聖母マリアの栄光(朗読)

2019年10月31日

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Contents

元后、あわれみ深い御母

マリアは、あわれみの元后であるから、これに対して深い信頼の念を抱かなければならない。

至聖童貞マリアは、王の王であるお方の御母という栄位に上げられた。それゆえ、教会は、聖母マリアに、元后という光栄ある尊称を捧げると共に、すべての信徒にも、これを捧げるように要求する。そして、これは、きわめて、当然なことである。聖アタナジオは、「マリアがお生みになった御子が王であるならば、その母である童貞マリアは、当然、女王、元后であって、そのようにお呼びすべきである」と言っている。

シエナの聖ベルナルディノによれば、マリアは、永遠の御言葉の御母となることに同意したときから、世界の元后、被造物全体の元后となったのである。聖人は言っている。「マリアの同意は、世界の王笏、宇宙の帝国、全被造物に対する主権を与えられる価値があった」と。

アルノー・ド・シャトルは、次のように論じている。「イエズスの肉と、マリアの肉とは、ただ一つの肉、同じ肉である。それなのに、御母が御子の主権にあずかれない訳があろうか。あずかるという言葉さえも適切とは言えない。御子の光栄と御母の光栄とは、ただ一つの栄光、同じ光栄である。」

イエズスは宇宙の王である。それで、マリアは宇宙の女王である。ルペルトは、「マリアは元后に立てられたのであるから、当然、御子の王国全体を所有する」と言っている。それゆえに、シエナの聖ベルナルディノは、次のように断定している。「神が被造物の奉仕を受けたられたように、マリアも被造物の報酬を期待している。そして、天使と人間、一言でいうならば、すべての被造物は、神の配下にあるので、当然、光栄ある童貞の配下にもあるわけである」。

また、ゲリックも、神の御母に向かって、次のように言っている。「ああ、マリアよ、安心して、あなたの王権を行使してください。ためらわず、元后として行動し、御子の宝を、思うままに処理してください。あなたは、宇宙の王の御母であり、元后です。ですから、あなたは、統治する権利、すべての被造物に対する至上の権力をお持ちです」。

要するに、マリアは元后である。しかも、私たちにとって慰めとなることは、マリアは、大変善良寛仁な元后であって、みじめな私たちに善をほどこそうと待ちかまえているのである。それゆえ、教会は、「元后、あわれみ深い御母」の祈りの中で、マリアをあわれみの御母と呼ばせるのである。

聖大アルベルトによれば、女帝という称号が、厳格さ、過酷さを意味するのに反して、元后という称号は、貧しい人々に対する同情と配慮とを意味する。セネカが言ったように、「不幸なものを助けることこそ、王と女王との偉大さを構成するのである」。暴君は、その権力を自己の利益のために用いるが、王たるものは、人民の利益をはかるように努めなければならない。

このような訳で、王の祝聖式にあたっては、その頭上に、あわれみの象徴である油を注ぐのである。王座につく者は、なによりもまず、臣下に対する同情と思いやりとに満ち満ちた心をもっていなければならないことを思い起こさせるためである。要するに、王たる者の第一の義務は、慈悲のわざに励むことである。もっとも、必要なときには、悪人に対して正義を行使することを怠ってはならない。

けれども、マリアの場合は、そうではない。元后であるマリアは、罪人を罰する正義の王笏ではなく、ただ慈悲の王笏だけを有しているのだ。したがって、マリアには、恩寵と赦しの役目しかないのである。ダビデは次のように歌っている。「私は二つのことを聞いた。権力は神にあり、それから、主よ、あなたにはあわれみがある」と。パリ大学の偉大な総長ジャン・ジェルソンは、これを次のように説明している。「神の支配は、権力と慈悲とに成り立つ。権力は神ご自身、これを保留なさった。けれども慈悲の行使は、母后マリアにゆだねられているのである」。

主は、正義と慈悲とによって行使されるその至上の権力を二分された。そして、正義はご自分で保有し、慈悲をマリアにゆずられた。それゆえ、人間に対してなされる慈悲はみな、マリアの手を経てなされるのであり、マリアは思うままに、この慈悲を注ぐのである。聖トマス・アクイナスは、その「聖典書簡」の前書きで、聖母マリアのこの特権を確認している。「マリアは、神の御子を宿し、ついで、これをお生みになったとき、神の治世の半分を分けてもらった。すなわち、キリストが正義の王にてましますように、マリアは慈悲の元后でいらっしゃるのである」。

永遠の御父は、イエズス・キリストを、正義の王にお立てになった。そのため、イエズス・キリストは、世の普遍的な審判者でいらっしゃるのである。「ああ神よ、あなたの審判を王に与え、あなたの正義を王の子に与えてください」(詩編72・1)という預言的歌は、このことを歌っているのである。しかし、ある博学な注釈家は言っている。「主よ、あなたは、御子に正義を与えました。つまり、あなたの慈悲は、王の母に与えたからです」と。

したがって聖ボナヴェンツーラが、詩編作者のこの言葉を、次のように言い換えたのは正しい。「主よ、あなたの審判を王に与え、あなたの慈悲を、その母后に与えてください」。プラーグの大司教エルネストも、同じような考えを述べて、「永遠の御父は審判をまったく御子に与え、慈悲の役目をその母にお与えになった」と言っている。

審判し、処罰するのは、イエズス・キリストの役目であり、私たちのみじめさに同情し、これを和らげるのは、マリアの役目である。それゆえ、ダビデの預言によれば、神は、いわばマリアの上に喜びの油を注いで、これを祝聖し、慈悲の元后としてお立てになったのである。あわれなアダムの子である私たちにとって、聖ボナヴェンツーラが言っているように、「あふれる同情と慈悲との油」を私たちに注ぐ偉大な元后を有することは、どんなに喜ばしいことであろうか。

エステル皇后の物語は、これを説明するのにもっとも適した物語である。聖大アルベルトは、この物語を元后マリアに適用している。エステル皇后は、聖母マリアのかたどりにすぎないのである。エステル書第四巻には、つぎのような物語が記されている。アスエルス王の治下に、すべてのユダヤ人を殺せという勅令が全国に発布された。ユダヤ人の一人であったマルドケオは、同胞の救いをエステル皇后に依頼し、勅令の取り消しを王に嘆願させた。エステル皇后は、はじめのうち、アスエルス王の怒りをおそれて、マルドケオの願いを拒んだ。しかし、マルドケオは彼女を叱責し、使者を立てて、彼女に、「自分は王宮にいるから、ユダヤ人が皆殺されても、自分だけは助かると考えてはならない。主があなたを皇后の位に上げたのは、その国民を救わせるためである」と言わせた。マルドケオは、エステル皇后に向かってこのように語ったのであった。

正義の罰として、死を宣告されたあわれな罪人である私たちは、もしも元后マリアが、私たちの救いを神に執り成すことをためらうならば、マルドケオと同じことを申し上げることができるであろう。「ああ、私たちの元后よ、あなたは王宮に住んでいます。神によって宇宙の元后に立てられたからです。しかし、あなたは、ご自分だけ助かれば、他の人間はみな死んでもよいとお考えになってはいけません。なぜなら、あなたが元后の位に上げられたのは、ただあなた一人のためではないからです。神があなたをこれほどまでに偉大なものとされたのは、なお一層、私たちの惨めさに同情し、これを助けるようにするためです」。

アスエルス王は、エステルが御前に進み出るのを見ると、愛情を込めて、要件をたずねた。王は言った。「何か願いがあるのか」と。すると皇后は答えて言った。「ああ、王様、もしも私が王様のお気に召しているのでしたら、どうぞ私の民を私にお与えください。これが私の願いです」。王は皇后の願いを聞き入れ、すぐさま勅令を発して、宣告を取り消したのである。さて、アスエルス王がエステル皇后の願いによって、ユダヤ人の命を助けたのは、王が皇后を愛していたからである。

神はマリアを限りなく愛しておられる。それで、マリアが、ご自分によりたのむあわれな罪人のために祈る時、どうして、その願いを聞き届けずにいられようか。マリアは神に祈られる。「ああ、私の王よ、私の神よ、もしも、私があなたのお気にめしているのでしたら…」と。しかし、マリアは、ご自分が神の母であること、祝せられたもの、至福なものであること、すべての人が恩寵を失っているのに、ただ一人これに浴していることを知っており、ご自分が主を愛するもの、すべての聖人と天使とを超えて主の親愛しているものであることを知っておられる。それで、マリアは祈られる。「もしも、あなたが私を愛してくださるのでしたら、どうぞ、私に、私の人民を与えてください。どうぞ、罪人を与えてください。これが私の願いです」と。

さて神はこのような願いを拒むことができるだろうか。マリアの祈りが、神のみ前に、どれほど力あるものであるかを、知らないものがあるだろうか。「寛仁の法はその舌の上にある」。マリアの祈りは、ひとつひとつ、法の力をもっている。なぜなら、主は、マリアが執り成しを願うすべての者に慈悲をたれるとお定めになったからである。

聖ベルナルドは、「教会は、どうして、マリアをあわれみの元后とお呼びするのか」という問いに、次のように答えている。「それは、マリアが望むものに、望むときに、望む通りに、神の御あわれみの深淵を開くことを示すためである。だから、罪人は、どんなに悪にこりかたまっているものであっても、聖者中の聖者であるマリアが、これをご保護のもとに置くならば、決して滅びることはない」。

しかし、マリアは、この罪人が、あまりにも多くの罪を背負っているのを見て、そのために執り成すことを拒まれることはないだろうか。また、この偉大な元后の尊位と聖性は、私たちを恐れさせるのに十分ではなかろうか。聖グレゴリオ7世は、これに答えて、「いいえ、マリアの偉大さと聖性は、改心を望んで、よりたのむ罪人に対して、彼女をさらに寛容なもの、やさしいもの、とするだけである」と言っている。

王や女王は、その威厳によって、人々に恐怖を抱かせ、臣下はその前に出ることを恐れる。しかし聖ベルナルドが言っているように、どんなに弱く惨めな人間も、マリアを恐れて、これから遠ざかる必要はない。マリアは、あわれみの元后だからである。

マリアを、よく眺めてみよう。「マリアには、厳しい所、恐ろしい所が少しもない。マリアは、きわめてやさしく、親切である」。その上、マリアは、自ら、私たち皆に乳と羊毛を与えるのである」。そのあわれみの乳は私たちの信頼を強め、羊毛、すなわち、そのやさしいご保護は、私たちを神の厳しい正義から守るのである。

スエトニウスが記したところによれば、チツス帝は請願者に何も拒むことはなかった。ときには、できないことまで約束をした。誰かがこれについて帝に忠告すると、彼は、「君主は臣下に面謁をゆるしたならば、これを満足させてかえさなければいけない」と答えた。しかし、実際において、多くの場合、その約束は、偽りであり、履行されずに終わったに違いない。

ところが、私たちの元后は偽ることができない。そして、望むものは何でも与える権利があるのだ。その上、マリアの御心は、慈悲と、なさけに満ちているために、ご自分に祈る人の願いを拒絶して、これを悲しませることができない。ランスペルジュが言っているように、「私たちが悲しみを抱いてマリアに近づくとき、情け深いマリアは、必ず慰めをお与えになるにちがいないのである」。

聖ベルナルドはマリアに向かって、次のように祈っている。「ああ、マリアよ、あなたは、あわれみの元后でおいでになるのに、あわれな人々にどうして助けを拒むことができましょう。あなたはあわれみの元后であり、私は罪人のうちで一番罪深いしもべです。それゆえ、私は、他の誰にもまして、あなたのもっとも厚い配慮を求めることができます。ああ、あわれみの元后よ、私たちを治めてください。私たちの永遠の救いを引き受けてください。ああ、至聖童貞よ、私たちの罪があまりにも多いからと言って、私たちの願いを拒まないでください。たくさんの罪は、あなたが私たちを助ける妨げにはなりません。ニコメディアの聖ジョルジオが言っているように、『あなたは、打ち勝つことのできない力をもっています。あなたのあわれみは、私たちの多くの罪よりもはるかにまさっています。あなたの権力には、何ものも、逆らうことはできません。あなたと私たちとをお造りになったお方が、あなたを母として崇め、あなたの光栄を、自らの光栄のようにご覧になっているからです。創造主は、また、これを子としての喜びとし、あなたの願いをすべて聞き入れて、負い目を返そうと思っているのです」。

「負い目を返す」とは、どんな意味であろうか。マリアが、ご自分を母とした御子に対して、限りない恩義を感じていることは言うまでもない。しかし、御子が、ご自分に人間としての存在を与えたマリアに対して、恩義を感じていることも明らかである。それで、イエズスは、マリアに負い目を返そうと、これを敬い、その光栄をあげることを喜ぶのであり、とりわけ、いつ、いかなることについても、その祈りを聞き届け、もって、これを敬われるのである。

それゆえ、私たちは、私たちの元后に対して、どんなに大きな信頼を持つべきであろうか。マリアは神の御前に大きな力をもち、一方、その心は、慈悲に満ち満ちているのであるから、この地上で、その慈しみと恩恵との効果を感じないものは、一人もないのである。

聖母マリアは、聖女ブリジッタに、これを啓示された。「私は、天の元后であり、あわれみの元后です。私は、善人の喜びの源、罪人が神に入るための開かれた門戸で、この地上で、どんなに呪うべき罪人でも、生きている限り、私の慈悲を感じないものはありません。少なくとも、悪魔の誘惑を少なくしてもらえます。悪魔の誘惑を少なくしてもらうことは、私の執り成しの賜物なのです。絶対的に呪われたもの、すなわち、地獄に落ちた者でない限り、私に助けを求めて、神に立ち帰れない人、神の慈悲を見出せない人はいません。あわれみの母!これはすべての人が私に与える名称です。実際、神の人間に対する慈悲は、私を、あわれみに満ち満ちたものとなさいました。ああ、それにも関わらず、私の助けを求めない者は、本当に不幸です」と。

本当に、この世において、私たちすべてに対するあわれみに満ち、罪人を助けようと望むマリアのお助けを呼び求めることができるのに、それを怠って、地獄に落ちる人は、永遠に、不幸な者と言わなければならない。

それゆえ、やさしい元后の御足元に馳せよろう。マリアに忠実に仕えよう。そうすれば、私たちの救霊を安全なものとすることができるのだ。もし犯した罪を顧みて、恐れたり落胆したりするとき、マリアがあわれみの元后として立てられた理由を思い起こそう。それは、どんなに大きな罪人、どんなに絶望的な罪人も、マリアによりたのむならば、そのご保護によって救われるためである。

それに、このような罪人こそは、天国でマリアの冠となるべきではなかろうか。マリアの神にておられる浄配は、彼女に向かって、「ああ、私の妻よ、来なさい。レバノンより来なさい。あなたは、獅子の洞窟、豹の山々を冠として受けるべき」(雅歌4・8)と仰せられた。このどう猛な、恐るべき動物の洞窟とは、地上で出会うもっとも恐ろしい怪物、罪の洞窟であるあわれな霊魂でなくてなんであろうか。

ルペルトは、この聖句を注釈して、「ああ、マリアよ、これが、あなたの冠となるべき獅子の洞窟です。あなたの冠は、彼らの救霊です」と言っている。ああ、栄えある元后、これらの不幸な罪人は、あなたの執り成しによってのみ、救われるのです。ですから、彼らが天において、あなたの光栄となるのは当然です。そして、これは、あわれみの元后に何よりにもましてふさわしい冠です。

祈り

ああ、神の御母であり、私の元后であるマリア、私は、腫れ物におおわれた醜い貧者が偉大な女王の前に出るときのように、天地の元后であるあなたの御前に出ます。

どうか、あなたがお座りになっている玉座から、あなたの御目を、あわれな罪人である私に注いでください。

神があなたをあわれみの元后としたのは、貧しい人々を助けるためであり、みじめな人々の勇気を励ますためです。ですから、私にあなたの御目を注いでください。

私をあわれみ、私を見捨てないでください。罪人である私が聖人となるまで、私を守ってください。

私には、少しの功徳もありません。むしろ、私は、忘恩のために、あなたの御手を通して神から受けるすべての恩恵をとりあげられるべき者です。

しかし、あなたはあわれみの元后です。あなたは、私の功徳ではなく、私の惨めさを求め、苦しむ者を助けようと望んでおられます。さて、私よりも貧しく、醜い者はいるでしょうか。

御母よ、私はあなたの民です。あなたは宇宙の元后であるからです。ですから、私は、あなたに私のすべてを捧げます。私を、あなたの望みのままに、お使いになってください。

私の元后よ、私は、あなたの支配に身をゆだねます。どうか、すべてにおいて、私を支配し、私を治めてください。そして私があなたに捧げたものを取り戻すことを決してゆるさないでください。

私に命じ、私を望みのままにお使いください。私があなたに従わないとき、ためらうことなく、私を罰してください。そのとき、あなたの御手からくだされる罰は私にとって、どれほど有益か。

ああマリアよ、あなたのしもべであることは、私にとって、世界の君主になるより、はるかにすぐれています。「私はあなたのものです。私を救ってください。」(詩編118・94)私をあなたのものとして所有してください。そして、あなたのものとして救ってください。

私は、もはや、私自身の主であることを望みません。私は、あなたに私のすべてをゆだねます。今までの私は十分にあなたに奉仕してきませんでした。私は、あなたを崇める機会を何回も逃してきました。

しかし、これから後、私は、だれにもまさって熱心にあなたを崇め、愛することを決心します。私はこれをあなたに約束します。そして、あなたの助けによってこの約束を果たすことを望みます。アーメン。

マリアは私たちの母であるから、マリアに対する私たちの信頼はいっそう深くなければいけない。

マリアの信心深いしもべたちが、これを御母とお呼びするのは、敬虔な空想でも、むなしい幻想でもない。彼らは、これ以外の名称でマリアをお呼びすることはできないし、マリアに、御母という本当にやさしいみ名を捧げて飽きることを知らない。ああ、本当に、マリアは私たちの母である。肉による母ではないが、霊による母である。私たちの霊魂の母であり、私たちの救霊の母である。

罪によって、私たちの霊魂は神の恩寵を失うと共に、生命を奪われたのであった。つまり、私たちの霊魂は、罪によって、死の中に沈められたのであった。しかし、私たちの贖い主であるイエズスは、慈悲と愛のあまり、十字架上の死によって、私たちが失った生命を再び私たちに返してくださったのである。

贖い主は、御自らこれを言明しておいでになる。「私が来たのは、羊が生命を得、しかも、なお豊かに得るためである」と。「なお豊かに」というのは、神学者の教えるところによれば、イエズスがその贖罪によって私たちにもたらした善は、アダムが罪によって与えた損失にまさるからである。

それで、イエズスは、神と私たちを和睦させると同時に、恩恵の新しい律法のもとに、霊魂の父とおなりになったのである。イザヤはすでにこれを預言している。「彼は来世の父、平和の君主と呼ばれるであろう」(イザヤ9・6)。

さて、イエズスが私たちの霊魂の父であるならば、マリアは、私たちの霊魂の母である。と言うのは、マリアは、カルワリオにおいて、御子を私たちの救いのために捧げることによって、私たちを恩恵の神的生命にお生みになったからである。

聖教父らの教えるところによれば、マリアは、二つの場合に、私たちの霊魂の母となられた。まずマリアは、神の御子をその童貞なる母胎にお宿しになったとき、私たちの霊魂の母となられた。これは聖大アルベルトが教えるところであり、またシエナの聖ベルナルディノは、もっとこれを明確に教えている。聖ベルナルディノの言うところによれば、受胎告知の日、至聖童貞は、永遠の御子が、マリアの子となるためにお待ちになっていたその同意をお与えになったとき、「この同意によって、異常な熱心をもって、私たちの救いを求め、これを獲得してくださった。また、この同意によって、ご自身を残りなく私たちの贖いの業に捧げ、その時から、私たちすべてを、その子供としてご胎に宿し、もっとも真実に、私たちの母となられたのである」。

聖ルカは、私たちの救い主の誕生についてのべ、「マリアははじめての子を産んだ」(ルカ2・7)と言っている。もう一人の著述家は「福音史家が『マリアははじめての子を産んだ』と断言しているのを見ると、その後、他の子どもをお産みになったと推測すべきではなかろうか。しかし、マリアが、肉によって、イエズス以外の子供をお産みにならなかったのは真実である。それで、マリアは、霊によって、その他の子どもをお産みになったのである。そして、これらの子供というのは、私たちである」と言っている。

聖女ジェルツルダは、ある日、福音のこの箇所を読んで、疑惑をいだいていた。聖女は、イエズス・キリストが、マリアのひとり子でありながら、どうしてはじめての子と呼ばれることができるのか、分からないのであった。すると、主は啓示によって、上に述べたのと同じ説明を聖女になされた。すなわち、肉によって宿されたイエズスは、マリアのはじめての子であり、私たち人類は、霊によって宿された弟妹なのである。

雅歌のなかには、マリアについて、「あなたの胎はゆりに囲まれた小麦の山」(雅歌7・3)と記されているが、この言葉の意味は、上の説明によって明らかである。聖アンブロジオは、この句を次のように解釈している。「マリアのいとも清浄な胎は、ただ一粒の小麦、すなわち、聖主イエズス・キリストしか宿さなかった。しかしマリアの胎が、小麦の山と呼ばれるのは、この粒がマリアの子となるように選ばれたもののみんなの芽を含んでいたからである。それゆえ、イエズス・キリストは、多くの兄弟のはじめての子と呼ばれるのである」。

聖なる修道院長ギョームも書いている。「マリアは、御ひとり子、すべての人の救い主であるイエズスをお産みすることによって、おびただしい子供を救霊にお産みになった。マリアは生命である方を産むことで、彼らに生命を与えたのである」と。要するに、マリアは、私たちの救い主、私たちの生命であるイエズスをお産みすることによって、私たちすべてを、救霊と生命とにお産みになったのである。

マリアが私たちに恩恵の生命をお与えになったのは、カルワリオにおいてである。そこで、マリアは限りない悲しみに満ち満ちた御心をもって、永遠の天の父に、私たちの救いのために、愛する御子の生命を捧げたのである。

聖アウグスティヌスが断言しているように、「マリアは、その時から、救い主の肢体の霊的聖母におなりになった。と言うのは、マリアは、その愛によって、信徒を教会に生まれさせることに協力し、私たちを、私たちの頭であるイエズス・キリストの恩恵によって、再生させることに、協力したからである。

雅歌には、「私はぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで」(雅歌1・6)と記されている。この句は、聖母マリアに適用されるが、上に述べたような意味である。マリアは、私たちの霊魂を救うために、御子の生命を犠牲にすることに同意されたのである。修道院長ギョームは、「マリアは、おびただしい霊魂を救うために、ご自分の霊魂を死に渡された」と言っている。

さて、マリアの霊魂とは、御子イエズスでなくてなんであろう。イエズスは、マリアの生命であり、その愛のすべてであったのである。そうであるからこそ、聖シメオンは、童貞聖マリアに、「あなた自身も剣で刺し貫かれます」(ルカ2・35)と預言したのであった。それほど残酷なこの剣とは、マリアの霊魂とも言うべきイエズスの御脇腹を貫いた槍だったのである。このとき、マリアは、その悲しみによって、私たちを永遠の生命にお産みになった。そして、そのときから、私たちはみな、マリアの悲しみの子と呼ぶことができるのである。

私たちの愛深い御母は、神の神聖なご意志に、いつも完全に一致しておられた。さて、永遠の御父は、人間を救うために、御子の死をお望みになるまで、人間をお愛しになったし、御子は、私たちのために死んでくださるまで、私たちを愛してくださった。それゆえ、マリアは、聖ボナヴェンツーラが言うように、この御子の愛に完全に合致したいと思われ、寛容な意志をもって、御子を捧げ、御子が、人類の救いのために死ぬことを同意されたので、これを疑うことは許されないのである。

もっとも、イエズスが、人類の救いのために、ただ一人、死ぬことをお望みになったのは、事実である。主は仰せになった。「私は、ただ一人、酒ぶねを踏んだ」(イザヤ63・3)と。

しかしながら、マリアが、私たちの救いのために、ご自身を捧げ尽くしたいと熱望されるので、イエズスは次のようにお定めになった。すなわち、マリアは、その御命を犠牲としてイエズスに捧げることによって私たちの贖いに協力し、それによって、私たちの霊魂の母となるようにお定めになったのである。。

イエズスは、まさに死のうとするとき、十字架上から御母と弟子ヨハネとが、そばにいるのをご覧になって、このご意向をお明かしになった。イエズスは、まずマリアに向かって、「御覧なさい。あなたの子です」と仰せられた。この言葉は、「これは、あなたが、その救いのために、私の生命を犠牲に供えることによって、ただいま恩恵の生命に生んだ人間である」という意味である。

ついでイエズスは、ヨハネに向かって、「見なさい。あなたの母です」と仰せられた。この御言葉によって、マリアは、ヨハネの母とおなりになったばかりでなく、すべての人の母となられたのである。なぜなら、シエナの聖ベルナルディノが言うように、「聖ヨハネは、この場合、全人類を代表しているのであり、マリアは、全人類に対する愛によって、その母となられたからである」。

神学者シルヴェイラは、聖ヨハネがこのことを物語るにあたって用いた言葉に、注意をうながしている。彼は言った。「ヨハネは一つの人名である。弟子の名であり、普通の名である。それで、この言葉は、マリアがすべての人に母として与えられたことを示すものである」と。つまり、すべてのキリスト教徒は、イエズス・キリストの弟子であるから、私たちの救い主の明白なご意志によって、マリアを母として与えられたのである。

マリアは、「わたしは美しい愛の母」(集会書24・18)と仰せられた。ドミニコ会士パチウッチェリ師は次のように述べている。「そうだ、なぜなら、私たちの霊魂を神の御前に美しいものとするマリアの愛は、マリアをして、その子供である私たちに対し、愛情以外のなにものでもないからである」。

ああ、いとやさしい元后よ、あなたが私たちを愛して、私たちの幸福を願ってくださるほど、どんな母が、あなたと同じくらい、その子たちを愛し、その幸福を願うものがいるだろうか。聖ボナヴェンツーラは、「私たちを愛し、私たちの幸福を願う点において、マリアに比べることのできる母は一人もいない」と言っている。こんなに愛深く、力強い御母のご保護のもとに生きるものは、なんと幸福であり、至福なことだろう。

マリアがまだ生まれる前に、預言者ダビデは、神から救いを獲得するためにマリアの子の資格を要求している。彼は祈っている。「あなたのはしための子を救ってください」(詩編86・16)と。聖アウグスティヌスは、「ダビデは、どんなはしためを指しているのだろうか。それは『私は神のはしためです』と言われた方を指しているのである」と言っている。

カルディナル・ベラルミノも叫んでいる。「ああ、私たちは、このような母のご保護のもとにすっかり安心して生きることができるではないか。私たちが、敵に攻められるとき、マリアの慈しみ深い腕に逃げ込むなら、私たちをその胸から引き離すことができるであろうか。私たちが、神の御母で、私たちの母であるマリアのご保護によりたのむとき、地獄の怒りも、情欲の嵐も、私たちに打ち勝つことはできないのである」と。

くじらは、子供たちが、あるいは、大洋にゆすぶられ、あるいは漁師に追跡されて危険に陥ったと見るとすぐに、口を開いて、これを腹の中に隠すと言われている。ノヴァリノは言っている、「同情深いマリアも、このようにされる。情欲の嵐が吹きすさんで、子供たちが大きな危険にさらされているのを見ると、どんなになさるであろうか。母性愛にかられて、子供たちを、いわばその胎に隠し、そこで、子供たちを保護し、天国のしずかな港に落ち着かせるまで、たえず、彼らを見守るのである」と。

ああ、最も愛深い御母よ、あなたは、永遠に祝されますように。あなたを、私たちの母、私たちの生命の危険に際して、そのやすらかなよりどころとなされた神は、永遠に祝されますように。

子供が敵の剣に倒れようとしているのを見た母親は、これを救うために、あらん限りの努力を試みるに違いない。聖母マリアは、ご自身、聖女ブルジッタにこう語られたのち、次のように付言された。「私は、私の子供たち皆に対し、たとえ、どんなに罪深い者であっても、私のあわれみを祈り、私の助けを求めさえすれば、このようにしますし、また、今後も、このようにするに違いありません」。

したがって、地獄に対する戦いにおいて、いつも勝利する秘訣は、絶えず、「神の母よ、私は、あなたの御保護によりたのみます」と繰り返しながら、神の御母であり、私たちの母であるマリアによりたのむことである。この短い祈りを唱えてマリアによりたのんだために、地獄に対して勝利した信徒が、どれほどであろうか。神の偉大なはしため、ベネディクト会修道女十字架のマリア童貞は、このようにして、しつこく攻撃する悪魔に対して、いつも勝利をおさめたのである。

それゆえ、マリアの子であるものは、喜び踊るがよい。しかも、マリアは、望む者はみな、その子供として受け入れてくださるのである。ゆえに、喜び、信頼しなければならない。このような母によって守られ、保護されている以上、決して滅びる恐れはないではないか。

この慈しみ深い御母を愛し、そのご保護によりたのむ者よ、聖ボナヴェンツーラは、私たちが自分自身に向かって、次のように言い聞かせながら、勇気を起こすように勧めている。「ああ、私の霊魂よ、大きな信頼をもって繰り返しなさい。『喜び踊れ。なぜなら、私が受けるべき審判において、その宣告は、私の兄弟と、私の母との一存に関わるからです』」と。私の兄弟、それはイエズスである。私の母、それはマリアである。私の永遠の運命は、この二人の手のなかにある。こうして、私たちが滅びることはありえないのである。

聖アンセルモは、このことを考えて、次のような喜びの叫びをあげ、信頼をすすめている。「ああ、幸いなる安心よ、ああ、安全なよりどころよ。神の御母は、私の母です。私たちの、もっとも善良な兄弟と、もっとも慈悲深い母とが、私たちの救いを思うままにお定めになるのであるから、私たちは、どれほど大きな確信をもって希望すべきであろうか」。

私たちの母マリアは、私たちに向かって、「小さい者は、私のところに来なさい」と、やさしく招いておられる。幼い子供は、いつも母を呼ぶ。彼らは、危険を感じるとか、恐れをいだくとかする場合には、すぐに声をあげて、「お母さん、お母さん」と叫ぶのである。

ああ、マリアよ、最もやさしく、最も愛深い御母よ。あなたは、私たちが、このようにあなたの御名を呼ぶことをお望みになり、私たちが、幼子となって危険にあうたびに、あなたを呼び、絶えずあなたによりたのむことを望まれています。なぜなら、あなたは、あなたによりたのんだ全ての人を救われたように、私たちを支え、私たちを救おうとお望みになるからです。

祈り

童貞聖マリアよ、私の母よ、私は、こんなにも聖なる母をいただきながら、どうして、これほど罪に汚れているのでしょうか。

神に対する愛熱そのものである母をいただきながら、どうして、これほど、被造物に執着しているのでしょうか。善徳に富む母をいただきながら、どうして、これほど貧しいのでしょうか。

母よ、私は、あなたの子と呼ばれるのに値しないことを告白します。どうか、私を、あなたのしもべにしてください。それだけで十分です。

あなたのしもべであるならば、地上のすべての王国も捨て去る覚悟をもっています。そうです、私にとって、あなたのしもべであるだけで十分です。

けれども、あなたを「母」とお呼びすることをゆるしてください。この名は、私を慰め、私を感動させ、あなたを愛する義務を思い起こさせます。この名は、私を励まし、はてしない信頼をあなたに置くことができます。

私の罪と、神の正義を思って、畏れおののくときも、あなたが私の母であることを考えると勇気を取り戻せます。ですから、あなたを「母よ、愛する母よ」と呼ばせてください。私はこのように、あなたを呼びます。そしていつでも母と呼びます。

あなたは神に次いで、この涙の谷における私の希望、私のよりどころ、私の愛です。私は、このように感じながら、死を迎えることを望みます。

私は、最後のとき、私の霊魂をあなたの清いみ手にゆだね、あなたに向かって「私の母よ、母マリアよ、私を助けてください。私をあわれんでください」と祈ることを望みます。アーメン。

マリアはどれほど深い愛をもって私たちを愛してくださるか。

これまで述べたところによってわかるように、マリアは私たちの母である。それで、これから、マリアの私たちに対する愛の深さについて、考えてみたいと思う。子供を愛することは、自然性が要求することである。聖トマスが述べているように、両親に向かって、子供を愛するように命じる掟がないのは、そのためである。

すなわち、聖アンブロジオが言っているように、自然は、この感情をきわめて深く刻み込んでいるため、最もどう猛な動物もこの感情を去ることができず、その子をいつくしむのである。旅行者の語るところによれば、虎でさえも、狩人に奪い去られるその子の叫びを聞くとすぐに、海中に飛び込んで、これを運び去る船に追いすがろうとするということである。

私たちのもっとも愛深い御母は、私たちに向かって仰せられるに違いない。「虎でさえ、子供に対して、これほどの愛情を持つならば、私は、どうして、私の子供であるあなたたちを愛さずにいられましょう。『女がその子を忘れ、そのはらわたの実をあわれまないことがあろうか、けれども、たとえ、女がそうするとしても、私はあなたたちを忘れないであろう』(集会24・24)。私は、自分の子供である霊魂を愛することをやめることができません」と。

前に述べたように、マリアの母性は、決して肉によるものではない。マリアの母性は愛による母性である。マリアは「私は美しい愛の母である」(集会24・18)と言われるのである。マリアは、ただ、私たちに対する愛情によって、私たちの母になられたのである。そして、ある著述家が言っているように、「マリアは、その子とした私たちに対して、愛情そのものでいらっしゃるのだから、真に愛の母であることをほこりとされるのである」。

しかし、あわれな被造物にすぎない私たちに対するマリアの愛を、説明することのできるものがあろうか。アルノー・ド・シャトルは次のように断言している。「愛の炎に燃え盛る聖母マリアは、イエズス・キリストの死に際して、人類の救いのために、御子と共に死にたいと熱望しておられたのである」。それで、聖アンブロジオの言うところによれば、「御母は、御子が十字架にかかって死に瀕しておられるときに」、ご自分の生命を私たちにお与えになるために、「獄卒の手にかかりたいとお望みになっていたのである」。

私たちの尊い母が、私たちに抱いている愛が果てしないことを、もっとよく理解するために、その理由を考察したいと思う。
「マリアが人間に対してお持ちになる大いなる愛の第一の動機は、マリアが神に対してお持ちになる大いなる愛である。聖ヨハネは、「神を愛する人は、自分の兄弟をも愛しなさい。これはわれわれが神から受けた掟である」(1ヨハネ4・21)と言っている。そうだとすると、神に対する愛と隣人に対する愛とは、同じ掟に属し、一方が増せば、他方もまた、同じように増すのである。

聖人たちを眺めてみよう。彼らは、神を深く愛した。それで、隣人に対して、あらん限りの献身をしたのである。彼らは、隣人の霊魂を救うためには、自分の自由、ときには、自分の生命さえも、危険にさらし、あるいは捨てたのである。

聖人たちの伝記を読んでみるといい。聖フランシスコ・ザビエルは、捨てられた諸民族に救いをもたらすために、インドに赴き、四つんばいになって、山岳をよじ登り、野獣のように洞窟の中にこもっている不幸な人々を、神の御元に連れ戻すために、彼らを探し歩いたのである。

聖フランシスコ・サレジオは、シャブレー地方の異端者を改宗させようと企て、まる一カ月の間、毎日、頑迷な異端者たちに説教するために、急流の上にかかった一枚の狭い板の上を、四つんばいになって対岸に渡るのであったが、冬の間は、板がつるつるに凍っていたために、危うく谷底に落ち込もうとしたことがたびたびあった。

ノルの聖パウリノは、あわれなやもめや息子を救うために、自ら奴隷になった。シグマリンゲンの聖フィデリスは、ある地方の異端者たちを神のみ元に連れ戻すために、彼らに説教して生命を失うことを喜んだ。

要するに、聖人たちは、神を熱烈に愛していたので、隣人に対する愛のために、このように偉大なわざを成し遂げたのである。

さて、マリアほど、神を愛した者があるだろうか。マリアの善徳について述べるとき詳説するように、マリアは、その生涯の第一瞬間から、すべての聖人と天使とが、その生存期間を通じて神に捧げた愛を合わせたよりも大きな愛をもって、神を愛したのである。

十字架のマリア童貞にされた啓示によれば、マリアの心に燃え盛っていた神に対する愛の火は、天と地とを一瞬にして焼き尽くすほどであったし、その愛熱に比べるならば、セラフィンの愛熱も、心地よいそよ風に過ぎなかったのである。

さて、天の幸いなる霊のなかでさえ、神に対する愛において、マリアにまさるものがないのであるから、神をのぞいて、この最も愛深い御母ほど、私たちを愛してくださる者は一人も見当たらないし、また見出すことはできないのである。

すべての母がその子供たちに対して持つ愛、すべての夫がその妻に対して持つ愛、すべての天使と聖人とがその敬虔なしもべに対して持つ愛を、一つの心に集めたとしても、マリアが、ただ一人の霊魂に対してもつ愛には及ばないのである。

ニーデンベルグ師は言っている。「すべての母親が、その子供に対していだいた愛も、マリアが私たちのうちの、だれか一人に対してお持ちになる愛情に比べるならば、それは陰にすぎない。マリアは、すべての天使と聖人とが一緒になっても愛しえないほどの愛をもって、私たちを愛してくださるのである」と。

それでは、天におられる私たちの御母は、どうして、これほどまで、私たちを愛してくださるのであろうか。それは、イエズスが、ちょうど息絶えようとしたとき、私たちを、その慈母的愛情に委託されたからである。

すでに述べたように、イエズスが聖ヨハネを示して、マリアに向かい、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と仰せられたとき、イエズスは聖ヨハネの身において、すべての人を指しておっしゃったのである。この言葉が、イエズスが御母に残された最後の御言葉である。さて、愛する人の遺言は、その追憶を秘める人の心にとって、どれほど貴重なものであろうか。

その上、私たちは、マリアにとって、この上もなく、親愛な子供である。それは、私たちは、マリアがこの上もない苦しみでもって産み落とした子供だからである。母親は、子供の生命を保つために、多くの苦しみをしのげばしのぐほど、その子供を愛するのである。これは、すべての母親に共通の事実である。

さて、マリアは、その子供である私たちのために、どれほど大きな苦しみを忍ばねばならなかったことであろうか。マリアは、私たちに、恩恵を得させるために、御自らを捧げ、御子イエズスの貴重な生命を犠牲にし、イエズスが彼女の前に、残酷な拷問を受けて死ぬのを目の当たりにすることをお受けになったのである。

私たちは、マリアが行われたこの偉大な奉献によって、超自然の生命、神的生命に生まれたのである。マリアのこの上もない苦しみによって生まれた私たちは、マリアにとって、この上もなく親愛なものである。

福音書には、世の救いのために、その御ひとり子をお渡しになった永遠の御父の愛を語っている。聖ヨハネ福音書には、「神は御ひとり子をお与えになるほどこの世を愛してくださった」(ヨハネ3・16)としるされている。聖ボナヴェンツーラは、これと同じ言葉を、マリアに適用するようにすすめている。すなわち、私たちは、「御ひとり子をお与えになるほど、マリアは私たちをお愛しになる」と言うことができるのである。

それでは、マリアはいつ御ひとり子を私たちにお与えになったのであろうか。ニーレンベルグ師は、これに答えて、マリアは、まずイエズスに、死におもむくことをお許しになったとき、これを私たちにお与えくださった、と言っている。

さらにマリアは、他の人々が憎み、あるいは恐れにかられて退いているとき、ご自分はただ一人で、イエズスの生命を裁判官の前で有効に防ぎ守ることができたのに、そうなさらなかったとき、イエズスを私たちにお与えになったのである。

確かに、たいへん賢明であった御母マリアが、愛にかられて御子の弁明を行ったならば、少なくとも、ピラトの精神の上に十分力強い影響を与え、彼が無罪であることを認め、かつ言明してイエズスに死刑の宣告をくださせないですんだに違いなかった。

しかし、マリアは、御子のために、一言も発しようとはお思いにならなかった。それというのも、私たちに救いをもたらすイエズスの死を妨げないためであった。

最後に、マリアは、十字架のもとにたたずんで、イエズスのご死苦に立ち会われたあの三時間の間、幾千度も、イエズスを私たちにお与えになったのである。この三時間の間、マリアは、そのこの上もない悲しみに等しい私たちに対する愛によって、その御子の生命を、たえず、私たちのために、犠牲としてお捧げになったのである。

しかも、聖アンセルニモおよび聖アントニオの説くところによれば、もしも獄卒がいなかったとしたら、マリアは、ご自分の手で御子を十字架に釘付け、私たちの贖いのため御子の死をお求めになる御父のご意志にお従いになったに違いない。マリアは、それほど寛大だったのである。

すでに、アブラハムは、自分の息子を、自分の手で殺して犠牲に捧げようとし、勇猛心の手本を示している。さて、マリアは、聖性と従順とにおいて、はるかにアブラハムにまさっていた。それで、マリアは、アブラハムよりもはるかに大きな勇猛心をもって、御子を捧げたに違いないと、信じることができるのである。

私たちが、今行っている考察の主題に立ち戻ろう。すなわち、マリアが、私たちみなの救霊を獲得するために、御子を捧げられた。限りなく悲しい犠牲について述べよう。私たちは、マリアのこれほどの偉大な行為に対して、どれほど感謝しなければならないだろうか。神はアブラハムが、その子イサクを犠牲に捧げようとしたのをご覧になって、これにすばらしい報いをお与えになった。

それゆえ、私たちは、アブラハムの子よりもはるかに尊く、はるかに愛していた御子イエズスの生命を、私たちに与えてくださったマリアに対して、どう感謝したらよいであろうか。これほど大きな愛を示してくださったマリアに対して、どれほど大きな愛を捧げるべきだろうか。

聖ボナヴェンツーラは言っている。「ご自分よりもはるかに愛している御ひとり子を私たちに与え、私たちのためにお捧げになったマリアほど、私たちに対して愛に燃えたものは、この世に存在しない」と。

イエズス・キリストのご死去には、マリアの私たちに対するもうひとつの大きな動機が結びついている。すなわち、マリアは、私たちを御子のお流しになった御血の代価と見なされたのである。

ある母親に、特別にかわいがっていた息子の一人が、長年の苦しみ、疲労、獄中生活などによって贖われた奴隷を示したとしたら、母親は、それを思っただけで、この奴隷をどれほど大切にするだろうか。

さて、マリアは、御子が地上におくだりになったのは、ただ、あわれな罪人である私たちを救うためであることを、十分にご承知なのである。イエズスは、御自ら、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19・10)と仰せられた。そして、私たちの救霊のために、「死に至るまで、従うものとなり」(フィリピ2・8)、ためらわず、生命を投げうたれたのであった。もしも、マリアが私たちを愛してくださらないとすれば、私たちの贖いの代価である御子の御血をあまり尊重なさらないからである。。

聖母マリアが、聖女エリザベット童貞に啓示なさったところによれば、マリアは、神殿に捧げられるとすぐに、私たちのために祈ることを大きな任務とし、主に向かって、御子をつかわし世を救ってくださるように切願するのであった。それで、御子イエズスが、非常に私たちを重んじ、私たちを贖うために、こんなにも高価な代償をお払いになるのを見たマリアのみ心は、私たちに対し、どれほど愛熱に燃え盛ったことであろうか。イエズス・キリストが、すべての人を贖われたように、マリアも、すべての人を愛し、これに恵みをたれてくださるのである。

聖ヨハネは、マリアが太陽を着けているのを見た。「天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい…」(黙示録12・1)。マリアは、どうして、このような姿で現れたのだろうか。それは、マリアが、「太陽は、…その熱から隠れうるものはない。 」(詩編19・6、7)と記されている太陽と同じで、その愛の効果を、この世に生きているすべての霊魂に及ぼすからである。

イディオタは、「この太陽の熱は、マリアの愛をさしている」と言っている。聖アントニオは叫んでいる。「童貞母マリアが私たちにくださる配慮を、だれが理解できようか。マリアは、みなに、その慈悲の懐を開き、みなに、その慈悲を提供し、分配されるのである。マリアは、すべての人の救霊をお望みになる。そして、マリアの協力なしに救霊を獲得するものはいない」。聖ベルナルドは、「マリアの配慮が全人類に及ぶことは、一点の疑いもない」と言っている。

コルネイ・ド・ピエールの言うところによれば、マリアの忠実なしもべたちは、きわめて有益な一つの慣例を大切に守っている。その慣例というのは、「主よ、願わくは、至聖童貞が、私のために求める恩恵を、私に与えてください」と祈ることである。同じ著述家は、「これ以上、賢明なことはない。なぜなら、私たちの尊い御母マリアは、私たちが自分自身のために、こい願うものよりも、なおすぐれたものを、私たちのために、こい願っていられるからである」と述べている。

その上、敬虔なブスティスの聖ベルナルディノが言っているように、「マリアの心の、私たちに善をほどこし、恩恵を分配したいという熱望は、私たちが受けたいという熱望よりも、はるかにすぐれている」のである。であるから、聖大アルベルトは、知書の「彼女は、自分を望むものには、乞われる前にその望みに応じ、みずからすすんでこれに会う」(知書6・13)という言葉を、マリアに適用している。マリアは、祈らないうちから、私たちの願いを聞き入れ、求めないものにも、お会いになるのである。マリアの助けが、私たちに必要でありさえすれば十分である。

リシャール・サン・ヴィクトルの言うところによれば、「マリアは、愛情と親切とをもって、願わないうちから、私たちのそばに、馳せ寄ってくださるのである」。このように、マリアはすべての人に対して、彼女をあまり愛してなく、彼女に祈ろうとも思わない忘恩者や怠け者に対してさえ、親切を示してくださるのであるから、彼女を愛し、しばしば彼女によりたのむ人々に対しては、どれほど愛深い心遣いをもって、ご配慮してくださるだろうか。

「知恵(彼女)を愛する人には進んで自分を現し、探す人には自分を示す。 」(知書6・12)。聖大アルベルトは付言している。「ああ、マリアを愛する心にとり、マリアを見出すこと、しかも、同情深く、愛に満ち、親切にあふれるマリアを見出すことは、本当に簡単なことである」と。マリアは、「わたしを愛する人をわたしも愛する」(箴言8・17)と仰せられて、これがやむにやまれない欲求であることを示している。

最も愛深い元后マリアは、自分の子供であるすべての人間を、愛深く抱擁してくださるのである。けれども、聖ベルナルドが言っているように、「マリアは、見分けることができ、選びわけることができる」。すなわち、ご自分をもっと深く愛するものを見分けて、これに、特別な愛をもって答えてくださるのである。ああ、このように、マリアを熱愛する霊魂は、どんなに幸福であろうか。聖母は、このような霊魂に向かって、その愛のみならず、助けをも保証してくださるのである。

イディオタが断言しているように、「マリアを見出すことは、すべての善を見出すことである。なぜなら、マリアは、ご自分を愛するものを愛し、その上、ご自分に仕えるものにお仕えになるからである」。

ドミニコ会の編年録によれば、モンペリエのレオダ修士は、日に二百回、あわれみの御母によりたのむ習慣があった。さて、この修士が重病にかかったとき、たいへん美しい女王が彼のそばに現れて、彼に向かい、「レオダ、あなたは、死んで、御子と私のそばに来たいですか」とたずねた。レオダは、「あなたは、どなたですか」とたずねた。すると女王は、「私は、あわれみの母です。あなたは、しばしば、私の助けを求めましたので、ただいま、あなたを迎えにまいりました。さあ、天国へ行きましょう」と答えた。レオダは、その日死んだ。私たちは、彼が、天の元后につれられて、至福者たちの住み家に入ったことを、信じている。

ああ、いともやさしいマリアよ、あなたを愛するものは、どれだけ、幸福であろうか。イエズス会の聖ヨハネ・ベルクマンは、「私は、マリアを愛するならば、たしかに堅忍することができ、神様から、欲しいものを残らずいただけると信じます」と言っていた。それで、同聖人は、その決心を新たにするために、たえず、「私はマリアを愛したい、私はマリアを愛したい」と独り言していた。

さて、慈母マリアは、愛において、はるかに、その子供たちにまさっている。私たちが、あらん限りの力を尽くして、マリアを愛しても、殉教者聖イグナチオが言うように、「マリアは、いつも、愛されるよりも多く愛する」のである。

聖スタニスラス・コスカがマリアを愛したように、マリアを愛しなさい。聖人の聖母マリアに対する愛は、本当にやさしく、聖人がマリアについて語るのを聞いたものは、聖人と一緒に、マリアを愛せずにはいられないほどであった。聖人は、熱愛するマリアのみ名を崇めるために、新しい言葉、新しい名称を考え出すのを楽しみにしていた。聖人は、何かをする場合には、まず、マリアのご絵に向かって、その祝福を祈り求めるのであった。聖務日課、ロザリオ、あるいは、他の祈りを、聖母マリアの誉れのために唱えるときは、実際に聖母マリアと相対しているのではないかと思われるほどの熱心と語調とをもって唱えていた。「サルヴェ・レジナ」(元后あわれみ深い御母)の歌を歌うときは、聖人の心は燃え、その顔は火のように輝いていた。

ある日のこと、聖人と一緒に聖母マリアのご絵をあがめに行ったイエズス会の一神父が、聖人に向かって、「聖母マリアを愛していますか」とたずねたところ、聖人は答えて、「神父様、私は『聖マリアは私の母です』と申し上げる以上に、私の聖母マリアに対する愛を、立派に言い表すことはできません』と言った。聖人が、これを言ったときの声といい、様子といい、心持ちといい、きわめて感動にみちていたので、その神父は、人間ではなく、天使がマリアに対する愛について語っているのではないかと思ったほどだった。

福者ヘルマン・ヨゼフのように、マリアを愛しなさい。福者は、聖母マリアから夫と呼ばれ、聖母マリアを最愛の妻と呼んでいたほどである。聖フィリポ・ネリのように、マリアを愛しなさい。聖人は、マリアを思い浮かべただけで、なぐさめに満たされていた。それで、マリアを、その「楽しみ」と呼んでいた。聖ボナヴェンツーラのように、マリアを愛しなさい。聖人は、マリアを「私の元后、私の母」とお呼びするだけでは満足せず、その愛情を示すために、これを「私の心、私の魂」と呼んでいた。

あのマリアの熱愛者聖ベルナルドのように、マリアを愛しなさい。聖人は、やさしい御母に対する愛に心を奪われて、これを「心の盗人」と呼んでいた。それで、マリアに、その愛熱を示すために、マリアに向かって、「あなたは、私の心を盗みました」と唱えている。

シエナの聖ベルナルディノのように、マリアを、「最も愛する方」と呼びなさい。聖人は、マリアのご絵を通して、毎日その心の元后を訪れ、マリアにその愛を告白し、マリアと共に、むつまじく物語るのであった。そして、「そんなに毎日どこへおいでですか」と人に尋ねられると、聖人は、「最も愛する方に会いに行きます」と答えるのだった。

聖ルイ・ド・ゴンザーグのように、マリアを愛しなさい。聖人は、絶えず、聖母に対する愛熱に燃え、マリアのみ名を聞くごとに、顔は輝き、心は愛のほのおにこがされるのだった。聖フランチスコ・ソラノのように、マリアを愛しなさい。聖人は、聖なる狂気に陥るほど愛に燃え、楽器をとって、マリアのご絵の前で、愛を込めて歌い出すのであった。聖人はよく、「世人がその愛人に対してするように、私は、最も愛する元后に対して、小夜曲をかなでるのです」と言っていた。

マリアに対する愛を示すために、あらゆる工夫を尽くした多くのしもべたちのように、マリアを愛しなさい。イエズス会のエロニモ・テレソ師は、喜び踊りながら、マリアの奴隷と自称していた。そして、奴隷のしるしに、しばしば、聖母マリアに捧げられた教会を訪れた。教会に着くと、師は、心に燃える愛情を押さえることができず、床をうるおし、ついで、舌と顔で、これをぬぐい、何度もこれを接吻し、至愛なる涙で奥方のすまいよと、ささやくのであった。

同じくイエズス会のディエゴ・マルティネズ師は聖母マリアに対する熱い信心の報いとして、聖母マリアの祝日に、天使たちによって天にあげられ、そこで、聖母マリアの祝日がどれほど盛大に祝われているかを見ることができた。同師はよく、「私は、天使たちや聖人たちのようにマリアを愛するために、天使たちと聖人たちの心を残らず自分のものにしたい。すべての人の生命を自分のものとし、これをマリアを愛するために使いたい」と言っていた。

また聖女ブルジッタの子カロロのように、マリアを愛しなさい。彼は、この世で、聖母マリアがどれほど神に愛されているかを知ることほど、大きな幸福はないと言っていた。彼はまた、しばしば、聖母マリアの栄誉が、おびやかされることがあるならば、これを守るために、どんな苦しみでもしのぐ覚悟であると言い、もしも、この栄誉が、自分に与えられたものであるならば、たぐいない功績をお持ちの聖母マリアにこれを差し上げると言っていた。

聖アルファンソ・ロドリゲスのように、マリアに対する愛を明かすために、その生命を与えることを望みなさい。最後に、フランソナ・ビアン師や、クロテール王の后聖女ラドゴンドのように、刃物をもって、自分の胸にマリアの愛すべきみ名を刻みなさい。その上、マリアのほかの二人の敬虔なしもべイエズス会士ヨハネ・バブチスタ・アルヒントおよびオグスチノ・デスピノザのように、灼熱した刃物をもって、マリアの聖なるみ名を刻みつけなさい。

けれども、愛によって実現できることを全部実現しようと考え、また、実現するとしても、マリアが私たちを愛してくださるほど、マリアを愛することは決してできないのである。聖ペトロ・ダミアノは、「ああ、聖母よ、あなたは、この上なく善良であり、すべての愛にまさる愛でもって、私たちを愛してくださる」と言っている。

イエズス会の聖アルファンソ・ロドリゲスは、ある日、聖母マリアのご絵を眺めていると、その心が、至聖童貞に対する愛に燃えるのを感じ、われを忘れて、「最も愛すべき御母よ、私は、あなたが私を愛してくださることを知っています。けれども、私があなたを愛するほど愛してくださらないと存じます」と申し上げた。すると、マリアは、お気を悪くされたかのように、ご絵から声をおかけになり、「アルファンソよ、なにを言っているのです。私のあなたに対する愛は、あなたが私に対する愛に、どれほどまさっていることでしょう。あなたの愛と私の愛を比べるならば、天と地との差があるのです」とお答えになった。

だから、聖ボナヴェンツーラが、「幸いなるかな、マリアに心を与えたもの!幸いなるかな、マリアへの奉仕に専念するもの!」と叫んだのは、もっともなことである。実際、このような人々の運命は、うらやましい限りである。というのは、このやさしい元后は、愛について、臣下にひけをとることを決して承諾なさらないからである。

ある著述家が言っているように、「この競争において、マリアは、決して私たちにひけをお取りにならないのである」。マリアは、最も愛深い贖い主にならい、「私たちの愛に対して、高い利子のついた愛をおかえしくださり、以前の御恵みに、たえず、新たな御恵みをお加えになるのである」。

私は、ここで、聖アルセルモの火のような言葉を借用したい。「ああ、至愛なる救い主イエズスよ、ああ、至愛なる御母マリアよ、あなたたちに対する愛熱が、絶えず、私の心を焼き尽くし、私の骨の髄までしみこみ、私の魂が食い尽くされることを。そのような愛を与えてください。なぜなら、あなたたちの恩恵がなければ、あなたたちを愛することができないからです。ああ、イエズスよ、マリアよ、私の霊魂の願いを聞き入れ、私の功徳ではなく、あなたたちの御功徳のゆえに、あなたたちにふさわしい愛を、私に与えてください。ああ、人類を愛する神よ、あなたは、あなたの敵であり罪人である私たちのために、死に至るまで、私たちを愛してくださいました。ですから、どうして、あなたを愛する恩恵、あなたの御母を愛する恩恵を、あなたに求めるものに、その愛を拒むことができるでしょうか」

祈り

ああ、私の元后よ、私たちの心を盗まれる方よ、あなたがしもべに示される愛と、あなたが私たちに満たしてくださる恩恵によって、あなたを愛することを望みます。どうか、私のみじめな心を奪ってください。

御母よ、あなたの美しさは、神の御心を奪い、主はあなたのご胎に宿られました。ですから、私はどうして、あなたを愛さないで生きられましょう。いいえ、そのようなことは不可能です。

私は、私の母であるあなたへのやさしい愛を持つまでは決して休むことがないでしょう。いいえ、御母よ、あなたへの愛、やさしく燃え立つ愛を獲得したという確信を得るまで、私の霊魂は平安を味わうことができません。

ああ、マリアよ、あなたが私を愛して、御慈悲に浴させてくださらなかったとしたら、今、私はどうなっていたでしょうか。けれども、あなたは、私があなたを愛していなかったときでさえ、私を愛してくださいました。

そして、私があなたを愛する今、あなたの御慈悲に期待できないものがあるでしょうか。ああ、御母よ、私はあなたを愛します。あなたを愛していないすべての不幸な人たちに代わって、あなたを愛する心を持つことを望みます。

私は、何千もの舌に代わってあなたを賛美できる舌を持つことを望みます。すべての人に、あなたの偉大さ、あなたの聖性、あなたのあわれみ、および、あなたがあなたを愛する者に対して持たれる愛を、知らせるためです。

もし、私に臣下があるならば、私は、彼らの心をすべて、あなたに執着させることを望みます。最後に、私は、あなたと、あなたの光栄のために、必要ならば、生命をも投げうつことを望みます。

ああ、御母よ、私はあなたを愛します。しかし、同時に私は、あなたを愛していないのではないかを恐れます。よく言われるとおり、愛する者は、愛される者と同じ者であるか、あるいは似た者となります。

それゆえ、私が、こんなにあなたと異なるのは、あなたを愛していないしるしではないでしょうか。あなたは清浄です。しかし、私はこれほど汚れています。あなたは謙遜です。しかし私は傲慢です。あなたは聖です。しかし、私はこれほど邪悪です。

ですから、私はあなたに願います。あなたは、私を愛してくださるので、私をあなたに似た者としてください。あなたは、人々の心を一変させるために、全権をお持ちです。ですから、私の心を奪い、これを一変してください。

そして、すべての人があなたを愛するために、あなたが何をなさったかを、私を使って、世に示させてください。私を聖者とし、あなたにふさわしい子としてください。私は、そう望みます。アーメン。

マリアは痛悔する罪人の母である

マリアは、正しい霊魂、無垢な霊魂の母であるばかりではない。マリアは、ご自身聖女ブリジッタに向かって、「私は悔い改めようとするすべての罪人の母でもあるのです」と仰せられている。ある罪人が、生活を改めようと決心して、あわれみの御母の御足下に身を投げるならば、御母は、他のいかなる母にもまして、急いで、これを両腕に抱きしめ、これを助けてくださるに違いないのである。

教皇聖グレゴリオ7世は、王女マチルダに、次のように書き送っている。「罪を犯す意志を捨てなさい。そうすれば、私はためらわず約束します。マリアは、肉親の母よりもあなたを深く愛してくださるでしょう」。したがって、この尊い御母の子供になりたいと望み、その望みを実現したいと思うものは、まず、罪を捨てなければならない。

リシャール・ド・サン・ローランは、箴言の「起きなさい、その子供たち」(箴言31・28)という言葉について、まず「起きなさい」と言い、ついで「その子供たち」と言っていることを指摘し、その訳を説明して、「私たちは、大罪の状態にあって」堕落から立ち上がるよう努めない間は、「このような御母の子と呼ばれる値打ちがないからである」と言っている。

実際、聖ペトロ・グリゾログが述べているように、御母の行いと反対の行いをし、「御母の諸善徳を否定する者は、その行為によって、御母を否定する者である」。マリアは謙遜である。しかし、彼は傲慢である。マリアは清浄である。しかし、彼は、情欲に身をゆだねる。マリアは愛に満ちあふれている。しかし、彼は憎しみに満ちた心を持っている。これらは、いずれも、彼がこの聖なる御母の子供でないこと、子供となるのを望まないことを示している。

リシャ-ル・ド・サン・ローランは、「マリアの子供は、その貞潔、その謙遜、その柔和、その慈悲の模倣者である」と言っている。マリアは自分の母であると主張しながら、行いをもってこれを悲しませるのは、本当に矛盾したことではなかろうか。

ある日、ある罪人がマリアに向かって、「どうか、私の母であることを示してください」と祈った。すると、マリアは、「それでは、あなたは、私の子供であることを示しなさい」とお答えになったということである。また、同じように、マリアのみ名を呼び、これをあわれみの御母と呼んだもう一人の罪人に向かって、「あなたたち罪人は、私の助けがいるときには、あわれみの母と呼びますが、罪によって、私を悲惨な母、悲しみの母にしているのです」と仰せられたとのことである。

「母の呪いは、子供たちの家の土台を覆す」(集会3・18)。リシャール・ド・サン・ローランによれば、「この母はすなわちマリアである」。神は、その不身持ちにより、いなむしろ、その頑迷によって、この慈愛深い御母の心を悲しませるものを呪われるのである。

私は、「頑迷によって」と言った。その訳は、罪の中に取り込められている罪人でも、そこから抜け出ようと努力し、そのためにマリアの助けを求めるならば、マリアはためらうことなく、この罪人を助け、これを神と和解させてくださるに違いないからである。

ある日、聖女ブルジッタは、みあるじが御母に向かって、「あなたは、神に立ち帰ろうと努めるものに、救いの手を差し伸べ、どんな人でもなぐさめる」と仰せられているのを聞いた。

要するに、マリアは罪人が頑なである間は、この罪人を愛することはできない。しかし罪人が、おそらく、なんらかの情欲にしばられ、そのため、地獄の奴隷になっていても、せめて、聖母マリアによりたのみ、信頼と堅忍とをもって、罪から引き上げてくださるよう祈るならば、御母は、疑いなく、この罪人に力強い御手を差し伸べ、その鎖を解き放って、これを救いの道に連れ戻してくださるに違いないのである。

大罪の状態においてした祈りやわざは、みな罪であるという主張は、トレント公会議によって、罪とされた異端である。聖ベルナルドは、「罪人が唱える祈りは、愛による神との一致から発する祈りほど美しくないに違いない。けれども、この祈りは有益である。なぜなら、罪から抜け出るのに役立つからである」と言っている。聖トマスの教えもこれと同じである。聖人は次のように説明している。罪人の祈りには功徳がない。けれども、赦しの恵みを受けることができる。

もっとも、この恵みを獲得する力は、祈るものの功徳によるものではなく、『願え、そうすれば与えられるだろう』と仰せられたイエズス・キリストの神的慈悲と功徳と約束によるものである。聖母マリアに対して捧げられる祈りについても、同じことを言うことができる。

聖アンセルモは、二人の兄弟の間に、致命的な不和が生じ、そのうちの一人が他の一人の生命を害そうとはかっている場合は、母親はどうすべきであろうか、と自問している。二人を和解させようとあらゆる方法を用いることが、その唯一の務めではなかろうか。神の御母であると共に、人間の母であるマリアについても同様である。罪人がイエズスの敵となるのを見ることは、マリアにとって耐えられないことである。それで、マリアは二人を和解させるためにあらゆる手段を用いるのである。聖アンセルモは、マリアに向かって祈っている。「ああ、至福なるマリアよ、あなたは、罪人の母であり、審判者の母でもあります。この二人は、いずれもあなたの子供です。この二人の不和をそのまま放置することができないのです」と。さて、最も恵み深い元后は、何を罪人にお求めになるだろう。この罪人がマリアによりたのみ、悔い改める意向をもつことに他ならない。

聖アンセルモは、「たとえ、祈るものに聞き届けられる価値がないにしても、彼がよりたのむマリアの功徳は、その祈りに効力を与える」と言っている。聖ベルナルドは、どんな罪人にもマリアに祈るよう、また大きな信頼をもって祈るようにすすめている。そのわけは、罪人自身はその祈る恩恵を受ける価値はないけれども、マリアは、彼女が執り成す罪人に恩恵が与えられる特権を獲得する資格があり、また、これを獲得なさったからである。聖博士は次のように言っている。「あなたは、何も受ける価値がなかったので、マリアによって、すべての賜物を受けることができるように定められたのである」。

マリアは、ある罪人がご自分の慈悲を哀願しようと、足元にひれ伏すのをご覧になると、その罪人が背負っている罪を眺めず、この罪人のいだく意向をごらんになるのである。この意向が善良ならば、世界中のすべての罪を犯しているとしても、これをいだき、その霊魂をおおう傷を癒すことを、さげすもうとはなさらないのである。私たちが、マリアをあわれみの元后と呼んでいるのは、無意味ではない。マリアは、真にあわれみの元后である。マリアが、私たちを助けるにあたってお示しになる愛と慈悲との中に、それがあらわれている。

聖母は、聖女ブルジッタに次のように仰せられて、これをお示しになった。「私は、どんなに大きな罪人でも、立ち帰るとすぐ、これを迎えようと待っています。私は、この人が犯した罪ではなく、その現在の意向を考慮します。私は、本当に、『あわれみの元后』です。ですから、喜んで、その傷を治療し、癒すように努めるのです」。

改心を望む罪人の母であるマリアは、彼らに対して、母心の同情を禁じることができない。そして、そのあわれな子供たちの不幸を、自分の不幸のようにさえお感じになるのである。

福音書の中に記されているカナンの女は、悪魔に苦しめられている娘を助けてもらうために、イエズスの御元に来て、次のように言った。「主よ、ダビデの子よ、私をあわれんでください。私の娘が、悪魔にたいへん苦しめられております」。実際に、悪魔に苦しめられていたのはだれだったのだろう。娘であって、母ではなかった。それゆえ、この母親は、「主よ、私の娘をあわれんでください」と言うべきで、「私をあわれんでください」と言うべきでないように思われる。それなのに、彼女は、「私をあわれんでください」と言った。しかも、これは正しいのである。なぜなら、母親は、その子供の悩みを、自分自身の悩みのように感じるものだからである。

リシャール・ド・サン・ローランが言うように、マリアもまた、ご自分によりたのむ罪人のために、神に執り成すとき、このように祈るのである「罪ある霊魂のために、私をあわれんでください」と。言葉をかえて言うならば、「わがやさしい主よ、大罪の状態にあるこのあわれな霊魂は、私の娘です。この霊魂をあわれんでください。そして、特に、その母である私をあわれんでください」と祈るのである。

ああ、すべての罪人が、この愛深い御母によりたのむことができるならば、どんなに幸いであろうか。一人残らず、神の御赦しを受けることができるに違いないのである。聖ボナヴェンツーラは、感嘆のあまり、叫んでいる。「ああ、マリアよ、全世界から排斥される罪人が、あなたの慈愛の中に、隠れ家を見出します。そして、あなたは、この不幸な人とその審判者とを和解させるまでは、決して、これから離れることはありません」。

聖人は、この言葉によって、罪の状態にある人間は、全宇宙にとって、憎しみと恐れとの対象であることを、私たちに教えている。火や、水や、土のような無感覚な被造物までが、その至上主に加えられた侮辱を償うために、罪人を罰し、これに復讐しようとする。

しかし、この罪人が、マリアによりたのむとき、マリアは、これを御退けになるだろうか。決してそのようなことは起きない。彼が、改心を望んでマリアによりたのむならば、マリアは、慈母の愛情を傾けてこれを抱擁し、力強い執り成しによって、神と彼とを和解させ、彼を恩恵の状態にたちかえらせるまでは、その面倒を見て下さるに違いないのである。

列王記第二巻には、テクアの妻がダビデに行った賢明な申し開きがしるされている。「主よ、私には、二人の息子がありました。不幸にも、一人の息子が、もう一人の息子を殺しました。さて、こうして一人の息子を失った私は、裁判の宣告によって、残る一人をも奪われようとしているのです。どうぞ、この不幸な母をあわれんでください。一度に二人の息子を取り上げないでください」。ダビデは、同情の念に動かされて、罪人をゆるし、これを母親に返したのである。

マリアは、ご自分によりたのむ罪人に対して、神がお怒りになるのを見るとき、同じように仰せられるのではなかろうか。マリアは神に申し上げるのである。「私の神よ、私に二人の息子がありました。イエズスと人間です。人間は、わが子イエズスを十字架上で殺しました。そして今、あなたの正義は、罪人の死刑を要求しています。主よ、私の子イエズスの死だけで、もうたくさんです。どうぞ、私をあわれんでください。息子の一人を失った私に、もう一人の息子までも失わせることがないように、計らってください」。

神は、聖母マリアによりたのむ罪人、聖母マリアが執り成してくださる罪人を、死の判決を下されることは、決してないに違いない。なぜなら、これらの罪人を、マリアの母情にお託しになったのは、神ご自身だからである。

主イエスは敬虔なランスペルジュに言われた。「私自身、罪人をマリアに託し、その子のように見なさせたのである。それゆえ、マリアは、その役目を果たすために配慮を尽くし、自分に託された者のうち、特に、彼らが彼女を呼び頼むならば、一人も亡びさせることはない。マリアは、力の及ぶ限り、みなを私のもとに連れ戻すのである」と。

ルイ・ド・ブロアは、私たちが、マリアのお助けを求める時、「マリアが私たちを救うために、どんなに親切、慈悲、忠実、愛を示すかは、言い表すことができないほどである」と言っている。

ですから、聖ベルナルドと共に、この慈しみ深い御母の前にひれ伏し、私たちのくちびるをその聖なるみ足につけ、マリアが、私たちをその子として受け入れてくださったしるしに、ご祝福をお与えくださるまで、みそばを離れないようにしよう。だれが、これほど慈しみ深い御母に信頼せずにいられよう。

聖ボナヴェンツーラは言っている。「たとえ、マリアに殺されるとも、私はマリアに信頼したい。私は、マリアのご像の前で、信頼に満ち満ちて、死を迎えたい。そうすれば、きっと救われるに違いない」と。

マリアの母心の情けによりたのむ罪人は、次のように祈るべきである。「私の元后、私の母よ、私は罪のために、み前から追われ、あなたから、正義の罰を加えられなければいけない身の上です。しかし、たとえ、あなたにしいたげられ、殺されようとも、私は、あなたに信頼し、あなたの救いを待ち続けます。私は、私のすべてを、あなたにゆだね、幸いにも、あなたのみ姿の前で、あなたのあわれみにすがりながら死ぬことができるならば、決して滅びることなく、天国にのぼって、あなたの無数のしもべたちの賛美に私の賛美を合わせることができると信じます。これらのしもべたちは、あなたのお助けを呼び求めながら死んだため、あなたの力強い執り成しによって、救われたのです」。

祈り

ああ、女王中の女王、私の神にふさわしい御母、至聖童貞マリアよ、
私は、このようにみじめで、このように多くの罪に汚れているのを思うとき、
あなたの御前に出て、あなたを御母と呼ぶ資格がないことを痛感します。

しかし、私は、私のみじめさゆえに、あなたを御母と呼ぶときに味わう慰めと信頼とを放棄することができません。私は、あなたから退けられないといけない身であることを知っています。

しかし、どうか、御子イエズスが、私のためになさったこと、お苦しみになられたことを思ってください。私は、あわれむべき罪人であり、他のどの人よりも、あなたのご尊威を汚しました。しかし、悪はすでに成就しました。

私は、あなたによりたのみます。あなたは、私を助けることができます。ああ、御母よ、私を助けてください。

あなたの取り次ぎは全能です。神は、あなたが望まれることを、すべてお与えになるからです。もし、あなたが私を助けないならば、私は、だれに助けを求めたらよいでしょう。私は、非常に悲惨な状態に陥っています。

私は、聖アンセルモにならい、あなたとあなたの御子に申し上げます。
「私のみじめさをあわれんでください。私の贖い主よ、私を赦してください。御母よ、私のために祈ってください。そうでなければ、どこに行ったら、更に快く私を迎えてくれる慈悲、私の信頼を支える更に安全な力を見出すことができるか、教えてください」。

しかし、私は、天においても、地においても、あなたたちのように、不幸な者をあわれみ、助けてくださる方を見出すことはできません。

ああ、イエズスよ、あなたは私の父です。ああ、マリアよ、あなたは私の母です。あなたたちは、ともに、最もみじめな者を愛し、彼らをたずね、これを救ってくださいます。

私は、地獄に落ちるように宣告された罪人です。私のみじめさに比べる者はいません。その上、あなたたちは、私をたずねる必要はなく、私はそれを願うつもりはありません。

私は、あなたたちが私をこんな悲惨な状態のままに捨てて置かれることはないことを堅く信じながら、自ら、イエズスよ、マリアよ、あなたたちの御前に出ます。私は、御足下にひれ伏します。いと慈しみ深いイエズスよ、私をゆるしてください。いと慈悲深いマリアよ、私を助けてください。

私たちの生命、私たちの楽しみであるマリア

マリアは私たちに罪のゆるしを獲得してくださるために私たちの生命である。

教会は、マリアを、私たちの生命と呼ばせている。そのわけをよく理解するには、霊魂が肉体に生命を与えるように、神の恩恵は、霊魂に生命を与えることを知らなければいけない。

霊魂は、恩恵がなければ、たとえ生きているように見えていても、実際には死んでいるのである。黙示録のなかには、ある人に送る言葉として、「あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる」(黙示録3・1)と記されている。さて、マリアはその御執り成しによって、罪人に恩恵を回復させ、これに生命をかえしてくださるのである。

教会は、神の御母に、箴言の次の言葉を語らせている。「朝より私を求めるものは、私を見出す」(箴言8・17)。これは、「朝から私を求めるもの」。すなわち、求めることができるときになれば、すぐさまこれを求めるものは、必ず私を見出すであろうという意味である。70人訳には、「私を見出す」の代わりに、「恩恵を見出す」となっている。

したがって、マリアによりたのむことと神の恩恵を回復することとは同一なのである。同じ箴言の数節先のところで、神の御母は、「私を見出す者は命を見出し、主に喜び迎えていただくことができる」(箴言8・35)と仰せられている。これについて聖ボナヴェンツーラは叫んでいる。「神の国にあこがれるものよ、聞きなさい。童貞マリアをあがめなさい。そうすれば、永遠の生命と救いとを得るであろう」と。

原罪後、神が人類を滅ぼされないのは、シエナの聖ベルナルディノの言うところによれば、その最愛の娘マリアに対して、すでにお持ちになっていたいちじるしい愛のためだった。また、同じ聖人は、はばかることなく、旧約時代において、神が罪人をお赦しになったのは、「ただ、この祝福された童貞に対する愛のために、御慈悲をたれたからである」と断言している。

したがって「恩恵を求めよう。マリアによってこれを求めよう」と言う聖ベルナルドのすすめは、いかにも賢明なすすめというべきである。恩恵を求めよう。もしも、不幸にしてこれを失ったならば、これを回復しないといけない。しかし、マリアによって、これを求めよう。と言うのは、マリアは、私たちが失った恩恵をお見出しになったからである。それで、同じ聖人は、マリアを「恩恵の発見者」と呼んでいる。

すでに、大天使ガブリエルは、私たちを慰めるために、次の言葉をもって明白にこれを断言した。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」(ルカ1・30)。

さてマリアは一度も聖寵を失ったことがないのに、大天使ガブリエルは、どうして、マリアに向かい、「あなたは神から恵みをいただいた」と言ったのであろうか。

マリアは、いつも神と一致し、恩恵の状態にあったし、しかも恩恵にみちみちていたのである。大天使ガブリエルは「あなたにあいさつします。恩寵に満ちたお方。主はあなたと共においでになります」(ルカ1・28バルバロ訳)とあいさつしている。

このように、マリアは、絶え間なく恩恵に満ち満ちていたのであるから、ご自分のために恩恵をいただいたのではないのである。それでは、だれのためにいただいたのであろうか。カルディナル・ユーグは、この節を注釈して、それは恩恵を失った罪人のためであると答えている。

この敬虔な著述家は、次のように付言している。「それゆえ、罪によって恩恵を失った不幸な人々は、マリアのもとにはせ寄るべきである。そこで、この恩恵を見出すことができるからである。安心して申し上げるがよい。『ああ、私たちの元后よ、失われたものは、もとの持ち主に返さないといけません。あなたが見出したこの恩恵は、あなたのものではありません。と言うのは、あなたは決して、これを失ったことはないからです。この恩恵は、不幸にしてこれを失った私たちのものです。どうぞ、あなたが見出した私たちの宝を、お返しください』と」。

リシャール・ド・サン・ローランも、同じ意味のことを述べている。「神の恩恵を見出したいと望むならば、恩恵の発見者であるマリアのもとに行こう。マリアは、いつも、これを見出しておられる」。その訳は、マリアは一時も、神の寵愛を失われたことはなかったし、また、今後も失われるようなことはないから、決して、「蓄えがなくなるということはないからである」。それゆえ、私たちはマリアによりたのみさえすれば、恩恵を見出すことができるのである。

雅歌の第8章において、マリアは、神がご自分をこの世にお置きになったのは、私たちを守らせるためである、と仰せられている。「わたしは壁、わたしの胎は塔のようである。あの人の目には、もう、満足を与えるものと見えています」(雅歌8・10)。すなわち、神と罪人を和解させる仲介者のようになったのである、と。

それゆえ、聖ベルナルドは罪人を励まして、「あわれみの御母のもとに行きなさい。御母にあなたの霊魂、あなたが罪によって受けた傷を示しなさい」。これを見るならば、マリアは、御子に「ご自分の乳をもってお育てになったことを思い起させながら、たくさんの罪の赦しをお願いくださるでしょうし、きわめて愛深い御子は、御母の祈りを聞き入れずにいられないに違いありません」と言っている。

実際、教会は、霊的復活をするために、マリアの力強い御執り成しを神に祈るようすすめているし、しばしば、次の祈りを唱えさせている。「ああ、慈悲の神よ、私たちの弱さを助けてください。神の御母の追憶をあがめ、その御執り成しによって、罪から立ち上がらせてください」(交唱アヴェ・レジナ・チエロール後の祈願)。

それゆえ、聖ロレンシオ・ユスチアノが、マリアを「罪人の希望」とお呼びしたのは、もっともである。なぜなら、マリアだけが、彼らに赦しを求めることができるからである。

また、聖ベルナルドが、マリアを「罪人の梯子」とお呼びしたのも、もっともである。なぜなら、なさけ深い元后は、罪におちたあわれな霊魂に手を差し伸べ、これを罪の淵から引き上げて、神にのぼらせるからである。

また、聖アウグスティヌスが、マリアに向かって、「あなたは罪人の唯一の希望です。というのは、私たちは、すべての罪の赦しを、あなたの御執り成しに期待するからです」と申し上げたのも、もっともである。

聖ヨハネ・クリゾストモも、「私たちにとって、神の赦しは、マリアの御執り成しにかかわるのである」と断言し、すべての罪人に代わって、マリアにあいさつし、マリアに切願している。「めでたし、御母よ、神の御母よ、私たちの母よ、神がお住みになる天よ、主がすべての恩恵を分配された玉座よ、ああ、戦う教会の輝きよ、私たちのために、絶えずイエズスに祈ってください。あなたの祈りにより、審判の日に慈悲を受けさせてください。そして、あなたを愛したものに与えられる宝、すなわち永遠の光栄と福楽を獲得させてください」と。

最後に、マリアが「曙」にたとえられるのは、本当に理由あることである。「曙のように姿を現すおとめは誰か」(雅歌6・10)。なぜなら、教皇インノチェント三世が述べているように「曙が、夜が終わって昼が始まったことを示すように、マリアの誕生は、悪徳の支配が終わって善徳の世界が始まったことを示すからである」。

さて、マリアの誕生が世界にもたらしたみごとな効果は、マリアに対する信心がはじまることによって、霊魂の中にもたらされるのである。罪の夜は消え失せ、霊魂は、恩恵の光に照らされて、善徳の道を歩むのである。

それゆえ、聖ジェルマノは、マリアに申し上げている。「あなたのご保護は死を追い払い、あなたの御執り成しは、生命を与えます」と。同じ聖人は、マリアのみ名は、愛をもって唱えるならば、生命のしるしとなる。少なくとも、近いうちに生命に立ち帰るしるしとなる、と言っている。

マリアは、御自ら、これをお歌いになった。「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1・47)と。聖ベルナルドは、マリアに向かって、「そうです。ああ、私の元后よ、人々は、いつの世の人も、あなたを幸いな者と言うでしょう。人々は、あなたをいつの世に至るまで、あなたによって、恩恵の生命と、天の栄光とに達するに違いないからです。あなたの内には、罪人は赦しを、善人は堅忍と永遠の生命とを見出すでしょう」と申し上げている。

ブチナスの敬虔なベルナルディノは、「ああ、罪人よ、ありとあらゆる罪を犯したとしても、決して信頼を失ってはならない。恐れることなく、しかし真心をもって、この最も光栄ある元后によりたのみなさい。その御手からは、慈悲と寛仁とが注がれるであろう。あなたは、マリアの慈しみの効果にあこがれている。けれども、マリアは、あなたに善をなすこと、あなたに対して寛仁であることを、あなたよりも熱烈に望んでいます」と教えている。

クレタの聖アンドレアは、マリアを、「神の御赦しと、神との和解の保証であり、担保である」と言っている。その意味は、罪人がマリアによりたのんで、神との和解を願うならば、神は、その赦しを彼らに約束し、かつ、これを保障してくださるという意味である。この保証とはなんであろうか。それは、神が弁護者として私たちに与えてくださったマリアである。神はマリアのとりなしにより、イエズス・キリストの御功徳によって、マリアによりたのむすべての罪人を赦してくださるのである。

聖女ブリジッタは、一位の天使の教えによって、マリアのこの御執り成しを予見した聖なる予言者たちがどんなに喜んだかを知ることができた。この天使は聖母マリアに向かって、「ああ、マリアよ、輝ける星よ、あなたの謙遜と純潔の生活とが、主の怒りを和らげ、その御怒りを招いた人々は御赦しを受けるであろうと聞いて、喜び踊ったのです」と申し上げたのであった。

どんなに、罪深いものでも、マリアのあわれみを求めて、拒絶されることを心配してはならない。いいえ、いいえ、決してそのようなことはないのである。なぜなら、マリアはあわれみの元后であるから、最もみじめなものも救うよう心がけておいでになるからである。

聖ベルナルドは言っている。「マリアは、救いの箱舟であって、そのなかに避難するものは溺死、すなわち、永遠の滅びを免れることができる」と。大洪水のとき、ノアの箱舟は、動物さえも救った。マリアの保護は、罪人を救うのである。

ある日、聖女ジェルツルダは、聖母マリアのご出現に接した。そのとき、聖母マリアは、そのマントを少しお開きになって、その中に、おびただしい猛獣が隠されているのをお示しになった。その中には、獅子、熊、虎などがいたが、マリアはこれらを追い払う代わりに、大変親切に迎え入れて、愛撫なさるのであった。

聖女は、これを見て、罪人がマリアによりたのんで、拒絶される恐れがないこと、マリアは、どんな重い罪人さえも、快く受け入れて、これを永遠の死からお救いくださることを、悟ったのであった。この箱舟に入ろう、マリアのマントのかげに隠れよう。マリアは決して私たちを追い返されることはないであろうし、確かに、私たちをお救いくださるに違いないのである。

祈り

神の御母、私の唯一の希望であるマリアよ、あわれな罪人である私は、あなたの御足元にひれ伏し、あわれみを願います。教会も、信徒も、声をそろえてあなたを罪人のよりどころと宣言しています。ですから、あなたは、私のよりどころ、私を救ってくださるお方であります。

最もやさしい御母よ、あなたは、あなたの御子イエズスが私たちの救霊をどれほど心にかけていらっしゃるかを、よくご存知です。そして、あなたは、イエズスが、私たちを救うために、どれほどお苦しみになったかを、よくご存知です。

御母よ、イエズスの御苦しみを私に思い起こさせてください。御子は、馬小屋の寒さ、エジプトへの旅行においてご苦労をしのぎ、最後においては、御汗と御血を流し、あなたの目の前で、十字架の上で、苦しみのうちに亡くなられました。

どうか、御子への私の愛を御子に示してください。私は、御子を愛するために、あなたの助けを求めます。私は、罪に落ち、あなたの助けを呼び求めます。私にあなたの御手を差し伸べてください。

私がもし聖者であるならば、あなたのあわれみを祈り求める必要はないでしょう。しかし、私は罪人であるので、「あわれみの御母」であるあなたによりたのみます。私は、あなたの御心が、あわれみ深いことを知っています。

あなたは、どれほどみじめなものも、かたくなに抵抗しない限り、これを救うことをお喜びになります。どうか、今日、私の心を、あなたのみ心の望みで満たし、私を幸福にしてください。

御母よ、あなたは、私を救う機会を持っています。私は地獄を宣告されたあわれむべき罪人であり、私は、かたくなに抵抗することを嫌悪するので、あなたは、私を助けることができます。

私は、わが身をあなたにゆだねます。私のなすべきことを、私に示してください。そして、これを行う力を執り成してください。私は、神の恩恵を回復するために、私のなしうるすべてのことを実行することを望みます。

私は、あなたのマントの陰に隠れます。私があなたによりたのむことは、イエズスのお望みです。イエズスは、あなたの光栄とご自分の光栄のために、ご自身の御血ばかりではなく、あなたの祈りが、私を救うようにお定めになったのです。イエズスは、私をあなたによりたのませ、助けを求めさせようとお考えになったのです。

ああ、マリアよ、私は、あなたに、よりたのみます。あなたは、他の多くの人々のために祈られています。私のためにも、ひとたび祈りを捧げてください。神に向かって、あなたが私の救霊を望んでおられることを、言ってください。そうすれば、神は、私を助けてくださるでしょう。私が、あなたのものであることを言ってください。私は、その他のことは願いません。

マリアは堅忍の恵みを獲得してくださるために、私たちの生命である。

最後まで、堅忍することは神の賜物であり、しかも、きわめて偉大な賜物であって、トレント公会議の宣言するところによれば、全く無償の賜物であり、だれも要求する権利のない賜物である。

しかしながら、聖アウグスティヌスが教えているように、神にこの賜物を祈り求めるものは、必ず受けることができるのである。スアレズも、「死ぬまで祈り続けるものは、間違いなく、この賜物を受けることができる」と言っている。ベラルミノも言っている。「この堅忍の賜物は、毎日受けるために毎日祈り求めるべき恵みである」と。

さて、今日、普通の教義となっていて、私も確かであると信じていることであるが、すべての恩恵はマリアの手を経て人間に与えられるということが真理であるならば、私たちは、マリアの仲介によらないでは、堅忍という最高の恩寵を希望し、かつ獲得することができないというのも、同様に真理であると言わなければならない。しかも、信頼をもって、この恩寵をマリアに絶えず祈るならば、私たちは、確かにこれを受けることができるのである。

教会は、マリアに、「私によって行動する者は、罪を犯さないであろう。そして、私をあらわす者は、永遠の生命を有するであろう」と言わせているが、この言葉によれば、マリアは、この世において忠実に彼女に仕える者に、この恩恵を約束なさるのである。

恩恵の生命が、私たちから消え去らないためには、私たちの救霊のすべての敵に抵抗する霊的力が必要である。さて、この力は、マリアによってしか、受けることができない。マリアは、「力は私にあります」(集会24・30)と仰せられている。この言葉は、「神は、私の手の中にこの賜物をお置きになりました、それは、この賜物を、私の忠実なしもべに与えるためです」という意味である。

マリアはまた、「王たちは私によって統治します」(集会24・30)とも仰せられている。この言葉は、「私に仕える者は、五官と情欲とを絶対的に支配します。その結果、私に仕えるものは、永遠に天国を統治するにふさわしい者になるのです」という意味である。

ああ、この偉大な元后の使徒たちは、大きな力をもち、地獄のどんな攻撃をもくじくことができるのだ。マリアは、雅歌に記されているかの塔である。「首はみごとに積み上げられたダビデの塔。千の盾、勇士の小盾が掛けられている。」(雅歌4・4)。マリアは、ご自分を愛する者、戦いの際、その御助けを呼び求める者にとって、堅固な塔であり、地獄という敵に対するあらゆる盾と武具を備えた武器庫である。

同じ理由によって、聖母マリアは、すずかけの木に例えられる。「私は、すずかけの木のようにわたしは大きく育った」(集会24・14)。 そのわけは、カルディナル・ユーグが言うように、「すずかけの木は、盾の形の葉を伸ばし、マリアが、ご自分のそばに隠れ家を探す霊魂にお与えになるご保護を象徴するからである。福者アメデオは、この言葉に、次のような説明を行っている。すずかけの木が旅人をその葉陰に宿して、太陽の暑熱や、夕立の雨を避けさせるように、マリアはすべて望むものに、そのありがたい陰を伸ばし、彼らを情欲の暑熱や、誘惑の嵐からお守りになるのである。

このような保護を断って、聖母マリアに対する信心を怠り、困難なとき、マリアによりたのまないのは、なんと不幸なことであろう。聖ベルナルドは言っている。「世界から太陽を取り除いてみなさい、そうすれば、昼はなくなり、この世界は真っ暗な、恐るべき混沌状態になるに違いない。マリアを取り除いてみなさい。マリアに対する信心を霊魂から奪い去るならば、暗黒以外に何が残るだろうか」と。

これは恐るべき暗黒で、これについて聖霊は、「あなたが闇を置かれると夜になり、森の獣は皆、忍び出てくる」(詩編104・20)と言っている。神的光明の消えた霊魂、闇夜に閉ざされた霊魂は、罪悪と悪魔の巣窟となるであろう。

聖アンセルモは叫んでいる。「なんと災いであろうか。この太陽の光をさげすむ者、聖母マリアに対する信心を重んじない者!」と。聖フランシスコ・ボルジアは、聖母マリアに対して、特別な信心を示さない者の堅忍を危ぶんでいるが、もっともである。聖人は、ある日、修練者たちに気に入った聖人についてたずねた。ところが、マリアに対して特別な信心を持っていなかった者があった。そこで、修練長に向かって、このあわれな青年たちに、注意するように言いつけた。ところで、どんなことになったのであろうか。この青年たちは、みな、残念にも召命を失い、修道生活を放棄したのであった。

それゆえ、聖ジェルマノが、聖母マリアを、「キリスト教徒の呼吸」とお呼びしたのは、至言である。なぜなら、肉体が呼吸しないで生きられないように、霊魂はしばしばマリアによりたのまないならば、生きることができないからである。

そして、このマリアによりたのむことは、恩恵の神的生命を獲得し、維持する確実な手段である。聖司教は言っている。「呼吸は生きているしるしであるが、その上、生かすものである。これと同じように、マリアのみ名も、絶えず唱えるならば、霊魂が生きているしるしとなるし、生命を生じ、保ち、これに、絶えず、適当な食物を供給するのである」と。

福者アラン・ド・ラ・ローシュは、ある日、強い誘惑におそわれ、マリアによりたのまなかったために、いまにも負けようとしていた。すると神の御母が彼に現れ、以後もっと気をつけるようにと、彼の頬を打ち、「もし、私を呼んで助けを求めていたら、こんな危険に陥らなかったでしょう」と言われた。

これに反して、マリアは、「幸いなるかな、私に聞き従う者、毎日私の戸口に立って警戒し、私の家の入口を守る者!幸いなるかな、私の声に耳を傾ける者、たえず、私の慈悲から、光明と助けとを受けようと心掛ける者!」と仰せられるのである。マリアは、このような忠実なしもべに、この光明と力とを執り成して与え、このしもべを罪から救い出して、善徳の道に堅忍させてくださるのである。

教皇インノチェント二世は、これを立派に表現して、マリアは、私たちにとって、「夜の月、朝の曙、昼間の太陽である」と言っている。マリアは、恵み深い月であって、罪の夜に迷った不幸な人の、不幸な滅びの状態を照らすのである。次に、やさしい曙として、このように照らされた罪人に、太陽の出現が近いことを告げ、罪から脱け出て、神の恩恵に立ち帰るために必要な助けをお与えになるのである。最後に、輝ける太陽として、神と和睦した霊魂が、再び断崖に落ちることから守ってくださるのである。

神学者は、集会書の、「その鎖は、救いをもたらす鎖である」(集会6・31)という言葉を、聖母マリアに適用する。どうして、鎖というのであろうか。リシャール・ド・サン・ローランは、答えて言った。「そのわけは、マリアは、私を鎖をもってつなぎ、悪の畑をさまよい歩くことを防止するからである」と。

聖ボナヴェンツーラは、聖母マリアの聖務日課の中で、マリアに適用されている聖書の、「私の住み家は、聖者たちのまったくの集いの中にある」(集会24・16)という句を注釈して、次のように言っている。「マリアは、この集いの中においでになるばかりではなく、聖化された霊魂に、充実した聖性を守り、これをあらゆる害から防いでくださるのである。マリアは、彼らの善徳が消えないようにこれを守り、彼らの功徳が失われないようにこれをお守りになる。このようにして、悪魔をとりこめ、害を加えさせないようにするのである」。

聖書には、強い女について、「彼女の家人は、いずれも、二枚の衣をつけた」と記されている。マリアの信心深いしもべについても、同じことを言うことができる。なぜなら、コルネイ・ド・ラ・ピエールの言うところによれば、「マリアの与える二枚の衣とは、イエズス・キリストの善徳とご自分の善徳とを指すからである」。このように保護されているならば、雪の日の寒さも恐れるに足りない。彼らの堅忍は安全なのである。

それゆえ、ネリの聖フィリポは、告白をする者に、いつも、「子供たちよ、もしも堅忍したいと思うならば、聖母マリアに対する信心に励みなさい」と教えた。イエズス会の聖なる修道士ヨハネ・ベルクマンスも、「マリアを愛する者は、堅忍することができるであろう」と言っている。

この観点から、放蕩むすこの例え話について、修道院長ルペトが行った考察は本当に美しい。「もしも、この気の毒な子供が、母親をもっていたならば、決して、父の家から離れなかったであろう。少なくとも、もっと早く帰ってきたであろう。これと同じように、マリアを母とたのむ者は、決して神から離れることはない。そんな不幸に陥ったとしても、マリアに連れられて、すぐ帰ってくるに違いないのである」。

ああ、もしも、すべての人が、このいとも寛仁なる元后、いとも愛深い元后を愛し、誘惑の場合、いつも急いで、その御助けを呼び求めるならば、滅びる者があろうか。マリアによりたのまない者が、罪に陥り、かつ、亡びるのである。

リシャール・ド・サン・ローランは、集会書の「私は、海の波濤の上を歩んだ」(集会24・8)という言葉を、聖母マリアに適用して、聖母に次のように語らせている。「私は、私の被保護者と共に、嵐の中を歩み、彼らを支え、罪の深淵から守る」。

ブスチスのベルナルディノの語るところによれば、「アヴェ・マリア」と言えるように訓練されたある小鳥が、ある日、はげたかに捕らえられた。その途端、小鳥は「アヴェ・マリア」と叫んだ。すると、はげたかは、雷に打たれたようになって落ちたとのことである。これによって、主は、知恵のない小鳥でさえ、マリアのみ名によって死から救われるとしたら、誘惑のとき、忘れずマリアのみ名を呼んで助けを求めるキリスト教徒は、悪魔の手に落ちることはないに違いないということを、私たちに教えてくださったのであった。

それゆえ、敵の誘惑に出会ったならば、どうすればよいだろうか。ヴィルヌーヴの聖トマスの教えるところによれば、「ひなが、空中にとびを認めると、すぐさま、母鳥の翼の陰に飛び込むように、ああ、マリアよ、私たちも、誘惑が起きるやいなや、少しもためらわず、あなたのマントの陰に避難すべきである」。聖人はなお続けている。「ああ、私たちの元后よ、私たちの母よ、あなたは私たちをお守りくださるべきです。なぜなら、私たちにとって、神に次いで、あなた以外に、避難所はないからです。あなたは、私たちの唯一の希望、唯一の保護者です。私たちは、ただあなたのみ、信頼します」と。

聖ベルナルドの言葉を借りて結論しよう。「ああ、人よ、あなたがどんな人であろうとも、この世では、むしろ、荒れ狂う大洋の嵐にもてあそばれているのであって、堅い地の上を歩いているのではないことを悟ったに違いない。波濤にのまれたくないならば、海の星を見つめよ。星を眺め、マリアを呼べ。神に背く危険にあうとき、誘惑のためになやましい心のみだれを感じる時、何をなすべきかに迷っているとき、あなたを助けるマリアを思い、マリアに祈れ、すぐさま、マリアに向かって、助けてくださるように祈れ。その力強いみ名を、たえず忠実に唱え続けよ。不動の信頼を抱き、このみ名をあなたの心から、追い出してはならない。マリアのみ跡を歩むならば、決して迷うことはないだろう。マリアのみ名を呼んで助けを求めるならば、決して失望に陥ることはないだろう。マリアがあなたを支えてくださるならば、倒れることはないだろう。マリアがあなたを保護してくださるならば、あなたの救霊は安全となるだろう。マリアの導きに従って歩むならば、旅の疲れを感じないだろう。マリアの助けによって、あなたは、目的地に達することができるだろう」。

そうだ。もしも、マリアがあなたをお守りくださるならば、あなたは、確かに、選ばれた者の王国に至り着くことができるであろう。「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 (ルカ10・28)。

祈り 

ああ、あわれみの元后よ、最も尊い童貞よ、裏切り者である私は、あなたの足元にひれ伏します。私は、あなたの執り成しによって神から受けた恩恵に報いるのではなく、忘恩をもって神とあなたとを裏切りました。しかし、ああ、私の元后よ、私は、どんなにみじめな者であっても、あなたに対する信頼を減らすことはなく、かえって、ますます信頼を深めます。

私のみじめさは、私に対するあなたの同情を増やすだけです。ああ、マリアよ、あなたは、あなたによりたのむ者に対して、慈悲と寛仁であられます。それゆえ、私に対しても、慈悲と寛仁とをたれてください。私は、ただ、あなたの同情のまなざしと心とを、あなたに願います。もし、あなたのみ心が私に対して同情をお感じになるならば、ご保護を拒まれることはありません。

もしも、あなたが私を保護してくださるならば、何を恐れる必要があるでしょう。いいえ、私は、もはや、何も恐れないでしょう。私は、私の罪を恐れないでしょう。なぜなら、あなたは、私の罪の不幸な結果を償うことができるからです。私は、悪魔を恐れないでしょう。なぜなら、あなたは地獄よりも強いからです。私は、あなたの御子も恐れないでしょう。御子は、私に対して正しい怒りをお持ちになるけれども、あなたのみ言葉によって、み心を和らげられるからです。

私は、ただ一つのことを恐れます。すなわち、私の過ちによって、誘惑のとき、あなたによりたのむことを怠り、私の滅びの原因となることです。しかし、私は、今日、「こののち、いつも、あなたによりたのむ」ことを約束します。

願わくは、この美しい時を用いて、私のみじめさを減らし、あなたの望みで満たしてください。ああ、神の御母よ、私は、あなたに大きな信頼を寄せます。私の迷いを泣く恩寵を、あなたに期待します。この後、罪に陥らないために必要な勇気を、あなたに希望します。

ああ、天の医師よ、あなたは、病のとき、私を癒すことができます。私が、罪咎によって弱くなるときに、あなたの支えは、私を強めてくださるでしょう。ああ、マリアよ、私は、あなたにすべてを希望します。あなたは、何事も神に執り成すことができるからです。アーメン。

私たちの楽しみであるマリア、マリアはしもべの死を楽しいものとしてくださる

「まことの友は、いかなる場合にも愛し、不幸のときは、兄弟となる」(箴言17・17)。まことの友、献身的な親族を見分けることができるのは、順風満帆の時ではなく、悲しみと試練の時である。世俗の友人同士は、相手が幸福である間は忠実であるが、不幸、特に死が訪れるとみな逃げ去るのだ。

マリアは、その忠実なしもべたちに対して、このようになされることはない。彼らが苦悩におそわれているとき、特に、死の苦しみにおそわれているとき、このあわれみ深い元后、愛深い御母は、彼らを捨てておくことができない。

マリアは、私たちの追放の地にいる間、私たちの生命であられるのだが、私たちの最後にあたっては、やさしく、幸福な死を取り次いでくださり、死を楽しいものとしてくださるのである。

マリアは、すべて予定された者の頭である御子イエズスのご死去に立ち会われた。これは、マリアにとって、大きな悲しみだったけれども、また、類ない恩寵でもあったのである。そして、このとき、マリアは、予定されたすべてのものの最後に立ち会う特権を獲得されたのである。

それゆえ、教会は、特に、臨終のときのために、マリアの御助けを哀願させるのである。「私たち罪びとのために、今も死を迎えるときも祈ってください」。あわれな瀕死者の苦悩は大きい。きわめて大きい。彼らにとって、罪のために感じる良心の咎め、間近にせまる審判に対する恐れ、永遠の運命の不確実さなど、すべてが苦悩の種である。また、特にこのとき、悪魔は全力をあげて、今や永遠の世界に入ろうとしているこの霊魂をとりこにしようとする。

悪魔は、時期が切迫していることを知っているし、もしも、今、この餌食を取り逃がしたならば、永久に取り返しがつかないことを知っている。「悪魔は怒りに燃えて、お前たちのところへ降って行った。残された時が少ないのを知ったからである」(黙示録12・12)。それで、この霊魂の誘惑を受け持っていた悪魔は、自分の力だけでは足りないと思って、他の仲間に助けを求めるのである。こうして「家々にはみみずくが群がり、駝鳥が住み、山羊の魔神が踊る」(イザヤ13・21)のである。すなわち、瀕死者のまわりには、多くの悪魔がつめかけ、結束して、これを地獄に陥れようと努めるのである。

聖アンドレア・アヴェリノの臨終に際しては、一万の悪魔が押し寄せて、誘惑したとのことである。聖人の伝記をあらわしたバガタの語るところによれば、聖人は臨終のとき、悪魔に対して恐ろしい戦いをしなければならなかった。聖人のまわりに集まっていた修道士たちは、みな、恐怖におののいたという。聖人の顔は、内心の動揺のために腫れ上がって、真っ黒になり、肢体はけいれんしてぶるぶると震え、目からは涙が滝のように流れ、頭は激しく震動して、聖人が悪魔に対して、恐ろしい戦いをしていることを示していた。その場に居合わせた者は、同情の涙を流しながら、ますます熱心に祈ると共に、聖人でさえこのようにして死ななければならないのを見て、恐れおののくのであった。しかし、彼らを安心させたのは、瀕死の聖人が、御助けを求めるかのように、聖母マリアのご像にしばしば目を注いでいたことであった。聖人は、生前、しばしば、「臨終のとき、マリアは私のよりどころとなるでしょう」と語っていたのである。神の御あわれみによって、聖人の戦いは、輝かしい勝利に終わった。けいれんはやみ、腫れ上がった顔は、元通りの色をおびるようになった。聖人は、聖母マリアのご絵を静かに見つめて、あたかも、これにお礼を申し上げるかのように、敬虔に頭を下げるのであった。そのとき、聖人は、聖母マリアに接していたと信じられる。それから、聖人は深い平和のうちに、天来の光明に輝きながら、その祝福された霊魂を、至愛なる御母の御手にお返しになったのである。聖人が死ぬと同時に、臨終の床にあったカプチン会のある修道女は、そばに居合わせた姉妹たちの方に向き直り、「どうぞ、アヴェ・マリアを唱えてください。ただいま、一人の聖人が世を去りました」と言った。

悪魔は、私たちの元后を見るとすぐに、慌てて逃げ失せるのである。それで、死のとき、マリアを味方につけているならば、悪魔など恐れる必要はない。

ダビデは死の苦しみを思い浮かべて恐れおののいたとき、来るべき贖い主の死と童貞母の取り次ぎに信頼して、勇気づけられたのであった。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩編23・4)。カルディナル・ユーグは、この杖を十字架と解し、鞭をマリアの取り次ぎと解している。なぜなら、「イザヤのエッセの幹より一枝がいずべく、その根より一輪の花生じるべし」と言う預言は、マリアを指したものだからである。

聖ペトロ・ダミアノも、「神の御母は、この強力な鞭であって、地獄軍の狂暴は、これによって打ち砕かれるのであると言っている。そして、聖アントニオも、「もしも、マリアが私たちの味方ならば、だれが、私たちに敵対できようか」と言って、私たちに信頼を促している。

イエズス会士マヌエル・パディアル神父は死に瀕していた。すると、マリアがお現われになり、神父を安心させるために、「天使たちが、あなたと一緒に喜びながら、あなたに向かって『ああ、幸いなる疲労よ、ああ、豊かに報われた苦業よ』と言うときがきました」と言われた。同時に、悪魔の一群が、「私たちは、この人に対して何もできない。汚れなき御者が防衛しているから…」と叫びながら、落胆して逃げ失せるのが見られた。

また、ガスパル・ヘイヴド神父の臨終の際、悪魔どもは、信仰に対する疑惑を起こさせて、激しく誘惑した。神父は、すぐさま聖母マリアによりたのんだ。そして、まもなく、「ああ、マリアよ、私を助けてくださったことを感謝します」と叫んだ。

聖ボナヴェンツーラの教えるところによれば、マリアは、臨終のしもべたちのために、天使たちの助けをも、求めてくださるのである。聖人は言っている。「ああ、童貞なる元后よ、天軍の首領である聖ミカエル、および、神の命令によって選ばれたものに奉仕するすべての天使は、あなたの命令を実行します。彼らは、日夜、あなたの御保護によりたのむ者を防ぎ守り、その霊魂が、この世を立ち去るとき、これを迎えるのです」と。

「地下では、陰府が騒ぎを起こす、お前が来るのを迎えて。そして、亡霊たちを呼び覚ます」(イザヤ14・9)、イザヤのこの句は、ある霊魂がこの世を去る時、地獄に起こるさわぎにも適用することができる。このとき、地獄からは、もっとも狂暴な悪魔が遣わされて、この霊魂を誘惑し、そののち、イエズス・キリストの審判にまでこの霊魂に付き添い、これを訴えるのである。

しかし、リシャール・ド・サン・ローランが言っているように、「審判者の御母が保護してくださる者を、審判者に訴えることができる者があるだろうか、イエズス・キリストは、御母マリアが弁護をお引き受けになった霊魂を、決して罪にお定めにならなかったし、また、この後も、罪にお定めになることはないであろう。悪魔もこのことをよく知っているのである。

マリアは、その親愛なしもべを、死に際してお助けになるだけでは満足なさらない。マリアは、彼らの側においでになって、死の苦しみを和らげ、彼らを励まし、神の審判に伴われるのである。

聖エロニモは、童貞女エウストキアにあてて、「主の御母マリアが、童貞女たちを伴って、あなたをお迎えくださる日は、なんという幸福な日でしょう」と書き送っている。

聖母マリアは、聖女ブリジッタに、ご自分が保護なされている者について、「彼らの至愛なる元后であり母である私は、彼らのそばに行って、臨終の苦しみを和らげ、彼らを慰めたいと思います」と仰せられている。

聖ヴァンサン・フェリエは、付言して、この愛深い元后は、「瀕死者の霊魂を、そのマントの中に迎えて、ご自身、これを御子である審判者に紹介し、いつも、その救いを獲得してくださる」と言っている。

聖女ブリジッタの子カロロは、このようにして救われたのである。カロロは、危険な軍職に身をゆだね、母から遠く離れて死んだ。それゆえ、聖女ブリジッタは、息子の救霊を非常に気遣っていた。しかし、聖母の啓示によって、息子が救われたことを知ることができたのである。聖母マリアは、カロロが聖母マリアに対していだいていた愛深い信心に報いるために、最後のとき、御自ら、彼を助け、なすべき行為をさせてくださったのである。

この啓示を受けると同時に、聖女ブリジッタは、玉座に坐しておられるイエズス・キリストを見ることができた。そして、悪魔が、マリアについて、二つの訴えをしているのを聞いた。一つは、カロロが臨終のとき、彼を誘惑することを許さなかったこと、もう一つは、マリアご自身がカロロの霊魂を神の審判の庭に伴い、悪魔には手出しを許さないで、カロロの霊魂を救ったことであった。しかし、悪魔は、聖女の目の前で、イエズス・キリストによって追い払われ、カロロの霊魂は、天に上げられた。

「その鎖は、救いの鎖である。あなたは、ついに安息を見出した」(集会6・30)。ああ、兄弟よ、死に際して、愛のやさしい鎖をもって、マリアに結びつけられているならば、あなたは、どれほど幸いであろうか。この鎖は、本当に救いの鎖であり、あなたにとって、永遠の救いの保証なのである。この鎖のおかげで、あなたは、永遠の平和と安息との序曲であるあのすばらしい平安を味わうことができるであろう。

ビネ神父の語るところによれば、神父が臨終に立ち会ったあるマリアの熱心なしもべは、息を引き取る前、神父に次のように語った。「ああ、神父様、一生涯の間、マリアによく仕えようと努力したものは、死のとき、どんなに深い満足を覚えることでしょう。神父様がそれをご存知になったら、どれほどびっくりし、慰められることでしょう」。

スアレズ神父は、マリアの偉大なしもべの一人であった。彼は、自分のすべての学識とただ一つの「アヴェ・マリア」の功徳とを交換してもよいと言っていたほどである。さて、神父は臨終の際に、大きな喜びに満たされて、「死ぬことがこんなに楽しいとは思わなかった」と述懐している。

信心深い読者よ、もしも、あなたたちが、最後のとき、聖母マリアを愛したことを思い起こすことができるならば、これと同じ満足、同じ喜びを味わうことができるのである。マリアは、ご自分に忠実に仕え、聖体訪問、ロザリオ、大斎など、いろいろの信心の業を励み、特に、ご自分にしばしば感謝を捧げ、その賛美を歌い、しばしば、その力強いご保護を哀願した子供たちに対して、不忠実になさることはできないのである。

自分は罪人であったから、このようななぐさめを受けることができないと思ってはならない。こののち、有徳な生活を送り、この大変やさしく、大変いつくしみ深い元后に仕えるように努めよ。悪魔は、あなたを絶望に陥れようと、苦悩と誘惑とをもって攻めるであろう。しかし、聖母マリアは、あなたの支えとなってくださるであろう。聖母は、最後のとき、御自ら、あなたの側においでになって、あなたを助けてくださることさえ、お拒みにならないであろう。

聖ペトロ・ダミアノの語るところによれば、その兄弟の一人マルチノは、不幸にも、神に背いたので、マリアの祭壇に赴き、聖母に奴隷として身を捧げた。彼は、奴隷のしるしに、首のまわりに縄をかけ、聖母に向かって、次のように祈った。「ああ、私の元后よ、純潔の鏡よ、私はあわれな罪人です。貞潔を破って、神とあなたに背きました。私に残された道は、ただ、あなたの奴隷となることだけです。私は、今日、この身をまったくあなたへの奉仕にゆだねます。私を退けないでください。私の過去を忘れ、私の贈り物をお受けください」。こう祈ったのち、彼は祭壇の階段の上に、いくらかの銀貨を置き、奴隷のしるしに毎年、同額の銀貨を捧げることを約束した。

それからしばらくたって、彼は重病にかかった。すると、ある朝突然、「起きてください。本当に起きてください。私の元后に敬いの礼を捧げてください」と叫んだ。そして、「ああ、天の元后よ、あなたは、なんという大きなお恵みを与えてくださるのでしょう。あなたは、あなたのあわれな奴隷をお見舞いしてくださるのです。ああ、私の元后よ、私を祝福してください。あなたのご訪問を受けた私が、亡びることを許さないでください」と付け足した。ちょうど、そのとき、兄弟のダミアノが入ってきたので、マチルノは、聖母マリアが現れて、祝福してくださったことを語った。そして、マリアがお現れになったとき、その場に居合わせた人たちが、起立しなかったことをなげくのであった。それから間もなく、平安に、彼は神の御もとへ赴いた。

親愛なる読者よ、もしも、あなたが、マリアに忠実であるならば、過去に多くの罪を犯したとしても、このような死を迎えることができるのである。マリアは、あなたに、楽しく、幸福な死を執り成してくださるに違いないのである。

あなたは、過去の罪を思い出して、極端な恐怖に陥り、信頼さえゆらぐことがあるかもしれない。しかしながら、マリアは、アルサスのアドルフ伯爵になされたように、あなたを勇気づけてくださるであろう。この人は、世の虚栄をことごとく投げ捨てて、フランシスコ会に入った。フランシスコ会の記録によれば、彼は、聖母マリアに対する信心がきわめてあつかったということである。

死が近づくと、彼は、世俗にいたときの生活、自分が果たした任務の責任、神の審判などを思い浮かべて、ふるえおののいた。自分の救霊が不安だったのである。けれどもマリアは、そのしもべが悩みの中にあるとき、御眠りになっていない。

マリアは多くの聖人たちを伴って、アドルフに現れ、次のようなやさしい御言葉によって、彼をお励ましになったのである。「アドルフよ、親愛なる子よ、なぜ死ぬのを恐れるのですか。あなたは、私に身を捧げたではありませんか。私のものになっているではありませんか」。これを聞いて、マリアのしもべアドルフは、すっかり安心し、晴れやかな心、平安な霊魂をもって、死を迎えたのであった。

罪人である私たちも、希望を奮い起こそう。マリアに信頼しよう。もしも、私たちが残る生涯の間、愛をもってマリアにお仕えするならば、マリアは、死のときに私たちを助け、私たちのそばにあって、励ましてくださるに違いないのである。

マリアは、ある日、聖女メヒチルデと物語られたとき、このことを約束されたのである。「私は敬虔に私に仕える者に対しては、死の際、母の慈愛をもって、忠実にこれを助け、なぐさめ、保護するでしょう」。

ああ、神よ、私たちの永遠の運命がまさに決定されようとする最後のとき、天の元后が私たちのそばにおいでになり、私たちについて、なにくれと心配し、その力強いご保護を約束してくださるということは、なんという大きな慰めであろうか。

マリアが瀕死のしもべたちにお与えになる助けについては、すでにいくつかの実例をあげたが、歴史家は、その他にも無数の例をあげている。アシジの聖女クララ、カンタリスの聖フェリクス、モンテファルコの聖女クララ、聖女テレジア、聖ペトロ・アルカンタラなどは、みな死のとき、マリアのお現われに接したのである。

私たち一同の慰めのために、一、二の例をあげてみたい。クラッセ神父の語るところによれば、オアイニーの聖女マリアは、聖母マリアがヴィランブロック・アン・ブラバンの敬虔なやもめの枕元にお立ちになっているのを見た。病人が高熱に苦しんでいたので、マリアは、身をかがめて彼女を励まし、扇であおいでおやりになるのだった。

聖ヨハネ・デ・デオは、臨終のとき、マリアのご訪問を待っていた。聖人はマリアを熱愛していたのである。ところが、マリアがお現れてくださらないので、悲しみ、ぐちをこぼしていた。さて、時期がくると、マリアは聖人の前に現れ、信頼の足りないのをやさしくお責めになって、「私のあとにつき従ったものを、このような時期に捨てておくことは、私の習慣ではありません」と仰せられた。

この言葉は、マリアのしもべたちにとって、本当に励ましになる言葉であって、次のような意味に解することができる。「ヨハネよ、私の子よ、あなたは、何を考えているのですか。私が、あなたを忘れていたとでも考えているのですか。私は、自分に身を捧げた人々を、死のとき忘れることはできないのです。もっと早く来なかったのは、まだ時刻がきていなかったからです。しかし、その時刻がまいりました。私は、あなたを連れにきたのです。さあ、天国にまいりましょう」。それからまもなく、聖人は息絶え、その至愛なる元后に向かって、永遠に感謝を捧げるために、天へ飛び立ったのである。

祈り

ああ、マリア、私の慈悲深い母よ、みじめな罪人である私は、どのような死をとげるのでしょうか。私は最後の息を引き取り、神の審判の庭に出るときのことを考え、罪によってしばしば、滅びの宣告を自分の手で書いたことを思い起こすとき、おののき、恐れながら、私の永遠の運命はどうなるのかと、自問自答します。

ああ、マリアよ、私は、イエズスの御血とあなたの御執り成しとに、すべての希望をつないでいます。あなたは天の元后、宇宙の女王、神の御母です。

あなたは非常に偉大なお方です。しかし、あなたは、どんなに偉大であっても、私たちのみじめさをお忘れになることはありません。かえって、偉大であるために、私たちのみじめさに対して、いっそう愛深い同情を示してくれます。

世の人たちは、何かの位に上げられると、低い身分に留まっている旧友から遠ざかり、これに目もくれなくなります。しかし、あなたは、至って気高く、至って愛深いみ心をお持ちしているため、このようにはなされません。あなたは、深刻なみじめさに接すれば接するほど、これを助けようとお努めになります。

あなたにとって、私たちの祈りにお応えくださるだけでは足りません。あなたは、私たちが祈らない先から、私たちに御恵みをたれてくださいます。

あなたは苦しむ私たちを慰め、嵐をしずめ、私たちの敵を打倒してくださります。要するに、あなたは、私たちに善をほどこすいかなる機会も、おろそかになさらないのです。

あなたのうちに、これほどの尊厳と愛情、これほどの偉大さと愛とをお与えになられた神は、永久に祝されますように。私は、これを、絶えず、私のやさしい主に感謝し、絶えず喜びます。

なぜなら、あなたの幸福は私の幸福であり、あなたの富は、私の富だからです。ああ、悲しめるものの慰め主よ、悩みの中にあって、あなたによりたのむ私をあわれんでください。

私の悩みの原因は、私を意気消沈させるたくさんの罪、この罪が私に与える良心の呵責、十分に痛悔したかどうかという不安などです。私は、私のうちに、汚れと不完全しか認めることができません。悪魔は、私を訴えようとして、私の死を待ち、私が背いた神の正義は償いを要求しています。

私の母よ、私の運命はどうなるのでしょうか。もしも、あなたが私を助けてくださらないならば、私は滅びます。慈しみ深い童貞よ、私の慰めとなってください。私に、私の罪の心からの痛悔を与えてください。過去の罪を償い、残りの生涯を神に対して忠実に過ごす勇気を与えてください。

そして死の苦しみにおそわれるとき、ああ、マリアよ、私の希望よ、私を捨てないでください。いつの日にも増して、私を助け、強めてください。悪魔が私の罪を見せつけて絶望に陥れようとするとき、私を守ってください。

ああ、元后よ、私の大胆な願いを許してください。どうか、臨終のとき、あなた自身、私を訪れ、私を慰めてください。あなたは、多くの人に、このような恩恵を与えました。私もまた、この恩恵を求めます。

この願いは、ほんとうに大胆な願いです。けれども、あなたの慈悲はさらに大きく、最もみじめな者をたずねて、なぐさめてくださいます。私は、この慈悲に信頼します。

地獄に落ちなければならないあわれな私を救って、あなたの御国に導いてくださることは、あなたにとって、永遠に光栄となるでしょう。私は、そこで、いつも、御足元にひれ伏し、代々にあなたに感謝し、あなたを祝し、あなたを愛することを願います。

ああ、マリアよ、私は、あなたをお待ちしています。どうか、この慰めを私に与えてください。私の願いを聞き入れてください。アーメン。

われらの希望なるマリア

マリアはすべての人の希望である

現代の異端者たちは、私たちが、マリアを私たちの希望と崇め、かつ宣言するのを見て憤慨する。「このように呼ぶことができるのは、ただ神のみである。神は、被造物に希望をつなぐ者を呪った。『呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は』(エレミヤ17・5)。さて、マリアは、一つの被造物である。被造物がどうして私たちの希望になりえようか」と、彼らは主張する。

しかしながら、教会は、彼らの言葉に耳を貸さず、すべての司祭、すべての修道者、すべての信者に代わって、「私たちの希望、すべての人の希望」という心地よい名称でもって、毎日マリアを呼び、祝するように命じている。

聖トマスによれば、ある人に希望するには、二つの方法がある。一つは、その人を主な原因と見なすことであり、もう一つは、仲介的原因と見なすことである。

王から何かの恩典を得たいと思う場合には、王を至上主と見なし、その大臣または寵臣を仲介者と見なすのである。そして恩典は、王から与えられるのであるが、その寵臣の仲介の賜物であるとも言える。それで、恩典を願う者は、仲介者を、その希望と呼ぶことができるわけである。

天の王は限りなく善良である。そして、その恩恵をもって、私たちを富ませることをこの上もなくお望みになる。しかしながら、一つの条件を、私たちにお求めになる。すなわち、私たちに、このことへの信頼を深めさせるために、ご自分の御母を、私たちの母、私たちの弁護者として、彼女に私たちを助ける全能力をお与えになったのである。

それゆえ、私たちが、救霊および他のあらゆる善について、聖母マリアに希望することは、神の思し召しである。言うまでもなく、罪人のように、神に関係のない被造物に希望をつなぎ、人間の友情や恩恵を得るために神に背く者は、預言者の言う通り、呪われるべきである。

しかし、マリアが神の御母であるという理由で、これに希望し、マリアがきわめて力あるお方であり、あらゆる恩恵と永遠の生命とを執り成してくださるという理由でこれによりたのむ者は、神の祝福を受け、かえって、神のみ心を喜ばせるのである。

というのは、神は御自ら、マリアをお愛しになり、そのご生涯の間、すべての人間、すべての天使よりも、マリアをお敬いになったのであって、マリアの栄誉を高めようとお望みになっているからである。

それゆえ、私たちが、聖母マリアを私たちの希望と呼ぶことは、まことに正当なことである。カルディナル・ベラルミノが言っているように、「私たちは、自分の祈りだけでは獲得できないものを、マリアのお取り次ぎによって受けたいと望むのである」。

スアレズによれば、「私たちがマリアに祈るのは、マリアは神に聞き入れられるのにふさわしいお方であり、私たちの足りないところを補ってくださることができるからである。それで信頼をもってマリアにお取り次ぎを願うのは、神の御慈悲を疑うからではなく、私たちのいやしさを恐れるからである」。

したがって教会が、マリアに集会書の次の言葉を語らせているのは、本当に理由あることである。「私は清らかな希望の母である」(集会24・18)。マリアは、この世のはかない卑しむべき宝を望ませる代わりに、天国の限りない永遠の宝を望ませる聖なる希望の母なのである。

聖エフレムは、神の御母に向かって、「めでたし、ああ、私の霊魂の希望よ、めでたし、ああ、キリスト信者の安全な隠れ家よ、罪人の助けよ、めでたし、信徒を守る城壁、万民のよりどころよ」と叫んだ。

聖バジリオは、私たちに向かって、神に次いで、マリアによりたのむように勧め、マリアは、「神の次に、私たちの唯一の希望である」と言っている。

聖ベルナルドは、神の摂理において、救霊を得るものはみなマリアによってのみ、これを得るようにお定めになった、と言っている。

聖エフレムは、この神のお定めになった秩序を考察して、私たちの元后に向かい、次のように祈っている。「ああ、清い童貞よ、私たちは、あなた以外に信頼できるものを見出すことはできません。ですから、私たちを、あなたの同情あふれる愛情の翼の下に隠して、守ってください」。

ヴィルヌーブの聖トマスもまた、これと同じことを教えて、「ああ、マリアよ、私たちは、あなた以外に、よりどころ、助け、隠れ家を見出すことはできません」と言っている。

聖ベルナルドは、次のように述べて、この真理の根拠を示している。「ああ、人よ、神のご計画、慈悲深い愛のご計画を思え。なぜなら、神はこのご計画によって、その慈悲を、もっと豊かに、私たちの上に注いでくださるからである。すなわち、神は、人類を贖おうとお考えになって、贖罪の功徳をことごとくマリアの御手にゆだねられ、これをマリアの思うままに処分させたのである」。

その昔、主はモーセに向かって、「贖いの座を純金で作りなさい。…わたしは、贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」(出エジプト25・17、22)と仰せられた。

これについて著述家パチウッチェリは次のように述べている。「贖いの座とは、マリアのことである。マリアは、神が全世界にお与えになった贖いの座である。神は、そこから、私たちの願いに応えて、善良と慈悲をたれ、恩恵を分配してくださるのである。一言でいうならば、すべての善は、マリアを経て、私たちに与えられるのである」。

「神の御言葉は、どうして、大天使を遣わしてマリアの承諾を求めた後でなければ、マリアの胎内にお宿りにならなかったのであろうか」。聖イレネオはこう自問したのち、それは世界がご托身の玄義をマリアに負っていることを認め、「マリアをすべての善の源と見なすことができるようにするためである」と答えている。

イディオタが言っているように、神の賜物と助け、各種の恩恵、一言でいうならば、「すべての善は、マリアの御執り成しと祈りによって人間に与えられたのであり、世の終わりに至るまで「与えられるに違いないのである」。

であるから、ルイ・ド・ブロアの次の敬虔な叫びは、真理にかなっていると言うべきである。「ああ、マリアよ、あなたを愛さないほどの愚か者、不幸な者があるだろうか。あなたは、あなたを愛する者にとって、きわめて愛すべき、きわめて甘美なお方です。あなたは、私たちの精神が疑いと迷いに陥っているとき、あなたによりたのむものの光であり、悲しいときは、あなたに信頼するものの慰めであり、危険のときは、あなたを呼ぶ者の助けです。あなたは、御子に次いで、あなたの忠実なしもべの確実な救いです。ですから、ああ、失望する者の希望よ、ああ、打ち捨てられた者の助けよ、私はあなたを崇めます。ああ、マリアよ、あなたは全能です。というのは、あなたの御子は、あなたを敬うために、あなたのお望みになることは、なんでも、すぐに実行しようと決意なされるからです」。

聖ジェルマノもまた、マリアが、私たちにとって、あらゆる善の源であり、私たちは、マリアによって、すべての悪から逃れることができることを認め、次のように祈っている。「ああ、私の元后よ、あなたのみ、神が私に与えてくださった慰め、私の巡礼の旅の案内者、私が弱い時の力、貧しい時の富、私の傷の薬、私の悲しみの慰め、私のとらわれの終末、私の救いの希望です。私の願いを聞き入れてください。私の嘆きをあわれんでください。ああ、私の元后、私の霊魂のよりどころ、生命、支え、希望、力であるマリアよ」。

「知恵(彼女)とともに、すべての善が、わたしを訪れた」(知恵7・11)。聖アントニオは、知恵の書のこの句をマリアに適用して、次のように述べている。「マリアはすべての善の母であり分配者である、それで、世界は、これを宣言することができる。特に世にあって、特別に天の元后を愛している者は、そうである。マリアの御跡を歩むならば、マリアに対する信心の結果として、すべての善は、豊かに与えられるのである」。

セル修道院長が断言しているように、「マリアを見出す者は、すべての善、すべての恩恵、すべての善徳を見出すのである。というのは、マリアの力ある御執り成しによって、霊的宝に富んだ者となるのに必要なすべてのものを受けることができるからである」。

聖母マリアご自身、これを私たちに教えてくださり、「わたしのもとには(神が持つ)富と名誉があり、…私を愛する者は嗣業を得る」(箴言8・18、21)と仰せられている。聖ボナヴェンツーラは、「それゆえ、マリアの祝福された手から賜物と私たちが望むすべての恩恵を受けるために、みな、絶えず、マリアの御手を見つめよう」と言っている。

ああ、マリアに対する信心によって、どれほどの傲慢な者たちが謙遜となったことであろうか。どれほど短気な者が寛容になったことであろうか。どれほどの盲目な者が光を見出したことであろうか。どれほどの絶望者が信頼を見出したことであろうか。どれほどの迷える者が救いを見出したことであろうか。

聖母マリアは、エリザベットの家で、「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1・48)と叫んだとき、これを預言されたのであった。聖ベルナルドは言っている。「そうです。いつの世の人も、あなたを幸いな者と言うでしょう。あなたは、いつの世の人のために、生命と光栄とを確保してくれたからです。あなたのうちに、善人は堅忍を、罪人は赦しを、すべての人は永遠の生命を見出すのです」と。

敬虔なランスペルジュに対して主は仰せになった。「ああ、アダムの気の毒な子供である人間よ、あなたたちは、多くの敵に囲まれ、多くの悪に圧倒されています。私の母であり、あなたたちの母であるマリアを、特別な愛情をもって敬うように努めなさい。私は、あなたたちが、マリアから、あなたたちの生活がどうしなければならないかを学ぶことができるよう、マリアを清さと完徳との模範として、また、あなたたちが、悩みのとき、より頼むべききわめて安全な隠れ家として、彼女を世に与えたのです。私は、私の愛するマリアが、少しも恐れを抱かせないように、また、みなが、ためらわずマリアに近づいて、その助けを求めることができるようにしたいと望んだのです。私はマリアの霊魂を、きわめてやさしく、きわめて同情深いものにつくり、マリアが、その助けを求めるものを、一人もさげすむことなく、求める者には、親切を尽くさないといけないように計らったのです。マリアはいつも、親切で、みなに慈悲を注ぎます。ですから、マリアによりたのんで、悲しみを慰めてもらえない者はないでしょう」と。したがって、愛といつくしみとの宝である類ない母、弁護者である母を、私たちにお与えになった神の限りない慈愛は、永久に祝福されるべきである。

あの聖ボナヴェンツーラが、私たちの愛深い贖い主イエズス、愛深い弁護者マリアに対して、その霊魂のうちに感じた信頼の情は本当に感ずべきものである。聖人は次のように言っている。「主が私をどんなに罪と定められても、私は心配しません。なぜなら、主は、ご自分を愛し、真心から求める者を退けることはないからです。私は、主を愛をもって抱きしめ、私を祝福してくださらないうちは、放さないでしょう。それで、主は立ち去ろうとお思いになるならば、私も一緒に連れて行かなければなりません。ふり離されそうなときは、御傷口から主の中に入り、主の中に隠れるつもりです。そうすれば、たとえ私をご自分の周囲にお探しになっても、見出すことができるに違いありません。もしも、贖い主が、私の罪を憎まれ、私を御足下から追い払おうとなさることがあるならば、御母マリアの御足下に身を投げます。そして、御母が、私の赦しをお求めになるまでは、そこを離れません。マリアは、あわれみの御母であり、あわれみの心を失うことなく、不幸な人を満足させずに追い返すようなことは決してしません。それで、マリアは、その御務めとして、あるいは、同情によって御子にあわれみと赦しとを、執り成さずにはいられないのです」。

この節を結ぶあたり、エウティミウスと共に言おう。「ああ、あわれみ深い御母よ、あなたの同情に満ちた御目を私たちの上に注いでください。私たちを見捨てないでください。私たちは、あなたのしもべであり、あなたに、すべての希望をつないでいるからです」。

祈り

ああ、聖なる愛の母よ、私たちの命、私たちの隠れ家、私たちの希望よ、あなたもご存知の通り、御子イエズス・キリストは、永遠の御父のそばに、私たちの弁護者としておいでになるにもかかわらず、なお、足りないとお考えになり、あなたもまた、私たちの弁護者となって、神の御あわれみを執り成してくださることを、お望みになりました。

御子はその至上のご意思によって、あなたはお祈りによって、私たちの救霊を助けなければならないとお思いになり、そのために、あなたの祈りに大きな力を与え、あなたがお求めになることは、みな聞き入れられるようにお計らいになりました。

ですから、ああ、不幸な者の希望よ、あわれな罪人である私はあなたを仰ぎたのみます。ああ、私の元后よ、イエズス・キリストの御功徳と、あなたの御執り成しによって、私の霊魂は救われるに違いありません。私はあなたを信頼します。

たとえ、私の永遠の運命が私の手の中にあるとしても、私はこれをあなたの御手にゆだねます。というのは、私は、私のわざよりは、あなたの御あわれみとご保護に期待するからです。

ああ、私の母、私の希望よ、私は、あなたから捨てられるべき身ですが、どうか、私を見捨てないでください。私の嘆きを見て、私をあわれみ、私を助け、私を救ってください。

私はしばしば、罪をおかして、光を仰ぐことを拒み、あなたが主に執り成してくださった助けを退けたことを告白します。しかし、私の罪がどんなに多く、重くても、あなたが、私のみじめさに対してお持ちになる同情と、神からお受けになっている信用とをなくすことができません。

天も地も、あなたの御保護を受けている者は、決して滅びることはないことを知っています。したがって、すべての被造物が、私を忘れようとも、全能である神の御母が私を記憶にとどめてくださるならば、それだけで十分です。

どうか、神に向かって、私があなたのしもべであること、あなたに保護され、救われるべきものであることを、言ってください。

ああ、マリアよ、私はあなたを信じます。あなたのおかげで、希望に生きることができます。私はこの希望のうちに、「ああ、童貞マリアよ、私の唯一の希望はイエズスです。しかし、イエズスにつぐ希望はあなたです」と絶えず申し上げながら、死を迎えることを望みます。

マリアは罪人の希望である

創世記によれば、「神は二つの大きな光る物と星を造り、大きい方(太陽)に昼を治めさせ、小さい方(月)に夜を治めさせられた」(創世記1・16)。カルディナル・ユーグは、これについて、「太陽はイエズス・キリストのかたどりである。義人はイエズス・キリストの光を楽しみ、恩恵の大きな昼に生きるのである。月はマリアのかたどりである。神の光は、マリアのおかげで、罪の闇に包まれた罪人にまで達するのである」と言っている。

マリアは、不幸な罪人を照らす星である。罪の夜にさまようあわれな霊魂は、どうすればよいだろうか。このような霊魂は、太陽の光に浴することはできない。なぜなら、神の恩恵を失っているからである。それで、教皇インノチェント三世が言っているように、「このような霊魂は、月によってかたどられるお方によりたのむべきである。マリアに哀願すべきである」。

聖母マリアは、このような霊魂に、その悲しむべき有様を認めさせ、なるべく早くこれから抜け出る力をお与えになるに違いない。聖メトディオは言っている。「マリアの執り成しと祈りとは、絶えずおびただしい罪人を改心させている」と。

教会が、私たちをマリアに祈らせるときに、呼ばせる御肩書、罪ある霊魂をもっとも励ます御肩書は、私たちが聖母マリアの連祷の中で唱える「罪人のよりどころ」という御肩書である。

そのむかし、ユダヤの国には、「避難の都市」という都市があって、罪人は、その城壁の中に入ると、処罰を免れることができた。今日、このような都市は残っていないが、ただ一つ残っているのはマリアである。

預言者は、マリアについて、「ああ、神の都よ、あなたについて光栄ある様々なことが語り伝えられた」と言ったのである。ただし、旧約の「避難の都市」は、どんな罪人でも、どんな罪を犯した者でも保護したわけではなかった。

しかし、マリアのマントのかげに隠れるならば、どんな罪人も、どんな罪を犯したものでも、処罰を免れることができる。そのためには、ただ、そこに逃げ込めばいい。

聖ヨハネ・ダマセノは、マリアに次のように語らせている。「私は、私に隠れ家を求めるすべての者にとって、避難の都市です」と。

マリアによりたのもう。それだけで十分なのだ。幸いにも、避難の都市に入ることができさえすれば、私たちは何も語る必要はない。私たちの救いは保証されている。

預言者は、「集まって、城塞に逃れ、黙ってそこにいよう」(エレミヤ8・14)と言っている。聖大アルベルトによれば、「城塞とは、マリアである。マリアは恩恵と栄光のあらゆる力を集めている。それで、黙ってそこにいよう」。

グローズは言っている。「主に背いた私たちは、自分で赦しを求める勇気を持たない。けれども、マリアは私たちのために祈り、かつ、執り成してくださるに違いない」と。

それで、ある敬虔な著述家は、罪人に向かい、大挙して聖母マリアのマントの陰に隠れるように勧めている。彼は言っている。「アダムよ、エバよ、急いで行きなさい。あなたたちの主を怒らせた不幸な子供たちよ、急いで行きなさい。この慈しみ深い御母の懐に逃れなさい。あなたたちは知らないのか。マリアは避難の都市であり、罪人の唯一の希望なのです」。

罪人の唯一の希望!聖アウグスティヌスもまた、マリアをこのように呼んでいる。そして聖エフレムは、マリアを、すべての罪人と頼りのない人々との唯一の弁護者と呼んだのち、「めでたし、ああ、罪人のよりどころにして、隠れ家よ」と呼んでいる。そうです。ああ、祝せられた童貞よ、罪人は、あなたの御もとに、喜びと安全とを見出すのです。

ある著述家が述べているように、ダビデは、「主は私たちをその幕屋の奥に隠して保護してくださった」という言葉によって、これを確認している。この神の幕屋とはなんであろう。それはマリアである。クレタの聖アンドレアは言っている。「マリアは、神ご自身によってつくられ、神のみがこれに入って、私たちの贖いの聖なる玄義を成し遂げられた幕屋である」と。

聖バジリオは、神は私たちにマリアをお与えになり、「私たちのために、公の病院をお開きになった」と言っているが、この言葉は、私たちが今述べていることがらに当てはまるものである。マリアは、すべての貧しい病者、頼りのない病者をことごとく収容する病院である。

病院は、もともと、貧しい人たちを収容するために設けられたものである。それで、最も貧しい人、最もひどい不具の人々こそ、優先的に収用されるべきではなかろうか。

したがって霊魂は、自分が貧しいこと、すなわち、功徳をもっていないことに気づいたならば、また、罪という霊的病気に打ちひしがれていることを感じたならば、マリアに向かって、次のように祈るべきではなかろうか。「ああ、偉大な元后よ、あなたは、貧しい病者のよりどころです。私を退けないでください。というのは、私はとてもみじめで、非常に重い病気であるために、他の人たちより先に、あなたの配慮を受ける権利があるからです」。

あるいはまた、ヴィルヌーヴの聖トマスと共に祈るべきではなかろうか。「私たちはみなあわれな罪人ですから、あなた以外によりどころはありません。あなたは、私たちの唯一の希望です。私たちは、私たちの救霊について、あなた以外によりたのむ者を持ちません。あなたは、イエズス・キリストのみ前において、私たちの唯一の弁護者です。ですから、私たちはみな、あなたを仰ぎたのむのです」と。

聖女ブルジッタの示現の中で、マリアは「太陽のさきがけとなる星」と呼ばれている。これによって、私たちは、マリアに対する信心が、ひとたび罪人の霊魂の中に入ると、神はまもなくこの霊魂に豊かな恩恵をお与えになるに違いないことを知ることができるのである。

光栄ある聖ボナヴェンツーラは、罪人に、マリアに対する熱い信頼を起こさせるため、このあわれな罪人を、荒れ狂う波にもてあそばれる人々に例えている。彼らは、神の恩恵の船から落ち、良心の呵責と神の審判に対する恐れとにもてあそばれている。そして、光明も、案内者もなく、希望の最後の綱を見失い、絶望のどん底に落ち込もうとしているのだ。けれども、主は、海の星と呼ばれるマリアを仰がせるため、声をあげて言われる。「あわれな滅びの子よ、絶望してはならない。この輝かしい星の光をたよりに、呼吸を取り戻し、信頼を回復しなさい。そうすれば、マリアは、あなたたちを暴風地帯から救い出し、救霊の安全な港に導くであろう」と。

聖ベルナルドも、これと全く同じすすめを、私たちに与えている。「もし、荒れ狂う波にのまれたくないならば、星を眺め、マリアを呼べ」。

敬虔なルイ・ド・ブロアは次のように述べている。
「本当に、マリアは、神の寵愛を失った霊魂の唯一のよりどころである。マリアは誘惑に悩まされている者、あるいは不幸や迫害に苦しんでいる者にとって、きわめて安全な隠れ家である。あわれみの御母であるマリアは、義人のためのみならず、罪人にとっても、絶望している人にとっても、善良そのものであり、美しさそのものである。マリアは、このような人たちが、ご自分の御足下に駆け寄るのを見、彼らの心からの叫び、助けを求める声を聞くとすぐに、彼らのそばに駆け寄り、彼らを救い上げ、御子のお赦しを執り成してくださるのである。マリアは、どんなに汚れた者も、軽蔑なさることはないし、どんな者にも、御あわれみとご保護を拒まれることはない。皆をなぐさめ、一つの祈りを唱え、一つのかすかな嘆きを発するとすぐに、ただちに駆け寄って、お助けくださるのである。マリアの仁慈、神の魅力に対して最も反発的な心をも、しばしば屈服させる。マリアは、これらの心のそばを離れず、その致命的な眠りの状態がどんなに深くても、ついに、その目を覚まさせてくださるのである。神は、マリアが人々の霊魂を捕らえ、これに神の恩恵を受ける準備をさせ、ついには、永遠の幸福を受けるにふさわしい者とするために、この至愛な娘に特別な素質をお与えになり、その同情深い、愛想のよい性質によって、その取り次ぎを、求めやすくしてくださったのである」。

ルイ・ド・ブロアは、以上の言葉を結んで、「マリアに対する信心を、熱意と謙遜とをもって培う者が、滅びるということは、ありえないことである」と言っている。

マリアは、「私はすずかけの木のようにたっている」と言われた。この例えの意味は次の通りである。すずかけの木は、道行く人々にその枝葉を伸ばして、これを太陽の暑さから守る。このように、マリアは、神の正義の怒りが罪人に対して発せられるのを見ると、罪人に向かって、ご自分のご保護の陰に隠れるよう勧められるのである。

イザヤは、「主よ、あなたはお怒りになる。私たちは罪を犯し、だれも、あなたをなだめようとする者はいない」と嘆いた。聖ボナヴェンツーラは、この嘆きについて、「いいえ、マリアが世に降られるまで、神の御腕を押しとどめる者は、一人もいなかった」と言っている。しかしながら、今は、たとえ、神が罪人に対してお怒りになろうとも、マリアはこれをかばい、「御子がこれを打つのを妨げ」、こうして、罪人をお救いくださるのである。聖博士は付言している。「マリアのように、神の正義の剣の前に、手を差し伸べ、罪人を打とうとするのを妨げることができる者は一人もいない」と。

リシャール・ド・サン・ローランも、同じ考えを述べている。「マリアが生まれるまでは、主ご自身、罪人を罰するのを妨げる者がないと、お嘆きになっていた」。けれども、今は、マリアがその正義をとどめ、その怒りを和らげるのである。

それゆえ、聖バジリオは、罪人に信頼を勧めて、次のように言っている。「ああ、罪人よ、勇気を失ってはならない。何か必要なことがあるたびに、マリアによりたのみ、その御助けを仰ぎなさい。マリアは、常に、あなたを助けようと待ちかまえておられます。なぜなら、マリアが、私たちみなに、万事について、御助けとご保護とを与えることは、神のみ旨だからです。あわれみの御母であるマリアは、罪人を救いたいとの望みに燃え、ご自分から罪人を訪ね、彼らがご自分によりたのむのを承諾しさえすれば、これを神の友としてくくださいます」。

イサクはエサワに向かって、獲物を自分の好むように料理して食べさせるならば祝福を与えることを約束した。ところが、レベッカは、この祝福を弟のヤコブに与えさせたいと望んでいたので、ヤコブに向かい、「家畜の群れているところへ行き、二頭の子山羊を連れてきなさい。私が、お父様に、好きな料理をこしらえてあげますから」と言いつけた。

聖アントニオの言うところによれば、この場合、レベッカはマリアのかたどりであり、子山羊は罪人のかたどりである。マリアは聖なる天使たちに向かって言われるのである。「私のもとに罪人を連れてきなさい。私は、彼らに痛悔と善に立ち帰る決心とを執り成して、私の主がおいしく、心地よいものと思われるように、上手に料理しますから」と。

修道院長フランコンも、同じような考えを述べて、「マリアはとても上手な方であるから、子山羊も、マリアによって調理されるならば、おいしい鹿と同じもの、いや、もっとおいしいものとなる」と言っている。

聖母マリアは、聖女ブリジッタに言われた。「どんなに神から遠ざかっている罪人でも、私に祈るならば、神に立ち帰ることができ、その恩恵を回復することができます」と。

同じ聖女は、ある日、イエズス・キリストがその御母に向かって、「もしも、ルチフェルがあなたに謙遜に祈るならば、あなたは、ゆるしとあわれみを求めるでしょう」と語られるのを聞いた。しかし傲慢なルチフェルは、へりくだって、マリアのご保護を哀願するようなことは決してない。だが、万が一、彼がこの謙遜な行為をするならば、きわめて善良なマリアは、彼のゆるしと救いとを神に願い、これを聞き届けていただくに違いないのである。悪魔にとっては実現不可能なことも、あわれみの御母であるマリアによりたのむ罪人にとっては、実現できることなのである。

ノアの箱舟は、マリアのかたどりである。さて、箱舟は、地上のすべての動物を収容した。これと同じように、悪徳と肉欲の罪とによって動物のようになっている罪人も、みなマリアのご保護の中に、隠れ家を見出すことができるのだ。

しかしながら、ある著述家によれば、ノアの箱舟とマリアとの間には、ただ一つの相違がある。箱舟に収容された動物は、もとのままで船から出た。狼は依然として狼であったし、虎は依然として虎であった。一方、マリアのマントの陰では、狼も虎も、子羊や鳩のようになるのである。

聖女ジェルツルダは、ある日、マリアのマントの陰に、様々な猛獣が隠れているのを見た。その中には、豹、獅子、熊などがいた。しかも、聖母マリアは、これを追い出さず、かえって愛撫しながら、そばにお留めになっていたのである。これを見た聖女は、それが、マリアによりたのむあわれな罪人のかたどりであることを悟った。マリアは、罪人をこのように柔和と愛とをもって、接してくださるのである。

それゆえ、聖ボナヴェンツーラが、私たちの尊い元后に向かって、次のように申し上げたのは、本当にもっともなことである。「あなたは、どんなに汚れた罪人、どんなにいやしい罪人も、嫌がることはありません。あなたに向かって、哀願の嘆息をもらしただけで、あなたは、同情の御手を伸ばし、これを、絶望の淵から救い上げてくださいます。ああ、愛すべきマリアよ、あなたを、醜い罪人に対して、これほどまでに柔和善良なものとされた神は、永久に祝せられ、感謝されるべきです。あなたを愛さない者、あなたによりたのむことができるのに、あなたに信頼することを拒む者は不幸です」。マリアによりたのまない者は滅ぶに違いない。しかし、マリアによりたのんで、滅びたものは一人もいないのである。

聖書の物語るところによれば、ルトは、刈り入れ人たちのあとを歩き、彼らの手から落ちた麦の穂を拾った。ボーズは、ルトにその権利を与えたのである。さて、聖ボナヴェンツーラの言うところによれば、「ルトがボーズの寵愛を受けたように、マリアは主のご寵愛を受けた。マリアは、落ち穂、すなわち、刈り入れ人たちが残した霊魂を改心させるように、仰せつかっているのである」。刈り入れ人というのは、福音を宣べ伝える者、宣教師、説教家、聴罪司祭などを指すのであって、これらの人々は、その絶え間ない働きによって、神のために霊魂を借り入れる。しかしながら、霊魂の内には、きわめて頑迷な者があって、これらの人々のどのような努力にも反抗するのである。これは、残された麦の穂にも例えられるべきものであり、マリアのみが、その力強い御執り成しによって、これを救うことができるのである。

このやさしい落ち穂拾いの手にさえも拾われない霊魂は、まことに不幸である。その滅びは確実であり、呪いは彼らを待っている。これに反して、神の御母の慈しみに信頼する者は幸いである。

ルイ・ド・ブロアの言うところによれば、「この世界には、マリアご自身から遠ざけようとする罪人は、一人もいない。マリアは、どんなに憎むべき罪人を嫌がったり、遠ざけたりするようなことはない。泥沼にはまり込み、すでに滅びたも同然の罪人であっても、マリアのお助けを求めさえすれば、マリアは、この罪人と至愛なる御子とを和解させ、その赦しを執り成すことができる。マリアは、その方法を知り、そしてこれを望まれるのである」。

ですから、ああ、私のやさしい元后よ、聖ヨハネ・ダマセノが、あなたを仰いで、「絶望者の希望」と、お呼び申し上げたのは、本当に当然です。また、聖ロレンシオ・ユスチアノが、あなたを「大罪人の希望」、聖アウグスティヌスが、「罪人の唯一のよりどころ」、聖エフレムが「難船者のきわめて安全な港」、さらには、「滅びた者の保護者」とまでお呼び申し上げているのは、本当に理由あることである。

最後に、聖ベルナルドが、望みのない人々に向かって希望をすすめるのは最も至極である。聖人は、幾重にも親愛すべきこの御母に対する愛情と喜びにかられて、御母に向かい、次のような愛に満ちた言葉をささやいている。
「あなたは、絶望者でさえ、助けてくださるのですから、あなたに信頼しない者があるでしょうか。私は確信しています。あなたによりたのむならば、私たちは、望むものをみないただくことができるのです。ですから、絶望した人は、あなたに希望すべきです」。

聖アントニオは、次のような話を物語っている。罪のうちに生きていたある人が、夢を見た。イエズス・キリストの裁判を受ける夢であった。原告は悪魔、弁護者はマリアである。さて悪魔はこの罪人の長い罪の記録を提出した。これをはかりにかけたところが、それは善業よりもはるかに重かった。そのとき、弁護者マリアはどうなさったであろうか。彼女は、そのやさしい御手をのばしてもう一つの皿の上におのせになった。すると、他方の皿が上がって、被告の勝ちとなった。これによって、マリアは、この人に、もし生活を改めるならば、確かに救われることを教えられたのである。実際、夢からさめたこの罪人は、改心して、新たな生活をはじめたのである。

祈り 

汚れない童貞マリアよ、私は、あなたのまったく清い御心、神の楽しみであり、休みである御心、謙遜と貞潔と聖なる愛に香る御心に、最も深い敬いの礼を捧げます。。

あわれな罪人である私は、あなたの御足下に、汚れと傷とに覆われた心しか捧げることができません。

しかし、ああ、あわれみの御母よ、あなたは、このようなみじめさをさげすむことなく、むしろ、これに深く同情し、これをお助けになります。

私は、あなたの御助けを受けるのにふさわしい善徳も、功徳も持っていません。私は、滅びる他なく、地獄に落ちる他はありません。しかし、私はあなたに信頼し、こののち、生活を改めることを望みます。どうか、この信頼と決心を見捨てないでください。

せめて、イエズスが、私のために行い、私のためにお苦しみになったことを思ってください。そののち、もしもなお、お望みでしたら、私を見捨ててください。

イエズスが、ご一生の間に、しのばれたすべての苦しみ、馬小屋の中でしのばれた寒さ、エジプトへの避難、その貧しさ、その御汗、その御悲しみ、お流しになった御血、そして、私を愛するゆえにあなたの目の前で耐えられた死を思い出してください。そして、イエズスへの愛によって、私を救ってください。

ああ、私の母よ、私はあなたによりたのみ、お助けを切に願います。それゆえ、あなたに、退けられることを恐れません。このような恐れは、常に救うべきみじめさを訪ねられるあなたのご慈悲に対する侮辱となるからです。

ああ、私の元后よ、イエズスは、私の為に御血を流されることを拒まれませんでした。どうか、私をあわれむことを拒まないでください。その尊い御血、その御功徳は、あなたが私のために神に執り成してくださらなければ、私には適用されません。

ですから、私は、私の救いを、あなたに期待します。私は、あなたに、富、名誉、あるいは、他の宝を求めていません。私はただ、神の恩恵、イエズス・キリストへの愛、その奉仕に対する忠実、および、イエズス・キリストを永遠に愛するために天国を求めます。

私の願いを、あなたは退けられるでしょうか。いいえ、私はすでにあなたを信頼し、すでに願いは聞き届けられたものとして考えています。すでに、あなたは私のために祈っています。あなたは、すでに願っている恩恵を執り成し、私をご保護のもとに置かれます。

御母よ、常に私を守ってください。私が救われ、天国に入ってあなたの御足元に跪き、永遠にあなたを祝福し、あなたに感謝する日まで、私のために祈ってください。アーメン。

追放されたエバの子である私たちは、あなたに大声で叫びます

マリアはご自分を呼びたのむ者をすみやかに助けられる

不幸なエバの不運な子である私たちは、エバのように、神の御前に最初の罪と最初の断罪との重荷を負い、祖国を追われ、悲しみに沈み、身も霊も、限りない病に打ちひしがれながら、この涙の谷をさまよっている。

しかしながら、現世の苦しみの中にあって、世の慰め、不幸な者の避難所であるお方に、しばしばその瞳を向ける者は、幸いである。尊い神の御母を、愛をもって呼び、これに熱心に祈るものは幸いである。

マリアご自身、その御勧めを聞き、毎日、その家の入口、御慈悲の戸口に立って、御執り成しを求め、助けを哀願する者を、幸いな者とお呼びになっている。

私たちの母である教会は、この愛深い保護者に、いかに忠実な心掛けと堅固な信頼とをもって、絶えずよりたのむべきかを、私たちに悟らせようと努めている。そのため、教会は、マリアに特別な崇敬を捧げ、一年中その誉れのために、多くの祝日を設け、毎週一日を、特別にマリアに捧げるのである。

また教会は、すべての聖役者と修道者に命じて、毎日、すべてのキリスト教徒に代わってマリアに祈らせる。そして毎日三度、鐘を鳴らして、マリアにあいさつするように信者にすすめるのである。

教会は、公の災害に際して、決して神の御母によりたのむことを忘れず、その誉れのために、9日間の修行、祈り行列などを行わせ、そのご像または聖堂を訪れさせる。これらを見ても、教会の真意をうかがうことができる。そして、マリアご自身も、私たちに祈りをうながし、恩恵を求めさせるのである。

聖ボナヴェンツーラが言っているように、「マリアは、ご自分を敬い、愛する心を求められている。言うまでもなく、マリアは、名誉や尊敬を求められているのではない。私たちが捧げる誉れや尊敬は、きわめてつまらないものだからである。しかしながら、マリアが、私たちに心を求められるのは、私たちの信頼と熱心とが増すにつれて、いっそう多くの恩恵と慈愛に満ちた慰めとを注ぎ、私たちを愛し、私たちを満たし、私たちをその子として応対することができるからである」。

ルトはマリアのかたどりである。ルトは、「見て急ぐ女」という意味である。聖ボナヴェンツーラは、「マリアは、このようなお方である。マリアは私たちの惨めさを見ると、急いで御慈悲を与えてくださる」と言っている。

ノヴァリノも次のように述べている。「マリアは、私たちのために尽くしたいと熱望するあまり、猶予することができない。また、マリアは、恩恵のけちくさい番人ではなく、あわれみの御母であるので、その慈しみの宝を、子供たちに与えるにあたっては、もったいぶった猶予をされないのである」。

ああ、私たちの慈しみ深い御母は、ご自分に呼び求める人を、本当にすばやく助けてくださるのである。雅歌のなかには、「あなたの二つの乳房は、カモシカのふた子のようだ」(雅歌4・5)と記されている。リシャール・ド・サン・ローランは言う。「若いカモシカが元気よく飛び回るように、マリアは、ご自分に祈る者に、急いで、ご慈悲の乳をふくませるのである」。彼は続けて言う。「マリアの慈しみに浴するには、わずかな努力、ただ一つのアヴェ・マリアだけで十分である」。

それゆえ、ノヴァリノは、「聖母マリアは、ご自分の助けを求める者のそばに、走るどころか、飛んで行って、これを守ってくださる」と言っている。マリアは、御あわれみを施すにあたって、神に倣われるのである。

神は私たちに助けをお与えになるにあたり、翼を広げて飛んできてくださる。私たちが神に祈れば、神はすぐさま私たちのもとに来てくださるのである。神はこのようにして「願え、そうすれば与えられるであろう」という御約束を、驚くほど忠実にお守りになるのである。マリアもまた私たちがその御助けを求めるとすぐに、翼を広げて、私たちを助けるために飛んできてくださるのである。

黙示録には、「女には大きな鷲の翼が二つ与えられた。荒れ野にある自分の場所へ飛んで行くためである」(黙示録12・14)と記されている。上でのべたことよって、私たちは、この婦人が誰であるかを知ることができる。リベイラによれば、「これは、マリアを神に向かって舞い上がらせる愛の翼である」。しかし、福者アメデオは、私たちが述べている事柄に立派に合致したもう一つの解釈をしている。彼の考えによれば、大きな鷲の翼は、「その子供たちが呼び招くところには、どこにでも、非常にすみやかに飛んで行くのであって、その速さは、セラフィンの速さも及ばない」。

マリアは、エリザベットを訪問し、その家族全体を恩恵に浴させるにあたっては、決してゆっくり歩かれたのではなく、長途の旅を早足で行かれたのである。聖ルカは、はっきり「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(ルカ1・39)と記している。しかし、マリアの帰路については、そのようなことは記されていない。

同じ理由により、マリアについて、「その手は旋盤にてつくられた」(雅歌5・14)と記されている。リシャール・ド・サン・ローランによれば、「技術のうちで、旋盤術が最も早い。このように、マリアは、すべての聖人たちのうちで、最もすみやかに、私たちを助けてくださるのである」。

ルイ・ド・ブロアも言っている。「マリアの私たちを慰めたいという望みはきわめて大きく、わずかの祈りも、こころよく受けつけ、すぐさま聞き届ける」と。それゆえ、聖ボナヴェンツーラが、マリアを「よりたのむ者の救い」とお呼び申し上げたのは、まったく当然なことである。

救われたいと思うならば、この慈しみ深い御母によりたのむといい。リシャール・ド・サン・ローランによれば、「マリアは、私たちを助けようと、いつも、私たちの祈りをお待ちになっている」。ブスチスのベルナルディノは、「マリアが私たちに与えたいという望みは、私たちが受けたいという望みよりも大きい」と言っている。

マリアによりたのむにあたり、多くの罪を犯したことを思って、聞き届けられるという信頼を失うべきだろうか。いいえ、私たちは、リシャール・ド・サン・ローランの次の美しい考えを思い浮かべないといけない。「マリアは、ご自分が、あわれみの御母と立てられたことをお忘れになることがない。さて、悲惨がないところに、あわれみの用があろうか。世の母は、ライ病にかかった子供でも、嫌だからと、これを捨てておくことはできない。マリアも彼女に祈るいかなる罪人もお退けにならない」。

私たちの罪がどんなに恐るべきものであろうとも、マリアはこれを癒すことをお拒みにならないのである。聖母マリアは、ご自分によりたのむすべての者をかばうかのように、マントを広げて、聖女ブルジッタにお現われになった。これによって、聖母は、この真理を聖女にお教えになったのである。同時に聖女は、天使の軍隊が、マリアのしもべを地獄軍の攻撃から防衛しようと待ちかまえているのを見ることができた。その上、慈しみ深い御母であるマリアは、同情と愛のあまり、私たちの祈りを待たないで、私たちを助けてくださるのである。

「求める人には自分の方から姿を見せる」(知書6・13)。聖アンセルモは、知書のこの言葉を聖母マリアに適用して、「マリアは、そのご保護を求める人々のそばにはせ寄ってくださる」と言っている。すなわち、マリアは、私たちが願う前から、多くの恩恵を神に執り成してくださるのである。

聖書は、マリアを形容して、「月のように美しい」としるしている。リシャール・ド・サン・ヴィクトルによれば、マリアがこのように称えられているのは、その速やかな動きのためである。いつくしみ深い元后マリアは、私たちの願いに、すみやかに応じてくださるばかりでなく、親切にも、困窮している人々の一身上の配慮を御手に引き受け、しかも、そのあわれみは、私たちが助けを求めるより早く、これを与えてくださるのである」。

マリアは、どうして、これほど速やかに助けを与えてくださるのであろうか。なぜなら、彼女はあわれみに満ちておられるからである。それゆえ、マリアは、私たちの必要を知っただけで、あわれみを注いでくださるのである。

不幸を見ながら助けないのは、マリアにとって不可能なことである。マリアは地上においでになったとき、カナの婚礼で求められていないのに、同情し慰めるこの大きなあわれみをお示しになったのである。

マリアは宴席でぶどう酒が尽きたのを見て、新郎新婦の悲しみと恥とを察知した。そこで、だれも願った訳でもないのに、他人の苦しみを見て、無関心でいられない親切から、御子に若夫婦をなぐさめるように決心し、ただ一言、「あの人たちには、もう酒がありません」と言って、二人の困窮を告げられたのであった。

これを聞いて、御子は、この貧しい人たちをなぐさめるために、特に、御母の願いを聞き届け、そのあわれみ深い御心を満足させるために、水をぶどう酒に変化させるという、周知の奇跡を行われたのである。

さて、ノヴァリノは、「マリアは、このように、願わぬ先から、助けを与えられるのだから、願われたならば、どんなであろうか。求められた慰めを与えようと、どんなにか待たれていることであろうか」と言っている。

マリアによりたのんでも、聞き届けてもらえないのかと心配する者がいるかもしれない。このような人は、信頼の不足を責めるインノチェント三世の言葉を聞くといいだろう。彼は、「私たちのやさしい元后に祈って聞き届けられなかった者があろうか」と叫んでいる。福者エウティキアノも、「ああ、聖母よ、あなたの全能なご保護…どんな困窮にも適切な助けを与え、どんなに大きな罪人にも救いをもたらすこのご保護を願って、見捨てられたものがあるだろうか。そんな人は、一人もいません」と言っている。

聖ベルナルドは叫んだ。「ああ、至福なる童貞よ、『私は、嘆きのときマリアによりたのんだが、マリアは答えなかった』と言うことができる人は、あなたのあわれみについて語るのをやめても問題ないのである」と。

敬虔なルイ・ド・ブロアは、「マリアが、まことの祈り、信頼のもった祈りを捧げる者を助けられないで放っておかれるようなことがあるならば、その前に、天地は崩れ去るに違いない」と言っている。

聖アンセルモは、私たちの信頼を深めるために、私たちがもし、マリアのご保護を求めるならば、必ずご保護を受けるばかりでなく、「ときおりは、救い主イエズスのみ名を呼んで祈るよりは、マリアのみ名を呼んで祈った方が、もっと早く聞き届けられる」とまで言っている。

もとより、マリアは、私たちを救うにあたって、御子よりも力があるわけではない。イエズスは、私たちもよく知っているように、私たちの唯一の救い主であり、その御功徳は、私たちの救霊の唯一の基礎であったし、いつまでもそうであるに違いないのである。

しかしながら、私たちがイエズス・キリストによりたのむときには、イエズスが私たちの審判者であり、私たちの忘恩を罰する任務を持たれるお方であることを忘れることはできない。

ところが、マリアの任務は、ただあわれみだけである。マリアは私たちの御母であって、情け深く、その役目は、私たちをあわれんでくださることだけである。マリアは、私たちの弁護者であり、その任務は、私たちを弁護してくださることだけである。それゆえ、私たちはもっと安心し、もっと深く信頼することができるのである。

その上、ニセフォールが述べているように、「私たちは、多くのことを神に祈っても与えられず、マリアに祈れば与えられる。なぜだろうか、それは、マリアが神より力があるからではなく、神がこのような方法でマリアに光栄を与えようとお望みになったからである」。

聖女ブルジッタは、ある日、主がこの点について、聖母に、大変なぐさめ深い約束をされているのを聞くことができた。「あなたを経てなされる願いのうち、聞き入れることのできないものはありません。あなたに対する愛のために何かの恵みを祈るものは、どんな罪人でも、悔い改める意志さえあれば、聞き届けるつもりです」。

これと同じような啓示が、聖女ジェルツルダにもなされた。聖女は、贖い主がマリアに向かって、次のように語られるのを聞いた。「ああ、母上よ、私は全能の力により、あなたの慈悲の助けを敬虔に切願するすべての罪人にゆるしを与える権利をあなたに授けたのです。あなたは、お望みどおりに、これらの罪人にあわれみを施すことができるのです」。

それゆえ、各人は、あわれみの御母に祈るにあたって、聖アウグスティヌスの次の祈りを、まったくの信頼をもって、唱えるべきである。「ああ、あわれみ深い童貞マリアよ、あなたによりたのんで、見捨てられた者があることを、聞いたことはありません。ですから、ああ、あわれみ深い元后よ、私も、あなたによりたのんで、見捨てられた最初の者になりたくないのです」。

祈り 

ああ、神の御母、天の元后、人類の希望よ、あなたの御助けを切願する声に、御耳を傾けてください。地獄のあわれむべき奴隷である私は、今、御足下にひれ伏し、永久にあなたの奴隷となり、生涯の間、最善をつくして、あなたに奉仕し、あなたを敬うことを約束します。

私は、あなたの御子、私の贖い主であるイエズス・キリストに対し多くの罪を犯した、みにくくよこしまな私のような者が、あなたの奴隷になったからといって、あなたにとっては、何の名誉にもならないことを知っています。

しかし、もしも、あなたが、いやしい私を奴隷として受け入れてくださり、あなたの御執り成しによって、私を変化させ、あなたにお仕えするにふさわしい者としてくださるならば、この御あわれみそれ自身、私があなたに捧げることができなかった誉れを、あなたに捧げるのです。

ですから、ああ、御母よ、私を受け入れてください。私を退けないでください。永遠の御言葉は、迷える羊をたずねるために、天から地上に降り、彼らを救うために、あなたの御子となられました。

それなのに、あなたは、イエズスを見出そうと、あなたの御元にはせ寄る羊をさげすむことがあるでしょうか。私の救いの代価は、すでに支払われています。私の救い主は、すでに、世界を救うに足りるほどの無数の御血を流されました。この尊い御血を、私に用いてください。

しかし、ああ、祝せられた童貞よ、この任務は、あなたに託されています。聖ベルナルドが言うように、あなたは、あがないの御血の功徳を、望む者に分配することができます。聖ボナヴェンツーラが、あなたに申し上げているように、「あなたは、望む者を救われます」。

それゆえ、ああ、私の元后よ、私を救ってください。今日、私は、私の霊魂をあなたに委ねます。どうか、これを救ってください。私は、聖ボナヴェンツーラと共に、繰り返し、申し上げます。「ああ、あなたに祈る者の救いよ、私を救ってください」と。

マリアは悪魔の誘惑に際して、助けを求める者を力強く守ってくださる。

尊い童貞マリアは、天国の聖人たちとの元后であると共に、また地獄と悪魔との元后でもある。なぜなら、その善徳によって、地獄と悪魔とに対し、栄えある勝利を獲得なさったからである。

「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に、わたしは敵意を置く。女はお前の頭を砕く」(創世記3・15)。神は、世のはじめから、地獄の蛇に向かって、私たちの元后の勝利と地獄に対する支配とを預言された。実際、サタンの敵であるこの女とは、マリアでなくて、だれであろうか。マリアは、その感ずべき謙遜とそのきわめて善い生活とによって、たえず、悪魔に打ち勝ち、その権力を打ち砕いたのである。

むかしのある教父は、「人類に約束されたこの女は、わが主イエズス・キリストの御母である。それゆえ、神は、この勝利をしめる女が、当時生きていたエバではなく、その子孫の一人であることを示すために現在形ではなく、未来形を使って「置く」と言われたのである」と言った。

しかも、聖ヴァンサン・フェリエの言うところによれば、この女は、「人祖に、彼らが罪によって失った宝よりもすぐれた宝を与えるのである」。だから、至福なる童貞マリアは、悪魔に打ち勝ち、「女はお前の頭を打ち砕く」という預言の通り、悪魔の傲慢をくじいて、その頭を打ち砕いた類ない女、強い女なのである。

いうまでもなく、聖書70人訳では「彼はあなたの頭を打ち砕く」となっているから、この言葉は、マリアにではなく、イエズスに当てはめるべきであると考えるものもある。しかし、トレントの公会議によって承認され、私たちが信じなければならない唯一の訳であるヴルガタ訳においては、「女は、お前の頭を打ち砕く」となっている。

また、聖アンブロジオ、聖エロニモ、聖アウグスティヌス、聖ヨハネ・クリゾストモ、その他多くの教父や聖書注釈者たちも、このように解している。その上、この二つの訳のいずれに従ったところで、すなわち、御子が御母の仲介によってルチフェルに打ち勝ったと解しても、あるいはまた、御母が御子の権力によってルチフェルを倒したと解しても、聖ベルナルドが言うように、この傲慢な霊が、祝せられた童貞によって足下に踏みにじられ、打ち負かされたこと、および、常に奴隷として扱われる捕虜のようにこの元后の指令に屈従しなければならないことは確かである。

そして、エバの敗北が私たちに死と暗黒とをもたらしたのに反して、マリアの勝利は、私たちに、生命と光明とをもたらしたのであった。聖ブルノは言っている。「エバの内には、死と暗黒とがあり、マリアの内には、光明と生命とがある。悪魔はエバに勝ち、マリアは、悪魔を打ち倒し、かつ、縛り上げたのである」と。しかも、マリアは、悪魔をしっかりと縛り上げたために、彼は行動の自由を失い、聖母マリアのしもべたちに対して、なんらの害も加えることができないのである。

「夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない」(箴言31・11)。リシャール・ド・サン・ローランは、この箴言の句について、きわめて美しい説明をしている。「この夫は、すなわちイエズス・キリストであって、イエズスは、マリアに信頼したのである。また、儲けに不足することはないとは、マリアがたえず悪魔から奪い、その夫の所有物として増やす霊魂である」。

コルネイ・ド・ラ・ピエルは、「神は、イエズスの御心をマリアに託し、マリアの配慮によって、すべての人にこれを愛させたいとお思いになった」と言っている。マリアは、その力強い御助けによって霊魂を救えば、救うほど、これを地獄から奪った勝利品として、イエズスに捧げるのである。

しゅろは、勝利の象徴である。私たちの偉大な元后は、高くそびえるしゅろのように、崇高な玉座にあげられ、すべての兵士に仰がれる。そして、そのご保護によりたのむ者は、勝利を確信することができるのだ。

マリアは、私たちに向かって、「わたしは、エン・ゲディのしゅろのように大きく育った」(集会24・14)と仰せられている。聖大アルベルトは、この言葉に、さらに「防衛しようとするかのように」と付け加えた。聖母マリアは、私たちに向かって、次のように仰せられているかのようである。「子供たちよ、あなたたちの敵が、攻撃を加えるたびに、私によりたのみなさい。私を御覧なさい。勇気を落としてはいけません。あなたたちを守る私を見るのは、勝利を見るのと同じです」。だから、マリアによりたのむことは、敵の攻撃に打ち勝つ最も確かな手段である。

シエナの聖ベルナルディノが言っているように、「地獄の元后であるマリアは、悪魔を支配し、これを屈服させ、足下に打ち倒すのである」。それゆえ、マリアについて、「彼女は、地獄の軍勢にとって、整列された軍隊のように恐るべきものである」(雅歌6・4)と記されている。

実際、マリアは、その力、慈悲、祈りを、整然たる秩序のもとで使用し、誘惑のとき、そのきわめて力強い御助けを祈り求めるしもべたちに勝利を占めさせてくださるのである。

聖霊は、マリアに、「わたしはぶどうの木のように美しく若枝を出し、花は栄光と富の実を結ぶ」(集会24・17)と語らせている。聖ベルナルドは言っている。「ぶどうの木に花が咲いているとき、毒蛇はみな遠ざかる」と。これと同じように、悪魔も、マリアに対する信心をかんばしく香らせる幸福な霊魂を避けるのである。

同じ理由によって、聖母マリアは、柏香樹に例えられている。「わたしは柏香樹のように、レバノン山にそびえる」(集会の書)。そのわけは、朽ちることのない木と言われる芳香は、原罪の汚れないマリアをかたどるからではなく、カルディナル・ユーグの説明によれば、「芳香の香りが、蛇を遠ざけるように、マリアの聖性は、悪魔を逃走させるからである」。

イスラエル人は、契約の櫃のおかげで、戦いに勝利をしめた。モーゼは、契約の櫃を持ち上げる時、「主よ、立ってください。あなたたちの敵を散らしてください」と祈った。このようにして、彼はその敵に勝利をしめたのである。エリコが負けたのも、フィリスチン人が敗れたのも、「神の櫃がイスラエルの子らと共にあったからである」(1列王14・18)。

さて、人も知るように、契約の櫃はマリアのかたどりである。この櫃の中には、マンナが納められていた。マリアの中には、マンナによってかたどられるイエズスがおいでになる。そして、この神秘的な櫃のおかげで、私たちは、この世と地獄とのすべての敵に対して、勝利をしめることができるのである。

シエナの聖ベルナルディノは言っている。「契約の櫃であるマリアが、天にあげられその元后になると、人類に対する地獄の力は揺らぎかつ敗れた」と。聖ボナヴェンツーラは、「悪魔は、マリアとその力強いみ名とを、どれほど恐れていることであろうか」と叫んでいる。

ヨブは盗人について、「彼らは、夜の闇を利用して家に穴をあける。…もしも、曙が突然現れるときは、これを死の影かと思うのである」(ヨブ24・6)と語っている。聖ボナヴェンツーラは、ヨブが語る盗人と悪魔とを比較して次のように述べている。「悪魔もまた、霊魂が無知の暗黒の中におちいっているときは、このように、その中に入り込むのである。しかしながら、美しい曙にも例えるべき恩恵とマリアの慈悲とが、この霊魂を照らしはじめると、暗黒はすぐさま消え去り、地獄の軍隊は、まるで、死を見て逃げ出すように逃げ失せるのである」。

ああ、地獄と戦うにあたって、いつもマリアの美しいみ名を呼ぶ者は、本当に幸いである。聖女ブルジッタが受けた啓示によれば、神は、マリアに、悪魔に対する大きな権力をお与えになったので、マリアの御助けを忠実に祈り求めるそのしもべたちは、悪魔の攻撃を恐れる必要はない。実際、マリアが合図しただけで、悪魔どもは恐怖に打たれ、あわてて逃げ失せるのである。それは、彼らが、マリアの支配よりも、地獄の苦しみを更に激しく感じる方を好むからである。

「おとめたちの中にいるわたしの恋人は、茨の中に咲きいでたゆりの花」(雅歌2・2)、神である浄配は、この御言葉によって 、その至愛なる妻を讃え、これをゆりに例えて、他の霊魂と区別されたのである。

コルネイ・ド・ラ・ピエルは、この言葉について、次のように述べている。「ゆりは蛇の噛み傷を癒し、毒の火を消す、これと同じく、すべての誘惑、特に潔白に反する誘惑に打ち勝つには、マリアのみ名を呼ぶほど有効なものはない。これは、至上の薬であるマリアによりたのむ人々が、経験によって確かめたところである」。

聖ヨハネ・ダマセノは叫んでいる。「ああ、神の母よ、私は確信しています。私は、あなたによって救われるに違いありません。私は、ただ、あなたの御保護と全能な御助けとを唯一の盾として、敵に打ち勝つでしょう」と、私たちの偉大な元后の忠実なしもべの中に数えられる人々はみな、これと同じことを語ることができるのである。「ああ、神の御母よ、私はあなたに希望している以上、負けることはありません。あなたに守られながら、敵を追跡し、あなたの御保護と全能の御助けとを盾として戦うならば、まちがいなく勝利をおさめることができます」と。

ギリシアの教父たちの語るところによれば、ヤコボ修士は、このような心情に元気づけられて、イエズス・キリストに向かい、「主よ、あなたは、この愛深い御母をすべての武器で最も有力な武器、すべての敵に打ち勝つ不敗の剣としてお与えになった」と申し上げている。

旧約聖書には、神がその民をエジプトから連れ出して約束の地に導かれたとき、「昼は雲の柱、夜は火の柱」を用いられたと記されている。リシャール・ド・サン・ローランによれば、この雲となり、火となった柱は、マリアのかたどりであり、マリアが私たちのために果たす二重の役目を示すものである。彼は言っている。「マリアは二つの役目を果たすために、私たちに与えられたのである。マリアは雲の柱として、私たちを正義の太陽であるイエズスの熱から守り、火の柱として、悪魔からお守りくださるのである」と。

聖ボナヴェンツーラも、「マリアは火の柱である。ろうが火に溶けるように、悪魔は、しばしばマリアのみ名を思い出して、信心深くこれを呼び、特に、活発にその善徳を模倣する忠実な霊魂に対しては、その力を失う」と言っている。

悪魔は、マリアのみ名を聞いただけで、ふるえおののくのである。聖ベルナルドが言っているように、「悪魔は、聖母マリアご自身を恐れるだけでなく、ただそのみ名を聞いただけで、恐怖に打たれるのである」。トマス・ア・ケンピスも、「悪魔は、マリアのみ名を聞いただけで、はげしい火に追われるかのように、逃げ失せる。あわれな人間が、雷を聞いて恐れるように、悪魔は、マリアのみ名を聞くと、天来の雷に打たれたかのように、ひれ伏し、打ち倒される」と言っている。

聖母マリアのしもべたちは、その至聖なるみ名の力によって、いくたび、輝かしい勝利を占めたことであろうか。パドアの聖アントニオ、福者スゾ、その他多くのマリアの子たちは、これによって、悪魔に打ち勝ったのである。

日本に渡った宣教師たちの報告によれば、ある日、大勢の悪魔たちが、この国のあるキリスト信者に、猛獣の形をとって現れて、彼らを恐れさせ、様々な脅迫をした。しかし、この信者は、ただ次のように答えただけだった。「私は、お前たちを脅かすことができる武器をもっていない。それで、もしも、ゼウス様がおゆるしになるなら、どんなことでもやるがよい。だが、私は、イエズスとマリアとのやさしい御名をもって、お前たちを防いでみせる」。この言葉が終わるや否や、この恐るべきみ名が空気を打つとすぐに、大地が裂けて、悪魔たちは、深淵に突き落とされたのであった。

聖アンセルモは、自分の経験を、次のように語っている。「私は、たいへんな危険に臨んでいた多くの人が、マリアのみ名を唱えるとすぐに、救われたのを見聞きした」。

聖ボナヴェンツーラは叫んでいる。「ああ、マリアよ、あなたのみ名は、いかに光栄あるみ名、感ずべきみ名であろう。臨終のとき、これを唱える者は、地獄の軍勢を恐れる必要はない。というのは、悪魔は、霊魂が『マリア、マリア』と叫ぶのを聞くとすぐに、逃げ失せるからである」と。聖博士は、さらに付言して「悪魔は敵兵が強力な部隊を恐れるよりも強く、マリアのみ名とご保護とを恐れる」と言っている。

聖ジェルマノは、聖母マリアに申し上げている。「ああ、聖母よ、あなたのしもべたちは、あなたの全能なみ名をお呼び申し上げるだけで、敵のあらゆる攻撃をまぬかれることができる」と。ああ、もしも、キリスト教徒が、誘惑のとき、信頼をもってマリアのみ名を呼ぶならば、確かに、罪をまぬかれることができるのである。

なぜであろうか。悪魔は、雷のようなマリアの尊いみ名を聞いて、恐れおののくからである。福者アラン・ド・ラ・ロシュは、「私が、アヴェ・マリアを唱えると、サタンは逃げ失せ、地獄はおののき恐れる」と言った。

その上、聖母マリアが聖女ブルジッタに啓示されたところによれば、どんなに悪にそまった罪人、どんなに神から遠ざかっている罪人、どんなに悪魔の奴隷になっている罪人でも、改心したいという誠実な意志をもって、『マリア、マリア』と叫ぶならば、敵はこの全能なるみ名を聞いて恐怖に打たれ、すぐさま逃げ失せるのである。

しかし、聖母マリアが付け加えておいでになるように、もしも、霊魂が改心のわざを始めず、まことの痛悔によって罪を去らないならば、悪魔は、まもなく攻撃を加え、これを占領してしまうのである。

祈り 

ああ、マリアよ、私の希望よ、罪によって、しばしば地獄の奴隷となったあわれな罪人である私は、あなたの御足下にひれ伏します。

私が悪魔に負けたのは、私のよりどころであるあなたによりたのまなかったためです。もしも、常にあなたによりたのみ、あなたの御名を呼んで、助けを求めていたならば、私は決して罪に陥ることはありませんでした。

ああ、愛すべき元后よ、私は、あなたのおかげで、もはやサタンの奴隷であることをまぬかれ、神のおゆるしを受けたと信じています。しかし、私は、他日、再び、地獄の鎖に縛られることがあるのではないかと恐れます。

敵たちは、復讐の希望を捨てないで、新たな攻撃と、新たな誘惑を準備しています。

ああ、私の元后、私のよりどころよ、私を助けてください。私をあなたのマントの陰に隠してください。私が、再び、彼らの奴隷になることを許さないでください。

私は、もしも、いつもあなたに祈るならば、あなたは常に、私を助け、私に勝利を与えてくださることを知っています。

しかし、私が恐れるのは、誘惑のときに、あなたのことを考え、あなたに祈るのを忘れるのではないかということです。

ですから、ああ、清い童貞よ、私があなたに願い、あなたに求める恩恵は、いつも、特に、戦いのとき、あなたについて考えることです。

どうか、「ああ、マリアよ、私を助けてください。ああ、マリアよ、私を救ってください」と唱えながら、絶えず、あなたによりたのむ恩恵を与えてください。

そして、いよいよ、死が訪れて、地獄に対する最後の戦いをするとき、ああ、至愛なる元后よ、いつの日よりも強い力をもって、私を助けてください。

私に、さらにしばしば、あなたの御名を呼ばせてください。唇をもって呼ぶことができないときは、せめて、心をもって、呼ばせてください。

願わくは、あなたのやさしい御名と、御子の御名とを唱えながら息絶えて天国にのぼり、代々、御足下にあって、あなたを祝福し、あなたを賛美することができますように。アーメン。

この涙の谷で泣き叫んで、ひたすら仰ぎ望みます。

私たちが救われるためには、マリアの御執り成しが必要である。その1

聖人たち、特にその元后である至聖童貞マリアに祈ることは、正当であるばかりでなく、更に、有益で尊いことであることは、信じるべき真理であって、トレント公会議は、それは私たちの唯一の仲介者であるイエズス・キリストに対する侮辱であると主張する異端者たちを罰している。

エレミアは、その死後エルサレムのために祈り、黙示録の老人たちは、義人の祈りを神に捧げている。聖ペトロは、死後弟子たちのことを思い起こすことを約束し、聖ステファノはその迫害者のために祈り、聖パウロは、その旅の道ずれと信徒たちとのために祈っている。つまり、聖人たちが、私たちのために祈ることができるとしたら、私たちがその執り成しを願って悪いはずはない。聖パウロは、弟子たちに祈りを願っているし、聖ヤコブは、救われるために、相互に祈ることを、私たちにすすめている。だから、私たちの方からも、聖人たちに祈りを求めることができる。

イエズス・キリストが、その権利上、私たちの唯一の仲介者でおいでになり、イエズス・キリストだけが、その御功徳によって、神と私たちを和解させたということは、だれも否定することはできない。

しかし、神が、聖人たちの祈り、特にイエズス・キリストが、私たちに愛し敬うよう求める聖母マリアの祈りによって私たちに恩恵を与えたいとお望みになることを否定するのは、神に対する不敬である。

母の名誉は、子供の名誉であることを知らない者があろうか。聖書には「子らは、父の輝き」(箴言17・6)と記されている。聖ベルナルドは叫んでいる。「いいえ、いいえ、御母を熱心に賛美したために、御子の光栄が曇ると考えてはならない。なぜなら、御母を賛美すれば賛美するほど、御子を賛美することになる」と。

聖ヒルデフォンソは「御母に捧げるすべての敬いは、御子に捧げられるのであり、天の元后に捧げられる礼は、天の王にまでのぼるのである」と言っている。そのわけは、マリアが私たちの救霊の仲介者という至上の権威を与えられたのは、イエズス・キリストの御功徳によるのであり、マリアは当然の権利として仲介者となったのではなく、恩恵と執り成しとによって仲介者となったにすぎないからである。

聖ボナヴェンツーラは「マリアは、私たちの救霊のきわめて忠実な仲介者でおいでになる」と言っており、聖ロレンシオ・ユスチアノは、「主が天国にのぼる梯子、天の門、神と人間との間の真の仲介者になされたマリアは、どうして、恩恵に満ち満ちていないわけがあろうか」と言っている。

つまり、スアレズが正論しているように、「私たちが、神から恩恵をいただくために、聖母マリアによりたのむのは、神の御あわれみを疑うからではなく、私たちの卑しさを正しく認識しているからである。私たちがマリアの御取り次ぎを祈るのは、マリアの品位によって、私たちのみじめさを補っていただくためである」。

従って、マリアの御取り次ぎを求めるのは、たいへん有益なことであり、また、たいへん尊いことであって、これを疑うことは、信仰に反することである。

しかし、私たちが立証したいと思うのは、マリアの御執り成しが、救霊に必要であるという一点である。もっとも、マリアの御執り成しが、絶対的に必要であるというのではなく、厳密に言うならば、倫理的に必要であるというにすぎない。

しかし、前もって言っておきたいのは、この必要性は、もっぱら、神の意志より発したものであって、聖ベルナルドによれば、神はいかなる恩恵も、マリアの御手を経なければ、私たちに与えられないようお定めになったのである。

「マリアの治世」の著者によれば、聖ベルナルドのこの考えは、現代において、神学者、博士たちが一般に採用している考えである。ヴェガ、メンドーサ、パチウツチェルリ、セニエリ、クラツセ、ポアレ、その他、多くの博学な著述家は、この考えを採用している。

きわめて控えめな断定しかくださないノエル・アレキサンドル師でさえも、「神は、すべての恩恵がマリアの御手を経て、私たちにくだることを望まれている」と断言している。師は次のように述べている。「神は、私たちがすべての善をその仁慈に期待するように望まれている。しかし、私たちが、このご計画にしたがって、まず、マリアがその全能の執り成しによって、私たちのために、仲介者となるよう切願することを求められる」。師は、この断定の根拠として「私たちがすべてをマリアによって獲得することは、神のみ旨である」という聖ベルナルドの有名な言葉を引証している。

コンタンソンも、これと同意見である。彼は、イエズスが、十字架上から聖ヨハネに向かって仰せられた、「見なさい、あなたの母です」(ヨハネ19・27)という御言葉を注釈して、次のように述べている。「この言葉は、次のような意味に解することができよう。『だれも、私の母の仲介によらなければ、私の血の効果を得ることはできない。実際において、私の傷は、すべての恩恵の源である。けれども、この恩恵は小川となって流れるときには、マリアという水路を通ってしか、霊魂に注がれないのである。私の弟子ヨハネよ、私は、あなたが私の母を愛すれば愛するほど、あなたを愛するのである』」。

「私たちが神から受けるすべての善は、マリアの御手を経て、私たちに与えられる」という命題に対して、現代のある著述家は、賛意を表していない。(この著述家はDell regolata divozione cristiani の著者ムラトリを指す)。彼は、多くの学識と敬虔をもって、まことの信心と誤った信心とについて述べたのち、聖母マリアについて語るには、きわめて、物惜しみをする態度を示している。彼は、聖ジエルマノ、聖アンセルモ、聖ヨハネ・ダマセノ、シエナの聖ベルナルディノ、尊者セル修道院長、その他多くの博士たちが、なんなく認めたこの光栄ある聖母の特権を認めることを拒んでいる。上にあげた人たちのうち、マリアの御執り成しは有益であるばかりか、必要である、と断定するについて、気がかりを感じたものは一人もいない。しかも、それは、すでに述べた理由による。

ところが、例の著述家は、マリアの仲介によらないで、神からいかなる恩恵もいただくことができないという命題は、ある聖人たちが、熱心さのあまり発した大げさな、誇張した表現にすぎないと主張する。そのうえ、彼は、聖人たちのこの表現を正しく解すれば、ただ「マリアは私たちにイエズス・キリストを与え、イエズス・キリストの御功徳によって、すべての恩恵が私たちに与えられる」という意味にほかならないと説き、「そうでなければ神は、マリアの祈りによらなければ、その恩恵を与えることができないという、誤謬に陥ることになる。さて、私たちは、聖パウロが言っているように(1テモテ2・5)、唯一の神しか認めることができないし、神と人間との間には、唯一の仲介者、すなわち、イエズス・キリストしか認めることができない」と結論している。以上が、この著述家の考えである。

しかし、ここで、彼の所説を反論させてもらいたい。彼がその著書の中で言っているように、功徳をもってする「正義による仲介」と、祈りをもってする「恩恵による仲介」とは別物である。また、神がマリアの御執り成しによらないでは恩恵を与えることができないというのと、与えるのを欲しないというのとでは自然と違う。

私たちもまた、神だけが、すべての善の源、すべての恩恵の絶対主でおいでになること、マリアは純然たる被造物であって、その獲得するものは、ただ、ただ、神の善良のおかげであることを認める。

しかし、神が、贖罪のすべての恩恵をマリアの手を通じて与え、その仲介によってお与えになると断定することが適切であり、合理的であることを、否定できる者はいないだろう。

しかも、神がこのようになさったのは、人類の贖い主である御子の母として選ばれた崇高な被造物、その在世中、すべての被造物が一緒になっても捧げることのできないほどの愛と誉れとを捧げた被造物であるマリアに、光栄を与えるためなのである。

私たちもまた、上に述べた区別に従って、イエズス・キリストだけが、「正義による仲介者」であり、イエズス・キリストだけが、その御功徳によって、恩恵と救霊とを私たちにお与えになることができるということを、信じるのである。

しかし、マリアは「恩恵による仲介者」であって、たとえ、その獲得するものは、イエズス・キリストの御功徳により、イエズス・キリストのみ名によってなされる祈りのおかげで、獲得するとはいっても、私たちが求めるすべての恩恵が、マリアの御執り成しによって、私たちに与えられるということは真理であることを失わない。

このような断定は、少しも、聖書の教えに反しないし、また、これ以上、教会の考えに合致したものはない。実際、教会は、認可した公の祈りによって、絶えず聖母マリアによりたのむように教え、聖母マリアを弱い者の救い、罪人のよりどころ、キリスト教徒の助け、私たちの生命、希望として、これに祈るように教えている。

そして聖母マリアの祝日に唱えさせる聖務日課のなかには、「私のうちに、生命と善徳との完全な希望がある」「私の内に、道と真理との完全な恩恵がある」という叡知の言葉をマリアに適用して、聖母マリアのうちに、完全な希望と恩恵とを見出すことができることを明白に教えている。

要するに、私たちは、マリアのうちに、生命と永遠の救いとを見出すことができる。「わたしを見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えていただくことができる」(箴言8・35)。「わたしに従う者は辱めを受けず、わたしの言うことを行う人は罪を犯さない」 (集会24・22)。これらの言葉は、マリアの執り成しの必要性を示している。

その上、私たちは、この考えを取り入れた多くの神学者や聖教父の権威によっても、この考えが正しいことを確信することができる。なぜなら、上にあげた著述家のように、これらの神学者や聖教父たちが、誇張法を用い、あきらかに過言を犯していると考えるのは、正しくない。

言い過ぎ、または、誇張して語るとかいうことは、真実の限界を超えることであって、聖人たちがこのような過ちを犯したと主張するのは、無謀なことである。彼らは、神の霊によって導かれていた。さて、神の霊は、真理の霊である。

ここで、少し本論を離れて、筆者が特に愛している一つの考えを述べようと思う。一つの意見が、何らかの仕方で聖母マリアの誉れをはっきりと示すものであり、しかも、この意見が、少しも信仰、教会の決定、真理に反しない場合に、反対意見が正しいかもしれないという口実のもとに、この意見に賛成しないで、これを守らないものは、神の御母に対する信心のうすいものである。私は、こんなけちな精神の所有者にはなりたくないし、また読者もそのような人にさせたくない。むしろ聖母マリアの栄光のためになることは、誤謬でない限り、完全に、堅く信じたいものである。

修道院長ルペルトによれば、マリアはすべての栄光を全部、完全に信じることは、私たちが聖母マリアに捧げることができるもっとも楽しい誉れの一つである。その上、マリアを賛美するのに、行き過ぎはしないかと案じる必要はない。権威ある聖アウグスティヌスは、私たちが、マリアに捧げることのできる賛美は、マリアが神の御母という位によって当然受けるべき賛美に比べるなら、問題にならないと言っている。教会も、聖務日課のなかで、「ああ、尊い童貞マリアよ、あなたは、至福なる御者であられ、かつ、こよなく賛えるべきお方である」と歌わせている。

本論に戻り、聖人たちが、この問題について、どんなに考えたかを調べてみたいと思う。聖ベルナルドの言うところによれば、神がマリアをあらゆる恩恵で満たしたのは、人類が、ちょうど水道によって水を求めるように、すべての善をマリアによって求めることができるようにするためである。聖人は言っている。「マリアは、常に満々たる水をたたえた水道であって、みな、その満ち満てる水を受けるのである」と。

それゆえ、聖人は、この点について、たいへん重大な考察を行っている。聖人の言うところによれば、聖母マリアのご誕生以前において、万人が、この地上に、恩恵の流れを見出すことができなかったのは、この有難い水道がまだ存在していなかったからである。

聖人は言っている。「しかし、マリアが世に与えられたのは彼女によって、ちょうど水が水道によって分配されるように、恩恵と天来の賜物とが、絶え間なく、神から人間に流れくだるためである」と。

ホロフェルネスは、ベツリア城を占領するために、水道を断たせた。これと同じように、悪魔も、神の御母に対する信心を、霊魂から奪うために、全力を尽くすのである。その訳は、この恩恵の水道が一度切断されるならば、容易に霊魂を占領することができるからである。

聖ベルナルドは言っている。「ああ、キリスト教徒の霊魂よ、神は、私たちが、大いなる愛と信心とをもって私たちの元后を敬い、いつも信頼をもって、そのご保護によりたのむことを、どんなにお望みであるかを悟るべきである。それは、神が、マリアを救霊のすべての宝をもって満たしたのは、これから、私たちの希望と恩恵と救いとを、マリアの手を経てお与えになるためである」と。聖アントニオも、「地が受けたすべての恩恵は、マリアによって、天からくだったのである」と言っている。

そうです、人類に注がれる神のあわれみは、全部、マリアの仲介によるのである。だからこそ、マリアは月に例えられるのである。聖ボナヴェンツーラは言っている。「太陽と地球との間にある月が、太陽から受けたものを地球に与えるように、神と人間との間に置かれたマリアも、恩恵の天来の力を受けて、これを地上に生活する私たちに注ぐのである」と。

だからこそ、教会は、マリアを「天の門」とお呼びするのである。王から発せられる恩赦令は、その宮門を通る。これと同じように、どんな恩恵も、マリアの手を経ないで、天から地にくだされることはない。

これは聖ベルナルドの説明であるが、聖ボナヴェンツーラは次のように説明している。「私たちがマリアを天の門とお呼びするのは、天の門であるマリアを通らなければ、だれも天国に入ることができないからである」。

聖エロニモも、私たちの考えを確かめている。もちろん、ある人々は、聖エロニモの著作中に挿入されている問題の説教は、古代のある著述家のものであると考えているが、とにかく、この説教のなかには、「恩恵は、これを注ぐ頭であるイエズス・キリストのなかに、そしてこれを分配する首なるマリアのなかに充満している」と書かれている。

つまり、イエズス・キリストは恩恵に満ち満ちており、私たちは、ちょうど、すべての肢体が頭から精神的精気を受けるように、イエズス・キリストから生命的精気、すなわち、永遠の生命を獲得するために必要な神的助けを受けるのである。

けれども、聖母マリアも、ちょうど、首が他のすべての肢体に生命的精気を伝達するように、私たちに生命的精気を伝達するために、恩恵に満ち満ちているのである。

シエナの聖ベルナルディノも、これと同じ考えを持っている。しかも、聖人は、この考えをもっと明白に説明して、「イエズス・キリストの神秘体を形成する信徒には、マリアの仲介によって、霊的生命のすべての恩恵が、頭であられるイエズス・キリストから注がれるのである」と言っている。

聖ボナヴェンツーラは、その理由を次のように説明している。「神は、この至福なる童貞の胎内にお住まいになったのであるから、私は、マリアがすべての恩恵について、ある種の権利を獲得したと断言する。それは、このきわめて清い御胎から、イエズスと神の賜物のすべての流れが、ちょうど天的大洋のように流れ出たからである」。

シエナの聖ベルナルディノはもっと美しく、もっと明白な言葉でもって同じ考えを述べている。彼は言っている。「童貞母は、神の御言葉をお宿しになった日から、聖霊のあらゆる地上的発出、すなわち、聖霊が人間にほどこすすべての賜物の上に、特別な権利とも言えるものを獲得した。それで、そのときから、だれも、私たちの善良で、愛深いマリアの執り成しと御手を経なければ、一つの恩恵も受けなかったのである」。

預言者エレミアは、御言葉のご托身について、「一人の婦人が、神人を包むであろう」(エレミア31・22)と預言した。ある著述家は、この句を注釈し、私たちの考えを支持して、次のように言っている。「円の中心から引いた線を円外に延長すれば、必ず円周と交わる。これと同じように、すべての善の中心であるイエズス・キリストから発するすべての恩恵は、必ずマリアを通る。なぜなら、マリアは、神の御子を胎内にお宿しになって、これをあらゆる方面からお包みになったからである」と。

シエナの聖ベルナルディノは、結論して、「天が与えるすべての賜物、すべての善徳、すべての恩恵は、マリアの御手を経て分配される。マリアは、望む者に、望む時に、望むように、これを分け与えられた」と言っている。

リシャール・ド・サン・ローランはこれにこたえて、「神がその被造物にお与えになったすべての善のうち、マリアの御手を経てあたえられないものはない」と断言している。

ですから、尊者セル修道院長は、私たちみんなに向かって、「恩恵の出納係」と、呼ばれるマリアに、よりたのむようにすすめている。彼は言っている。「この至福の童貞によりたのみなさい。なぜなら、世界とすべての人間とは、マリアの仲介によって、すべての善を獲得し、その希望を実現することができるからです」と。

以上述べたことで明白である。私たちが引証した権威ある聖人たちと著述家たちは、すべての恩恵はマリアの御手を経て、私たちにくだると断定したとき、例の著述家が主張するように、ただマリアによって、すべての善の源であるイエズス・キリストが私たちに与えられたことを述べただけでなく、その上、神は、イエズス・キリストを私たちにお与えになったのち、救い主の御功徳によってそれ以後分配されたすべての恩恵、現在、分配されるすべての恩恵、および今後、世の終わりまで分配されるすべての恩恵は、マリアの御執り成しにより、その御手を経て、分配されることをお望みになるということを述べたのであった。

スアレズと共に結論しよう。「マリアの御執り成しは、私たちにとって、有益であるだけでなく、必要であるということは、今日、教会の普遍的な考えである」と。

すでに述べたように、マリアの御執り成しが、絶対に必要であるというのではない。なぜなら、イエズス・キリストの仲介だけが、絶対的必要性を持っているからである。けれども、マリアの御執り成しは倫理的に必要である。

なぜなら、聖ベルナルドが述べた教会の考えによれば、「神は、マリアの御手を経ない善を、一つでも、私たちに与えることをお望みにならないからである」。しかも、聖ベルナルドよりずっと以前に、聖イルデフォンソは、聖母マリアに次のように申し上げて、これを断言しているのである。「ああ、マリアよ、主は、人間に与えようと決意したすべての善を、あなたの手にゆだねました。したがって、主は、その恩恵のすべての宝と、すべての富とをあなたに託したのです」。

聖ペトロ・ダミアノはこれに付言して、「神が、マリアの承諾を得ないうちは、人になろうとお望みにならなかったのは、まず、私たちすべてに、この限りない恩恵を、私たちの御母から受けさせるためであり、私たちが、すべての人の救いは、マリアによるものであることを悟るためである」と述べている。

イザヤは、マリアの誕生と、マリアから花のように咲き出る人になった御言葉との誕生を預言して、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11・1、2)と言った。

聖ボナヴェンツーラは、この崇高な御言葉を黙想して、「聖霊の恩恵を獲得しようと望むものは、花をその茎の上に、すなわち、イエズスをマリアの上に探すべきである。なぜなら、茎によって花に至り、花によって神に至るからである」と述べている。そして「あなたがたが、この花を持ちたいと望むならば、祈りによって、茎をあなたたちの方に曲げるといい。そうすれば、花はあなたたちのものとなるだろう」と付言している。

同じ聖人が他のところで言っているように、「三王は幼いイエズスがその母マリアと共にいるのを見た」。これと同じく、だれも、マリアと共に、マリアの仲介によらなければ、イエズスを見出すことはできない。だから、イエズスを探すときには、マリアと一緒に見出すように努めなければ無駄である。

聖イルデフォンソは。「私は、御子のしもべになりたい。しかし、マリアのしもべにならないで、御子のしもべになることはできないので、全心をあげて、マリアに奉仕するのです」と言っている。

祈り 

ああ、私は罪によって、いったい何度、神の恩恵を失い、地獄に落ちないといけなかったでしょうか。それなのに、神は、あわれみによって、聖母マリアのご保護に対する大きな信頼と、救霊と永遠の生命との美しい希望を私に与えてくださいました。

ですから、神と、私をそのマントの下に隠してくださったマリアに感謝しないといけません。ああ、善良で愛深い御母よ、私が神の恩恵を失い、地獄に落ちなければいけなかったときに、たくさんの恩恵を与えてくださったことを感謝します。

ああ、私の元后よ、あなたは、本当に大きな危険から、私を救い、限りない光明とあわれみとを、神から執り成してくださいました。私があなたに対して何をし、どんな誉れを捧げたために、あなたは、私にこんなにも多くの恩恵を与えたのでしょうか。

あなたは、ただ、慈しみによってだけで行いました。私は、私の血と生命とをあなたに与えたとしても、あなたのご恩に報いることはできません。あなたは、私を永遠の死から救い、私が希望したように、神の恩恵を回復してくださいました。つまり、私は、すべてをあなたから受けています。

ああ、私のもっとも愛する元后よ、たいへん貧しい私がすることのできるすべては、つねにあなたを賛美し、たえずあなたを愛し続けることだけです。あなたの慈しみに対して、愛に燃え立つこのあわれな罪人の敬意の礼をお受けください。

もしも、私の心が汚れと地上的愛情に満ち満ちているために、あなたを愛するためにふさわしくないと思われるなら 、どうぞ、これを取り除いてください。私を私の神に執着させて、こののち、決して、その愛から離れないようにしてください。

あなたが私に求めるのは、私があなたの神を愛することです。私もまた、この恩恵を、あなたに祈ります。どうか、神を愛する恩恵、常に愛する恩恵を、私のために執り成してください。これこそ、私の唯一の願いです。アーメン。

私たちが救われるためには、マリアの御執り成しが必要である。その2

聖ベルナルドによれば、一人の男と一人の女とが協力して、私たちを滅ぼしたのであるから、一人の男と一人の女とが協力して私たちを贖うことは適切なことである。それで、イエズスとその母マリアとは、協力して、私たちをお救いになった。

言うまでもなく、イエズス・キリストは、一人で、私たちをお救いになることができたに違いない。しかし、聖ベルナルドが言っているように、「男女両性が協力して私たちを滅ぼしたのであるから、この両性が、私たちの贖いに協力することが、もっと適切だったのである」。

それで、聖大アルベルトは、マリアを、贖罪の助力者、協力者とお呼びしている。聖母マリアは、ご自分で、聖女ブルジッタに向かって、「アダムとエバとが一緒になって、一個のりんごのために人類を売り渡したように、私の子と私とは、一つの心になって、人類を贖いました」と仰せられている。

聖アンセルモも、「神は世界を無からおつくりになった。しかし、世界が罪のために滅びたので、神は、マリアのご協力を待って、これを救おうとお考えになった」と述べている。

スアレズの説明によれば、神の御母は、三つの方法で、私たちの贖いに貢献した。第一、その善徳によって。マリアはその善徳によって、御言葉のご托身にふさわしい者とおなりになった。第二、そのご配慮によって、マリアが地上に生きておられたとき、常に、私たちのためにお祈りになった。第三、御子を犠牲に捧げることによって、マリアは、その御子を私たちの救いの為に、神に捧げることを惜しまれなかった。

このように、マリアは、私たちに対する大きな愛と、神の光栄に対する大きな熱誠によって、すべての人の贖いに協力なさったのであるから、神は、だれも、マリアの御執り成しによらないでは、救霊を得ることができないようにお定めになった。

ブスチスのベルナルディノは言っている。「この至福の童貞は、私たちの成聖の協力者と呼ばれる。その訳は、神は、私たちに与えたいと望むすべての恩恵をマリアに委託なさったからである」と。

それで聖ベルナルドは、マリアを、救霊の普遍的仲介者と呼び、過去、現在、未来のすべての人々は、マリアを仰がねばならないと教えている。「私たち以前に生きていたすべての人々、今生きている私たち、これから生まれる人々は、みな、マリアを仰ぐべきである。マリアは、代々の中心であり、頂点である」。

イエズス・キリストは、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」(ヨハネ6・44)と言われた。リシャール・ド・サン・ローランによれば、主イエズスは、霊魂をご自分に引き付ける力を、聖なる父の恩恵の働きにすると共に、またマリアの祈りのためともなさった。「私の母が引くのでなければ、だれも、私のもとに来ることはできない」と。

聖エリザベットが言ったように、イエズスはマリアの実である。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内の実も祝福されています」(ルカ1・42)。

さて、実を望む者は木にこれを求めるべきで、これと同じように、イエズスを求める者は、マリアに行くべきであり、マリアを見出すならば、たしかにイエズスを見出すことができるのである。

聖女エリザベットは、童貞マリアが自分を訪問してくれたのを見ると、どのように感謝していいかわからず、恐縮しながら叫んだ。「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」(ルカ1・43)と。 

しかしエリザベットは、自分の家に、マリアだけではなく、イエズスもまたおくだりになったことを知らなかったのであろうか。もしも、知っていたとしたら、なぜ、御母の訪問に恐縮する代わりに、御子のご訪問に恐縮しなかったのであろうか。

ああ、聖女は、マリアが訪問するときは、いつも、イエズスをお連れすること、したがって、御子を名指さなくても、ただ御母に感謝するだけで十分であることを、よくわかっていたのである。

聖書は、強い女について、次のように記している。「彼女は商人の船のように、遠くからパンを運んで来る」(箴言31・14)。マリアは、永遠の生命を私たちに与えるために天からおくだりになった、生けるパンであるイエズス・キリストを、天から地上にもたらした有難い船である。

イエズス・キリストは、「私は天からくだった生けるパンである。このパンを食べるものは、永遠に生きる」とおっしゃった。リシャール・ド・サン・ローランは次のように述べている。「この世の海において、この船に乗らない者、すなわち、マリアによって保護されていないものは、必ず遭難するに違いない。だから、現世の誘惑や情欲の荒波におぼれる危険に遭遇するたびに『ああ、聖母よ、早く私たちを助けてください。私たちが滅びるのをお望みにならないならば、私たちを助け、私たちを救ってください』と叫びながら、マリアによりたのまないといけない」。

ついでながら、注意しないといけないのは、リシャール・ド・サン・ローランは、私たちがマリアに向かって、「私たちを救ってください。私たちは滅びます」と祈ることができるかどうかについて、少しも疑いをいだいていないということである。

ところが、例の著述家は、小心にも、聖母マリアに向かって、「私たちを救ってください」と祈ってはならない、なぜなら、神以外に、私たちを救うことができるものはいないからである、と言っている。

けれども、死刑を宣告されたものは、王の寵臣に向かって、「私を救ってください。王の恩赦を執り成してください」と言うことができるではないか。

私たちが、神の御母に向かって、「私たちを救ってください。永遠の生命の恩恵を、執り成してください」と申し上げていけないわけがあろうか。

聖ヨハネ・ダマセノは、公然と、聖母マリアに申し上げている。「ああ、いと清く、汚れない元后よ、私を救ってください。私を永遠の滅びから救ってください」と。聖ボナヴェンツーラも、「ああ、あなたによりたのむ者の救いよ、私を救ってください」と叫んでいる。

教会は、マリアを、「弱い者の救い」とお呼びすることを許している。それなのに、私たちはマリアに向かって、救いを求めるのを遠慮してよいだろうか。

ある著述家の美しい表現によれば、マリアだけが、私たちに天への道を開かれたではないか。また、年老いたジェルマノは、マリアに向かって、「あなたによらないで救われるものはありません」と言っているではないか。

本題に戻り、聖人たちの他の言葉によって、聖母マリアの執り成しが、どれほど必要であるかを、立証し続けたいと思う。光栄ある聖ガエタンは、「私たちは、マリアの執り成しによらないでも、神の恩恵を祈ることができよう。けれども、決してこれをいただくことはできない」と言っている。

聖アントニオも、「マリアにたよらないで祈ることは、翼なく飛ぼうとするのと同じである」と言って、上の考えを支持している。

ファラオは、ヨゼフに向かって、「私は、お前を全エジプトの上に立てる」と言って、みな、ヨゼフのもとに送った。これと同じように、神も、私たちが恩恵を祈り求めるとき、「マリアのもとに行け」と言われるのである。なぜなら、聖ベルナルドの教えによれば、神はどんな恩恵も、マリアの手を経ないでは与えないと定められたからである。

リシャール・ド・サン・ローランは言った。「私たちの救いは、マリアの掌中にあるのだから、私たちキリスト教徒は、エジプト人がヨゼフに言った言葉を、もっと切実に、マリアに言うことができる。『私たちの救いは、あなたの掌中にあります』と」。

尊者イディオタも、同じことを述べている。「私たちの救いを、掌中に握っているのは、マリアである」と。カシアノは、もっと強い言葉で、この考えを支持し、「人類の救いは、すべて、マリアのおびただしい恩恵のうちに含まれている」と言っている。

これは、マリアの寵愛を得、そのご保護を受けなければ、だれも救われることができないということを、絶対的に断言したものではないだろうか。つまり、マリアが保護するものは救われ、保護しないものは滅びるのである。

シエナの聖ベルナルディノは、「ああ、すべての恩恵の分配者よ、私たちの救霊は、あなたの御手の内にあります」と言った。これは、「力ある元后よ、あなたは恩恵の分配者であり、救霊の恩恵は、あなたの御手を経ないでは与えられないのであるから、私たちの救霊は、あなたによって決まるのである」という意味である。

リシャール・ド・サン・ローランが、「私たちの霊魂は、マリアの御助けがなければ、支えを失って深淵に転げ込む石のようなもので、まず罪におち、ついで地獄に落ち込むのである」と言ったのは、至言である。

聖ボナヴェンツーラも、同じ教えを説いている。彼は、「神はマリアなくして私たちをお救いにならないであろう」と断言したのち、自分の考えを説明して、「乳母のない子供は生きることができない。これと同じように、聖母なくしては、私たちの救霊は不可能である」と述べ、さらに、私たちに次のすすめを与えて、結んでいる。「だから、マリアに対する信心を渇望しなければならない。この善良な御母に愛着し、天国において、その慈愛のこもった祝福を受けるまで離れないようにすべきである」。

ああ、マリアによらないで、神を認めたものがあるだろうか。救われた者があるであろうか。人生の危難から逃れたものがあるであろうか。恩恵を獲得したものがあるであろうか。

聖ジェルマノの美しい答えを聞こう。「ああ、至聖童貞よ、あなたによらないで、神を認識した者はありません。ああ、神の御母よ、あなたによらないで、救霊の港に到着したものはありません。ああ、イエズスの御母よ、あなたによらないで危難を逃れた者はありません。ああ、恩恵に満ちた御者よ、あなたによらないで、神の恩恵を頂いた者はいません」。

同じ聖人は、他の箇所でも、「もし、あなたが、私たちに救霊の道をお開きにならないなら、だれも、肉欲と罪から逃れることはできません。また地上的なものから霊的なものとなることはできません」と言っている。

私たちが、永遠の御父に近づくことができるのは、ただ、イエズス・キリストのおかげである。これと同じように、聖ベルナルドによれば、私たちが、イエズス・キリストに近づくことができるのは、ただ、マリアのおかげである。

それでは、主は、どうして、私たちがみな、聖母マリアの御執り成しによって救われるようにお望みになったのであろうか。この問いに対して、聖ベルナルドは、次のように答えている。「私たちは、マリアの御手を経て救い主を与えられたのであるから、私たちを救い主に与えることもまた、マリアの御手に託された事業なのである」。

だから、聖ベルナルドは、マリアを、恩恵の御母、私たちの救霊の御母とお呼びするのである。彼はマリアに申し上げている。「ああ、恩恵の出納係よ、私たちの救霊の母よ、私たちは、あなたによって、御子に近づくのです。その訳は、御子が、あなたによって、ご自身を人類にお与えになったように、また、あなたによって、すべての人をお受けになるからです」と。

聖ジェルマノも言っている。「ああ、マリアよ、キリスト教徒の生命であるあなたが、私たちを私たちをお見捨てになるならば、私たちはどうなるでしょうか。救霊の希望があるでしょうか」と。

ところが、私が前に述べたあの著述家は、「もしも、すべての恩恵はマリアの御手を経て私たちに与えられるとすれば、私たちが聖人たちに祈る時、聖人たちも、みな、マリアの御執り成しを求めなければならないことになる。ところが、そんなことは、だれも信じることはできないし、だれも夢にも思わなかったことである」と反論している。

私は、まず、そのように信じたとしても、少しも差し支えないと答える。なぜなら、「神は、御母を敬うために、これを諸聖人の元后に立てられた。そして、神は、すべての恩恵はマリアの御手を経て与えられることをお望みになったのであるから、聖人たちも、その保護する者のために恩恵を取り次ぐときに、マリアに依頼することをお望みになるのである」と言っても、少しも不都合はないからである。

「そんなことは、だれも夢にも思わなかったことである」というのは、間違いである。なぜなら、私が行った断定は、そのまま、聖ベルナルド、聖アンセルモ、聖ボナヴェンツーラ、スアレズ、その他の多くの著述家の著述のなかに見出すことができるからである。

聖ベルナルドは、「ある恩恵をいただくために、他の聖人たちに執り成しを願っても、マリアがそれに協力してくださらないならば、無駄である」と言っている。ある著述家(イエズス会士スピネリ師)は、「民の富者は、みな、わたしの顔を求めた」(詩編)というダビデの詩句を、上の意味に解して、「神の民の富者とは、聖人たちをさしている。彼らは、取り次ぎを求める者のために、なにかの恩恵を願いたいときは、マリアによりたのむのである」と言っている。

厳密に言えば、私たちが聖人たちに祈る時は、彼らを通して、その元后であるマリアに取り次ぎを願うのである。スアレズは言っている。「私たちはある聖人を通して他の聖人に取り次ぎを願う習慣はない。なぜなら、聖人たちは、みな兄弟であり、同等だからである。しかし、私たちは、各聖人を通して、その至上の主人であり、元后であるマリアに取り次ぎを願うのである」と。

聖ベネディクトがローマの聖女フランチェスカにした約束は、これを裏づけるものである。マルシェーズ神父の伝えるところによれば、聖ベネディクトは、ある日、聖女フランチェスカに現れ、聖女をその保護のもとに置き、聖女のために、神の御母のもとに執り成すことを約束したのであった。

また聖アンセルモも、同じようなことを教えている。聖人は、聖母マリアに向かって、次のように申しあげている。「尊い婦人よ、すべての聖人が、その祈りを一つに合わせて獲得することのできるものを、あなたは、ただ一つの祈りによって獲得することができます。あなたは、どうして、ただ一人で、こんなに偉大な力を持っているのでしょうか。その訳は、あなただけが、私たちの贖い主の御母であり、あなただけが、主の浄配であり、あなただけが、天地の普遍的元后であるからです。もしもあなたが、私たちのために執り成してくださらないならば、聖人たちのうち、一人として、私たちのために祈る者や、私たちを助ける者はないでしょう。しかしあなたが少しでも、私たちのためにお祈りになれば、みなが争って、私たちのために主に祈り、私たちをお助けになるに違いありません」。

「ひとりでわたしは天空を巡り歩き」(集会24・5)。セニエル師は、教会にならって、この叡知の言葉を聖母マリアに適用し、「天の第一の球体は他のすべての球体に運動を与えるように、マリアが、その子供の一人の弁護にお立ちになるときは、天国全体は、マリアの合図によって、マリアと共に動く」と言っている。

聖ボナヴェンツーラは、「その上、聖母マリアは、私たちのために執り成そうとして、神の玉座に向かってお進みになるとき、元后としての権威をもって、天使たちと聖人たちとに向かい、いと高い御者のみ心を私たちの方に向けさせるために、ご自分の声に和するようにお命じになる」と、言っている。

以上述べたところによって、教会が、どうして、私たちに命じて、聖母マリアによりたのませ、これを、「めでたし、私たちの希望よ」と呼ばせるかを、理解することができる。

あの不信なルーテルは、ローマ教会が、マリアを、清い被造物、私たちの希望、私たちの命、と呼ぶことを許すことができないと宣言している。そのわけは、「神と私たちの仲介者であるイエズス・キリストだけが、私たちの希望であるからだ。神は、被造物に希望するものを呪われる。エレミアも『人間に信頼するものは呪われよ』(エレミア17・5)と言っているではないか」という理由からである。

けれども、教会は、ルーテルのこの主張にもかかわらず、種々の場合にマリアに祈り、マリアを「私たちの希望」とお呼びするよう教える。言うまでもなく、神とは関係なく、被造物に希望するものは、神の呪いを招くに違いない。神だけがすべての善の根源であり、分配者であり、神なしには、被造物は何も持たないし、何も与えることができないからである。

私たちが前に証明したように、主は、ちょうど、御あわれみの水路とお定めになり、すべての恩恵をマリアによって与えようと決意したのであるから、私たちは、高らかに、マリアを私たちの希望と宣言することができる。それは、私たちは、マリアによって、神の恩恵をいただくことができるからである。

それで、聖ベルナルドは、ためらわず、「私の子供たちよ、マリアは、私の最大の保護者、私の希望の完全な土台である」と断言した。聖ヨハネ・ダマセノも、同じように、「ああ、私の元后よ、私は、全心をあげて、あなたに希望します。私は、あなたを見つめつつ、ひたすら、あなたの慈悲に、私の救霊を期待します」と言っている。聖トマスは、「マリアは永遠の生命に関し、私たちの欠けるところのない希望である」と言い、聖エフレムは、「ああ、いと忠実なる童貞よ、もしも、私を救おうと思われるならば、私を受け入れ、御あわれみの翼の陰に、私を隠してください。私は、他に救霊の希望を持たないからです」と叫んでいる。

それでは、聖ベルナルドと共に結論しよう。「私たちの心の愛情を傾けつくして、私たちの尊い母を敬おう。なぜなら、すべての善がマリアの御手を経て私たちに与えられることは、神のみ旨であるから。恩恵を求めよう。しかし、マリアによって、これを求めよう。恩恵を望むか、求めるかする場合には、聖母マリアによりたのもう。その御執り成しによって願うならば、確かに聞き入れられると確信しよう」。

それは、聖ベルナルドが言っているように、「たとえ、私たちが、希望する恩恵を受ける資格のない者であっても、マリアは、その資格をもっており、私たちのために、この恩恵を獲得なさるに違いない」。聖ベルナルドは、私たちの各々に、「あなたたちが、なにかの善業、あるいは、なにかの祈りを神に捧げるときは、すべてを、マリアの御手にゆだねるがよい」とすすめている。

祈り 

ああ、あわれみ深い元后よ、あわれみ深い御母よ、あなたは元后です。あなたは、あなたによりたのむ者に、豊かな恩恵をお与えになります。あなたはまた、もっとも愛ふかい御母です。あなたは、寛大な慈悲をもって、恩恵をお与えになります。

功徳と善徳とを欠き、神の正義にたいして多くの負い目を持つ私は、今日、あなたによりたのみます。ああ、マリアよ、あなたは、神の御あわれみの宝庫のカギをお持ちです。私の貧しさを思い、私を、これほど大きい困窮のうちに、捨てて置かないでください。

あなたは、すべての人に対して、たいへんあわれみ深く、私たちの願いよりも多くのものをお与えになります。どうぞ、私も、あわれんでください。

ああ、私の元后よ、私を、あなたの保護のもとに置いてください。もし、あなたが私を保護してくださるならば、何も恐れるものはありません。

私は、悪魔を恐れないでしょう。あなたは、地獄の全軍よりも強いからです。私は自分の罪も恐れないでしょう。なぜなら、もしも、あなたが一言神に執り成してくれるならば、私の罪は全てゆるされるからです。あなたの保護のもとにあるならば、神の怒りさえも恐れないでしょう。なぜなら、あなたは、短い祈りによっても、神をおなだめすることができるからです。

つまり、もし、あなたが私を保護するならば、私は、すべてを希望することができます。なぜなら、あなたの祈りは、必ず、神に聞き入れられるからです。

ああ、あわれみの御母よ、あなたは、最もみじめなものを助けることを、喜びとし、光栄となさいます。そして、彼らが罪を捨てるならば、あなたは、いつも助けることができます。私は罪人ですが、罪を捨て、生活を改めることを望みます。ですから、あなたは、私を助けることができます。

私を助けてください。私を救ってください。私は、今日この日、私のすべてをまったく、あなたにおまかせします。私が、神をお喜ばせするためになすべきことを教えてください。私は、これをしたいと望み、あなたのお助けによって、成し遂げることができると思います。ああ、マリアよ、私の母、光、なぐさめ、よりどころ、私の希望よ!アーメン。

ああ、私たちの代願者よ

マリアはすべての人を救うことができる有力な代願者である。

母の権力は非常に偉大であって、たとえ、その子供が国王になり、王国のすべての人民の上に絶対権を持つときでも、決して、その臣下にはならない。

イエズス・キリストは、今、天国で、御父の右に坐しておられる。しかも、聖トマスの説くところによると、イエズス・キリストは、人間としても、御父の右に坐しておられる。なぜなら、イエズスは、御言葉のペルソナと一位的に一致されているからである。

ですから、イエズス・キリストはすべての被造物の上に最高の権威をお持ちになるのであって、聖母マリアといっても、その権威に服さないといけない。

けれども、私たちの贖い主が、地上にお暮しになったとき、マリアの権威にお従いになるほど、ご自分を卑下なさった時期があったことも事実である。聖ルカは、これについて「(イエズスは、)両親に仕えてお暮らしになった」(ルカ2・51)と記している。その上、聖アンブロジオが言っているように「イエズス・キリストはマリアを御母になさったのであるから、子としてマリアに従順であるべきであったのである」。

それで、リシャール・ド・サン・ローランが述べているように、「私たちは、他の聖人たちについては、神のご命令に服従したために、神と共にあるのだと言うのであるが、マリアについてだけは、神の意志に服従なさっただけでなく、神が自分の意志に服従するのをごらんになるという大きな特権が与えられたと言うことができるのである。

また、他の童貞女たちについては、『彼女たちは、神の子羊の行くところに従う』と言われているが、至聖なる童貞マリアについては、子羊は、地上では彼女にお従いになった、と言うことができるのである。なぜなら、イエズスは、聖ルカによると、『(彼女に)仕えてお暮しになった』(ルカ2・51)からである」。

以上述べたことから、マリアは天国では、御子にお命じになることはできないが、その祈りは、常に母の祈りであって、何を願っても聞き入れられる、と結論することができる。聖ボナヴェンツーラは、「そうだ、マリアは、御子に対して全能者であるという特権を有する」と叫んでいる。なぜであろうか。マリアの祈りは、母の祈りだからである。

聖ペトロ・ダミアノは、聖母マリアに向かって、「すべての権能は、天においても地においても、あなたに与えられています。あなたは、欲することを全部することができます。あなたには、不可能なことはありません。なぜなら、救霊について絶望されている者にでも、希望を持たせることができるからです」と申し上げている。

聖人は、さらに付言して、「マリアは、何かの恩恵を私たちのために求めようとして、イエズス・キリストの御前に出る時、祈るというよりはむしろ命令するのであり、臣下として行動するのではなく、元后として行動するのである。それほど、御子はマリアの祈りを重んじ、これを聞き入れようとお望みになるのである」と述べている。

聖人は、聖母マリアに向かって、「そうです。ああ、マリアよ、あなたは、神と人との和解の祭壇(すなわちイエズス・キリスト)の前にお進みになるとき、はしためというよりは、むしろ女王のように見えます。なぜなら、イエズスは、あなたの御子であり、あなたのすべての願いを聞き入れて、あなたに誉れをお与えになるからです」と申し上げている。つまり、イエズスは、ご生涯の間、ご自分に多くの誉れを得させた愛する御母の誉れのために、その願いと望みとを、全て速やかに、お聞き入れになるのである。

聖ジェマルノは、次の美しい言葉を聖マリアに捧げて、これを確認している。「ああ、神の御母よ、あなたは罪人を救うために、全能力を持っています。あなたは、神の御前では、だれの助けも必要とされません。なぜなら、あなたは、真の生命の御母だからです」。

シエナの聖ベルナルディノは、公然と、「すべてが、神ご自身さえも、マリアに従われる」と断言している。これは、神は、マリアの祈りを、ちょうど命令のように、お聞き入れになる、という意味である。

聖アンセルモは、聖母マリアに向かい、「ああ、童貞マリアよ、主があなたをこれほど高い恩寵にあずからせるのは、あなたが、あなたの信心深いしもべたちに、すべての恩恵を、取り次いで与えることができるようにするためです」と申し上げている。

エルサレムのコスマも「あなたの御保護は全能です」と申し上げている。リシャール・ド・サン・ローランは、これを受けて、「そうだ、マリアは全能である。なぜなら、法的に見ても、女王は王と同じ特権を持つはずだからである。したがって、御子と御母とは同じ権威を持つのであるから、御母は御子の全能によって全能である」と言っている。ですから、聖アントニオが言うように、「神は全教会をマリアの保護のもとに置くだけでなく、マリアの王笏と権力とのもとに置いたのである」。

このように、御母と御子とは同じ力を持つはずであるから、全能なイエズスは、マリアを全能になさったのである。けれども、イエズスだけが、本性上全能であって、御母は恩恵によって全能なのである。

実際においては、聖女ブルジッタに啓示されたように、マリアの願いが御子から拒絶されることはない。聖女は、ある日、イエズスがマリアと物語り、マリアに向かって、「御母よ、あなたは、私がどれほど、あなたを愛しているかご存知です。なんでも、お望みのものを願ってください。どんな願いでも、聞き入れないではいられないのです」と仰せられるのを聞いた。その理由として、次の感ずべき理由をあげられるのであった。「あなたは、地上では、何も拒みませんでした。それで、私は、天上で、何も、あなたに拒むことができないのです」。

この御言葉は、「母よ、あなたは、地上にいられたとき、私に対する愛の為に、何事も厭いませんでした。私が天にいる今、あなたの願いはどんなことでも、私は拒絶することができないのです」という意味に解することができる。

それで、マリアが全能と言われるのは、被造物に適用できる限度内で、そう言われるのであって、マリアが神の属性である全能力を有するわけではない。聖母マリアが全能であるというのは、その祈りによって、望むものをすべて獲得できるという意味である。

「ああ、偉大な代願者よ、聖ベルナルドがあなたに向かって、『欲してください。そうすれば、すべては実現するでしょう』、と申し上げ、聖アンセルモが、『どんなものをお望みになっても、成就しないことはありません』、と申し上げたのは、本当にもっともなことです。あなたは、最も絶望的な罪人でさえも高い聖性に上げることができます。そのために、ただ、あなたがお望みになるだけで十分です」

福者大アルベルトは、この点について、聖母マリアに、「ただ、私に、欲してください、と祈るだけで十分です。私が欲したことは、実現しなければならないのです」と語っている。

ですから聖ペトロ・ダミアノは、御あわれみを求めるために、マリアのこの偉大な力に頼っている。聖人は、マリアに向かって申し上げた。「あなたの御心の躍動に従ってください。あなたのお持ちになる権力を思ってください。なぜなら、あなたは、力があればあるほど、御あわれみを示さねばならないからです」と。

ああ、マリアよ、ああ、最も愛する代願者よ、あなたは、きわめてあわれみ深い御心を持たれ、何かの不幸を見れば、同情しないではいられません。また、神の御元で、あなたの力は非常に大きく、あなたが保護するすべての者を救うことができます。どうか、私の運命をあなたの手に引き受けてください。なぜなら、私は、すべての希望を、あなたにゆだねているからです。もしも、私たちの祈りがあなたを動かすことができなければ、み心の衝動に従ってください。少なくとも、あなたの力を示してください。なぜなら、主があなたをこれほどまでに力あるものとされたのは、私たちを救う力を持てば、持つだけ、慈悲深くなり、急いで、私たちを助けることができるからです」。

これは、聖ベルナルドが、私たちに断言したところである。聖人は言っている。「マリアは、力においても、慈悲においても、限りなく富まれている。マリアの愛徳は全能であると共に、また限りなく同情に富むものであり、私たちは、絶え間なく、マリアの愛徳を体験させられているのです」と。

マリアが、地上に住まれていた時から、その唯一の思いは、神の光栄についで、不幸な者を助けることであった。そして、そのころから、すでに、常に聞き入れられるという特権を持たれていた。ガリラヤのカナの婚礼において起こった出来事(ヨハネ2・1~11)が、これを示している。

宴なかばにしてぶどう酒が尽きた。聖母マリアは、家族の人たちの心配と恥に同情し、御子に向かい、奇跡を行って慰めるように願って、「ぶどう酒がなくなりました」と言われた。すると、イエズスは、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」とお答えになった。

よく注意しなければならないのは、聖主は、マリアが求める恩恵を拒んだように見えることである。なぜなら、イエズスは、「婦人よ、ぶどう酒が足りないからといって、私とあなたには、別に関係のないことではありませんか。私は、いま奇跡を行うべきではありません。まだ、その時ではないからです。私が特別なしるしによって、自分の教義を確かめる必要のある宣教の時は来ていないのです」とお答えになったからである。

けれども、聖母マリアは、御子がご自分の願いを聞き入れたと絶対的に確信しているかのように、しもべたちに向かって、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。そうすれば、なぐさめられるでしょうと、仰せられたのであった。果たして、水がめに水が満たされると、イエズスは、御母を喜ばせるために、この水を美酒に変えられたのであった。

これは何を意味するであろうか。奇跡は宣教の時に行うように定められていたとすれば、どうして、この場合、奇跡が行われたのであろうか。神のお定めに反しはしないだろうか。

聖アウグスティヌスはこれに答えて、次のように述べている。決して、なにも、神のお定めに反して行われたのではない。一般的に言って、奇跡の時期はまだ到来していなかった。しかし、神は、永遠から、もう一つの一般的な決定によって、聖母マリアの求めることは、何一つ、断られないということをお定めになっていたのである。

さて、マリアは、ご自分の特権を完全に意識していたので、御子の外見的な拒否にあっても心配せず、聞き入れられたかのように行動なさったのであった。聖ヨハネ・クリゾストムも、このように解釈している。聖人は、「婦人よ、私にどんなかかわりがあるのです」という御言葉について、「イエズス・キリストは、このように言われたにもかかわらず、御母に誉れを与えるために、その願いにお応えになったのであった」と言っている。

聖トマスもこれらの説明を支持して「イエズス・キリストは『私のときはまだ来ていません』という御言葉によって、もしも、マリア以外のものが奇跡を願ったのであったとしたら、これを延期したに違いないことをお示しになった。しかし、願いがマリアによってなされたために、すぐに実行なさったのであった」と述べている。

パラダの伝えるところによれば、アレキサンドリアの聖チリロ、聖アンブロジオも同じ意見であったとのことである。ガンのジャンセニウスも、同じ考えを述べて、「イエズスは、御母に誉れを与えるために、奇跡の時を早められた」と言っている。

つまり他のどんな被造物も、このすぐれた代願者ほど、私たち困窮者に、多くの恩恵を執り成して与えることはできないのである。神が、マリアにこのような誉れをお与えになった。マリアがその至愛なる使い女であるためばかりでなく、特に、その御母だからである。

ギョーム・ド・パリは、聖母マリアに向かって、次のように申し上げ、これを断定している。「あなたが不幸な人々に執り成してお与えになる、これほど多く、また、これほど偉大な恩恵を、あなた以外のどんな被造物も、御子から執り成して与えることはできません。イエズスがあなたにこれほどの誉れを与えられたのは、あなたがその忠実なはしためであるからだけでなく、イエズスの真の御母であるからです」。

マリアが一言願いを述べただけで、御子は、そのすべての望みを満たされる。主は、雅歌のおとめに向かって、「園に座っているおとめよ。友は皆、あなたの声に耳を傾けている。わたしにも聞かせておくれ」(雅歌8・13)と言われている。このおとめとはマリアであり、夫の友達とは、聖人たちである。

聖人たちは、彼らに祈るもののために、何かの恩恵を求めるのに、彼らの元后に願って、執り成していただくのである。なぜなら、前章で立証したように、どんな恩恵も、マリアのお取り次ぎによらなければ、与えられないからである。

さて、マリアは、聞き入れられるために、なにをなさるのであろうか。ただ、その声を御子に聞かせるだけで十分である。「私にもあなたの声を聞かせておくれ」とイエズスは言われる。マリアの一声で、イエズスはその願いを聞き入れられる。

ギョーム・ド・パリは、 この雅歌の詩を説明するために、イエズスが次のように仰せになったことを引用している。「ああ、天の園に住む御母よ、望む人のために信頼をもって執り成してください。私は、あなたの子供です。それを忘れて、母であるあなたに何も拒むことはできません。ただ一言で十分です。あなたの子である私にとって、あなたの願いを聞くことは、聞き入れることなのです」。

言うまでもなく、マリアは、神の恩恵を執り成して与えるために祈りに頼る。けれども、マリアは、母としての権威をもって祈る。であるから、私たちは、少しもためらうことなく、マリアが私たちのために望み、私たちのために願うことは、すべて与えられると信じなければならない。

修道院長ジョフロアは、「イエズスは人間である。そして、聖母マリアから人間として生まれたのである。だから、マリアが、いくぶんか、母としての権威をもって御子に祈り、望むものを、すべて執り成してお与えになるということは、忠実な霊魂にとって、疑うことはできない」と述べている。

ローマの歴史家ヴァレリウス・マキシムスは、コリオランについて、「彼がローマを攻め込んだとき、同国人や友人は、彼に、囲みを解くよう嘆願したが無駄であった。けれども、母のヴェツリアが彼の前に出て、彼の心をひるがえさせるように努めたところ、彼は母の願いを拒むことができず、すぐ囲みを解いた」と記している。

さて聖母マリアの祈りは、ヴェツリアの祈りよりも力を持つ。しかも、イエズスは、至愛なる御母に対して、深い感謝の念と愛情とを抱いているから、マリアの祈りは、いっそう力を持つのである。

ユスチノ・ミエコヴィチ神父は、「マリアの一つの嘆息は、すべての聖人たちの祈りを合わせたよりも力がある」と言った。パチウッチェリ師は、悪魔がある日、聖ドミニコの命によって、悪魔つきの口を借りて白状したところによれば、「マリアのただ一つの嘆息は、すべての聖人たちの祈りを合わせたよりも有力である」と言っている。聖アントニオも、「マリアの祈りは、母の祈りであるから、いくぶんか、命令のような性質をおびている。それで、聞き入れないわけにはいかない」と言っている。

聖ジェルマノも、この代願者によりたのむ罪人を励ますために、マリアに向かって、次のように申し上げている。「ああ、マリアよ、あなたは、神ご自身に対しても、母としての権威を持たれます。したがって、あなたは、どんな大きな罪の赦しも、執り成すことができます。なぜなら、主は、あなたを、常に、まことの母、汚れない母と見なされているので、あなたの願いを聞き届けないではいられないのです」。

聖女ブルジッタは、天国の聖人たちでさえ、聖母マリアに向かって、「ああ、私たちの元后よ、あなたに栄えあれ。あなた以上に力あるものがあるでしょうか。あなたが何かを望まれると、すぐ、聞き届けられるのです」と申し上げるのを聞いた。

次の有名な詩句は、こういうところから生まれたのである。
「神は命令をもって、すべてをなし、あなたは祈りをもって、すべてをなすことができる」 。

聖アウグスティヌスは叫んでいる。「主にとって、御母にこのような誉れを与えることは、その仁慈にふさわしいことではないだろうか。主は『私が世に来たのは、律法を廃止するためではなく、これを完成させるためである』とおっしゃったではないか。さて、律法は、種々の義務を私たちに課するが、その一つは両親を敬う義務である」と。

さらに、ニコメディアの大司教聖ジェルジオは、イエズス・キリストが、このように、御母のすべての祈りをお聞き入れになるのは、御母が彼を産むことを承諾したことに対する感謝の負債をお返しになるためであると説いている。聖人は聖母マリアに向かって、「御子は、あなたの祈りを聞き入れられるとき、あなたに負債を支払っているようなものです」と申し上げている。

殉教者聖メトディオは感嘆して叫んでいる。「ああ、マリアよ、喜んでください。なぜなら、あなたは、幸いにも、だれからも、受けることなくすべての人にお与えになる神の御子を、債務者としてお持ちになるからです。私たちはみな、神から頂いたもの以外に、何も持っていません。したがって、私たちは、神の債務者です。けれども、神の御子は、あなたから肉を受けて人間となり、あなたの債務者になられました」と。

聖アウグスティヌスは、「神の御言葉に肉体を与え、私たちの贖いの代償を準備したのは童貞母マリアである。それで、マリアは、他のどの聖人よりも、私たちの霊魂を助けて、救霊を完成させることができる」と言っている。

また、聖エロニモと同時代の人であるアレキサンドリアの総主教聖テオフィロは、「ああ、神の御子は、御母の祈りを聞くことをどんなに喜ばれることであろうか。なぜなら、御子が私たちに恩恵を与えるのは、マリアのことを思い、マリアが肉体をご自分に与えたことを感謝するために、これをお与えになるからである」と書いている。

それゆえ、聖ヨハネ・ダマセノは、「ああ、マリアよ、あなたは、私たちすべてを、あなたの祈りによって、お救いになります。なぜなら、あなたの祈りは、あなたの母としての権威に支持されているからです」と言ったのである。

聖ボナヴェンツーラが、マリアに申しあげた言葉を借りて結論に変えたいと思う。聖人は、神がマリアを私たちの代願者となさることによって、私たちは、どんなに大きな恩恵を受けたかを思って、次のように申し上げている。
「御母よ、私たちは神の慈しみを限りなく感じるべきです。あなたは、私の母、天の元后でいらっしゃいます。それにも関わらず、神はあなたを代願者として、私たちに与え、あなたの力ある執り成しによって、望み通りのすべての恩恵を、私たちに取り次いで与えるようになさったのです」と。

聖人は、さらに言葉を続けて、「ああ、驚くべき神のあわれみよ。神は、私たちが、他日受けるべき宣告を思って絶望しないように、ご自分の御母、恩恵の至上の主でいらっしゃるあなたを、代願者として、私たちにお与えになりました」と。

祈り 

ああ、マリアよ、尊い神の御母よ、どうか、語ってください。なぜなら、あなたの御子は常にあなたの願いを聞き入れられるのであって、あなたが、お望みになるものは、なんでもいただくことができるからです。ああ、私たちの代願者よ、みじめな私たちに代わって、語ってください。神が、あなたに、これほど大きな力、これほど高い位を与えられたのは、私たちのためであることを思ってください。神があなたから人性を受けて、あなたの債務者となられたのは、あなたに思うままに、神のあわれみの富を、みじめな人々に分配させるためです」 。

私たちは、あなたのしもべであり、特別に、あなたの奉仕に身を捧げたものです。(私がこのように申しあげるのは、こういう人々の中に入っていると思うからです)。そして、あなたの御保護の中に生きることを光栄に思います。

あなたは、すべての人に対して、すなわち、あなたを知らない者にも、あなたを敬わない者にも、あなたを侮辱し、冒涜する人々に対してさえも、善を施されます。ですから、あなたを敬い、あなたを愛し、あなたに信頼する私たちは、常に救うべきみじめさを探し求めるあなたのあわれみに、期待しないでいられるでしょうか。

私たちは大罪人です。しかし、神は、あなたに、私たちの悪よりも大きな同情と力を与えられました。あなたは、私たちを救うことができ、また望まれます。私たちは、みじめであればあるだけ、あなたの救いを希望します。他日、あなたの執り成しによって天国に入ったとき、さらにますます、あなたの光栄を讃えるためです。

ああ、あわれみの御母よ、私たちは、あなたに、私たちの霊魂を捧げます。これらの霊魂は、イエズスがその御血をもって洗い清めたときは、美しいものでしたが、そののち、罪のために、泥土に汚されました。

私たちは、あなたに清めてもらうために捧げます。どうか、私たちのために、真の改心を取り次ぎ、神の愛、堅忍、天国を、取り次いでください。私たちは、多くのことを、あなたに願います。

しかし、あなたは、これを取り次ぐことができないと言われるでしょうか。神があなたに対してお持ちになる愛は、限りがありません。御子に向かって、一つの言葉、一つの祈りを捧げるだけで十分です。御子は、なにも拒まれません。

ああ、マリアよ、祈ってください。私たちのために、祈ってください。祈ってください。そうすれば、あなたの願いは聞き入れられ、私たちは確かに救われるに違いありません。

マリアは、情け深い代願者であり、最もあわれな罪人をも弁護してくださる

私たちは、多くの理由から、私たちの愛深い元后を愛さなければならない。たとえ、全世界の人々がマリアを賛美し、説教のたびごとにマリアについて語り、すべての人がマリアに生命を捧げたとしても、マリアがすべての人、最もあわれな罪人に対してさえもお持ちになる、大変こまやかな愛に対して捧げる崇敬と感謝から見るならば、まだまだ不十分である。

謙遜の心から、イディタという名をとったサクソンの福者ヨルダノは、「マリアは、ご自分を愛する者を愛さないではいられない。その上、マリアは、ご自分に奉仕する者に奉仕なさるのである。もしも、彼らが罪人であれば、マリアは、その全能力をあげて、彼らのために、御子の御赦しをお求めになる」と言った。

彼は、さらに、次のように述べている。「マリアの仁慈と慈悲とは非常に大きい。したがって、どんなに救われにくいと思われる人も、その御足元にひれ伏してよりたのむことを恐れ、遠慮してはならない。なぜなら、マリアは、ご自分によりたのむものを、決して、お退けになることがないからである。。マリアは、たいへん愛深い代願者として、しもべたちの祈り、特にご自分に捧げられたしもべたちの祈りを神にお捧げになる。なぜなら、御子が、私たちのために御父に取り次ぐように、マリアは私たちのために御子に取り次ぎ、御父と御子とに対して、私たちの救霊の大問題について交渉し、私たちが願う恩恵をお取り次ぎになるからである」。

されば、シャルトル会士福者デニが、聖母マリアを、「迷う霊魂の唯一のよりどころ、不幸な者の希望、御元に逃れるすべての罪人の代願者」とお呼びしたのは至言である。

もしも、マリアの力は疑わなくても、そのあわれみに対する信頼を失い、罪があまりに大きいから弁護してもらえないのではないかと心配する罪人があるとしたら、このような罪人は、聖ボナヴェンツーラの次の言葉を聞いて、勇気を起こすべきである。「その祈りによって、御子から、望むことをすべて聞き入れていただけるというマリアの特権は、偉大な、比べるもののない特権である。けれども、もしも、マリアが、私たちのことを心配してくださらないならば、どんな有力でおいでになっても、何の役に立つだろうか。いや、いや、この点については、少しも疑ってはならないし、決して恐れてはならない。絶えず、主と御母に感謝しよう。なぜなら、マリアは神の御前にすべての聖人よりも力があると同時に、私たちにとって、最も親切な、最も熱心な代願者でいらっしゃるからである」。

聖人は、結論として、「ああ、私たちは、あなたが、私たちのために、愛と力とを、どれほどお用いになったかを、決して理解することができません」と叫んでいる。ですから、皆が、マリアのご配慮を受けるのであって、罪人でも除外されるのではない。しかも、マリアは、あわれな罪人を保護することを、光栄にお思いになる。

マリアは、ある日、尊者マリア・ヴァラニに「神の御母という名称の次に、私が、一番に光栄に思うのは、罪人の代願者という名称です」とお語りになっている。

福者アメデオは言った。「私たちの元后は、絶えず、神の御前で、その力ある祈りによって、私たちのために、お取り次ぎになるのである。マリアは、天国においでになっても、私たちのみじめさと、私たちの霊魂の要求とをよくご存じで、私たちに対して、同情のお心をお止めになることができない。善良と愛情とに満ち満ちた御心をもって、いつも、私たちを助けよう、救おうとお努めになる」と。

ですから、リシャール・ド・サン・ローランは、私たち各自に向かって、どんな罪深い者でも、いつも助けようと待ちかまえていられるこのやさしい代願者に、信頼をもってよりたのむようにすすめている。なぜなら、修道院長ジョフロアが言っているように、「マリアは、全世界のために、いつも、祈ろうと待ち望んでいる」からである。

聖ベルナルドは言った。「この世を旅する私たちは、天国に一人の代願者を持っている。それは、私たちの審判者の御母であり、あわれみの御母である。しかも、御母は、私たちの救霊の問題に、どれほど大きな関心を持ち、どれほど有効にこれを処理なさることであろうか」と。

聖アウグスティヌスは、聖母マリアが、神に向かって、どれほどの愛情と配慮とをもって、絶えず、私たちの罪を赦し、私たちをその恩恵をもって助け、危険から救い、私たちのみじめさを軽減するようにお祈りになるかを考えて、「ああ、マリアよ、すべての聖人たちのうちで、本当に私たちの面倒をお引き受けになるのは、あなただけです」とまで言っている。

この言葉は、次のような意味に解することができる。「ああ、聖母よ、天国のすべての聖人が、私たちの救霊を心にかけ、私たちのためにお祈りくださることは、一点の疑いもありません。けれども、あなたが、どれほどの愛と慈しみをもって祈り、神から多くのあわれみをいただいてくださるかを思うと、私たちは、天国にはただ一人の代願者しかいない、その代願者はあなたです、と申し上げなければなりません。あなただけが、本当に私たちを愛し、あなただけが、私たちの善をご配慮してくださいます」。

実際、マリアが、どんな配慮をもって、私たちのために、絶えず、神にお執り成してくださるかは、だれも理解できないほどである。聖ジェルマノは言った。「マリアは、飽くことを知らない熱意をもって、私たちを弁護される」と。

そうです、マリアが私たちのみじめさにお感じになる同情、私たちにお持ちになる愛は、本当に深く、私たちのために絶えず祈り、繰り返して祈り、あくことなくお祈りになって、神が私たちからすべての悪を遠ざけ、恩恵をもって私たちを満たすように、お取り次ぎになる。

聖ジェマルのが、マリアは飽くことなく、私たちに善をなす、と言ったのは、至言である。あわれな罪人である私たちが、もしも、この偉大な代願者、非常に有力で、慈悲深く、非常に賢明で、効果ある代願者を持たないとしたら、どんなに不幸であろうか。

リシャール・ド・サン・ローランによれば、私たちの審判者である御子は、マリアが弁護する罪人を地獄に落とすことができない。それゆえ、「幾何学者」と呼ばれたヨハネは、「めでたし、すべての紛争の仲裁者」と言った。

本当に、この叡知に満ちた代願者に弁護される訴訟は、必ず勝訴となる。されば、聖ボナヴェンツーラは、マリアを「賢明なアビガイル」と呼んでいる。アビガイルは、列王記1巻によれば、その雄弁な願いによって、ナバルに対するダビデの怒りを鎮めた婦人である。ダビデは彼女を誉め、彼女に感謝して、「私が私の手によって復讐することを妨げたあなたは、祝せられよ」(1列王記25・33)と言った。

さて、聖母マリアは無数の罪人のために、絶えず、このように執り成した。マリアは、その愛情のこもった、賢明な祈りによって、上手に、神の正義をやわらげた。それで、神は、罪人を放棄し、これに正義の罰を加えることを妨げたマリアを祝福し、感謝なさるのである。

聖ベルナルドが言うように、永遠の御父が、私たちのために、イエズス・キリストを第一の代願者と定めただけでは満足せず、マリアをその次に私たちの代願者と定めたのは、私たちに対して、できる限りのあわれみを施すためである。

言うまでもなく、聖ベルナルドが言っているように、権利から言うならば、イエズス・キリストが、神と人間との間の唯一の仲介者である。イエズス・キリストは、その御功徳によって、神の赦しと恩恵とを獲得することができるし、その御約束によって、これを望むことをお示しになった。

しかし、イエズス・キリストは神でおいでになるから、神としての尊厳を備えている。そして、この尊厳は、私たちに恐怖の念を与える。それで、恐れることなく、信頼をもってよりたのむことのできる他の代願者が必要であった。それは、すなわち、マリアである。

私たちは、神に対してこれ以上有力であり、私たちに対してこれ以上あわれみ深い代願者を見出すことはできない。だから、聖ベルナルドは、このやさしい代願者の御足元によりすがることを恐れるのは、マリアの慈しみに対して大きな侮辱であることを説いて、次のように言っている。

「自分の人間的弱さを思って、マリアによりたのむのを恐れる必要があろうか。マリアは、少しも過酷なところ、恐ろしいところのないお方である。マリアは、思いやり、親切、甘美の化身である。福音を初めから終わりまで読み、各項を調べてみるといい。もしも、どこかに、マリアの厳格さを記したところがあれば、マリアに近づくのを恐れることができるだろう」。しかし、そのような個所を見出すことはできない。したがってマリアによりたのむべきである。マリアは、お執り成しによって、私たちをお救いになるに違いないのである。

ギョーム・ド・パリが聖母マリアによりたのむ罪人に代わって唱えた次の祈りは、いかにも美しく感動的である。「ああ、私の神の御母よ、私は罪ゆえに、こんなに、みじめな状態に陥っています。しかし、私は、信頼して、あなたによりたのみます。もしも、あなたが私を退けるならば、私は、あなたに私を助ける義務があることを思い起させるでしょう。なぜなら、全教会は、あなたを、あわれみの御母と呼び、また宣言しているからです。ああ、マリアよ、神はあなたを非常に愛され、あなたの願いを、いつも聞き届けます。あなたの大きなあわれみは、誰にたいしても不足することはありません。あなたは、どんな大罪人も、あなたによりたのむならば、軽蔑することなく、親切にお迎えになります。ああ、全教会が、あなたを代願者、罪人のよりどころと呼ぶのは、あてにならない言葉でしょうか。いいえ、私の母よ、私の罪はどんなに重くても、あなたが尊いあわれみの役目を果たすことを、妨げることは決してありません。あなたは、この役目によってこそ、神と人間を和解させる代願者、仲介者であると共に、御子に次いで、私たちの唯一の希望、罪人の安全なよりどころです。あなたが持つすべての恩恵と光栄、神の御母の位さえも、いえば、罪人のおかげです。なぜなら、神の御子が人となられたのは、罪人のためだからです。世にあわれみの源を与えた神の御母が、どうして、あなたに祈るただ一人の罪人にあわれみを拒むことができるでしょうか。ああ、マリアよ、神と人とを和解させることは、あなたの役目です。ですから、あなたの大きなあわれみによって、すべての罪、すべての悪徳に限りなく越え、すぐれたあわれみによって、私を助けてください」。

最後に、ヴィルヌーヴの聖トマスとともに結論したい。「ああ、臆病な霊魂よ、安心しなさい。ああ、あわれな罪人よ、胸をなでおろし、勇気を取り戻しなさい。この尊い童貞、あなたたちの審判者である神の御母は、また、人類の代願者、有能な代願者であり、神の御前に、望むことはなんでもすることができます。そして彼女は叡知に満ちている代願者であり、神をなだめる方法を、全部ご存知です。普遍的な代願者であり、すべての人を受け付け、だれでも、その助けと支えを拒むことがありません」。

祈り 

私の救い主の尊い御母よ、私は長い間、神とあなたに対して、忘恩を続けました。ですから、あなたの配慮をいただく資格がありません。なぜなら、忘恩者は、恩恵を受ける資格がないからです。

しかし、ああ、私の元后よ、私は、あなたのあわれみを深く信じ、あなたのあわれみが私の忘恩よりもはるかに大きいことを強く信じます。罪人のよりどころよ、あなたによりたのむあわれな罪人を、絶えず助けてください。ああ、あわれみの御母よ、罪の淵に落ちて、あなたのあわれみを求める不幸な私に、御手を差し伸べてください。

ああ、マリアよ、あなた以上に私を弁護できる者を、私に示してください。しかし、私の母であるあなたほど、同情深く、神の御前に力ある者はいるでしょうか。あなたは、救い主の御母になることによって罪人を救う任務を受け、私の救霊のために私に与えられました。

ああ、マリアよ、あなたによりたのむ私を救ってください。私は、あなたの愛を受ける資格がありません。しかし、私は、滅びる者を救いたいというあなたの望みを思うとき、あなたが私を愛しておられることを確信します。さて、あなたが愛してくださるならば、どうして、滅びることができましょうか。

ああ、私の至愛なる御母よ、もしも、あなたによって、救われるならば、私は、そののちは、忘恩者にはならないでしょう。絶え間ない賛美と霊魂のすべての愛情をもって、過去の忘恩を償い、あなたが私に対して示された愛にこたえるでしょう。

あなたが君臨し、永遠に君臨する天国において、あなたのあわれみを歌い、罪を犯して地獄に落ちようとする度ごとに、私を救った慈悲深いあなたを絶えず崇めることは、なんと幸福だろう。

ああ、マリアよ、救い手よ、私の元后よ、代願者よ、私の母よ、私はあなたを愛します。あなたを愛し、死ぬまで愛することを望みます。アーメン。アーメン。私はこのように望みます。そうでありますように。

マリアは神と罪人との和解者である。

神の恩恵は、私たちの霊魂にとって、たいへん偉大で、望ましい宝である。聖霊は、これを限りない宝と呼んでいる。それは、私たちは、この恩恵によって、光栄にも、神の友情を受けることができるからである。

ですから、私たちの贖い主、私たちの神であるイエズスは、恩恵の状態にある人々を、その友とお呼びになった。「あなたたちは、私の友である」(ヨハネ15・14)と。

ああ、こんなにも美しい友情をさく罪はどれほど呪われるべきであろうか。預言者は言った。「お前たちの罪が神の御顔を隠させた」(イザヤ59・2)と。たしかに、霊魂に神の友情を失わせて、神との間に不和を起こし、神の御目に醜いものとする罪は、呪うべきである。

聖書には、「神は不信仰な人も、その不信仰な行為をも、同じく憎まれる。 」(知書14・9)とある。それで、不幸にも、神の嫌悪を招いた罪人は、どうすればよいであろうか。赦しを執り成して与え、失った神の親しみを回復させる仲介者を見出さないといけない。

聖ベルナルドは言っている。「あわれな罪人よ、あなたは神を失った。けれども安心するがいい。あなたの神は、御自ら、あなたに一人の仲介者をお与えになった。それは、あなたが望むすべてのものを執り成して与えることのできる御子イエズスである」と。

しかし、聖人は、すぐそのあとに、叫んで言った。ああ、天よ、人間は、どうして、彼らを救うために、生命を投げうったほど善良なこの救い主を、厳格なものと考えるのであろうか。限りなく愛すべきお方を、どうして、恐ろしいと思うのであろうか。罪人よ、あなたたちは、何を思って絶望し、だれを恐れるのであるか。

もしも、あなたたちの罪を恐れるならば、イエズスが、これを引き裂かれた御手をもって、十字架に釘付けたことを思え。イエズスは、その死により神の正義を満足させ、それによって、あなたたちの霊魂から罪を取り除かれた。

聖ベルナルドは、「彼らは、これほどあわれみ深いイエズスを、冷酷無情なものと考え、こんなにも愛すべき救い主を、恐ろしいと思ったのである。ああ、信仰の薄い者よ、あなたたちは、何を恐れるのであるか、彼は、ご自分の御手によって、あなたたちの罪を十字架に釘つけた」と感動的な言葉を発している。

聖人はさらに続ける。「あなたは、イエズス・キリストの神としての尊厳を見て恐れ、人間であるが、常に神であることを思って、この仲介者に対し、もう一人の仲介者を望んでいるのではなかろうか。それならば、マリアによりたのむといい。マリアは、あなたのために御子に執り成して、必ず聞き入れられ、御子は御父に執り成すに違いない。さて、御父は、この御子に対し、なにも拒むことができない」。

聖ベルナルドは、次のように結論している。「ああ、私の子供たちよ、マリアは罪人の梯子である。罪人は、マリアによって、神の恩恵に達するのである。マリアこそ、私のもっとも確実な信頼であり、私の希望の完全な基礎である」。

聖霊は、雅歌の中で、聖母マリアに次のように語らせている。「わたしは城壁、わたしの乳房は二つの塔。あの人の目には、もう、満足を与えるものと見えています。」(雅歌8・10)。マリアは、「私は、私によりたのむ者の保護者です。そして、私のあわれみは、避難の塔のように、彼らを守ります。それゆえ、私の愛する者は、私を、神と人間とを和解させる仲介者としました」と語った。

カルディナル・ユーグは、この言葉について、「マリアは偉大な和解者である。マリアは、神である御子に願って、神の敵たちには平和を、堕落した者には救いを、罪人には赦しを、絶望者にはあわれみをお与えになるのである」と述べている。

ですから、神である夫は、マリアの美をソロモンの宮殿に例えている。「あなたは、ソロモンの宮殿のようである」(雅歌)。さて、ダビデの宮殿では、戦いの叫びが響き渡っていたが、ソロモンの宮殿は、平和そのものであった。だから、聖霊は、この御言葉によって、このあわれみ深い御母は、決して、脅威と報復との言葉を発しないで、平和と赦しとの言葉だけを発することを示したのである。

ノアの鳩は、マリアのかたどりである。この鳩は、箱舟を出ると、神が人類に与えた平和の印であるかんらんの葉をくちばしにくわえて、帰ってきた。聖ボナヴェンツーラは、「ああ、マリアよ、この忠実な鳩はあなたです。あなたは、神に取り次ぎ、罪の洪水の中に呑み込まれた世界に、平和と救いとをお与えになった」と言った。

マリアは、滅びた世界に、あわれみのしるしであるかんらんの葉を持ってきた天の鳩である。実際、ある著述家が言ったように、私たちに、あわれみの源であるイエズスを与え、ついで、御子の御功徳によって、神が私たちに与えるすべての恩恵を獲得して与えたのは、マリアである。

聖エピファニオは、「あなたによって、天の平和は、私たちに与えられた」と言った。それゆえ、聖大アルベルトは、聖母マリアに語らせている。「私は、ノアの鳩です。教会にかんらんの葉、普遍的平和を持ってきたのは、私です」と。

これに劣らず明白なマリアのかたどりは、虹である。聖ヨハネは、これについて、「玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」(黙示録4・3)と記している。カルディナル・ヴィタリスが説明しているように、マリアは、常に、神の玉座をとりまいているこの虹のように、常に、至上なる審判者の法廷に立ち、罪人が受ける宣告と罰とを軽減される。神がノアに向かって、「私は雲の中に虹を置く。虹は、私と地との契約のしるしとなる。…私は、これを見て、永遠の契約を思い出す」(創世記9・31)と言われたとき、マリアを思い浮かべておられたのである。

シエナの聖ベルナルディノは、「マリアは、本当に、永遠の契約の櫃である。なぜなら、神は虹を見て平和の約束を思い出されるように、マリアの祈りによって、受けた侮辱を罪人にかえし、これと和解なさるのである」と言っている。

また同じ理由によって、マリアは月に例えられる。聖霊は、「彼女は満月のように美しい」(雅歌6・10)と言われた。実際、聖ボナヴェンツーラが説明しているように、「天と地との間に置かれた月は、天体から受ける光を、全部、地上の物体に送る。これと同じように、童貞である元后も、絶えず、神と罪人との間に立って主をなだめ、罪人を照らして、これを神の御元に連れ戻すのである」。

聖母マリアが地上におられたとき、託された主な役目は、恩恵を失った霊魂を助け起こして神と和解させることであった。「あなたの子山羊を飼いなさい」(雅歌1・8)。神は、マリアを創造したとき、こう言われた。子山羊は罪人のかたどりであり、ヨサファトの谷においては、羊によってかたどられた選ばれたものが審判者の右に置かれるに反して、彼らは左に置かれるであろう。

さて、修道院長ギョームは、「ああ、マリアよ、これらの子山羊は、あなたに託されています。あなたがこれを羊にお変えになるためです。罪によって、左に置かれるはずの彼らが、あなたの取り次ぎによって、右に置かれるためです」と言っている。

であるから、神は、シエナの聖女カタリナに、マリアを創造した理由を啓示して、「私は、この至愛なる娘を、人間、とくに罪人をとらえる餌として、私の愛に引き寄せるために、保留しておいた」とおっしゃったのである。

しかし、ここで、かの修道院長ギョームが上にあげた雅歌の言葉について行った美しい考察に注目する必要がある。彼は言った。「神は『あなたの子山羊』とおっしゃって、マリアに属する子山羊を彼女に託したのである」と。

なぜなら、至聖童貞マリアは、すべての罪人をお救いになったのではなく、ただ、マリアに奉仕し、マリアを敬う罪人だけをお救いになるからである。

これに反して、罪の中に暮らし、少しもマリアを敬わず、自分たちの悲しい状態から脱するために必要な助けを祈り求めることもしない罪人は、「子山羊」であるが、マリアの子山羊ではなく、審判の日には、滅びた者と一緒に左に置かれるのである。

一人の貴族がいた。この人は、ある日、自分の罪があまりにも大きいのを見て、絶望していた。ところが、ある修道士に、マリアによりたのみ、彼が指定した教会の聖母像の前に行って、祈るようにすすめられたので、そのすすめに従った。さて、聖母像が目に入るところまで行くと、マリアが、ご自分の足元にひざまずき、そして信頼せよ、とすすめるように思われた。彼は走りよって、御足元にひれ伏し、ご像の御足に接吻しようとした。すると聖母像が生きた者のようになり、御手をさしのべて接吻させた。その御手には、「私はあなたを追跡する者の手からあなたを救うだろう」と記されていた。この言葉は、「私の子供たちよ、絶望に陥ってはならない。私は、あなたたちの罪より起こる恐怖から、あなたを救うであろう」という意味である。あわれな罪人は、このやさしい言葉を読んで、心の中に、罪に対する深い悲しみと、神および聖母マリアに対する激しい愛を感じて、マリアの足元に息絶えたということである。

ああ、どれほど多くの頑迷な罪人が、毎日、この心の磁石によって、神に連れ戻されたことであろうか。聖母マリアは、聖女ブルジッタに向かって、「磁石が鉄を引き付けるように、私は、最も頑固な心も、引き付け、神と和解させます」と語られた。このような奇跡はまれではなく、毎日繰り返されている。

私たちの宣教会においてだけでも、たくさんの実例をあげることができる。実際、ある種の人々は、どんな説教を聞いても、鉄よりも頑固であったにも関わらず、聖母マリアのあわれみを称揚するのを聞いて、痛悔の心を起こし、神の御元に立ち帰ったのであった。

聖グレゴリオによれば、一角獣は、大変野蛮で、どんな猟師も捕らえることができないほどであるが、むくな若い娘の声を聞くと、おとなしくなり、近づいてきて、しばられるということである。ああ、神から逃げ回っていた野獣よりも野蛮な罪人の中で、童貞女の元后であるマリアの声を聞いて、そのそばに馳せ寄り、マリアのするままに、大人しく、主のくびきを受ける者が、どれほどの者がいるだろうか。

その上、聖母マリアが神の御母の位に上げられたのは、そのやさしいあわれみと、力ある取り次ぎによって、神の正義の法則から言うならば、その邪悪な生活のために、救霊を得ることができないこれら不幸な人々を救うためであった。

聖ヨハネ・クリゾストモは言った。「あなたは、永遠から、正義の神の御子が救うことができない人々を、あなたのあわれみによって救うよう予定されている」と。

聖アンセルモも「マリアは義人のためよりもむしろ、罪人のために神の御母となったのである。なぜなら、マリアの御子イエズスは『私が来たのは、義人を呼ぶためではなく、罪人を呼ぶためである』と断言したからである」と言っている。それで、教会は、聖母マリアをたたえて、「あなたは罪人を恐れません。なぜなら、罪人がいなければ、このような御子の御母であることができないからです」と歌うのである。

ギョーム・ド・パリは、もっと切実な言葉をもって、次のように、マリアに申し上げている。「ああ、マリアよ、あなたは、罪人を助ける義務をお持ちです。なぜなら、あなたの賜物、恩恵、栄誉など、一言で言えば、神の御母という崇高な位に含まれるすべてのことは、罪人のおかげだからです。あなたは、神人のおかげで、神を御子として持つのにふさわしい者となられました」。

聖アンセルモが結論しているように、マリアが罪人のために神の御母となられたとすれば、私の罪がどんなに大きくても、どうして、赦しを絶望することができるだろうか。

教会は、聖母被昇天の祝日の前日のミサで、マリアが天に上げられた理由を、私たちに示している。教会は祈る。「主よ、あなたが、この追放のこの世よりマリアを奪ったのは、たえず、確実に、あなたの恩恵と御あわれみとを、取り次がせるためです」と。

ですから、聖ユスチノは、マリアを偉大な仲裁者と呼び、「神の御言葉は、マリアを、仲裁者として用いられる」と言っている。さて、仲裁者とは、訴訟のとき、双方の全部の言い分を委託される人である。イエズス・キリストが、御父の御元での仲介者であるように、マリアは、イエズス・キリストの御元で仲介者である。それで、イエズスは、審判者として私たちに対して持たれる訴訟理由を、全部、マリアに委託なされるのである。

クレタの聖アンドレアも、マリアを、神と私たちとの和解の担保とお呼びしている。聖人は言った。「神は、マリアを、ご自分と私たちの和解の担保となさった」と。これは、「神は、罪人を赦すことをお望みになるだけでは満足なさらない。彼らが、神のあわれみを疑うことができないように、マリアを担保としてお与えになったのである」という意味に解することができる。それで、聖人は、聖母マリアに向かって、「めでたし、神と人とを和睦される方」と申し上げている。

聖ボナヴェンツーラは、あわれな罪人を励まして、「神があなたの罪を怒って、あなたに復讐する恐れがあるなら、どうすればよいであろうか。そのときは、罪人の希望である聖母マリアによりたのむべきである。そして、マリアが、あなたについて関心を示されないのではないかと疑うなら、マリアはあなたの弁護を拒むことができないことを思わないといけない。なぜなら、神がマリアに託された任務は、あわれな罪人を救うことだからである」と言っている。

さて、ペルセニュの修道院長アダムが叫んでいるように、神であられる審判者の母が、私たちの母となり弁護者となってくださるのに、どうして滅びる恐れがあろうか。アダム修道院長は、マリアに向かい、次のように申し上げている。「あわれみの御母でおいでになるお方よ、あなたは、審判者でおいでになる御子に、罪人であるもう一人の子供のために祈ることをお拒みになることができるでしょうか。罪人を救うために十字架上でご死去になった贖い主に向かい、贖われた霊魂のために取り次がないでいられるでしょうか。いいえ、そういうことはありえません。あなたは、常に、あなたに祈り求める人々のために、心の底から祈られます。なぜなら、あなたもご存知のように、御子を神と人との和解の仲介者とお立てになった神は、あなたを審判者と罪人との間の赦しの仲裁者として、お立てになったからです」。

聖ベルナルドは、「であるから、あなたに、このような仲介者をお与えになった御者に、感謝を捧げないといけません」と結論している。罪人よ、あなたは、どんなに大きな罪人であり、どれほど深く悪にはまり込み、どんなに頑迷であっても、絶望してはならない。むしろ、主に感謝すべきである。主が、あなたにあわれみを施したいとお考えになって、御子イエズスを弁護者としてお与えになったのは、あなたに勇気と信頼とを鼓吹するとともに、その祈りによって望むものを、すべて獲得することができる仲介者を、あなたに与えるためである。では、マリアの御足元に行って、その御助けを切に願え。そうすれば、救われるであろう。

祈り

ああ、たいへんやさしい元后よ、あなたの役目は、仲介者として、人間と神との仲を取り持つことです。ですから、私たちの代願者よ、私に対しても、御あわれみの役目をはたしてください。

私を弁護することは、あまりに困難だと、仰せになりませんように。なぜなら、どんなに絶望的な訴訟も、あなたの御手を経るならば、決して敗れることがないことを、私は知っているからです。

私だけが滅びることがありましょうか。ああ、私は、そんなことを恐れません。私は、私の罪が多いことを思うとき、あなたが弁護をお拒みになるのではないかと恐れる訳ではありません。

私は、あなたの限りないあわれみと、どんな絶望的な罪人をも助けたいと熱望するあなたのみ心を思うとき、私は、もはや、何も恐れません。あなたによりたのんで、滅びた者があるでしょうか。ああ、偉大な代願者よ、私はあなたを、自分の救い、よりどころ、希望、私の母マリアと、呼びます。

あなたの御手に、私の永遠の救いをお任せし、そして私の霊魂をゆだねます。私の霊魂は、滅びていました。これを救うのはあなたです。このような大きな信頼を、私に吹き込んでくれたことを、絶えず、主に感謝します。なぜなら、私は、いやしいものではありますが、この信頼によって、天に達することができると信じるからです。

ああ、私の至愛なる元后よ、私は、ただ一つのことを恐れます。それは、あなたに対して信頼を失うことです。ですから、ああ、私の母よ、あなたがイエズスに対して持たれる愛によって、私の内に、あなたの取り次ぎによって、神の恩寵を確かに回復することができるというたのもしい信頼を保ち、そして増やしてもらえることを願います。

私は、過去において、この神の寵愛を、おろかにも軽蔑し、失いました。けれども、こんど回復したら、あなたの御助けによって、完全に保つことを望みます。そして、これを保つならば、あなたによって、天国に到達でき、永遠にあなたに感謝することを望みます。アーメン。私は、このように望みます。そうであるように、いつの日か、こうなることを信じます。

あわれみの御眼をもって私たちを顧みてください。

マリアは私たちのみじめさを見て、これに同情し、これを軽減してくださる 

聖エピファニオは、神の御母を、「百眼婦人」とお呼びした。これは、マリアが、地上に嘆き悲しむ私たちを助けるために、全身を目にして、私たちのみじめさを、ご覧になってくださることを意味している。

ある日、悪魔つきから悪魔をはらうときに、司祭は聖母マリアは何をなさるか、とたずねた。すると、悪魔は「くだって昇る」と答えた。これは、私たちのいつくしみ深い元后は、人間に恩恵を与えるためにくだり、私たちの貧しい祈りを聞き入れてもらうために、これをたずさえ、天にお昇りになるという意味である。

それで、アヴェリノの聖アンドレアが、聖母を、「天国の多忙者」とお呼びしたのは、実に理由あることである。なぜなら、聖母マリアは、絶えず、あわれみの業に従事なさり、義人と罪人との別はなく、すべての人に恩恵を取り次いで、与えてくださるからである。

ダビデは、「主の御目は、義者を眺める」と言った。しかし、マリアの御目は、リシャール・ド・サン・ローランが言ったように、義人も罪人もごらんになる。それと言うのも、マリアの御目は、母の目だからである。さて、母は子供が倒れるのを防ぐために、これをご覧になるだけではなく、もしも倒れたなら、助け起こすためにも、見るのである。

イエズスは、このことを聖女ブリジッタに理解させるために、ある日、ご自分と聖母マリアとの会話をお聞かせになった。イエズスは仰せられた。「御母よ、お望みは何でも言ってください」と。この言葉は、イエズスが天国で、常にマリアに仰せられる御言葉であって、イエズスは、愛する御母が願うことをすべて喜んでお聞き入れになるのである。さてマリアはどのようにお答えになったであろうか。聖女ブリジッタは、マリアが「あわれな罪人たちのために、御あわれみをお願いします」と答えるのを聞いたのであった。

この言葉は、次のように解することができるであろう。「私の子よ、あなたは、私をあわれみの母、罪人のよりどころ、あわれな人々の代願者としてくださいました。今また、欲しいものはなんでも願うようにとのことです。けれども、私は、あなたが、あわれな人々に、あわれみをお与えになること以外に、何を望むことができましょう。ですから、彼らのために、あわれみをお願いします」。

聖ボナヴェンツーラは、愛情をこめて、聖母に申し上げている。「ああ、マリアよ、あなたは、このように、あわれみに満ちて、あわれな人々を助けようと心掛け、彼らを助けること以外には、お望みを持たず、ご配慮をなさらない」と。

さて、罪人のみじめさは、他のどんなみじめさにもまさるのであるから、尊者ベードが言っているように、マリアは、絶えず御子の玉座の前に立ち、絶えず、罪人のためにお祈りになるのである。

聖エロニモが言うように、マリアは、すでに地上でのご生涯の間、人間に対して非常に同情深く、愛深いみ心をお持ちになっていたのであって、だれでも、この善良な御母が、他人の苦しみをお忍びになったほど、苦しみを忍んだ人はいなかったのである。

そして、マリアは、私たちが前に述べたカナの婚礼での奇跡で、このご同情の非常に美しい証拠をお示しになったのであった。ぶどう酒が足りなくなった。マリアは、シエナの聖ベルナルディノが言うように、頼まれてもいないのに、自分から、この愛深い慰め手の役目をお引き受けになった。マリアは、新夫婦の苦しみに対する同情から、御子に取り次ぎ、御子から、水をぶどう酒に変えるという奇跡を行ってもらったのであった。

聖ペトロ・ダミアノは、マリアに向かって、「ああ、至福なる童貞よ、天の元后の位に上げられている今、あなたは、この世で嘆き悲しむ私たちを、お忘れになったのではないでしょうか。いいえ、こんな考えを、だれも、決して抱いてはいけません。なぜなら、こんなにも大きいあわれみが、こんなに大きいみじめさをお忘れになることはできないからです」と申し上げている。

マリアの御心に、これほど同情があるのは、私たちのみじめさのように深刻なみじめさを忘れるためではないのである。「名誉は品行をかえる」ということわざは、マリアに適用することができない。このことわざは、世間には通用する。なにかの位にのぼったのちには、傲慢になって、貧乏の中にある昔の友を忘れてしまうものが、どれほどあることであろうか。

しかし、マリアは、不幸な人たちを助けることができるのを思って、高い位に上げられたことを喜ぶのである。「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」(ルツ3・10)。聖ボナヴェンツーラは、ルツに向かって発せられたこの言葉を、マリアに適用して、「マリアが、この世に生活している間、不幸な人たちに注いだあわれみはさらに大きい。けれども、至福なる童貞が天に君臨する今、そのあわれみはさらに大きい」と言った。

聖博士は、その理由を述べて、次のように言っている。「神の御母が、現在、私たちのために取り次いでくださる無数の恩恵によって、さらに多くのあわれみをお示しになることができるのは、今は、私たちのみじめさを、もっとよくご存知だからである。太陽の輝きが月の輝きにまさるように、マリアの栄光の住み家で私たちのためにお感じになる同情は、地上でのご生涯の間にお感じになった同情にまさる。この世に生きている者で、太陽の光明を楽しむことのできない者があるだろうか。マリアのあわれみの輝きに接することのできない霊魂があろうか」。

ですから、マリアが太陽に例えられるのは、本当に理由のあることである。聖霊は、「彼女は、太陽のように輝く」(雅歌6・10)と仰せられた。この太陽の光線は、だれかれの別なく注がれるし、また、聖ボナヴェンツーラが言っているように、「だれもその熱から逃れることができない」。

聖女アグネスは、天からくだって、聖女ブリジッタに、次のように語った。「私たちの元后は、栄光のうちに、その御子と一致していられる現在も、あわれみを失うことができません。このあわれみは、私たちの元后にとって、きわめて自然なものです。それで、そのあわれみを、すべての人に、最も邪悪な罪人にでも、施してくださるのです。マリアのやさしさは、天上地上のすべての物体を照らす太陽のように、すべての人に感じられますし、マリアの御助けを求める者は、神のあわれみにあずかるのです」。

スペインのヴァレンチア王国に、まったく絶望的な大罪人があった。この人は、警察の手に捕らえられないように、マホメット教徒になろうと決心した。船に乗ろうとして、船着き場に行く途中、とある教会の前を通りかかった。ちょうどそのとき、イエズス会のエロニモ・ロペズ神父が、その教会で説教していた。説教の題は、神のあわれみであった。この罪人は、ロペズ神父の説教を聞いて改心し、告白するために神父のもとに行った。神父は、彼に、「あなたが、このように、神の御あわれみを受けることができたのは、どんな信心を行ったためですか」とたずねた。罪人は、「私は別に信心というものを行ってはいません。ただ、毎日、聖母マリアに向かって、私を見捨てないでください、と祈っていただけです」と答えた。

同じロペズ神父は、ある病院で、55年間告白したことがなく、信心としては、マリアのご像を見ると、これにあいさつし、大罪の状態で死ぬことを免れさせてくださるように祈る習慣しか持っていなかった罪人にあった。この点について、罪人は、あるけんかのとき、自分の剣がおれたので、聖母に向かって、「ああ、私は死んで、地獄へ行きます。罪人の母よ、私を助けてください」と叫ぶと同時に、どうしたことか、安全なところに運ばれていた、と物語った。それから、病人は総告白し、信頼に満ちて死んだのであった。

聖ベルナルドは言った。「マリアは、すべての人に対してすべてとなり、すべての人に、そのあわれみの胸をお開きになる。そのいつくしみがすべての人に注がれ、奴隷は自由を、病人は健康を回復し、悲しめる人は慰めを、罪人は赦しを受けるためである。この太陽の有難い光線に浴しない人はいないし、神さえも、そのため、多くの光栄を受けるのである」と。

聖ボナヴェンツーラは叫んでいる。「この最も愛すべき御母を愛さない者があるだろうか。マリアは太陽よりも美しく、蜜よりも甘味である。マリアはいつくしみの宝庫であり、すべての人に対して非常に愛深く、たいへんやさしく、また、非常に優美である。ああ、私の元后よ、私の母よ、私の心よ、私の魂よ、私は、あなたを崇めます。ああ、私があなたに向かって、『私はあなたを愛します』と申し上げるのを許してください。なぜなら、私はあなたを愛する価値のない者ですが、あなたは、私より愛される価値のあるお方だからです」と。 

聖女ジェルツルダは、啓示によって、次のことを知った。すなわち、聖母マリアに向かい、信心をもって、交誦「元后あわれみ深い御母」の、「ああ、私たちの代願者よ、あわれみの御眼をもって私を顧みてください」という句を唱えるとき、聖母マリアは、このようにご自分に祈る人の祈りを聞き入れずにはいられない、ということがそれである。

聖ベルナルドは言った。「あなたの限りない御あわれみは、地上に満ちている」と。聖ボナヴェンツーラは、次のように断言している。「この愛深い御母は、すべての人に善をなしたいという熱望にかられているので、実際に人々から侮辱されるときだけでなく、人々がご自分に少しも恩恵を求めないときも、気を悪くなさるのである」と。聖人はまた、「ああ、私たちの元后よ、あなたを侮辱するものだけでなく、あなたに何も願わない者も、あなたに対して罪を犯すのである」と言っている。

聖イルドベルトは結論して言った。「ですから、ああ、マリアよ、あなたは、私たちに、分を越えた恩恵を希望するようにと教えます。なぜなら、あなたは、はるかに私たちの分を越える恩恵を施して止むことがないからです」と。

預言者イザヤは、贖いの大業において、不幸な人間の前に、あわれみの玉座がつくられることを預言して、「そのとき、ダビデの幕屋に、王座が慈しみをもって立てられた」(イザヤ16・5)と言った。この玉座とは、果たしてなんであろうか。聖ボナヴェンツーラは答えている。「それはマリアである。なぜなら、マリアに近づくならば、義人も罪人も、慰めとあわれみとを見出すからである。主のあわれみが限りないものであるように、聖母マリアの御あわれみも、限りないものである。そして、御母も御子も、祈り求めるものに、あわれみを拒むことができないのである」と。

修道院長ゲリックは、イエズスが聖母に仰せられるのを聞いた。「母上よ、私は、あなたのうちに、玉座を置き、人々が私に求める恩恵を、あなたを通じて与えましょう。あなたは、私に、人間としての存在を与えました。それで、私は、あなたに、私の神的存在のいくぶんかを与えるために、私の全能を与えましょう。あなたが、望み通りの人を助け、救うことができますように」と。

ある日、聖女ジェルツルダが、前に述べた、「あわれみの御眼をもって、私を顧みてください」という祈りを、深い信心をもって唱えていると、マリアは、幼いイエズスを御腕に抱いて現れ、「これが、いとあわれみ深い眼です。私は、私に祈る者を救うため、彼らの上に、この眼を注がせることができるのです」と仰せられた。

ある罪人が、聖母マリアのご像の前にひれ伏して、神の御赦しを取り次いでくださるように祈っていた。涙にくれていると、聖母マリアが、御腕にお抱きしているイエズスに、「私の子よ、この涙は無駄になるのでしょうか」と申し上げるのが聞こえた。それと同時に、イエズスが自分の罪を赦してくださったのを悟ったのであった。

このあわれみ深い御母に哀願するものが、どうして、滅びることができようか。イエズスは、マリアに対する愛のために、マリアに祈る人々には、マリアの望み通りのあわれみを施すと、神にかけてお誓いになったではないか。

聖女ジェルツルダは、これを啓示された。すなわち、聖女は、イエズスはマリアに向かって、「ああ、至愛なる御母よ、私は、私の全能により、信心をもってあなたの名を呼び、必要な助けを、あなたの慈しみを求めるすべての罪人に、望み通りに、恩恵とあわれみとをほどこす権利を与えました」と仰せられるのを聞くことができたのであった。

それゆえ、ペルセニュの修道院長アダムは、聖母マリアが神から受けている大きな信用と、私たちに対する愛深い関心とを思い、信頼に満ちて申し上げた。「ああ、あわれみの御母よ、あなたの慈しみは、あなたの力に匹敵します。そして、私たちのために赦しを願うあなたの愛徳は、これを受ける信用に匹敵するのです。それに、あわれみの御母でおいでになるあなたが、あわれな罪人に同情なさらないことがありえるでしょうか。全能の御母でおいでになるあなたが、彼らを救えないわけがありえましょうか。ああ、あなたにとって、私たちのみじめさが、あなたに求めているものを知ることと、望み通りのものを獲得することとは、どれも容易なことです」と。

修道院長ゲリックは叫んでいる。「ああ、偉大な元后よ、御子の光栄を飽食してください。そして、あなたのしもべ、あなたのあわれな子供である私たちのために、私たちの功徳によってではなく、あなたのあわれみによって、天の食卓のくずを、この世に送ってください」と。

もしも、罪を思って信頼が動揺する場合には、ギョーム・ド・パリと共に言おう。「ああ、私の元后よ、私の罪を引き合いにお出しになっても、無益です。なぜなら、私は、あなたのあわれみを引き合いに出すからです。私の罪があなたのあわれみに匹敵することは決してありません。私の罪が私の滅びを招く力よりも、あなたが赦しを求める力の方が大きいからです」と。 

祈り 

ああ、至聖童貞よ、被造物のうちで、最も尊く、最も崇高なお方よ、私は追放の地から、あなたに向かって祈ります。私は、不幸にも神に反抗したあわれな罪人であって、恩恵ではなく罰を、やさしい慈悲ではなく厳しい裁きを、受けなければならない者です。

ああ、私の元后よ、私がこのように祈るのは、あなたの善良を疑うからではありません。なぜなら、あなたは、高い位にのぼればのぼるほど、やさしさと同情とを増してくださるからです。あなたが多くの富を所有することをお喜びになるのは、困難にあえぐ私たちにこれを分けることができるからです。あなたは、あなたに祈るものが貧しければ貧しいほど、これを保護し、これを救おうと心掛けてくださいます。

ああ、私の母よ、あなたは、かつて、私のために死なれた御子のご遺骸の上に、涙を注がれました。どうか、この涙を神に捧げてください。そうすれば、神はこれをご覧になって、私に、罪に対する深い痛悔をお与えになるにちがいありません。ああ、その時、罪人は、どれほど、あなたを苦しめたことでしょう。私自身も、邪悪な大罪によって、どれほど、あなたを悲しませたことでしょう。

ああ、マリアよ、せめて、今日から、私の忘恩によって、あなたとあなたの御子とを悲しませることを止めさせてください。もしも、不忠実に陥って、滅びることがあるならば、あなたのご慈悲も、何の役に立つでしょうか。ああ、私の元后よ、このようなことを許さないでください。あなたは、あなたに祈るすべての人の願いを聞き入れ、足りないところを補い、あなたが望むものを神から獲得することができます。私は、二つの願いを捧げます。一つ目は、この後神に背くことなく忠実を尽くすこと。もう一つは、この身が終わるまで神を愛して、私の罪を償うことです。 

この追放が終わった後に、尊いイエズスを私たちに示してください

マリアはそのしもべを地獄から救ってくださる

マリアを忠実にあがめ、これによりたのむ忠実なしもべは決して滅びることがない。この命題は、一部の読者には、一見、あまりにも危うい命題のように見えるかもしれない。しかし、私は、彼らに、私の説明を聞かないで、この命題を放棄することがないようにお願いしたい。

マリアのしもべが滅びることは不可能であると断言するとき、マリアに対する信心を行っていれば、どんなに罪を犯しても救われるというのではない。それで罪人に対するマリアの仁慈を称揚しすぎると、罪人はこれを乱用して、ますます罪を犯すに違いないと言って私を責めるものがいるが、これは正しくない。

なぜなら、私たちもまた、このような人々は、その恥をしらない信頼のため、あわれみではなく、罰に値するものとなることを認めるからである。

私たちがここで言っているのは、忠実に神の御母をあがめ、これに祈るとともに、悔悛したいと望んでいるしもべのことである。このような人々が滅びることは、倫理的に言って、不可能なことである。

この考えは、クラッセ師がその「マリアに対する真の信心」のなかで述べた考えである。また、彼よりはるか以前に、ヴェガは、その著「マリア学」のなかでこれを説いており、メンドーサ、および、その他の神学者も、これを説いているのである。彼らが、軽率にこんな主張をしたのではないことを立証するために、この点に関する博士たちと聖人たちの説くところを調べてみたいと思う。

私が、似かよった証言を多く引証するのを見て、驚いてはならない。これらの証言を一つも省略したくなかったのは、この点に関し、著述家たちが、どれほど一致しているかを示したかったからである。

聖アンセルモの考えは、次の通りである。聖人は言った。「ああ、祝せられたる童貞よ、あなたから遠ざかり、あなたが目をおそらしになる人々が救われることは不可能です。それと同じように、あなたによりすがり、あなたが愛の眺めをお注ぎになる人々が滅びることは、不可能です」と。

聖アントニオも、これに同意し、ほとんど同じ言葉をもって断言している。「マリアが、そのご慈悲の御目をそらされる人々が救霊を得ることは不可能である。これと同じように、マリアの御目を引き付け、その取り次ぎを求める人々が救われて、他日、天の栄光を楽しむことができることも、確実である」と。すなわち、聖アントニオは、聖アンセルモの考えをさらに強めて、マリアのしもべは、必ず救われると主張しているのである。

ここで、注意しなければならないのは、二聖人の言葉の始めの部分である。神の御母に対する信心を尊重せず、これをなおざりにする人々は、身震いしないといけない。二聖人は、マリアのご保護を受けない人々の救霊は不可能であることを断言しているからである。

その上、この同じ真理は、他の多くの聖人たちによって証言されている。例えば、聖大アルベルトは、「ああ、マリアよ、あなたに奉仕しない者は滅びるでしょう」と言い、聖ボナヴェンツーラは、「マリアに奉仕することを怠る者は、罪の中に死ぬだろう」と言っている。また彼は、「ああ、聖母よ、一生の間、あなたをお呼びしなかった者は、決して、天国に入ることができないであろう」と述べ、他の箇所では、「ああ、童貞よ、あなたが目を背ける者があれば、この人は、救霊を得る望みがありません」とまで言っている。

彼よりはるか以前に、殉教者聖イグナチオは、罪人は聖童貞の助けがなければ救われることができない。これに反して、神の正義によって滅ぶべき人々のうち、マリアの慈悲深い執り成しによって救われる者が多い、と述べている。聖人は言った。「ああ、祝せられた童貞よ、どんな罪人も、あなたの親切と助けによらなければ救われることができません。なぜなら、神の正義が救えない人々を、あなたの限りないあわれみは、彼らを、取り次ぎによって救うからです」と。

セル修道院長も、これと同じ考えを抱いていた。そして、教会も、「わたしを見失う者は魂をそこなう。わたしを憎む者は死を愛する者」 (箴言8・36)という箴言の言葉を、上の意味で、マリアに適用している。また、「商人の船のように、遠くからパンを運んで来る」(箴言31・14)という箴言の他の言葉において、マリアは船に例えられている。リシャール・ド・サン・ローランは、この言葉について、「この世の海は、マリアが収容しない者、救いの箱舟の外にある者を、残らず呑み込むであろう」と言った。

異端者エコランパートさえも、神の御母に対してわずかな信心しかもっていないことを、滅びの明らかなしるしと見ている。彼は言っている。「私は、決してマリアに反抗するような言葉を発しないだろう。なぜなら、マリアに対する衰えた信心は、私の見るところ、滅びの明らかなしるしだからである」と。

これに反し、マリアに切願し、その御勧めに聞き従う者は幸いである。聖母マリアは、ご自身、「わたしに従う者は辱めを受けず、わたしの言うことを行う人は罪を犯さない」 (集会24・22)と仰せられる。聖ボナヴェンツーラは、「そうです。ああ、私たちの尊い元后よ、あなたによく仕えようと努める者は、滅びから遠い」と言った。

しかも、過去において、神に対し罪を犯していてもそうである。聖ヒラリオは、「マリアのしもべは、たとえ罪人であったとしても、決して、永遠に滅びるようなことはないであろう」と言っている。であるから、悪魔は、罪人に、神の恩恵を失わせた後、聖母マリアに対する信心をも失わせようと、全力を尽くすのである。

サラは、イサクが、悪い習慣を教えるイシュマエルと遊ぶのを見て、アブラハムに向かい、イシュマエルばかりではなく、その母のハガルまで追い出すように願って、「この下女と息子を追い出せ」と言った。サラにとって、息子を追い出しただけでは満足できなかった。母親も追い出さなければ腹の虫がおさまらなかったのである。その訳は、息子は母親に会うためと言って、家に通ってくるに違いないと、考えたからであった。

これと同じように、悪魔も、イエズス・キリストを霊魂から追い出したばかりでは満足せず、御母も追い出そうとするのである。そうでなければ、マリアが、その執り成しによって、御子を霊魂に連れ戻すおそれがあるからである。悪魔のこの心配はもっともである。なぜなら、博学なパチウッチェリ師が言うように、「神の御母に対し、堅忍して奉仕する者は、遠からず神ご自身を受け入れるに違いないからである」。

聖エフレムが、聖母マリアに対する信心を「自由の憲章」、地獄に落ちないための旅行免状、とお呼びしたのは、本当に理由あることである。聖人は、聖母マリアを、「滅びた者の保護者」とまでお呼びしている。

聖ベルナルドの教えを思い出そう。マリアは私たちを救うために、力も、善意も十分にお備えになっているのである。聖アントニオが断言しているように、「神の御母が聞き入れられないことは、ありえないからである」。

聖ベルナルドも「マリアは探すものを見出す。マリアは拒絶にお会いになることがない」と言っている。マリアが願って、聞き入れられないということはなく、望むものを全部獲得することができる。

マリアは、また、私たちを助けたいという善意を十分にお持ちになる。なぜなら、マリアは私たちの母であり、私たち自身よりも熱く、私たちの救霊をお望みになるからである。

以上述べたことが真実ならば、マリアのしもべが滅びるということが、ありえるだろうか。「そのしもべは罪人ではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、たとえ罪人であっても、この善良な御母に祈り続け、それと同時に改心する意志を持てば、マリアは彼に光明を取り次いで与え、彼をそのあわれな状態から救い出し、罪を痛悔させ、善に堅忍させ、ついには、善い死をとげさせてくださるのである。

自分の息子を死から救うには、ただ裁判官に願いさえすれば十分であるというのに、これを助けるのを拒む母親があるだろうか。ご自分に仕える者に対して、たいへん愛深いこの母が、簡単に救うことができる自分の子供の一人を放置して、永遠の死に至らせるというようなことは、考えられないことである。

敬虔な読者よ、主が私たちに天の元后に対する愛と信心とをお与えになったことを感じるならば、主に感謝しよう。なぜなら、聖ヨハネ・ダマセノによれば、神は救おうとお望みになる者にだけ、このような恩恵をお与えになるからである。聖人は、次のような美しい言葉でもって、自分の希望と私たちの希望とを励ましている。「ああ、神の御母よ、私は、あなたに信頼すれば救われるでしょう。あなたの御保護のもとにあるならば、なにも恐れる必要はありません。なぜなら、あなたは献身的にご配慮してくださるからです。この献身的配慮は勝利を確かめる武器であって、神は、救おうとお望みになるものにしか、この武器をお与えになりません」。

それで、エラスムスは、聖母マリアに向かって、「めでたし、ああ、地獄の恐怖よ、キリスト教徒の希望よ、あなたに対する信頼は、救いの保証です」と言っている。

悪魔は、ある霊魂が、神の御母に対する信心を、堅忍をもって続けるのを見る時、どんなに不快を感じることであろうか。

マリアの偉大なしもべ、アルファンソ・アルヴァレズ神父の伝の中に、次のような話がのっている。ある日、神父は、念祷の間、例のとおり悪魔の攻撃を受け、貞潔に反する誘惑を、いっそう激しく感じたが、そのとき、悪魔は神父に向かって、「マリアに対する信心をやめろ、そうすれば、誘惑はやめてやる」と言ったとのことである。

ルイ・ド・ブロアの伝えるところによれば、主は、シエナの聖女カタリナにマリアの子なるその御独り子にめんじて、この至聖なる童貞に信心深く祈る罪人は、一人も地獄の餌食にはしないとお定めになったことを啓示された。

すでに預言者ダビデは、マリアに対する愛を引き合いに出して、地獄に陥らせないよう、神に願っている。「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。 わたしの魂を罪ある者の魂と共に、取り上げないでください」と(詩編26・8、9)。ダビデが、「あなたのいます家」と言うのは、マリアは、神がご托身の日、この世においでになったとき、お選びになった住み家であり、いこいの場所であったからである。聖書には、「知恵は家を建て」(箴言9・1)と記されている。

殉教者聖イグナチオは言った。「いいえ、神の御母至聖童貞に奉仕するよう努める者は、決して滅びないだろう」と。聖ボナヴェンツーラも、同じ考えを述べて、「ああ、マリアよ、あなたの忠実なしもべたちは、この世において、どんなに大きな平和を楽しむことであろうか。なぜなら、来世において、永遠の死から免れることを知っているからです」と言った。

敬虔なルイ・ド・ブロアが言うように、「マリアの敬虔で謙遜なしもべが、永遠に滅びることは、決してなかったし、今後もないだろうし、またありえない」。

「ああ、もし、マリアが、御子からあわれみを取り次いで、与えなかったならば、すでに地獄に落ちているに違いない霊魂、あるいは、頑固にも罪に陥っている霊魂が、どれほどあるであろうか」。これは、トマス・ア・ケンピスの言葉である。

また大罪の状態で死亡したもので、マリアの執り成しによって、その宣告を猶予され、償いを果たすために、地上に帰ってきた霊魂が多いということは、多くの神学者、特に聖トマスの意見である。慎重な著述家たちでさえ、そのような実例をいくつかあげている。

なかでも、10世紀の著述家であるフロドアールの物語るところによれば、アデルマールと呼ぶヴェルダンのある助祭は、みなが死去したと思って葬ろうとしているとき、よみがえった。彼は、宣告によって自分が罰を受けるべき地獄の場所を見せられたら、至福なる童貞の祈りのおかげで、償いを果たすためにこの世に送り返されたと語った。

またスリウスは、聖母マリアが、アンドレアというローマ人に、罪の赦しを受けるために、よみがえる恵みを求めて与えた、と言っている。パルバールは、さらに驚くべき事件を伝えている。彼の時代に、皇帝シギスモンドの軍隊が、アルプス山を越えたとき、ただ骸骨しか残っていない死体を発見した。ところが、その死体が突然声を出して聴罪神父を求め、自分は軍隊生活中聖母マリアに対して、あつい信心を持っていたので、告白するまでは、骸骨となっても生きている恵みをいただいたと語った。それから告白をすませて死んだのであった。

言うまでもなく、罪の中に死んでも、地獄から救われるに違いないと考え、以上の人たち、あるいは他の人たちをまねて、邪悪な生活を続けるようなことがあってはならない。なぜなら、マリアの御執り成しにより死を免れることができると考えて、井戸の中に飛び込むことは、非常に愚かなことであるが、聖母マリアが地獄から救ってくださると考えて、罪のうちに死ぬ危険を犯すのは、さらに愚かなことだからである。

むしろ、私たちは、上にあげた実例を読んで、神の御母に対する私たちの信頼を深めるべきである。実際、マリアは、その 御執り成しによって、罪のうちに死んだ者でも、地獄から救うことがおできになった。

したがって、生きている間、改心したいという善意をもってその御助けを哀願し、忠実にマリアに仕えるものを、地獄からお救いになることができるのである。

されば、聖ジェルマノと共に、言おう。「ああ、私たちの母よ、至聖童貞よ、ああ、キリスト者の生命よ、私たちはどうなるのでしょう。私たちは罪人です。けれども、改心したいと望み、あなたにお願いします」。

聖アンセルモは、私たちに向かって、「マリアに、だだ一度でも、とりなしてもらった者は、永遠の呪いの宣告を聞くことはないでしょう。いいえ、あなたが一度でも御子に執り成した者は、滅びることはないに違いありません。ですから、ああ、聖母よ、私たちのために祈ってください。そうすれば私たちは、地獄から逃れることができます」と語っている。

リシャール・ド・サン・ヴィクトルは、「ああ、あわれみの御母よ、もしも、あなたが、私を弁護してくださるならば、私は、神の裁きの庭に立つとき裁判官のご愛顧を受けるに違いありません」と言っている。

福者ヘンリコ・スゾーは、マリアの御手に自分の運命を託するという誓願を立てていた。彼は、もしも地獄行きの宣告されることがあるならば、神に向かい、その宣告を、マリアの御手を経て、お下しになるよう願うつもりである、と言っていた。「もしも、私の裁判官が、そのしもべである私に、地獄を宣告したいとお考えになるなら、ああ、マリアよ、あなたの慈悲深い御手にその宣告文をお渡しくださいますように」。地獄の宣告も、マリアの御手に渡されるならば、執行されないに違いないと考えていたのである。

ああ、私の至聖なる元后よ、これはまた、私の信仰宣言であり、私の希望です。では、私は、聖ボナヴェンツーラと共に繰り返し申し上げます。「ああ、聖母よ、私はあなたに希望します。そうすれば、決して辱められることはないでしょう」と。

ああ、マリアよ、私は、あなたに私のすべての希望を委託します。私は、確実に地獄を逃れて、天国に至り、永遠にあなたを称え、あなたを愛することを期待します。

祈り

ああ、マリアよ、私の最も愛する母よ、もしも、あなたの慈悲深い御手が、私を救わなかったならば、私は、今も、恐るべき悪の淵に沈んでいたことでしょう。

その上、あなたの力強い祈りによって、私を救わなかったならば、私は、すでに地獄に落ちていたに違いありません。

私の犯した罪は、私を地獄に駆り立て、神の正義は、私に地獄を宣告し、悪魔は、この宣告の実行を激しく要求していました。

ああ、私の母よ、そのとき、あなたは馳せつけてくれました。私は、あなたに祈らず、あなたに助けを求めることをしなかったのに、あなたは私を救いました。

それだけではありません、あなたは、そののち、あなたを否定する私の頑固な心に打ち勝ち、私にあなたを愛させ、あなたに信頼を置かせてくださいました。

そして今も、あなたが、誘惑に負けようとしている私を、助けてくださいます。愛する母よ、もし、あなたの助けがなかったならば、私はどれほどの悪の淵に再び落ち込んだでしょうか。

ああ、私の希望、私の生命、私の命よりも愛する私の母よ、この後も、私が陥る恐れのあるすべての罪から救ってください。どうか、私が、この後、こんなにも多くの恩恵を与えてくださった神とあなたに対し、忘恩者となることを許さないでください。

ああ、マリアよ、私が地獄に行くことを決してゆるさないでください。私は滅びるかもしれません。そうです、もし、私があなたから離れるならば、滅びるでしょう。けれども、私は、どうして、あなたから離れることができるでしょう。どうして、あなたが私にお持ちになる愛を忘れることができるでしょう。

あなたは、神についで、私の霊魂の愛です。ええ、私はあなたを愛さないで生きることはできません。私はあなたを愛します。あなたを愛します。

ああ、全宇宙の被造物のうちで、最も美しく、最も清く、最もやさしく、最も愛すべきお方よ、私は、この世においても、来世でも、絶えずあなたを愛することを望みます。アーメン。

マリアは煉獄にいるしもべを救ってくださる

マリアの忠実なしもべたちは、幸いである。本当に幸いである。この最も同情深い御母は、地上に生きている彼らをお助けになるばかりでなく、そのご保護は、煉獄まで及び、煉獄においても、彼らに助けと慰めをもたらしてくださるのである。

煉獄の霊魂は、たいへん大きな苦しみをなめているし、また、自分で自分を救うことができない。それで、あわれみの御母は、特にこのような霊魂に御心をおかけになるのである。

シエナの聖ベルナルディノは「至福なる童貞は、元后として煉獄に君臨している」と言っている。つまり、聖母マリアは、霊魂の牢獄である煉獄に対して、大きな権力を持っていて、イエズス・キリストの浄配であるこの霊魂を慰め、あるいは、これを苦しみから救うために、その全権を行使する。

まず、マリアは、煉獄の霊魂をお慰めになる。同じ聖ベルナルディノは、「わたしは海の波の上を歩んだ」という集会書の言葉を、聖母マリアに適用して、「マリアは煉獄の霊魂を訪問し、彼らの需要を満たし、彼らの苦しみを和らげる。なぜなら、彼らは、マリアの子供だからである」と言っている。

煉獄の苦しみは、波に例えられる。なぜなら、煉獄の苦しみは、地獄の苦しみとは違って、一時的なものだからである。煉獄の苦しみは、また、海の水に例えられる。なぜなら、海の水は、たいへん苦いからである。この苦患の場所に苦しむように宣告されたマリアのしもべたちは、たびたび、マリアの慰問を受けるのである。

ノヴァリノは叫んでいる。「この善良な元后のしもべとなることは、非常に大切なことである。なぜなら、マリアは、彼らが、煉獄の炎の中に苦しむときも、これをお忘れになることがないからである。しかも、マリアは、煉獄の霊魂をみなお助けになるけれども、この世にいる間、もっともマリアに献身した霊魂には、それだけ多くの助けと慰めをもたらすのである」。

聖母マリアは、聖女ブリジッタに、「私は、煉獄に苦しむすべての霊魂の母です。それで、煉獄の霊魂が、地上にある時、犯した罪のためにしのぐ苦しみは、私の母心から発せられる祈りのおかげで、毎時間、なにかの方法で軽減されているのです」と啓示なさった。

ときには、この慈悲深い御母は、わざわざ、この聖なる牢獄に訪れ、悩める子たちをお慰めになるのである。聖母は、「地下の海の深みを歩き回った」(集会24・5)と仰せられる。聖ボナヴェンツーラは、集会書のこの言葉を注釈して、この海の深みとは、煉獄に他ならないのであって、マリアは、そこに閉じ込められている霊魂を慰めるため、そこにお下りになるのである、と言った。

聖ヴァンサン・フェリエも「煉獄の霊魂に対するマリアのいつくしみは、たいへん大きく、霊魂たちは、マリアによって、必要な助けを受ける」と言っている。ああ、マリアは、これらの苦しめる霊魂に対して、どれほど愛深く、恵み深いことであろうか。マリアは、彼らに力と慰めを与えることをお止めにはならない。また、苦しみの中にあるこれらの霊魂にとって、このあわれみの御母マリアの御助けほど慰めになるものが他にあるであろうか。

聖女ブルジッタは、ある日、主イエズスがマリアに向かって、「あなたは私の母です。あわれみの母です。煉獄にあるものの慰めです」と仰せられるのを聞いた。マリアご自身も、聖女ブリジッタに、「悲しみに打ちひしがれ、苦しみの床に遺棄されているあわれな病者が、慰めの言葉で力づけられるように、煉獄の霊魂は、私の名を聞いただけで喜びます」と仰せられた。そうです、煉獄にいるその至愛なる娘たちが、たびたびお呼び申し上げる希望と救いとの御名であるマリアの名は、彼女たちにとって、大きな力となるのである。

ノヴァリは言った。「本当に愛深いこの御母は、彼女たちがご自分のみ名をお呼び申し上げるのを聞くと、その祈りをすぐ神に捧げずにはいられないのである。そして、このマリアの祈りは、常に聞き入れられて、苦しんでいるこれらの霊魂の上に天来の露を降らせ、その苦しみを和らげるのである」と。

しかしながら、聖母マリアは、煉獄にいるしもべたちを慰め、その苦しみを和らげるだけで満足なさらず、その上、彼らのために御執り成しになって、その鎖を断ち切り、彼らを煉獄から救い出してくれるのである。

ジェルソンは言った。「マリアの光栄ある被昇天の日、煉獄は、がら空きとなった」と。ノヴァリノも、この考えに賛同し、「慎重な著述家によれば、マリアは、天に昇ろうとするときに、御子に向かって、煉獄にいるすべての霊魂を引きつれて、栄光のみ国に入ることを願った」と言っている。ジェルソンが付言したところによれば、マリアは、そのときから、そのしもべを、全部、煉獄から救い出す特権を享有なさった。

シエナの聖ベルナルディノは、これに劣らずはっきりとこの考えを断定して、「至福なる童貞は、その祈りとその御功徳の適用によって、自分の望むすべてのもの、とくに、その忠実なしもべを、煉獄からお救いになるのである」と言っている。

そして、ノヴァリノも、「私は、煉獄の霊魂が、みな、マリアの御功徳によって、その苦しみを和らげられるばかりでなく、その上、これを短縮してもらうということを、容易に信じることができる」と言った。そのためには、ただ一つの祈りだけで十分なのである。

聖ペトロ・ダミアノの語るところによれば、アロジアと呼ぶ夫人が、死後、その友の一人に現れて、「私は、聖母被昇天の祝日に、ローマ市の住民よりも多数の霊魂と一緒に、煉獄から救い出されました」と告げたとのことである。

ドゥニ・ル・シャトルによれば、同じようなことが、ご降誕の祝日とご復活の祝日とに起こるということである。彼は言っている。「毎年、ご降誕の祝日にあたり、マリアは、おびただしい天使たちを従えて煉獄に下り、多くの霊魂をお助けになる。同じく、イエズス・キリストの御復活の夜にも、マリアは、毎年煉獄においでになって、多くの霊魂をお救いになるのである」と。

その上、ノヴァリノによれば、聖母マリアの主要な祝日ごとに、同じようなことが起こるとのことである。ノヴァリノは言っている。「私は、マリアの荘厳な祝日ごとに、多くの霊魂が、煉獄から救われるということを喜んで信じる」と。

聖母マリアが、教皇ヨハネ22世になした御約束は、たいへん有名である。聖母マリアは教皇ヨハネ22世にお現われになって、カルメル山の聖なる肩衣をつけている者はみな、死後の第一土曜日に煉獄から救われることを、みなに知らせるようにお命じになったのであった。

クラッセ師の伝えるところによれば、同教皇は、全世界の人々にあてた勅書によって、この御約束を公表し、ついで、教皇アレキサンドル5世、クレメント7世、ピオ5世、グレゴリオ13世、パウロ5世が、これを確認したのであった。

パウロ5世は、1613年の勅令において、次のように述べている。「キリスト教民は、カルメル山の聖母会の会員が、おのおのその身分に応じて貞潔を守り、聖母マリアの小聖務日課を唱え、あるいは、その代わりに、教会の大斎を守った上、ご降誕の祝日をのぞく毎水曜日と毎土曜日に小斎を守り、恩恵の状態で死ぬならば、聖母マリアは、その絶え間ないおん執り成しと、おん功徳と特殊なご保護によって、その死後、特に、教会が聖母に捧げた日である土曜日に、彼らをお助けになることを、敬虔に信じることができる」。

そして、カルメル山の聖母の祝日の荘厳な聖務には、「私たちは、聖母マリアが、煉獄の贖罪的炎の中にあるカルメル山の聖母の信心会員を、母としての配慮をもって慰めるよう努力し、その上、はやく天国へ昇らせてくださるということを、敬虔に信じることができる」と記されている。

私たちがもし、この善良な聖母に忠実にお仕えするならば、どうして、これと同じ恩恵を、いただけないわけがあろうか。また、私たちが、もし特別な愛をもってマリアにお仕えするならば、死後、煉獄を通らないで、直接天国へ行くことを、希望できないわけがあろうか。

聖母マリアは、アボンド修士を福者ゴッドフロアのもとに送って、常にますます善徳に進むように励まされたとき、これをこれをお約束してくださった。すなわち、聖母は、「私のすすめに従えば、御子と私に属する者となるから、その霊魂が肉体から離れるとき、私は、煉獄にやる代わりに、自分で御子のもとに連れて、これを御子に捧げるに違いありません」とお約束になったのであった。

私たちがもし、煉獄の聖なる霊魂を助けたいならば、信心の務めの間、聖母マリアに、これらの霊魂のために祈るように努めよう。特に、これらの霊魂のために、ロザリオを唱えよう。ロザリオは、煉獄の霊魂を慰めるのに、きわめて有効な祈りである。

祈り

ああ、天地の元后よ、宇宙の至上主の御母よ、ああ、マリアよ、被造物のうちで、もっとも偉大、崇高であり、もっとも愛すべきお方よ、地上で、あなたを愛さず、あなたを知らない者が多いのは事実です。

しかしまた、天国で、無数の天使と聖人たちが、あなたを愛し、たえず賛美していることも事実です。そのうえ、地上でも、あなたに対する愛に燃え、あなたに心を奪われている霊魂がどれほどいるでしょうか。

ああ、最も愛すべき元后よ、私もまた、これらの霊魂の中に加えてください。私は、あなたに仕えることだけを思い、あなただけを賛美し、あなただけを敬うことができますように。そしてすべての霊魂は、あなたを愛しますように。

あなたは、あなたの美によって、神の愛を獲得され、この神を、永遠の御父のふところから引き離し、地上に引き寄せて、人間とし、あなたの御子にしました。

ですから、あわれむべき虫けらに等しい私が、どうして、あなたを愛さないでいられるでしょうか。ああ、私のもっともやさしい御母よ、そのようなことはできません。

私もまた、あなたを愛したい。熱く愛したい。また、私は、あなたを他の人々にも愛されるように全力を尽くしたい。ですから、マリアよ、あなたを愛したいという、私の望みを受け取り、私を助け、これを実現させてください。

あなたの神は、あなたを愛する者の上に、限りない喜びの御まなこを注がれます。神は、ご自分の光栄の次に、あなたの光栄を熱望します。ですから、すべての人があなたを敬い、あなたを愛することを、神はお望みになります。

ああ、私の元后よ、私は、私の希望するすべてのことを、あなたに期待します。私があなたに執り成してもらいたいことは、私のすべての罪の赦しと、堅忍です。そして臨終のときに、私を助け、天国に導いてくださることです。

あなたを愛する者は、これらすべての恩恵を、あなたに期待します。しかも、彼らの期待は、裏切られることはありません。

私もまた、これらすべての恩恵を、あなたに期待します。なぜなら、私は、心を尽くしてあなたを愛し、神の次に、すべてにこえて、あなたを愛するからです。

マリアはそのしもべを天国に導いてくださる

ああ、マリアに対する信心は、本当に、救霊の美しい前兆である。教会は、マリアの忠実なしもべたちを慰めるために、集会書の次の句をマリアに適用し、マリアに次のように言わせている。「私は、すべての霊魂のうちに安息を求めた。そして、私は主の遺産のうちに住むだろう」(集会24・11)。カルディナル・ユーグは、この御言葉を注釈して、「マリアにその安息の場所を提供した者は、幸いである」と叫んだ。

マリアは、すべての人を愛するために、すべての人の心に、ご自分に対する信心を深めるようお努めになる。悲しいことに、この有益な信心を望まない人、または、これをいいかげんにする人が多い。けれども、この信心を行い、これを保つ人は幸いである。

博学なカルディナル・ユーグによれば、聖母マリアがお住まいになる「主の遺産」とは、神が天国において永遠に所有なさる人々を指す。マリアは、ここで引用した集会書のなかで、「わたしを造られた方は、わたしが憩う幕屋を建てて、仰せになった。『ヤコブの中に幕屋を置き、お前はイスラエルで遺産を受けよ。』」(集会24・8)と仰せられている。ヤコブは、選ばれた者をかたどる。そして、この選ばれた者が、聖母マリアの遺産を構成する。

マリアは、私たちに向かって仰せられる。「創造主は、私の胎内でお憩いになり、そして私がすべての選ばれた者の心の中に住むことをお望みになりました。私に対する信頼に満ちた信心が心に根をおろしていない者は、決して救霊を得ることができません」。

ああ、もしも、マリアが、その有力な執り成しによって、天国へお導きにならならなかったとしたら、どれほど多くの聖人たちが、天国に達することができなかったことであろう。

カルディナル・ユーグは、集会書の「私は、天に、消えることのない光明を生じた」という句を、マリアに適用している。これは、「私は、私のしもべと同じ数の永遠の光明を、天に輝かした」という意味である。カルディナル・ユーグは言っている。「現在天国にいる聖人たちのうち、聖母マリアの御助けがなければ、決して天国に入ることができなかったものが多いに違いない」と。

聖ボナヴェンツーラは、「神の御母に希望する者には、天国の戸が開かれる」と言った。聖エフレムは、マリアに対する信心を「天のエルサレムの入口」と呼び、敬虔なルイ・ド・ブロアは聖母マリアに向かって、「ああ、私たちの元后よ、天の王国の鍵とすべての宝とは、あなたにゆだねられています」と申し上げたのである。

私たちは聖アンブロジオと共に、絶えず、申し上げるべきである。「ああ、マリアよ、私たちに、天の戸を開いてください。あなたは、その鍵をお持ちになるからです。その上、あなたは天の門です。教会は、あなたに向かって『天の門、私たちのために祈ってください。』と祈るからです」と。

教会は、また、尊い童貞を、「海の星」とお呼びしている。そのわけは、天使的博士聖トマスが言っているように、キリスト教徒は、星の光に導かれて港に入る船のように、マリアによって、天に導かれるからである。

聖ペトロ・ダミアノも、マリアを天の梯子とお呼びし、「神がマリアによって、天上から地上におくだりになったのは、人間がマリアを経て、地上から天上に昇ることができるようにするためである」と言った。

シナイの聖アタナジオは、「めでたし、恩恵に満ち満ちた者よ、本当に、あなたは、私たちの救霊の手段となり、天の御国に達する道になるために、恩恵に満ち満ちています」と言っている。

聖ベルナルドは、「聖母マリアは、私たちを天に運ぶ光栄ある車である」と言い、幾何学者ヨハネは、聖母マリアに向かって、「めでたし、栄光の車よ」と申し上げている。本当に、マリアは高貴で光栄ある車であって、マリアの敬虔なしもべたちは、これに乗って、天国に導かれるのである。

聖ボナヴェンツーラは結論して言った。「ああ、神の御母よ、あなたを知る者は、幸いです。なぜなら、あなたを知ることは、永遠の道を見出すことであり、あなたの栄誉をあげることは、永遠の救いの道を歩むことだからです」と。

フランシスコ会の編年録の中に、次の話が読まれる。ある日、フラテ・レオネは、二つの梯子を見た。一つは赤い梯子で、その上には、イエズス・キリストがお立ちになり、もう一つは白い梯子で、その上には、マリアがお立ちになっていた。そこに霊魂たちが、やって来て、赤い梯子を昇りはじめた。ところが、数段昇ると、みな落ちてしまった。失敗にこりず、また昇りはじめた。けれども、何度やり直しても、いつも落ちてしまった。

そこで、今度は、白い梯子を昇りはじめた。ところが、フラテ・レオネが見ていると、無事に昇ることができた。聖母マリアが、手を差し伸べてくださったからであった。このようにして、霊魂たちは、難なく、天国に入ることができたのであった。

ドゥニ・ル・シャトルは、「だれが地獄に落ち、だれが天国に入るだろうか」と自問して、「あわれみの御母が、神に祈ってくださる人々は、たしかに救われて、天国に入ることができる」と答えている。

マリアもまた、これを確かめて、「わたしによって王は君臨する」(箴言8・15)と仰せられている。霊魂は、マリアの執り成しによって、地上にあるときは、情欲を制して地上を支配し、ついで、天に昇って支配する。なぜなら、聖アウグスティヌスの言うところによれば、天国では、そこに住む者は、みな王だからである。要するに、マリアは、天の元后であって、意のままに命令をくだし、望む者を、これに入らせるのである。

リシャール・ド・サン・ローランは、集会書のなかの「わたしは、エルサレムで威光をはなつ」(集会24・11)という言葉を注釈して、マリアに「私は、天において、私の意のままに、命令し、望む者に、天の門をひらく」と言わせている。

実際、修道院長ルベルトが言っているように、「マリアは天の王の御母でおいでになるから、天の元后となるのは、きわめて当然なことである」。聖アントニオは、「神の御母は、すでに、その祈りとお助けとの力によって、私たちのために、天国を獲得なさった」と言った。ただ、私たちの側から、これを妨害しさえしなければよいのである。したがって、修道院長ゲリックが付言しているように、「マリアに奉仕し、マリアによって神に紹介されるものは、すでに天国に入っているのも同然である」。

リシャール・ド・サン・ローランは、なおも言っている。「マリアへの奉仕に身をゆだね、その宮人のなかに入ることは、名誉この上もないことである。なぜなら、天の元后にお仕えすることは、すでに、天において統治するのと同じだからである。また、マリアの下に生きることは、最高の自由と王者的栄位とを享有することである。これに反し、マリアにお仕えしない者は、救霊を得ることができない。なぜなら、このような御母の助けを受けない霊魂は、その御子からも、天の王宮の住人たちからも、なにも期待することができないからである。私たちの神の無限の善良は、永遠に讃えられますように。神は、その英知をもって、マリアを、天での私たちの代願者とお立てになり、審判者の御母で、あわれみの御母でいらっしゃるマリアが、その御執り成しによって、私たちの永遠の救いの大業を、大成功のうち完成なさるのである」。

これは、聖ベルナルドが、聖母マリアの被昇天について行った第一回の説教において述べた考えである。「私たちの代願者は、すでに、追放の地から天にあげられた。私たちの審判者の御母、あわれみの御母と立てられたマリアは、私たちの救霊という事業を御手に引き受け、その祈りによって、これを保証なさったのである」。

ギリシア教会の教父たちの間で有名な博士であるヤコボ修士は、マリアを、神が、私たちに、この世の荒波を乗り越えさせ、天の至福なる港に入らせるために、この荒波にお投げになった救いの橋に例えている。彼は言った。「主よ、あなたは、マリアを救いの橋にしてくださいました。私に、この世の波をこえて、あなたの待たれる静かな港に到達させるためです」と。

聖ボナヴェンツーラは、「ああ、天国を望む者よ、聞きなさい。マリアに仕え、マリアを敬いなさい。そうすれば、永遠の生命を見出すでしょう」と言っている。地獄に落ちなければならないほどの罪人でも、天国にのぼって栄光の座に坐することを、決して絶望してはならない。そのためには、私たちの偉大な元后に、忠実に使えるように努力すれば足りるのである。

聖ジェルマノは、マリアに申し上げた。「ああ、マリアよ、どれほど、多くの罪人が、あなたの御取り次ぎにより、神を求めて、聞き届けられたことであろうか」と。リシャール・ド・サン・ローランが言っているように、聖ヨハネによれば、マリアは、星の冠をいただいている。聖書には、「夫人の頭には12の星の冠がある」(黙示録12・1)と記されている。

また、雅歌によれば、獅子、豹などの猛獣がマリアの冠となっている。「私の妻よ、来なさい。レバノンより来なさい。あなたは、獅子の洞窟、豹の山を冠とする」(雅歌4・8)とある。リシャール・ド・サン・ローランは、これは、どういう意味であろうかと自問し、次のように答えている。「猛獣とは、聖母マリアの御執り成しによって、天国の星とかわり、天のすべての星よりも、このあわれみの元后にふさわしい冠となって、マリアの頭をかざる罪人たちである」。

神の偉大なはしためであるセラフィック・ド・カプリ童貞の伝のなかに、次のようなことが記されている。彼女は、聖母被昇天の9日の修行の間、ある日、聖母マリアに向かって、千人の罪人の改心を祈り求めた。そのあとで、あまり余計に願いすぎたのではないかと心配していると、聖母マリアは彼女に現れて、その無益な心配をとがめて、「なぜ心配するのですか。私は、私の子から、千人の罪人の改心を求めることができるのです。ごらん、この通り、あなたの願いをかなえているではありませんか」と仰せられた。それから、彼女の精神を天国に案内し、地獄に落ちなければならなかったたくさんの罪人が、その執り成しによって救われ、すでに、永遠の福楽を楽しんでいるところを、お示しになった。

言うまでもなく、この世にある間は、だれも、自分の救霊について安心することができない。「人間は愛憎のいずれに価するか知らないで、すべては未来にゆだねられ、現在は不確実である」(集会の書9・1)。

けれども、聖ボナヴェンツーラは、「あなたの幕屋に住む者はだれであろうか」というダビデの問いに答えて、「ああ、罪人よ、行ってマリアの御足跡に接吻し、その御足元にひれ伏そう。マリアにしがみつき、その祝福をいただかないうちは離れてはいけない」と言った。そうだ、私たちは罪人であるが、マリアの御跡を追い、その清い御足元にひれ伏し、その祝福を受けないうちは、そこから離れまい。なぜなら、マリアの祝福は、私たちに天国を保証してくれるからである。

聖アンセルモは、マリアに申し上げた。「ああ、私の元后よ、私たちが救霊に失敗しないためには、あなたが私たちを救おうとお思いになるだけで十分です。なぜなら、マリアのご保護を受ける者は、必ず救われるからです」と。

聖アントニオは、「マリアが御目を注がれる霊魂は、必ず恩恵を回復し、他日、天国で、栄光を受けるに違いない」と断言している。聖イルデファンソは、「ああ、聖母マリアは『今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう』と断言なさったが、なるほどその通りです。なぜなら、選ばれた者は、すべて、マリアによって永遠の至福を受けるからです」と言っている。

聖メトディオは、マリアに向かって、「ああ、神の御母よ、あなたは、私たちの福楽のはじめ、中間、終わりです」と申し上げている。マリアは、私たちの福楽の始めであるというのは、私たちの罪の赦しをお求めくださるからであり、中間であるというのは、私たちに堅忍をお求めくださるからである。そして、終わりであるということは、ついに天国をお求めくださるからである。

聖ベルナルドは、「あなたによって、天国は開かれ、地獄は空にされ、天のエルサレムは建てられました。要するに、永遠の死以外に望めなかった者が、あなたによって、生命を与えられたのです」と言った。

けれども、特に、私たちに確信をもって天国を望むように励ますものは、その言葉と手本とをもって、マリアを他の人々に知らせ、敬わせるよう努める人々になさったマリアの美しい御約束である。「私によって行動するものは罪を犯すことなく、私を他の人々に教える者は永遠の生命を有すべし」(集会の書24・30)。それゆえ、聖ボナヴェンツーラが叫んでいるように、マリアの寵愛を得た者は幸いである。天のエルサレムの住民たちは、すでに、彼らをその福楽の伴侶と見なしている。マリアの衣服をまとっている者は幸いである。その名は、すでに、生命の書に書き記されているからである。

神学の各派間には、栄光への予定は功徳の予見に先立つか、その後に行われるか、について論議が戦わされているが、これにわずらわされる必要はないし、また、自分は生命の書に記されているかどうかについても、心配するには及ばない。私たちが、もし、マリアの真のしもべであって、そのご保護を受けるならば、たしかに、生命の書に書き記されているのである。

なぜなら、聖ヨハネ・ダマセノが断言するところによれば、神は、救おうとお望みになるものにしか、聖母マリアに対する信心をお与えにならないからである。その上、主は、聖ヨハネの口をもって、「わたしは勝利を得る者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう」(黙示録3・12)と仰せられて、これを教えたのであった。 

したがって、その心の中に、神の都の名を記されたものは、勝利を占めるであろうし、その救いを完成するであろう。さて、この神の都とは、マリアでなくてなんであろうか。聖グレゴリオは、「ああ、神の都よ、人々は、あなたについて、様々な光栄があることを語った」(詩編86・3)というダビデの言葉を解釈して、「神の都」をマリアと解している。

であるから、私たちは、「このしるしにより、主は自分に属するものを知っておられる」(2テモテ2・19)という聖パウロの言葉を、マリアに適用することができるのである。しるしとは、すなわち、マリアに対する信心である。神は、このしるしを持っている者を、「ご自分に属するもの」と見なす。聖ベルナルドは、「マリアに対する信心は、永遠の救いに到達する確かなしるしである」と断言している。

そして、福者アラン・ド・ラ・ロシュは「アヴェ・マリア」について、この祈りをたびたび唱える習慣は、救霊予定の偉大なしるしであると言った。同福者は、毎日ロザリオを唱える習慣についても、同様のことを述べている。彼の言葉は、次の通りである。「マリアに対して、たびたび天使祝詞を唱える者は、栄光への予定の非常に大きなしるしを持つ。そして、毎日敬虔にロザリオを唱える者は、あなたが永遠の救いについて、できる限りにおいて、もっとも確実なしるしを所有することは確かである」。

それだけではない。ニーレンベルグ師によれば、神の御母のしもべは、地上において、恩恵にあずかるばかりではなく、天国においても、特別なほまれを与えられる。天国においては、特別なしるしと、他にまさる大いなる富とによって区別され、元后の親しい友、その宮人となるであろう。箴言には、「その家人は、いずれも、二枚の衣を着るべし」(箴言31・21)とある。

パッジの聖女マリア・マグダレナは、ある日、まぼろしの中で、海の真ん中に、一隻の船を見たが、その中に、マリアのしもべたちが全部避難していた。ところが、聖母マリアは、ご自分でその水先案内の役を務め、これを無事港にお導きになったのであった。聖女は、この幻によって、この世の危険のさなかにあって、マリアのご保護のうちに生きる人々は罪と滅びとの難船から救われる。なぜなら、マリアは、ご自身、彼らを無事に、天国の港にお導きになるからである、と悟った。

であるから、時を移さず、聖母マリアに対する信心という幸福な船に乗ろう。そうすれば、天国に行けると確信することができる。教会も歌っている。「ああ、神の御母よ、あなたは、すべての至福聖者の住み家であると共に、また、私たちの住み家でもあります」と。

そうです。ああ、マリアよ、この世では、あなたによりたのみ、あなたのご保護のもとに生きる者は、他日、永遠の福楽を楽しむことができるにちがいありません。

祈り

ああ、天の元后よ、聖なる愛の御母よ、被造物のなかで、もっとも愛すべきお方よ、神にもっとも愛され、また、神をもっとも愛するお方よ、あわれな罪人である私にも、あなたを愛させてください。

私は、この地上において、もっとも忘恩な罪人、もっともみじめな罪人です。しかし、あなたは、私にはなんの功徳もないにも関わらず、私を救い、恩恵をたれてくださいました。私は、このことを知っています。私は、どれほど、あなたに感謝し、どれほど、あなたを愛さないといけないことか。

ああ、私の元后よ、私はあなたを愛します。そして、あなたを熱愛した聖人たちをこえて、あなたを愛したいと思います。そしてあなたを知らない人々に、あなたがどれほど愛すべきお方であるかを知らせて、すべての人に、あなたを愛させ、あなたを敬わせることを望みます。

そして、もしも、私の死が、あなたの光栄のある諸特権を防ぐために役立つならば、あなたの愛のために死ぬことを希望します。ああ、最も愛する母よ、私のこの心を受け取ってください。

そして、あなたのしもべの一人、あなたを愛するしもべの一人である私が、あなたの熱愛する神の敵になることを、許さないでください。それは、なんという不幸でしょう。

私は幾度となく、神である主に背き、この不幸に陥りました。そのとき、ああ、マリアよ、私は、あなたを愛さず、また、あなたから愛されることを望んでいませんでした。けれども、いま、私がもっとも望むことは、神の恩恵の次に、あなたを愛することと、あなたに愛されることです。

あなたは、私の過去の罪のために、この幸福を、拒むことはありません。なぜなら、あわれみ深い元后よ、あなたは、あなたを愛する者がどんなに大きな罪人であっても、愛するからです。その上、あなたの愛は、無限に大きいのです。

愛する元后よ、私は、あなたを愛するために、天国にのぼりたい。天国で、あなたの御足元にひれ伏していれば、あなたがどんなに愛すべきお方であるか、私を救うために、どれほどのことをなさったかを、もっと知ることになるでしょう。

ああ、マリアよ、私は、あなたの御助けによって救われることを、堅く希望します。私のために、イエズスに祈ってください。それだけで十分です。

そうです。私を救うのは、あなたです。なぜなら、あなたは私の希望だからです。ですから、私は、「ああ、マリアよ、私の希望よ、私を救うのは、あなたです」というやさしい言葉を絶えず、繰り返します。

ああ、寛容仁慈なる御母よ

マリアは本当に寛容仁慈な御母である

聖ベルナルドは、みじめな罪人に対するマリアのまたとない仁慈について語り、マリアを乳と蜜との流れる約束の地に例えて、「マリアは、乳と蜜とを豊富に生じる約束の地である」と言った。

聖レオはこれに付言して、「その上、マリアの御胸にあるあわれみの宝は本当に豊富であって、そのためマリアは、あわれみ深いお方と呼ばれる価値があるばかりでなく、あわれみそのものと呼ばれる価値がある」と言っている。

祝せられた童貞は、みじめな罪人のために神の御母の栄位にあげられたのであり、これに神の御あわれみを分配する役目を仰せつかっているのである。

他方、マリアは、すべての罪人に対する最大の配慮をもって、いつくしみの富をほどこされ、あらゆるみじめさを軽減する望み以外には、望みをお持ちにならないかのようである。聖ボナヴェンツーラは、これらのことを思って、マリアを眺めると、神の正義を忘れて、ただ神のあわれみしか考えなくなると言った。

次は、聖ボナヴェンツーラの美しい言葉である。「ああ、私の元后よ、あなたを観想するとき、私は、ただ、あわれみしか認めません。なぜなら、神があなたをその御母として選ばれたのは、みじめな罪人のためであり、また、神があなたにお託しになった役目は、あわれみの役目だからです。あなたは、常に、不幸な人々のそばにつきそい、あわれみに包まれています。あなたは、ただ、御あわれみを施すことしか、心掛けていないように見えます」。

したがって 、修道院長ゲリックとともに結論しよう。「至聖童貞の仁慈は大変深く、慈母の愛にあふれるその御心は、一時たりとも、仁慈を私に施すことを止めないのである」と。また、聖ベルナルドが言うように、「仁慈の泉からは、仁慈以外のものは流れ出ない」のである。

マリアは箴言の中で、「私は、畑に育った美しいかんらんの樹のようです」(箴言24・19)と仰せられている。かんらんの樹からは、柔和の象徴である油だけしか抽出されない。これと同じく、マリアの御手からは、恩恵と慈悲しか流れ出ないのである。

尊者ルイ・デュ・ポンは、マリアを「Mater olei かんらん油の御母」、すなわち、ご慈悲の油を豊かにお注ぎになる御母とお呼びしている。したがって、この慈愛深い御母に油を求めるとき、拒絶される心配はない。

賢い乙女たちは、愚かな乙女たちに向かい、「分けてあげるほどはありません」(マタイ25・9)と言って、油を分け与えることを拒んだ。けれども、マリアに、慈悲の油が不足することはない。なぜなら、聖ボナヴェンツーラが言っているように、マリアは、慈悲の油に満ちているからである。

それゆえ、教会は、聖母マリアを、賢明な童貞とお呼びするばかりでなく、いと賢明な童貞とお呼びして、マリアが恩恵を豊かにお持ちになり、これを私たちにみなに十分に分け与えることができること、決して恩恵の不足をきたす恐れのないことを教えるのである。

ユーグ・ド・サン・ヴィクトルは言った。「あなたは恩恵に満ちて、全世界の人々があなたのあふれる恩恵を汲み取ります。『賢い乙女たちは、灯火とともに、器に油を持っていた』。それなのに、ああ、いと賢明な童貞よ、あなたは、あふれても常に満ち満ちている器をお持ちになります。そして、それから流れ出る油によって、すべての霊魂の灯火はともされるのです」と。

しかし、上にあげた聖書の言葉に、なぜ、「畑に育った美しいかんらんの樹」 (箴言24・19) とあるのであろうか。なぜ、注意深く壁や垣根をめぐらした庭園の中にないのであろうか。ユーグ・ド・サン・ヴィクトルは、これに答えて、「みなが容易にこれを見、病苦に対する薬を採取することができるようにするためである」と言った。

聖アントニオも、この美しい解釈に同調して、「かんらんの樹が、垣根のない畑のなかにそびえているときは、みながこれに近寄って、実を採取することができる。これと同じように、人間はみな、義人と罪人との差別なく、マリアによりたのみ、その慈悲に浴することができる」と言った。

聖人は、なおも続けて、「ああ、この至福なる童貞は、そのやさしい祈りによって、どれほど多くの宣告を、ご自分によりたのむ罪人のために、執り成してくださることであろうか」と言っている。

敬虔なトマス・ア・ケンピスは言った。「マリアの慈悲深い御胸よりも安全な隠れ家があるだろうか。マリアの御胸は、貧しい人には宿であり、病人には薬であり、悲しめるものには慰めであり、乱れた心には意見であり、遺棄されたものには支えである」と。

もし、みじめさのなかにあえぐ私たちを助けようと常に心掛け、常に注意してくださるあわれみの御母がなかったなら、私たちは、どれほど不幸であろうか。聖霊は、「女のないところでは、病者は苦しみ嘆く」と仰せられた。聖ヨハネ・ダマセノは、「この女とはマリアである。慈母マリアがいなくなれば、みじめさと苦しみ以外になにものもない」と言っている。なぜであろうか。神は、マリアの祈りによらないではその恩恵を与えないと決意なさったからである。

マリアの祈りがなくなったなら、だれも、あわれみを希望することができないに違いない。主は、これを、聖女ブルジッタに啓示して、「もしも、私の母の嘆願の声が止むならば、あわれみの希望は絶える」と仰せられた。

あるいは、マリアが私たちのみじめさを知らず、また知っていても、これに同情なさらないのではないかと、恐れるものがあるかもしれない。けれども、それは全くの取り越し苦労である。なぜなら、マリアは、私たちよりも、私たちのみじめさを熟知し、これにやさしく同情なさるからである。

聖アントニオは叫んでいる。「いいえ、いいえ、すべての聖人のうちでも至聖なる童貞マリアほど、私たちの不幸に同情する者は一人もいない」と。そして、リシャール・ド・サン・ローランは、「ああ、マリアよ、あなたはあわれみに満ちて、みじめさのあるところには、どこにでも飛んでいらっしゃるのである」と言った。

メンドーサは結論している。「ああ、祝せられた童貞よ、あなたはあわれみに満ちて、みじめさのあるところには、どこにでも、豊かなあわれみをお注ぎになる」と。しかも、愛深い御母は、この慈しみの役目を、決してお止めになることがない。

聖母ご自身、これを次のように保証なさった。「わたしは、神から召された者、すべてのわたしの子供たちに、代々に自分自身を与え続ける」(集会24・18)。この集会の書の言葉をカルディナル・ユーグはつぎのように注釈する。「私は、未来の代に至るまで、みじめさのなかにあえぐ人間を助け、罪人のために祈ることを決して止めない、彼らに救霊を得させて、永遠の不幸を免れさせるであろう」と。

ローマ皇帝伝を記したスエトニウスによると、皇帝チッスは、求められた恩恵を拒まないようできるだけつとめていた。一日でも、恩恵を施さない日があると、嘆いて言うのであった。「今日一日、無駄だった」と。チッスにとって、だれにも善を施すことのできなかった日は、無駄な日だったのである。おそらく、チッスは、真の愛徳の感情によるよりは、虚栄心と、世人の尊敬を求める野心から、このように語ったのかもしれない。

しかし、私たちの元后が、一日でも、恩恵を施すことなく過ごしたとすれば、同じようなことを仰せられるに違いない。しかも、ただ、愛の心から、私たちに善をしたいと熱望するあまりに、こう仰せられるに違いないのである。その上、ブスチスのベルナルディノによれば、マリアは、私たちが恩恵を受けたいと望むよりも熱く、私たちに恩恵を与えたいとお望みになるのである。それで、同じベルナルディノが言っているように、マリアは、いつ近づいてみても、御手にあふれるあわれみと恩恵とをもって、待ち受けておいでになるのである。

レベッカは、マリアの美しいかたどりである。アブラハムのしもべは、渇きを癒すために、レベッカに少しの水を求めた。すると、レベッカは、彼にあまるほどの水を与えたばかりでなく、そのらくだにも、多量の水を飲ませたのであった。彼女は言った。「らくだにも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」(創世記24・19)と。

これにつき、聖ベルナルドはマリアに向かって、「ああ、私たちの元后よ、あなたの御心のあふれる器から、アブラハムのしもべだけでなく、その駄獣にも、水を与えてください」と申し上げている。この言葉は、次のような意味である。「あなたは、レベッカよりもはるかに愛深く、寛仁でおいでになる。ですから、あなたの限りないあわれみの恩恵を、アブラハムのしもべにおってかたどられた神の忠実なしもべだけではなく、らくだによってかたどられた罪人にもお与えになるのである」。しかも、レベッカが、願われたよりも多くの水を与えたように、マリアは、いつも、願われたよりも多くの恩恵をお与えになる。

リシャール・ド・サン・ローランは言った。「マリアの寛仁は、御子の寛仁に似ている」と。さて、み主は、いつも、私たちの祈りを十分にお聞き入れになる。であるから、聖パウロは、み主について、「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」(ローマ10・12)と言っている。

ある敬虔な著述家が、聖母マリアに向かって、「ああ、マリアよ、あなた自身、私のために祈ってください。なぜなら、あなたは、私のために、私よりはるかに熱心に、神の恩恵を祈り求め、希望したよりもはるかに多くの恩恵をいただくことができるからである」と申し上げたのは、もっともである。(ギョーム・ド・パリ)

聖ヤコブと聖ヨハネとは、サマリア人が、イエズスの教えを受け入れることを拒んだとき、「主よ、天から火をくだして、彼らを焼き殺して滅ぼされてはどうか」と叫んだ。しかし、イエズスは、彼らに答えて仰せられた。「あなたたちは、どうゆう精神かを知らない」と。この御言葉は次のような意味である。「私の精神は、慈悲と柔和である。私が天からくだったのは、罪人を罰するためでなく、これを救うためである。それなのに、あなたたちは、これを滅ぼそうとするのか。火!罰!なんたることであろう。黙るがよい。これについて語ってはならない。そのようなことは、私の精神ではないのだ」。

さて、マリアの精神は、イエズスの精神と完全に合致している。それで、マリアが、あわれみを注ごうという心構えを抱いていられることは、疑うことができない。

マリアは、聖女ブルジッタに「人々は、私を、あわれみの御母と呼びます。私を、このように、すべての人に対して柔和で善良なものとしてくださったのは、私の子です」と仰せられた。

聖ヨハネは、マリアが太陽をまとっていられるのを見た。「天に大きなしるしが現れた。一人の女が身に太陽をまとい」(黙示録12・1)。聖ベルナルドは、この言葉を注釈して、聖母マリアに申し上げた。「あなたは太陽に衣服を着せ、太陽はあなたに衣服を着せた」と。そうです。ああ、私たちの元后よ、あなたは、神の御言葉に、人間の肉を着せ、神の御子は、その力と慈悲とを、あなたにお着せしたのである。

その上、聖ベルナルドが言っているように、私たちの元后の寛容と仁慈とは、このように大きく、功徳をとりたてず、すべての人に対して、御助けをお与えになる。ご自分に祈る罪人がどんな罪人であっても、この罪人が聞き届けられる値打ちがあるかどうかを審議なさらない。マリアのされることは、ただ一つ、すなわち、すべての人の祈りを聞き届け、これを助けることである。

神であられる夫は、至聖童貞について、「月のように美しい」(雅歌9・8)と仰せられた。月のやさしい光と影響とは、地球のもっとも低いところにある物体にも及ぶ。イエルドベールが言っているように、「マリアは、もっともいやしい罪人をも照らし、お救いになる」。その上、月は光を太陽から受けるけれども、速度においては太陽にまさる。ある著述家の言うところによれば、太陽が一年にかけめぐる軌道を、月は一ケ月でかけめぐる。

聖アンセルモは結論して言った。「このように、私たちは、ときどき、イエズスの御名をお呼びするよりは、マリアのみ名をお呼びしたほうが、もっと速く、救霊を見出すことができるのである」と。それで、ユーグ・ド・サン・ヴィクトルが言うように、神の尊威を犯したために、これに近づくのを恐れることがあっても、マリアによりたのむことを怠ってはならないのである。

言うまでもなく、マリアは聖であり、汚れない御者であり、神の御母である。けれども、マリアは、私たちと同じ人間であり、私たちと同じく、アダムの娘なのである。

すなわち、聖ベルナルドが言っているように、マリアは恩恵そのものであり、仁慈そのものである。あわれみの御母であるマリアは、万人に対して万事におなりになる。その大いなる愛は、義人に対しても、罪人に対しても、負い目をお感じになっているのであって、すべての人に、その慈悲の御胸を開き、すべての人にその充満した宝を汲み取らせるのである。

悪魔は、殺すべき者はないかと、絶えずうろついている。聖ペトロの言葉によれば、「だれかを食い尽くそうと探し回っています」(1ペトロ5・8)。マリアも、絶えず探し回っている。しかし、それはブスチスのベルナルディノが言っているように、生命を与えるためであり、できるだけ多くの霊魂を救うためである。

マリアのご保護は、私たちが思いもよらないほど偉大であり、有力である。これを確信しよう。聖ジェルマノは、聖母マリアに向かって、「あなたの仁慈は、想像に絶する」と申し上げている。

神は旧約においては、わずかなあやまちも、たいへん厳しく罰したのに、いまでは、どうして、もっとも大きな罪人に対しても、これほどまで、あわれみをお与えになるのであろうか。ペルパールは答えた。「それは、聖母マリアとその御功徳とのおかげである」と。それは、聖母マリアに対する愛のためであり、その善徳のためである。

聖フルゼンチオは叫んだ。「ああ、もしも、マリアが、その祈りによって、世界をお支えにならなかったら、世界は、ずいぶん前に、くずれ去ったに違いない」と。

アルノー・ド・シャトルの言っているように、「私たちは安心して主の尊前にまかり出るとき、その仁慈に、すべてを希望することができる。御父のおんもとにおける仲介者である神の御子と、御子のおんもとにおける仲介者であるマリアとを有するからである。実際、御父は、御子が罪人のために全身に負った傷をこれにお示しになったとき、どうして、その願いを聞き入れたまわないでいられようか。また、御子は、御母がご自分をお宿し申し上げた御胎をお示しになるとき、どうして、その願いを聞き入れないでいられようか」。

聖ペトロ・クリゾログは、優美に、力強く、このことを述べて、「類ないこの童貞は、その貞潔なる母胎に、神ご自身をお宿しになった。それで、その報いとして、世界の平和、望みのないものの救い、死の中に沈んだ人々の生命を求められるのである」と言っている。

セル修道院長は叫んだ。「ああ、神の正義によって地獄に落とされなければならないのに、マリアの仁慈によって救われたものが、どれほどあるであろうか。マリアは、神の宝、すべての恩恵の出納係でいらっしゃり、私たちの救霊はその手の中にあるのである」と。

そうすれば、常に、この尊いあわれみの御母によりたのもう。マリアの御取り次ぎに頼るならば、私たちの救霊は安全なのである。ブスチスのベルナルディノは、私たちを励まして、「マリアは、私たちの救い、生命、希望、顧問、よりどころ、助けでいらっしゃいます」と言っている。

使徒は、「憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4・16)と言った。聖パウロが、私たちの信頼に満ちた願いを、お捧げするようにすすめる玉座とは、聖アントニオによれば、マリアである。シエナの聖女カタリナは、マリアを、「あわれみの分配者」とお呼びしている。

聖ベルナルドが「元后あわれみ深い御母」の、「ああ、寛容、仁慈、甘美な童貞マリア」という句について発した美しいそして感ずべき言葉を借りて、結論しよう。

「ああ、マリアよ。あなたは、みじめな人々に対しては寛容であり、あなたに祈る人々に対しては仁慈であり、あなたを愛する者に対しては甘美でいらっしゃいます。あなたは、初心者に対しては寛容でいらっしゃり、進歩途上にある者に対しては仁慈でいらっしゃり、完徳に達した者に対しては甘美でいらっしゃいます 。あなたは、私たちより罪を遠ざけて寛容を示し、私たちに恩恵を与えて仁慈を示し、あなたを求める者にあなたを与えて甘美をお示しになります」。

祈り

ああ、あわれみの元后よ、あなたは、たいへん善良で、みじめな罪人に善をほどこし、その願いを聞き入れることを望まれます。すべての人のうちで、もっともみじめな罪人である私は、今日、あなたのあわれみによりたのみ、恩恵の取り次ぎを願います。

私は、健康、富、地上の利益などを望みません。ああ、私の元后よ 、私が望むものは、あなたの美徳と一致するために必要な恩恵です。そのために必要な恩恵を取り次いでください。

あなたは、たいへん謙遜でした。ですから、私のために、謙遜と侮辱に対する愛を取り次いでください。

あなたは、人生の苦難を、大きな忍耐をもって耐えられました。ですから、私のために、反対を耐え忍ぶ忍耐を取り次いでください。

あなたは、神に対する愛に満ちていました。ですから、私のために、聖で純潔な愛を取り次いでください。

あなたは、他人に対する愛の権化でした。ですから、私のために、全ての人、特に私に反対する人々に対する愛を取り次いでください。

あなたは、神のみ旨に完全に一致していました。ですから、私のために、私に対する神のすべての御計らいに、完全に合致する恵みを取り次いでください。

ああ、マリアよ、あなたは、すべての被造物のうちでもっとも聖であります。どうか、私も聖としてください。

あなたは、これらすべての恩恵を、私のために求めることができます。そして、私があなたに取り次ぎを願い続ければ、必ず、これらの恩恵はすべて与えられます。

ただ一つのことが、これらを受けることを妨げます。それは、あなたに祈ることを怠るか、あなたに対する信頼が不足するかのどちらかです。

けれども、あなたに絶えず祈ること、あなたに信頼することは、あなたが私にお与えになるべき恩恵です。これらの恩恵をいただくために、私は、この二つの決定的恩恵をあなたに祈ります。

そして、すべての恩恵を、あなたの御手を通して受けることを望みます。私は、あなたの上に私の希望を置きます。

ああ、マリアよ、私の母よ、私の希望よ、私の愛よ、私の生命よ、私のよりどころよ、私の助けよ、私の慰めよ。アーメン。 

ああ、甘美なる童貞マリア

マリアのみ名は生涯の間も死の時も、たいへん甘美なみ名である

神の御母に与えられたマリアという尊いみ名は、他の名のように、地上に見出されるものではなく、また、人間の考えや気まぐれによって生まれたものでもない。このみ名は、聖エロニモ、聖エピファニオ、聖アントニオ、および、その他の学者の言うところによれば、神の御定めによって、天から授けられたみ名である。

聖ペトロ・ダミアノは「マリアのみ名は、神の宝庫から引き出されたものである」と言った。リシャール・ド・サン・ローランも、「ああ、マリアよ、あなたの崇高で感嘆すべきみ名は、神の宝庫から出たものである。三位一体は、御子のみ名に次いで、すべてのみ名にまさるこのみ名を、あなたにお授けになった。そして、このみ名に尊厳と力とを与えられ、天においても、地においても、地獄においても、すべての被造物が、このみ名を聞いただけで、これをあがめ、その前に膝を屈することをお求めになったのである」と言っている。

しかし、ここでは、マリアのみ名に与えられている多くの特権のうち、神が、この至聖なる元后のしもべたちに、生涯の間も死のときも、味わわせになる大いなる甘美について考えてみたいと思う。

まず、生涯の間、味わう甘美について述べてみたい。独修士ホノリウスは、「この祝せられたみ名は、神的甘美に満ちている」と言った。ですから、光栄あるパドアの聖アントニオは、マリアのみ名のうちに、聖ベルナルドがイエズスのみ名のうちに味わったのと同じ楽しみを味わっていたのである。

クレルヴォーの修道院長(聖ベルナルド)は、イエズスのみ名は、その忠実なしもべたちの心に喜びを、その唇に蜜を、その耳に心地よい調べを与える、と言った。

聖アントニオは、マリアのみ名について、同じことを述べている。サリュスの司教尊者ユヴェナル・アンチナは、その伝記作家の言うところによると、マリアのみ名を唱える際、たいへん深い感覚的喜びを感じ、舌なめずりをしていたとのことである。これと同じく、ケルンのある婦人は、マルシウス司教に、「私は、マリアのみ名を発するごとに、口の中に、蜜よりもすぐれた甘美を味わっています」と打ち明けた。そして、マルシリウス司教もこの婦人のようにマリアのみ名を唱える習慣をつけたところ、同じような甘美を味わったとのことである。

雅歌によれば、聖母被昇天の際、天使たちは、三度まで、マリアのみ名をたずねたことが推測される。最初、天使たちは、「荒れ野から上って来るおとめは誰か」(雅歌3・6) とたずねた。ついで、「曙のように姿を現すおとめは誰か」(雅歌6・10)とたずね、最後に「荒れ野から上って来るおとめは誰か」(雅歌8・5)とたずねている。

さて、天使たちは、なぜ、このように、元后のみ名を、重ねてたずねるのであろうか。リシャール・ド・サン・ローランは答えている。「それは、天使たちが、こんなにも甘美なマリアのみ名を聞きたいと望んでいるからに他ならない」と。そうです、マリアのみ名の甘美は、たいへん深く、天使たちも、絶えずこれを聞きたいと望むのである。

けれども、私は、このような感覚的甘美について述べたいとは思わない。なぜなら、このような甘美は、だれにでも与えられるものではないからである。私は、マリアのみ名を信心をもって唱えるものが普通味わうところの霊的甘美、すなわち、慰め、愛、喜び、信頼、力などについて述べたいと思う。

修道院長フランコンは言った。「マリアのみ名は、あらゆる種類の宝を豊かに備えている。熱心な霊魂にとり、これほど多くの恩恵、希望、甘美、慰めの泉となった名は、イエズスのみ名を除いて、天にも地にも、あったことはない。このみ名は、それ自身、名状することのできないもの、一種感嘆すべきもの、心地よいもの、慰めになるものを含んでいて、愛する心は、これを聞くたびに、聖なる美しさの香油を注ぎ込まれるのである。そして、不思議なことには、このみ名は、マリアの忠実なしもべにとって、なんど繰り返しても、常に新しく感じられることである。それというのも、このみ名は、いつも、同じ甘美を味わわせるからである」と。

福者ヘンリコ・スゾーは、マリアのみ名を唱えるときに感じる甘美について語り、マリアのみ名を唱えると、非常に深い信頼を覚え、心地よい愛の炎に燃え立ち、喜びと涙のうちに、その心臓が胸から唇に躍り上がろうとするほどであると言った。福者の言うところによれば、この最も甘美なみ名は、蜂蜜のように、その霊魂の奥に溶け込むのであったが、そのようなとき、福者は、「ああ、最も甘美なみ名よ、ああ、マリアよ、あなたのみ名だけでも、このような魅力を持っているとしたら、あなた自身は、どんなであろうか」と叫ぶのであった。

されば、聖ベルナルドは、仁慈なる御母に向かい、愛に燃える心の愛情を傾けて、「ああ、偉大、寛容にして、すべての賛美に値する至聖童貞マリアよ、あなたのみ名をお呼びして、愛に燃え立たされないことはなく、あなたを愛する者で、あなたのことを考えて、霊魂が喜びに満たされないものはいません」と申し上げた。

そうです。ああ、マリアよ、あなたのみ名は、最も甘美なもの、最も愛すべきものであって、これを唱える者は、必ず、あなたと神とに対する愛に燃え立たずにはいられないのです。その上、あなたを愛する者は、あなたのことを思い浮かべるだけで、喜びに満たされ、愛に燃え立ちます。富が貧者の困窮を救ってこれを慰めるとすれば、ああ、マリアよ、あなたのみ名は、私たちがしのぐ苦しみを、どれほど、やわらげてくださることであろうか。

リシャール・ド・サン・ローランは、「マリアのみ名は、富よりも現世の苦悩をやわらげる」と言っている。ああ、神の御母よ、あなたのみ名は、恩恵と神的祝福とに満ち満ちており、聖メトディオが言っているように、「あらゆる方面からあふれ出ている」。

されば、聖ボナヴェンツーラは、「マリアのみ名を信心をもって唱える者は、必ず、なにかの恩恵に与る」と言っている。イディオタは言った。「ああ、祝せられた童貞よ、あなたのみ名には大きい力があり、どんなに頑固で絶望的な罪人でも、あなたのみ名を唱えるならば、その頑固な心はとけ、あなたによって、神の赦しと親しみとを希望するようになる」と。

聖アンブロジオも、「ああ、マリアよ、あなたのみ名は、神の恩恵の心地よい香りを放つ香油である。願わくは、この天的香油が、私の上にくだり、私の霊魂の最も奥まったところまで、しみわたらんことを」と叫んでいる。

聖人のこの言葉は、次のような意味である。「ああ、私たちの元后よ、私たちに、あなたのみ名を、愛と信頼とをもって、しばしば唱えさせてください。なぜなら、それはすでに神の恩恵を所有するしるしであり、少なくとも、遠からず、これを回復するしるしだからです」と。

そうです、ああ、マリアよ、 シャトル―会士ルドルフがあなたに申し上げているように、「あなたのみ名は、悲しむ者を慰め、迷っている者に救霊の道を進ませ、罪人が絶望に陥るのを妨げます」。

ペルバール師は言った。「イエズスは、五つの御傷によって、世俗の病に対する薬をお与えになった。マリアは、五字(Maria)からなるその至聖なるみ名によって、毎日、罪人に赦しを取り次ぐのである」と。

そのため、雅歌は、マリアのみ名を油に例えている。「あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの名はかぐわしい」(雅歌1・2)。福者アランは、この言葉を注釈して、「油は傷を治し、心地よい香りを放ち、炎を維持する。これと同じように、マリアの光栄あるみ名は、罪人を治し、心を楽しませ、これを神の愛の炎をもって燃え立たせるのである」と言っている。

それで、リシャール・ド・サン・ローランは、罪人に向かって、この偉大なみ名の力に抵抗できる病気はなく、どんな病気でもこのみ名によって治されるのであるから、これによりたのむべきである、とすすめている。彼は言った。「あなたが、もしも罪人なら、マリアのみ名を呼びなさい。このみ名だけで、救いを得ることができるからです。どんなに悪性の病気でも、マリアのみ名によって、すぐ退散させられるのです」と。

マリアのみ名は、また次の効果を生じる。トマス・ア・ケンピスは言った。「悪魔は、天の元后を恐れること、はなはだしく、その崇高なみ名を聞いただけで、ちょうど、烈火を避けるように逃げ出すのである」と。

聖母マリアは、聖女ブリジッタに、次のように仰せられた。「この地上においては、改心したいという善意をもって私の名を呼ぶならば、神の愛について、どんなに冷淡な罪人でも、すぐ悪魔を追い払うことができます」と。聖母は、またご自分の御名が、どれほどの尊敬と恐怖とを地獄に与えるかを、よくわからせるため、「悪魔はみな、私の名の前にふるえあがり、これを聞くと、すぐ、つかんでいた霊魂を放すのです」と仰せられた。

悪魔が、マリアの御名を唱えるたびに罪人から遠ざかるのに反して、善い天使たちは、敬虔にこの御名を唱える義人の霊魂のそばに馳せ寄るのである。聖母マリアは、同じ聖女ブリジッタに、「天使たちは、義人の霊魂が私の名を呼ぶのを聞くと、そのまわりに馳せ寄るのです」と仰せられている。

呼吸の有無によって、肉体が生きているかどうかを知ることができる。これと同じように、マリアのみ名をたびたび唱えるかどうかによって、霊魂が生きているかどうか、もしくは、間もなく神的恩恵の生命を回復するかどうかを、知ることができるのである。なぜなら、この力あるみ名は、信心をもってこれをお呼び申し上げる人々を生かし、支持する効能を持っているからである。

聖ジェマノは、これを断定して、聖母マリアに向かい「呼吸は私たちの肉体の生命を証明する。これと同じように、ああ、マリアよ、あなたのしもべたちが、絶えず唱えるあなたの至聖なるみ名は、彼らが生命を有し、神の御助けを受けていることを示すばかりでなく、その上、この二つの恵みを、彼らに与え、かつ保証します」と申し上げている。

すなわち、マリアの感ずべきみ名は、リシャール・ド・サン・ローランの言葉によれば、不落の天守閣のようなものであって、これに避難する罪人を、死から救うのである。この天主閣は、もっとも絶望的なものをも保護し救う。 リシャール・ド・サン・ローランは叫んでいる、「マリアの御名は、本当に、難航不落の天守閣である。罪人は、そこに避難しさえすれば救われる。この天主閣は、すべての罪人を、たとえ、どんなに大きな罪人であり、どんな罪を犯したものであっても、防ぎ守るのである」と。

特に、マリアの尊いみ名は、貞潔に反する誘惑に打ち勝つために、たいへん強力な助けを与える。これは、だれも知るところであり、また、マリアの敬虔なしもべたちが、毎日経験するところである。

「そのおとめの名はマリアといった」(ルカ1・27)。リシャール・ド・サン・ローランは、聖ルカの言葉について、「福音史家は、nomen virginis Mariaと言って、童貞女とマリアとの二名詞を続けて書いている。これは、この最も清い童貞の御名が、決して、貞潔と分離できないことを示すものである」と言っている。

されば、聖ペトロ・クリゾログは、「マリアのみ名は、貞潔のしるしである」と断言したのである。これは、「貞潔に反する誘惑の後に、罪から免れたかどうかについて疑いがある場合、マリアのみ名をお呼び申し上げた意識をもっている者は、貞潔に背かなかったと安心するがよい」と言う意味である。

されば、聖ベルナルドの善良な意見に従おう。「危険のとき、困難のとき、疑惑のときは、マリアを思い、マリアをお呼び申し上げよ。そのみ名を、常に唇、および心をもって唱えよ」。

そうです、神の恩恵を失う危険にあうたびに、私たちの思いをマリアの方に上げよう。マリアの祝せられたみ名を、イエズスのみ名と一緒にお呼び申し上げよう。なぜなら、この二つのみ名は離すことができないからである。最も甘美で力あるイエズスとマリアとのみ名を常に心に留め、くちびるに讃えよう。この二つのみ名は、悪魔の誘惑に陥ることなく、いつも勝利をしめる力を与えてくださるに違いないのである。

マリアのみ名の信心に付随する恩恵は、どんなに貴重なものであろうか。聖女ブリジッタはイエズスが御母と一緒に、次のようにお語りになるのを聞くことができた。イエズスは、御母に仰せになった。「信頼と改心する決意とをもって、あなたの名を呼ぶ者は、次の三つの恩恵を受けることができます。罪の完全な痛悔とこれを十分に償う恵み、完徳に達する力、および天国の光栄がそれです。なぜなら、あなたの言葉は、私にとり、たいへん心地よく、親愛なものであって、私は、あなたの願いを一つも拒むことができないのです」と。

聖エフレムは、「マリアのみ名は天の門を開く鍵である」と言い、聖ボナヴェンツーラは、マリアを、「これに祈る者の救い」とお呼びしている。これによれば、マリアのみ名を呼ぶことと、永遠の救いとは、同じことのようにみなすことができるのである。

その訳は、リシャール・ド・サン・ローランが言っているように、「こんなにも甘美なみ名をお呼びするならば、この世では、豊かな恩恵をいただくことができ、永遠界では、高度の栄光を獲得することができるからである」。

トマス・ア・ケンピスは結論して言った。「至愛なる兄弟たちよ、もしも、この世のすべての試練において、慰められたいと思うならば、マリアによりたのみ、マリアを呼び、マリアを敬い、マリアに身を託せ。マリアと共に喜び、マリアと共に泣き、マリアと共に祈り、マリアと共に人生の旅路をたどり、マリアと共にイエズスをたずね、イエズス、マリアと共に生き、そして死ぬことを熱望せよ。そうすれば、ああ、私の兄弟たちよ、あなたたちは、主の道に進歩するであろう。なぜなら、マリアは、喜んで、あなたたちのために祈り、イエズスは御母の祈りを聞き届けるに違いないからである」と。

要するに、マリアのみ名は、以上述べたように、その忠実なしもべたちにとって、この世に生きている間、非常に甘美であるが、最後のときには、さらに甘美である。なぜなら、彼らに、楽しく清い死をとげさせるからである。

イエズス会のセルトニウス・カプト師は、瀕死者を看護するものに、たびたび、マリアのみ名を唱えるようにすすめた。その言うところによれば、この生命と希望とのみ名を、最後のとき唱えるならば、それだけで、悪魔を追い払い、死苦にあえぐ瀕死者を力づけるからである。

カミルロ・デ・レリスもまた、その修道者たちに向かって、瀕死者に、たびたび、イエズスとマリアのみ名を思い起させるようにすすめている。そして、聖人は、他の人々のために、たびたび、この二つのみ名を唱えたが、自分の死に際しては、いっそうの慰めをもって、これらのみ名を、自分のために唱えたのであった。そのとき、聖人は、イエズスとマリアのみ名を、言い知れぬ愛情をもって唱え、その場に居合わせた人々を愛に燃え立たせ、それから、目をイエズスとマリアとのご像に注ぎ、両手を十字架の形にひろげ、ちょうど天国にいるかのように、顔中に天上的喜びをたたえながら、息を引き取ったのであった。

イエズス、マリア!「この短い祈りは、覚えるのにやさしく、黙想するのに楽しく、保護するのに力あるものである」とトマス・ア・ケンピスは言った。聖ボナヴェンツーラは、「ああ、神の御母よ、最も甘美なあなたのみ名を愛する者は幸いです。このみ名は、光栄あるものであり、感嘆すべきものです。死の際、このみ名を唱えるように心がける者は、地獄の軍隊の攻撃も恐れるにおよばない」と言っている。

カプチン会の修道士フルゼンチオ・ダスコーリ師のように、「ああ、マリアよ、ああ、マリアよ、最も美しいお方、最も親愛なお方よ、私は、あなたと共に旅立つことを望みます」と歌いながら、最後の息を引き取ることはなんという幸福であろうか。あるいは、また、シトー会の修道士福者アンリのように、マリアの最も甘美なみ名を唱えながら死ぬことは、なんという幸福であろう。

親愛な、そして敬虔な読者よ、神が私に、マリアのみ名を唱えながら、息絶える恩恵をお与えになるよう祈ろう。これは、聖ゼルマノの願いであり、祈りであった。聖人は言った。「マリアのみ名が私の口の最後の息でありますように」と。ああ、この救いのみ名に支配され、保護される死は、どんなに慰めに満ちた至福な死であろう。神は、救おうとお望みになる人々にしか、このみ名を唱える恵みをお与えにならない。

ああ、私の甘美な元后、私の母よ、私もまた、熱くあなたを愛します。私は、あなたを愛するので、あなたのみ名を愛します。私は、生涯の間も、臨終のときも、いつも、あなたのみ名を呼ぶ覚悟です。そして、あなたの助けによって、この決心を忠実に守ることを望みます。

では、終わりに、聖ボナヴェンツーラの愛情のこもった祈りを、あなたに捧げます。「ああ、祝された童貞よ、私の霊魂が、この世から去るとき、あなたのみ名の栄えのために、これを迎え、これを抱き上げてください。そのとき、あなたの甘美な現存によって、私を慰めてください。あなたご自身、天にのぼる私の霊魂の梯子、その道となってください。ああ、私たちの代願者よ、至聖童貞マリアよ、イエズス・キリストの法廷であなたの使徒を防ぎ守り、その弁護を引き受けてください」。

祈り

ああ、尊い神の御母にして、私の母であるマリアよ、私は、あなたのみ名を呼ぶ資格のない者ですが、あなたは私を愛し、私の救霊を望まれます。

ですから、私の舌はどんなに汚れていても、常に、あなたの最も清く、最も甘美なみ名、生涯の支え、臨終のときの救いであるあなたのみ名を呼ばせてください。

そうです、ああ、マリアよ、最も清い童貞よ、甘美な母よ、これからは、あなたのみ名を、私の生涯の呼吸とさせてください。

そして、あなたのみ名を呼んでいるとき、どうか、常に私を助けてください。私は、私を襲うあらゆる誘惑や試練の中にあって、常にあなたを呼び、常にマリア、マリアと叫ぶことを望みます。

私は、生涯の間、特に、臨終のときも、「ああ、あわれみ深く、甘美である童貞マリア!」と叫び、ついに、天に昇って、永遠に、最も愛するあなたのみ名を称えることを希望します。

最も愛すべきマリアよ、私の霊魂は、あなたのみ名を呼び、あなたを思い浮かべただけで、大きな慰め、甘美さ、信頼、愛情を感じる私は、こんなにも甘美なみ名、こんなにも愛すべきみ名、こんなにも力あるみ名を、私たちの幸福のために、あなたにお与えになったことを、私の主、私の神に感謝します。

私は、愛にかられて、一日中、瞬間ごとに、あなたを呼ぶことができる恩恵を希望します。そうすれば、私は、「ああ、神の御母のみ名よ、あなたのみ名は、私の愛です」と叫ぶことができるでしょう。

私の最も愛するマリアよ、ああ、私の最も愛するイエズスよ、どうか、あなたたちの最も甘美なみ名を、常に、私の心とすべての人の心にとどめさせてください。私の霊魂に、他のすべての名を忘れて、あなたたちのみ名を思い起こさせ、絶えず、これを呼ばせてください。

ああ、私の贖い主であるイエズスよ、ああ、私の母マリアよ、私の死のときが来て、最後の息を引き取り、この世を去るとき、ああ、そのとき、願わくは、あなたの御功徳によって、最後の口を開き、「イエズス、マリア、私は、あなたたちを愛します。イエズス、マリア、私は、心と霊魂とを、あなたたちに捧げます」と繰り返して唱えさせてください。