識のことからこまごまと説き、すべての不思議な現象は、私が無意識に超能力をもって惹き起こしている、とのことです。
 ──では悪魔から来ているのですか。だったらどうかそんなものは取り除いてください。
 ──悪魔ではない。あなたは知らずにしていることだから、罪はない。
 ──でも、私はそんな特別な人間になりたくありません。それに、多くの人をだましているとおっしゃるなら、おそろしいことです。どうかそんな能力を取り除いてください。
 ──ともかくあなたが悪いのではなく、最初に天使のことなども真に受けて、ことをこんなにエスカレートさせた長上に責任がある、といえます。守護の天使などというのも、あれは、あなたが自分自身に語りかけているのです。──だから、今後はそんな出現を無視すればよいのだ、という警告でした。

ところが、それから十一時の御ミサにあずかったところ、思いがけず守護の天使のお現れがありました。あわてて、無視しようと目をつぶったりしましたが、“恐れなくともよい” といつものお声を耳にしたとたん、何ともいえぬ心の安らぎを感じました。

午後のお話の始めにE神父様にその報告をしたところ、今までずっと続いて来たことだから急に終わるわけにはゆかない、私の指導を受ければ、これもすべて解決する……とまた延々とおさとしがつづきました。

私は何よりも、自分で知らぬこととはいえ、多くの人を欺く結果になっている、と言われたことに、恐ろしいショックを受けていました。おしまいには、疲労困憊で倒れそうな有様になったので、電話で知らされた妹が迎えにかけつけてくれました。

帰途のタクシーの中で、私はもうすべての気力を失い、このまま死ぬのではないか、と考えていました。
妹の心づくしの夕食も目にも入らず、机にうつ伏すようにして両手を頭にあてたとき、思わぬ触感にビクリとしました。髪の毛が恐怖のあまりか、文字通り逆立っていて、汗と脂でコチコチになった毛が針金を植えたようにこわばり、指も通らぬ有様になっています。

驚愕の一瞬のあと、こんどは急に目がさめたような反省が湧いてきました。“これは何という有様か。これでも信仰をもっているのか。すべては神様が許されて起こったことであり、すべてを神様はご存知ではないか。自分であれこれ思い煩うなど、それこそ自分にとらわれているではないか……” こう思った瞬間、胸がスーッと開けたようで、笑いたい気分さえこみ上げてきました。泣き笑いのうちに手を上げてみると、髪の毛もしなやかさを取りもどしていました。

翌日から伊藤司教様のおはからいで、心身の検査を兼ねてS病院に入院しました。ベッドに横たわってみると、もう精も根もつき果てた感じで、三日三晩食べることも起きることもできず、診察もそれぞれの医師が出向いて来られる有様でした。

三週間後、二人の姉妹の迎えを受け、修院へは戻らずそのままY温泉へ療養に行きました。いくらか体力をとり戻して修道院に戻っても、以前とまるで違う空気が待っていました。それからは、まるで針のむしろにくらす心地でした。よく生き抜いて来た、という気が今になっていたします。でも入院中からして、体力も気力も衰え切った時は、もうこのまま召されたほうがどれほど倖せか、と何度思ったことでしょう。……」

しかもこれは、十年の歳月に痛みをやわらげられた上での控え目な述懐である。
表面上、人びとは親切であった。病院の医師も、面とむかっては精神異常を否定し、ノーマルだと断言しつづけたが、委員会への報告には、特殊なヒステリー性をほのめかしている。

修道院の目上も修友も、やさしくいたわってくれるが、今や自分の信用は地に落ち、ことごとに疑いの目でみられていることを、痛いほど感じさせられる。

指導司祭として私の洩らした “十字架上のキリストは、誰からも信じられず、見放されていた” との一言に、必死にすがる支えを見いだしていた、とのちに告白している。

不信の中の孤独というあらたな試練の日々が、始まったのであった。

温泉にて

姉妹笹川は、生来病弱で、少女時代から年に数回はあちこちの湯冶場めぐりをしたものであった。こんど奥原医博のすすめで送られたY温泉も、馴れた古巣のごとく、傷ついた心身をあたたかく迎え入れてくれるものとなった。

人里はなれた山奥で誰にも知られず、宿主の恩情にのみ見まもられて、静かに過ごす孤独の日々は、卓効ある温泉とともに、大きな救いをもたらした。もっとも、祈りひと筋の修道生活を求める者としては、毎日のミサもなければ御聖体もないさびしさは、何にまぎらしようもないものであったに相違ない。

長上である伊藤司教も、三ヵ月の滞在中に三回ほど、日帰りで見舞われたのがせいぜいであった。私も月に一、二度、百七十キロの道のりを電車とバスを乗りついで御聖体を持って訪ねる程度であった。そのたびにキリストの御受難を話題にとり上げ、精神の支えとするよう、すすめた。彼女もその黙想に力づけられている、と答えた。

“精も根もつきはてた” と先にみずから表現したこのたびの試練が、どれほどのものであったかを理解するために、彼女のおかれていた状況をあらためて見直しておきたい。

たかが一日 “洗脳” されたという程度のことで……と考える向きもあるかもしれない。だが元来、修道院の共同生活を人並みにおくるのが精いっぱいの体力でしかなかった。しかもこの時は、母を亡くした直後であった。すでにこの年の始めに、最愛の父の死に遭った。こんどは母……苦労をかけ通した母、虚弱に生まれ、大病、十一回の大手術、二回の臨終の秘跡などで心労を負わせつづけた母、との永別であった。悲嘆の重さは弱い体をうちひしぐものであったに相違ない。

その悲哀の底からいきなり東京へいわば引き立てられ、(もちろん家族は反対したが)E師の前に出頭させられたのである。なお、身近にくらすわれわれもつい忘れがちなのだが、当時彼女はまだ全聾の状態にあった。耳が全く聞こえないということは、不自由などという程度のものではないらしい。一切の音が消失している不安は、どんなものか。背後から危険がなだれ落ちて来てもわからないのである。覚えた読唇術とカンの良さで、日常生活を破綻なくこなしていたが、神経の休まることはなかったのではなかろうか。

E師の前に置かれるや、たてつづけの説論となる。達者な日本語とはいえ、外人の唇を読み解くには、相当緊張がつづいたであろう。しかも、思いもよらぬ超能力とやらの持ち主ときめつけられ、多くの人を欺いたとの宣告を延々と聞かされる。神と人への奉仕にのみ喜びと生き甲斐を見いだしていた者にとって、この痛烈な打撃は、張りつめた気力でもちこたえて来た生命力の根底を衝くものであった。髪の毛の逆立つほどの恐怖から疲労困慙におちいったのも、無理からぬことと思われるのである。

S病院の三週間も、静養よりは心身の煩わしい検査に明け暮れた。ようやく帰途についても、飛行機の着陸時の衝撃が弱い内臓にひびき、車椅子ではこび出される、という有様で、まったく試練に次ぐ試練の日々だったのである。

そういう姉妹笹川に、Y温泉の静寂は、何よりの安らぎをもたらしたようである。私の見舞うごとに、少しも淋しくない、と洩らし、“御受難” の話に力を得る、と言いながらも、べつに沈痛な面持ちを見せることもなかった。もともと人なつこい性格なので、宿主一家や湯冶客たちとすぐ仲よくなったらしい。

何よりのたのしみは、山の小鳥たちの訪問だった、という。窓のふちに菓子のかけらをならべておくと、次々と食べに来る。指先からもついばむ。腕や肩や頭にまでとまる。警戒心のつよいセキレイまで遊びにくるので、宿の人びとの評判になった。

なお、一方で “守護の天使” の訪れも、E師の「もう現れることはない」との断言にもかかわらず、つづいていた。たびたび傍らに姿を見せて、優しい微笑をもってはげまし、時にはロザリオをともに唱えられた、という。

こうして三ヵ月が経ち、さわやかな秋風とともに、体調もおもむろにととのい、修道生活に復帰できるようになったのであった。

摂理のままに

姉妹笹川は前の生活にもどったが、修院内の空気は以前と一変していたことは先に述べた。姉妹たちは、あれほど感銘を受けた聖母像のふしぎも、“超能力説” で片づけられてしまえば、対応の仕方にとまどい、おちつかぬ精神状態にあった。当然、“張本人” と名ざされた姉妹笹川に前と変わらぬ親愛を示すことはむずかしかったであろう。

私自身は、聖体奉仕会の会報に、聖母像に関する出来事を相変わらずとり上げ、事あるたびに報告し、こうした不思議な現象は神のはたらきかけによるものではないか、と素直な受け取り方を暗にすすめていた。しかし、先の五月一日の聖母像の涙の詳細を発表した時点で、伊藤司教から「このような報告は誤解を招くおそれがある。今は調査委員会にすべてをゆだねたから、調査の結果が出るまで沈黙を守ってほしい」との忠告を受けた。

それ以後、しばらくはこの問題に一切ふれず、身辺雑記的なことを書きつづけることにしたのであった。といっても、とくに印象的な事柄については、例外としてちょっとふれずにいられなかった。たとえば、韓国から一老婦人の訪問のあった際、聖母像から久しぶりに芳香がつよく感じられたこと、またこの婦人の話によれば、韓国では湯沢台の出来事はひろく知られ “秋田の聖母の涙” という本はすでに二万部も売り切れ、信者は皆この奇跡を信じ、巡礼に来ることを夢みている、ということなどである。

もっとも、聖母像の涙は、“調査委員会” が組織されて以来、ピタリと止まって、一度も流れることはなかった。そこで私は、涙の現象も終わったものと考えるようになっていた。

調査委員会は、二年後に調査の結果として、秋田の聖母像の現象に関し、その超自然性について否定的結論を出した。が、そのくわしい内容は、私たちに全然知らされなかった。

かねて、伊藤司教は姉妹たちとの会合で、委員会の結論が出たら、一も二もなく従順にそれに従うように、とさとされていた。ひとりの姉妹が “自分の良心にそむいても、なお従うべきであろうか” と反問したところ、“この場合はともかく従うことが大切である” との指示であった。

しかし、いざ司教自身が否定的結論を受けてみると、それを公表するまでには踏み切れず、良心にただならぬ動揺を感じられたようである。数ヵ月後、ローマの教義聖庁と布教聖庁をみずから訪れ、これまでのいきさつを述べて、権威筋の判断を仰ぐことにした。それに対し「もし納得のいかない結論ならば、自身で再調査委員会をつくって、もう一度調べたらよい」との勧告が与えられた。

姉妹笹川の日記がE師によってコピーを取られたことは前述したが、第一の調査委員会は、その日記のみを検討して、全面的否定の結論を出したのであった。委員のだれ一人として(E師のほかは)実地に湯沢台を訪ね、聖母像を検分し、姉妹たちの生活にふれ、その精神情況をさぐるだけの労をとることなしに、下された断定である。

日記以外に何も見る必要はない、とは驚くべき安易な責任の果たし方である。第二の調査委員会が司教の委嘱によって発足するにあたり、先の調査の結論が当然明かるみに出されたわけで、私は以上のいきさつを知って、唖然としたのであった。しかし、今は調査委員会の問題に長々とかかわっている場合ではないので、いずれこの件に関しては、しかるべき折に詳述したいと思う。

この第一次の結論を待っていた二年間もの間、修院の生活は以前同様につづいていた。
私は自分なりに検討をつづけつつ、ことの超自然性をみとめる方にますます傾いていた。
その間も人びとは引きつづき、“お涙の聖母像” の膝もとで祈ることを求めて、小人数ながら各地から来訪していた。

ふたたび涙が

先年マリア庭園を造るにあたって、聖ヨゼフの御保護を祈ることにした次第は、前述した。さらに、守護の天使が姉妹笹川に「ここにヨゼフ様に対する信心のしるしがないのは、さびしいことです。今すぐでなくとも、出来る日までに、信心のしるしを表すように、あなたの長上に申し上げなさい」と告げられた、と聞いて、私はさっそく聖ヨゼフの小さな御像を求め、祭壇をはさんでマリア像と向き合う位置に据えておいた。 

その後、日ごろ親しく来訪される信心家のひとりH氏から、木彫の聖ヨゼフ像を献納したいとの申し出があり、聖母像の同じ製作者若狭三郎氏に依頼することになった。半年後の六月半ば頃、その作品が届けられてきた。聖母像と同じ大きさで対になるように完成された、気品のある御像である。私たちは大いによろこび、聖母の被昇天の大祝日こそそれを祝別するのにふさわしいと考え、八月十五日まで、玄関の間に移されていた聖母像のそばに置くことにした。

七月に入り、夏休みを待って和歌山から三十二名の子どもたちが、私塾長Y夫妻に引率されて、大挙おとずれてきた。小学上級と中学生の、未信者の少年少女であったから、私はせっかくの旅のみやげに何か心に残る行事を、と考えてみた。

マリア庭園も完成して二ヵ年にもなることだし、聖ヨゼフの御援助によって出来上がったことを思えば、感謝のしるしとして、新来のヨゼフ像をかついで “庭園をお見せ” してはどうか、という案がうかんできた。Y夫妻と姉妹たちにはかったところ、大賛成を得た。

一見子どもじみた行動ではあるが、信仰の行為にはとかく子どもらしい単純さがふくまれているものであって、現に子どもたちが参加するにはもってこいの行事と思われた。そこで、かれらの到着した七月二十六日の夕、祝別前の聖ヨゼフ像を担ぎ台にのせて少年たちに荷わせ、庭園に繰り出した。大人たちも、手燭式ちょうちんをかざして、こどもとともに行列をつくり、かつぎ回られる御像について、聖歌をうたいロザリオを唱えつつ庭園をめぐり、にぎやかに祈りの時を過ごしたのであった。

一時間あまりの式の後、また御像をかついで、マリア様の部屋にはこんで来た。元の位置におさめようと係の姉妹が電灯をつけたとたん、“聖母像が涙を流しておられる” と私に告げた。はじめは冗談かとおもったが、再度の呼び声に戸口から引き返し、近寄って見ると、たしかに今流れたばかりらしい涙のあとが、頬から胸にかけて濡れた筋を引いており、あごに大きなひと粒がたまっていた。それはまぎれもなく、二年前まで十回にわたって眺めてきた、“お涙の現象” であった。

知らせを聞いてたちまち人々は集まり、大人・子供合わせて五十名近くが、小部屋にあふれた。中に、ヨゼフ像の献納者H氏夫妻の姿もあった。御像を先頭に灯の行列をする、と聞いて参加されたのであった。二連のロザリオを唱え終わるころ、お涙は自然にかわいて消えた。

“みちのくの巡礼旅” を飾る灯の祭典に勇みたち、ヨゼフ像をかついで無心に歌い祈った子供たちは、思いがけぬ “お涙” に感嘆の目をみはり、自分たちの行動を聖母がよろこんでくださったしるし、と受けとめて、元気いっぱい帰途についた。

H氏のほうも、意想外の “お涙” に接して、自分の捧げたヨゼフ像を聖母がよろこばれたしるし、と思われたのではなかろうか。と推測するものの、その感想を聞くよしもない。というのは、意外なことに、H氏はその翌日、急逝されたからである。

約束があったゴルフに出かけ、急に首筋に痛みを訴え、日射病の注射など受けたが、間もなく心臓の発作で他界されたということであった。前晩、マリア庭園から帰る車の中で、H氏は夫人に “私たちはこれから毎日山のマリア様のところへ来てお祈りしよう” と提案されたそうである。

晩年に洗礼を受けたH氏は、発明の仕事に情熱をもやし、信仰には必ずしも熱心というほどでもなかった。その人がこのような決意をされるとは、聖母像のお涙によほど感じるところがあったに相違ない。このようによい心がけの時に召されたことに、未亡人はせめてもの慰めと励ましを得られたであろう。

前に述べたごとく、第一調査委員会のE師は、調査開始以後聖母像の涙の止まったことを当然の成行きとし、もはや新たに涙が流れることなどはない、と宣言していた。私が意見をただしに訪ねたときにも、調査が始まってから姉妹笹川の超能力的仕掛けは止まった、と断言した。調査の始まる直前に十回目の涙の現象が起こったが、これは姉妹笹川が超能力を用いて調査委員会に働きかけようとした意図的なものであった、と彼の神学的解釈の結論に説いてあった。

ところで、二年二ヵ月の間いわば沈黙のうちに、移された小部屋のすみに粛然と立つのみであった聖母像が、まるで調査会の否定的結論を待ち設けたかのように、ふたたび涙を流してみせられたのである。それは一九七八年七月二十六日の夜のことで、以来、一九八一年九月十五日、聖母のお悲しみの記念日まで、引きつづきくり返されることとなった。さかのぼって、最初の一九七五年一月四日から数えれば、実に百一回も涙を流されることになる。

後日、伊藤司教がE神父を訪れて、聖母像からなおも引きつづき落涙が見られ、しかも姉妹笹川が修院から遠く離れている留守中にもその現象の起こる事実を告げ、その理由の説明をもとめたところ、“聖母像をかこむ姉妹たちの中にも超能力者がいて、そのようなことになるのだ” という、それこそ摩訶不思議な解答を与えられたそうである。超能力者といわれるような人物は、そんなに都合よく、そこにもここにも存在するものであろうか。

H氏もあの無邪気な子供たちも、ただ聖母に引き寄せられるごとく集まって来て、思いもよらぬ経験をし、それぞれ神のみ心にかなう働きをしたのだという喜ばしい実感をいだいて帰って行ったが、私のほうも、再度の “お涙” に接して、この現象はまだ終わったのではない、とあらたな感慨に浸ったのであった。

人間の浅知恵がいくら頑強に否定しても、神は自在に働きをつづけられることを、ひしひしと感じた。二年二ヵ月の空白を埋めるかのごとく、聖母像はふたたび、好む時好むままに、落涙を示しはじめられたのである。

“超能力による” 涙よりも、“そんな不思議はもう起こらぬ” というE神父の宣言のほうが、空しく消えてしまった。

素直な信仰の価値というものが、あらためて思われる。「からし種ほどの信仰があるなら、山に向かって海に移れと言えば、山は海に移るであろう」とのキリストのお言葉を、小賢しい割引なしに現代文明の世界に取り戻す必要がある、とつくづく感じたものであった。

また私は、聖母像の褐色の頬が生けるもののごとくに涙に濡れるのを目にするたび、二千年の昔、十字架のもとに立って、死なんとするわが子を仰ぎつづける聖母のお姿を、想起せずにいられなかった。

御受難を描いたどんな名画に接するよりも、木像にせよその両眼から実際に人間の涙があふれ出るのを見るとき、それが人の胸を打つ力も、まさしく真に迫るのである。

過去にどれほど強烈な、忘れてはならぬ事実があっても、年月がたつにつれ、その記憶はうすれ、感激も色あせてくるものであろう。

聖母像のいまの落涙は、二千年前のいたいたしいお涙と、十字架上の救い主のお姿を、現実に引き寄せて思い起こさせる、ひとつのお恵みとも私には思われるのである。

記憶に残る日々

聖母像の落涙現象は百一回に及んだが、涙の流れる様相は常に異なっていた。量にしても、ある時はとめどなく流れくだり、ある時は二、三滴したたり落ちる、という具合であった。状況としては、私たち修院在住の者だけの面前で起こることは少なく、外部からの訪問者のある時が多かった。

つまり、内輪の者ばかりでなく、客観的に観察をなしうる証人の存在する時に、おもに起こったのである。その時間も限定されず、昼夜を問わず、だれの予測も及ばぬかたちで始まるのであった。必ず発見者が出るわけであるが、それは大人でも子供でも、訪問者でも姉妹でも、だれでもよかったようである。

落涙が起こらなかった例外的な時間があったとすれば、それはミサ聖祭の間である。御ミサは姉妹たちの生活のなかで、日々欠くことのできぬ、最も神聖な典礼行為である。そのミサの開始前、あるいは終了後には、二、三度 “お涙の現象” があったように記憶する。

“百一回のお涙” については、いちいち記録がとってあるので、巻末に付しておく。ここでは、その中から特に注目すべき二、三の場合を、以下に拾っておきたい。

一九七九年三月二十五日。

朝食後、聖体礼拝の直前に、聖母像から涙が流れた。この時は、御像の全顔面を滂沱たる涙が蔽った。百一回中もっとも多量に流されたものである。涙が止まってからとられたスナップ写真に、そのあとは歴然とみられる。“神のお告げ” の祝日にちなんで流されたもの、と受けとったことが記憶に残っている。

その後もお涙はいよいよ繁くなり、五月、六月などは連日起こることもあり、七月末日には計九十五回の落涙現象を数えるに至った。

このころになると、修院内では誰もが一種の馴れを感じはじめていた。いつでも見られる現象であるかのように、安易な気持ちでロザリオを唱えに集まる風が出てきた。いそがしい仕事の最中の姉妹の中には、またか、と思う者もなきにしもあらず、という案配で、厳粛に受け止めるべきものの重みを、狎れが軽んじさせるという、人間一般の悪癖が見えてきていた。

ところが、七月三十一日以後急にお涙はピタリと止まってしまった。爽やかな季節をむかえ、奇跡の聖母を慕って巡礼者たちが日ましに訪れて来ても、うわさのお涙に接することはなかった。秋から冬へと季節はすみやかに移る。御像からは一滴のお涙も流れぬままである。どういうわけからか。また、これは中断なのか、終結なのか……私にはなんとも判断のつかぬことであった。

この年もそろそろ終わりに近づいたころであった。突然思いもよらぬ所から、私に電話がかかってきた。あるテレビ局のTというディレクターからであった。その話によると、ひとりの匿名の人物から妙な警告の電話を受け “秋田の聖母の涙というのは大ウソであるから、絶対に取り上げないように” と言われた。全然初耳だったT氏は、二、三やりとりするうち、かえってカチンとくるものを感じた。そこでカトリック・グラフの山内記者に電話を入れて、事の詳細をたずねた。そして、むしろ実地に真相をただしてみたい思いにかられた、ということで、私に面談を申し込んできたのであった。

私としては、マスコミとかかわるのは煩わしい思いであったが、ウソかマコトかを見きわめるためとあれば、承諾せざるをえなかった。

グラフの山内氏を先頭に、テレビ局のスタッフ四名が訪れて来たのは、十二月六日であった。はじめの予定が都合で二日遅れて、ちょうど十二月八日聖母の無原罪のおんやどりの祝日を前に到着したことにも、のちに摂理のはからいを感じさせられたのであるが……。

六日は木曜にあたっており、修院では毎月初金曜の前晩を、とくに償いのため、顕示された御聖体に向かい姉妹が交替で徹夜礼拝を行うしきたりになっている。機械一式をかかえて乗り込んで来たスタッフは、さっそく聖母像に向けてカメラを据え、夜通し六秒間隔の瞬間写真をとるべくセットしたのである。

聖堂は隣りの室とはいうものの、カメラの自動シャッターの音は秒きざみでひびいてくる。当然、祈る人の神経にさわるので、私は徹夜礼拝をひと晩のばすことにした。それに、ちょうど土曜日の “無原罪のおんやどり” の祭日の前晩に、夜を徹して聖体礼拝を行うのも意義があろう、と思ったからであった。

カメラは聖母像をいわば独占したかたちで、翌金曜朝の御ミサの開始まで刻々と、文字通り機械的に、写真をとりつづけた。が、なんらの異変もとらえられなかったようである。

七日の日中は、姉妹たちも私もインタビューにかり出され、あとは周囲の景色を紹介するとかで、スタッフ全員がいそがしく動きまわっていた。夜になり、働き疲れた人々が安眠に入ったのち、われわれのほうは、ふり替えた徹夜礼拝を開始した。

深夜十二時過ぎ、すなわち十二月八日に入って十分ほど経ったころ、私は部屋の電話のベルで目をさました。今、聖母像から涙が流れているのを交替の姉妹が発見した、との知らせである。二階に山内氏とテレビ局の人びとが寝ているので、私はまず山内氏に声をかけ、応答を聞いてから、修院へいそいだ。玄関を上がり、聖母像に近づくと、もううしろからスタッフの面々がカメラを手にかけつけていて、あっという間にシャッターが切られた。さすがに俊敏なつわものたちである。もっとも中には “最初手がふるえて、うまくとれなかった” とあとから告白した人もあった。

私たちは例によって、集まってきた訪問客とともにロザリオ一環を唱え、涙が自然に消えてゆくのを見守ったのであった。朝になると、テレビ局員たちは夜の間カメラをセットしておかなかったことをくやみ、滞在を一日のばしてこの夜もう一度ためしたい、と願ってきた。もっともな希望で、私も同意した。

そこで八日の夜八時ごろからまた聖母像に向けて据えられたカメラは、秒きざみのシャッターを切りはじめたのである。

その夜十一時過ぎ、姉妹のひとりが遅い聖体訪問をした帰りがけに聖母像の前にひざまずき、お涙を発見した。

この時の模様はカメラがとらえていて、やがてこのテレビ局から “ウソかマコトか” の疑問への答えとして、全国的に放映されることになった。

そして、このビデオは今なお巡礼客に “お涙の現象” を再現し、奇跡を身近に感じとる一助となって喜ばれている。ここに神のはからいをみるとともに、無原罪の聖母の祝日を期してこの恵みがまた与えられたことにも、とくに感銘をおぼえるのである。

決定的鑑定

一九八一年八月二十二日。
この日は “天の元后聖マリア” の記念日である。以前の教会暦では “汚れなき聖マリアのみ心” の祝日であった。この日の “お涙の現象” は、状況として特筆すべきことはなかったが、後日の記録のためにマークしておきたいと思う。

すでに私は一九七五年一月四日に流された最初のお涙を提出して鑑定を依頼し、ヒトの体液との判定を受けていた。しかし不用意に採取されたその検体に余分な他の “人の体液” の付着物があったため、落涙現象の検討がすすむにつれて、問題が起こってきた。それがある人びとの不信を買い反対を煽る動機ともなったのであった。

そこで私は、絶対に不純物のない検体を入手したい、とその機会を心待ちにしていたのであった。
この日私は、細心の注意をはらい、用意した真新しい脱脂綿をピンセットで大豆大にまるめ、聖母像のアゴの下にたまっていた涙のしずくを充分に泌みこませ、新しいビニール袋に納めた。そしてただちに同日午後、秋田大学に持参した。医学部生化学第一教室の奥原英二教授を通じて、岐阜大学医学部法医学教室の勾坂馨教授に鑑定を願うためであった。

繁忙の勾坂教授をわずらわした鑑定の結果は、三ヵ月を経て奥原教授の手から、克明な文書として私のもとに届けられた。
鑑定書は、(1)鑑定依頼者(2)依頼日(3)鑑定物件(4)検査記録(5)血ウサギ抗ヒト血清による検査(6)血液型検査(7)鑑定、の項目から成っている。
ここでは “鑑定” の結果だけを写せば、次のようである。
鑑定
一、検体にはヒト体液が付着しているものと考えられ、その血液型はO型と判定された。
 昭和五十六年十一月三十日
  岐阜大学医学部法医学教室
       鑑定人 勾坂馨

この鑑定書は、聖母像の涙の唯一の真正な科学的物証として、聖体奉仕会に保管されている。これがお涙の “事件” の解明に決定的な役割をはたしたのである。

すでにたびたび述べてきたように、聖母像に見られる現象は、公式の検討者たちによって、すべて姉妹笹川の超能力のはたらきによるものとされていた。本人が身に覚えがないと否定しても、無意識のうちに行っている、ときめつけられれば、弁明のしようがなかった。

とくに決め手とされたのは、血液型であった。姉妹笹川の血液型はB型である。ところで、聖母像の右手の傷口の血は、最初の鑑定ではB型であった。両眼から流れた涙の鑑定では、AB型となっていた。しかし、検体にはそれぞれA型B型の付着物があることも、指摘されていた。反対者の筆頭たるE師は、このB型のみを取り上げ、涙もB型と決め、姉妹笹川がみずからの血と涙を “転写” したもの、と断定をくだしたのであった。

それが、こんど不純物の付着のない完全な検体をもっての再検査により、血液型はO型と鑑定された。B型による超能力説は、成り立たなくなり、根本から打破されたのである。

いま、最初の鑑定書と再度の決定版をつき合わせてみると、聖母像の血と涙に三つの異なった血液型のあることがわかる。どんな超能力的人間が、自分の血液型のほかに、他の二つの異なった血液型を創り出すことができようか。創造とは神のみが行われる業ではないか。

ここにも、神の尊いはからいがみとめられる。神はまずB型の血液を創り、AB型の汗と涙の体液をつくり、最後にO型の体液までつくって、人間の考え出した浅薄な “超能力説” に挑戦されたのである。

再度の正確を期した鑑定という歴然たる化学的物証がなければ、今でも “超能力説” がまかり通り、すべてを誤解にみちびき、神の超自然のおんはたらきに素直に頭を垂れようとする人々さえもまどわせつづけたことであろう、と考えれば、そら恐ろしくなるのである。

一九八一年九月十二日

この日は、秋田の聖母像の不思議な出来事に関し伊藤司教の委嘱による第二調査委員会の例会最終日であった。

伊藤司教はその前の五月の例会最後の日には、自分の意見としてほぼ “認める” という草案を読み上げて、出席者の同意を求めた。それに対してあえて反対する者はなかったが、次の例会まで懸案として決定は保留されたのであった。

この九月の例会においては、その間にローマ聖庁からの書簡が、教皇大使を通じて伊藤司教に送られて来ており、それは第一次調査会の報告にもとづいての忠告であるだけに、伊藤司教としてはあえて超自然性を認めるまでに踏み切ることに困難を感じられたようである。

聞くところによれば、例会の終結の賛否投票では、調査委員の七人のメンバーのうち、賛成は四、反対は三であったという。それでも伊藤司教は考慮して、ローマの慎重論に従うことにされた。

そしてこの日の朝、湯沢台において、聖母像から百回目の涙が流れたのである。姉妹たちはさっそく、調査委員会の新潟でのその日の会合が始まる前に、電話でその旨を報告した。しかし、委員会のあるメンバーは、“われわれは聖母像の涙を重大なしるしや奇跡として認めることはできない。もっと涙以上の奇跡がなければ、超自然性を認めるわけにはゆかない” と言明したそうである。

聖母像は百回涙を流しても、軽視する者はかえりみる心をもたない。信仰が乏しいほど、もっと大きな奇跡、万人が目をみはるようなしるし、を求める。だが、人は信仰なくして超自然の奇跡をみとめることはできない。イエズスの行われた数多くの奇跡が、不信仰なユダヤ人に全然受け入れられなかったことを思えば、聖母像の百回の涙も、まだ取るに足らず、とされても驚くにあたらぬかもしれない。

最初の頃にも、反対者の筆頭のE師は、「聖母像の涙は一、二滴では物足りない。人間が超能力によって流すことができるから。人間の力で流すことができないほどの量であれば、信じてもよい」と説いたことがある。たとえそのように多量に流されても(時には衣のひだに溜まり台の下をぬらすほどであったが)信じない者は、信じないのであろう。人々が事の超自然性を信じるか否かは、奇跡の大小とか特異性によるものではなく、その人が神に傾倒する精神のはたらきに左右されるのである。つまりは、信仰の如何の問題になるようである。

後日のことであるが、守護の天使は姉妹笹川に「涙以上の奇跡を人々は求めているけれども、それ以上の奇跡はもうないのです」と告げられた。

人間的な考えの尺度で推し量れば、“山を動かす” ほどの奇跡と “桑の木を移す” 奇跡を比較するなら、前者のほうが偉大なものとされるであろう。後者は、時間をかければ植木職人にもできる理屈であるから。しかし、人の推量も働きも超越した神の能力を思いみる場合、いずれが大か小かなどの計算など、問題にならない。超絶的能力の前にひとしく頭を垂れて、奇跡を受け入れるのが、人間らしい態度ではなかろうか。

同年九月十五日

この日も、午後二時ごろ、聖母像から涙が流れた。秋田教会の信者たちのグループのほかに各地から来訪者があり、本部姉妹を合わせて計六十五名が目撃した。涙の量はとくに多くも少なくもないので、現象としてこれまで以上に記憶に残るものではなかった。ちょうどこの日は、聖母の悲しみの記念日であったから、一同はその符合に感銘を受けていたようであった。私自身も、これが最後の “お涙” であるとは、つゆ知らずにいたのである。最初から数えて、百一回目であった。格別切りがよいと思える数字でもなかった。  

ところが、この日から数えて十三日目の九月二十八日、聖体礼拝の時、姉妹笹川は突然天使の訪れを、霊的に感じた。その姿は現れなかったが、目の前に聖書が開かれ、ある個所を読むように指示を受けた。いかにも神秘的な光を帯びた、大きな美しい聖書であった。そこに “3章15節” という数字をみとめた時、天使のお声があり、聖母像の涙はこの個所に関係がある、と前置きして、次のように説明された。

「お涙の流されたこの101回という数字には、意味があります。一人の女によって罪がこの世に来たように、一人の女によって救いの恵みがこの世に来たことを、かたどるものです。数字の1と1の間には0があり、その0は、永遠から永遠にわたって存在する神の存在を意味しています。はじめの1はエワを表し、終わりの1は聖母を表すものです」

そして、創世記の三章十五節を読むように、再度の指示があって、天使は去られた。同時に聖書のイメージも消え失せていた。

聖体礼拝が終わると、姉妹笹川は私の部屋にとんで来て、天使からの指図を告げ、創世記三章十五節を読んでほしい、と言った。自分自身ですぐ聖書を開いてみるよりも、まず私にたしかめてもらいに来たのであった。

わたしがとりあえずバルバロ師の口語訳を開いてみると、次の句が見あたった。
「私は、おまえと女との間に、おまえのすえと女のすえとの間に、敵意をおく。
女のすえは、おまえの頭を踏みくだき、おまえのすえは、女のすえのかかとをねらうであろう」
そこで姉妹笹川は天使から聞いた百一回の涙の説明を、そのまま私にくり返したのである。

私はその時はさほど驚くこともなかった。が、日がたつにつれ、涙が以後流れなくなった現実と、その意義が聖書をもって説明されたという事実に、次第に深い感銘をおぼえるようになった。

創世記の三章十五節は、偉大なる神、絶対的存在者が、サタンに対して予言的宣告をなし、聖母マリアとの対決を言い表したものである。“女のすえ” とは、聖母マリアを通じて世に生まれ出るイエズスとキリスト信者たちを意味することは明白である。

キリストの神秘体は、キリストを頭として世に生まれ継いでくる信者全体を指すものである。聖母は、キリストの神秘体である教会と一致して、サタンと悪の子孫に対して世の終わりまで戦う使命を、御父なる神から受けているのである。

創世記のこの個所は、プロトエヴァンジェリウム(原福音)と呼ばれ、救世主についての神の最初のお約束とされる。また、サタンの対抗者たるべく、いささかの罪との関わりもない、聖母マリアの無原罪をも啓示する最初の聖句でもある。

ルルドの聖母出現は、教皇ピオ九世による “聖マリアの無原罪のおん孕り” の宣言を記念するものといわれる。童貞マリアは原罪の汚れなく、聖霊によって救い主の母となった、との信仰箇條が一八五四年十二月八日に公に認められたその四年後、ルルドにおいて聖母は十六回目の御出現のとき「わたしは汚れなき孕りです」と、みずから確認するごとく、ベルナデッタに告げられたのであった。

ファチマの御出現は、聖母の被昇天を記念するものといわれる。教皇ピオ十二世は一九五〇年の聖年の十一月一日に “聖母被昇天の教義” を宣告された。ピオ十二世はファチマの “太陽の奇跡” を個人的にバチカンの庭で見る恩恵を受けたことを、側近に洩らされたことから、その聖母崇敬と “被昇天” 宣言もそのことに関連があるように取り沙汰されている。

秋田の聖母像の涙の奇跡は、天使の口から、聖書の権威に拠って説明された。創世記の聖句は、世の終わりに至るまでの聖母とサタンの戦いを啓示する。これは聖母ひとりの戦いではなく、全キリスト信者とともに、キリストの神秘体と一致しての対決である。とすれば、“涙の聖母” が “メッセージ” の中で、罪の償いと改心を呼びかけられるのも当然なこととうなずけるのである。

ルルドでは、聖母の無原罪のお孕りが記念された。
ファチマでは聖母の被昇天が記念された。
前者は聖母の御生涯のはじまり、後者はその終わりを輝かしく示すものである。
秋田において聖母は、両者の中間をみたす御生涯を通じての使命に、われわれの注意を惹き、心からの協力をうながされるごとくである。

予告通りの耳の全癒

一九八二年三月二十五日、神のお告げの祝い日の聖体礼拝のあと、姉妹笹川は私に、守護の天使からお告げがあった、と知らせに来た。それはおよそ次のような言葉であった。

「耳の不自由は苦しいでしょう。あなたに約束がありました癒しの時が近づきました。童貞にして汚れなきおんやどりの聖なるお方のお取り次ぎによって、前に癒された時とまったく同じように、御聖体のうちにまことにましますお方のみ前で、耳が完全に癒され、いと高きおん者のみ業が成就されます。これからもいろいろと困難や苦しみ、外部からの妨げがあるでしょう。恐れることはありません。忍耐してそれらを捧げるならば、必ず守られます。よく捧げて祈ってください。このことを、あなたを導いてくださるお方に告げて、お導きと祈りをいただきなさい」

私は、以前彼女の耳が一時的に癒されることを告げた天使の予告の中に、“捧げものとして望んでおられるから、暫くの間だけで…” とあったことから、いつかは完全な治癒の日が来ることを予期してはいた。しかし、いよいよその日が近い、と知らされると、あらためて心のたかぶるのをおぼえた。

それがいつであるかは、何の手がかりも与えられていないから、予測のしようもない。ただ私は彼女に、このことはまだ誰にも語らず、ふだんと同じようにふるまうようにすすめた。それから一ヵ月余を経て、聖母の月といわれる五月に入った。

五月一日の朝、聖体礼拝中に姉妹笹川はふたたび天使のお告げを受けた。
「あなたの耳は、汚れなき聖母のみ心に捧げられたこの月のうちに、完全に癒されるでしょう。前と同じように、御聖体のうちにまことにましますお方によって癒されます。このしるしによって信ずる者は、多くの恵みにあずかるでしょう。反対する者もあるでしょうが、少しも恐れることはありません」

聖母マリアに捧げられたこの月のうち、ということなら、五月中の日曜日のどれかであろう、と私は考えた。前と同じように御聖体にまします主イエズスの祝福によって癒されるはずなら、日曜に行われる聖体降福式のときにちがいない。この五月には日曜は五回ある。一日は初土曜にあたっていたから、翌二日はもう第一日曜になる。が、この日では少しあわただし過ぎる感がある。かといって、どの日曜ときめる拠りどころもないのであった。今にして思えば、五月最後の日曜は聖霊降臨の祭日であり、この日の聖体降福式の時間は、すでに翌日の “聖母の訪問” の祝日の前晩にも当たっていたので、お恵みを受けるにはもっともふさわしい日であった。

ともかく一つ一つの日曜は、漠然たる期待のうちに過ぎ去り、ついに聖母月最後の主日、聖霊降臨の祭日をむかえ、やがて聖体降福式の時間となった。この日はめずらしく訪問客が少なく、ただかねて “お涙” の鑑定の際お世話になった奥原英二教授夫妻だけが、折りよく(あとからみればまさに最適の立会人という感じで)礼拝に参加された。

一時間あまりの礼拝の式がすすみ、私が聖体顕示台をかかげて一同に祝福を与え、鈴が打ち振られた瞬間、前回同様、その音を合図に姉妹笹川の耳は開けたのである。私が例のごとく聖体賛美の祈りを唱え終えたとき、彼女は背後から呼びかけ、「いまお恵みをいただきました。感謝のためにマグニフィカトをおねがいいたします」と言った。

(そうか!)感動をうなずきだけに抑えた私は、御聖体を聖櫃におさめてから一同に向かい、天使の二度の予告と、いま姉妹笹川の耳がその通りに癒されたことを語った。次いで指示した賛歌は、言いつくせぬ感謝と涙にあふれる感激のうちに、高らかにうたわれたのであった。

翌日姉妹笹川は、かねてお世話になっている日赤病院の耳鼻科に診断を受けに行った。細部にわたっての検査の結果、耳は完全に治っていることが証明された。医師は非常に感銘を受けたらしく、看護婦全員と起立して、「おめでとうございます」と深く頭をさげて祝辞を述べた。

後日、伊藤司教はみずから病院へ出向き、かの耳鼻科部長に “これは奇跡的治癒である” との証明を一筆いただきたいと頼んだが、これはことわられた。前の症状を知る者としては奇跡的治癒としか考えられないが、現在の医学界では診断書に “奇跡” の文字を使用するわけにはいかないから、ということであった。

公式に “奇跡” の呼称のあるなしにかかわらず、姉妹笹川の全聾の治癒が、神の大いなるはからいによるものであることは、疑う余地がない。一九七三年三月十六日に突然この世の一切の音から遮断されたのは、やがて聖母像を通じてのメッセージを聞くための、大いなる恵みに備える清めであった、とも考えられるのである。

ルカ聖福音書の冒頭に、老いた司祭ザカリアが一子の誕生の予告を天使から受ける記述がある。その不可能とみえることが成就する日まで、しるしとしてザカリアは天使の言葉通り聾唖者となった。

姉妹笹川も、天使によって導かれ、耳の試練によく堪え、思いもよらぬ恵みとして聖母からのメッセージを受けた。耳の不自由は超自然の声を聞くためになんの妨げもなさぬことが、あきらかに示されたことにもなる。

老ザカリアの聾唖は、洗者ヨハネの誕生を待って癒され、彼は声高く神を賛美した。これまでの屈辱的試練は、予言の成就とともに大いなる栄誉と歓喜に変わった。

昔から不幸な不治の病いとみられていた姉妹笹川の全聾も、伊藤司教が秋田の聖母像に関する出来事と聖母のメッセージの一切を文書にまとめ、教皇大使を通じてローマの聖庁に報告してのち、天使の予告通り、完全に癒されたのである。

現在彼女の耳はまったく正常で、時には他の姉妹たちよりも耳ざといくらいと言ってよい。これらのことを思いめぐらせば、すべては神の摂理のままにはこばれて来たものであると、今さらに感銘深く考え合わされるのである。

終章

(1)

私は一九八四年一月から二年にわたって、聖体奉仕会の会報「湯沢台の聖母」誌に、“聖母像をめぐるふしぎな出来事” について書いてきた。その間、当該教区長であった伊藤司教が「秋田の聖母像に関する書簡」を出され、ここで起こった一連の現象の超自然性を公認されたので、さらに、真実を詳細に記述する必要を感じた。これらすべての上に神の摂理の御手を見る私としては、何事もおろそかにできぬ気がしている。

全能であられる神は、元来人間の能力や働きを必要とされないが、それでも何かにつけ日常の事件、幸・不幸を活用して、はかり知れぬ摂理のみわざを進めておられることは確かである。とすれば、私たちは神のはからいに自分のすべての働きを委ねるべきであろう。

私も湯沢台の聖母のみもとに十二年間ふみとどまってみて、神の御はからいの深遠さを、幾分か思い知らされた感を抱いている。もし今後もこれほどの年月をながらえさせて頂けるとすれば、さらに一層深く、神意の測るべからざる玄妙を悟り、頭を垂れることであろう。

ただ、過ぎた日々を今ふり返れば、次々に押し寄せてきた試練の千辛万苦には、あらためて慄然とせずにいられない。これからも前途は平坦とはいえず、形はさまざまでも十字架の道は長くつづくことであろう。

十五章にわたって述べた聖母像にまつわるふしぎな出来事は、一九八二年五月三十日聖霊降臨の祝日にあたっての姉妹笹川の耳の治癒をもって、一応終わっている。その完全治癒の実現にさかのぼって、一言付け加えれば──五月一日、聖体礼拝の時、姉妹笹川に守護の天使が現れて「あなたの耳はマリア様に捧げられた月に完全になおる」と告げられたことは前述したのであるが、その時が天使の出現の最後であったことは書き洩らしていた。

姉妹笹川は、かつて第一調査委員であった神学者から「あなたに姿を現して導く女の方というのは、あなたが自分自身に語っている精神的錯覚であってあなたの二重人格的作用である」と言い渡されていた。それがいつも気になっていた彼女は、耳の治癒を告げられた時、よい機会と思って質問してみた。

「あなた様は、私自身が私に語っているものでしょうか」ときくと、その方は頭を振って、「そうではありません。私はこれまであなたに姿を現して導いてきましたが、これからはもう姿を見せることはありません」と答えられた。そして彼女を離れて、この世ならぬ美しさの、まさに天上的な輝きの天使群に吸い込まれて行かれた。

この報告を聞いた私は、すぐ委しいメモをとるように命じたが、“こればかりはどうにも書き表しようがない” ということであった。ともかく、彼女はその時、これまでのしつこい疑惑の雲が吹き払われるのを感じ、言いようのない天来の慰めを魂の奥底まで受けたのであった。

それ以後、天使の出現は、事実、起こっていないという。
聖母像をめぐってのふしぎな現象が終わり、メッセージの意味もすでに伝えられたことを思えば、天使のとくべつの介添えの使命が終わったのも当然のように思われるのである。

(2)

さらに神のはからいの一つとして挙げておきたいのは、一九八五年十二月、準会員会館 “聖マリアの家” の完成である。

思い返せば一昨年の二月二十七日に始まったことであった。懇意の棟梁の紹介で、四キロばかり離れた処に、建て替えのため廃屋にされるという旧い農家を見に行ったのである。

私は数年前、飛騨の高山に合掌造りの民家を訪れて以来、こういう日本建築にあこがれをもった。そして聖体奉仕会も訪問客の増加につれて拡張の必要を感じていた折から、もしいつか建て替えをする農家をゆずり受ける好機があれば、との希望を棟梁につたえておいたのであった。

三人の姉妹と共に検分に出かけたその日の朝、御ミサの終わりに私は “それを準会員のための家にするように” というお示しのようなものを感じた。そこで雪道を行く車の中で姉妹たちにその旨を告げ、よく観察するよう注意したのであった。

それは、建坪百坪の平家であった。百二年を経たという建築で、用いられている木材は私が今まで見た旧家の材料をはるかに超える大きさの堅牢なもので、損傷もなくそっくりそのまま使えるようであった。姉妹たちの同意を得てただちに家主との交渉に入り、もらい受けることに決定したのである。

さっそくこの朗報を準会員に通知し、有志の援助を乞うことにした。そして期待を上回る賛同と多方面からの有形無形の支援を得て、その年の終わりに早くも補修拡張建築は完成したのであった。

当初の “準会員会館” の名称だけでは固苦しいので、もう一つ親しみやすい呼び名がほしいということになり、会報を通じて公募の結果「聖マリアの家」と名づけることとなった。

この新館のおかげで、準会員ばかりか、司教書簡による公認以来増えつづける巡礼客をも迎え容れることができるようになった。現在は、二階の各室を巡礼者の宿泊用に、一階の奥座敷を假聖堂に当てている。

“聖マリアの家” 落成を祝うクリスマスのミサは、地元の秋田魁新聞が取材に来るほど華やかな式典となった。雪を戴く合掌造りをいささか想わせる、古風で新しい会館の写真を社会面に大きくかかげた報道記事を見ながら、私はひそかに思いめぐらさずにいられなかった。この建て替えの話が、もしも前年の私の病気中に起こっていたとしたら、どんなに望ましくとも到底手を出すことはできなかったであろう、と。

(私事ゆえにこれまでふれずにいたが、実は一九八三年の二月、突然私は病魔におそわれ、再起不能の失語症ということで、医師から、今後司祭生活への復帰はあきらめるよう、宣告されたのであった。それが一ヵ月で退院後、ただちにミサも挙げられ、説教も徐々にできるようになった。医師も驚くほど奇跡的なお恵みであった)

ともかく、わずか二年前には誰も夢想だにしなかった “聖マリアの家” という現実を前に、これこそ神のはからいと感慨をふかめたことであった。

(3)

こんどの復活祭で、秋田の聖母に関する司教書簡が発表されて満二年となる。その反響として、一般の信者にはおおむね歓迎されても、カトリック聖職者の間には妙にゆがめられた雑音が伝わっている、と聞くのである。たとえば、司教書簡で公認されても、まだローマが認めていないとの理由で、強硬な反対意見が流布されているという。

それに対して、私自身反駁を試みるよりも、次の文献を援用させていただくことにする。
最近出された志村辰弥師の「ファチマの聖母の啓示」と題された書物の中に “教会の承認” という一項がある。その中で、ファチマの出来事は、御出現の十三年前の記念日にその地区長であるシルワ司教によって公認された。その翌年、リスボンのセレエーラ枢機卿がポルトガル司教団及び大群衆と共に、コーワ・ダ・イリアへ巡礼を行った。やがて教皇パウロ六世、ヨハネ・パウロ二世も巡礼に訪れた、という事実が挙げられている。

さらに志村師は、先に公にされた小冊子「聖母像から血と涙」の第五版に加えられた “結語” の中で、次のように言明しておられる。「秋田の聖母の啓示は、目下重大視されているファチマの聖母の啓示と全く同じであって、人類破滅の危機にある私たちへの警告であることを思うと、それを無視することはゆるされない。
 一方、これに関して、ローマからの公認がないからという声もあるが、こうした問題について、ローマは公認の権限を地方の司教に委ねているので、ローマは司教が認めたことを暗に支持する程度で、公認の公表はしない。ファチマの聖母の出現に例をとってもそうである。すなわち、はじめに地区のシルワ司教が認め、つづいてポルトガル司教団が認め、やがてパウロ六世教皇がファチマへ巡礼したことによって、公式に認められたことになったのである」

この指摘によっても明らかなように、秋田の聖母の出来事が、ファチマの場合と同じく当該教区の伊藤司教の公的書簡によって認められたことは、とりも直さず全世界のカトリック界に公認されたことになるのである。こんにち世界各地に聖母出現の話がもち上がるたびに “その地区の司教は何と言っているのか” が、識者の第一の質問となるのは、そのためである。ローマから公式に委任されている責任者として地区司教が明らかな判定をくだしても、なおもってローマの公認を云々するのなら、ファチマもいまだに信をおきかねる問題の地とされるのであろうか。あるいは、湯沢台にも教皇が巡礼に来られたら、信じてもいい、というわけであろうか。

ともあれ、“秋田の聖母の出来事” が司教に公認された事実は、よろこばしいたよりとして、各地に伝わって行った。日増しに多く “静かな祈りの山” をはるばる訪ね、聖母像の前にぬかずく巡礼者の表情も、一層信頼にみち、あかるく輝くごとく見受けられる昨今である。

志村師の「聖母像から血と涙」も、今では仏・独訳が出版され、ひろく西欧の人々に知られ、手紙なども寄せられるようになった。やがて各国からの巡礼者が更に増すのも夢ではない、とおもわれる。すでにお隣りの韓国からは、数十名から成る巡礼団がたびたび来訪されて、近隣の素朴な住民たちの目をみはらせている。

今後はさらに広く、より遠く、波紋はひろがるであろう。未来の空に、聖母マリアの栄光がいやおうなしに輝きわたってゆくのを、望み見る心地がするのである。
結語として、「使徒行録」にあるガマリエルの有名な良識の言を引くことをお許しいただきたい。
「そこでわたしは今、諸君に申し上げる。あの人々のするままにさせておきなさい。もし彼らの企てや業が、人間から出たものなら、自滅するでしょう。しかし、もしそれが神から出たものなら、あの人たちを滅ぼすことはできないでしょう。まかりまちがうと、諸君は神を敵にまわす者となるかもしれません」(使徒5・38~39)