福者アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタにおけるイエズスのご受難(朗読)

2019年11月20日

第2章 33:04~ 第3章 55:08~ 第4章 1:13:20~ 第5章 1:21:44~ 第6章 2:00:50~ 第7章 2:30:45~ 第8章 3:06:24

Contents

序文  

キリスト信者の使命は、キリストのご受難に参加することである 

人間は、ひとたびイエズスの弟子に招かれると、そのご受難に参加したり、あやかったりすることが要求される(マタイ10・16以降)。それは、弟子は先生と似たものとならねばならないからである(マタイ10・24)。信者にとって何よりも必要なことは、ぶどうの木にましますキリストの枝として、キリストに一致し、イエズスの愛に留まることであるが、それは、とりもなおさず、イエズスの御言葉を守ることである。 

イエズスも御父の御言葉を守られた。その御言葉こそ、羊の群れのために命を捧げよという、御父の要求であった(ヨハネ10・17)。すなわち、御父のみ旨の実現を意味していたのだ。そうすると、キリストのまことの弟子たるもののしるしは、キリストの教えによれば、死におけるキリストの奥義を再現する人である。さらに正確な言葉を使うなら、キリストのご受難を再現しようとして、キリストを自分の内に受け入れる人である。 

使徒パウロがキリストの奥義を理解して、これを再現したのも、この意味においてである。したがって、福音の教えすべて、「私たちは十字架につけられたキリストをのべ伝える」(1コリント1・23)という言葉につきるのである。 

その生涯がキリストのご生涯の生き生きとした再現であった聖パウロも、こう言っている。「私は、主イエズス・キリストの十字架以外の何ものも、ほこりとはしない。キリストは、私にとって、世を十字架につけたものとし、そして、世にとって、私を十字架につけたものとされた」(ガラテア6・14)。 

また、こう言っている。「つねに、イエズスの命が、私たちの体に現れるようにと、イエズスの死のさまを自分の体におびている」(2コリント4・10)と。事実、彼は、自分が十字架につけられたのを感じて、こう言った。「私は神に生きるために、…キリストとともに十字架につけられた。私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。私は肉体をもって生きているが、私を愛して、私のためにご自身を渡された神の子への信仰によって、より高い生命に生きている」(ガラテア2・19~20)と。 

パウロの熱望は、完徳を目指すその躍進のゆえに、キリストのご受難とご復活の力を知り、その死をまねることであった(フィリピ3・8~11)。これを次のように、彼は言っている。

「私たちは、その死における洗礼によって、イエズスとともに葬られた。それは、おん父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた、新しい命に歩むためである。じつに私たちが、キリストの死にあやかって、かれと一体となった」(ローマ6・4~5)と。 

それで、キリスト教的生活がその絶頂をきわめ、みごとな開花を得ると、恵みの命、すなわちキリストの現存が、霊魂に現れ、必然的に、それと同じ正確さでキリストのご受難にあやかるという現象が生じてくるのである。 

このように、キリストにみちているものなら、必然的にキリストと同じ経験をするはずである。したがって、十字架につけられたキリストこそ、キリスト教的経験の偉大な現実となる。 

イエズスご自身も、このことを仰せになって、弟子たちが、その苦しみと死をもってキリストを証明するように召されるとき、聖霊が彼らをお守りになると約束されたのである(マタイ10・20参照)。 

そして、この約束は、教会の歴史を調べてみれば、分かることであるが、幾度となく実現している。 

アンティオキアの聖イグナチオも、こう書いている。「キリストは、ご自分の肢体であるあなたたち皆に、ご自分のご受難にあやかるようにと、その十字架をもって招かれる。なぜなら、頭は肢体から離れてはありえないからである」と。 

聖人伝を見ると、信者の生活にキリストが、何よりもとくに、苦しみと死に対する勝利者として干渉されたことは非常に多い。これまでカトリック教会には、数えきれないほどの、いろいろな神秘家がいたが、彼らの中には、その体にも精神にも、キリストのご受難のドラマを、非常に現実的な方法で再現したものが多い。 

彼らの経験のおかげで、つまり、神の現存の経験、神秘的な霊魂における神の働きの経験のおかげで、大いに神学の進歩が得られた。こうして、三位一体の三つのペルソナにおける相たがいの間の親密な交わりもわかり、また、人々の霊魂における三位一体の働きも知るようになったのである。  

アレキサンドリーナにおけるご受難  

アレキサンドリーナにおけるイエズスのご受難の現象は、1938年から1955年までの17年間にあらわれた。この長い期間は、また、二つの期間に区別することができる。それは、この二つの期間に、それぞれ異なった特長を持つ、二つの現象があらわれたからである。 

この二つの現象の形式、つまり、そのあらわれ方の違いを区別するため、便宜上、「物理的参加」と「内的参加」という言葉を使うことにする。 

しかし、どちらの場合も、ご受難の現象であるかぎり、本質的には唯一であることを忘れてはならない。というのは、両方とも、形式こそ異なっていても、二つとも、体と霊魂の苦しみ、つまり、物理的であると同時に精神的、霊的である苦しみが、互いに離れることなく、一緒に経験されるからである。  

物理的参加


第一の期間(1938年10月3日から1942年3月27日まで)。この期間、ご受難の現象は、一定の日時、つまり、毎金曜日の昼12時から午後3時まであらわれていた。 

アレキサンドリーナは、脱魂状態のうちに、ゲッセマネの園の苦悶に始まり、十字架上の死に終わるまでの、様々なご受難の場面を再現した。 

その時、彼女の態度に、そのジェスチャーに、顔や体全体の動きに、アレキサンドリーナの受けている苦しみも、それに対する反応も、そしてそれがどんなものであるかも、すぐ分かることができた。 

アレキサンドリーナの最初の指導司祭であるピニョ神父は、当時のことを、こう記している。「私たちは、ご受難のドラマがありありと再現されているのを目撃したのです。彼女の体に傷は見えませんでした。それは、本人が外部に何もあらわれないようにと(キリスト)に願っていたからでした。このようにご受難は、あまりにも激しく、周りの者がすすりあげて泣いたほどでした」と。 

神秘神学の専門家であるメンデス・ド・カルモ師は、「アレキサンドリーナは、十字架につけられた天使だ」と宣言し、村の教師、サオジニア女史、その他の人々は、こう証言した、「私たちは、あの時、イエズスのご受難をいろいろの場所に精神的に運ばれていました。それで誰一人涙なしにアレキサンドリーナの苦しむさまを見ることはできなかったのです」と。 

姉妹ディオリンダは、1939年4月7日に再現されたご受難の現象について、ピニョ神父に次のように手紙を書いている。「神父さま、聖金曜日のひどかったことといったらありません。それこそ、本当に、ご受難の日となったのです。いよいよ、この現象がはじまるというとき、アレキサンドリーナの顔は、ひどい悲しみにおおわれていました。そして恐怖のあまりに、彼女は、”ああ、もうすんでしまったのなら、いいのに”と言っていました。私は、一生懸命、彼女を慰めたり愛撫したりしてやりましたが、実は私自身、恐怖と悲しみで、大変だったのです。ご受難の間中、私は泣かずにいられませんでした。立ち会う人たちもみんな泣いているのを、私は見ました。なんと感動的な場面だったでしょう。オリーブ山の苦悩は長く続きました。悲しみにあふれ、彼女は、深いため息をつき、ときどきすすり泣いていました。むち打ちといばらの冠は、ああ何と言ったらいいでしょう!むち打ちの時、彼女は、ひざまずき、手は縛られているかのように、後ろにまわっていました。私は、彼女の膝の側にまくらをおいてやりましたが、承知しないで、すぐ場所を変えてしまいました。膝を見ると、無残な状態で、数えきれないほどのむち打ちのあとが見られました。これも非常に長く続いたので、気を失うこともたびたびでした。いばらの冠をつけた頭は、葦の棒によって数限りもなく打ちのめされていました。ご受難の間、二度までも嘔吐をしましたが、出てきたのは、胃に何も入っていなかったので、水だけでした。汗はあふれ出し、まるで髪の毛が糊で貼り付けられたようになってしまいました。服にふれてみると、私の手は、びっしょり濡れてしまいました。いばらの冠の終わりごろは、彼女は、屍のようになってしまいました。このとき立ちあっていたのは、ヴィアーナ・ド・カステロから訪れたボルリード神父と他に二人、また、ペナフィエールから来たアルミロ・デ・バスコンセーロス医師とその妻、およびその姉妹ユディッタでした」と。 

ところで、アレキサンドリーナがになった十字架の目方について、次のエピソードがある。1941年8月29日に再現されたご受難の時であった。アベゼド博士は、たちあっている司祭の一人を呼んで、(神秘的)十字架の重さにうちひしがれて、ぱったりと床に倒れ伏したアレキサンドリーナを助け起こすように頼んだ。彼は、そこにいた司祭たちのなかで一番の腕自慢であったのに、彼女の脇の下に手を差し込んで、引き起こそうとしたのだが、びくともしなかった。彼は、必死になってふんばり、全身の力を込めたが、無駄であった。ついに、「私がどんなに強いからといって、とても無理だ」とあきらめてしまったのである。といっても、その当時のアレキサンドリーナの体重は、わずか40キロしかなかったのである。やがて、ご受難の場面が進んで、キレネ人が十字架をになってやるところで、アゼベド先生は、またあの司祭を呼んだ、アレキサンドリーナを持ち上げるように願うためであった。そこであの司祭が抱き起してみると、なんのことはない、やすやすと、こんどは起こすことができた。その理由は、いたって簡単である。最初は、アレキサンドリーナと十字架の目方だったのに、二度目は、彼女一人の目方だけだったからだ。また他の日、脱魂状態で同じ現象があらわれたとき、立ちあっていたピニョ神父は、彼女に命じて言った。「あなたが今、になっているその十字架の目方は、どのくらいありますか、どうか私たちに教えてください」と。するとアレキサンドリーナは、非常に荘重な調子で答えた。「私の十字架には、世界の目方があります」。  

内的参加


第二の期間、1942年3月から死の死まで続く。  

この期間におけるご受難の再現は、一定の決まった日というのがなく、また脱魂状態を伴わなかった。しかも、その激しい苦しみにもかかわらず、外部には何一つ現れなかったのである。そればかりか、時には、やさしいほほえみで、その苦しみを隠しさえしていた。 

1946年6月19日のことである。アレキサンドリーナは、第二の指導司祭にこう打ち明けた。「以前は、このようなことが起きて、苦しみを感じるのは、きまって、また、とくに金曜日の昼12時から午後3時までの3時間でした。それに、ご受難のそれぞれの苦しみは、順番をおってやってきましたが、今日は、そうではありません。今では、苦しみに対する恐怖は、ほとんどいつもと言っていいほど続いています。それは、火曜日か水曜日、木曜日、あるいは金曜日に起き、時間も前のように一定していません。それに、その時によって、ご受難のこのひとこま、あるいは、あのひとこまといったように、苦しみを感じています」。 

イエズスのご受難の苦しみは、二重の苦しみであった。一つは人間から加えられた拷問であり、一つは、ご自分でみずからに課した苦しみだったのである。後者は、世界のあらゆる罪を自発的に自分のものとしたことによる苦しみであった(1ペトロ2・24、イザヤ53・4)。 

これによって、イエズスは、神の正義のはかりにかけられて、見捨てられ、完全な孤独になった。したがって、ご受難も、たった一人で耐えしのばねばならなかったし、その苦しみをわかってもらえる人もなかった。 

ちょうどアレキサンドリーナの場合も、これと全く同じだった。このようなことについて、コルネ神父は、イエズスのことを次のように呼んでいる。「世界的な罪人、あらゆる時代、あらゆる空間における罪人、神がその正義の厳しさをすべて担わせる人」と。 

あの有名なモンサブレも、イエズスを、「すべての侮辱と、すべての傷の集合場所」と呼ばなかっただろうか!また、ゲイ神父も、こう記している。「真実をいえば、生きた無限の祝福ともいうべきイエズスは、みんなに代わって罪人の責任を引き受けたため、すべての人に代わって神の呪いを受ける身となられた」。 

結局、キリストの肉体上の死は、人間を神から離した霊的死の結果である。そのため、クルマン師の言葉によれば、十字架上の死よりも、その他いろいろなことよりも、一番キリストにとってつらかったのは、神の敵となるというこの精神的な死であった。 

ゲッセマネの園で、あれほど激しくイエズスが苦しまれたのは、この精神的死だったのである。そうだ、イエズスは、この「死」にうち勝つためにこそ、実際に死ななければならなかった。勝利は、命と神の一致を崩壊する死の支配権に服することにあったからだ。 

グランフィルド師は、十字架につけられたキリストのあの悲痛な叫び、「私の神よ、私の神よ、なぜ私を見捨てられたのですか?」を、こう説明する。「世界の罪の重み、その罪人の罪を、キリストが、完全にご自分の罪にしたことそれ自体が、御父から見捨てられることを要求するものだった。しかも、これは、ただ精神的な感じにとどまるものではなく、具体的な真実のものでなければならなかったので、”なぜ私を見捨てられたのですか?”というこの叫びは、人間の罪に対するキリストの完全な恐怖を示していたのである」。 

もしも、神の愛がなかったら、どうしてキリストは、これほどの役割を引き受けられよう?それはとても考えられないことである。実に、苦しむキリストこそ、神の憐れみを、目もくらむまでに現わしていると同時に、それ以上に輝くばかりの明るさで、罪の悪意とそれによって招く恐ろしい罰を表しているのである。 

神がなければ自分たちは無にすぎないというのに、すべての命と幸福の泉にまします神から離れていなければならない、というそのこと自体、罪人に跳ね返ってきた恐ろしい罪の結果である。 

以上述べたことはみんな、福音書の中につくされているという訳ではないが、神秘神学者や神秘家たちがそれについて話し、いろいろな方法で説明している。その他にも、多くの神秘的な魂に恵まれた信者たちが、このことを、それぞれの恵みに応じて経験しているのである。 

なかでもアレキサンドリーナの日記には、それがよく表れている。本当は、彼女は、人間的な教養の上からは、無学と言っていい程度でしかなかった。しかし、本当の神秘家であった。 

それでイエズスは彼女に、「あなたが受けている十字架の釘付けのその苦しみは、歴史が記録しうる最大のものの一つである」と仰せられたが、まったくその通りであった。 

私たちは、彼女のうちに再現されたご受難を黙想して、贖い主となって苦しまれたキリストの愛をもっと深く知ることができるのである。同時に、救いの御業において、イエズスと私たちの御母聖母がどんな役割を果たされたかを、理解するようになる。 

いや、それだけではない。イエズスと一致して、愛のために苦しみを引き受ける人なら、誰であろうと、救いの御業に、どれほどの協力をなしうるかも分かるのである。  

神秘家たちの経験がもたらしたもの  

その神秘的なカリスマが真実であるということの正確な保証である。それは、教会の教えに完全な一致を保ち、教会の使徒的活躍にダイナミックな協力をするということである。 

ところで、アレキサンドリーナの場合は、どうであろうか?彼女が、教会当局に完全に、しかも英雄的なまでに従ったことは、その善徳を調べて、彼女の文献(自叙伝、日記、手紙)を認可した教会当局の裁判(列福調査を行うための裁判)によって、公式に認められている。 

これらの書き残したものについては、ローマ聖省の教義・道徳・神秘神学の専門家たちが、綿密な研究を行って、公式にこれを真実であると認めた。 

これを土台にしてアレキサンドリーナは、「神のはしため」として認められたが、彼女の神秘的な経験から生まれた、目立った結果は、次のようであった。  

a・福音書の中には明らかに出ていないか、あるいは、ちょっとしか触れていないキリストのご受難の中のある出来事や感じや事情を、もっとはっきりとわかるようになったこと。  

b・イエズスの肉体的な苦しみの他に、これと密接に結ばれた精神的な苦しみを、これまでよりも、深く、するどく知りえたことで、このことはイエズスの心理状態を深く理解する上に非常に役立つ。  

c・キリストは人間に対して、言い尽くせないほどの愛、その奥義に満ちた愛、矛盾をさえ感じさせるほどの愛をお示しになった。それは、ご受難とご死去において、もっともすぐれた程度にあらわれている。「友人のために、命を与える以上の大きな愛はない」(ヨハネ15・13)と仰せられた通りである。そして、これこそ、もっとも感動的なポイントである。なぜなら、これによって、人々の霊魂は、キリストの無限の淵にまで導かれるからである。 

それで、聖パウロの言葉を借りて、アレキサンドリーナについて、こう言うことができる。「計り知れないキリストの愛を知るようになった人」(エフェソ3・19参照)、あるいは「ただの一度で永久にささげられたイエズス・キリストのおん体のささげもの」(ヘブライ10・10)と。つまり、神秘的な魂は、この特別な生贄を経験することによって、ますます明らかに知るようになることがある。それは、ご受難こそ、「神の愛の最大の、そしてもっとも不思議なみ業であり、同時に愛と苦しみの大洋である」ということである。十字架の聖ヨハネも、神秘的経験の絶頂において神が霊魂と交わる偉大な瞬間を話して、こう断言する。「神は、その霊魂に、ご託身の甘美な奥義と、人をあがなうその方法とその道をお示しになる」と。また別の箇所で、彼はこう言っている。「霊魂は、人となられた御言葉をまとうとき、その姿は輝き、霊のもっとも清い楽しみを受けるようになる。しかし、その霊的旅路には、純粋な苦しみが友である」と。 

本書の存在理由と、その生い立ち  

「イエズスがお受けになった苦しみを、世界は理解しない」(日記1945年10月25日)、「私は、私の魂の中に感じているイエズスのあらゆる苦しみを、一つの大きな絵に書いて、これをすべての人に、刻み込みたいのです。それは、みんなにイエズスがお受けになった苦しみを感じさせ、理解させるためです。それは、人々がもう罪を犯すこともイエズスを侮辱することもやめて、イエズスを愛することだけに専念するためです。こうして、神の愛だけが全人類のすべての人の心を、燃え立たせる火となりますように」(日記1945年10月18日)。 

アレキサンドリーナのこの熱望こそ、私の望みだってので、私は、彼女の望みを実現させる重大さを痛感した。また、彼女の霊的指導司祭として、神が人々の霊魂の利益のために、アレキサンドリーナにこれほど豊かに与えられたその宝を広く分配する義務を感じた。 

それに、もう一つ、私がこの本をまとめた次の理由がある。私が前に書いた著書「アレキサンドリーナにおけるキリスト・イエズス」にはご受難のいろいろな場面を紹介した文章がたくさん集められている。これらの文章は小さな自叙伝をつくるために書かれたものであったが、あまりにも断片的であり、そのうえ、各章がばらばらで、まとまりがなかった。すなわち、アレキサンドリーナが望んだような統一が得られなかったのである。このような理由で私は、手元にあった貴重な材料から、深く広大な鉱山を掘り起こした。そして、一番意味の深い箇所を選ぶと、できるかぎり組織的順番をもって、この本にまとめたのである。 

このうち、アレキサンドリーナが姉妹のディオリンダに書き取らせた日記は、彼女の第二の指導司祭である私の命令によるものである。これを英文タイプで打つと、一スペースで1869枚にもなる。 

しかし、これほど豊富な材料を利用したとしても、やはり本書は、完全な場面をあらわすことができなかった。それは、次の二つの理由による。  

第一の理由・それは経験によっても分かることだが、魂の動きを言葉で表すのは、非常に難しいからである。とくに、神的な現実とその働きを人間の言葉に翻訳しなければならないときは、なおさらである。アレキサンドリーナ自身も、従順の命令に従うためとはいえ、自分の心の中に起きていることを言葉に表して、書き取らせることの難しさを、幾度となく訴えている。たとえば、その日記を見ると、「無学な私に言い表せたら…」とか、「私は、こんなことを感じましたが、どう言えばよいか分かりません」というような言葉が、幾度となく出て来る。 

第二の理由・それは材料が多すぎることによる。アレキサンドリーナは、第二の期間、つまり、1942年3月27日から死に至るまでの期間を、毎週その身にご受難を再現して過ごした。それは、統一のない再現で、時と場合によって、彼女は御苦しみのあの場面、この場面を苦しんだ。
 

そのために私は、読者に総合的な場面を紹介しようとして、もっとも意味深いところを選んだのである。これは至難なことである。手抜かりが出てくるのは、免れないと思ったのだが、それにしても、やはりこの仕事に手をつけずにいられなかった。それは、これほどの貴重な宝を埋もれさせるのは、もったいないと思ったからだ。 

どうか、この宝石をよく利用してほしい。私は、多くの人々の霊魂にこの書が豊かな実を結ぶことを祈ってやまない。それで、この書を読者にささげる私の望みはただ一つ、読者がキリストに対する理解を深め、それによって、今までより、もっと愛するようになることである。愛は、キリストをさらに深く知らせ、こうして、イエズスが、その人の心に生き、成長するようになるからである。  

本書の構造  

本書は、七つの章に分かれ、各章は、いろいろの場面からなる。またそれぞれの場面が時間的、そして心理的順番によって結ばれている。しかし、その各場面は、そのものとして十分に完成し、独立しているのである。このために黙想のテーマとしても使うことができる。 

各場面の内容は、私が加えた(おもに聖書からとった)副題で紹介した。それぞれの場面は、種々の断片によって構成されているが、それは、すべてアレキサンドリーナの文章を合わせたからであり、そのため、各断片の左側に一つの番号を記した。巻末の「日記の日付」を調べれば、その部分の書かれた年月日がわかる。 

アレキサンドリーナは、数年間に渡って、ほとんど毎週ご受難を再現しているため、その文章には、その内容からいって、同じものが幾度となく、いろいろな所に出ている。しかし私はそれらの中からただ一つのものだけを選んだ。つまり、もっとも意味深い、しかも、前後関係の一番よく合うものである。 

こうして私は、彼女の文章の断片をうまく組み合わせて、一つの大きな「はめこみ細工」(いわば、大きなモザイク)を作り上げたのである。また、同じ文章の断片が一度しか利用されないため、わざと繰り返しを避けるようにした。 

しかし、それにもかかわらず、内容に繰り返しを避けることができなかった。というのは、断片には、考え、感情、苦しみを体質的に表すものが多いからである。 

ただし、この種の繰り返しは、まったく文字通りの繰り返しではなく、形式もニュアンスもすべて異なっている。しかも、この繰り返しは(二千年のあの昔)具体的に行われたのである。 

たとえば、ある苦しみは、聖木曜日に予告され、また聖金曜日のオリーブの園での苦しみ悶えのときに予告され感じられ、そして最後にカルワリオで具体的に苦しんだものである。多くの人、あまりにも多くの人々が、主キリストの生贄に救いをもとめようとしないのを見て、苦々しい悩みを感じることも、幾度となく、繰り返されている。 

また、苦しみと愛の絡み合い、補い合いのテーマ、最後に必ず愛が勝利を得るというテーマも、幾度となく繰り返され、その度に程度を強めていくのである。これらのテーマこそ、キリスト教の土台、本質的なテーマであって、どれほど繰り返しても、決して足りることはあるまい。 

しかし、私は、キリストが耐え忍びアレキサンドリーナが再現したあの恐ろしいご受難によってこれらのテーマを、その内的独特の意味を目立たせようとするとき、この「はめこみ細工」の各断片の結び合わせが、必ずしも効果的であるとは思わない。 

それにしても、私は、何らかの文章を加えて補う必要を感じても、わざと、そのままにした。すなわち、何も加えないで、純粋にアレキサンドリーナの言葉だけを残したのである。また、翻訳は、絶えず、原文に忠実であるように気を配った。 

つまり、この断片的な文章を、もっと文学的な、まとまった文章にすることを避けた。それにしても、時には、同じ場面の中の統一を考えて、動詞の時称を変えることはあった。この仕事のために協力してくださった、幾人かの友人に心から感謝する。 

トリノ市 1977年2月2日 主の奉献の祝日 
サレジオ会司祭 ウムベルト・M・パスクワレ  

キリストのご生涯は、十字架と殉教であった。 

1 イエズスにとって、地上におけるそのご生涯は、なんと苦しみにみちていたことだろう。  

2 ゲッセマネの園と、カルワリオは数時間の苦しみではなかった。イエズスのご生涯そのものがみな、ゲッセマネの園、カルワリオであった。  

3 背丈も、知恵もますます増していくイエズスのうちに、十字架も、それとともに次第に大きくなっていった。イエズスは、一瞬たりとも、十字架から離れたことはなかった。否、十字架のうちに成長し、十字架のうちに苦しみつづけておられた。 

それにしてもイエズスはいつも、魅力と、活気に満ちたまなざしで、やさしくほほえんでおられた。このようにイエズスが、私のうちに、私と共に苦しんでおられるのを、私は、私の内に見、そして感じた。  

4 イエズスは、苦しむ人であったが、同時に、勝利を得た神の御命でもあった※。 

※「神性と人性の、この二つの本性は、私たちの主イエズス・キリストの唯一のペルソナの中で一つになる必要があった。それは、御言葉のご托身によって生まれた新しい人間”御言葉”が、神としてのその起源をもっても、また人間としてのその受難をもっても、死に定められた私たちの本性を助けることができるためである」(教皇大聖レオ一世の説話集56・1)。  

「おん父よ、時が来ました」(ヨハネ17・1)  

『かれは罪人のなかにかぞえられた』 (ルカ22・37)

5 今日は木曜日、私は朝早くから
深い悲しみに閉ざされている。
みんなが新しい事件を待ち焦がれているのを見て、
私は、激しい反感と恥に苦しんでいる。
あちこちに、様々な人々の群れが、
互いに話し合っているのが見えた。
ああ、私の神よ、金曜日が私を待っている。
なんと恐ろしいことよ!
それにしても、私の目は、
まるで、道にあふれている人々の魂の奥底を見抜くかのようだ、
私の魂は、すべてを感じ取る。
小高い丘の山腹に、町の門に近い所で、
呪われたいちじくの木が立っている。
その少しさがったところでは、一人の男が、
水瓶を頭にのせて運んでいる。
ああ、様々な人が話し合っている。  

6 私の魂の目が見ているのは、
様々な人の私に対してする反感の身振りである。
彼らが、あちこちと忙しく歩き回っては、私を敵にわたし、
私を捕らえる陰謀に夢中になっているのを見る。 

7 人々が私を裏切ろうとしている企てを、
私はまざまざと見ている。 

8 あらゆる辱めが、山のような重荷となって、
どっと私の上にのしかかってくる。
彼らが、私について言わない悪口は一つもないほどだ。 

9 遠くから、非常に遠くから、様々な話し声が聞こえてくる。
近づくにつれて、その声は、次第にはっきりしてくる。
みなが私の名を口にしている。
まるで、私の名は、泥にまみれて腐っていく葉のように、
ざん言の泥に包まれてしまった。
すべての話を聞いている私の魂は、
悲しみのあまりに、今にもしおれそうだ。 

10 おお、イエズスよ、私が見ていること、感じていることは、
すべてあなたに起きたこと、私を愛するために、耐え忍んでくださった、あなたの苦しみだったのだ!  

私は出かけるが、あなたたちと共に残る 

11 イエズスが使徒たちに取り囲まれている場面が、
私の魂に刻み込まれた。
死が近づいたことを知って、
彼らとの別れを惜しむイエズスは、
うちしおれている。そして、力なく、
「私のときは来た、私は死にに行く、
私は出かけるが、あなたたちと共に残る」
 と仰せになっておられた。

イエズスの尊い御心は、愛に燃えていた。
時間は、どんどん過ぎ去っていた。
それにつれて、苦しみはつのり、
そして同時に、愛も次第に増していった。 

イエズスは、御母をご覧になり、
また、使徒たちのほうをご覧になると、
深い苦しみの中から、ささやかれた。
「私は去らねばならない。
でも、どうして、あなたたちと別れることができよう?
私は出発する。だが、あなたたちのもとに残る。
私の愛が、私をあなたたちに結びつけるからだ」。 

こうしてイエズスの愛のきずなは、ますます強く、
御母の尊い御心と、使徒たちの心を
ご自分に結び付けていたのである。  

「私は世界に天を与えねばならない」  

12 死が私に襲いかかり、墓はすでに準備された。※ 
※ここでアレキサンドリーナは、イエズスとの同一化を感じている。 

13 私の魂には見える。
みんなが、どんなことがあろうとも、
必ず私を捕らえて殺そうと、
着々と準備を進めている。 

14 この体から、命を奪い取ろうとすることをみんな見ている。 

15 ゲッセマネの園で受けねばならない、ひどい苦悶と死が、
今、心の目に映ってくるので、
私はもう力が抜けてしまいそうである。  

16 あした、私の体を縛りつける縄や、
顔に受ける平手打ち、
吐きかけられるつばきが、
一度に心の中に感じられてきた。  

17 私は、もうすぐ私の頭に押しかぶせられるはずの
兜(かぶと)状の大きな茨の冠を見ている。 

18 悲しみもだえる私の魂!
ああ、なんと悲しい木曜日よ!
どんなに恐ろしいことが私を待っているだろう?
間もなくこの体から流れ出す血を、私はもう感じ、見ている。 

19 それにしても、この血で人々の霊魂がうるおされるのも、私は感じているのだ。※  

※この御血は、黙示録の中に、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった」(黙示録1・5)という言葉で紹介されている。 

20 私は、すでに十字架を見ている。 

21 自分が群衆のつまずきになっているのを見て、
私の魂は泣き、体は、震えおののく!  

22 ああ、ゲッセマネの園! 
カルワリオよ!死よ! 
恐れよ!おののきよ!  

23 私の精神は、じっと主をみつめ、
沈黙のうちに、こう繰り返している、
「私の神よ、私の神よ!私の父よ、私の父よ!」と。 

24 私は、天を仰いで言った。
「どうぞ、起こるべきことが起きますように! 
私は、世界に天を与えねばなりません。
苦しみの代価を払って、私は、世界を買い戻さなければならないのです」。 

「わたしは死ぬばかりに悲しい」(マタイ26・38) 

25 午後になると、私は自分が道を歩いているような感じがした。
歩いている私を見て、みんなは、私を侮辱する。
まるで私がありとあらゆる罪をみんな犯した、
この世で最大の犯罪者でもあるかのように指さすのである。  

26 私の血でうるおされるゲッセマネの園の土、
その場所を見たとき、私は愛にかられて、
思わずその土に、接吻したいと思った。 

27 一度ならず、私の心は、天のように大きくそびえて見える
カルワリオ山の姿を眺めていた。
私の魂には、その山の頂で十字架のもとに泣き崩れ、
わずかの人に囲まれて苦しみもだえる御母が見えている。
マグダラのマリアも、涙を流しているのを見た。  

28 「私は死ぬばかりに悲しい」と、
私の心は繰り返していた。 

29 私は、すべてのことに気を配っていた。
なかでも、ゲッセマネの園は、私の心から離れない。
私の歩いた道は、いろいろだったが、
私の心は、いつもゲッセマネの園にあった。
私は、予見したあの苦しみを、
前もって誰にも話さなかったが、
たとえ話したとしても、誰も理解してくれなかったであろう。  

苦しみの海と愛の海、この二つの大きな海!  

30 苦しみと恐怖が心を押さえつけ、おし潰していた。
しかし愛が再び生き返らせていた。
これは、いく度となく、繰り返されたのである。  

31 私の心は、あらゆる苦しみの泉を飲むために、
ゲッセマネの園へと飛んで行った!
それでも心は、自分の中に、もう一つのもっと豊かな
愛の泉を持っていたのだ!
しかも、この愛の泉のゆえにこそ、
私は、苦しみの泉を飲まねばならなくなったのだ。 

32 私は、自分の内に、二つの大きな海があるのを感じていた。
一つは、苦しみの海、そしてもう一つは、愛の海だった。
愛の海は、ゲッセマネの園の地面の上に広がっていた。
その中を、苦しみの海が、尽きることなく流れている。
それにしても、愛は、すべてを飲み込んでいた。  

33 激しい一陣の炎が私の心の底を、燃やし尽くし、
火が干からびて、乾き切った唇にまで届いていた。
愛の火だ!我が身を完全に捧げる火、命の火であった!  

34 愛は震えていた。
震えながら、ますます増大して、勝利を得ていた!
苦しみをみんな、覆い尽くしていた!
ああ、私は、なんと大きな心を持っていたことだろう!
まるで神のように大きな心!
神の愛のなんと大きなこと、大きく、大きく、無限に大きい! 

「キリストは、罪を除くために、ご自分を生贄として捧げた」(ヘブライ9・26)。 

35 世界は、すべて暗闇と戦争に覆われ、
私に襲いかかろうとして、荒れ狂う大海のよう!
私は、みんなから責めたてられ、
傷つけられるのを感じていた。
しかし、私の心は、愛していた。
その愛は、私を傷つけるすべての人を、
その暗闇から解いてあげるために、
命を与えに行くほどであった。 

36 一日中、私の思いは、
園から離れることができなかったが、
私の内に住まわれる最高の御命が
私の苦しみをやわらげておられた。
御命とは、永遠の御父から遣わされて、
地上におくだりになったというビジョンと思い出を、
ご自分の内にもっておられる命である。 

37 私は、この御命、この方に対する愛にかられて、
「全人類の負債なら、みんな私が引き受けましょう」と申し出た。
それは、その方の決心がもうすでに私のものとなっていて、
その方の命も、私の命であり、
その愛も、すでに私の愛となっていたからである。 

38 いと高きお方のみ旨を果たそうとの固い無条件の決心が、
その日の苦しみを耐えやすいものにしていた。
でも、あの苦しみは、一日だけ耐えればよいというものではなかった。
それは、何年間にもわたる苦しみのように見えた。
話したり歩いたり働いたりしながら、
私の心は、常に世界のことを思い悩んでいた。 

「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺す者よ!」(マタイ23・37) 

39 私は、いつしか優しい情け深いまなざしをエルサレムの町に向けていた。
それは、招きのまなざし、
深い憐みのまなざしだったのに、
ああ、なんということだろう!
そのエルサレムの町から、私に返ってくるものは、
ただ、私への反逆だけだった。 

40 私は泣いた。
いや、泣いたのはむしろ、私の魂だった。
溢れ落ちる私のこの涙は、父の涙、
改心を呼びかける尽きることのない招きであった。
たしかに、今は恵みの時である。
でも、今その恵みを受け取らないとしたら、
もう永久に戻ってこないだろう。 

41 私は、この町が今、どんな態度に出るか、
また、将来、どんな態度を取るようになるかも、見抜いていた。
この町に降りかかろうとする天罰を思い、
せっかく今、支えられているのに、
利用されないだろう恵みの時を考えると、
私は、泣かないではいられなかった。
私の魂は泣きながら、全人類を眺めていた。
私は、これから生まれてくる全ての人の心も、
また、将来に起こるどんな事件も、見抜いていた。 

「ユダは、イエズスをわたす方法について相談した」(ルカ22・4)   

42 ユダが、この門からあの門へと歩き回って、
イエズスを渡す方法を相談しに行くのを見るので、
私の魂は、非常に苦しんだ。
すでにユダの目は、悪魔の目をしており、
その髪の毛一本一本にさえ、悪魔の思いが宿っているように見えた。
私の中には、尊いイエズスの御目があった。
この御目は、どこまでもユダのあとを追う。
残酷な裏切りに向かうユダの一歩一歩は、
イエズスの尊い御心を刺し貫きながら、
同時に、残酷な恐ろしい暗黒の鎖となって、
ユダをがんじがらめに縛り上げていたのだ。 

43 私は、心に失望を感じた。
失望は、確かに私の内にあったが、私の失望ではなかったようだ。
というのは、私の魂は、依然として平和を保っていたからだ。
その通りだった。イエズスは、この失望がユダのものであることを示してくださった。
しかもこのユダの失望こそ、イエズスのご受難のおん苦しみの一つ一つを、
いっそう辛いものにしていたのである。  

「キリストは、多くの人々の罪を負った」(ヘブライ9・28) 

44 私が輝かしい光のように感じた天の御命が見え始めたとき、
それは、この下界に沈んで地にまみれ、よごれていた。
苦しむために来られたイエズスだったのである。  

45 天から地上に命を与えにくだってくる、
太陽の光線のように見えるものがあった。
その光線を受けると深い闇に包まれていた世界は、たちまち照らし出された。
でも、そのとき、この太陽の光を覆いにくる恐ろしい雲があった。
イエズスは、私の内にあって、この太陽を見、その雲も眺めておられたが、
これこそ人間のすべての悪の雲だったのである。
イエズスは、雲に対して恐れを感じられたのに、
かえって、これを抱きしめようとして高く飛び上げられた。
でも、その尊い御体は、汗でびしょ濡れだ。  

46 イエズスは、泣いたり、嘆いたりしておられた。
私は、イエズスが、人類の押し潰さんばかりの重力の下に、
身をかがめておられるのを感じた。  

47 イエズスは、世界の中に入って、泥にまみれ、
一つのかたまりのようになってしまわれねばならなかった。
イエズスは、これを恐れておられたのだ。
イエズスにとって世界に下られるのは、火の中に飛び込むにも似たことだった。
でも、彼の神的愛は非常に激しかった。
この愛がイエズスに私たちと結び合わせ、
私たちの悪意をご自分のものとして身にまとうことを要求していた。
最高に清いお方が不潔きわまりない泥と結びつけられるなんて、
なんということだろう!  

48 イエズスは、時おり天を眺めては、永遠の御父をほめたたえておられた。  

「私は、うじ虫で、人間ではない」(詩編22・7)  

49 それは日暮れであった。私は、私の愛敬と美しさの服をはぎ取られ、
世界中の悪にいろどられた服に着せ替えられたと感じた。
このために、すべての人が私につまずくのであった。
それほどあの服は、堕落と悪で織られていたのだ。 

50 全人類の悪が私の上にのしかかってくるように感じたとき、
悪がみんな私の中に入って、私は(悪に満ちた)世界となった。  

51 私は、地のうじ虫になるために、天から下るという感じがした。
吐き気をもよおされる、くさったうじ虫に。
黒く汚れ、うじ虫のひしめく不潔な世界に、
私は穴をあけて、もぐり込む虫のよう。 

52 私は、嫌悪のあまり、もう耐えられないと思った。 

53 でも、私の心は燃え始めた。
この燃える火の上に世界中のすべての罪悪が、
地獄のような悪徳と憤りがのしかかってきた。
この世界に天が下り、こうして戦いが、巨大な戦いが始まった!
世界と戦う天、虚無に挑む全能、それこそ泥と清さの戦争だ! ※ 

※天の御父の正義が、全世界の罪を背負ったキリストの上にかかってきたのである。キリストの上には、生きている人も、死んだ人も、地獄の刑に処せられた人も、救われた人も、選ばれた民も、そうでない民も、罪人であろうと、はたまた聖人であろうと、みんなの罪がのしかかってきた。私たちのすべてのために、生贄となったキリストは、唯一の償いそのもの、まことの償いを捧げるものである。キリストについて何を言ってもよい、だが、”本当の罪人”とだけは言えないのだ。 

54 罪に死んだ世界の上に天が下っていた。
大空は燃える炎のよう、
おお、私の神よ、どうしてこれほどの恐ろしい戦いが?
でも、間もなく、私は、人々が神を畏れ敬っていないということが分かってきた。  

「神と人間とのあいだの新しい契約」(ヘブライ9・15)  

55 天のあらゆる正義が私の上に襲いかかってきた。 

56 天は私を排斥するかのように思われた。
しかし、私のうちに、苦しみに気をとられないだけの力があって、
私は、無限の苦しみを抱きしめようと、腕を広げていた。
苦しみの中で、私は世界に命と光を与えたいと熱望していた。 

57 私がこの魂の中に、生々しく感じ始めたのは、
世界に対する天の激しい憤りであった。
でも、私には、天と世界を和睦させる使命があった。
否、世界となった私自身と天の和睦だ。
そして、その時、私は世界に命を、新しい命を与えねばならなかったのだ。※
私は、無でありながら、同時に一番高い所にあった。
神の命そのものが私にあり、私は神の正義そのものであった。  

※キリストご自身、天と和睦しなければならないというのは、神の子としてのご身分ではなく、全人類の罪を背負った罪人キリストとしての立場からである。 

58 世界の悪は、限りなく積み重ねられ、上へ上へと伸びあがり、
やがて天にまで届いてしまった。
悪は、神の正義に挑み、愛を否んだ。 

59 こうして、すべてが、世界も天もみな私をさげすむ。 

60 私の魂は、全世界のために流れ、全世界から軽蔑され、
踏みにじられている私の血をじっと見ている。
全人類が私の肉を食べながら、すぐ吐き出してしまう。
ああ、なんと恐ろしいこと!
野獣の餌食となるほうが、どれほどましだろう! 

61 私の心に新しい火が燃え上がり、
私は、自分を与えたいと、せつにあこがれる。
永遠の糧で聖体に、飲み物としての御血になろうとして!  

過越しの晩餐  

「私たちの食事のために過ぎ越しの準備をしに行け」(ルカ22・8)  

1 夕暮れに愛の偉大な晩餐、
あれほどの忘恩で報われた愛。 

2 過越しの準備が、どういう心遣いで、
また、どんな配慮をもってなされるかを、私は見ている。
それは、かつてなかったほどの愛の晩餐、
多くの不思議を秘めた晩餐になろうとしていた。  

3 私が感じているのは、
歩きながら弟子に命令を与え、
時々立ち止まって、じっと見つめる、
イエズスの、あの神的まなざしである。
彼は、忘恩の町、 偉大な悲しみの園、
待ち受けるカルワリオを眺めておられる。 

「私は、あなたたちと共に、このすぎこしを食べることを切にのぞんでいた」(ルカ22・15)  

4 私は、イエズスや使徒たちと一緒に、
過越しの晩餐が用意された大広間に上っていった。
階段を上りながら、私は、イエズスが使徒たちと、
どれほどこの晩餐を望んでおられるかを、ひしひしと感じていた。 

5 晩餐の式が始まろうとしていたとき、
私の目をとめた御母のお姿があった。
涙にかきくれ、髪の毛はほつれ、ひどい苦しみに沈んでおられた。
あと数時間もすれば、こんな姿でマリアが、
あの悩みの道を辿って私に会いに行かれるのだと、イエズスは仰せられた。 

6 御母の涙をご覧になるイエズスの御苦しみはひどかった。 

7 イエズスが使徒たちと食卓におつきになるのが見えた。
イエズスは、座りながら、御心の中で、
「神的な糧、私の愛の晩餐」と仰せられる。 
とつぜん、大広間が輝きだした。
イエズスの御目から、唇から、御体全体から、
光線のように流れ出るものがあって、
使徒たちをみんな包んでしまった。
それは、愛である。
実にイエズスのすべてが、愛そのものだった。 

8 愛、そうだ、愛だった。いや愛だけだった。
罪悪と忘恩をせめる愛! 
だが、あのとき、ユダは、すでにユダではなかった。
彼の内に、本当に悪魔が見られた。  

9 悪魔にとりつかれてしまったユダは、
もはやイエズスの愛を受け入れようとしない!  
※「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」(ヨハネ13・2)。

「私を渡す人は、私と共に手を食卓においている」(ルカ22・21) 

10 ユダが、少し離れてはいるが、食卓についているのを私は見たが、
その様子は凄まじかった。
あごを突き出し、目をぎょろつかせ、
髪の毛は、ほとんど逆立っているといった有様だ。
それはもう、人間の姿とは言えなかった。
彼の内に見るものは、すでに地獄にも似た失望だけである。 

11 ユダの心の偽りと悪意が読み取れるとは、
なんと苦しいことだろう! 
私は、思わずぞっとさせられた。
彼に毒のあるまなざしで見つめられるときも、そうだった。
ユダは、人の注意をそらそうとして、
努めてイエズスを見るふりをしている。
だが、それは、悪意のまなざしでしかない。
こんなユダを、イエズスは、やさしい憐みに満ちた御心でごらんになる。
み元に引き寄せようとして。  

12 イエズスは、ユダにその御心を捧げておられた。
ああ、どんなに彼を、御胸に抱きしめたいと、あこがれておられたことか!  

13 愛に満ちた呼びかけが、いく度となく、イエズスからユダへ。 

14 これほどのやさしい招きも、受け付けないユダ、
彼の心は、もう石の心になっていた。
それは、決して動かされることを許さない、いわおだった。 

15 この裏切り者は、あくまでも反抗する。
イエズスが、どんなに手を尽くしても、頑固に拒む。
それにしても、罪のない犠牲者、子羊のお側にいるというのに、
ユダは、少しも落ち着きがない。
なんという対照的な場面! 
比類のない裏切りと、比類のない愛との。 

16 私が自分の魂に、はっきりと刻み込んだ二つのまなざしがあった。
イエズスのまなざしと、ユダのまなざし、
これはまた、なんと大きな違いだろう! 
やさしさをたたえ、愛をはなつイエズスのまなざしの側に、
ぎょろぎょろと宙をさまよう、ユダの失望のまなざしがある。
そのため私はまた、二つの心をもっていた。
一つは、イエズスの御心で…いつくしみと、清い魅力に満ちていた。
一つは、ユダの心…それは、恨みと憎しみでいっぱいだった。  

17 裏切りの時は近づいた。
一番美しい、完全な無罪のものを
売り渡す裏切りがいる!  

18 私の魂は、これ以上に耐えられないほど悩みに満ちていた。  

「イエズスは、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗い始められた」(ヨハネ13・5)  

19 それから私が見たのは、御腕に大きなたらいを抱え、
首からタオルをつるして腰に巻き、
使徒たちの足を洗い始められたイエズスである。 

20 使徒たちの一人(ペトロ)が、イエズスから足を洗ってもらうのを、
非常に嫌がっているように感じられたが、
イエズスに見つめられ、一言、二言、言葉をかけられると、
様子がガラリと変わった。 
彼は、大胆に服まで脱ごうとしていた。
それは、足ばかりか、必要なら、体ごと洗っていただくためだった。  

21 イエズスは、洗ってあげる使徒たちの足に、
接吻までもしそうな気配だった。 
唇ではなく、御心がそうしているのを、私は感じた。
ああ、私にとって、なんとすばらしい教訓!
イエズスの謙遜は、限りなく深い!  

22 これを見た私は、小さくなるように励まされた。
天地万物のみあるじが、使徒たちの中で、
もっとも小さいものとなったのだ。
彼は、深く、深く愛しておられた。  

23 もし私が、イエズスの愛を、いつくしみの深さを、親切を、
それらのすべてを言い尽くせるなら、
人々におよぼす影響は、どれほどだろうか!
でも、私にそれ以上の力がない。  

24 水平線上に顔を出す太陽のように、
イエズスの御心からほとばしり出る愛の光線が、
弟子の一人一人に注がれていた。
弟子はみな、これを受け入れ、
愛に照らされるのに承諾した。 
しかし、ユダだけが、自分の戸を固く閉ざし、
輝かしいその光を拒絶したのだ。  

「取って食べよ、これは私の体である。みな、このさかずきから飲め、これは私の血である」(マタイ26・27)。  

25 なんという夜!ああ聖なる夜!
すべての夜の中の一番偉大な夜! 
それは、もっとも偉大な奇跡、
イエズスの一番偉大な愛の夜だった。
愛するすべての人に結ばれていたイエズスの御心は、
彼らのもとを立ち去るにしても、
なんとかして、彼らの間に残らねばならなかったのだ。
だからこそ、彼は、天に昇るために、地上に残る方法が必要だった。
彼の神としての愛が、こんなことを要求するのだ。  

26 愛ゆえに苦しむ苦しみよ、
おお、だれがあなたを理解できるだろうか?  

27 私は、望んでやまない、
みあるじの御体と御血に変わった
パンとぶどう酒のこの奥義を、
すべての人が知ることを。
なんと不思議な奇跡、だれもさぐりえない愛の淵よ! 
私は、ご聖体の奥義の底に沈められた感じだったが、
口に言い表すほどには、理解できなかった。
私は、奥義を感じても、
その完全な理解は、天国にのみあるだろう。  

28 やさしいイエズスがパンを祝福しておられるのを、私は見た。 

29 祝福されるときの、天を仰いだあのイエズスのまなざしを、
私が言い表せたら、そして見せてあげられるならと思う!  

30 炎のように燃える御目を天に向け、
イエズスは、いつまでもいつまでも、
永遠の御父に祈られた。 

31 燃え出さんばかりに輝くイエズスの御顔は、
私たち人間の顔というよりも、
天の御命の面影が宿っていた。
もう人間のようではなかった。
神ご自身のようであった。
そうだ、愛に、愛そのものになっていたのだ。  

32 言葉に尽くせないほど光と愛は、
みんなを包んだ。イエズスを、使徒たちを、私を!  

33 ここにすばらしいことが実現している。
イエズスは、魅力に満ちた御まなざしと、やさしい微笑みで、
パンを祝福し、間もなくみんなに配ろうとしておられた。 

34 比類のない愛と奇跡のその瞬間に、
世界が変わったのを、私は感じた。
イエズスが御自分を糧として与えておられたのは、
全人類に対してだった。
そうだ、イエズスは、天へ旅立とうとして、
かえって、人類のもとに留まられた。 

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」(ヨハネ6・56 ) 

35 ご聖体!ああ、私の神よ、
なんとすばらしいこと!かぎりない不思議!
イエズスがご聖体を制定されたとき、
心を打つその場面は、愛だけが満ち満ちていた! 

36 使徒たちへの、これほどのイエズスの愛といつくしみの情を、
私はかつて、感じたことはなかった。
使徒たちもまた、愛に燃え、
イエズスの御手から最初のご聖体を受けていた。
不幸なことに、ユダも受けた。
少し離れてはいたが、イエズスは御手をのべて、
彼に天のその糧を渡された。  

37 受けたすぐ後で、ユダは、
まるで地獄を宣告された人のようになった。
彼は、それほど失望していたのだ。 

38 イエズスは、いつも同じやさしさ、同じいつくしみの微笑みで、話しておられた。 

39 イエズスをいただいたその瞬間は、
使徒たちが、一番イエズスに満足し※、
愛に燃え、御言葉を理解したときであった。
※「彼らの上にマナを降らせ、食べさせてくださった。神は天からの穀物をお与えになり、人は力ある方のパンを食べた。神は食べ飽きるほどの糧を送られた」(詩編78・24、25)。  

40 私は瞬間的であったが、イエズスの愛のかぎりなさを経験した。
その愛は、天と地のように無限で、神の偉大さのように偉大であった。 

41 イエズスは、あのとき、どれほど愛されたことだろう。
また、いま、どれほど愛しておられることか!
イエズスは、私たちが、ご自分によって、
ご自分のために生きることしかお望みにならない。 

42 御母マリアは、同じ家の少し離れた所について、
これらすべてのことに参加していた。 

「ユダはパンのひときれを受けると、…すぐ出て行った」(ヨハネ13・27~30)  

43 いつ、どのようにして?…それは、まったくわからないが、
私は、糧、そしてホスチアとなっていた。  

44 私の心は、カリスとなり、ぶどう酒となり、そして、パンとなっていた。
みんなが、私を食べに、私のこの杯から私を飲みに来た。
あの瞬間から、未来に向かってこの場面は、
いく度も、いく度も、繰り返されることになった。
でも、私は、恐ろしさにおののいた。
多くのユダが、汚れた舌で、ふさわしくもないのに、
私を食べたり飲んだりするのを、私は見た。 
恐怖は、さらにひどくなっていった。
それは、私にふさわしくない手と悪魔の心で、
パンとぶどう酒の私を配る人たちのいることだ。
死ぬほどの恐怖、私は、ひどい苦しみを感じた。
私は苦しみと恐怖のあまり、
私の魂が引き裂かれ、
心臓が粉々に打ち砕かれるのではないかと、
思うほどだった。  

45 私は、私の内にユダの舌を感じた。
イエズスに祝福されたパンを食べ、
ぶどう酒を飲んだユダの舌は、
まるで火のようだった。  

46 ユダは財布をつかんで、まもなく出て行ったが、
それはイエズスを売りに行くためだった。※ 
※「ユダは財布をあずかっていた」(ヨハネ13・29)。 

47 失望にかられたユダは、
思わず聖なる糧を吐き出して逃げ、
こうして、うらぎりは完成した。  

「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」(ヨハネ15・15)  

48 晩餐の席に留まっていた十一人の使徒とイエズスを、
限りない天的平和と愛が、すっぽりと包んでいる。  

49 ああ、なんと親しみに満ちた宴、
相互いの語り合いが、お互いを慰めていた。  

50 それこそ、平和と英知の話し合い。  

51 イエズスを真心から愛する霊魂には、
どれほどイエズスの愛が激しく燃え上がるかを
すべての人に感じさせてあげられたら、と私は思う。 

52 私を一番感動させたのは、
イエズスの尊いみ胸に頭をもたせかけてきた時のヨハネのあの愛、
そして、この若い弟子に感じさせてあげられたイエズス自身の愛である。※ 

※教皇パウロ6世は、イエズスの御心の奥義は、「人となられた御言葉の人間としての心に反映する神の愛の祭儀である」と断言した。御心に対する信心の起源に福音の二つの場面がある。一つは使徒聖ヨハネがイエズスのみ胸に頭をもたせて寄り添う場面であり、もう一つは、兵士の槍で、イエズスのわき腹が貫かれる、より大切な場面である。この二つの場面によって、信者はその心の中に、あがないのみ業と愛の奥義をますます深く見抜くようになった。アレキサンドリーナのこのページにも、このことが非常に明らかである。 

53 イエズスの尊い御心と愛する弟子の心は、
どれほど親しく結びあっていたことだろう!
イエズスは、弟子から大きな慰めを受け、
弟子もまた、師によって、限りなく慰められていた。
この心の触れ合いが、どれほどイエズスのあの悲しい苦しみを
やわらげていたことだろう。  

54 そのとき、イエズスのあのやさしい愛が、
苦しみの苦味を受けてはいたにしても、
また喜びも、周りにまき散らしているのを、私は感じた。
イエズスがその深い思いの中で、
黙々とゲッセマネの園とカルワリオの苦しみのすべてを
見ておられたそのとき、
全人類は、野獣のように、ほえたけりながら、
イエズスに押し迫っていた。  

御母との別れ  

55 最後のなんといっても、一番の苦しみのひどかったお別れは、
御母との別れであった。
この二人のもっとも清い御心は、
無残にも苦しみに踏みにじられた。 

56 私は、御母が今度こそイエズスに
最後のくちづけをし、抱きしめているのを感じた。
なんとやさしい母心、でも、なんと悲しい別れだろう!
二人の心は、どれほどの親しみで語り合っていたことだろう!
 

57 くちづけが、この世で一番清い二人の顔を結び合わせた。
でも、苦しみは、罪のないその心を、より以上に親密に結んでいた。 

58 二人の顔も心も一つに、
こうして二人の愛は結ばれ、もう永遠に離れない。
だが、二人の魂は泣いていた。 

59 イエズスは、御母に接吻した。
それは、別れの接吻であった。
イエズスは、御母の心に火のような光線を残し、
この光線は、二人を永遠に結び合わせる愛のきずなとなった。
イエズスは、ゲッセマネの園に行こうとして、
ほんのちょっと、御母の側に残られた。
御母も、そのまま、別れを惜しみ、
そして二人は、一緒に出発した。  

「イエズスはオリーブ山に行かれた」(ルカ22・39)

 愛と苦しみのうちに一致した二人の心  

1 私の魂は、イエズスが階段をおりて
オリーブ山に向かわれるのを見ていた。  

2 階段の踊り場には、御母がたたずんでおられた。
マントに包まれ、御目には、涙が光っていた。
その目は、遠ざかって行くイエズスを、どこまでも、離れない。 

3 なんと悲しい別れだろう。
もう数時間後にマリアが御子を抱きしめて、
御傷の手当をどんなにしてあげたいとあこがれるかを、
イエズスはご存知であった。
でも、母親らしくやさしい言葉で
慰めてあげることさえできないことも、
また見抜いておられたのだ。 

4 遠ざかりながらイエズスは、
もう一度、別れのあいさつをしようと
振り返って、御母をごらんになった。
マリアのまなざしは、あの階段の上から、
まだわが子イエズスを追い続けている。
やがてその姿も消えてしまったが、
それでも、親子の心は決して離れない。  

5 私は御母を見ていた。
イエズスのみ姿がだんだん小さくなって、ついに見えなくなったときの、
あの御母の苦しいまなざしも見えたし、
マリアの清い御心が、御子が受けねばならない苦しみを感じ取り、
どこまでも御子についていくのも見えた。 
イエズスとマリアと、この尊い二人の御心は、かたく一致していたが、
それは、なんと苦しみと愛に満ちた一致だったことだろう!  

苦しみのすべてを引き受けて孤独へ 

6 すべてが私から去って行くのを、私は感じる。
ゲッセマネの園の中に完全な孤独のうちに、
私は、この世始まって以来ともいえる大きな悩みに、
もだえねばならなかった。  

7 私は孤独の中に逃げ込む、 
沈黙の中で、心ゆくまで泣けるためであった。
そこで、敗北のどれほどの涙を流すことだろう。 

8 一歩ごとに、山々が私の上に崩れ落ちてくるのを感じる。 

9 一歩ごとに、立ち止まって休む感じがした。
こんなに私の心は、疲れ果てていたのだ。 

10 道は、どこまでも続く棘(とげ)の道、
私を痛めつける、からんだ大きな茨の枝!
全世界に対する私のこれほどの心遣いと、
これほどの愛が報いられるのは、
この鋭いきびしい棘だった。
その棘は、大きくからんで、
私の心まで、しめつけていた。 
それでも、私の心から愛の炎が、
その刺の隙間をくぐり抜けて、燃え上がっていた。  

11 内的な心の努力に励まされ、私は、歩き続けた。 

12 愛に引きずられ、園へと近づきながら、
私の心は、ありとあらゆる苦しみを、
かたく、かたく抱きしめていたのだ。 

「私は、あなたのために死にに行く」 

13 柔和なまなざしで、イエズスは遠くから、ユダを見ておられた。
それでも、ユダは、あちこちに、家から家へと歩き回っては、
イエズスを売り渡す相談に忙しい。
その腕には、すでに売り渡した金で、
ずっしりと重くなった財布が抱えられていた。
イエズスは、ユダのすべてを見ておられたが、
使徒たちには一言も話さなかった。  

14 でもイエズスは、一人ひそかに泣いておられたのだ。  

15 イエズスは、悲しみのあまり、何も言えないで、
ただ黙々と、使徒たちの先頭を歩んでおられた。
私の目にうつる使徒たちの様子には、
これから起ころうとしていることに、
何の心配も、悩みも見えなかった。
彼らは、疲れていた、疲れてただ歩くだけだった。  

16 すっかり満腹した使徒たちは、もう何も心配しない。
先生についてゆけばよいのだ。 

17 あまりにも大きな不思議があった。
イエズスは、あまりに思いがけないことをなさった。そして、話された。
彼らは、見たり聞いたりすることがありすぎて、
すっかり疲れてしまったのだ。
それで黙って歩いた。 
でもイエズスは、この沈黙の中で、
どれほどのことをお話になったことだろう。
イエズスは、彼らをどれくらい愛しておられるか
分からないほどだったから。
それにしても、苦しみと疲れにうちひしがれた御心は、
言葉に尽くせないほど語りかけていたのだ!  

18 ほとんどあえぎながら歩いておられた
イエズスの御体のどこからでも、
ぐっしょりと汗のしずくがしたたり落ちていた。 

19 ときおり、イエズスは、立ち止まっては、
はるか向こうの下のほうに、
かすんで見えるエルサレムの町を見るために、
何度も振り返っておられた。
もうすでに暗くなっていたが、
イエズスの神のまなざしは、すべてを見抜き、
そのために、御心からもれてくるのは、
耐え難い、いつくしみの嘆きばかり!
「私は、あなたの忘恩を気にしない、
ただ、私はあなたのために死ににゆくのです」と。 

20 イエズスは、苦しみの深い淵に沈んでゆかれた。
御目に映ったあらゆる忘恩と罪悪を
その尊い御心に集めておられたのだ。
憎しみと苦しみのあの淵は、
オリーブ山の園、いわゆるゲッセマネの園の中を、
どこまでもイエズスに付いて行った。
そしてイエズスは、私をそこに連れて行かれたのだった。  

アレキサンドリーナは、イエズスと共にマリアの苦しみにあずかる  

21 私は、イエズスの尊い御心が
人類から踏みにじられているのを感じた。
イエズスの御心の側に御母の御心が、
同じ苦しみにあえいでいた。
マリアの御心は、絶えずイエズスの元へと飛び、
苦しみのあまりに、その御心とともに
全身の血脈が引きつるほどだと、私は感じた。 

22 歩くうち私は、御母のため息と涙が
私の心を貫くのを感じた。
そのとき私がありありと見たのは、
マリアが最後の晩餐のあった大広間の玄関に座り込み、
尊い御顔を手で支えながら、
苦しみのあまりに泣いておられる御姿だった。
私は、それを見たのだ。肉眼ではなく、この魂の目で!  

23 あの昔、マリアが清いご胎内にイエズスを宿しておられたように、
私も今、悲しみの御母を心の中に宿しているかのように感じた。
それで、マリアがイエズスをその神性も人性も共に迎えた神殿であったように、
私の心も、マリアをその御苦しみと共に迎える神殿となっていた。
ああ、私は、どれほど信心深くマリアを宿していたことだろう。  

24 イエズスが、すでにゲッセマネの園の近くまで来られたのに、
御母はまだ泣いておられた。
この祝福された御母の涙も、すすり泣くため息も、
イエズスには、よく分かっていた。
その御涙を見、そのため息を聞いていた。  

ゲッセマネの園の主のもだえ

 「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」(マタイ26・36)  

1 私は、愛の流れに流されて、ゲッセマネの園に入って行った。  

2 園のオリーブの木が、私の目に入ってきた。
イエズスの尊い御心の悲しみに打たれたように、
月の光は衰え、星も薄れた輝きで瞬いて、悲しんでいるのを、私は見た。
木の葉越しに、これを見ている私には、
それは苦しみと沈黙と潜心へ導く悲しみ、その極みであった。  

3 オリーブの木々の暗闇にまぎれて、イエズスは、歩みを早めた。
それは、弟子たちから、少し離れた所に祈りに行くためだった。 

4 その深い緑で、イエズスを隠そうとするかのように、
オリーブの木々は、イエズスを憐れんで取り巻き、
御苦しみの証人となった。  

5 やがて使徒たちは、眠り始めていた。 

6 私は、自分が孤独の中に祈ろうとして、
ひざまずいているかのように感じた。 

アレキサンドリーナは、未来の苦しみまでも自分の内に経験する  

7 ああ、ここは、もだえの園!悲しみの庭!  

8 この園は、この世界だった。
硬い石を敷き詰め、やわらげたくても、できない頑固ないわお!  

9 私の魂は、もうすぐ襲いかかってくるはずの、
なんと、おびただしい苦しみを、
自分の上にも、また肉体の上にも、見ていることか。 

10 すでに私は、この顔が受けねばならない忘恩の接吻を感じている。
ああ、なんという苦しみ!  

11 平手打ちが、もはや耳にがんがん響くようだ。 

12 顔に吐きかけるつばき、耐え難い目隠しも感じる。 

13 ペトロの裏切りも、たき火にあたっている群衆も見える。
にわとりの鳴き声は、すでに私の心の耳に聞こえているのだ。 

14 群衆が恐ろしく騒ぎ、
私は、あの裁判所から、この裁判所へと引き回され、
侮辱されているのを見ている。  

15 私を柱につなぎとめる鉄の輪が見える。
すでに、その縄目を私は感じている。 

16 私の体がむち打たれるはずのそのむちは、
今すでに私の魂を打っている。
縄と棒の響きが聞こえる。
ああ、私は、どれほどの憎しみをもって打たれることだろう! 

17 私は、むち打たれ、そのはてに、
いばらの冠をかぶせられるような苦しみを感じている。 

18 むち打ちの血まみれの姿で、
ピラト総督の裁きの庭に引かれ、
私は手に、からかいのための葦の棒を持たされる。  

19 乱暴に傷ついた背にぼろ布のマントをかけられ、
私は、おびただしい死刑執行人に囲まれ、
この上もなく、しょげきっていた。  

20 私を取り囲む群衆が見え、
その叫び声まで耳に入ってくる。
死刑を受けるその時が決められたのだ。  

21 ある時には、もう苦しみのあまりに死ぬかとさえ思うほどだった。 

22 ゲッセマネの園と同じ方角にカルワリオの丘があるのを見る。 

23 あの丘に行く道を辿りながら、
私は、十字架の重みに耐えることができなくなって
倒れるのを見ている。  

24 その坂を見ただけで、私の力は抜けてしまう。
これほど残酷に扱われた後で、
どうして、あの坂が上れようか!
私は、思わず震え始めた。
地面までも、私と一緒に震えているかのようだ!  

25 着物を剥ぎ取られるときの残酷さを感じている。
服にくっついて、皮膚が剥がれ、
鞭で傷ついた肉が引きちぎられる。  

26 彼らは、私の体だけでなく、
この魂までも、裸にするのではないだろうか? 
それほど痛みは、致命的に私の魂を刺し貫くのである。 

27 私には、もうあの恐ろしい釘と金槌が見えている。 

28 高くそびえて立つ十字架が見え、それに釘付けられた自分の姿が見える。 

29 これらすべての苦しみを、私はみんな予知し、感じている。 

30 ああ、なんと恐ろしい苦しみよ、
ゲッセマネの園の苦しみが、どれほどだったか、
世界は少しもそれが分からない。
イエズスの苦しみの淵の深さを、
決して知ることができないのだ。 

31 私のイエズス、あなたの御苦しみは、
実際にそれを経験しなければ、
だれがそれをはかれよう!  

数世紀にわたるカルワリオとの出会い  

32 ありとあらゆる残酷を受け止めた心は、
とうとう、血液に溶け出て、園の地面を這うかのよう、
その血液は、まるで毒蛇のように見えるので、
すべての人がこれを殺そうと、
残酷さの限りを尽くしているかのようだった。  

33 それでも、受けた傷よりも、なお深く愛していたのだ。 

34 園には、雲が深くたれこめていたが、
それは、水を含んだ雲ではなかった。
苦しみと悩みをいっぱい吸い込んだ雲で、
この苦悩は、やがて血に変わり、
カルワリオ全体を、
それからカルワリオを通じて全人類を、
うるおすものになろうとしていたのだ。 

35 こうして私は、まもなく、私から流れ出ようとしている血を見ていたが、
そこから生まれて咲き誇る花も、一緒に見ていた。
花の間には、非常にするどい棘の生け垣が広がっていたが、
なんと、その棘の大部分は血に染まっていたのだ! 
そこに私は、実りも見たが、また同時に忘恩も見ていた。
光栄と共に、悪も見ていたのだ。  

36 一般の人々は、私のこの苦しみに、
まったく無関心だということが分かるので、
それだけでも、私の苦しみ、この心のもだえは、
とても言葉につくすことはできない。
誰も私の魂のために…否、むしろイエズスの御苦しみのために、
ひとかけらの同情すら寄せてはくれないのだ。 

37 イエズスのカルワリオとの出会いは、
わずか一日だけのものではなく、
数世紀にもわたるものだった。  

御母の御心は、御子の苦しみをすでに感じている  

38 御母は、そのとき、どこにおられたのか?  

39 私の魂は見ている、そして心は感じている。
マリアは、まだ、あのままだった。
高間の玄関、階段の下に立っておられた。
まだイエズスが歩いて行かれた道を眺め、
ときどき立ち止まって振り返られた
その場所をじっと見つめておられた。
イエズスの御心と深く結ばれている御母の心も、
イエズスが受けようとするすべての苦しみを
予見し、予感し、イエズスと共に同じ苦しみを苦しんでおられた。  

40 マリアは深いため息とともに、
「私の子よ、おお、私の愛する子よ、どんなに苦しいことだろう」
と、つぶやいておられたが、
その頬には、涙が、後から後から流れて止まらない。 

41 御母の流された、汲み尽くせないほどの涙が
どっと一度に私の心に流れ込んできた。 

42 あがないと、イエズスとのあれほどつらい離別で
マリアが受けた苦しみを、誰が計れよう! ※ 

※スウェーデンの聖女ビルジッタのときのように、アレキサンドリーナの場合も、ご受難に占める聖母の独特の役割は、非常に重要性を持っている。これについて、教皇ピオ12世は、1956年5月16日に、次のように語った。「神は人類のあがないの御業が実現される場合にも、乙女マリアを、決して引き離しえないまで、イエズスと結ぶように望まれた。そのために、私たちの救いは、当然、イエズス・キリストの愛と苦しみ、そしてこれにかたく結び合わされた御母の愛と苦しみの実りの実であったと言えるようになった」と。  

43 このあとに起ころうとすることが、
私の前に幻となって現れた。
大勢の群衆がイエズスについて行く。
その中をマリアは涙にかきくれ、
深いため息とともにカルワリオの道を辿っておられた。
マリアは、御子を一目見たかった、会いたかった。  

44 計り知れない大きな苦しみに、イエズスはもだえられた。
ご自分を待ち受ける苦しみのために、御母の苦しみのためにも。 

45 御母が、今どこにおられ、
会いたいわが子とへだてられて苦しんでおられる
そのお気持ちがお分かりになるので、
イエズスは、想像もつかないほど、お苦しみになっていた。  

46 そのとき、苦しみが私の心と魂を引き裂いたのである。  

死と、命と、この二本の木  

47 イエズスを売り渡す契約があった大広間が私の目に映ってきた。
ユダが、絶望で狂わんばかりに、
あの無罪の血の価を入れた財布を投げ捨てていた。 

48 私は、遠くに、人間の体を吊るした一本の木を見た。ユダだ! 
やがてユダは、木から地面に落ちていったが、
私は、そのとき、ユダの体が破裂して、はらわたが流れ出るのを見た。※
イエズスを売り、敵の手に渡し、
裏切りの接吻までした恐ろしい罪悪にうちひしがれ、
ユダの失望は、どん底まで彼を沈めてしまったのだ。
私は、自分の魂の中に、これらのことをすべて感じていた。 

※「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、 『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った。しかし彼らは、『我々の知ったことではない。お前の問題だ』と言った。 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ」(マタイ27・3~5)。  

49 ふと私は、豊かな命の芽をふき出す、※
世界にたった一つしかない、一本の木になった感じがした。
私の木は、新しい命の芽生えで、天の命を与える木であった。
だが、その芽生えのために、
私は、巨大な苦しみを、
ゲッセマネの園の苦しみも、
カルワリオの苦しみも、
そして十字架上の死も、
引き受けねばならなかった。
そのとき、私は、死んでもかまわない、
私に大事なことは、新しい命を与えることだと思っていた。  

※ここで、アレキサンドリーナは、イエズスと、同一化して語っている。 

50 私は、愛のために苦しむ必要を感じていた。
それで目をつぶり、口を閉じて、
苦しみのすべてに、われとわが身をゆだね、こうして死を迎えた。
私は、死をあこがれた。
それは、死ななければ、地上で私が果たさなければならない
使命を完成できなかったからだ。 

忘恩をすべて抱きしめた   

51 苦しみが最高に達したその瞬間、
イエズスが世界を眺めておられるのを、私は感じた。
イエズスは、深刻な苦しみの中から、
「これほどの愛に、これほどの忘恩で報いられるとは!」
と心の中で言っておられた。
ご自身の苦しみも、尊い御血も、そのご死去さえも、
受け入れられていなかったからである。※  

※イエズスがそのとき、御心に感じておられたのは、そのとき限りの裏切り、見捨てられたこと、苦悩だけではなかった。長い歴史に渡って引き受けなければならない、各種の忘恩や裏切りを感じられておられたのである。信仰のある聖書学者なら、イエズスが未来を予見しておられたことに考えおよぶはずである。この予見があったからこそ、ますますイエズスの苦しみは増すばかりであった。 

52 人類のあらゆる残虐さが
重く私の上にのしかかってきて、
私を踏みにじり、私の胸をえぐって、
私の命を奪い去ってしまった。
だが、私のうちに、もう一つの命があった。
それは、前のものより、もっと偉大で、すばらしかった。
その命は、私に全人類を自分のうちに迎え入れさせ、
これを愛の炎で包んだのである。
まるで狂うほどの愛、
それは、あまりにも大きく輝かしかったので、
私に人間のすべての残酷さを忘れさせてしまった。
それどころか、死に打ち勝って、
すべての忘恩を抱きしめたのである。 

53 それらを永遠のために抱きしめた。
この抱擁は、人々の霊魂を抱擁することであって、
これこそ、ご自分の愛の永遠の命であると、
イエズスは私に、光によって、手にとるように理解させられた。  

私が世界を自分に引き寄せたのは、オリーブ山においてであった。  

54 私が世界を自分に引き寄せたのは、オリーブ山においてであった。 ※ 

※ゲッセマネの園でのイエズスの苦悩は、すでにそれ自身で完全なあがないの行いである。 

55 園に広大な海が盛り上がってきて、
私は、荒波の一撃で打たれてしまった。  

56 私の周りはすべて、海だった。
まるで私がそそり立つ岸壁でもあるかのように、
荒れ狂う波が、私におそいかかってきた。  

57 波に打倒されたとき、
地のすべての不潔なもの、汚れたものが、
私の上にかかってきた。
あまりのことに私は、恐れおののいたが、
地面さえも、私と共に恐怖に震えるかのようであった。  

58 私は永遠の御父の正義に打たれる
すべての罪悪によって覆いつくされていた。  

59 この罪悪をまとって、御父の前に立ったとき、
私は自分のその姿を見て、
心も張り裂けんばかり、
苦しい恥じらいの涙を流した。  

60 自分自身に対する恥の激しい感情と神の正義の重みが、
地に開き、私にそこに隠れよと要求していた。 

61 いつしか私は堅い土の割れ目に深く沈んでしまった。 

62 そして私は、まるでマントの中にすっぽり包まれてしまったかのように感じた。※  

※罪は、神の最大の敵であるが、神が人間イエズスとなって世界中のすべての罪を背負ったので、神は、ご自分が、ご自分の最大の敵となられたのである。同時に、神は、まことの神と偽りの神、キリストと偽キリストとなったが、そのために死ぬほかはなかったのである。とはいっても、罪は、キリストの神としての威光に触れることはできない、ただその人性に対してだけ、しかし、キリストがお許しになられた方法でしか攻撃することはできなかった。すなわち、人間となられた神の死が教えることはこれである。第一に、罪が、そのものとして、いかに恐るべきものであるかということ。また、イエズスが御自分の人性を恐怖に委ねられたご受難のあのとき、その試練がどれほど激しかったかということである。  

63 永遠の御父の御前で、
世間そのもの、堕落と罪そのものとなった私は、
その全責任をとらねばならないはめとなった。 
だれも支払うことのできないこの負債を、
私は自分一人で払わねばならないのだ。
罪と堕落の海を洗い清めるのに、
血と清めの海が必要だった。  

64 このとき、私の全存在がゲッセマネの園となり、
私のすべてが、血となった。  

粉にひかれた一粒の麦、ぶどう酒にしぼられたひと房のぶどう  

65 私は、すべての人のために責任をとるもの、
そして、多くの人々のためにつまずきになるため、
あの堅い土の上にひきすえられていた。
多くの人々とは、私の反逆者、私を拷問にかけて殺す人だった。 

66 天にむかって呼びかける私の叫びが、
夜の静寂を貫き、
かんらんの青い木の葉越しに、
孤独のさなかから舞い上っていった。 

67 私の叫びは、あれほど強かったのに、
その声は、むなしく森林の中に吸い取られ、
消えてしまったかのようであった。
ああ、天さえも、私を聞いていなかったのだろうか?  

68 天は、私からあまりに離れすぎていた。
それで、私は地上から青空さえ、
仰げないかのようになっていた。
私からすべてが消えたのだ!
ただ残るのは、園だけだった。  

69 永遠の御父は、隠れていた。
それで、私には、もはや存在しておられないかのようにさえ思われた。
しかし、神の正義は暗雲のうちに、
私を圧迫するためにくだってきた。 

70 オリーブ山のこの園の地面と神の正義が、
ひき臼の石となって、
私を苦しみに、塵に引き裂いてしまった。 

71 私は粉にひかれる一粒の麦であったが、
粉になってからも、いく度もいく度も引きなおされ、
私は、ほとんど消えてしまいそうなほどだった。
また、私は、搾り台にのせられて、
搾られたぶどうの小さな房だった。
もうみんな汁を与えてあげたのに、
まだ足りないかのように、
いく度も新しい搾り台にかけられねばならなかった。
こうして私は、何も残さないまでに、
完全に搾り尽くされてしまった。  

72 私がこうして潰されて、
奉献のときのように、両腕を広げていたとき、
私の全身から血のしたたりが流れ出ていた。※ 
神の正義は、私に重くのしかかり、
そのためにかえって、罪深い世界に対しては、
やわらげられていた。  

※「汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22・44)  

地からも天からも捨てられた  

73 暗く、静かな夜の中で、園には、
オリーブの木の葉一枚さえも動いていなかった。
動いているのは、苦しみのあまりに震えているときだけだった。
そのとき、イエズスには、すべてがみな震えるかと思われたのである。
この夜は、イエズスにとって絶対的な孤独への招きだった。
みんなから捨てられたばかりか、
永遠の御父からも捨てられたという感じが、
イエズスを、嫌が上にも孤独の苦しみに駆り立てていたのである。  

74 眠りこけている使徒たちのそばに、
イエズスは、しばらくたたずんでおられた。  

75 長い間、友とも仲間とも親しんできた人たちなのに、
使徒たちは、なにも考えないで、ぐっすりと眠りこけている。
このときこそ、イエズスに彼らの支えが必要だったのに、
弟子たちは、イエズスのことなど無関心で、ただ眠いだけだった。
苦しむ師に、なんの慰めも与えようとはしなかったのだ。
言わば、イエズスを一人置き去りにしたように、
彼らの心は、そこにいなかったのである。
このために、イエズスはまた苦しんでおられた。※  

※パスカルは、こう記している「あのときイエズスは、人間が側にいてくれることを望んでおられた。彼ら使徒たちの慰めを探し求めておられた。こういうことは、イエズスのご生涯の中で、ただ一つの例外だったのではないだろうか。でも、この例外をどのように説明したらよいだろう?きっとあのとき、イエズスの御目にも、あたかも天が閉じられてしまったかのように見えたのであろう」と。  

76 イエズスは、天を仰いで永遠の御父に話しておられた。
星々は、まるで灯りのように、その上をオリーブの枝ごしに、暗い園を照らしていた。 
でも、イエズスにとって、星は、またたきも、照らしてもいなかった。
なぜなら、永遠の御父が、彼にお答えにならなかったからである。
それにしても、イエズスの御魂は、御父に向って限りなく話し、
その御心は、限りなく愛しておられた。 

77 私の苦しみは、神にまで届いたが、
人類が私を見捨てたように、神も私を見捨てた。  

78 地上に私が味方を見失った、
としみじみと感じたそのときに、
天からさえも見捨てられたと思うことは、
なんと恐ろしいことだろう。  

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22・42)  

79 立ち上がったときに、震える私の手には、杯(さかずき)があった。
その杯は、絶えず溢れている。
後から後から新しい苦しみが注がれるからだ。
まるで尽きることのない泉から
水を受け取る器のようなものであった。※  

※イエズスが飲むのを恐れておられるその杯は、彼を待ち受けている恐ろしい死だけではなかったはずだ。旧約聖書を見ると、杯というこの表現には、罪の罰として神から与えられる苦しみ、もっと正確に言えば、悪人が受ける最後の罰の意味がある(イザヤ51・17~22.エレミヤ25・15~19)。すると、イエズスをこれほど恐れさせる杯は、すべての国の罪人が神の敵として受け入れねばならない天罰だったのである。  

80 私のうちにイエズスは、あの苦い杯を手にとって、
いく度も、いく度も永遠の御父にお捧げになられた。
私はイエズスであり、イエズスは私であった。
私たちは、天に捧げられる同じ供え物となっていたのだ。 

81 私は、自分の心の中で、イエズスがこう繰り返しておられるのを感じた。
「父よ、もしできることなら、この杯をわたしから遠ざけてください。
しかし、わたしの思いではなく、み旨のままになりますように。
私は、死にたいのです、この命を与えるために」。 

82 イエズスは、御父に苦しみを遠ざけることを願いながら、
同時に御父のみ旨だけを果たすことを望んでおられた。
そしてこの祈りを捧げるときの天を仰いだイエズスのみ顔は、
非常に落ち着いて美しかった。 

83 イエズスの御目が、まるで二つの太陽であるかのように、
私の魂の中で輝くのを、私は感じた。 

84 あの苦しい悶えのときに、私も、心の中で叫んでいた。
「イエズスよ、もしできることなら、わたしからこの苦しみを遠ざけてください」と。
でもすぐあとで、私は腕を広げて、イエズスのほうへ走り寄って行った。
私は、まるで、炎に焼かれるかのようであった。
それでいて、私は、涼しくさわやかで、
やさしい海のようなイエズスの中に飛び込んで、こう祈った。
「わたしの願いではなく、あなたのみ旨のままに!
わたしの神よ、わたしの主よ、私は、あなたを慰め、
人々の霊魂をあなたに与えたいのです」と。※  

※アレキサンドリーナの全生涯は、苦しみの連続で、このページを書いたときのは、1953年の1月9日であった。彼女は、こう書いている。「あの苦しい悶えは、全人類の罪悪を背負う恐ろしさを示しています。私の中のすべてが罪悪で、私は全人類でした」と。  

堅い岩によりかかって祈っておられる  

85 いつまでも長く続く長い長い道を、私は見た。
その道は、鋭い棘(とげ)の絡み合った丈夫な枝に覆われていたが、
それは、私を傷つけるためだったのである。
私のやさしいイエズスは、非常に輝かしい光をもって、
私にこのことを理解させて、心に、これらの棘が、
数世紀から数世紀にわたって、世界が続く限り、
私の心ではなく、神であるイエズスの御心を傷つけるだろう
ということを見せてくださった。
棘に覆われたあの道がいかに長く、
イエズスがどれほどひどく傷つけられるかを
言葉に表現したくても、私にはできない。
私は、見て、ただ理解しただけだ。
こうして、あの苦しみとあの恐ろしい悩みは、私の内に残った。  

86 イエズスの愛すべき御母が心配のあまりに、
苦しみの苦味を感じておられるのを、私は見た。
「私のイエズスは、今、どこにおられるのでしょう?
今、どんなに苦しんでいるでしょう?」
と自問しておられるかのようだった。 

87 イエズスは、堅い岩に胸を押し当てて、祈っておられた。
しかも互いに絡み合う棘だらけの大きな枝に囲まれて!
空から、まるで星のようにイエズスを見ていた天使たちは、
イエズスのこの御苦しみに感嘆するばかりであった。
天だけがイエズスの苦しみを理解していた。
その他に、もう一人の理解者があった。
御母である。
御母は、イエズスの苦しみに与っていた。
イエズスと御母は、どれほど愛し合い、
どれほど相互いのことを見抜いておられたことだろう!
でも、これほどに愛し合うイエズスとマリアの御心の痛みを、
世界はみな、弟子たちでさえ、知らなかったのである。  

「汗が血の滴るように地面に落ちた」(ルカ22・44)  

88 悶えが続くので、私は耐え難くなって、地にひれ伏していた。  

89 堅い地面に、しかも恐ろしい、暗闇に包まれて、
ひれ伏す私の体は、激しく震え始めていた。  

90 様々な場所に、私はひれ伏していた。
もう一つの、もっと寂しい所に、私は一人で祈りに行ったが、
まもなく愛する人たちを求めて、使徒たちのところに戻ってきた。
それなのに、ああ、なんということだろう、
彼らは、私のことなど、なんにも心配していなかった。  

91 夜の静寂に包まれて、私が苦い杯を永遠の御父に捧げているというのに、
私の心の愛する人たちは、気にもかけないで、眠っていたのだ。 

92 あの荒れ果てた堅い土の上にうつ伏して、
私は、恐ろしさのあまりに、震え始めていた。
私の苦しみが火となり、炎となって、
私の血を沸騰させるかのようだった。  

93 心臓が恐ろしく動悸を打ち、
私の体は、悶えのあまりに、
地面に投げ出されて、血の汗を流していた。  

94 私の血脈は、糸まりの糸のように重なり合い、
酷い痛みのうちに破れて、地面を濡らすほど血を流していた。  

95 私の服は、血まみれになって、
皮膚にはりついたような感じだった。 

96 ああ、だれも知らないイエズスの苦しみと、愛のご受難よ!  

イエズスは「御自分の血によって罪から解放してくださった」(黙示録1・5)  

97 私は、イエズスと共に祈っていて、血の汗を流した。
イエズスが私のうちにおられたので、
開かれたその御心は、私の心であるかのように思われた。
そうだ、私も全人類に向かって、心を開き、イエズスと共にすべての人に、
「私は、道であり、真理であり、命である」
と繰り返していたのだ。  

98 私は、イエズスが予感している苦しみの御血を、
開かれた御心から人々の霊魂に飲ませておられるのを見た。※1
だが人によっては、これを軽蔑した。
ある人は、イエズスを遠ざかって、御血に触れようともしないのである。
またある人は、冷たい無関心をもって、なんでもないことのように、飲んでいた。
でも、ある人は、愛のために飲みにきた。
そしてさらにある人は、もっとも生き生きした愛のうちに、
絶えず飲みに来ていたのである。
ところが、飲みにきた次の人は、今までのどの人たちよりも、
もっと熱心に、飽きることのない渇望をもって、飲みに飲んだ。
その人はやがて、イエズスの御心の傷の中に飛び込んで、
イエズスのうちに沈み、もう再び出ることはなかったのである。 ※2 

※1・「イエズスの御血を飲む」というのは、イエズスの生き方をならって、これを実生活に実現する努力を意味する。その一番力ある助けは、ご聖体である。  

※2・この人こそ、アレキサンドリーナで、イエズスの愛のみに生きるすべての人々の代表となった。 

99 御血は、世界をうるおす実り豊かな露、愛の露であった。
この御血こそ、世々に人々の霊魂に命と救いをもたらす
露とならねばならなかったのだ。※  

※「神は、御子の御血をもって、教会(=信者)をお救いになった」(使徒20・28)  

100 私は、流された御血が罪の汚れを洗い清めるのを感じたが、
同時に、遠くから、非常に遠くから、
新しい罪悪と汚れが湧き出てくるのを感じ、また予見していた。
せっかく洗い清めるために御血の海が与えられているのに、
なんと多くの人々がこれを利用しようとしないのだろう。 

十字架の木は花をつける  

101 私は、自分が血で世界を洗い清めているのを見た。
まもなく、十字架の木に、ちょうど私のいるそこから花が咲いた。
でも、すぐあとで、一つの敗北が、それは悪からでてきた敗北だったが、
せっかく咲いたばかりの花をみんな、
しかも、その幹まで破壊していたのである。
私の血脈は、この幹の根であったが、
この幹が死なないで、絶えず枝に命を与えるように、
私は苦しみ、私の血を与え続けねばならなかったのだ。
私の魂は、あのような敗北、あれほどの破壊を見てしまったので、
死のもだえまでも味わったのである。 

102 自分でも知らないで、私は、心の中で、
「私の魂は悲しみのあまり、死ぬほどです」と繰り返していたのだ。  

103 そののち、まもなく私は、墓から出たように感じた。
墓を覆う石は、片隅にあった。
私は、あらゆる苦しみの凱旋のあの光栄をもって墓から出た。※
でも、前もって与えられた光栄のこの示しは、
私になんの慰めも与えはしない。  

※神秘家の魂は、それぞれ違った程度と方法で、キリストの神秘を自分のうちに再現するが、アレキサンドリーナは、御復活の神秘を何回となく再現した。 

104 新しい棘が、絡み合いながら、杯を取り囲んだ。
これらの棘は、光り輝きながら、杯を照らし、
杯に、こよなき美しさをそえていた。
でも、その光と輝きはすべて、天に昇っていく。
それで、私の霊魂に残っていたのは、
ただ沈黙と悲しい暗闇の夜だけだった。  

「天使が天から現れて、イエスを力づけた」(ルカ22・43)  

105 私は、離れた一隅に、地にひれ伏していた。  

106 そのとき、天からの慰めがきた。 

107 私には見えなかったが、天から何者かがおりてきて、私の魂を強めた。
私を地から引き上げ、私の苦しみをやわらげていた。
しかし、まもなく苦しみは、また新たになった。
私の魂を癒してくれたのは、永遠の御父から遣わされた者であると分かったが、
それにしても、御父から見捨てられたという感じは、まだ残っていた。  

108 カルワリオも十字架も、まだなくなってはいないのだ。
世界は、まだその罪悪で、私の苦しみを増すばかりである。  

109 でも私は、きたるべき苦しみを引き受けるための
もっと強い力を、自分のうちに感じていた。 

110 私の魂が、あの苦しみを感じて、恐れおののいているとき、
天から一つの運河のようなものがくだってきて、
私を引き込もうとしているのを感じた。
それは、神の御命をもった運河であった。
地上の私のこの命、それは苦しみに満ちた生活であったが、
なんと、太陽の光線のように貫き通す力をもった神の命で貫かれていたのだ。
これは、実にすばらしい交わりであった。
天と地が一つになったのだ。
もし私に、それを感じたままに言い表す才能があるとしたら、
このことだけでも、一生涯かけても、話し尽くせないほどだと思う。 

「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」 (マルコ14・42)  

111 私には見える、ほら、あそこ、ゲッセマネの園に、
イエズスが、あれほど悶え苦しんでおられるというのに、
使徒たちはなんにも心配しないで、ぐっすり眠っている。  

112 使徒たちは眠っていても、ユダは近づいていた。 

113 イエズスは、いよいよさし迫った大事件のために、
柔和な、この上もないやさしさを込めて使徒たちを呼び起こした。
彼は、捕らえられようとしていたのだ。  

114 私の耳に入ったのは、「さあ、立って行こう!時が来た!」
というイエズスの御声であった。 

115 使徒たちは、イエズスの御声に、はっとして目を覚ました。 

116 彼らは、これから起きようとしていることを見る必要があったのだ。
はかり知れない愛と、また、はかり知れない忘恩との出会いを!  

「ユダはすぐイエズスに近寄り、『先生、こんばんは』と言って接吻した」(マタイ26・49)  

117 騒ぐ群衆の声と武器の音が聞こえる。 

118 やがて目に映ってきたのは、武装した軍隊!
彼らの後ろから、その軍隊より、もっと大勢の人々が、
棒を高く振り上げて、ついて来る。
その人たちは、非常に憤っていたが、それは地獄の憤りであった。  

119 イエズスは、血にまみれ、深く悲しみにしょげきったみ姿で、
近づいてくる軍団と裏切り者を待っておられる。
近づいて来た裏切り者に話しかけるイエズスのみ声が聞こえる。
それは、非常にやさしく、こう言っておられた。
「友よ、何をしにきましたか。
あなたは口づけで、あなたの主を敵に渡そうとするのですか?
私があなたに、どんな悪いことをしたというのですか?
私は、あなたを愛してあげただけではありませんか。
あなたは、私の愛にこんな風に答えるのですか?」と。
しかし、ユダは、かまわず、すぐ近づいて、
とうとうイエズスに接吻してしまった。  

121 私は、そのユダの口づけを自分の顔に受けていた。
なんと残酷な口づけ!
でも、愛に満ちたイエズスの御唇からは、やさしい声が呼んでいた。
「友よ」と。
ああ、神にましますイエズスの御心の、なんというやさしさ。
ああ、はかり知れない愛よ!  

122 そのとき、私は非常に鋭い短刀のようなものが
イエズスの尊い御心を貫いているのを見てしまった。
その短刀に突き刺されたまま、イエズスは、乱暴に捕らえられたが、
その短刀は、もう取り去られることはなかった。  

123 短刀に刺された御心の大きく開いた傷口から
愛が、輝く光となって散って行った。 

124 私は、世界が続く限り、いく度となく、繰り返されるだろうと思われる
あの口づけ、あの忘恩、あの裏切りを見て、心を痛めた。  

「私を探すのなら、私はここにいる」  

125 「だれを探すのか?私だ、ここにいる」。  

126 兵士たちが地面に倒れ、
イエズスの御声が聞こえた。 
「私だと、すでに言った、
私を探すのなら、ここにいる」。  

127 兵士たちは、イエズスに手をかけようと近づいてくる。
これを見て、ペトロは、刀を抜いて、
その一人の耳を切り落とした。  

128 それは一つの合図となってしまった。
兵士たちは、それぞれ刀を抜きはなって戦いはじめようとし、
大きな戦いが起ころうとしていた。
しかし、イエズスは、その御まなざしで、
それから、御手をあげてみんなをなだめるのだった。
こうして危なく見えた戦いの兆しが、治まったのである。 

129 イエズスが切り落とされた耳を拾って、
あの兵士につけてやっておられるのが見えた。  

130 イエズスは、奇跡をおこなったのだ、
もう傷跡は全然残っていなかった。
 イエズスは、この奇跡を、どれほどデリケートな愛をもって行われたことだろう!  

131 イエズスは、これほどやさしく、ペトロの犯した悪を癒されたのだ。
そして、同じやさしさで、悪人の手に渡され、縛られるのをお許しになったのだ。
ああ、もし私に、ご自分を侮辱するすべての人にイエズスが、
どれほどのやさしさと柔和、かぎりない愛をお注ぎになるかが言い表せたら、
みんなは、地上でイエズスに比べうるものは何一つないと思うだろうに!  

とらわれから死の宣告まで 

「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く」(詩編21・17)  

1 武器を持った兵士たちや、
棒を持った男たちに囲まれながら、
イエズスは、オリーブの園を出て行かれた。  

2 彼らの間を手を縛り上げられて歩いて行かれるイエズスを見て、
私は驚いた。あまりにも残酷なとり扱いを受けておられたからだ!  

3 ものすごい力で蹴飛ばされたイエズスは、
身をかばうすべもなく、その尊い口が、
道にあった石に激突して、唇が切れた。
たいへんな傷である!  

4 あれほどひどく打たれたイエズスの御心が、
私の胸の中で、嵐のような動悸を打つのを感じた。
苦しみと疲れで、今にも御命が消えるのではないかと、
危ぶまれるほどだった。  

5 オリーブ山の次にある坂をのぼって行ったとき
私たちはどれほど疲れていたことだろう!  

6 私は、いく度となく倒れるのに、
だれも助けるものはなく、
いつも、自分で立ち上がって、
この坂を上って行かねばならなかった。  

7 まったくいやらしい人たちが、
情け容赦もなくひどい仕打ちをする。
でも、私は我慢した。  

8 まるでのどが締め付けられ、
唇を糊(のり)で貼り付けて閉じたかのような感じだ、
私は唖(おし)になったわけでもないのに、口が開かなかった。※  

※「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように・毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」(イザヤ53・7) 

9 こんなに惨めに、悲しい様子で歩かれたその間、
イエズスは、一言もお話にならなかった。
しかし、その御心は、絶えず話続けておられた。
御心は、私にとってまるで開かれた愛の本のようであったが、
私は、その本を読めなかった、ただ理解していた。
なぜなら、私の師にましますイエズスが、
そのとき、ご自分の限りない愛の広さを、
すべて理解させてくださったからである。 

「そばにいた下役の一人が、イエズスを平手で打った」(ヨハネ18・22)   

10 兵士たちは、私たちを大祭司の面前に引いて行った。  

11 私は、服が皮膚に張り付いているのを感じた。
出血した血が、もう固まっていたのだ。
アンナスのあの大広間が見える。
イエズスの後ろに、武器や棒を手にした人々が押し寄せ、
ひしめいているのも見える。※ 

※アンナスは、その年の大祭司であった。カイアファの義父にあたる人だ。本当は、もう彼はこのとき、大祭司の職を退いていたのだが、まだその称号をもっていて、飛ぶ鳥を落とすほどの権力があった。 

12 さっきと同じあの残酷な平手打ちの音が聞こえた。 

13 あえてイエズスに平手打ちをくわせた
この残酷な忘恩者を、私は見てしまった。 
その表情を見れば、一目でどれほどの恨みを込めて
イエズスを打ったのかが分かる。
あの平手打ちの残酷な音が、私の心の中に響いた。
彼はやせ型で、背が高く、うす黒いその顔は、ひどく醜かった。 

14 そのときの様子と言ったら、
まるでこの男が世にもすばらしい手柄をたてたかのような感じだった。
たくさんの人たちは、あざ笑いながら、手を打って、やんやとはやし立てていた。 

15 だが、イエズスは、この侮辱を、
この上もない落ち着きと柔和さの内に、
お受けになっていた。 

16 ああ、イエズスは、なんとご自分を小さくしてしまわれたことだろう。
そのとき、どれほど辱められていたかは、
口にすることさえできないほどだった。
一方、アンナスの態度は、これとまったく対照的だった。
反り返った彼の姿は、傲慢さのあまりに、
取り囲む人々から、まるで拝まれているかのように見えた。  

17 でも、頬に受けた痛みは、
心に受けた痛みに比べるなら、
問題にならないほどだった。 
「おお、私の神よ、あなたの痛みを、
人々があなたに与えているその酷い痛みを、
世に示してあげられたら!」  

「人々はイエズスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った」(ルカ22・54) 

18 まだ手は縛られたままであった。
すっかり弱り切っているというのに、またもう一つの階段をのぼる。
力尽きて動けなくなれば、棒にみまわれ、足で蹴飛ばされるのだ。
けっして休むことなく登り続けねばならない。
それにしても、私はもう顔中吐きかけられた痰とつばでいっぱいだった!  

19 たき火をしている所があった。
そのまわりを人々が取り囲んで座っている。
その人たちの中にペトロが座っているのを私は見た。 

20 私が連れて行かれたのは、きびしい表情をした人たちの前であった。
それは、性格のよこしまな人たちで、
まるで王様のように、いばりくさって席についていた。  

21 無罪の子羊であるイエズスに
死刑を宣告するあの成文は、完成していないが、
これらの傲慢な権力者(カイアファ)は、
悪魔的な憤りに燃え上がっていて、
私が見ているうちに、服を上から下まで引き裂いてしまった。※  

※ユダヤ人は、神に対する冒涜をつぐなうために服を引き裂くのを義務だと考えていたのである。イエズスが、はっきりと、ご自分を救い主であり、神の御子であると宣言されたので、この上もない冒涜がなされたと考えて、こうしたのである。  

22 司祭長たちの、はてしない傲慢心と、
偽りのとりつくろった威厳を感じた。
それなのに、ああ、なんということ、
天地万物の創り主であるイエズスは、
この人々の中で、もっとも低い者となっておられるのだ!
それを見た私は、耐えられないほど、辱められた感じだった。  

23 私の愛するイエズスになされた残酷な仕打ちが、身に染みるほど感じられた。
イエズスは、もしご自分のうちに神の命がなかったら、
死なないでいて、再び牢につながれることはありえなかったのだと、私に理解させられた。※1
私を最高度に、もうこれ以上はないというほど混乱させることがあった。
なんと私自身があれほどイエズスに残虐の限りを尽くしている悪人どもの中にいるではないか。 ※2 

※1 総督に裁判してもらうためにイエズスを引いて行くには、夜明けまでまだ時間があった。それで彼らは、イエズスをある所に連れて行った。その場所は、牢獄であったとアレキサンドリーナは言っている。  

※2 ご受難のときも、他のときと同様、世の初めから世の終わりまで、すべてのことがキリストに明らかになったのである。それで、もちろん、私たちのことも、私たちの犯した罪と共にイエズスの面前に映し出されたのであった。  

私の子らよ、私がここにいるのは、愛のためだけである。  

24 私は、イエズスを牢獄まで迎えに行くのを自分の魂のうちに感じた。  

25 イエズスは、もうすっかり顔の形がくずれてしまったかと
思われるような様子をして、
死体でもあるかのように冷たく凍えておられた。 

26 寒さはこの上もなく、
それに、おびただしい出血のあとなので、
御力も弱り果てて、ふるえていた。  

27 私は、イエズスのすべてを感じた。
その御悲しみも、力が弱り果て、
全身びっしょりと汗にまみれてしまったことも。  

28 イエズスのその苦しみ、その悩みを
我が身に合わせている私の力も、
やがて完全につきてしまった。  

29 イエズスは、牢のなかでさえも、御手を縛られたままだった。  

30 なんとも言えない悲しげな御声で、イエズスは私に仰せられた。 
「私の娘よ、ごらん。
あの人々は、私を捕らえただけで、まだ足りなかったのですよ。
だからこうして、私の手を縛ったままです。
ああ、人間の忘恩は、なんと恐ろしいものでしょう! 」  

31 それから、ひどい苦しみのうちに、こう言い添えられるのであった。
「子らよ、私の子らよ、あなたたちの父である私をどうしてこんなふうに扱うのです?
私がここにいるのは、あなたたちへの愛のためだけだったではありませんか?」と。  

32 まるで犯罪者ででもあるかのように、
手を縛られたイエズスを見たあのとき、
どれほど、私の心が頑なであったとしても、
それは、私にとって、耐え難い苦痛であった。※  

※アレキサンドリーナが、自ら自分を「かたい心」の人と呼んでいるが、それは、どんなに彼女がイエズスを愛していたとしても、イエズスがお示しになったあの限りない愛と比べるなら、自分が限りなく不足していたものだと思わせるからである。それにアレキサンドリーナは、自分を世界そのものとして感じているから、この点からすると、イエズスに対して自分は「頑なな者」でしか思っているのである。  

33 私の心のなかでイエズスの御声が響いた。 
「私の娘よ、私が捕らえられて、手をこんなに縛られているのは、
あなたへの愛のためです。
あなたのためと、私はあえて言いました。
それは、私がすべての人々の愛のためにしたことを、
私は、あなた個人のためにもしてあげたからです。
どうか、私の受難のとき、私の側にいてください」。  

「主よ、私の心をあなたの牢に、でも、ただ愛だけの牢だけでありますように」  

34 イエズスは孤独だった。
慰めてくれる人も、傷の手当てをしてくれる人も、
ほんのかすかな愛情を見せてくれるものさえも、いなかった。  

35 それを見ている私は、苦しくてたまらなかった。
言いたいことがたくさんあっても、なにも言えなかった。
それどころか、慰めることも、愛を示すことすらできなかった。 

36 あわれな私の心は、イエズスの御足のもとに身を投げ出して、
はずかしめられるために、踏まれたいと望んでいた。
御足を抱いて愛で暖めてあげたかったのに、
愛が足りなかった。  

37 イエズスは、えもいわれないやさしい表情をうかべて
私にお側にとどまるようにと招きながら仰せられた。
「ああ、私の娘よ、ただひたすら、私の愛にのみ捕らわれた娘よ、
私と共にとどまってください。
私が、自分を捕らえさせたのは、あなたを愛するからです。
そうです、この愛のために、私はまだ手も縛られたままです」。 

38 イエズスは、今でも聖櫃の中に、
愛のために結び付けられたかのようだ。
地上には、他に住み家が今はないのだから。  

39 私の心は、あの牢獄から、
世界中のすべての聖櫃の中に飛び込んで行った。
それは、私の心が、決して解くことのできない絆で
御心に結ばれていたからだった。  

40 私は愛にかられ、イエズスを抱きしめて言った。
「私のイエズスよ、私の心に来て、
この心をあなたの牢にしてください。
でも、愛だけの牢でありますように。
私があなたを侮辱するなんて、
どうか、そんなことをお許しになりませんように。
もし、だれかあなたを侮辱するようなことがあっても、
私にそのようなことを承諾させないでください」と。  

41 私は、イエズスとの一致を感じていた。 

42 イエズスの御手にかけられた同じ鎖が、
私の手も縛っているのを感じた。 

43 私の髪の毛が血まみれで、
服も血に染まって皮膚に張り付いているのが感じられた。 

44 私の体もすっかり傷に覆われ、
そのうえ疲れ果てているのを感じた。  

45 悲しみのあまり目はふさがれ、
唇もかたく閉じられたままだった。 

46 私のまわりでは、みんなが眠っているので、
私は、どうしようもないほど寂しく感じた。 

47 私があれほど愛している人たちまで
私を打ち捨ててしまったと考えて、
私は、非常に苦しんでいた。 
「先生、私はどんなことが起きようと、
決してあなたを捨てません!」
と言ったのに、あの自身に満ちた断言は、
今は、どこに消え去ったのだろうか?  

48 沈黙は深く、ありとあらゆるものに闇が広がっていて、
心には、ただ苦しみだけが響いていた。  

49 私は、誰かがむせび泣くのを感じていた。
それは、私のこの限りない苦しみを直感したからだった。
この苦しみは、御母の愛だったのだ。
私も、沈黙のうちに、この愛に一致した。 

イエズスは、死にに行かれるが、彼は、命そのものである  

50 深い眠りから、私はふと目覚めたという感じだった。  

51 私の目にすべての責め具が映ってくる。
十字架、いばらの冠、鞭打ち、槍、そして、金槌や釘までも見えた。 

52 カルワリオの山が見え、その頂上に十字架を見たが、
まだだれもその上に釘づけられてはいなかった。 

53 ああ、なんという恐ろしい光景!  

54 死!死! 
私は、死にに行くのである! 
だが、死にに行く私は、命そのものだった。 

55 御母の悲しい御姿が私の前に立っていた。
私を支えておられるように見えた。
私の心に、その御姿が刻み込まれると、
たちまち勇気がわいた。 

56 私は、あらゆる苦しみの中に、自ら飛び込んで行った。  

「夜が明けると、イエズスを最高法院に連れ出した」(ルカ22・66)  

57 人々が、牢に私を迎えに来た。 

58 戸が開かれて、私は自分が引き出されてゆくのを感じた。 

59 私を待っているおびただしい大群衆が見えた。
ああ、なんという屈辱的な嘲笑だろう。
私には、それがはっきりと聞こえた。  

60 私の魂の苦しみは、大変なものだった。
言葉には、正確に言い表せないが、はっきりと感じた。  

61 牢獄の階段を疲れ果てておりた私は、
やっと下までたどり着いたとき、
何かにつまずいて倒れ、
もう起き上がる力はなかった。  

62 役人が私の上に飛び掛かってきた。
彼らは、地獄的な憤りに燃えながら、
手のひら打ちをくわせるやら、
いやというほど、蹴飛ばすのだった。  

63 大きな階段を行くと、すぐ裁判官たちの前に引き出された。
無限に偉大なイエズスが、
彼らの前でなんと小さく見えることだろう、
まるで虫けらみたいに扱われている。
見ている私の胸は、張り裂けんばかりだった。
それにしても、なんという対照的な光景だろう!
本当を言えば、彼ら(衆議所の議員たち)こそ、無に過ぎないのに、
傲慢心と虚栄心の塊みたいに、反り返っていた。
威厳を見せようとして、いかにも、もったいぶっているが、
本当は、なんの権利もなかった。
まことの唯一の権威者が、こんなに低くなっているときに、
無でしかない人々が傲慢さのあまりに、
こんなに高くなっているとは!(ああ、何という矛盾!)  

「ペトロは、再び打ち消した。するとすぐ、鶏が鳴いた」(ヨハネ18・27)   

64 イエズスの反対者たちが集まって、
たき火をしているのを私は見た。
そのなかの、一人の女は、どうも、うさんくさいと思ったが、
事実、彼女は、いかにもあまのじゃくで、
それに、挑発的な悪い癖があったのである。
それでその女は、ある意味で、みんなの伝令みたいな役目を果たしていた。※  

※ペトロが下の中庭にいたとき、大祭司に仕える女中の一人が来て、 ペトロが火にあたっているのを目にすると、じっと見つめて言った。「あなたも、あのナザレのイエズスと一緒にいた。」 (マルコ14・66、67)
 

65 少し離れた所から、一人の男が、恐怖に震えながら、
臆病そうに近づいてきた。
ペトロだった。 

66 人々は、この男を、決して見逃さない。
さっそく質問攻めにしていたが、
彼らの目は意地悪く合図しあっていた。 

67 さっきの女も、その一人であったが、
その顔には、まるで刑事のようなずるそうな表情が見られた。 

68 私は、ペトロが否んでいるのを見た。
でも、それは臆病のためだけであることが、感じで分かった。  

69 ああ、鶏が鳴いている。
その声は、私の魂の中で響いた。
すると、たちまちペトロは、外に出て行ったが、泣くためだった。
彼の涙が、二すじの小川のように、私の心の中に流れていた。  

70 ペトロのあの痛悔は、どれほど深かったことだろう。 

71 私も、あれほど自分の罪を痛悔できたらよいのにと思った。  

72 鶏の鳴き声は、私の心の中に、二、三回響いていた。 
イエズスは、また黙ったまま、ひどい苦しみを耐えておられた。  

73 私がそのとき感じていたのは、
すべての人に対するイエズスのやさしい愛と、
その無限のお苦しみであった。
罪なき子羊の御心に、
ああ、どれほどの深い悲しみと苦味が、
溢れていたことだろう!  

「人々は、イエズスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」(ヨハネ18・28)  


74 私の魂は裁判を受けに引かれて行くイエズスに付いて行った。 ※ 

※衆議所でいくら死刑の宣告があったとしても、ローマの権力がそれを承認しないなら、無効となってしまう。そのため、当時のローマ帝国の代理者であった総督ポンシオ・ピラトにその承認を受けに行くのである。 

75 私の心と魂がイエズスについて、
あの裁判からこの裁判へと進む道すがら、
憎しみ、ざん言、侮辱、軽蔑をあびせる叫び声が、
嵐のようにふってきた。  

76 牢から出たときは、すでに暗かったが、進んで行く道中も、ずっと暗闇だった。 

77 きつく縛られた手より、もっと心臓のほうが圧迫を感じていた。
もう呼吸が止まるのではないかとさえ思われた。 

78 この裏切られた苦しみと、
そのために起きてきた他のすべての苦しみが、
私をさいなんだ。
どうしたというのだろう、
それほどひどい扱いを受け、
あの侮辱に満ちたばか騒ぎに囲まれているというのに、
私のこの心は、狂わんばかりの愛がうずまいていた。
あの裏切り者に対してさえ、
言葉に尽くせないほどの愛情を感じたのだ。
ああ、もし、彼が私のこの心に、
戻ってきてくれるのに承知してくれさえしたら!
ただ、私と和睦さえしてくれたなら!  

79 心がこうささやいていた。
「私は、あなたたちの霊魂に渇いている。
この霊魂は、どうしても欲しい」と。  

80 権力者たちが私に様々な質問をあびせかける。
彼らの傲慢が、自分たちは何をやってもいいのだと、
彼らに思い込ませていた。
それにしても、彼らの偉大さの前で、
私は、なんと小さくなっていたことだろう!  

「イエズスをヘロデのもとに送った」(ルカ23・7)  

81 私は、ヘロデ王※の宮殿へ、
イエズスと一緒について行ったとき、
なんとも言いようのない嫌悪を感じた。  

※ガリラヤの分国王ヘロデ・アンティパスのことである。 

82 私がそこで直面したのは、
彼のすべてを占める悪意と、
偽りに満ちたその傲慢心、
うぬぼれと、むなしいその権力であった。 

83 私はヘロデたち※のどんな悪意もみな見抜くことができた。  

※”ヘロデたち”と複数形にしているのは、すべての時代のヘロデ型の人を示すためである。  

84 古いマントを着せられ、※
侮辱と軽蔑のあの騒ぎの中で、
私は、目を伏せて、一言も言わなかった。  

※「ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエズスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した」(ルカ23・11)。  

85 キチガイ扱いをされるとは、
ああ、なんと苦しかったことだろう!
でも、この場合は、愛のキチガイ、
人々の霊魂を思うあまりのキチガイだった。  

86 私は、ピラトのもとに返された。 

87 自分こそ権力者だとうぬぼれている人たちの、
なんとも言いようのない傲慢さを、私は感じた。
それとまったく正反対に、イエズスは、
この上もなくへりくだり、ご自分を卑しくしておられた。  

 「ピラトはイエズスを捕らえ、鞭で打たせた」(ヨハネ19・1)  

88 鞭打つ仕置きの場所に、私は連れて行かれた。  

89 そこで私は、イエズスがどれほど乱暴に腰の辺りまで裸にされるのを見た。  

90 その後で、兵卒たちは、鉄の大きな鎖を持って来て、
イエズスを柱に縛り上げた。  

91 私は、そのとき、自分もイエズスと一緒にひざまずいて
柱に縛られるのを感じた。 
鞭が雨のように私の上にふりかかってくる。
私の肉が小さな破片となって、
血のしずくの雨と混ざり合って、飛び散った。
そのため、まわりの地面だけではなく、
取り囲む人々の服まで赤く染めてしまった。  

92 鉄の小さな玉と、これに似た鞭で、
私の体は、びしびしと音を立てて引き裂かれていく。 

93 たちまち私の体は、肩もわき腹も、胸も皮膚が裂けて、
肉があらわになった感じがした。
まったく、体中血だらけになるほどの大きな傷ができていた。 

94 力尽き果てて私は、どっと柱の足元に倒れ、伏してしまった。
イエズスも、同じように苦しんでおられるのを、私は心の中で見ていた。 

95 私が感じたのは、言い尽くせない愛のまなざしで、
御父を仰ぐイエズスの御姿だった。  

96 イエズスの御頭が胸まで垂れ、
目を閉じたまま息が絶えようとしておられるのを、私は感じた。
そして、この場面は、一度ならず、繰り返されたのである。 

「兵士たちは茨で冠を編んでイエズスの頭に載せた」(ヨハネ19・2)  

97 私は、イエズスのあの清い御頭に、
いばらの冠が、無理やりに、押し込まれるのを見た。
みるみるこの冠は、あふれ落ちる血潮で
尊いその御体を、すっかり湯あみさせてしまった。
私は、このなりゆきを見ていたのだが、
気がついてみると、見ていることは、なんと、私のうちに行われていたのだ。
私自身、イエズス同様に鞭打たれ、いばらの冠をかぶせられていた。  

98 大きな冑(かぶと)の形をしたあのいばらの冠が、
ものすごい力で私の頭にかぶせられるのを私は感じた。
なかには、もっと深くはめ込もうとして
棒でたたく者もでるしまつだった。  

99 その冠は、額だけで支えていたのではなかった。
頭のどんな部分にも、くまなく行き渡って、
私に耐えきれないほどの傷を負わせていたのだ。  

100 いばらに突き刺された私の頭から血が、
雨となって、したたり落ちた。 

101 顔を伝わって、あまりにも血が流れ落ちるので、
私は目がくらんでしまった。
そのうえ、体中の肉が引き裂かれているので、
身動きすらできなかった。  

102 王になぞらえるため、私は、ぼろ布を着せられ、
さらに侮辱を深刻にするため、手に葦の棒を持たされた。
私に対する残酷さは、その極みまでいった。
多くの人が新しい拷問を発見しようと、一生懸命頭を絞っていたのだ!  

※「茨で冠を編んで頭に載せ、また、右手に葦の棒を持たせて、その前にひざまずき、『ユダヤ人の王、万歳』と言って、侮辱した」(マタイ27・29)。  

「イエズスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、『見よ、この男だ』と言った」(ヨハネ19・5)  

103 その次に私が見たのは、イエズスが鞭打ちの後
階段を上って行くところだった。
上りながら、御血が激しくしたたり落ちて、階段を赤く染めていた。 

104 だれかが私の手をとって、ピラトの裁判所のバルコニーに連れて行った。  

105 ピラトをして、「見よ、この男だ」と言わせた、
あの時の いちばんみじめなイエズスの姿を、私はしていたのだ。 

106 それは、頭にいばらの冠がかぶせられ、
顔は血まみれ、体中傷だらけのひどい状態だったのである。
でも、群衆は、あわれむどころか、
口をそろえて、「十字架につけよ」と叫ぶばかりだった。
私は、それを見、その声を聞いた。  

107 「死ぬべきだ!死ぬべきだ!死刑だ!死刑だ!」
と群衆が音頭をとって叫ぶのを、私の耳は聞いた。
それは、まるで雷のとどろきのように大きな叫びとなった。
いやらしい、あれほど大きな群衆から、
私が死刑の宣告を要求されているのを聞くと、
ある人たちは、私にまた侮辱をあびせるのだった。  

108 ついに私は、死刑を宣告されたのである。 

109 私は、まもなくこの肩におろされようとする十字架を見た。  

救いの十字架  

110 多くの群衆にとって、それは、もうお祭りみたいなものだった。
みんながイエズスを見、その死刑の宣告を聞こうと、待ち焦がれていた。
そして、今その死刑の宣告を聞くと、彼らは大喜びするのだった。 

111 彼らの心の固さを感じて、私は驚いた。
イエズスが、あれほど無残に鞭打たれても、
いばらの冠をかぶせられても、
死刑にされたのを見ても、
彼らは、全然、あわれみを感じなかったのである。 

112 清浄潔白、みじんの罪もないイエズスは、
その人たちに対して一言も仰せにならない。
ただ黙って苦しんでおられた。 
そうだ、苦しみをみんな引き受けられておられた。
でも、それだけではなかった。 
尊い御心は、それよりも、もっと熱烈に愛しておられたのだ。 

113 イエズスを見る人々の目!目! 
あわれみの目、憎しみの目、いろいろの目があった。
しかし、イエズスの片方に御母マリアの姿が、
もう一つの片側に、ベロニカという女と他の何人かの姿が近づいて来た。 

114 私の魂は、あの偉大なカルワリオの山を、その上に立つ十字架を見た。
私は、その十字架につけられたはずであった。 
十字架は、天にまで届き、天を開かせ、輝かせていた。  

カルワリオにのぼる

 「イエズスは、自ら十字架を背負い、いわゆる”されこうべの場所”という所へ向かわれた」(ヨハネ19・17)  

1 私は十字架を受け取った。  

2 本当は、私が自分でそれを取ったのではなかった。
人々が私の肩にそれを押し付けたのだった。
私は、それを感じていた。  

3 十字架が私の肩にのせられたとき、
私は、その重みに潰されて、
その場にどっと倒れ、十字架の下敷きになった。 

4 ああ、土の中まで深く沈んでいく!
私には、そう感じられた。 

5 私は前に数回※十字架につけられた経験を思い出したが、
その時と同じように気絶させられるほどの重みを感じた。  

※ここでアレキサンドリーナは、第一の期間、すなわち、1938年10月3日から1942年3月27日までの間に受けた受難の苦しみを思い出している。  

6 体がつぶれてしまうほどの、この重荷を支えながら、
私は、どうして歩けようか?
私の足どりは、まるで土の中にひそむ土ミミズ同然であった。 

7 私が辿ったその道は、悩みに満ち、一筋の光さえ刺さなかった。
これほど気持ち悪い道があろうか!
耳に絶えず響くのは、人々の侮辱!あざけり騒ぐ声だけだった。 

8 その道には、全人類が群がっていた。
イエズスも私も、十字架をかついでいるというより、
それにすがりついているといった感じだった。
それで十字架は、絶えず転がるローラーみたいなものだった。 

9 私は、死人のようになって、カルワリオの坂を登っていった。
このとき、私は自分の死の上に全人類の死を運んでいたのである。
ああ、なんという恐ろしい重荷!  

10 私の背に私は、十字架だけを運んでいたのではなかった。
私がかついでいたのは、全世界だったのである。
私には、それがよく分かった。  

御母は、人々の間に道を開く  

11 人々の叫ぶ声が聞こえた。  

12 私の後ろから、叫んだり、あざ笑ったりする、大変な騒ぎがついてきた。
あわれみでなく、憎しみと侮辱の叫びが!  

13 ついてくる人々の性質がよく分かった。
ほんのわずかの人々を除けば、あとは皆、敵であった。
友人は、あわれみを感じていたが、
敵はあわれみも同情もなしに、私の体を残酷に鞭打っていた。  

14 軽蔑を満腹するまで楽しむかのような
あざ笑いが遠くで響くのを、私の心は感じた。 

15 イエズスと一緒に、二人の盗賊も、
それぞれ自分の十字架をかついで歩いていた。 

16 御母が涙にむせぶ御顔をベールで押さえながら、
イエズスを急いで探しておられるのを、私の魂は見た。  

17 「私のイエズスはどこ?」
御母は、人々の間を押し分けて、探しておられた。 

18 マリアの母心がどれほど苦しみ、
どれほど心配しながら探しておられるかを、
私の心は直感した。  

19 マリアの心は、恐ろしい苦しみのため、爆発せんばかりだったが、
その苦しみゆえに、イエズスの御心も、爆発せんばかりであった。  

20 本当を言えば、二人はまだ出会っていなかったが、
どれほど堅く一致し、
どれほどにがい苦しみを、共に苦しんでおられるかを、
私は感じていた。  

「民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエズスに従った」(ルカ23・27)  

21 道中のはじめにイエズスは倒れた。
そのために、顔とみ胸に大きな傷が口を開いた。 

22 弱り果てたイエズスの疲れも、
悲しみも、
御体の傷もみな、
私のうちに移ってきた。  

23 イエズスは、再びお倒れになったが、
私も一緒に倒れていた。 

24 こうして倒れると、そのたびに、
いばらの冠は、ますます深くくい込むので、
私の頭は、一つの大きな苦しみそのものに変わったといえるほどだった。
傷に覆われた御顔は、道のべの石を叩き、
そのたびに、石が真っ赤な血に染まっていた。  

25 血が流れていた、いや正確に言うなら、
流れているように感じたのだった。
唇から入ってくる血液のため、
私は、呼吸ができないほどむせて、
今にも、窒息せんばかりだった。  

26 十字架のあまりの重みに耐えかねて、
私は、体をかがめて歩くので、
背中の傷はますます大きく口を開いた。
低く、低く、身をかがめていたため、
私の目から血の涙があふれ、
地面にしたたるのを感じ、そして見た。 

27 何人かの婦人たちが付いてきたが、
私の恐ろしい苦しみを見て、泣いていた。
歩きながら私は、あわれみの眼差しを、彼女たちに注いでいた。 
そしてそのとき、私の心は、婦人たちにこう言っていた。
「私のために泣くことはない。
それより、あなたたち自身のために泣きなさい。
あなたたちの罪のためにも、泣きなさい。
その罪こそ、私の苦しみのもとだから」と。  

おのおの自分の十字架を背負って、ついて来るようにとイエズスはお招きになる  

28 イエズスは、十字架をにないながら、私の前を歩いておられたが、
慈しみのまなざしで私をごらんになり、
「私のためにあなたの十字架をかついでついておいで」
と私を招いておられた。 

29 人々の霊魂を引き寄せる、ああ、なんとやさしい、御まなざしよ!
私は、その招きを、もう否むことができない。
それにイエズスの御苦しみを見ていると、もうじっとしていられなかった。 

30 それで私は、自分の十字架をかたく抱きしめると、長い道を歩き始め、
私の頭を囲んでいるあのいばらの冠までも、熱烈に愛していた。 

31 私は、山の上まで、あの重い十字架と、殉教の道具※を
運んでいるような感じだった。
私は、底知れぬほどの深い愛をもって運び、
最大の宝のように強く、われとわが身に抱きしめ、
この上もなく大事にしていた
…これこそ、天国に入るための鍵だったのである!  

※釘や金槌をさす。  

32 私のになった十字架は非常に重かったが、
イエズスは、私を一人きりにしなかった。
ご自身、私の道連れとなって、
私が十字架をになうのを助けられた。

 愛に強いられて、登って行かれる  

33 私は十字架の重みに耐えかねて、いく度となく倒れた。 

34 顔を地面につけたままで※、縄を結わえられ、数メートルも引きずられた。
頬が大きく傷つき、私の顔をすりむいた道のべの石は、血まみれになっていた。  

※いく度も倒れたので、縄をかけて、引っ張ったが、これは、ある意味で、助けるためだった。 

35 あるときは、倒れても、疲れ果てていた私は、
どうしても立ち上がることができなかった。
すると、地獄からでも来たかのような恐ろしく乱暴な人が、
残酷に私を引きずるのだった。 

36 彼は、力いっぱいに私を後ろに引っ張った。 

37 そのために、腰と首にかかっていた縄が、
ぐんぐん体にくい入って、肉が切れるかと思うほどだった。 

38 私はまるで、玉だった。
ありとあらゆる苦しみの中を、
上から下へ、そして下から上へと、
転がされる玉だった。 
死刑執行人の遊び道具の玉だった! 
乱暴に、引っ張られては下に、
暴力で引き上げられては上へと上がって行った。
しかし、ほとんど愛が私を動かしていた。
そのときの私の原動力は、愛だったからである。 

39 私の目は、私が感じていた恐ろしい苦しみを見るのを拒んでいた。 

40 だから、私は、苦しみに対しては盲目になり、
ただ愛のみを見つめて歩いていた。 
私を歩かせ、勝利に導いてくれるのは、
ただ一つ、愛だけだったのだから。  

41 私は、ありとあらゆる苦しみの坂をのぼったが、
愛の限りを尽くしてのぼっていった、
私の命を与えるために。 

42 死刑執行人の暴力よりも、
私を引っ張る愛の力が強かった。
はるかに、はるかに強かった。 

御母にお会いになる 

43 御母が迎いに来られた。
御母は、つくづくと私を眺め、私もじっと御母を見つめた。
私たちの心は、同じ苦しみの中で、一つに溶け合った。  

44 ああ、私たちの目は、あのとき、どれほど語り合っていたことだろう!  

45 でも、それは、ほんのちょっとの間だけであった。
私たちは、乱暴に押されたり、引っ張られたりして、道を進まされた。 

46 心ゆくまで、御母を見る暇さえ与えられなかった。
人々が私を引っ張っていたからである。
しかし、私の心は、マリアにしっかりと結ばれて、離れない。
私は、休みなく、歩き続け、
マリアもまた私のまなざしに導かれて、歩いておられた。
それは、私のまなざしが、マリアの心と魂を貫いて、
引き寄せていたからだった。 

47 この十字架の道行きの間ずっと、
私は、御母との一致を失わなかった。
だから、私が引きずっていたのは、十字架だけではなかった。
マリアと、それから、マリアと共に、その苦しみも、引きずっていたのだ。 

48 私たちの心は、この苦しみのさなかにも決して離れない二本の電線のように、しっかりと結ばれていた。 

49 御母は、ずっと離れて、付いて来られるように見えたが、
本当は、私と一致していた。
私たちの心は、ただ唯一の愛に苦しみ、
私たちの涙には、同じ苦味、同じ苦しみ、同じ思いやりがあった。 

50 私たちの心は、たえず語りあっていたのだ。  

私を傷つけた地面に私は口づけした  

51 私は、何も言わずに歩いていたが、
私の心は血を流し、魂は泣いていた。  

52 私の上に恐ろしい山のように、
全人類がおしかぶさってきた。  

53 私は、愛を支えたいという望みに燃えているのに、
一歩一歩が、まるでこの世で一番硬い岩を掘りぬく感じだった。
私は、この岩を自分の血で、やわらかくしなければならなかったのだ。 

54 道の途中で、私は、ばったりと倒れたが、
そのとき私の体に降り注いだ鞭打ちは、恐ろしかった。  

55 片膝を立て、片膝を地面につけていた私は、
悪魔的な残酷さで体に結び付けられた縄を引っ張られたため、
ばったりと、うつ伏せに倒れてしまった。
そのとき、いばらが、さらに深く頭の中に入って、
傷は、ものすごいものとなり、骨が見えるまでになった。
私は、血にまみれて開いたままの唇で、
私を傷つけた地面に口づけをした。
そのとき、私の魂の目は、全人類を眺めるようになっていた。
ああ、私のまなざしは、どれほどのことを、物語り、
どれほどの招きを、していたことだろう!  

ベロニカの勇気ある態度  

56 全身、傷だらけになって、私は進んで行く。
目からも耳からも、血が地にしたたり落ちる。
私の頭は、血まみれのいばらだけになってしまった。
激しく、引っ張られる縄で、私の骨は、砕けてしまわんばかりだった!  

57 一人の人が、私に近づいて来た。
私の苦しみに同情し、愛にかられて、会いに来た。
言い尽くせない親切な深い愛をもって、
布で私の顔の汗や血やほこりを拭き取った。
そのとき、二人の心を親密な、深い深い友情の絆が結びつけた。
この女について、私が言いたいことを、どれほど褒めてあげたいかを、
誰にも、言い表すことができないほどだった。
彼女の、この英雄的な行いを、みんなが話すようにと、
私は、どれほど望んだことだろう!  

58 私の顔と、私の心の愛を、
–それは私の愛ではなかったが、※
拭き取ったその布に映されたのを、私は感じる。  

※アレキサンドリーナは、その愛が、自分の愛ではなく、自分の内に生きておられるイエズスの愛であると、はっきりさせる必要を感じている。  

59 ベロニカは、その布を最高の宝として胸に抱きしめたが、
事実、それは、宝の中の宝だった。 

60 あの写し絵こそ、唯一無二のもの、
世の終わりまで人々に仰ぎ見られることだろう!  

61 イエズスが彼女にお与えになったのは、
布に写した尊い面影だけだっただろうか? 
否、イエズスは、褒美として、
愛に燃えるご自分の御心までも、
お与えになったのである。 
ああ、イエズスは、どれほどの感謝をお示しになることだろう! 

62 イエズスから受けたその報いは、
なんとすばらしかったことだろう!  

63 ベロニカがイエズスを愛したように
私も、愛することができたら!  

あるときは倒れ、十字架の重みで気を失った  

64 私は倒れて、十字架の下敷きになった。
が、そのとき、十字架の片腕が胸に突き当たって、心臓を激しく打ち付けた。
しばらくの間私は気を失っていたので、
死刑執行人が、もう死んだのだろうかと、好奇心から私をのぞき込んだ。
でも、まだ生きていると分かると、
再び恐ろしい暴力で私を引きずって道のべの石に突き当てた。
そのために、いばらが新たに深く突き刺さって、血が泉のようにあふれ出た。
しかし、こんなときでさえ、私の心からあふれ出るのは、
この恐ろしい死刑執行人に対して、ただ愛とあわれみだけであった。
再び歩き出すと、死刑執行人たちは、私をせきたて、ひどく苛立ちながら、
一刻も早く私をカルワリオの頂上まで連れて行こうとした。
それは、自分たちの悪意を成就させるためだった。
イエズスは、私の心の中で、こうささやいておられた。
「どうして、私をこんなに傷つけるのですか?
私が死のうとしているのは、あなたたちを救うためなのに」。 

65 御母は、両手で胸をしめあげながら、苦しみに苦しんで、
イエズスのみ跡を辿っておられた。  

66 苦しい涙にくれて、付いて行くマリアと一緒に、
いく人かの婦人たちも歩いていく。  

67 イエズスは、まるで、後ろ向きに歩く人のようだった。 
たえず、振り返って、祝福された御母を見ておられたのだ。  

68 イエズスに近づくどころか、
お倒れになったとき、助け起こしてあげることさえもできないことは、
御母にとって、どんなに苦しかったことだろう! 
できることなら、マリアは、イエズスに口づけしてやって、
お顔をきれいに拭いてあげ、自分の涙で、その傷を洗って差し上げたかったのである。  

69 マリアのあとから、一人の婦人が歩いていた。
顔は、良く見えなかったが、その髪の毛は豊かに肩の上に波打っていた。※  

※マグダラのマリアらしい。  

「人々は、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエズスの後ろから運ばせた」(ルカ23・26)   

70 私は一歩ごとに息が絶えようとしていた。
ついに、また倒れた。
十字架が私の上にのしかかった。
人々は、あわれんだのではなく、
ただ(私が処刑される前に死ぬのではないかと)恐れて、
誰かに十字架を運ばせることにした。
運び手が決まった。
しかし、その男は、決して愛のためではなかったから、
命じられるまま、しぶしぶ十字架をかついで歩きだした。  

71 この助けは、自発的でなかったから、
私は、それによって、なんの慰めも得られなかった。  

72 それにしても、私の心は、あの男に、
はかり知れない愛を注いでいた。  

73 あの男が十字架をにない始めたのは、
もうすでにカルワリオ山の頂上が間近だったときからだった。
しかし、私は、ずっと自分でそれを運び続けたように感じた。 

74 私は、命のないもののように、
それでいて、まだ十字架をかついでいるかのように
歩いていたのだった。
私から流れ出る血が、
私を十字架に縛りつける
絆のようなものとなっていたからだ。  

75 唇は閉じていても、心は燃える愛を示そうと、
すべての人に話しかける感じだった。  

76 おお、私のこの心は、
道の途中で私を慰め、愛情を示してくれる人を、
どれほど愛したことか。
でも、それだけではなかった。
私をしいたげ、侮辱をあびせる人も
愛していたのだ。 

77 こうして私の心は、全世界を覆い尽くしているかのようだった。  

78 このはち切れんばかりの愛を、
どうして私の胸の中に、じっとおさめられようか!
心のこの愛は、私の全存在を燃やし尽くすかのように感じられた。  

心の中に私が感じていたあの燃えるような渇きは、私の歩く力となっていた  

79 天からの御命が、すでに屍のようになっていた私の体を支えた。※ 

※イエズスの人間性は、あれほどの恐ろしい受難に耐えることはできない。そこで天からの命である神としての御命が支えとなるのである。アレキサンドリーナも、その同じ経験をする。  

80 私の体は、腐り始めたライ病人の体よりひどい状態だった。
進みながら、私の心は、心配でならなかった。
人々の霊魂を救うために、どうしても勝利を得なければならなかった。
(私は、定められたあの死のときまで、なんとしてでも、頑張らねばならなかったからだ)。 

81 心の渇き、
それは、人々の霊魂に、その太陽を指し示し、
輝かせてあげるために死にたい、天国を開きたいという、
激しい熱望の渇きだった。 
そして、この渇きは、カルワリオの頂上が近づけば近づくほど、
命を与えるための、あの決定的な瞬間が近づけば近づくほど、
激しくまた、生き生きとしてきた。
ああ、耐え難いこの渇き、これはとても言い尽くすことができない。
しかも、この渇きは、私の渇きではなかったのだ。 ※ 

※P・リベルマン師は、その渇きのテーマでこう述べている。「イエズスは、渇いている人々を呼び寄せ、しかも、ご自身は、渇きにかられている。この二つの渇きの違いは、ここにある。すなわち、イエズスが呼び寄せようとする人々の渇きは、イエズスの恵みの泉から飲みたいという渇きであるのに対して、イエズスの渇きは、愛が満ち溢れるご自分の泉から人々に飲ませて、すべての人の魂を満たし、満足させてあげたいという渇きである」。  

82 死のうとしている私の唇は、
燃えんばかりに乾いていたが、
それ以上に心は、激しい渇きを感じていた。
私はあの苦味の杯を、
最後の一滴まで飲み干したいと、あこがれた。
すべての人に対する愛が燃えたぎっているので、
どんな苦しみもみな、引き受けたかった。
こうして私は、すべてを受けるために、
すべてを与えようとしていた。  

83 私が心の中に感じていた、あの燃える渇きは、
私の歩く力となっていた。 

イエズスのために死の山であっても、人類のために命の山  

84 命が、まさに絶えようとしているのにまだ頂上には、着いていなかった!  

85 山は、目の前にますます高くなっていくように見えた。  

86 雲にまで届くかと思われるほどだ。 

87 そうだ、あの山は、非常に高かったのだ。
この地上から天にまで届いていたのだから。
でも、私には、もう登ってゆく力がなかった。 

88 歩けば歩くほど私の力は弱り果て、
反対に山は、ますます高くそびえ、
困難と苦しみは、つのるばかり!  

89 道は、終わりに近づくにしたがって、いよいよ険しく、
そこには、もっと激しいもだえ、もっと大きな出血が、
そしてさらにつらい、見捨てと、もっとすごい苦しみが待ちかまえていた!  

90 肉がくずれ、筋肉が破裂せずには、もう一歩も進めないのを感じた。  

91 次にきたのは、吐血であった。
吐血は、弱り果てた私の力を、さらに吸い取って、
私を地にかがませた。  

92 目の前に次々と生じてくる苦しみは、
私の心臓を圧迫し、
このために私は、窒息して命を失いそうだった。 

93 ああ、この愛を誰が反対できようか!
愛は、私を、ますます強く十字架に結びつけていた。
愛はあらゆるものを超え、すべてのものに勝っていたのだ。  

94 狂うほどの愛を感じているうちに、頂上が迫ってきた。
この山こそ、私と、私の中に一緒に登ってこられたイエズスのために、
死の山だった。
でも、人類のためには、まさにそのとき、
命の山になろうとしていたのである。
苦しみは、愛と共に、いよいよ募ってきた!  

霊魂は苦しみの奥義を理解する  

95 私の生活はすべて、
キリストのご受難の苦しみの中に沈められていた。
でも、愛に燃える私の心は、天の御父に結ばれていた。
私が愛しているのは、御父、
人々の霊魂に愛を燃やすのも、御父のためだった。 

96 私が歩いていたのは、この世界ではなかった。
もっとすぐれた別の世界であった、いやそう感じられたのだ。
でも、同時に、地上にある※私の心は、一番悲しい、
そしてもっとも深い苦しみを感じていた。
これほどの苦しみに、私の心は、あまりにも小さすぎていた。  

※アレキサンドリーナは、同時に、天の生活と地上の生活をしていた。  

97 私の心は、愛していた。
私の魂は、あの天にまで届く山の頂、
十字架と、そこに釘付けられたイエズスを見ていた。
私は、どうしてもイエズスと一致しなければならなかった!※  

※「天的な次元であった十字架のこの木は、地上から天にまで高められた。すべてのものの土台、全宇宙の支え、全世界の礎(いしずえ)となったのである」。 

98 十字架は、すべてを照らすために、
私の胸のなかに入ってきた灯台の光のようであった。
それは、私を魅惑したので、
十字架を抱きしめ、自分のものにしようとして、歩き続けた。  

99 おお、そこには、太陽よりも輝く、
凱旋の十字架があったのだ!  

100 私には、いばらの道と血、
そして傷だらけのイエズスには、
十字架と苦しみと愛があった。  

101 私の魂は、あの大きな苦しみの中、あの苦しみの道中と、カルワリオ山の上で、
どれほどの奥義を見ていたことだろう。とても言い表すことができない!
神の知恵だけが示しうる、あれほどの奥義を深く感じ取るのに夜の暗闇※は、
少しも私を妨げることができなかった。  

※夜の暗闇、これは、光の不足ではなく、かえって神のまばゆい光を示している。そして、この光こそ、神秘生活の頂にたどり着いた霊魂にとって、その一番小さな欠点させも、焼き尽くす役目を持っているのである。 

102 その奥義は、あがないの御業の奥義であった。 

103 この知恵について、私は何も言えない。
ただ、この知恵と一致し、共に苦しみ、共に悶える必要を感じていた。  

「歩きなさい!私が助けてあげるから」  

104 私は、われとわが身を恥じつつ、悲しみながら、
カルワリオの道を進んで行った。
天の命を失ってはならない、道を開かねばならない、
という一念を貫くため、
私は、相変わらず、みじめなミミズだった。  

105 それにしても、あまりにも、残酷な苦しみが多かったので、
私は、もう耐えきれなくなった。
力も、尽き果てて、もうこれ以上は、というところまできていた。  

106 体が弱り果てていたばかりでなく、
魂までも、その力を全部失っていた。  

107 でも、そのとき、イエズスの尊い御心が、
もう苦しみもなく光栄に満ちて現れた。
尊いその御体のすべてからは、そして特に、開かれたその脇腹からは、
もっと豊かに、火の輝かしい光線が流れ出て、私を照らした。
そのとき、イエズスは、御手をあげて、指で天を指しながら、仰せられた。
「歩きなさい!私が助けてあげるから」と。 

108 私は、歩き続けた。
私の目から純粋な愛の露のようにあふれる涙が
イエズスとその十字架の上にこぼれ落ちた。
ふと、気が付くと、私は歩いていたが、十字架はになっていなかった。
私は、何も運んではいなかった。
私に代わって、別の誰かが、十字架を支えて、になっていたのだ。
そうだ、私の日ごとのキレネ人※は、
いや、私の一生涯を通じて、一瞬ごとのキレネ人は、
イエズスご自身だったのだ。  

※福音書にあるように、イエズスの十字架を途中からかつがされたのは、キレネ人だった(ルカ23・26参照)、そのために、ここでいう「キレネ人」という言葉は「十字架のにない手」、または、「代わって、十字架をになう人」という意味で使われている。 

109 私の心は、イエズスから離れなかった。
私は、イエズスだけに力を期待した。
私の目は、天国から離れることができない。 
私は、歩いていたが、目はいつも、そこに釘付けられていた。
天!天!私の苦しみの目的は、すべてそこにあった。
私の神に光栄と栄光を帰し、
霊魂を救い、御父のみ旨を身に受けて守るという、
この天の目的だけがあったのだ。  

110 十字架に祝福! 
この十字架を私に与えられたイエズスに祝福!  

愛は、必ず、すべてに勝つ  

111 イエズスに、純潔と愛の新しい世界を見つけて、差し上げたいという望みが、
私の心の中で、爆発しそうなほど、高鳴ってくるのを感じた。  

112 私は世界を引きずって歩くのに、大変な骨折りを感じたが、
それにしても、愛は、それに勝っていた。 

113 歩いているのは、私ではなかった。
私のうちにおいでになる、もう一つの御命が歩いていたのである。 
この御命は、様々な、苦味の道の中に新しい道を開いていたが、
他の道も私の血にうるおされて、やわらかくなっていた。 

114 まるで噴水でもあるかのように、
私の体は、血をふき出していた。
そして、私の歩くすべての道をうるおしていた。  

115 私は、カルワリオの道すがら血を流しているのは、自分だと思っていた。
ところが、本当は、イエズスの御血が私をうるおしていたのだ。
私を直接、その御心へ導く新しい道を
イエズスが自分で開いておられたのだった。
救いの道は、ただ一つ、唯一の道であった。  

116 私は、イエズスが私を連れて行かれるのを感じた。
そのイエズスは、旅人であった。
しかも、死刑宣告された人であった。
まったく、イエズスは、苦しみそのものであった。
でも、このご自分の苦しみを、イエズスは、私に移しておられたのだ。 

117 イエズスの御心に向かう道は開かれていて、
だれでも自由にその道を進むことができた。
その道は、岩を掘り起こし、岩でつくられているように見えた。
事実、岩から傑作を彫刻することができた。
でも、その前に岩は、イエズスの御血でうるおされる必要があったし、またうるおされていた。
しかし、まだそれでは足りなかった。命を与える必要があった。
イエズスのお望みは、まさにここにあったのだ!  

坂を登りつめたら、死ぬほどの疲れが!  

118 山の頂に近づいたとき、
私は、イエズスが、もう息たえだえになっておられるのを感じた。
事実、一歩も進めなかった。
イエズスは、ご自分の御足で歩かれたのは、わずかで、
ほとんど残酷に引っ張られて進んでおられた。
御目は、御血でふさがれて、もう見えないといえるほどだった。
その尊い御体は、すでに十字架につけられるより前に冷たくなっていた。 

119 この旅路も終わりに近づいた頃、
イエズスがお倒れになるのを、私は心の中に感じた。
イエズスは、懸命に立ち上がろうとしておられたが、できなかった。
服が邪魔になっていたし、それに何よりも完全に疲れ果てておられたのだ。
そこで死刑執行人たちが、くくりつけた縄を引っ張って、
残された数メートルを引きずった。 

120 私はイエズスが、助けを求めるかのように、
天を仰いでおられるのを、自分の心の中に見、そして感じた。  

121 イエズスの御目は、
世界に向かって、完全に閉じられていたか、
あるいは、ほとんど閉じられていても、
永遠の御父には、大きく開かれていた。  

122 イエズスが疲れ果てておられるのを感じていた私は、
登ろうとするのに、できなかった。
イエズスを助けようとするのに、
土にすぎない私には、それが不可能であった。  

123 坂を登りつめたら、死ぬほどの疲れが!  

124 イエズスを独りぼっちにすることは、
私にとって、この上もない苦しみだった。  

125 私は、いつ、どんなときも、イエズスのお側を離れないで、
イエズスと共に死にたいと思っていた。
その死がどれほど恐ろしいか、よく分かっていたのに。 

126 イエズスに対する愛によって、
私は、どんな嫌なことにも打ち勝ち、
耐え忍ぶことができた。  

127 この旅路は、なんと長かったことだろう! 
それは、ただの数時間のことではなかった。
何年も、何年もの長い旅路だったのである。  

カルワリオの頂に

 わが身を死にゆだねる  

1 やっとカルワリオに着いたとき、
力も尽き果て、ほとんど死んだようになっていた。
それに、心の中には、はかり知れないほどの重荷があった。  

2 十字架を植えるためにすでに掘られていた穴のそばで、
私は、うつ伏せに倒れた。  

3 無数の野獣が私の上に飛び掛かってくるように感じられたとき、
兵士たちが怒り狂って、私を押さえつけていた。
私の心は、圧迫を感じ、悩みのあまりに動悸が激しく、
もうすぐ息が絶えるのではないかと思われた。 

4 私は、どれほど深刻なさびしさを感じていたことだろう! 
それは、愛の寂しさだった。
ありとあらゆるものが私を恐れさせた。
死、死、神から捨てられる死は、おお、なんと恐ろしいこと! 
私は、膝をついたまま天の御父を仰いだ。
これは、”すべてを引き受けます”という承諾の印だった。
私は死に身をゆだねようとして、目を伏せて自分を眺めた。
私は、最も親密な方法で、すべてを心に抱きしめていたのである。
 

5 反感と嫌悪を起こさせるすべてのものを、私は抱きしめた。  

服をはがされる  

6 人々は、私の首と腰にかけていた縄を外したが、
縄は肉にくい込んで、血まみれになっていたので、
その苦しみは恐ろしかった。
乱暴に縄がとられたので、傷が裂け、大きく口を開いた。 

7 服が荒々しく剥ぎ取られたときは、
服と一緒に、肉の断片が剥ぎ取られ、その痛みは、恐ろしかった!  

8 血まみれの私は、血にふさがれて目も開けられなかったが、
はずかしさのあまり、私は自分でも目を閉じたかった。
私は、みんなの前で裸にされようとしていたのだ。 

9 私が立っていられたのは、まったく神の恵み以外の何でもなかった。
これは、正確に言うなら、私ではなく、イエズスのことであった。※  

※イエズスが、あれほど恐ろしい苦しみを耐え忍ぶことができたのは、ご自分のうちにあるその神性によって支えられていたからだった。  

10 御母が、ご自分のマントで、
どれほど私のうちにおられるイエズスを、
覆いたいと望んでおられるかを私は感じた。 

11 イエズスの恥ずかしさが、私に生々しく伝わってきた。
そのお気持ちがどれほどのことであったかは、
とても口に出して言えないほどだった。 

12 裸にされたイエズスの恥ずかしさは、
とても比べるもののないほどだったに違いない。※  

※イエズスからお服が剥ぎ取られたことは、すべてのものからの離脱を意味していた。この離脱が御父へ生贄を捧げるための完全な準備となったのである。アレキサンドリーナは、女性の羞恥心からイエズスのこの辱めを、激しく感じて、こう書いている。 

13 全身がわなわなと震え、顔は火のようにほてった。 

14 カルワリオ山が大勢の人々のあざ笑う声に満ち満ちていた。  

15 イエズスは、ときどき御目を天に上げては、すぐ伏せておられた。
それは、御心の中で、もっと深くこの苦しみを味わうためだった。 

「彼らは、私の手足を突き刺した」(詩編21・17)  

16 兵士たちは、私を十字架の上に横たえた。 

17 むしろ、私が自分でみずから十字架の木の上に横たわり、
釘付けられるために、すすんで手と足を伸ばす感じだった。
それは、十字架によってなしとげられる、
あがないの御業への、永遠の抱擁とも言うべきものだった。 

18 イエズスの御体は、私の体の中にあり、その御心は、私の心の中にあった。
それで、私たちは、一つの体となって、一緒に苦しみを受けていた。
十字架につけられる、それは、なんと恐ろしいことだったか!
十字架に前もって釘打ちの印がつけられていたが、そこまで届かなかった。
そこで、彼らは、恐ろしい力で届かせようとして、私の腕と足を引っ張った。
まるで、体から、もぎ取ってしまうかと思われる感じだった。  

19 ああ、その瞬間、助けを呼び求める、どれほどの叫びが、
私の中から永遠の御父に向かってあげられたことだろう!
「御父よ、私を憐れんで!」と、
どれほど熱烈なまなざしで、乞い求めていたことだろう!  

20 兵卒は、残酷に釘打つ!
その顔は表情一つ動かさない。
まるで恐ろしい残酷さそのものだったのを、私は見た。  

21 彼が、金槌を高く振り上げて、
ありったけの力で釘を打っているのを、私は見た!  

22 金槌の音は、私の胸の中に恐ろしい響きをたてた。
私は、手首と足を突き刺されたかのように感じ、
そこに傷が口を開いていた。※  

※アレキサンドリーナは、神秘的な聖痕を受けて、非常に苦しんだ。  

23 釘の傷口から血が噴水のようにふき出すのを、私は感じた。 

24 そのとき、もっと残酷な、もっとひどい苦しみのもう一つの釘が、
私の心を突き刺すのを感じた。  

金槌の音は遠くまで響き渡るのに、人の心は少しも同情を感じない  

25 傷が口を開けたとき、苦しみは、大変なものとなった。 

26 私は、まるで釘が私のすべての神経を貫いたように感じた。  

27 手と足だけではなかった。
胸もみんな裂かれた感じだった。
胸のなかは、もう何も残っていないかのよう、
なにもかもが、みんな、空っぽになっていた。  

28 もし、あのとき、一つの大きな奇跡が行われたのでなかったら、
たしかに、私は、その場で息が絶えたはずだった。  

29 兵士たちは、抜けないように、
打ち込んだ釘の先を曲げようとして、十字架を裏返した。
土に激突した私の顔は、ひどい傷を受け、唇から血が吹き出した。  

30 釘の先を曲げようとして、反対側から金槌で打ち込むので、
釘がずれた、おお、そのときの痛みは!  

31 傷の痛みも、兵士たちの猛々しい怒りも、みんな私の心に移ってきた。
彼らの怒りは、まるで私の心を打ち砕き、粉々に噛み裂こうとするかのように感じられた。 

32 冒涜の言葉を吐き出して、私を呪う人々を、私は見た。  

33 私のカルワリオ!おお、私のカルワリオ! 

34 それにしても、傷を受けたのは、私ではなかった。イエズスだった。
私は、このことを、どうやって表現してよいか分からない。 

35 釘づけるあの金槌の音は、あのとき、カルワリオをこえて、
世界中に響いていったように感じられた。 

36 それにしても、ああ、なんということだろう!
これほど遠く響く金槌の強烈な音を聞いたのに、
イエズスのあれほどの苦しみを見たのに、
人々は同情を感じなかったのだ!  

「彼らは、イエズスを十字架につけた。また、イエズスをまん中にして、他の二人のものを、彼と一緒に、その両側につけた」(ヨハネ19・18)  

37 私は、十字架に釘付けられて、高くあげられた。 

38 人々が、十字架を、ずしんと、穴の中に落としたときのあの苦しみは!
私の体中の傷が、うめき声をたてた。
私は、まるで井戸のなかにでも落ちたかのように感じた。 

39 どしん!どしん!と十字架をつきかためるたびに、
いばらがますます傷を大きくしたので、
新しい血があふれ出し、私の顔を洗うかのように濡らして流れた。  

40 棘だらけになった私の体は、まるで、ハリネズミであった。
すべてが苦しみ、そして、すべてが血だった。  

41 十字架にあげられてから、私は、天に向かって
「助けて!ああ、助けてください!」とずっと叫び続けていた。  

42 イエズスの苦しみに、これほど親密に釘付けられてしまったので、
もはや、イエズスから私を離しうるものは何一つとしてなかった。  

43 イエズスの両側には、二人の盗賊が十字架につけられていたが、
彼らの苦しみとその十字架は、さらに私の大きな重荷となった。
私のうちにおられたイエズスの十字架を、
さらにひどいものにしていたからだった。私はそれを感じていた。
イエズスの御心から、この二人の盗賊に向かって、
同じ愛と同じ恵みが注がれるのを、私は感じた。
一人は、それを受け入れ、もう一人は拒絶していた。 

「イエズスの十字架のかたわらには、その母と…愛する弟子とが立っていた」(ヨハネ19・25、26)  

44 激しい悲しみにとらわれて、愛する人々の心が十字架を取り囲んでいた。 

45 ヨハネと、三人のマリア… ※ 

※「母の姉妹(サロメ)と、クロパのマリアとマグダラのマリアが立っていた」(ヨハネ19・25、マルコ15・40) 

46 それにしても、御母の御心は、他の人たちの心とは、ぜんぜん異なっていた。 

47 イエズスをじっと見つめているマリアは、イエズスのもだえを苦しみ、
涙が二つの泉から流れ出るかのように頬を伝わって流れていた。  

48 イエズスの肉の目は、あるときは閉じ、
あるときは天を仰いでいたので、愛する御母の涙を見なかったが、
その神的御目は、すべてを見通し、神的御耳は、すべてを聞いておられた。 

49 御母の一番奥深い御心の苦しみまで、
イエズスの御心は、すべて見通しておられた。 

50 十字架の上から、かすかなイエズスの御声がもれてきた。 
「母よ、私の母よ、あなたでさえ、私の苦しみのもとになるとは! 
ああ、あなたの苦しみが、私の苦しみを深くする。
もはや、あなたでさえも、私のこの苦しみをやわらげられない」と。 

51 御母の唇からも、小さな吐息のようにもれてきた。
「あなたは、私の子、おお、私こそあなたの母、
母のもだえが、あなたのもだえになろうとは!」と。  

52 御母マリアは、イエズスと共に、
どれほどお苦しみになったことだろう。
十字架上のイエズスもマリアと
一つの心、一つの魂、一つの苦しみ、一つの愛となっていた。※  

※悲しみの聖母は、預言されたように、苦しみの剣でその御心を刺された(ルカ2・35)。マリアは、新しいエバである。新しいアダムにあたるイエズスの協力者としてのその使命を果たされたので、すなわち、イエズスが、十字架上の木の上、あがないの生贄をお捧げになるそのときに、あの昔、楽園にある一本の木のそばで、第一のエバが第一のアダムに人類の亡びを協力したように、第二のアダムであるイエズスに第二のエバとして協力されるのである。しかし、その悲しみの御母としてのマリアの協力は、ここにあった。すなわち、第一のエバの不従順を償って「ご自分と全人類のために救いのみなもと」(教会憲章58)となること、これである。そのとき、マリアはまた、私たちに「キリストのおん苦しみの欠けたところをみたすために」(コロサイ1・24)、キリストは十字架に協力しなければならないという義務も思い起こさせておられた。この教義は、第二バチカンの教会憲章(6b)によって強調された。 

53 イエズスと私が、御母にして差し上げたいと望んでいたことは、
ちょうど、マリアが、まもなく亡くなられるはずのイエズスに
しようとしておられるそれであった。
私たちは、御母の涙をぬぐってさしあげ、
御母を膝の上に抱きかかえて、慰めてあげたかった。  

54 私は、御母の御心を
私の心の中でもっと強く抱きしめようとして、
自分自身を絶えず抱きしめたいと望んでいた。
マリアが苦しめば苦しむほど、私はマリアを愛した。
そして、しだいにマリアを私の母と考えるようになった。 

55 十字架の上で、私たち三人(イエズス、マリアと私)は、
同じ苦しみを受けていた。  

「彼らは、私の服をたがいに分け、上着をくじびきにした」(詩編21・19、ヨハネ19・24) 

56 私は、イエズスの衣類が積み上げられ、
それから切られたり、くじびきされたりするのを見た。※ 

※ヨハネによる福音書(19・23、24)にあるように、「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった」のであったが、同福音書は、これは詩編(21・19)の言葉を実現するためであったと結んでいる。 

57 剣が、赤いマントを断ち切ったときは、
私は、自分の心が切られたように感じた。
剣は、布でなく、私を傷つけたのだ。 

58 それは、彼らが残酷な悪意にかられて、そうしたからだった。  

59 血にまみれた衣類のある断片が、
私の魂に貼り付くのを、私は、生々しく感じた。
ああ、無罪のイエズスの御血と肉が、そこにくっついていたのだ!  

60 体の目方のために、傷は、いよいよ大きく引き裂かれていった。  

61 手と足から血がどんどん流れ出していた。 

62 苦しみのあまりに心臓の近くで血管が一つ破裂したように感じた。
あふれ出た血は、全身に拡がり、すべての傷口から流れた。  

63 私は、すべての傷の痛みを感じていたが、
一番ひどかったのは、肩の傷だった。
私の腰のあたりは、まだ縄がくい込んで、肉をすり切っている感じだった。  

64 体中のすべての神経が、まるで震えおののき、
けいれんするかのようであった。  

65 苦しみは、その絶頂に達した!  

どうしても死なせずにはおかないという悪人どもの渇望  

66 頭にかぶせられたいばらの冑が引き締められる感じがした。
気絶せんばかりの苦しみに、私の心臓は、ほとんど動悸を打つのを止めた。
十字架の上から、私のいばらの冑を強く抑えたのは、手ではなかった。
それは、大勢の人々の心から出る憎しみだったのである。
ああ、その憎しみは、地獄の憎しみよりも、まだひどかった。  

67 すでに十字架につけられているというのに、
彼らは、私をまだ鞭打ち、つばを吐きかけているように感じられた。
再び体に鞭が加えられるかのように、私は、魂の中で感じていたのだ。  

68 もっとも恐ろしい侮辱を聞いたとき、私の体から死の汗が流れるのを感じた。  

69 私の全身と魂はまるで一本一本糸を引き抜かれる布のように、
苦しみで、ずたずたに引き裂かれるように感じた。  

70 なによりもカルワリオに群がっていたあの侮辱でいっぱいの、
いばった人々の忘恩が私を苦しめた。 

71 大勢の人々の心にイエズスに対する
憎しみと反感がふくれ上がってくるのを、私は感じた。
彼らは、どんなことがあっても、
自分たちの目からイエズスを消してしまいたかった。
そのためなら、どんな方法に訴えようと、
またどんなひどい死に方をさせようと、かまわなかった。  

72 ああ、何一つ罪のないイエズスが、
たえず、悲鳴をあげておられたとは!  

キリストのご受難は、すべての時代に繰り返される  

73 侮辱、拷問、罪悪が、荒波のように、私に押し寄せてきた。 

74 私が感じていたのは、ただカルワリオの残虐さだけではなかった。
それは、全人類の残虐さであった。 

75 私は、すべての時代を見通し、本当に、すべてのことを見ていたのである。  

76 私があの時、十字架の上から見ていたのは、
私をまとわれた※キリストのご受難を、
それぞれの時代において新たにする罪悪であった。  

※「私にのり移られた」という意味。  

77 私は、全人類の一人一人が、どのように私を侮辱するかを見ていた。
あるものは、残酷さの限り、悪意の限りを尽くして、ほとんど荒れ狂っていた。
しかし、あるものは、強制されて侮辱していたし、
またあるものは、自分がどんな悪をしているのか分かりもしないで侮辱していた。 

78 私は、あらゆることを感じていたし、すべてが私の前にあった。
過去も、現在も、そして未来の忘恩と罪悪も。  

79 私は、自分の罪と全人類の罪を泣き悔やみたかった。
何よりも、マグダラのマリアの痛悔と苦しみを持ちたかったが、持たなかった。※
私は、ただ、イエズスに対する愛のために
十字架を抱きしめることしか望んでいなかった。 

※ここでは、アレキサンドリーナは、イエズスと同一化していないと感じたから、こう書いた。  

80 私は、十字架を抱きしめていることを感じた。
私は、苦しみたかった。死にたかった。  

81 私の死んだカルワリオ※は涙を流していた。
その涙のうちに全人類を沈めて。
死、この死は、叫びをあげていた。
無限の苦しみを苦しみ、命を与えたいという、
果てしない渇望にかられていた。  

※イエズスが、ここで恐れている死は、ただの生理的現象としての死ではなかった。それは、罪のしるし、神に背き、神から離れてしまう人間の反逆のしるしとしての死であった。イエズスは、ご受難を通して、はじめに、ゲッセマネの園で、それから、さらに激しく、カルワリオの上で、罪のために神から離れた人間の惨めさと孤独(本当の死)を、人類の罪のあがないのために、自発的に経験しようと望まれたようである。イエズスのご生涯でただ一度、ちょっとの間、御父との交わりが暗くなった瞬間の理由が、このように説明されている。イエズスの人間としてのご霊魂は、そのため、御父から捨てられたように感じて、少しの慰めをも得られなかったのである。アレキサンドリーナは、自分でも経験したその感じを、「私の死んだカルワリオ」という強い言葉で表している。  

十字架への愛から、命の木々が生まれる  

82 十字架につけられてから、
私はずっと、自分の体がもはや屍でしかないと感じ続けていた。
それで、私の命は、私の内におられるイエズスだった。 
私は死んでいたが、イエズスと共に生き返ろうとし、
イエズスの尊い御心は、私にご自分の命を与えて、
この命で、私を生き返らせたいとあこがれ、
すべての苦しみを自発的に、呑み込んでおられた。 

83 イエズスは、そのとき、はっきりと見ておられた。
ご自分のこの苦しみが、
人々の霊魂のためにマンナとなり、あるいは、実り豊かなバルサムとなって、
その命に変わっていくことを。  

84 私には、自分の心がすべてイエズスの御心に、
変わってゆくかのように思われた。
それは、私の心がみんな愛だけになっていたからだ。 
私の心は、苦しみへの激しい望みを感じていた。
それは、苦しみだけが、死とともに、命を与えて、
天を開くことができると理解していたからである。
私は、われとわが身をみんな殉教に渡してしまった。  

85 私は、十字架にとどまり、
やがて十字架そのものとなってしまった。※1
私の心から、そのとき、
十字架を私に結びつける一つの”絆”が出たが、
それは、愛の絆であった。
その愛は、十字架からくだって、世界に根をおろし、
やがて、根から花をつけた木々が、
すなわち、命のおびただしい木が生まれ出た。
私は、それらの命のすべてだったが、
私は、やがてこのすべてから逃げ出していた。※2  

※1 ここでアレキサンドリーナは、一方では、自分がイエズスであるかのように感じ、他方では、また自分が、おしかぶさってきた世界であるかのように感じる。  
※2 「このすべてから逃げた」という言葉は、人間性の弱さを示している。魂は、自分を生贄として捧げたとしても、弱い人間性は、これに反抗するからである。しかし、それと同時に、この言葉は救い主の十字架から逃げようとする、アレキサンドリーナと同一化した人類のことも指しているのである。 

86 イエズスの御心は、私の内にあっても、
愛することをやめず、私の心の中で全人類を愛しておられた。
それで、私も、十字架への愛を止めることができなかった。
十字架だけが、命であることを、よく見て、よく感じていたからだ。 

87 私は、手を広げて、天を仰ぎながら、自らを生贄として御父に捧げ、
こうして私は、人類に、私の心と愛を捧げたのである。  

イエズスの御心は、槍よりも先に、愛によって開かれた。  

88 カルワリオをうるおした御血は、
そこに立ち会っていた全世界をうるおすかのようだった。 

89 世界は、あの御血から逃げようとしていた。
でも、私は、世界を救いたかった。
そしてそのためには、この血以外にどんな方法があるというのだろう!  

90 あの御血を軽蔑して、巨人の足で逃げようとする人が、非常に多かった。
でも、イエズスは、愛するあまりに、十字架から御腕を離すことができないので、
彼らを呼びながら、開かれたご自分の御心に入るようにと招いておられた。  

91 イエズスは、御腕を十字架から引き抜いて、その御心を指しながら、言いたかった。
「ごらん、この心は、槍に貫かれるより先に、愛によって開かれたのですよ、
あなたを、ここに迎え入れるためです」と。  

92 イエズスの御心、そこには、愛と赦しの無限の淵が開かれていた。 

93 イエズスは、かつて愛したし、今もなお愛しておられる。
イエズスは、前にも赦し、今も赦しておられる!
ああ、なんと比類のない慈しみよ!  

94 すべてに対するイエズスの返答は、あの昔も今も、これだ。
愛すること、無限の愛で愛すること。  

95 イエズスの神的御心への道は、いつも開かれていた。
この輝かしい道を、誰でも望みさえすれば、進むことができた。
ああ、無知ながらも、この私の魂にあの道の無限の美しさを指し示すすべがあったら! 
それにしても、あの道は、同時にイエズスにとって、大変な苦しみの道となっていた。
それは、そこを通って、愛に燃えるご自分の御心に進んでくる人々の数が、あまりにも少なく、
ご自分から離れて、迷いの道へ逃げる人の数が、あまりにも多かったからである。  

「御父よ、この愛の香をお受けください!」  

96 イエズスは、すべての人を永遠の御父に捧げたかった。
そして私は、すべての人をイエズスに捧げたかった。
でも、どれほど多くの人がイエズスの御心に入るのを拒んでいたことだろう。
それは、イエズスにとって、なんと大きな辱めであり、恥となったことだろう。
イエズスのあれほどのお苦しみも、流されたあれほどの御血も、
彼らには、何の効き目もなかった。私の殉教も、そうだった。
このため、イエズスは、御父の前で、恥ずかしかった。
そして私も、イエズスの前で、恥ずかしかった。
私の苦しみと悶えは、いよいよ激しくなってくるばかり。
そのとき、イエズスは、私の心の杯をお取りになって、
いく度か高くかかげて、永遠の御父に捧げて、仰せになった。
「私の御父よ、この殉教の供え物、この愛の香※をお受けください」と。
打ち明けて言えば、私は、イエズスに捧げるために、
いつも愛の香炉を持っていなかった。 

※生贄となる霊魂の苦しみは、救い主の御手によって、償いと救いになる。 

97 死のもだえのあの三時間の間ずっと、
私は、霊魂と体の恐ろしい苦しみの殉教のうちに、
イエズスの御心を見ていた。  

98 できることなら、私一人で、イエズスの代わりに、
その御苦しみを引き受けてあげたかった。
しかし、それは、まったく不可能であった。
イエズスと一緒に苦しむときにだけ、私は、それを耐えることができた。  

99 私は、魂の目を天に向け、心を神に上げて、すべてを引き受けた。
私は、愛していた。愛していたからこそ、苦しみを耐え忍んだ。  

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは、なにをしているかを知らないからです」(ルカ23・34)  

100 イエズスの魂は、泣いておられた。
私は、その涙を感じていた。
そして、御心のため息を聞いた。
ため息は、こう言っていた。
「私の子らよ、なぜ私を傷つけるのですか?
なぜこんなことをするのですか?」と。  

101 侮辱とあの残虐な取り扱いに対して、何にも仰せにならず、
ただかすかな御声とため息と共に、こう言っておられた。
「私に示す愛は、こんなものですか?
私の愛に、こんなふうに感謝するのですか?」と。
でも、すぐそのあとで、こう仰せられていた。
「父よ、彼らをお赦しください、彼らは、何をしているかを知らないからです」と。 

102 御心は愛以外の何ものでもない。
すべての人の足元にひれ伏して、
”愛に負けて下さい”
と、こい願うかのようでさえあった。  

103 私の魂の中に、死刑執行人の恐ろしいむち打ちの音が響いてきた。
それは、実際にそうしたからではなく、
彼らが、もっと、もっと鞭打ちをあびせたがっていたからだった。
そのひどい悪意のため、私の胸の中においでになるイエズスは、
辛さのあまりに、すでに息絶えようとしておられた。
それでも、永遠の御父をあおいで、こう祈られた。
「私の父よ、人々の忘恩は、なんと辛いことでしょう。
でも、私をあなたの子と認めない彼らを、お赦しください」※。  

※この言葉は、福音書に、「もしあなたが神の子なら、自分で自分を救って十字架からおりよ」と人々が、頭を振りながら、ののしったと書いてあることを考えさせる(マタイ27・39、40参照)。  

104 そのとき、イエズスが、カルワリオ山の上から、
全人類を眺めておられるのを、私は感じた。  

105 イエズスは、頑なで罪深くなった世界に対して愛に燃え、
この世界のために御父の赦しを願って、苦しんでおられた。 

キリストと、マリアの「時」  

106 御母は、十字架の側でイエズスの涙にご自分の涙を合わせておられた。 

107 私は、御母の涙と、その勇敢さを見た。
マリアは、ご自分のイエズスを仰ぎながら、まっすぐ立っておられた。  

108 イエズスの御傷も、傷だらけになった体から御血が流れるのも、見ておられた。 

109 マリアは、イエズスを抱きしめたかった。
吐きつけられたつばと、ほこりに覆われた血まみれの御顔をぬぐってさしあげ、
できるなら、その御血の一滴一滴を集めたかった。
それは、マリアご自身の御血でもあったのだ。 

110 イエズスが亡くなったら、マリアは、そうしてあげるだろう。
でも、まだイエズスが生きておられるうちに、マリアは、そうしたかった。  

111 マリアは、”ああ、この腕が翼になれたら”と願った。
十字架のあの高い所まで飛んで行って、ご自分のイエズスを抱きしめたかったからだ。
こうして、もっともっと親密に、ご自分に一致させたかったのである。 
これこそ、無二の一致!苦しみと愛の極み!  

112 二人のもっとも清い御心には、同じ苦しみと同じ望みがあった。 
それは、これほどまでに背いてきた残酷なこの世界を、
ご自分のうちに迎え入れて、永遠に守ってあげることだった。※
ああ、なんと底知れぬイエズスの愛!そして、御母のこの愛! 
私は、同じ愛、同じ苦しみ、同じ喜びにあずかっていた。  

※「聖なる乙女は、信仰の旅路を進み、子との一致を十字架に至るまで忠実に守った。マリアは、神の配慮によって十字架のもとに立っていたが、子と共に深く悲しみ、母の心をもって、子の生贄に自分を一致させ、自分から生まれた生贄の奉献に心を込めて同意した」(教会憲章54)。こうしてマリアは、「人々、とくに信者の母」となり、全人類に対する霊的母性を得るようになった。マリアは、こうして、あがなわれるすべての人のための普遍的なあがないの御業に協力することとなったが、それは、彼女が、「主のはしためとして、御子と、その働きに完全に自分を捧げた」(教会憲章57)からである。すなわち「救いのわざにおける御母と御子のこの結合」(教会憲章57)は、すべての人をあがなうためであった。  

御父に祈る  

113 イエズスは、御父を呼び求めて、かすかに御唇が動いただけであったが、
その御心は、絶えず叫んでおられた。  

114 その叫びは、御父への叫びであったが、それは、世界のための叫びであった。
しかし、世界は、頑なにイエズスに耳を閉じて、聞こうともしなかった。
まして、同情を寄せるどころではなかった。 

115 この御声に、カルワリオでは、もう誰も注意しなかった。
今にも消えてしまいそうなこの叫び声は、人々の耳にも、心にも、入らなかった。 

116 イエズスが永遠の御父に、その御目を上げたのは、
ほんのわずかの間だけであったが、
ご霊魂の目は、絶えず御父を仰いでおられた。  

117 私は、イエズスと共にため息をつき、共に嘆き、
そして、共に哀れな人類のために苦しんでいた。 
私は、そのとき、イエズスの御目に瀕死の自分の目を合わせていた。
私たちは、二人で御助けを願い求めて、苦しみ悶えながら、天を仰いでいた。 

118 なんという苦しいこの悶え、そして、なんと悲しい暗闇よ!  

119 おお、世界よ!人々の霊魂よ!
イエズスは、どれほど私たちを愛してくださったことか! 
さあ、私たちも、イエズスを愛そう! 
私たちの苦しみは、イエズスの御苦しみと比べるなら、
なんと小さく、とるに足らないものだろう!
イエズスの御苦しみは、無限だった!
それは、人間となった神の苦しみだったのだ。
イエズスを愛そう、いつも、いつも愛そう、昼となく、夜となく。
ああ、私の心は、迷った小鳥のようだ、
あちこち飛び回っては、 ”どうか、愛を恵んでください”と、
イエズスのために、愛を物乞いする。  

御父は、償いを要求される  

120 私の心は、あまりにも愛したために、※
不潔な泥を、自分の中で、焼き尽くしてしまうためなら、
その泥をみんな背負い込むことさえいとわなかった。
そうだ、私の心は、あまりにも愛したために、
罪を全部償うためならと、
自分にすべての罪の犯罪者という責任を負わせて、
自らを御父に渡してしまった。
私たちが天の永遠の命を得られるように、
私の心は、命までも与えて、激しく愛した。 

※ここでアレキサンドリーナは、イエズスと同一化している。  

121 私は、永遠の御父から見捨てられていた。
私は、叫んだのに、聞き入れられなかった。  

122 私は、イエズスが、十字架の上に釘づけられておられるのを感じたが、
なんと、その十字架は、私だったのである。※1
しかも、イエズスは、私の内におられたのだ。
どうしても、助けと慰めが必要だった。
ところが、それどころではなかった。
私は、天が正義の重みを全部もってくだり、
十字架の大きな木の上で、私を押し潰そうとしているかのように感じた。
こうして、苦悶が激しくなればなるほど、見捨てられる感じは、強くなってきた。 
もはや、永遠の御父は、なんの慰めも与えられない。
ただ、償いだけを要求して、全人類の罪を全部、報告せよとせまる裁き主であった。
「ああ、私の父よ、私の父よ!私は、もはやすべてを与え尽くしました。
私の血も、全部流してしまいました」。※2 

※1 ここでアレキサンドリーナは、自分も世界であると感じている。つまり、自分がイエズスのために十字架をになっていることを感じたのである。  

※2 アレキサンドリーナの日記の中で、血のテーマは多く、ほとんどすべてのページに見つけることができる。このテーマは、彼女の霊的思想の成分と言える。アレキサンドリーナは、イエズスの御苦しみにあずかって、これほどの、キリストの御血が無駄にならないようにと望むあまり、教会の改善と人類の救いに協力したいという、布教の激しい望みがわくのを感じている。  

123 私のうえにのしかかった神の正義のその重みは、
もう無限とさえ言えるものであった。
まるで、私を十字架の腕から引っ張り出して、
深く土の中に埋めて、土にしようとしているかのようであった。  

「私の神よ、私の神よ、なぜ私を見すてられたのですか?」(マルコ15・34)  

124 夜、恐ろしい夜だった!  

125 なんという苦悶!見捨てられたこの孤独!暗さよ、闇よ!  

126 私は、ひるまないで叫び続けた。
「父よ、私の父よ、あなたでさえ、私をお見捨てになるのですか?
あなたでさえ、私から離れておしまいになるのですか?」と。  

127 叫んでいるのは、私ではなかった。私の心だった。
私は叫びたくなかったが、激しい苦しみの悶えが、私に叫ばせていたのだ。  

128 暗闇の中に見すてられた恐ろしさに震えおののいて、
私は、自分の心から、いく度となくあふれ出てくる叫びを聞いた。
「御父よ、御父よ、御父よ!御顔を私からそらさないでください。
私から、御まなざしを遠ざけないでください」と。 

129 死のうとしている私のこの苦しい叫びは、
山の奥深くまで、こだましていた。 

130 そのこだまは、岩を打ち砕くダイナマイトのよう!
だが、天は、ああ、天は、私のために閉じられたかのように見えた。 

131 私は、イエズスと共に、
そしてイエズスは、私と共に、
十字架にとどまった。
それは、人々に新しい命を与えようとしていたからだ。
あの臨終の悶えの中で、イエズスは、私のうちで、
「御父よ、御父よ、私の御父よ!」と叫んでおられた。
しかし、世界がこの苦しい叫びに答えたのは、
残酷さより、さらにひどい残酷さと
忘恩より、ひどい忘恩でしかなかったのだ。  

私の子らよ、私は、あなたたちに渇いている  

132 私は、焼き付くような渇きを感じ、
そして、もう自分が完全に見放されてしまったような気がして、
私の心は、思わず、「私は渇く、渇く」と叫んでしまった。
そのとたん、私は、この叫びがイエズスの叫びだったと悟った。
そして、イエズスが人々の霊魂に渇いておられるちょうどそのことを、
思い出したのである。  

133 愛の満ちあふれる泉であるイエズスは、
どれほど侮辱されても、激しい渇きを覚え、
慈悲と慈しみの御心でお嘆きになった。
「私の子らよ、私は、あなたたちに、こんなに渇いているというのに、
あなたたちは、私にこんなものを飲ませるのですか?」と。  

134 その瞬間、私の唇の上に、
一つの海綿が一度、そしてまた一度近寄ってくるのを感じた。
唇の渇きは、そのままだったが、
心の渇きは、癒されるどころか、
ますます激しくなっていった。※  

※「『私は渇く』とおおせられた。酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した」(ヨハネ19・29)。 

135 燃え尽くすばかりの、あまりにもひどい渇きだったので、
これを癒すには、全世界のすべての心の愛が必要であった。  

136 私の心は、またこう叫んでいた。
「癒してほしいのは、唇の渇きだけではない、
この心の渇きだ、霊魂の渇きだ!」と。  

137 最後の瞬間まで、この渇きこそ、私のすべての苦しみの中心であった。  

19 愛は、恵みと一致して苦しみに打ち勝つ 

138 山の上で私は、御父との一致を失わなかった。 ※ 

※イエズスと同一化したアレキサンドリーナは、二つの本性、人性と神性の奥義を自分のうちに体験している。 

139 私は自分の内に二つの命、あるいは二つの本性があるのを感じている。
そのうちの一つは、あれほどの苦しみに耐えることができなかった。
しかし、もう一つは、すべてに打ち勝つことができた。  

140 全人類のあらゆる罪、忘恩、罪悪を見て、私は悶え苦しんだ。 

141 悶え苦しんでいるこのとき、傷だらけの私は、もうすでに屍のようだった。
しかし、私の中に、神の命が勝利を得させた。
愛は、恵みと神の命と共に、苦しみに打ち勝ち、死の上に勝利を得たのである。  

142 私は、御父から、命を受けて、私自身となっていた。
私は、世界のために、この命を与えていた。 

143 息絶える前に、死んでから受けるはずのものを感じた。
私の心臓が貫かれたのである。
この苦しみが、前もって与えられたのは、
一度死ねば、この痛みを、感じられなくなるからだった。  

144 槍が脇腹を開いて、心臓を貫くほど深く
私の体に入ってくるのを感じた。
その刃は、剣の刃のように鋭く、
あの悶えの苦しみの間、私はずっとその痛みを、
まるで、もつ薬の苦味のように感じていた。  

145 これほどの苦しみの中から、私は、世界に向かって叫んでいた。
「私がこうなったのは、あなたのためだ!」と。 

146 私は、御父に叫びをあげたが、すべてをみ旨にまかせていた。  

20 呵責にみちた沈黙  

147 突然、カルワリオ山が、すっぽりと闇に覆われた。  

148 私を苦しめた大勢の人々が、恐怖にかられて、山からおりていった。
まるで、巣に閉じこもろうとする蟻のように、一人は、もう一人の後ろに、隠れに行った。 

149 彼らは、おそれのあまり、震えおののき、
このうえ、どんな恐ろしいことが起こるのだろうかと、びくびくしていたが、
彼らがこれほど、慌てていたのは、愛するからではなく、
ただ恐怖にかられたためだった。 

150 少しずつ、カルワリオは、沈黙に覆われていった。
ただイエズスのため息だけが聞こえていた。
そこには、もう何もない、苦しみがあえいでいるだけだった。
その苦しみを、さらに激しくしていたのは、
何ものかに威圧されて、口をきけなくなった、
たくさんの心の行き場のない憎しみだった。 

151 私は、あの残虐と冒涜と侮辱のあとに来た、
このカルワリオの沈黙を考えてみた。 

152 呵責にみちた沈黙。
そのさなかで、ただ二人の御心だけが、
一つの心のように親密に結びあって話しあっていた。
それは、ただ一つの苦しみ、ただ一つの愛だった。 

153 十字架のもとに、まるで立像のように立ちつくしていた御母は、
苦しみのあまりに死ぬのではないかとさえ思われた。  

154 イエズスの御心から御母の御心へ、
あふれんばかりの恵みと、命と愛が注がれているのを、私は感じた。
御母のあの言い尽くせないほどの苦しみも、そのために和らげられて、
御子が息絶えるそのときまで、じっと立っていられる、命の力を受けていた。 

155 そうだ、御母が気を失わないで耐えることができたのは、
ただ神の御血からに支えられていたことだけによるのだ。  

もうこれ以上は不可能  

156 私は、私の胸の中に、あえぐイエズスの息を感じていた。  

157 私の心と一緒に、イエズスの御心が動悸を打っていた。  

158 この二つの動悸は非常に激しい力で、ひっきりなしに打ち続けたので、
一つの動悸となって、まるで、はや鐘を打ち鳴らすかのようだった。
イエズスの神的唇は、私のうちに、
「私は渇く」というレコードみたいな言葉を吹き込んでしまった。
私の心は、これを聞いて、イエズスの渇きを理解した。
そして、「なんとかして私にあの渇きを癒してあげられたら」とつぶやいていた。 

159 私の霊魂の中にあったイエズスの御目は、
苦しみ悶えつつ、少し閉じられたが、また開いて、
じっと、カルワリオを、そして全人類の上を、眺められた。 

160 それからまた御目は閉じられ、イエズスは、かすかにこう言っておられた。
「私は今、死のうとしています。もし、あなたたちが救われたいなら、
私の神的血を、そして、この私の死を利用してください。
私は、あなたたちに、天国を与えるために死ぬのですから」と。  

161 こうして、イエズスは、もう完全に息をひきとられた。
死は、イエズスの熱い望みだった。
光を与えるために、人を生かすために。  

162 その神的御心は、絶えず繰り返していた。
「私の子らよ、私の子らよ、私は、死ぬほどあなたたちを愛している!」  

163 「私のときが来た。私は、あなたたちのために死ぬ。
これ以上に何ができようか?」と。  

「私の母よ、世界を受け取ってください」  

164 私は、自分の心が※
愛の根を、すべての人の心におろしているのを感じた。  

※アレキサンドリーナは、イエズスと同一化されたことを感じているから、「自分の心」と書いた。 

165 それにしても、人々の忘恩は、たえず私を傷つけ、死なせようとしていた。 

166 私は、全世界にむかって、かすかな声で、やっとこう言えた。
「あなたの忘恩は、これ以上のことを私から要求できようか?」と。 

167 私は、御母に向かって、かすかな声で言った。 
「私の母よ、世界を受け取ってください。これは、あなたのものです!
世界は、私の血が生んだ子、あなたの苦しみの子です。
世界を救うために私と協力してください」と。 
深いため息と共に、こう言ってから、私は天を仰いで、
「すべては、成し遂げられた」と言った。※
※ヨハネ19・30  

168 御母は、いつまでも立ち尽くしておられた。
その御姿は、イエズスと同じ十字架につけられて、
同じ苦しみを苦しみ、同じ殉教を成し遂げ、同じ愛の極みを極め、
同じ救いの使命に協力する人の姿であった。  

169 御母から、私のほうに流れてくる救いの運河があった。
すべてが、私の心から、いやむしろ、私のうちにおられたイエズスの御心から、
マリアの御心へと移っていった。
そのために、どんな霊魂も、恵みと、あがないの実を、
御母を通して受けるようになった。 ※ 
※「マリアは、天にあげられてからも、この救いをもたらす使命を放棄しないで、その取次ぎによってこれを続け、私たちに永遠の救いの賜物を得させようとしておられる。こうして、マリアの母性愛は、まだ旅路を続ける御子の兄弟が危険や困難に打ち勝って、幸福な天の祖国に辿りつけるように、たえず心を配っておられる。このために、聖なる乙女は、教会において、弁護者、扶助者、救済者、仲介者などの称号をもって呼び求められている」(教会憲章62)。 

170 私が、身にしみて、しかもありありと感じたことがあった。
それは、御母が、私たちの救いのために、どれほどイエズスに協力しておられるか、ということである。
私たちは、マリアにどれほど大きな負い目をもっていることだろう。 

「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」(ルカ23・46) 

171 私は、イエズスが御血の最後の数滴まで、与えておられるのを感じた。
その御血は沸騰していた。愛のために沸騰していた。  

172 そのとき、イエズスは、開かれた御心を、世界に指し示しながら、仰せられた。
「私がこうなったのは、あなたのためではありませんか?
私は、自分の血をみんな与えて、これ以上愛せないまでにあなたを愛しました」と。 

173 イエズスは、その苦しみ悶えの中から何回となく、繰り返しておられた。
「父よ、父よ、父よ、私のこの苦悩をお受け取りください」。

174 「父よ、私の霊をみ手にゆだねます。私の最後の呼吸は、あなたのためです!」と。  

175 だが、叫びも、ため息も、まったく、御父に受け入れられなかったかのようだった。
ゆだねたその霊さえも、受け入れられないかのようだった。  

176 悲しみを極みまで味わったこの悶えのうちに、
私は「私のイエズスよ!イエズスよ!」と絶えず繰り返していた。
そのとき、私の中で、もう一人の声が、
「父よ、私の霊をみ手にゆだねます」と繰り返すのを感じた。  

177 私の命の灯は、イエズスと共に消えようとしていた。
私は、私自身が、イエズスと共に死んでゆくのを感じた。 

178 私の体も、霊魂も、まるでライ病にでも取りつかれたように、
完全に崩れてゆくのを感じた。 

179 魂は、あまりの痛みと恐れに、
まるで寒さに震える体のように、おののいていた。 

180 私は、完全に見捨てられていた。
それは、本当の意味で完全な程度で、もうなにも期待できなかった。
永遠の御父からさえも!  

イエズスの御力は弱り果てたが、愛は少しも弱らない  

181 私の内に、イエズスは、息絶えようとしておられた。 

182 イエズスは、ただ時折、ため息を吐くだけだった。
そして、一つのため息をついてから、次のため息をつくまで、
もう死んだのではないかと思われるほどだった。 

183 永遠の御父に叫びをあげるその力さえ、消え失せてしまった。  

184 今はもう臨終、最後のときであった。  

185 最後の息を引き取ろうとしているその間際に、
心の刺激で、また唇に吐血が起きた。
イエズスの頬には、最後の涙が流れていた。 

186 イエズスは、今はもう、これまでと、
天を仰いで目をあげ、それから、がっくりと頭を垂れた。
私はそれを見た。  

187 イエズスは、御母から、御目を離しかねておられるのを、
私は感じた。 

188 まるで最後のあいさつでもするかのように
イエズスの御心から、輝かしい光線が、マリアの御心に向かって流れ出した。  

189 私に注がれたイエズスの最後のまなざしの、
言いようもないやさしさと愛を、私は心の中に感じていた。  

190 イエズスの御心の慈しみは、
その十字架の両側に同じ十字架につけられた、あの二人にも及んでいた。
右側では受け入れられ、左側では拒まれていた。 
私は、同時に、拒む人の反抗心と、受け入れる人の愛を感じた。  

191 イエズスの御力は、もはや弱り果て、御命も、消え去ろうとしていたが、
その神的愛だけは、決して弱ることも、消えることもできなかった。
それどころか、愛はカルワリオ全体に広がり、
カルワリオから全世界に浸透していった。
それは、命の息吹、そしてかんばしい香りのようであった。  

イエズスを地上に連れて来た天の御命は、再び天に近づいた  

192 完全にわが身を捧げてしまいたいという望みは、もう、狂うほどになった。
いよいよ、命を与える愛の極みに来ていたのである。 

193 あまりにも大きな傷に、私はまるで手も足もないかのような有様だった。
心も、これ以上傷つけられようか!
私は、ありとあらゆるすべての苦しみに完全に包まれていた。 

194 私は生贄であり、供え物だった。
息絶える前、私は、自分の体が、頭から足の爪先まで、
恐ろしい蛇によって、十字架に結ばれているのを感じた。
蛇は、あたかも、私を十字架に縛りつける鎖のようだった。
私は、恐れおののいた。 

195 あの山、あの恐ろしい山の頂に、私は叫び続けていた。※
水が水車を動かすように、苦しみの激しさは、山を転がしたので、
山は崩れ、どっと私の上に落ちかかってきた。
※苦しみに悩まされている霊魂の叫びである。  

196 私の全存在は心となって、愛することと、
御父に霊をゆだねることしか考えなかった。  

197 心が少しずつ死んでいった。
それと共に、地上に私を連れてきた、
あの御命は、再び天に近づいて行った。※  

※イエズスの神としての命は、死ぬことができないので、ただ人間としての御体を捨てるだけである。しかし、間もなくその御体を墓の中で取り戻して、これに輝かしい栄光を与えるだろう。  

最後の叫び  

198 あれほどの激しい苦悶の結果、私のすべてが、はらわたまでゆれ動いた。 

199 頬に、また、体にも、全身に冷たい死の汗が流れるのを、私は感じた。  

200 窒息が私の心を恐ろしい苦しみの叫びで貫いた。 
それは、今わの際の、イエズスの最後の叫びだった。 

201 耐えようとする努力と苦しみの激しい葛藤のため、
イエズスが十字架から離れようとしているかのように見えた。 

202 苦しみ悶える叫びは、カルワリオ全体に響き渡った。
いな、全世界に響いて、ありとあらゆるものを震えおののかせたのだ、
私はそれを感じた。  

203 叫びは、この地球をさえ、いく度も震え動かした!  

204 空が破れて火を吹き出すかのように見え、
私は、雷のようなとどろく音を聞いた。  

205 神殿の幕が上から下まで、まっ二つに裂けて、地に落ちた。 ※ 

※幕が裂けて落ちたことは、ユダヤ人にとって、神殿がその重要性をもはや失ったことを意味していた。同時に、異教徒にとっても(百人長は、イエズスが神の子であることを宣言したが)、このイエズスの死が神に行くための新しい道を開いたことを示していた。  

206 世界全体が震えていた。最高の能力によって動かされ、震えていた。  

207 十字架の足が、さらに深く土の中にめり込むように私は感じた。 

208 ああ、そのとき、地は、底知れぬ恐れにおののき、天は、
巨大な恐怖をもって、襲いかかってきた!  

209 カルワリオの上は、闇に覆われ、大きな割れ目が、口を開いた。
みんなが逃げ出し、残ったのは、イエズスと、その味方だけとなった。  

※「地は震え、岩はさけた」(マタイ27・51)。  

210 私の霊魂の目は、世界のために、赦しと、憐みを願って、
絶えず天を仰いでいた。  

天は地と和睦する  

211 私は、はじめ心の中に、それから、体全体に、凍り付くような寒さを感じた。
それは死だった。イエズスは、ついに息絶えられた。 

212 死の奥義が、カルワリオの上でも、私の霊魂の中でも、支配した。  

213 イエズスが息絶えられたその瞬間、ああ、天が開かれた!
私たちがみんな、カルワリオから天に移される時が来たのだ!  

214 天と地の不思議な混合が行われたのは、この時であった。
二つは、一つになったのだ。
地は、天と和睦していた。
今こそ、私たちがみな、同じ御命に生きうる時がきたのだ! ※ 

※人間が”神の子”となって、神の御命をある程度まで生きられるという意味。 

215 天と地があれほど親密に交わったのを見て、私は、幼い日の経験を思い出した。
それは、パン職人がパンこね機で小麦粉を混ぜていた時のことである。 
あのパンこね機の中の車は、何でもみな混ぜていたが、
あの時は、どれほどの動きがこね粉にあらわれていたことだろう! 
ちょうどこのように、天と地は、一塊の小麦粉のようになっていたのだ。※  

※アレキサンドリーナがここで使っている例え話は、福音書に出る天の国の例え話を思い出させる。「天の国は、パン種のようである。女の人がそれを取って、三斗の粉の中に入れると、全部がふくらんだ」(マタイ13・33)。  

216 こうして天は、地と和睦するようになった。  

217 すばらしい音楽が、天と地、すべてに響き渡った!  

イエズスは、待っておられる霊を解放される  

218 暗闇のカルワリオから、私は闇の場所にくだった。※
そこで私は、私自身すべてを照らす光になっていた。
私と言ったが、本当は、私ではなかった。
もし、私一人でそこにくだったのなら、私は、ただの暗闇、ただの死に過ぎなかった。
だが、カルワリオの上、あの十字架の上で勝利を得たあの御命が、
私の内に生きておられたからこそ、
私は光となって、全てを照らすことができたのだった。  

※それは古聖所のことである。古聖所とは、イエズスのあがないの生贄が完成される前に亡くなった正しい人たちの待っている所である。イエズスがおいでになるまでは、誰も天国にのぼって神をありのままに見て、完全な幸福が得られなかった。それで、このような正しい霊魂は、この古聖所にいて、救いの日を待っていたのである。「キリストは、一度、人々の罪のために死なれた。義人であった彼は、不正なものの身代わりとなり、私たちを神に近づけるために、その御体に死を受け、霊において、生かされた。その霊において彼は、囚われの霊のもとに行って、救いを宣言した」(ペトロ前3・18、19)。 

219 地獄のような所に、私はくだった。
といっても、それは、火と呪いと拷問の地獄ではなかった。
それは、ただ恐ろしい暗闇があって、少しの光も、喜びもないだけの地獄であった。
言うなら、それは、盲目と心配の地獄であった。
私は、そこではっきりと感じた。
私のみ主イエズスが、私のうちで、いかにも満足そうに、両腕を広げ、
まっていた巨大な群衆にご自分のあふれる喜びを分け与えておられた。
やがてイエズスは、肉体をもたないおびただしい人々を
引き連れて、そこから出て行くのを、私は感じていた。  

220 天の喜びを喜ぶ多くの霊魂を、私は感じた。 

221 私は、すべてを感じ、すべてを見ていた。
それでも、私自身は、苦しみと、盲目と、死の中に
取り残されたままだった。  

彼の神の御命が、私から離れ去った  

222 彼のいとも聖なるご霊魂は、舞い上った。 
御母は、御子が亡くなったのを見て、大変に苦しまれたが、
私も同じ苦しみを感じた。  

223 彼の神の御命が、私を離れ去った。  

224 私の霊魂もそうだ、私から離れ去り、私は死んだようになった。  

225 天からのあの命が、絶えずあれほどの恐ろしい苦しみを
耐える力となっていたのだ。  

226 イエズスが息絶えられてからは、私は、神にも地にも属しない、
あいまいな状態のままだった。 

227 イエズスの死は、私の魂のカルワリオを暗くした。  

228 死の沈黙と私の魂のカルワリオを支配するようになった。  

229 それから間もなく、一本の矢が、御脇腹を刺し貫くのを、私は見た。 

230 私の中でイエズスは刺し貫かれたのだ。 

231 御心が刺し貫かれ、残りの御血が流れ出た。 

232 それは、最後の御血だったが、それに続いて数滴の水が流れ出た。 ※ 

※「兵士の一人が槍でイエスの脇腹を突き刺した。するとすぐに、血と水が流れ出た」(ヨハネ19・34)。  

233 その御心からは、光線が出て来た。
光線は、世界に注ぎ、とたんに、太陽は、はじらうかのように、
震えるカルワリオの地面の上でおののいていた雲の後ろに隠れてしまった。  

234 イエズスの御体のありとあらゆる御傷が光を放っていた。
まるで、割れ目から、降り注ぐ光線のようだった!  

御母は、罪に死んだすべての人のためにお泣きになる  

235 私の魂は、イエズスが十字架からおろされるのを見た。
頭はがっくりと垂れ、御腕の片方は、すでに釘から外され、 
下で御母は、御子を受け取ろうとして、腕を広げて待っておられた。
私は、自分の中で、息絶えたイエズスの御体が
冷たくなっているのを感じて、恐れおののいた。  

236 屍となったイエズスが私のうちにおられるかのように感じたとたん、
私も、イエズスと一緒に御母の腕の中に抱かれているのに気づいた。
そうだった、イエズスも私も、今は、一つの体、一つの屍となっていたのだ!  

237 私は、御母が、御子をしっかりと抱きしめられたのを感じた。 
十字架上のイエズスを、御母は、ああもしてあげたい、こうもしてあげたいと、
どんなにあこがれたことだろう。
でも、何一つしてやることができなかったのだ。
ところが、今は、もう何でもしてやれる!

238 愛する御母の涙が、私の顔にしたたり落ちていた。  

239 そのとき、私は、イエズスになっていた。マリアは私の母だった。
私は世界、しかもマリアは世界の母となっていたのだ。  

240 私はマリアを慰めたかった、抱きしめてやりたかった。でもできなかった。
すると、私のうちにおられたイエズスは、今はもう屍ではなく、命があって、こう仰せられた。※  

※これからのイエズスの御言葉は、2000年前の当時ではなく、私たちの生きているこの現代を対象として話された。  

「私の娘よ、私のいとも聖なる御母が今お泣きになるその涙は、
あの昔、カルワリオ山の上で私のためにお泣きになった涙に似ています。
今泣いておられるのは、屍となってその腕に横たわる私を見ているからではありません。
この全人類のなかの大勢の子らが、
ほとんどその大部分が罪に死んでいるのを見て、泣いておられるのです。
ああ、あの尊いみ心のお苦しみは、どれほどでしょう!また、私のこの心の苦しみも!
これほど大きな損失を見たのですから、ほとんど全体に渡るほどの死を見たのですから!
あなたの苦しみを私に与えて、傷つけられた私たち二人の心を慰めてください。
さあ、勇気を出すのですよ」と。
私は、この言葉を聞いて、あまりにも大きな苦しみを感じたので、
もう死ぬのではないかとさえ思われた。 

241 イエズスは、愛にかられて、御命を与えられた。
その御母もまた、御子イエズスを愛したその愛で私たちを愛し、
御子の使命を、ご自分の使命として果たし続けておられる。  

「キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人々と、生きている人々とを支配するためである」(ローマ14・9)  

242 死の暗い雲に包まれて、イエズスは、高く、より高く、どこまでも昇って行き、
その高みで光輝き、すべてに打ち勝ち、すべてのものの上に凱旋を勝ち取った。
だが私はイエズスと共に行って、その勝利にも、凱旋にもあずからず、光にも包まれなかった。
私はいつも、自分の苦しみ、自分の苦味に悶え続けていたのだ。
イエズスも、あの輝く凱旋の喜びの中に昇って行かれたはずなのに、
ああ、なんということ!いつも私のもとに残っておられたのだ。
それどころか、私と一致し、まったく私になりきって、イエズスは苦しんでおられたのだ。※
私は、イエズスが、このように二つの状態、
つまり、喜びのうちにありながら、同時に私の内で苦しんでおられるこの状態を
言い表したいのに、どういえば、それが表現できるのか、まるで分らない。
私に分かるのは、ただ、あの悶えが続いたということだけだ。 

※すべての時代のすべての正しい人が、苦しむときに、イエズスはその人の内にあって、ご受難を続けられる。  

243 イエズスは、亡くなったのに、いつも生きておられた。
たしかにイエズスが死んでいかれるのを感じたのに、
私は、同時にイエズスが生きておられるのを感じた。
おお、命よ、天の命よ!  

「私は、父の愛であなたたちを呼ぶ」  

244 突然、私の魂は、光に照らされた。それは、世界を照らす光だ。  

245 上から下まで、一つの天幕が引き裂かれるように感じたとき、
光り輝く姿でイエズスが現れ、ご自分の御命を私にお与えになった。 

246 イエズスは、よみがえって、私の魂もよみがえらせたのだ。
私は、イエズスが、私の心の中で、こう仰せられているのを聞いた。
「私の子らよ、あなたたちを呼ぶ私イエズスの声を聞きなさい。
愛するからこそ、私は、あなたたちを呼ぶのです。注意して、よく聞きなさい。
今は恵みの時です、でもこの時は、すぐ過ぎ去ってしまいます。
だから、早くこの恵みを受け入れて、協力するのですよ、さあ、歓迎しなさい。
ああ、私は、どうしても繰り返さずにはいられません。
それどころか、私は全心の力を振り絞って、お願いします。
どうか、私のところに来てください。
私は父の慈しみであなたたちを呼んでいるのです」。  

「信じます!イエズスよ、信じます!」  

247 矢のように私を貫く悩みのうちに、私は、信仰宣言を繰り返した。
「イエズスよ、信じます。
あなたのご降誕も、あなたのゲッセマネの園も、
そしてあなたのあの苦しみのカルワリオが、
私のためだったことも。信じます!イエズスよ、信じます!」 
私の淵は、あまりにも暗く深く、
神でなければこれ以上は深められないと思われるほどだった。
そして、まさにイエズスは、それをなさったのだ。
イエズスは、私の奥の奥にまでおくだりになり、
私を、私のこの惨めな存在を、淵の上に浮かばせて、
ご自分の光のいく分かの光線で、私をお照らしになった。※ 

※この1ページは、アレキサンドリーナが書き取らせた最後の数ページの一つである。1955年9月2日に書かれ、彼女の帰天(1955年10月13日)の1カ月前にあたる。  

神のはしため、アレキサンドリーナ・ダ・コスタの略伝と、その神秘的発展の年代記  

ここに、一つの略伝を紹介するにあたって、もっとも意味深いある日付を目立たせたい。霊的発展というこの現象は、正確な日付を与えるには、あまりにも複雑すぎることはよく分かっている。それにしても、なんらかのオリエンテーションを与えることによって、読者の理解が助けられるのではないかと思う。この書は、アレキサンドリーナの書き記した自叙伝、日記、および、彼女が二人の指導司祭に書いた手紙にもとずくものである。それで、章を辿るにつれて、それぞれこれらの源泉のいずれからくみ取ったかを、自叙伝の場合以外は示した。したがって、しるしのないときは、自叙伝から取ったものということになる。指導司祭に命じられて、アレキサンドリーナは、これらの源泉にあたるものを、自分の村の学校の教師サオジニアに、ごく短文で書き取らせたが、のちに、彼女の第二の指導司祭と、サレジオ会員、イスマエル神父が、これに他のことも加えた。  

ポルトガルのオポルト市から50キロメートルも離れたところに、バラサアルという小さな村がある。アレキサンドリーナ・マリア・ダ・コスタは、ここで、1904年3月30日に生まれ、そして1955年10月13日に帰天した。 

若い頃は、非常に頑強な体質の持ち主で、性格は活発、その生活はユーモアに満ちていた。母が、いつも、「金持ちは、おかかえの道化師をもっているが、金持ちでない私も、家に喜びの製造者をもっている」と言ったほどだった。  

1911年~1912年 

ポーヴォア・デ・ヴァルジム村※のかわいい小学一年生となった。 

※ここに役場があり、出生地バラサアル村は、この村の管轄区に属していた。バラサアル村には、1931年までは女子のための学校がなく、当時は男子のための学校があるだけだった。 

彼女は、このポーヴォア村でアルヴァーロ・マトス神父のもとに初聖体を受けたが、当時のことをこう書いている。 

「私は聖なるホスチアをあまりにも深く眺めたので、私の頭に、消すことのできない強い印象を刻み込んだ。私は、永久にイエズスと一致したと思った。そのとき、イエズスがご自分に私の心を結びつけてくださったという感じがして、喜びはとても言葉にあらわせないほどだった」と。 

1913年~1917年  

すでに9才頃から、のら仕事をはじめ、のちには、一家の生活を助けるために、他人の畑で働かねばならなくなった。 

1918年  

ちょうどその日は、聖土曜日だった。一人の情欲にかりたてられた男が、家にしのびこんだ。他には誰一人いない。部屋の中で追い詰められたアレキサンドリーナに、男がおそいかかった瞬間のことである。彼女は、さっと窓を開けるとすぐに、窓に足をかけ、3.35メートルの高さのある窓から飛び降りた。あやうく危険をまぬがれたものの、脊椎は、大変な打撃をこうむった。彼女は、医者に脊椎圧搾炎の診断を受け、それから、恐ろしい進行性中風がはじまった。こうして6年間もの間、寝たきりの生活を強いられたのだ。  

1924年  

6月、ブラガ市の聖体大会に参列したきり、非常に弱り切って、それからは、もはや自分の足で動くことができなくなり、外出には、いつも担架が必要であった。 

1925年 

4月14日、この日からアレキサンドリーナは、死の床まで永久にベッドに釘付けられてしまった。母は、畑仕事に追われていたので、姉妹のディオリンダが、彼女の看護婦となり、そのかたわら、仕立物をして経済を助けていた。 

1928年 

アレキサンドリーナの小教区では、ファチマの巡礼が行われた。彼女は、これに病気回復の期待をかけたが、ついにその恵みを受けられなかった。その時のことをアレキサンドリーナは、自叙伝の中にこう書いている。  

「その時から、私は苦しみを愛するようになり、ただイエズスのことだけを考えて暮らすようになった。こうして、私から、回復の希望は、もう永久に消えてしまったのだ。ある日、私は、ただ一人きりだったが、ふと聖櫃の中のイエズスを考えて、話しかけてみた。  

「私のよいイエズスさま、あなたも私も閉じ込められています。あなたは、私への愛によってつながれ、私は、あなたの御手によって閉じ込められているのです。それで私は、あなたのお望みを私の望みとして、苦しみを引き受ける覚悟でございます。ああ、親切なイエズスさま、どうぞ、たえず私をお守りください」と。 

1930年  

5月、小さい本の表紙にこう書いた。「天の愛するお母さま、あなたと私のイエズスの聖櫃においでください。そして私の祈りが聞き届けられるように、あなたの御手からイエズスに捧げてください。またイエズスに”苦しみをどんなにたくさんお与えになっても、かまいませんから、ほんの一瞬たりとも、私を一人ぼっちにしないように”とお願いしてください」と。 

この時から、アレキサンドリーナは、毎朝の祈りにこう言うのだった。「夜となく昼となく捧げられる全世界のすべてのミサ聖祭に、私は霊的に一致します。イエズスさま、あなたが生贄をお捧げになる祭壇の上で、そのすべての瞬間に、私もあなたと共に捧げてください。どうか、あなたのご意向のままに、私を永遠の御父に捧げてください」と。 

1931~1932年  

アレキサンドリーナは、イエズスに祈りを捧げ、自分を奉献していたが、突然、心が燃え上がってしまうような強い熱を感じて、脱魂状態を経験した。その瞬間、彼女は、「苦しむ、愛する、償う」のインスピレーションを心に感じた。なんのことかさっぱり分からないままに、アレキサンドリーナは、「私のイエズスさま、私に何をしてほしいのですか?」と、繰り返した。しかし、答えは、同じあの三つの言葉だけであった。  

1933年  

8月16日、イエズス会の神父マリアノ・ピニョは、イエズスの御心の祝日にあたって、三日間の説教を頼まれて、バラサアル村を訪れた。この機会に、アレキサンドリーナは、この神父に自分の霊的指導を依頼し、聞き入れられた。この司祭は、彼女に大きな信頼を起こさせたので、それからは、少しずつ霊魂の問題を打ち明けるようになる。 

1934年  

彼女は、こう日記に書いた。「私が、”苦しむ、愛する、償う”というあの言葉は、私の主観の産物ではなかった。明白に主のみ声だったのだと確信したのは、9月になってからだった」と。  

「そのとき、イエズスは、私に仰せになった」と、彼女は言う。 
「”あなたの手を私にください、十字架につけたいからです。あなたの足もください、私と一緒に釘付けたいのです。あなたの頭をください、私がされたように、あなたにいばらの冠をかぶせましょう。あなたの心をください、私がそうされたように、あなたの心を矢で貫いてあげましょう。そうです。あなたの体のすべてを私に奉献してください。こうして、私にあなたのすべてを、みんな捧げてください」と。「それで、私は、あのインスピレーションが自分の心から出たものではなく、主の御声であることを確信したのです」と彼女は言っている。 

アレキサンドリーナのこの言葉には、非常に意味深いものがある。真実の神秘的経験というものは、人間の側にその源泉があるのではない、神からの、特に強い刺激で始まるのが、その特徴である。それは、そのことが自分の主観によるものではなく、神からのものであることをよく理解させるためである。 

それで十月のはじめ、イエズスは、彼女にこう仰せになった。「私は、多くの人を私のもとに呼び集めるために、あなたを使います。人々は、あなたに励まされて、ご聖体の神秘の内にいる私を愛するようになるでしょう」と(ピニョ神父への手紙、1934年10月4日付)。 

10月4日、アレキサンドリーナは、自分の傷口から取った血で、一枚のご絵の内に、こんな言葉を書いた。「私のイエズス、あなたをすべてにこえて愛することを、私の血をもって誓います。十字架を抱きしめて、私は、死ぬほど愛したいのです。そうです。私はあなたを愛し、あなたのために死にます。おお、私の愛するイエズスよ、あなたのあの聖櫃の中に住めたら!」。 

11月1日付の、ピニョ神父への手紙に、彼女は、こう書いた。「イエズスは、私に仰せになりました、”私があなたの内に忠実に澄んで、慰めているように、あなたも精神的に聖櫃の中に住んで、私を慰め、愛するのに忠実でなければならない”と」。  

1935年  

イエズスは、アレキサンドリーナに仰せられた。「世界の罪を償うために、あなたの血を私にください。そして私の償いの御業を助けてください。もちろん、あなたは、一人では何もできません。でも、私と一緒なら何でもできます。それは、何をするにしても、また、罪人を助けるためにも、大きな能力を受けることができるからです」と。(1月3日付、ピニョ神父への手紙)  

7月30日、イエズスは、ご聖体拝領のあと、彼女にこうお話しになった、「あなたの指導司祭に私の言葉を伝えてください。”私の母に対する愛のしるしとして、全世界を荘厳な祝日でマリアに捧げてほしい”と。これは、私がかつてマリア・マルガリタ・アラコックに世界を私の御心に捧げるようにと望んだときと、ちょうど同じ気持ちです」(1935年8月1日付、ピニョ神父への手紙)。 

これに対して、アレキサンドリーナは、こう答えた、「私は、あなたの生贄、ご聖体の生贄です。あなたの愛の牢獄の小さなともしび、あなたの聖櫃の番人です。私のイエズスよ、私は、司祭と罪人と全世界のために、そして、何よりも平和のための生贄、マリアに世界を奉献するための生贄となりたいのです」と。  

※1946年、アレキサンドリーナは、イタリアのミラノ市に事務所をもつ、「生きるともしび」という名称で知られた聖体賛美運動の会員となる。これを世話したのは、彼女の第二の指導司祭である。  

1936年 

6月7日、聖三位一体の祝日、アレキサンドリーナは、はじめて、いわゆる「神秘的な死」という現象を経験する。これは、見た目には、医学的に言えば、仮死状態ともいうべきものである。この不思議な現象を、カトリック神学者たちは、さなぎが蝶に変わる現象に例えている。それは、これによって神が、霊魂を清め、ますます高められるからである。(大聖テレジア、十字架の聖ヨハネの神秘神学による)。  

9月11日、ピニョ神父は、マリアの汚れない御心に世界を奉献するようにと、ローマのカルディル・パチョリ(のちに教皇ピオ12世になる)に願い出た。  

1937年 

2月2日、ローマ聖座は、ポルトガルのブラガ市大司教に次の命令を出した、すなわち、アレキサンドリーナのケースをよく研究して、この世界をマリアへ奉献したいという願いを正確に調べて報告することである。 

10月31日、脱魂状態において、イエズスは、アレキサンドリーナに御言葉をお聞かせになった。「私の娘よ、私は、あなたを非常にすぐれた仕事のために選びました。私は、この世界を私の尊い母に捧げてほしいと教皇に伝えるためにあなたを使います」(ピニョ神父への手紙)。  

1938年 

9月30日、ピニョ神父は、アレキサンドリーナの病室で彼女のための黙想指導を始めた。そのあと、イエズスは、10月2日脱魂状態において、こう予言された。すなわち10月3日から始まって、各金曜日ごとに、真昼12時から午後3時までの間、彼女が主のご受難の苦しみのすべてに参加しなければならないと。 

そのときのことを、アレキサンドリーナは、こう言っている、「私は、この申し出を拒みませんでした。そして、全部、指導司祭に報告したのです。でも、私は、大変な悲しみをもってその日を、そして、その時間を待っていました。なぜなら、私にも神父さまにも、どんなことが起こるか、まるで想像できなかったからです」と。10月2日から3日の夜にかけて、魂の苦しみは激しかったが、体の苦しみもひどかった。この苦しみの大海で、私は、はじめてご受難の苦しみを経験したのである。ああ、私は、あのとき、どれほどの恐怖に恐れおののいていたことだろう!※  

※この苦しみが終わった10月3日、アレキサンドリーナは、一枚のご絵の裏に、こう書いた、「イエズスさま、私をゲッセマネの園からカルワリオに連れて行ってくださいました。ああ、なんという恵みでしょう!いま私は、”キリストと共に十字架につけられている”と、実際に言うことができます」と。このご絵は、バラサアル町の記録書に保存されている。アレキサンドリーナの言葉でも分かるように、彼女が経験したご受難の苦しみは、単なる彼女の感情や感受性、あるいは、黙想とか観想の産物ではなかった。たとえ、これらのものが神の賜物を受けるための道を開いたとしても、あるいは、その道を開く有益な要素だったとしても、この現象は、これらの産物ではなく、たしかに神の賜物であった。 

1939年 

1月20日脱魂状態において、イエズスは、アレキサンドリーナに、次のように仰せられた、すなわち、”マリアの御心に世界が奉献されるそのときまで、あなたに、私のご受難が再現するだろう”と(ピニョ神父への手紙参照)。 

3月20日、教皇ピオ12世が選ばれて間もない頃であった。イエズスは、アレキサンドリーナに、”世界をマリアの御心にささげるのは、この教皇である”とお知らせになった。。 

6月28日、イエズスは、アレキサンドリーナに預言された。それは、世界の犯したあまりにも重大な罪が天罰を呼んで、戦争が起こるということである。この預言を受けるや、アレキサンドリーナは、平和のために、わが身をいけにえとして捧げた(ピニョ神父への手紙)。  

1940年 

7月4日、アレキサンドリーナは、他の人々と心を合わせて、せめてものことに、祖国ポルトガルが戦争にまきこまれないように願って、みずからをいけにえとして捧げた。この奉献をイエズスは受け入れ、「ポルトガルは、戦争を免れるだろう」とはっきり断言された(ピニョ神父への手紙)。まったくその通りになったのである。  

12月、イエズスは、アレキサンドリーナに仰せられて、教皇も戦争に巻き込まれないだろうが、それにしても、精神的に大きな苦しみを受けずにはすまされないとお知らせになった(1940年2月6日付、ピニョ神父への手紙)。  

1941年  

エマヌエル・アウグスト・ディアッ・デ・アゼベドと呼ばれる医者が、初めてアレキサンドリーナの診断を引き受けた。彼は、アレキサンドリーナの死の日まで、献身的に、キリスト教的精神をもって世話した。  

8月29日、聖霊の宣教師修道会のホゼ・アルベル・テルサス神父は、アレキサンドリーナが御受難の苦しみを受けるときに立ち会って、その記録を雑誌「キリスト伝」10号(リスボア市1941年発行第5巻)に、「苦しみのご受難」のテーマで発表した。※  

※この記録は、「アレキサンドリーナ」の名をもって呼ばれる本(サレジオ会発行にも引用されている)  

1942年 

指導司祭との離別、3月27日、それまで受けていた肉体的受難の苦しみは、この時をもって最後となる。  

次の金曜日は、ちょうど聖金曜日にあたるが、この時から、もはや、肉体的形式では、ご受難の苦しみを受けず、心の中にその様々の苦しみを感じる。つまり、内的参加と呼ばれるものである。 

この日、イエズスは彼女に仰せられた。「私の娘よ、恐れるな、これからもうあなたは十字架につけられない。だが、これからは、歴史が記録できるどんな十字架よりも、さらに苦しい十字架の苦しみを受けるだろう」(日記)。 

これは、見た目には分からないが、これからは、キリストのすべての精神的、霊的苦しみに、もっと深くあずかるということを意味していた。その頃、アレキサンドリーナの衰弱がひどくなり、ある時は、もう臨終かと思われ、病人の秘跡を受けたり、遺言を書いたりしたこともあった。いわゆる神秘的死と呼ばれる不思議な現象が二度目にあったのは、ちょうどこの時からだった。それは、およそ、二年間続くことになる。※  

※アレキサンドリーナは、この二回の神秘的な死において、自分が燃え尽きて灰になったと思われるほどの、完全な崩壊を経験する。大聖テレジアは、著書「霊魂の城」の「七つの住居」の章において、灰となった霊魂は、キリストにかたどられた新しい生命によみがえると教えている。ちょうど、伝説にあるアラビアのフェニックス(不死鳥)のように、自分の灰の中からよみがえるのである。  

この年からアレキサンドリーナの完全な断食が始まり、したがって、排泄もとまった。それからは、ご聖体が、彼女の唯一の糧となり、この状態は、死ぬときまで、13年以上も続いた。10月31日、教皇ピオ12世は、公式に世界をマリアの汚れない御心に奉献した。  

1943年  

6月10日から7月20日まで、アレキサンドリーナは、オポルト市の近くのドゥーロ町にある小児麻痺病院に入院させられ、ゴメス・デ・アラウージョ博士の検査を受けなければならなかった。それは、断食して、そのうえ排泄もなく生きているという噂が広がり、しかも人々の多くがそれを信じなかったからである。医者たちも、非常に厳密な検査でその真実性を確かめることを要求していた。これらの要求は、ついに教会の権威者をして、この検査を行う決定をさせたのであった。さて、その検査ののちに、ゴメス・デ・アラウージョ博士は、報告書をこう結んだ。「アレキサンドリーナは、その入院中の40日間に、飲みも食べもせず、排泄もなかったことは絶対的に確実である」と。  

1940年  

これほどの厳しい検査を受けたのに、断食や多くの神の賜物について疑いがますますつのり、その噂は広がっていくばかりだった。それに、今は指導司祭も側になかった。アレキサンドリーナの精神的悩みは、もうはかり尽くせないほどになった。ちょうどその時、み摂理が、サレジオ会司祭の一人を霊的指導者として与えた。※  

※それは、この本の著書ウムベルト・パスクアレ神父である。彼は、間もなく、アレキサンドリーナの願いを受け入れて、1944年8月15日、彼女をサレジオ会協力者会の会員として受け入れた。 

この司祭は、アレキサンドリーナの上に、神の御業が本当に行われているのを確かめると、彼女に日記を書き取らせる命令を与えた。その英雄的秘書となったのは、姉妹のディオリンダである。実にこの人は、神が看護婦として側においてくださった天使であった。 

10月1日、この日、神秘的な婚約が行われ、神とアレキサンドリーナの霊魂は、愛の一致をとげた。このとき、イエズスは、アレキサンドリーナに仰せられた。「あなたは花嫁、そして母です。母といっても、あなたは、乙女のままであり、罪人の母となるのです」と。 

その翌日の10月2日、土曜日には、これを聖母が、間違いなく、御子イエズスの御言葉であると保証して仰せになった。「私の清いマントを受けなさい。これで全世界を覆うことができます。そうです。みんなのために、十分間に合います。私の冠も受けなさい。あなたは后になったのです」。  

1945年 

私は、人に罪を犯させる原因になったのではないだろうか?もしかしたら、私自身、罪そのものになったかもしれない?と、こんな疑いでアレキサンドリーナは、大きな苦しみを受けた。この苦しみの中で、各種の罪について、償いを捧げたのである。悪魔の攻撃がいよいよ激しさを加え、数を増し、それにつれて、魂が様々な段階を経て、キリストに同化するという経験をした。この経験の中で、キリストは、アレキサンドリーナにこう仰せられた。「私は、あなたの心を広く、大きくしたい、私の神としての愛のように大きくしたいのです。私は、あなたの心の中に世界を置きました。それで、この世界の中に私の愛を入れてください」(日記1945年3月3日)。 

その数カ月あとで、彼女は、こう書いている、「イエズスは、私の心を御手にとって、地球のように大きくされた。そして再びこれを私の中に置きながら、『私の娘よ、あなたの心は、愛の大きな球になったのです…』(日記1945年6月22日)と仰せになったと。 

また9月1日には、再び、彼女にこんな御言葉をお聞かせになった、「私の花嫁!私の后よ、私によって生きなさい。あなたの命は、私の命です。あなたの命が神的なものとなったからこそ、私はあなたと同じになったではありませんか…あなたは噴水、そして私は、わき出て洗い清める水そのものです」(日記)と。  

1946年 

腕と脊椎の関節がくずれた。担当医のアゼベド博士は、アレキサンドリーナの全身を包帯で巻き、板の上に寝かせたが、この状態はそののち、死の時まで続いた(日記1945年10月4日)。それから始まったのが、神学者と医師たちの新しい検査、新しい診察であある。これは、彼女を肉体的にも、非常に苦しめる結果となった(日記1946年11月26日)。  

1947年  

衰弱が非常に激しくなったのを感じて、アレキサンドリーナは、大変努力を払って、自らペンをとって罪人に残す遺言を、こうしたためた。
「私は、苦しみながら、私の生涯をすごし、いつか私の天を、あなたたちを愛し、あなたたちのために祈ってすごすことでしょう。おお罪人たちよ。改心してイエズスを愛してください。そしてマリアも愛してください。さあ、ここへ来てください。一緒に天国に行きましょう。もしも、あなたたちが、私が耐え抜いたあの恐ろしい苦しみを、その一かけらなりと感じることができたら、あなたたちは、もう決して罪を犯したりなどしないでしょう。私は、それを固く信じます。もし、イエズスがどれほど愛してくださっているかを知ったなら、あなたたちは、彼に加えた侮辱を考えて、悲しみのあまりに死ぬでしょう。もう、罪を犯さないでください。神は私たちを創ってくださった、私たちの父ではありませんか!」  

1948年  

アレキサンドリーナは、いよいよキリストの愛をおびて、小教区の司牧的活躍を助けた。彼女に助けを依頼する貧しい人たちを助け、召し出しを助け、教区の神学校や修道会の養成学院のために援助をおしまなかった。こうしているうちに、霊的な指導や相談を求めて、訪れる人々の数が、どんどん増えていった。 

イエズスは、(寝たきりで、何一つ人のためにしてやれそうもない)アレキサンドリーナに仰せになる。「あなたが人を助けることができるのは、あなたのその苦しみ以外にはありません。あなたの苦しみこそ、人々の霊魂にとって、魚に対する水、地球に対する太陽以上のものであることを、固く信じなさい」と(日記1948年2月6日)。 

7月14日、アレキサンドリーナは、この日、自らの手で自分の基礎のためにこう書いた。「罪人のみなさん、もし私の灰があなたの救いに役立つのでしたら、近づいて、その上を歩いてください。私の灰がすっかりなくなってしまうまで踏んでもかまいません。でも、その代わりに、もう罪を犯さないでください。私たちのイエズスを、もう侮辱しないでください。みなさん、私は言いたいことが山ほどあります。でも、それをみんな書こうと思えば、この広い墓地でさえ間に合いません。どうか、改心してください!もう決してイエズスを侮辱しないでください!永遠にイエズスを失うことがあってはならないからです。イエズスは、これほどよいお方ではありませんか。だから、罪はもうたくさんです。愛するのです。イエズスを愛するのです」※と。  

※事実、この墓碑はアレキサンドリーナの墓石に刻まれ、週ごとに、幾千人の人がここを訪れる。  

9月23日、この日、第二の指導司祭の最後の訪問を受けた。それは、彼がイタリアに帰国する命令を受けたからだった。それでも、アレキサンドリーナは、彼に死ぬときまで自分の日記を送ることを止めなかった。指導司祭を二度までも失った彼女を、イエズスはお慰めになった。「私は、神的芸術家です。あなたの無(小さな自我の壊滅)で、最大の傑作を実現させます。あなたのその暗闇で、私は人々の霊魂を照らしてあげたいのです」と(日記、1948年10月1日)。  

1949年 

イエズスは、アレキサンドリーナに、彼女の墓に多くの罪人を呼び寄せて改心させることを約束された(日記1949年9月2日)。ロザリオの聖母も、御手にロザリオをもって現れ、アレキサンドリーナに仰せられた。「世界は、臨終の苦しみに悶え、罪の内に死のうとしています。それで、私はあなたに祈りと苦業を世界のために願います。どうか、このロザリオであなたの愛する人と世界を取り囲み、守ってあげてください」(日記1949年10月1日)。  

1950年  

7月28日、その脱魂状態において、イエズスは、アレキサンドリーナに仰せられた。「私にあなたの償いを捧げなさい。そして、私の差し迫ったメッセージを聞きなさい。”祈りと償いに専念し、悪い生活を改め、清い生活を送るように、という、最高の呼びかけを、教皇が世界にすることを私は要求します」。 

9月1日、この日イエズスは、また、次のように仰せになる。「私の悩みにあなたの悩みを合わせ、私の苦しみにあなたの苦しみを、私のカルワリオにあなたのカルワリオを合わせてください。そのカルワリオこそ、苦しみと救いのカルワリオなのです」と(日記)。 

キリストの苦しみにあずかった彼女の体は、聖痕までも受けた。しかし、その激しい苦痛にもかかわらず、見た目には、普通と何ら変わることがなかった。イエズスは、そのとき、こう仰せられるのだった。 

「私の娘よ、私の傷からバルサムをとってあなたの傷に移してあげます。あなたの傷は、肉眼に見えなくても、ひどい苦しみを与える非常に深い傷です。それは、あなたの手がその苦しい傷をもって、私の神的種をまくためです。あなたの足は、その口を開いた傷のために歩けなくなりました。でも、それで亡びへ走る人々の霊魂をその迷いの道から引き出すのです。私は、自分の頭の傷からバルサムを取って、あなたの頭に移してあげましょう。これであなたのいばらの痛みは、やわらぎ、あなたは強められ、その苦しみで、人々の心から悪い意向と、よくない考えを取り去ることができるでしょう。そうです、私は、自分の心から、愛のバルサムと火のバルサムを取って、あなたに移します。それは、あなたが私を愛するため、そして、あなたが人々に私を愛させるためです。また、あなた自身にこの火とこの愛を持たせ、こうして、あなたが、私の心のやさしさと柔和を、絶えず持ち続けるためです」(日記、1950年9月1日)と。  

1951年 

1月19日、この日イエズスは、脱魂状態の内にアレキサンドリーナに仰せられた。「早く、早く、もっと祈りを、もっと償いを!生活と風俗を早く改めなさい!私の子らよ、早くしてください」(日記)。アレキサンドリーナは、答えて言った。「あなたは、早くとおっしゃいます。でも、私はお願いします。”イエズスさま、どうぞ、お待ちになってください。ああ、待ってください。イエズスさま、あの人たちに時間を与えてやってください。私は、あなたのいけにえです。この世界のために、御赦しを頂きとうございます」(日記1951年1月19日)。 

いけにえとなってから、アレキサンドリーナは、神的いけにえであるイエズスと、ますます似かよってきた。その数年前アレキサンドリーナをご自分と同化させたとき、イエズスは仰せられるのだった。「あなたは、(これから)私の命で生き、私の苦しみで苦しみ、私の愛で愛するようになりました。あなたは、私の命で生きると言いましたが、それは、私が、自分の命で、あなたを生かすからです。また、私の苦しみであなたが苦しむというのは、私自身、私の苦しみをあなたに感じさせてあげるからです。こうして、あなたは、いけにえとなって、償いをするようになるのです。また、あなたが私の愛で愛するようになるのは、私が、自分の愛をあなたの心に注いであげたからです。なぜ注いだか分かりますか?それは、あなた自身私を愛すると共に、あなたが、人々に私を愛させるようにするためです」(日記1951年11月23日)  

1952年  

1月18日、この日付でアレキサンドリーナは、その日記にこう書いた。「私は心の中で、自分が何を感じているのか分かりません…だれか漁師みたいな人がいて、たくさんの網を作っているのを感じます。それは、無数の人々をすなどるためです。その人が、網を投げたような感じがします。私が自分の心から、網を取り出しても、取り出しても、投げねばならない網は、それ以上に残っているのです。私の心は、投げ網が獲物で一杯になるようにと無限といっていいほどに、気を使っています。ああ、なんと大変な仕事、耐え難い疲れでしょう!」と。 

この年から、相談にのってもらうために、彼女のもとを訪れる人の数が、おそろしい程増えてきた。改心者も、数えきれないほどだ!この他に、もう一つアレキサンドリーナにとって大変なことがあった。彼女は、自分の生涯と、今までの殉教とも言える苦しみがすべて無駄だったのではなかったか?という疑いに悩まされだしたのだ。その気持ちを、日記に、「私の一生涯は無駄になった」と書き取らせている(1952年5月16日)。  

1953年  

1月9日、それでも彼女は、こう書き取らせた。「希望と信頼だけが、私の苦しみをやわらげることができます。私に信頼が欠けているのは確かです。でも私は信頼します。苦しみのない生活は、かえって私には耐え難いのです。なぜなら、十字架を愛をもって引き受けるときの、あの甘美さは、例えようもないほどですから」と(日記)。 

また、カルワリオの苦しみ悶えを、日記にこう書いた。「カルワリオのこの苦しみ、これこそ愛の秘密、愛の奥義、そして同時に、贖いの秘密と奥義でもあります」(日記1953年5月1日)と。こうしてアレキサンドリーナは、救いのために苦しみがどれほど大きな価値をもっているかを悟ったのだった。 

イエズスは、彼女に仰せられた。「私は、あなたの心の太陽です、命です、愛です。この太陽も、命も、愛も、みんな神のものです。それで私は、あなたを通じて人々の霊魂と交わることにします。あなたは、私イエズスの公生活の協力者です(日記1953年5月15日)と。 

11月20日、この日、脱魂状態のうちにイエズスは仰せられた。「私は、罪人への愛のために、全人類の愛のために、このカルワリオを選びました。私は、これから、このカルワリオを”罪人のカルワリオ”と呼びます」(日記)と。  

12月25日 内的にだけ感じ取るご受難の再現があるたびごとに、公の脱魂状態があるのは普通だった。しかし、今日をもって、それは最後となった。  

1954年   

この年で、完全な断食と排泄の停止が始まって12年目であった。イエズスは、アレキサンドリーナに仰せられた。「私があなたにこの世の命を与え、私だけがあなたの糧となったのは、ご聖体にどれほどの効力があるかを知らせるため、私の命が人々の霊魂にとって何であるかを知らせるためです。結局、ご聖体こそ、人類のための光であり、救いであることを、世に証明するためだったのです」(日記1954年4月9日)と。 

5月には、第一の指導司祭ピニョ神父に手紙を書いて、次のように言っている。「ああ、私は、どれほどあなたに会いたがっていることでしょう。あなたに心を打ち明け、私が心の中にもっている本の数えきれないほどのページをお見せしたいのです。この本は、永遠の光のもとでだけ、そのすべてを読み、理解することができるものです。私が自分を与えたい望みも、イエズスの愛に自分を燃え尽くしたい望みも、まことのすべての霊魂をイエズスのもとに導いてあげたい望みも、全部この本の中に記されています。ただ一人だって、霊魂を失うことに、私は承知できません。この本は、どれほどのことを物語るでしょう!」(1954年5月28日)と。この生きた本こそ、キリストご自身のことであった。彼女は、十字架につけられたキリストに同化したことを感じていたのだ。 

9月になると、イエズスは、アレキサンドリーナに次の御言葉をお聞かせになった。「あなたの生涯は、私の続く受難です。なるほど神秘的な受難ではありますが、それは、私の尊い受難をすべて含んでいるのです」(日記1954年9月24日)と。 

その2、3日あとで、またアレキサンドリーナは、日記にこう書き取らせた。「ああ、あのときです。イエズスの御心の奥深い傷から、とどろく稲光が出て、ものすごい光を放ったので、何もかもみんな照らし出されました。すると、まもなく、光線がイエズスのありとあらゆる御傷があふれ出て、私の手と足を刺し貫きました。また、イエズスの御頭から、太陽のようなものが出て、私の頭脳を貫いたのです。イエズスは、御心からとどろき出た最初のあの稲光のことを、こう説明されました。「私の娘よ、むかし、私は、聖女マルガリタ・マリア・(アラコック)に頼んだように、あなたにも願います。どうか、世界から消えた私に対する愛を、あなたがもう一度燃え立たせてください。あなたは先に、この世界が私の祝福された御母に奉献されるように協力してくれましたから、こんども、私に対する愛に全人類が燃え立つように、骨おってほしいのです。そうです、私のいとしい花嫁よ、私とマリアの御心を愛する愛を全世界に広めるのですよ”と」(日記1954年10月1日)。 

これほどの様々なお示しを受けたのに、アレキサンドリーナは、信仰に対する恐ろしいいざないを感じた。まるで暗闇の中にいるかのようだったこの時のことを、日記は次のように述べる。「私は、やっとのことで自分の信仰宣言を繰り返すことができました。イエズスに向かって”信じます、希望します、信頼します”と繰り返しても、自分はうそを言っているのではないかというような気がしたのです」(1954年10月8日)と。  

1955年 

1月7日、イエズスは、この日、アレキサンドリーナに死の予告をされた。「あなたは、あなたの年、あなたの最後の年に辿りついたのです。信頼しなさい、私に信頼しなさい」。2月11日、イエズスは、彼女に次のように仰せになった。「私の娘よ、勇気を出しなさい。あなたの病室とあなたの生涯は、世界にどれほど多くの教訓を与えることでしょう!それこそ、人間を教える神の学校、暗闇に座る人々を照らす神の光なのです」(日記)。 

10月13日、この日は、聖母がファチマに出現された、最後の出現の記念日であった。ちょうどこの日に、アレキサンドリーナは、帰天したのである。愛のために燃え尽きて灰となった彼女の心臓は、この日、午後8時29分に止まった。  

アレキサンドリーナの生前の希望どおり、墓に葬られたとき、その顔は、ご聖体の秘跡のうちにましますイエズスへの愛のしるしとして、所属教会の聖櫃に向けられていた。