聖母マリアへのまことの信心(朗読)

2019年10月11日

第1章 9:48 第2章 59:50 第3章 1:40:55 第4章 2:13:44 第5章 2:30:38 第6章 3:29:59 第7章 4:05:46 第8章 4:23:58 第9章 5:05:51

Contents

序 聖母マリアの偉大さ 

1 イエズス・キリストがこの世に来られたのは、比類なく清いおん母マリアによってであったが、またイエズス・キリストがこの世を支配されるのも、御母マリアによってである。 

2 マリアは、いつも、隠れて生活された。そのために、聖霊は教会を通じて、マリアのことをアルマ・マーテル(Alma mater)、隠れたおん母と呼んでいる。神以外のどんな被造物にも知られたくないと望んだほどに、マリアの謙遜は深かった。 

3 隠れていたい、貧しくありたい、謙遜でありたいというマリアの望みを聞き入れて、神は、イエズスのご誕生とご生活との奥義、ご復活とご昇天などに当たって、いつも、マリアを表に立てないように計らわれた。他人はもちろん、親類の者さえ、マリアのことを知らなかった。天使たちも、「あのお方は誰だろう?」、と尋ねあっていた。「いと高きもの」は、天使たちにさえも、マリアのことを隠されたからである。いや、いくらかは、知らせられたとしても、隠されている部分とは比較にならない程、少しのことしか知らせなかったのである。 

4 父である神は、聖母が、その生活の間に、奇跡を…少なくとも皆に知れわたるような奇跡を…行わないでいることを、お望みになった。奇跡を行う能力は、十分にお与えになったとしても。おん子である神は、聖母が、公にはほとんど話さないでいることを、お望みになった。ご自分の上智を、おん母に分け与えておいでになったとしても。聖霊である神は、使徒や福音史家が、イエズス・キリストを知らせるために、必要最小限度の事柄しか聖母について話さないようにと、お望みになった。聖母は、聖霊の、欠けるところのない花嫁であったとしても。「いと高きもの」の傑作であるマリアを、完全に知りそして所有するのは、ご自分おひとりであった。 

5 マリアは、おん子の、たたえるべきおん母であった。おん子は、おん母の謙遜を受け入れられ、マリアの生活を、小さな隠れたものとして残し、ご自分の心の中では、どんな天使よりも、どんな人間よりも愛し尊んでおられたにもかかわらず、他人のように「婦人よ」と呼ばれた。「封じられた泉」であったマリアに入ることができるものは、その配偶者である聖霊だけである。マリアは、聖なる三位一体の神殿であり、いこいの場である。ケルビムとセラフィムの上に座する玉座よりも、宇宙の中で、おごそかに壮麗に、神がお住まいになる所は、そのマリアである。どんなに清い人間でも、被造物である限りは、そこに入ることができない。 

6 聖人たちにならって、私も言いたい。聖霊は、神々しいマリアの中において、人間の理解しえない感嘆すべき業を行われた。そしてマリアは、人となられた新しいアダム(イエズス)の、地上の天国となった。また、マリアは、筆舌に尽くしえない美と宝とを持つ神の偉大な宇宙である。また、マリアは「いと高きもの」の壮麗さを示すものである。神は、ご自分のふところにおさめるように、マリアのふところにおんひとり子を入れ、そのおんひとり子の中に、ありとあらゆるものの中で最も尊いもの、最もすぐれたものを、おさめられた。おお、いかに神秘にみちた偉大な業を、神は、このマリアに行われたことであろうか。謙遜なマリアでさえも、「全能のお方がわたしに偉大なことをなさった」と、賛美しなければならなかった。この世は、その偉大さを理解することが出来ないし、また、それを知らされる値打ちがないのである。 

7 神の「聖なる町」マリアについて、聖人たちが話すときには、他のどんなことについて話すときよりも、深い喜びと、わきあがる雄弁とを感じたという。神の玉座までのぼるマリアの功徳の高さは視界をこえ、この世よりも広いその愛徳の幅は尺度を超え、神ご自身さえも動かすその力の偉大さは理解を越え、その恵みと深さは、人間の測量をゆるさない深淵であると、聖人たちは語っている。おお、視界をこえる高さ、おお、はかりがたい広さ。おお、言い尽くせない偉大さ、おお、探りえないその深さよ。 

8 地上の、この果てからあの果てまで天の高みから地獄の深みまで、日々絶え間なく万物は皆、感嘆すべきマリアについて語り、宣言する。天使の九級をはじめ、性別、年齢、宗教、善悪を問わずあらゆる人間は、いや、悪魔たちまで、言いたい言いたくないにかかわらず、真理の力によって、「マリアよ、祝されたものよ」と叫ばないではいられない。天国の天使たちは、たえずマリアを称えつづけていると、聖ボナヴェントゥーラは言っている。「神のおん母、おとめマリア、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。そして、たえまなく、「めでたしマリア」と祝詞をおくり、マリアの前にひれ伏して、自分たちが何かお役に立つ光栄はないか、と願い続けている。また、天使の九級のかしらである聖ミカエルさえも、マリアに尊敬をあらわそうと一番熱心につとめており、聖母の命令一つで、すぐに、聖母への信心をもつしもべたちにでも奉仕する名誉はないかと待ちのぞんでいると、聖アウグスティヌスは語っている。 

9 この世の国々も、聖母の光栄にみち満ちている。特にキリスト信者の国ではそうである。聖母を、保護者、弁護者として仰ぐ国、州、教区、町は数知れず、聖母の名のもとに祝別された大聖堂も枚挙にいとまがない程である。「聖堂は、聖母に祭壇をささげ、どんな恵みでも受けるという奇跡のご絵は、ひろく全世界にゆきわたっている。おびただしい信心会は、聖母の名をいただき、数知れない修道会は、聖母の保護のもとにある。また、信者会の兄弟姉妹、修道会の修道女たちは、日々聖母をほめたたえ、そのあわれみを告げ知らせる。幼児は、まだ口が、まわらない頃から、たどたどしくアヴェ・マリアをとなえ、罪人はその固い心の奥底に、聖母への信頼を宿し、地獄の悪魔さえも、マリアをおそれ尊んでいる。 

10 わたしたちも、聖人たちと共に言いたい。「マリアについて言い尽くすことはない」。今までは、マリアは、十分には、あがめられ、尊ばれ、称賛され、愛され、奉仕されていない。マリアは、もっと称賛され、もっと尊敬され、もっと愛され、もっと奉仕されなければならない。 

11 また、私たちは、聖霊と共に、こう言いたい。「王の娘の光栄はすべて内面にある」と。天地が争って捧げようとする外部的な栄光、名誉は、内部から、創造主から受けたもの、小さな被造物には、神である「王の秘密」の中に立ち入ることが出来ないその光栄に比べれば、無に等しいと言ってよいだろう。 

12 また、わたしたちは、使徒と共に、こう言いたい。マリアの美しさと偉大さ、恵みの奇跡を、「人間の目は見ず、耳は聞かず、心は悟りえなかった」。ある聖人はこう言っている。「もし、おん母を理解しようとするなら、そのおん子を理解せよ。マリアは、神であるおん子にふさわしい母である。ここに至って、すべての口は、だまるように」と。 

13 神のおん母が、今まであまり知られていなかったこと、それは、イエズス・キリストが、当然知られなければならない程にも知られていないという理由の一つであることを、皆に理解してもらおうとして、わたしは今から、非常な喜びと励ましを得て、それを記そうとしている。もし、…いや、確実なことなのだが…イエズス・キリストが、よりよく人々に知られ、そのみ国が、この世に広まったなら、それは、イエズス・キリストを、はじめてこの世に送り出し、そして再び「おん子」に光栄を帰させる至聖なるおとめおん母マリアが、より広く知られるようになったからに違いない。 

第一章 聖母マリアに対する信心の必要性 

14 全教会が宣言しているとおり、マリアは「いと高きもの」のおん手につくり出された単なる被造物にすぎないのであるから、無限全能である神と比較すれば、とるに足りない原子アトムよりも小さなものであり、むしろ無と言ってもよい程のものである。つまり唯一の全き存在、「在るものであるお方」は、ただ神おひとりである。したがって、神は、自ら存在するものであり、完全そのものであって、ご自分の思し召しを実行し、ご自分の栄光をあらわすために、聖なるおとめをお使いになる必要は少しもなかった。神は、その望みのままに、どんなことでもお出来になるのである。 

15 だが、それでも、私はこう宣言するだろう。み摂理の計画がそうであって、神が聖なるおとめを、ご自分の大事業に協力させ、全うさせることをお望みになったとすれば、その計画は、決して変わらないであろう。なぜなら、神は、ご自分の考え、ご自分の行動を、決して変えられないからである。 

第一節 ご托身の神秘とあがないの実現のために神はマリアを選ばれた 

16 おん父である神は、そのおんひとり子をこの世に送られたのは、マリアによってであった。太祖たちが、どれほど、嘆願の吐息をついても、旧約の預言者や聖人たちが、四千年という長い間、どんなに祈願をこめても、神のみ前に恵みをえて、イエズス・キリストを受けるにふさわしいものとされたのは、ただ、マリアひとりであった。聖アウグスティヌスが言っている通り、この世は、直接神のみ手から、おん子を受ける値打ちのないものであった。神は、マリアにおん子を宿らせ、マリアから、この世は、おん子を受けたのである。おん子である神は、わたしたち人間の救いのために、人間となられたが、それは、マリアにおいてマリアによってであった。聖霊である神は、マリアの中に、イエズス・キリストをお宿らせになった。しかしそれも、ご自分の宮廷の大臣を派遣して、マリアの承諾をえられてからであった。 

17 おん父である神は、おんひとり子と、その神秘体の肢体とも生む力をさずけるために、マリアに、生む力を分け与えられた。 

18 アダムが地上の楽園におかれたように、新しいアダムであるおん子は、おとめのふところに下られた。それは、マリアを受け入れ、マリアにかくれて、恵みの奇跡を行うためであった。人間となられた神は、このおとめの胎内に捕らえられることに自由を見出し、この小さなおとめに抱き運ばれることによって、おん自らの力を発揮し、ご自分とおん父との栄華を、地上のあらゆる被造物にかくし、ただマリアだけに示すことにおいて、ご自分の光栄をあらわされた。また、その懐胎、ご誕生、奉献、そして、ご死去までの30年のご生涯のあいだ、この愛するおとめである母に服従されることにおいて、神としての自存と光栄をお示しになった。その昔、アブラハムが神の思し召しを承諾したことによって、イサクがいけにえにされたのと同様に、マリアも、イエズスがご死去になるとき、同じいけにえとなったのである。神の服従という、ああ、感嘆すべき計りがたい奥義よ。人間となられたイエズスは、その片隅のご生活の間に行われた数知れない不思議を、ほとんど、私たちに知らせようとなさらなかった。しかし、その価値と無限の栄光とを、沈黙のままにおくに忍びず、福音書にその一端をお示しになったのである。イエズス・キリストが、30年の間、おん母に服従された事実は、大奇跡によって全人類を改心させること以上に、おん父である神に栄光を帰させることであった。私たちがこの模範に従ってマリアに服従するなら、本当に、どれほどの栄光を神に帰することになるだろう。 

19 イエズス・キリストのご生活をしらべると、イエズスが奇跡を始められたのは、マリアによってであったことを知るであろう。つまり、イエズスは、洗礼者ヨハネがエリザベットの胎内にあるとき、マリアの言葉を通じて、それを聖となさったのである。マリアが話しかけるやいなや、エリザベットの胎内にあったヨハネは聖なるものとされた。これは、最初の、そして最も偉大な恵みの奇跡であった。またカナの婚礼のときには、おん母の謙遜な願いを聞き入れて、水をぶどう酒に変えられた。これは、最初の自然に対する奇跡であった。マリアを通じて奇跡を始められたイエズスは、そのように、同じくマリアを通じて、世の終わりまで行いつづけられるであろう。 

20 神である聖霊は、神において他の神的位格を生み出さなかったのであるが、マリアを花嫁とし、マリアによって、「生むもの」となられた。聖霊が、人間となった神をお生みになられたのは、マリアと共に、マリアにおいて、マリアによってであった。世の終わりまで、日々たえることなく、救われる人々と、尊いかしらをいただく神秘体の「肢体」をお生みになるのも、またマリアによってである。そのために、ある霊魂の中に、ご自分と分かちえない愛する花嫁マリアが在ることを知られるなら、その霊魂の中にイエズスをつくり、また同時に、イエズスによってその霊魂を生み出すために、霊魂は、ますます活発に、ますます力強く働かれるのである。 

21 といっても、それは、聖霊が生む力をもっておられないから、聖母がそれを与えるという意味では決してない。聖霊は神であるから、いうまでもなく、おん父とおん子と同様に、生む力をもっておいでになる。つまり、聖霊は、ご自分おひとりでどんなことでもお出来になるにもかかわらず、聖なるおとめを通して働くことをお望みになり、マリアによって、イエズス・キリストと、その神秘体とをお生みになるのである。いかに霊的にすぐれ、いかに知者であっても、ここまで理解しつくすことのできない恵みの奥義とは、これを言うのである。 

第二節 神は人間を救うためにマリアの協力を望まれる 

22 三位一体の三つのペルソナが、ご托身のときに示された方法は、また、日々、不可見的に、カトリック教会に対して行われ、世の終わりまで、行い続けられるであろう。 

23 おん父である神は、すべての水を集めて、これを海と名づけ、すべての恵みを結合して、これをマリアと名づけられた。神は、この上なく貴い宝庫を持ち、この中に、美しいもの、輝かしいもの、貴いものをすべて、果ては、ご自分のおん子まで納められた。この宝庫というのは、聖人たちが「主の宝」と呼んでいるところの、マリアである。その宝庫から、私たち人間も、宝を分けられるのである。 

24 おん子である神は、ご自分のご生活とご死去とによって得たすべてのもの、無限の功徳と感嘆すべき善徳とを、おん母マリアに分け、おん父から受けた財産の管理者となさった。イエズス・キリストはマリアを通じて、ご自分の功徳を人間に与え、ご自分の善徳を分け、恵みを分配される。マリアこそは、イエズスが、豊かに、そして甘美に、ご自分のあわれみを通らせようとなさる運河であり、水道である。 

25 聖霊である神は、言い尽くしえない賜物を、忠実な自分の花嫁であるマリアに分け与え、ご自分が所有されるすべてのものの分配者として、マリアを置かれた。それゆえマリアは聖霊が望まれる人間に、お望みになる方法で、望まれるだけの賜物と恵みとを分配する。聖なるおとめのみ手を通らないで、人間に下る天の賜物はないのである。それが、神の思し召しである。その生涯を通して、深い謙遜に徹し、虚無の底まで自分をへりくだらせ、さげすみ、小さくしたマリアは、「いと高きもの」によって、これ程に富ませられ、上げられ、尊ばれたのである。これは、教会と聖なる教父たちの思想である。 

26 もし私が、現代の高慢な学者を相手にしているなら、以上のように簡単にかたづけることをしないで、聖書と教父たちとの言葉をかり、そのラテン語テキストをも引用し、そればかりではなく、プアレ神父の名著「聖なるおとめの三つの冠」から言葉をかりて、証拠を提示するだろう。しかし、私はそんな人々を相手にするつもりはない。むしろ、私がここで話かけているのは、一般の知識人よりも善意と信仰とをもち、より多くの功徳を受けて、もっと簡単に信じる単純な小さな人々である。だから、私は、単に真理を宣言するだけであって、読んでも分からないようなラテン語は、できるだけ避けたいと考えている。それでも、少しばかりは引用するが、長くはしない。(この訳本ではラテン語のことばをのせない)。では、先を続けよう。 

27 恵みは自然を完成し、天の栄光は恵みを完成するのである。したがって、私たちの主、イエズス・キリストは、今も、地上におられた時と同じく、マリアのおん子であり、どんな母よりもすぐれたそのおん母に対して、どんな子供よりも完全な子としての従順を持ち続けられるはずである。しかし、従順であるからと言って、イエズス・キリストに何らかの不完全さ、何らかの卑しさがあると考えるなら、それは、大きな間違いである。おん子は神であるから、マリアとおん子と比べれば、比較にならない程低いものである。だから、服従と言い、命令と言っても、この世の母親が、子供たちに命じるのと同等に考えてはならない。聖人たちを、神の思し召しに一致させる恵みと栄光とによって、マリアは、神と完全な一致に至っているのであるから、永遠不変な思し召しに反することは絶対に望まず、また求められない。だから、聖ベルナルド、聖ベルナルディーノ、聖ボナヴェントーラなどの聖人たちの本を読んで、天にあるもの、地にあるもの、至聖なる神までが、聖母に従われると書いてあるのを見たなら、それは、次のように解釈しなければならない。つまり、神は、聖母に、非常に大きな権力を与えられたので、マリアは、まるで、神と同じほどの権力を持つように思われる。また、聖母はつねに謙遜で、神の思し召しと完全に一致しておられるので、聖母の祈りと願いとは、いつも神に聞き届けられ、まるで命令と同じようである、という意味である。かつて、モーセは、イスラエル人に対する神の怒りを、自分の祈りでもってくい止め、神から、「祈りをやめよ、反逆の民に罰を下させよ」と、頼まれた程である。モーセですらそうなら、まして、神のふさわしいおん母である謙遜なマリアの祈りなら、天と地とのすべての天使と聖人たちの祈りと取り次ぎよりも、神のみ前に聞き入れられる値打ちがある。 

28 天国のマリアは、天使たちと聖人たちの上に、命令権をもっている。傲慢のために堕落した天使たちの空席を、聖人で満たすための権力と役目とを、神は、謙遜なマリアに与えられたのである。へりくだる者を高める「いと高きもの」の思し召しが、これであった。天も地も、地獄さえも謙遜なマリアに服従しなければならないと、神はお定めになった。神は、マリアを天地の女王と定め、ご自分の軍隊の長官、計ることのできない財宝の管理者、恵みの分配者、不思議を行うもの、人類のつぐないの者、人類の代願者、神の敵を敗走させるもの、神の偉大と勝利との協力者としてお置きになった。 

29 おん父である神は、マリアによって、世の終わりまで、ご自分の子らをつくろうと思し召される。そして「ヤコブに住まいを定めよ」とおおせられた。つまり、エサワによってかたどられている悪魔の子の中ではなく、ヤコブによってかたどられている神の子らの中に住めとおおせられた。 

30 人間には、誰にでも、父と母があるように、超自然的誕生においても、神であるおん父と、マリアというおん母とがまします。神のまことの子らは、父として神を、母としてマリアをあおいでいる。母としてマリアを持たない者は、父として神を持たない。聖なるマリアを憎み、あるいは軽蔑し、あるいは冷淡にあしらう悪人どもや異端者たちは、自分では、神は私たちの味方だとうぬぼれていても、真実には、父としての神を持っていない。彼らは、母としてマリアを持っていないからである。もし彼らが、母としてマリアを持っていたなら、きっと愛し、尊ぶはずである。よい子供たちが、自分に命を与えてくれた母を、愛し敬うのと同様に。異端者、邪説者、亡びるべき人々と、救われる人々との相違は、片方が、汚れなく尊いおとめの母を軽蔑し、あるいは冷淡に扱い、あるいは何かの理屈を並べて、その崇敬を減らそうと計るところにある。いかにも、それは当然なことで、おん父である神は、エサワの仲間である悪人の中に住めと、マリアにご命令になったことはないのである。 

31 おん子である神は、ご自分の愛するおん母を通じて、弟子たちをつくり、日々彼らの中に受肉しようとお望みになっておられる。彼はおん母に向かって「イスラエルの所有地に入れ」とおおせられたが、その意味は、次の通りである。神は地上のあらゆる国々と、善人も悪人もふくめたすべての人間とを、キリストにお与えになった。キリストは、よい人間を黄金の杖で指導し、悪人に鉄の棒で指図される。彼は、よい人々の父であり、弁護者であり、悪い人々の報復者であり、そしてすべての人間の審判者である。だが、おん母マリアは、イスラエルがその前表であった救われるべき人間を所有している。彼らのよい母として、彼らを生み、養い、育て、そして女王として彼らを守り、指導し、支配するのである。 

32 「この人も、あの人も、かの女から生まれた」と聖霊はおおせられた。ある教父の説明によれば、マリアにおいて生まれた最初の人は、神であり人間であるイエズス・キリストであり、第二に生まれたのは、神の子らでありマリアの養子であるよい人々である。人間のかしらであるイエズス・キリストがおん母マリアから生まれたとすれば、その肢体であるよい人々も、当然マリアにおいて生まれ出なければならない。肢体のない頭だけのものが生まれるはずはなく、また、頭のない肢体が生まれるはずもない。そういうものが生きれれば、完全な奇形物である。恵みの世界においても、頭と肢体とは、同じおん母から生まれる。神秘体の肢体の一つであって救われる人間が、イエズス・キリストという頭を生んだ母から生まれなかったなら、その人は、救われる人間ではなく、神秘体の肢体でもなく、ひとりの奇形児である。 

33 天と地が日々絶え間なく繰り返しているように、イエズス・キリストは、「ご胎内のおん子イエズスも祝福しておられます」と称えられているのであって、今もいつも、マリアのおん子である。だから、イエズスをもっている人々にとって、そのもっているイエズスは、マリアのおん子であり、マリアの業である。それで、彼は、次のように断言してよいだろう。「マリアに感謝いたします。私の中にあるお方は、あなたのおん子であり、あなたがなければ、私は、”このお方”を受けることができませんでした」と。そして、聖パウロよりも、もっともっと真実な意味で、次の言葉は、マリアにあてはめてよいだろう。「小さな子らよ、あなたたちのうちにキリストが形づくられるまで、私はまた生みの苦しみを受ける」。救われるべき人々は、神の子に一致するために、この世では、聖なるおん母の胎内にかくれ、守られ、養われ、育てられ、そして死んで後、…これが厳密な意味での誕生である…マリアによって栄光に生み出されるのであると、聖アウグスティヌスは言っている。おお、亡びる人には知らされず、救われる人々も深くは理解しがたい恵みの奥義よ。 

34 聖霊である神は、マリアによって、「選ばれた人々」を作ろうと思し召され、こうおおせられる。「栄光にみちた民に、根を張りなさい」と。「私の愛するもの、私の花嫁よ、あなたの徳の根を、選ばれた人たちの中に伸ばしなさい。そうすれば、彼らは、徳から徳へ、恵みから恵みへと成長するだろう。あなたが、最もすぐれた徳を実行しつつ地上に生きていたとき、私はそれを見て、どんなに喜んだことだろう。だから、あなたを天国に置きながら、同時にまた、もう一度地上であなたを見たいと思うほどである。それゆえ私は、選ばれた者の中に、あなたが再生されることを望む。あなたの不動の信仰、深い謙遜、たゆみない節制、すぐれた祈り、燃える愛徳、固い徳への望みなど、あなたの徳の根をすべて、彼らの中に見つけたいのである。あなたは、永遠に変わらぬ忠実な私の花嫁であり、常に清く、常に殖やすものである。あなたの信仰が、私に信じる者を与え、あなたの清さが、私に清い者を与え、あなたの”生む力”が選ばれたものの神殿となるものを私に与えることを望む」。 

35 マリアは、自分の徳の根をある霊魂に植え付けるとき、マリアだけが出来る感嘆すべき恵みの業を行う。マリアだけが、その清さ、その生む力において、二人とない栄えあるおとめだからである。マリアは、聖霊と共に、神人、つまり、神であって同時に人間であるお方、イエズス・キリストを生むという、最もすぐれた業を行った。そのためにまたマリアは、世の終わりにあらわれる最も偉大なものをつくるであろう。世の終わりの近くになって現れる大聖人は、マリアによって作られ、教育されるものであろう。なぜなら、聖霊と共に、もっとも大きな不思議を行うことが出来るのは、この不思議なおとめただ一人だからである。 

36 ある霊魂の中にマリアが住んでいるのを見つけると、その花婿である聖霊は、その霊魂に入り、豊かにご自分をお与えになる。この霊魂が、聖霊の花嫁マリアに場所をゆずればゆずるほど、聖霊も、ますます豊かにお下りになる。このごろ、聖霊が、霊魂の中に不思議を行いになることが少ないのは、ご自分の忠実な不可分的な花嫁マリアと一致する霊魂が少ないからである。不可分的な花嫁と私は言った。なぜなら、おん父とおん子との本質的な愛である聖霊は、選ばれたものの頭であるイエズスを、そしてまた、選ばれた者の中にイエズスを、マリアを通して生み出そうとなさって以来、マリアが常に忠実そのものであり、また、マリアがいつも豊かな産み育てる力に恵まれているからこそ、聖霊はマリアを棄てられることが出来なかったのである。 

第一の結果―心の女王マリア 

37 以上述べたことから、マリアは、「選ばれた人々の霊魂を支配する権力をうけた」と結論してよいだろう。おん父である神から命じられたように、マリアは、選ばれた霊魂のうちに住み、養い、その中にイエズス・キリストをつくり、徳の根を伸ばそうと働かれる。それは、「いと高きもの」から、霊魂に対する権利と支配権をうけてこそ初めて出来る業である。神の本性をもつおんひとり子に対しての権力をマリアに与えられた「いと高きもの」は、神の養子たちに対しても、その権力を与えられたのである。その権力は、体の上にだけではなく、霊魂にも及ぶのである。

38 マリアは恵みによって、天地の女王である。その本性と支配権とにおいて、イエズス・キリストが天地の王であると同時に。そして、イエズス・キリストの王国は、「神の国は、実に、あなたたちの中にある」とあるとおり、主として人間の霊魂に存在するものであるが、聖なるおとめであるみ国もまた、人間の霊魂にある。そのために、私たちは、聖人たちと共に、マリアを「心の女王」と呼ぶのである。 

第2の結果―人間がその目的に到達するためには、マリアが必要である 

39 神の思し召しに基づくものであるから、絶対的に必要だとは言えないにしても、神にとって聖なるマリアが必要であったとすれば、人間がその究極目的に達するためには、それ以上に聖母が必要であると言わなければならない。だから、マリアへの崇敬を、他の聖人たちへの崇敬と同等に取り扱ってはならない。聖母への信心は、何よりも第一に必要なことである。 

(1)聖母に対する信心は救いを得るために必要である。 

40 聖アウグスティヌス、エデッサの助祭聖エフレム、エルサレムの聖チリロ、コンスタンティノポリスの聖ゲルマヌス、ダマスコの聖ヨハネ、聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルディーノ、聖トマス・アクィナス、聖ボナヴェントゥーラなどの教父の思想に基づいて、学識と敬虔とに富むイエズス会のスワレス師、同じくルーベンの博士ユスト・リプシウス、その他の学者たちは、聖母への信心が、救いのために、ぜひとも必要なものであることを、明白に証明した。そして―エコランパディウスなどの異端者さえも、その意見であったが―聖なるおとめに対して崇敬と愛とを持たないのは、例外なく亡びるしるしである。その反対に、マリアに対して全面的な真実な信心を持つものは、確実に救われるしるしであると断言した。 

41 旧約聖書の前表も、新約聖書の言葉も、それを証明し、聖人たちの行いと言葉もそれを確認し、人間の理性と敬虔もそれを是認する。悪魔とその一味のものでさえ、真理の力に抗しきれずに、やむなくそれを告白する。聖なる教父たちと教会博士たちは、この真理を証明するために数多い断言をしたが、私はそれをたくさん集めたが、その文献の中からあまり長くならないように、目立っているただ一つだけ記しておこう。ダマスコの聖ヨハネの次の言葉である。「聖母に対する信心は、神が選ばれた人々にお与えになる救霊の武器である」と。 

42 この真理を証明するおびただしいエピソードの中で次の二つを記しておこう。
(A)アッシジの聖フランシスコの伝記の中にある。彼は脱魂状態にあって、天まで届く高い梯子を見た。その上端に、聖母が立っておられた。これによって彼は、天に行くために聖母を通してのぼらなければならないことを示されたのである。 

(B)もう一つは、聖ドミニコの伝記の中にある。彼がカルカソンという町の付近で、ロザリオの説教をしたときのことである。一人の異端者の霊魂を占領していた一万五千の悪霊が、偉大な慰めである聖母への信心について告白せよと、聖マリアから命じられて、仕方なくそれに従った。聖母への信心について悪魔が告白させられたこの誉め言葉を読むと、聖母に冷淡な人々さえも、喜びと感謝の涙をとどめえないであろう。 

(2)完徳に召されている者にとっては、特に必要である 

43 聖なるおとめのおん母に対する信心が、救いのために必要なら、特に完徳に召されている者にとっては、なおさら必要である。ある人が、聖母と一致してそのおん助けによりたのむなら、主イエズス・キリストと一致し、聖霊に対して完全な信仰を得るようになれると、私は思う。 

44 他の被造物の助けを借りないで、神に受け入れられたのは、マリアただお一人である。その後に神に受け入れられた者は、マリアの助けを借りたものであり、今後もそうであろう。大天使ガブリエルのあいさつを受けたとき、聖マリアは恵みに満ちあふれていた。また、聖霊の言い尽くし難いかげに覆われたとき、その恵みは満ちあふれるばかりとなった。その後、マリアは、この恵みを、日々ますます増加させたので、その莫大な恵みは、おそらく私たちの想像を許さない程のものである。そのために神は、マリアを、ご自分の財宝の管理者とし、ご自分の恵みの分配者とされた。それは、マリアが望む人間を高め、豊かにし、狭い天の門をくぐらせ、玉座と王笏と王冠とを分け与えようと思し召されたからである。イエズス・キリストは、常に、どこにあっても、マリアの果実であり、おん子である。マリアは、常にどこにあっても、生命の実をもつ木であり、おん母である。 

45 神はマリアだけに、神の愛の部屋(=神殿)に入る鍵を与え、完徳のもっとも神秘な道に入らせ、他の人もそこに導き入れる力を与えられた。敵の攻撃に会うこともなく、死を恐れることもなく、命と善悪を知る木の実を楽しく味わい、ほとばしる泉の水を心ゆくまで飲ませるために、不忠実だったエヴァの、あわれな子たちを、楽園に呼び入れられるのは、マリアだけである。いやむしろ、罪人のアダムとエヴァが追い出されたあの清らかな喜びの祝福のエデンは、マリア自身であると言ってよいだろう。マリアがご自分に呼び入れられるのは、聖人になさろうと望む人にだけである。 

46 聖ベルナルドの説明に基づき、聖霊のお言葉を借りて言えば、「民の中の大金持ち」は、世々にいつもそのみ顔を仰ぎ望むであろう、特に世の終わりが近づいたころには、大聖人、恵みと善徳に富む人々は、聖なるおとめに祈り、マリアを模範とし、力強い助け手として、マリアへの信心を強めようと努めるだろう。 

(3)世の終わりが近い頃に、マリアの信心は特に必要となる 

47 「それは、近い世の終わりに起こることであろう」と私は言った。「いと高きもの」は、聖なるマリアと共に、大聖人たちを起こすであろう。この大聖人たちはレバノンの糸杉のように、聖徳において、他の聖人たちを越えるであろう。ド・ランティが伝記を書いたある聖なる霊魂に啓示されたのも、それである。 

48 恵みと熱心に満ちたこの偉大な聖人たちは、八方に荒れ狂う神の敵を打ち破るために、神から選ばれた者である。彼らは、特に聖母に信仰を持ち、聖母の光に照らされ、その乳で養われ、その精神に指導され、そのおん腕に支えられ、そのご保護に守られる人々である。彼らは、一方の手で戦い、一方の手でうち建てるであろう。一方の手では、異端者とその異端、離教者とその離教、偶像崇拝者とその偶像、罪人とその罪とを倒し破壊するであろう。また、他方の手では、まことのソロモンの神殿と、神の神秘の町とを建設するであろう。つまり、それは、聖なるおん母のことである。教父たちは、マリアを、ソロモンの神殿、あるいは神の町と呼んでいる。彼は、自分たちの模範と言葉をもって、すべての人々を聖母への信心に導くであろう。そのために彼らには、おびただしい敵が刃向かってくるであろうが、また一方には神のために、計りがたい勝利と栄光がもたらされるであろう。それは、その時代の大使徒であった聖ヴィンチェソシオ・フェレーリに啓示されたことであり、彼がその著書に見事に書き残していることである。聖霊は、詩編にも、それを啓示しておられるようである。「ヤコブは神が治められると、皆に知らせよ、地の果てまで。彼らは、夕べに帰って、犬のようにうなり、町をかけ回る」。世の終わりが近い頃、改心するために、そして正義の飢えをみたすために人々が見つけるであろうこの町は、聖霊が「神の町」と呼ばれる聖なるおとめである。 

第3節 世の終わりにおけるマリアの特殊な役割 

49 世の救いは、マリアによって始まり、マリアによって完成されるのである。イエズス・キリストがはじめてこの世にお現われになったとき、おん母の姿がほとんど噂にのぼらなかったのは、おん子のことを充分に理解しない人間が、あまりに強く、あまりに無分別に、マリアに愛着することを、神が望まれなかったからである。マリアの表にも輝き出るその美しさに、人間があまりに激しく執着するおそれは充分にあった。アレオパゴスの聖ディオニジオは、「マリアを見たとき、その内的な魅力、その不思議なほどの美しさに打たれ、深い信仰が、そうでないと教えなかったら、一人の女神と間違えただろう」と書き記している程である。しかし、イエズス・キリストが再臨の時になれば、マリアも知られ、聖霊によって現わされるであろう。それは、マリアが知られることによって、イエズス・キリストが知られ、愛され、奉仕されるためである。聖霊が、ご自分の花嫁マリアを、その生涯片隅に隠し、福音の宣教に際しても、ほんのわずかしか現わさなかった理由は、もう存在しないからである。 

(1)マリアは啓示される 

50 ゆえに、神は、世の終わりに当たって、マリアを啓示し、ご自分のみ手の傑作であることを知らせられるであろう。その理由は、次の通りである。 

1・この世に生きておられた間、マリアは、塵よりも低くへりくだり、その謙遜によって、身を隠しておられた。また、神と、その使徒たちと、福音史家たちに、ご自分を公に知らせないようにと、お頼みになったかもしれない。 

2・地上においては恵みによって、天においてはその栄光によってマリアは実に、神のみ手の傑作である。そのため神は、この点において、人間から栄光を帰せられ、称賛されることを望まれる。 

3・マリアは、正義の太陽であるイエズス・キリストに先立つ暁の星である。ゆえに、イエズス・キリストがあまねく知られておられるように、マリアも知られなければならない。 

4 マリアは、イエズス・キリストが地上にお下りになられた道であるから、イエズス・キリストが再臨になられる時にも、違った方法であろうが、マリアを通して行われるであろう。 

5 マリアは、イエズス・キリストを完全に見つけるための確実な手段であり、汚れのない道であるから、聖徳を輝かせるべき聖なる霊魂たちは、マリアによって、イエズス・キリストを見つけなければならない。マリアを見出す者は、道を、つまりイエズス・キリストを見出すであろう。イエズス・キリストこそは、道であり、真理である。しかし、探さないなら、マリアを見出すことはできない。また、マリアを知らないなら、探そうとはしないだろう。知らない者は、探そうとも、求めようとも望まないからである。ゆえに、聖なる三位一体をより明らかに認識し、より大きな栄光を帰するために、さらによくマリアを知る必要がある。 

6・特に、この最後の時代においては、マリアのあわれみと恵みが輝くであろう。改心してカトリック教を信じなければならないあわれな罪人を導き、迎えるために、マリアのあわれみが必要である。約束と脅迫とで人々を迷わす偶像崇拝者、棄教者、回教信徒、ユダヤ人、改心を拒む罪人などの、神の敵に対して、マリアの大きな力が必要である。また、イエズス・キリストのために戦う勇敢な兵士と忠実なしもべとを鼓舞し、支持するために、とくにマリアは、恵みにおいて輝かなければならない。 

7・特にこの時代に、マリアは、サタンに対して戦闘準備を整えた軍隊のように、雄々しくあらねばならない。なぜなら、悪魔は、最後の悪あがきをするだろうからである。あらん限りの力をつくし、大迫害を引き起こし、特にマリアの忠実なしもべたちを目標に、打ってかかるだろうからである。 

(2)マリア方とサタン一味との戦い 

51 楽園において、神が蛇に向かって仰せられた最後の有名な預言と威嚇とは、反キリストの国を建てるまで日々ますますつのるサタンの残酷な迫害に対して、特に考え合わせなければならない言葉である。今ここに、その神のみ言葉を、聖なるおとめの栄光のために、聖母の子らの救いのために、悪魔の不名誉のために、説明する必要があろう。「お前とかの女の間に、またお前の子孫とかの女の子孫との間に、私は敵対を置こう、彼は、お前の頭を踏み砕き、お前は、彼のかかとをかむであろう」 

52 神が置かれた唯一の敵対は、最後の日まで止まることなく増大するものである。つまりそれは、聖なるおん母マリアと悪魔との、聖母のしもべたちとルチフェルの子らとの敵対である。つまり、神がつくられた最もおそろしい「悪魔の敵」は、神のおん母である。楽園の預言のとき、マリアは、まだ神のご計画の中に存在したにすぎなかったが、しかもその時からすでに、マリアの中に、神に呪われた敵に対する激しい憎悪と、蛇の悪意を見抜くするどい賢明と、この傲慢な不敬なものを踏み砕く絶大な力とを与えられていた。それで、悪魔は、すべての天使や人間はいうまでもなく、ある意味では神ご自身よりも、マリアを恐れている程である。といっても、もちろん、限りある被造物にすぎないマリアよりも、神のおん怒り、おん憎しみ、ご勢力は、想像を絶する強大なものである。それなのに、なぜ悪魔が、それほどにマリアを恐れるのかといえば、まず第一に、傲慢なサタンは、神の謙遜な小さなはしために負けて罰せられることを、神ご自身に負けるよりも辛く感じる。謙遜なマリアに負けることは、偉大な神の勢力に屈するよりも、サタンにとって恥辱である。神は、悪魔にうち勝つ絶大な力をマリアに与えられた。だから、悪魔は、しばしば悪魔つきの口を通して、真実を告白しなければならないことがあった。悪魔にとっては、聖人全部の祈りを一まとめにしたよりも、聖母の一つの嘆きや願いが恐ろしく、他のどんな苦しみよりも、聖母の一つの脅しのほうが恐ろしかった。 

53 ルチフェルが、その傲慢によって失ったものを、マリアは謙遜によって受け、エヴァが不従順によって失くしたものを、マリアは従順によって得た。蛇に服従したエヴァは、自分をはじめすべての子らを悪魔の手に渡してしまった。しかし、完全に神に忠実であったマリアは、ご自分のすべての子らを救い、彼らを、いと高き神に奉献したのである。 

54 神は、マリアと悪魔との間に敵対を置いたばかりでなく、マリアの末と悪魔の末との間にも敵対を置かれた。つまり、マリアの子らとの間には、反感と敵対と憎悪がある。ベリアルの子ら、サタンの奴隷たち、世間の友人(皆同じことだが)は、今でもそうであったように、これからもますます聖なるマリアの味方につく者を迫害するであろう。ちょうどその昔、カインが兄弟アベルを、エサワが兄弟のヤコブを迫害したと同様に。それは、救われる人々と、亡びる人々との前表である。しかし、マリアは常に勝つであろう。そして、傲慢の居住である敵の頭を踏み砕くであろう。マリアは、蛇のわなを見抜き、脅迫を未然に防ぎ、世の終わりまで、ご自分の忠実なしもべたちを、敵の残酷な足から守りぬくであろう。 

(3)世の終わりのときの使徒たち 

55 サタンがマリアの足のかかとに襲いかかるとき、つまり、悪魔に対抗するために謙遜なしもべたちを、マリアが起こして攻撃させるとき、マリアの権力は、特に明らかに、輝かしく発揮されるであろう。このしもべたちというのは、世間の目で見れば、もっとも小さく貧しい者であり、足のかかとのように皆に軽蔑されるものであり、踏まれ、迫害されるものである。しかし、天の目で見れば、マリアから分配される恵みに富むものである。彼らは、神のみ前に、徳に富む者であり、その熱心さのためにすべての人々の上に立つものであり、かかとのように謙遜であるために、マリアと一致して悪魔の頭を踏み砕き、イエズス・キリストの勝利に協力するものである。また、神は、その聖なるおん母が、もっとよく知られ、もっと愛され、今までよりも、もっと尊ばれることを、お望みになる。救われる人々が、聖霊の恵みと光とに導かれて、内的な完全な信心を行えば、必ず、神のそのお望みは達せられるであろう。信仰の深さに従って、彼らは、「海の星」であるマリアをよりはっきりと認め、その聖母の指導にまかせれば、嵐があっても、海賊が襲っても、無事に、目的の港に着くことができるであろう。そして、この女王の偉大さを知った彼らは、マリアの家来であり、愛のしもべであることを誇りとして、自分自身を捧げるであろう。マリアの母のような慈愛と甘美さとを知った彼らは、愛される子供の喜びをもって、マリアを愛するであろう。自分たちに、マリアのあわれみがどんなに必要であるかを知った彼らは、愛する弁護者として、イエズス・キリストへの取り次ぎ者として、マリアに信頼するであろう。イエズス・キリストに達するための、もっとも安全な、もっともやさしい、もっとも近い、もっとも安全な道がマリアであることを知った彼らは、イエズス・キリストのものとなるために、自分の霊魂と体とを、無条件でマリアに委託するであろう。ところで、このマリアの家来、マリアのしもべ、マリアの子らとは、何であろうか?それは、あちらこちらに神の愛の火を点じるものであり、神の敵を降伏させる力強いマリアの手から放たれる鋭い矢であり、燃え盛る烈火のような主の奉仕者である。また、彼は、偉大な艱難の火によって浄められ、完全に「主につく者」であり、レヴィの子孫である。彼は、愛の黄金を心に持ち、祈りの香りを精神に持ち、節制の投薬を体に持っている。貧しい小さな人に対しては、彼らは、イエズス・キリストのよい香りであるが、傲慢な人々や富におごる人々にとっては、死の臭気である。 

57 彼らは、聖霊の息吹によって空中に舞い、雷鳴を生む雲のようでもある。彼らは、どんな物にも執着せず、どんなことにも驚かず、どんなことにも心配せずに、神のみ言葉と、永遠の生命との雨を降らせるであろう。彼らは、罪に対して雷鳴のようにとどろき渡るものである。彼らは、世俗を叱責し、サタンとその一味とを打ち叩き、神のみ言葉という両刃の剣を使って、一方では生命のために、一方では死のために、すべての人々を片っ端から刺し貫くであろう。 

58 力ある言葉が与えられ、不思議を行って、敵の上に輝かしい勝利を得る能力を与えられるまことの使徒は、彼らである。彼らは、他の司祭や聖職者と共に、黄金も銀も持たないが、何の心配もなく生活している。しかし、聖霊に招かれる所には、神の栄光を霊魂の救いという混じり気ない意向をもって出向いて行くための、雌鳩の銀の翼をもっている。そして、自分たちが説教した土地に、「律法の完成」であるところの愛徳の黄金を残すであろう。 

59 最後に、私たちは、清貧、謙遜、脱俗、愛徳などの、イエズスの足跡を踏むまことの弟子が、彼らであることを知っている。彼らは、世間の教えではなく福音に従って、神の真理を教え、どんなことにも心配せず、どんな人の前に立っても、卑屈ではない。悪を許さず、聞かず、恐れない。彼らは、口に神のみ言葉を持ち、肩に血まみれの十字架と旗を持ち、右の手にイエズスの十字架を持ち、左の手にロザリオを持ち、心にイエズスとマリアの聖なるみ名を持ち、行いの上にイエズスの慎みと節制とを再現する人々である。来るべき「偉大な人々」とは、彼らである。「いと高きもの」のご命令によって、マリアは、彼らを立たせた。それは、無信仰者、偶像崇拝者、回教徒などを改心させて、神のみ国を広げるためである。しかしそれが、いつ、どんなふうに実現されるかは、ただ神だけがご存知のことである。私たちとしては、ただ、黙って、祈り、願い、期待するばかりである。 

第2章 聖母マリアに対する信心とは何か 

基礎的真理 

60 今まで私は、聖母マリアに対する信心がなぜ必要かについて卑見を述べてきたが、これから、その信心とはどんなことかについて、述べ進みたいと思う。神のおん助けを借りて、私は、この偉大な信心の前提ともいうべき基礎的真理を、まず考えてみたいと思う。 

(1)第一の真理―マリアへの信心の最終目的は、イエズス・キリストである 

61 まことの神であり、まことの人間である私たちの救い主イエズス・キリストは、あらゆる信心の最終目的である。そうでない信心は誤った信心であり、人を惑わすものである。イエズス・キリストは、すべてのものの「アルファ」であり、「オメガ」である。すべてのものの始まりであり、終わりである。使徒パウロが言っているとおり、私たちが働いているのは、すべての人々を、イエズス・キリストにおいて完全なものにしようとするためである。つまり、イエズス・キリストだけに欠けるところなき神性、欠けるところなき恵み、聖徳、完全さがあるのである。私たちは、イエズス・キリストによって、霊的に祝福された。私たちを教え導く唯一の先生はイエズスであり、私たちが従うべき唯一の主はイエズスであり、私たちが一致すべき唯一の頭はイエズスであり、私たちが模範とすべき唯一の手本はイエズスであり、私たちがついて行く唯一の道はイエズスであり、私たちを養う唯一の牧者はイエズスであり、私たちを治す唯一の医者はイエズスであり、私たちが信じるべき唯一の真理はイエズスであり、私たちを生かす唯一の生命はイエズスである。つまり私たちを満足させる唯一の「完全なもの」は、イエズス・キリストである。私たちが救われるのは、イエズス・キリストのみ名以外のなにものでもない。私たちの救い、私たちの完徳、私たちの栄光の土台として、神は、イエズス・キリスト以外のものを置かれなかった。イエズス・キリストという岩の上に立っていない建物は、砂の上に立てたようなもので、遅かれ早かれ、倒壊してしまうであろう。ぶどうの木であるイエズスに、しっかりとついていない枝は、すぐ枯れ落ちて、火に投げ込まれるであろう。イエズス・キリスト以外のものはすべて、迷いであり、虚偽であり、罪悪であり、無駄なものであり、死と滅びとである。だが、私たちが、イエズス・キリストによりたのみ、イエズス・キリストが私たちのうちにおいでになるなら、私たちは、恐れも亡びもない。天の天使たちも、地上の人間も、地獄の悪魔も、他のどんなものも、私たちを傷つけることはできない。なぜなら、イエズス・キリストにある神の愛から、私たちを離せるものはないからである。イエズス・キリストと共に、イエズス・キリストにおいて、イエズス・キリストによって、私たちはどんなことでも出来るのである。つまり、聖霊と一致して、おん父に栄光と名誉を招き、私たち自身を完成させ、隣人に対しては、永遠の生命の香りを感じさせることができる。だから、聖なるおとめに対する信心を深めることは、イエズス・キリストに対する信心をもっと完全にするための、イエズス・キリストを見つけるための一番確かな、やさしい手段を見つけることに他ならない。マリアへの信心が、私たちの心をイエズス・キリストから引き離すことになれば、それは、悪魔の迷いに違いない。しかし、先にも言ったとおり、また、これから述べるとおり、決してそんなことはない。だから、イエズス・キリストを見出し、心から愛し、忠実に仕えるためには、どうしても、おん母への信心が必要である。 

63 ここで私は、おお、愛するイエズスよ、あなたの方をふり仰いで、キリスト信者のほとんどが、学問のある者もない者も、あなたとあなたのおん母との間に、どれほど深い結びつきがあるかをよく理解していないという点について、心から嘆きたいのです。主よ、あなたはいつもマリアと共にあり、おん母はいつもあなたと共におられます。あなたなしにはあり得ないのです。ですから、おん母は、もう、マリアという存在は生きていないと言えるほどに、恵みによって、あなたご自身に変化しておられるのです。おお、私のイエズスよ、どんな天使よりも、どんな聖人よりも、おん母の中において、より完全に生き、治められるのは、あなたです。ああ、もし、この美しいおん母によって、あなたがどれほどの愛と栄光とを受けておられるかを知ったら、きっと世の人々も考え直すでしょう。太陽から光を引き離し、火から熱を取るほうがもっと容易であろうと思われるほどに、聖母は、あなたと強く一致しておられます。いや、それどころではなく、すべての天使と聖人とをあなたから引き離すほうが、マリアお一人を引き離すよりも容易でしょう。マリアこそは、どんな被造物よりも熱くあなたを愛し、誰よりもよく、あなたに栄光を帰しておられるからです。 

64 こう考えてくると、愛する私の主よ、この世の人々が、あなたの聖なるおん母に対して、これほどに無知であると知るのは、嘆かわしく、驚くべきことではありませんか。と言っても、私は今、あなたを知らないからおん母をも知ろうとしない、偶像崇拝者や異教徒を相手にしているのではありません。また、あなたと、そしてあなたの聖なる教会から離れて、自然に、おん母をないがしろにする異端者や離教者について話しているのでもありません。私が、誰について話しているかと言えば、カトリック信徒たち、いやそればかりではなく、人々に真理を教えることを恥としているカトリックの教師たちについてです。これらの人々は、冷たい理論と、血も熱もない冷淡さでしか、あなたとあなたのおん母のことを考えようとはしません。聖なるあなたのおん母と、そのおん母に対する信心について、あまり話そうとしません。それはなぜかと言うと、おん母をあまり尊ぶことは、あなたへの侮辱になると、彼らは言うのです。そうでしょうか?聖なるおん母を深く信心しているある人が、この信心は、迷いのない確実な手段だ、危険のない近道だ、完全に清い道だ、キリストへの愛に至る不思議な神秘だ、と見事に証明したとします。すると、先にいった人々は、その信心家をけなし、聖母に対する信心について、そういうふうに話してはいけない、それは迷いになりやすい、むしろその信心を弱めるように努めて、人々をイエズスだけ向けさせなければならないと申します。彼らも、時々は、あなたのおん母について話しますが、それはその信心をすすめるためではないのです。彼らは、マリアへの信心を持っていないから、当然、あなたへの信心も持っていないわけです。ですから、ロザリオとか、スカプラリオとかは、無学者か老婆の信心の道具であって、救いのために必ずしも必要なものではないと申します。聖母を信心している人が堕落するようなことがあると、これ見よと言わんばかりに、聖母への信心をやめて、七つの詩編を唱えよとか、イエズス・キリストへの信心をせよなどとすすめます。おお、愛するイエズスよ、この人たちが、本当にあなたの精神を持っていると言えるでしょうか?彼らのこのやり方は、あなたをお喜ばせするものでしょうか?あなたのお気に入らないのではないかと恐れて、あなたのおん母のお気に入るように努力しないことが、果たしてよいことでしょうか?おん母への信心が、あなたへの信心を妨げるでしょうか?おん母への尊敬は、おん母のためだけのものでしょうか?聖母のお気に入るように努めることは、あなたのお気に召さないでしょうか。聖母に自分を捧げて、マリアを愛することが、あなたへの愛から遠ざかることになるのでしょうか? 

65 それなのに、愛する主よ、学者と言われる多くの人は、私が今言ったことを肯定するかのように、人々を、聖母への信心から引き離そうと熱を入れています。それは、彼らの傲慢の罰ではなくて何でありましょう。主よ、彼らのそういう考え方から、私を守ってください。そして、私があなたを模範とし、あなたに従えば従うほど、あなたを愛し、あなたの栄光のために働くことができますように、私を守ってください。あなたが、あなたのおん母に対して抱いておられる感謝と尊敬と愛の気持ちを、私たちにも分けてください。 

66 また、私のつたない手を導き、「聖なるおん母にふさわしい尊敬と称賛とを捧げられるように恵みを与えてください」。私も、聖人たちと共に、こう唱えましょう。「聖なるおん母を侮辱する者は、神のあわれみを願う資格がない」。 

67 あなたのあわれみによって、おん母に対するまことの信心を受け、それを地上にあまねく広められるように、あなたへの熱烈な愛を与えてください。聖アウグスティヌスをはじめ、あなたの真の友人たちと共に捧げる私のこのあつい祈りを、どうぞ聞き入れてください。「イエズス・キリストよ、あなたは聖なる父であり、あわれみ深い神であり、偉大なる王です。また私のよい牧者であり、唯一の恩師であり、もっともよい助力者です。また、私の生きるパンであり、永遠の司祭であり、この上なく美しいものであり、み国への導き手であり、まことの光であり、聖なる甘美さです。そしてまた、私の曲がることのない道であり、比類ない上智であり、汚れない単純さであり、なごやかな調和です。あなたこそは、私の保護者であり、私の永遠の救いです。ああ、イエズス・キリスト、愛する主よ、なぜ私は、神であるイエズス以外の何ものかを望もうとしたのでしょうか?私の心があなたから離れていたとき、私は一体どこにいたのでしょうか?私の希望よ、今より後は、主イエズス・キリストに向かって猛然と流れ込め。遅れていることに気づいた今、一心に走れ、目標に向かって急げ、探しているものを探し出せ。イエズスよ、あなたを愛さない者は破門されよ。あなたを愛さない者は、苦しみで満たされよ。…おお、限りなくやさしいイエズスよ、あなたの栄光のために身を捧げた心が、あなたを見出し、あなたにおいて楽しみを見つけ、あなたをほめ称えますように。私の心の主であり、私の賜物であるイエズス・キリストよ、私の心が失われ、その代わりに、あなたが私の中で生きてくださいますように。私の心に、あなたへの愛に燃える火が起こり、それが、心の祭壇に、絶え間なく燃え盛り、私の心を焼き、霊魂の奥底を燃えさせ、やがて、私の死の日に、あなたへの愛の火に燃え尽くされたものとして、あなたのみ前に現れることができますように。アーメン。 

(2)第2の真理—私たちは、イエズス・キリストとマリアのものである 

68 私たちにとって、イエズス・キリストは何に当たるかという観点から見れば、使徒パウロが言っているように、私たちは、私たち自身のものではなく、まったくイエズス・キリストのものである。無限に高価な値でもって、つまり、ご自分のおん血をもって、キリストに贖われた肢体として、そして奴隷として、私たちは、イエズスのものである。私たちは、洗礼の前には、サタンの奴隷であった。洗礼を受けてのち、イエズス・キリストの奴隷となった。だから私たちは、この「神であり人である」お方のために実を結ぶように。イエズスのために生き、働き、死ななければならない。また私たちの体において、イエズスが栄光を受けられるように努め、「イエズス」を私たちの心の王としなければならない。私たちは、イエズス・キリストに征服されたものであり、選ばれたものであり、遺産を継ぐべきものだからである。このために、聖霊は、 

  1. 恵みの水にそって教会の畑に植えられ、時が来ては実を結ぶ木に、 
  2. イエズス・キリストという木についていて、よいぶどうの実を結ぶ枝に、 
  3. イエズス・キリストに牧され、養われ、数を増やす羊の群れに、 
  4. 神に種をまかれ、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍の実を結ぶよい地に、私たちをなぞらえられたのである。


イエズス・キリストは実を結ばないいちじくの木を呪い、預けられたタレントを増やさなかった役立たずのしもべを罰せられた。つまり、イエズス・キリストは、貧しい私たちも、何かの実を得ようと望まれるのである。その実とは、善業である。と言っても、この善業は、ただ、イエズスのみのものでなければならない。「私たちは、神が予め備えられた善に励むよう、キリスト・イエズスによって新たにつくられた者である」。聖霊のこのみ言葉が私たちに教えることは、イエズス・キリストこそ、私たちの善業の唯一の原因であり、目的であること、また私たちは、使用人としてではなく、愛の奴隷として、イエズスに奉仕しなければならないこと、これである。今言ったことをもう少し説明しよう。 

69 この世では、他人の権威に従属するために、二つの様式がある。一つは普通の使用人、しもべであり、もう一つは奴隷である。ある人は使用人であり、ある人は奴隷である。使用人というのは、ある期間、ある賃金で、あるいは、ある報酬を得て、ある人に仕えると契約した人である。奴隷は、一生涯、完全にある人のものになってしまうのであって、賃金や報酬を要求できない。主人は、その生殺与奪権を持っている。家畜となんら変わるところはない。 

70 奴隷の中にも、三種類ある。本来の奴隷と、強制的奴隷と、自発的奴隷との三つである。本来の奴隷という点から見れば、被造物はすべて、主のもの、神の奴隷である。「地とそこにあるもの、世とそこに住むもの、すべて主のもの」。悪魔と亡ぶべき霊魂とは、強制的奴隷であり、義人と聖人とは、自発的奴隷として神に従属する。自発的奴隷は、もっとも完全なものであって、神に栄光を招くことができる。なぜもっとも完全なものであるかというと、その人は、それが本来の義務ではないにも関わらず、すべてのものに超えて、神と神への奉仕を選ぶからである。神は心を見、心に要求されるもので、心の神、あるいは、愛をもつ意志の神と呼ばれている。 

71 しもべと奴隷とは全く異なるものである。 

  1. しもべは、自分自身、自分の所有するもの、自分あるいは他人によって自分が取得するもの、それらを全部主人に与える義務はない。ところが奴隷は自分自身、自分の所有するもの、自分が収得するもの、それらを全部主人に与えなければならない。 
  2. しもべは、主人への奉仕に対して、その報酬を要求することができる。しかし、奴隷は、どんなに勤勉に、どんなに巧妙に、どんなに精力を使って働いたとしても、その報酬を要求することができない。 
  3. しもべは、望みのままに、いや少なくとも仕事の期間が終わったら、主人のところを去ることができる。しかし、奴隷には、望みのままに主人のもとを去る権利がない。 
  4. しもべに対して、主人には生殺与奪権がないから、もししもべを殺したとすれば、その罰を受けなければならない。しかし、奴隷の主人には、法律によって、奴隷の生殺与奪権が与えられているから、馬や牛のように奴隷を売っても殺してもかまわないことになっている。 
  5. しもべがある主人に仕えるときには、期間を契約するが、奴隷は、そうではない。 

72 人間の世界では、一人の人間を他の人間の所有物にするため、奴隷制度以上の制度はない。キリスト教の世界でも、絶対的にイエズス・キリストと聖なるおん母のものになるために、自発的奴隷となる以上の方法はない。私たちを愛するあまり「奴隷の姿をとった」イエズス・キリストは、そのよい模範である。また、聖なるおん母も、「主のはしため」「主の奴隷女」と、ご自分のことを呼んでおられる。使徒パウロは、喜びと誇りをもって、自分から「キリストの奴隷」と名乗った。また聖書はキリスト信者を「キリストの奴隷」としばしば呼んでいる。「しもべ」という言葉は、ある学者が言っているように、昔は「奴隷」の意味だけに用いられていた。昔は、使用人と言えば、奴隷のことで、現在のような形の使用人や働き人ではなかったからである。トレント公会議のとき、キリスト信者がイエズス・キリストの奴隷であることを、無条件に明瞭に認めて、「キリストの奴隷」と呼んだ。 

73 私たちは、使用人としてではなく、愛の奴隷であることの喜びと誇りをもって、イエズス・キリストに奉仕しなければならない。洗礼の前、私たちは、悪魔の奴隷であったが、それが洗礼によって、イエズス・キリストの奴隷となった。つまり、キリスト信者は、キリストの奴隷か、そうでなければ、悪魔の奴隷である。 

74 イエズス・キリストについて、今までに絶対的な表現を使って述べてきたことは、相関的に、聖母についても言えることである。イエズス・キリストは、そのご生活とご死去と、栄光とおん力との、分かち難い協同者として、聖母マリアを選ばれたのである。そのために、イエズスが本性として持っておられるすべての特権と権力とは、恵みによって、マリアにも与えられたのである。「本性として神が持つものは、恵みによってマリアにもある」と、聖人たちも言っている。これによって、神とマリアとは、同じしもべ、同じ奴隷を持っているわけである。 

75 それで、聖人たちと、多くの権威ある学者たちの意見に従えば、より完全にイエズス・キリストの奴隷となるためには、聖なるおん母マリアの、愛の奴隷とならなければならない。おとめ聖母マリアは、主イエズス・キリストが私たちにお下りになるためにお使いになった手段である。したがって私たちは、イエズス・キリストに至るために、マリアを通してしなければならない。他の被造物の場合、それに愛着すると、神に近づくよりもむしろ遠ざけるようなものがあるが、マリアはそうではない。そればかりではなく、マリアのもっとも強烈な望みは、私たちを、おん子イエズス・キリストに近づけたいことである。また、おん子のもっとも強い望みは聖なる御母を通して、私たちをご自分に近づけたいことである。それはちょうど、女王のより良い奴隷となることが王の喜びとなり、名誉ともなるのと同じである。そのために、聖なる教父たちの意見についで、聖ボナヴェントーラも、聖なるおとめは、私たち主に行き着くための道であると言った。「マリアに近づくことは、キリストに行き着く道である」。 

76 先に言った通り、マリアが天地の女王であり、聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルディーノ、聖ボナヴェントーラなどが言うように、「見よ、すべては神の支配にある、おん母も。見よ、すべてはおん母の支配にある、神も」と言うことが出来るなら、マリアのしもべは、この世の被造物と同数であろう。これほど数多い強制奴隷の中に、女王であるマリアへの愛の奴隷となる善意の人々があるのは、当然ではなかろうか。人間にも悪魔にも、自発的な奴隷があると言うのに、マリアにないわけなかろう。この世の王様は、妃である女王に奴隷があることを喜び、女王の名誉と権力とを自分の名誉とし、権力とする。そして、私たちの主がご自分の権力をおん母に分け与えたのなら、マリアが奴隷を持つのを喜ばないわけはなかろう。アスエロ王は自分の王妃エステルを尊び、ソロモンはベツァベアを尊敬したが、主イエズス・キリストがそれ以上の尊敬と愛とを、おん母に対してお持ちにならないわけがあろうか。そんなことを誰が言えるだろう、だれが考えることすらできるだろう。 

77 私は何を言おうとしているのだ。これほど明らかなことを、証明しようとするだろうか。自分はマリアの奴隷と言いたくないなら、言わなくてもよかろう。自分は、イエズス・キリストの奴隷と名乗れば、つまりマリアの奴隷でもある。実にイエズスは、マリアの果実であり、栄光である。私がこれから話す信心を行えば、完全に、イエズスの奴隷となれるのである。 

(3)第3の真理—私たちは、自分の持っている悪い傾きを脱ぎ取らねばならない 

78 私たちが、よいと考える行いさえも、普通は、私たちの心底にある悪いものによって、汚され、濁らされている。清い水であっても、それを、汚れた容器に入れたり、すえたぶどう酒の残っている瓶に新しいぶどう酒を入れたりすると、悪い臭いがついてしまって、なかなか取れない。それと同様なことであるが、私たちの霊魂の器は、原罪と自罪とで濁らされているので、その中に、神の恵みや、香しい天の朝露や甘露な愛のぶどう酒が注ぎ入れられても、普通は、濁らされて、汚されてしまうのである。つまり、私たちの好意は、どんな高尚なものであっても、その汚れがついている。それで、イエズス・キリストの一致によって完成される完徳に至るためには、私たちの奥底にあるその悪を拭い取らなければならない。そうしないと、私たちの霊魂にある見えないほどの汚点でも嫌われる主は、私たちをみ前から追い払い、私たちと一致してくださらないであろう。 

79 自分の汚れを拭い取るためには、次のようにしなければならない。
①私たちの奥底にある悪いもの、善を行うに当たって、私たちがいかに無能であるかということ、私たちの弱さ、根気のなさ、恵みを受ける資格がないことなどを、恵みの光に照らされて、よくよく知らなければならない。パンだねによって、パンが苦くされ、ふくらされ、変質するように、私たちは、太祖アダムの罪によって、汚され、苦くされ、ふくらされ、変質させられたのである。また、私たち自身が犯した大罪小罪によっても、たとえそれがすでに許されているものであっても、私たちの欲望と、根気なさと、腐敗とを強め、拭い難い汚れた残骸を残したのである。私たちの体は、聖霊によって、「罪の体」と呼ばれた程に汚れたものである。この体は、罪の中にはらまれ、罪の中に養われ、行えるのは罪だけである。病気に責められ、日々腐敗しつつ、疥癬や虫を生じさせている。私たちの体に合わせられている霊魂も、「肉体」と呼ばれる程に肉体的なものに堕した。「すべての肉が地上で堕落した生活をしていた」。私たちの持っているものと言えば、精神の傲慢と盲目、心の頑固さ、霊魂の弱さと根気のなさ、体の肉欲と病気である。私たちの自然の傾向を見ると、私たちは、クジャクよりも傲慢、ガマよりも地上に執着し、牡山羊よりも下劣、蛇よりも恨み深く、豚よりも貪食、虎よりも荒々しく、亀よりも怠惰、葦よりも弱く、風見よりもふらふらしている。つまり、私たちの中には、罪と虚無だけがある。私たちは、神の怒りと永遠の地獄に値するものである。 

80 主イエズス・キリストは、「自分の命を愛する人はそれを失い、この世でその命をにくむ人は、永遠の命のために、それを保つだろう」と仰せられた。先に言ったことを考え合わせると、イエズスのこのみ言葉も、よく理解できるであろう。理由のない掟を与えないこの至上の上知(イエズス・キリスト)が、私たちに、自分を憎めとおおせられたのは、自分が憎みに値するからである。愛する価値があるのは、神お一人であり、憎みにふさわしいのは、私たち人間である。 

81 ②自分を脱ぎ捨てるためには、日々、自分に死ななければならない。つまり、私たち自身の霊魂の働きと、体の機能の働きとを制御し、見ても見えないように、聞いても聞かないように、この世のものを利用していても、まったく利用していないようにしなければならない。このことを、聖パウロは「日々死ぬ」と言っている。麦の粒も、地に落ちて死なないなら、ただ一つのまま残る残るという。だから、私たちの信心も、この死を経なければ、実を結ばず、無益なものであろう。そして私たちの善業は、勝手気ままな意志と、自愛心とによって汚されるであろう。そうなれば、神は、私たちの払うどんな大きな犠牲も、私たちの行うどんなよい善業も、受け入れられないであろう。そのままに死ねば、私たちは、功徳の何一つない空の手と、純粋な愛の炎を持たない心を持って、神のみ前に出なければならないであろう。「その命は、キリストと共に神の中に隠されている」。つまり、自分自身を殺した霊魂にだけ、その愛の炎は分け与えられるのである。 

82 ③聖なるマリアに対する数多い信心の中で、もっとも完全で、もっとも良いものは、先に言った意味の「死」に、私たちを導くものでなければならない。光り輝くものは何でも黄金であり、甘いものは何でも蜜であり、行い易くて誰でも行っているものが、完全な信心業だと考えてはならない。何かをする場合に、時間を短く、費用を少なく、そして容易に完成させる秘訣があるように、恵みの世界においても、自分を捨て、自分を神で満たし、完徳に至るために、短期間で行える恵みの秘訣がある。私がこれから述べようとする信心は、キリスト信者の大部分がまだ知らないもので、ごく少数の信心家が実行している恵みの秘訣の一つである。この信心を発見し、そしてよく味わうために、先に第4の真理を説明しよう。 

(4)第4の真理—仲介者イエズス・キリストに至るためには、もう一人の仲介者が必要である。 

83 仲介者なしに、直接神に近寄るのをひかえるのは、謙遜なことである。先に言った通り、私たちの心の奥底は腐敗しているのだから、私たちだけの業をもってしては、とうてい神に受け入れられる値打ちがない。神が、そのみ前に出る仲介者を定められたのには、それ相当の理由があったはずである。私たちをあわれまれた神は、ご自分のあわれみにふさわしい者とならせるために、権力ある仲介者を、人間のために定められた。その仲介者をないがしろにして、その推薦を退けて、至高の座に近寄ろうというのは、明らかに謙遜の不足であり、神への崇拝の不足である。この世の王であってさえも、その前に出るには適当な取り次ぎ者がいるのであるから、まして「王の王」のみ前に出るには、そうでなければ不敬の罪に当たるであろう。 

84 主イエズス・キリストは、いと高き神のみ前にあって、私たちの弁護者であり、救いの仲介者である。私たちは、「勝利の教会」と「戦う教会」と共に、イエズス・キリストを通して祈らなければならない。私たちが、至高者のみ前に立つことができるのは、イエズスによってである。イエズス・キリストの功徳によりかかり、その功徳を着て、至高者のみ前に立てるのである。若いヤコブは、父イサクの祝福を受けるために、子山羊の皮を着て出なければならなかった。 

85 しかし、私たちにとっては、この取り次ぎ者イエズス・キリストのみ前に立つのに、もう一人の取り次ぎ者を必要とするのではなかろうか?私たちは、直接イエズス・キリストのみ前に立てるほどに清いものであろうか?イエズスは、万事においておん父と平等な神ではないのか?とすれば、おん父と同様に尊敬しなければならない至聖なるお方ではないか?イエズス・キリストが、その無限の愛徳によって、おん父の怒りをなだめ、人間の負債を支払うあがない者となり仲介者となったとしても、それだからといって、イエズスをおん父よりも畏敬しなくてよいというわけではない。では、私たちを、聖ベルナルドと共に、仲介者イエズスに対して、私たちには、もう一人の仲介者が必要であり、その愛徳の役目を果たすには、マリアが最も適切であると断言しよう。イエズス・キリストは、マリアを通してこの世に下ったのであるから、私たちがイエズス・キリストに達するにも、やはりマリアを通してでなければならない。イエズス・キリストの無限の偉大さを考え、私たち自身の卑小さを顧みて、直接イエズスに向かうのを恐れるなら、私たちは、聖母の取り次ぎを乞い願おう。マリアには、近寄りがたい程に厳しい所も、目がくらむばかりに輝かしい所もない。私たちは、罪に汚れない以前の人間を、マリアにおいて見つける。マリアは、私たちの目が弱く、その光が強いために、目を見えなくさせる程の太陽ではない。太陽の光線を受けて、私たちの弱さ、小ささに相応しいようにその光を和らげる、月のように美しく、やさしい。愛に富むマリアは、取り次ぎを願う者を、一人として退けることはない。聖人たちも言っている通り、この世が始まって以来、委ねる心と忍耐強さをもってマリアにより頼んだ人々の中で、その願いを聞き届けられなかった者はないのである。また、マリアの願いは、いつも神のみ前に聞き届けられる。おん子のみ前に立ちさえすれば、イエズス・キリストは、すぐにマリアの願いを入れられる。イエズス・キリストは、愛する母の願いに、すぐに負けてしまわれるのである。 

86 今まで書いてきたのは、聖ベルナルドと、聖ボナヴェントーラとの言葉である。彼らは、神に上るために、私たちには三段階があると言う。その第一段階は、私たちにもっとも身近く、私たちの能力にもっともふさわしいマリアであり、第二段階は、イエズス・キリストであり、第三段階は、おん父である神である。イエズス・キリストに届くためには、取り次ぎ者マリアを通さなければならない。永遠のおん父に上るためには、私たちの救いの仲介者であるイエズス・キリストを通さなければならない。私たちが後に述べる信心業は、正確に、今言った順序を踏んでいるのである。 

(5)第5の真理—神の恵みと宝を保つことは難しい 

87 私たちは、まことに弱く、まことに面白い者であって、せっかく神から受けた恵みと宝とを、長く自分の中に保つことは非常に難しい。 
①天地にも勝るこの宝を、どこに持っているかと言えば、人間という壊れやすい器の中である。「私たちは、この宝を陶器の器の中に持っている」。変わりやすく、落胆しやすく、壊れやすい霊魂と、腐敗する体の中に持っているのである。 

88 ②ずる賢いサタンは、その宝を私たちから盗み取ろうとして、狙いを定めて飛び掛かってくる。サタンは昼夜を問わず、一刻も目を離さずに私たちを狙っている。一瞬間の大罪で、長年蓄えた恵みと功徳とをすっかり奪い取ろうとして、私たちの周りを回っているのがサタンである。私たちよりも、経験もあり、恵みもある何人かの人々がこのずる賢い悪魔に突然襲われ、その不幸な餌食となったことを考えて、力を尽くして警戒しなければならない。ああ、レバノンの糸杉と空の星とが、一瞬にしてその高さとその美しさを失ったことは幾度あったろうか?この堕落は何のためであろう?それは、人間皆が分け与えられている恵みが足りなかったからではない。謙遜が足りなかったのである。彼らは、実際以上に、自分たちの力を過信し、自分で、その宝を守ることが出来ると自信を持っていた。彼らは、自分自身により頼み、自分自身を信頼した。恵みの貴重な宝を守るために、自分の家は充分安全で、自分の金庫は充分にしっかりしていると考えた。表面だけ見れば、神の恵みに信頼しているように見えたけれども、実際は、そういう自信にふくらんでいたので、正義である神は彼らの思い通りに振るまわせ、彼らが宝を盗まれるのを打ち捨てて置かれたのである。ああ、もし彼らが、私が次に述べる信心業を知っていたら、自分の宝を全部聖母のおん手にまかせたであろう。そして聖母は、その宝を自分のもののように、力強く守ってくださったであろう。 

89 ③世間は腐敗しているから、恵みを維持することは、大変むつかしいことである。こういう世の中に生きていると、信心のある人でも、いくらかその塵をかぶらないではいられないとさえ言える程である。こういう激流の中にあって押し流されず、こういう嵐の大海の中にあって難船せず、また海賊の難に会わず、こういう不潔な空気の中にあって毒されないでいるのは、一種の奇跡だと言ってもよい。快く誠意をもって自分に奉仕する人間に、こういう奇跡を与えるのは、蛇にかまれたことのない唯一の人、かのおとめマリアである。 

第3章 聖母マリアに対するまことの信心 

90 以上述べた五つの真理を土台にして、これから、聖母マリアへのまことの信心をより出さなければならない。このごろ特に、聖母への偽りの信心が横行しているのは嘆かわしいことである。にせ金造りの悪魔、ずる賢い詐欺師の悪魔は、聖母マリアに対する偽りの信心を使って、どれほど多くの霊魂を迷わせ、亡ぼしたことであろうか?また、今も、毎日、一人でも多くの霊魂を亡ぼそうとして、その悪魔的な経験を駆使している。どういう方法で、悪魔は人間を亡ぼそうとするのであろうか?それは口先だけの祈りや、外部的な信心業でも、霊魂を楽しませ、罪の上に伏させるという方法である。にせ金つくりは、金貨や銀貨のにせ金はつくるが、その他の金のにせ金は、あまり作らないようである。黄金や銀ほどの値打ちが、他の金にはないからである。悪魔の方法も、それとよく似ていて、特にイエズスとマリアへの信心、ご聖体に対する信心などの真似をさせようとする。これらの信心こそ、他の数多い信心に比べて、実に黄金と銀との値打ちがあるからである。 

91 それで、次の事柄を知ってほしい。 
①それを避けるために、聖母への偽りの信心を知り、それを行うために、まことの信心を知る必要がある。
②まことの信心の中でも、どれを実行すれば、聖母からもっとも喜ばれるか、どれが聖母の一番のお望みで、一番完全なものであるか、またどれが、一番神の栄光のためになり、私たちの聖徳のためになるのかを知らなければならない。 

(1)マリアに対する偽りの信心 

92 私は、聖母に対する偽りの信心家と信心業とを、七つに分類してよいと思う。すなわち、①批判的信心、②小心な信心、③外部的な信心、④不遜な信心、⑤根気のない信心、⑥偽善的信心、⑦利己的信心 、である。

(1)批判的信心 

93 批判的な信心家も、何らかの聖母への信心は持っている。しかし、単純な素朴な人々が、敬虔をもって行う聖母への信心業のほとんどを、自分たちの気に入らないという理由で、批判し、非難する傲慢な知識人や自己陶酔に浸っている人々の信心を、私は、批判的信心と名づける。彼らは、修道会の年代記や、信じるべき文献などに載せられている、聖母のお力とあわれみとを証明する奇跡や伝説を、頭から疑ってかかる。単純な信心深い人々が、聖母の祭壇やご絵の前で、あるいは道かどにあるマリアのご像やご絵の前などでひざまずいて祈るのを見ると、まるで、木や石を礼拝する偶像崇拝者のように、彼らは、毒々しく非難するのである。彼らは、そういう外部的な、うわべだけの信心を好まず、そして、聖母の行ったことだと言われる子供だましのおとぎ話や、伝説や奇跡を信じるほど、自分たちは弱い者ではないと豪語している。もし彼らに、教父たちが、聖母をどのように讃えたかを告げるとすれば、彼らは、それは教父たちの修辞的な誇張であると言うに違いない。 

(2)小心な信心 

94 この人々は、聖母をあまり尊ぶと、おん子に対して不敬に当たるのではないか、聖母を称えることは、御子を蔑むことになるのではないかと恐れる人々で、これを、小心な信心家と呼ぶ。彼らは、聖なる教父たちが聖母マリアに捧げた、ごく当たり前の称賛を、今の信者が同じように捧げるのを我慢できない。また、ご聖体の祭壇の前よりも聖母の祭壇の前に信者が集まることを喜ばない。それは、おん子とおん母とが対立しているような考え方である。聖母に祈れば、イエズス・キリストをないがしろにするのだと、彼らは考えるのである。そして、聖母を称賛し、聖母に依り頼もうとすることをよくないとする。彼らは、口をそろえて、次のように言っている。これほどたくさんの聖母信心会や、ロザリオ会や、その他聖母への信心業が行われているのは、人々が無学だからである。そういうことをすれば、私たちの宗教が笑いものになるばかりである。イエズス・キリストへの信心業についてだけ話せばよい。イエズスは、人間の唯一の仲介者であるのだから。また、イエズス・キリストについてのみ説教せよ、これだけが本当の信心であるのだからと。なるほど、彼らが言うのも、ある意味では真実である。しかし、彼らの言葉がそれ以外の何かを含んでいるとすれば、つまり、彼らの言葉が、聖母への信心を妨害するものであれば、そこには、鋭い悪魔の爪が潜んでいると考えなければならない。なぜなら、聖母を尊べば尊ぶほど、イエズス・キリストは、尊ばれるからである。聖母を尊ぶのは、より完全にイエズス・キリストを尊ぶためである。つまり、聖母を尊ぶのは、終点であるイエズス・キリストに至るよりよい道に出るためである。 

95 聖なるカトリック教会は、聖霊と共に、「あなたは女のうちに祝せられています」と、まずマリアを祝し、次にイエズス・キリストを祝する。それは、言うまでもなく、聖母がイエズス・キリストより高いもの、あるいはイエズス・キリストと平等なものというわけではない。より完全にイエズス・キリストを祝するために、まずマリアを祝さないといけないからである。よって私たちは、この小心な偽善家に対して、まことの信心家と共に言おう。「おお、マリアよ、あなたは女のうちに祝せられ、ご胎内のおん子イエズスも祝せられます」 

(3)外部的信心 

96 これは、聖母に対する信心が、外部的な行いにあると称する人々の信心である。彼らは、内部的な精神を持っていないから、聖母への信心でも、その外部だけしか知ろうとしないのである。したがって、彼らは、大急ぎでロザリオを唱え、気を散らしながら、ミサや行列にあずかり、生活を直そうとか、欲望を抑制しようとか、聖母の徳をまねようなどとは全然考えずに、数多いいくつかの信心会に入会する。彼らは、感情的な信心を好んで、その着実な方面に目を向けようとはしないのである。そういうふうであるから、自分の行っている信心業から何も感激を受けなくなると、すぐ飽きて、信心をやめるか、あるいは冷淡になってしまう。まことにこの世は、こういう悲しむべき信心家に満たされていると言ってもよい。そして、外部的慎みをおろそかにせず、しかも自ら内部的信心を行う祈りの人々に対して、彼らほど批判家はないのである。 

(4)不遜な信心 

97 欲望の流れるままに任せ、世俗の泥にまみれる不遜な信心家は、キリスト信者という、あるいは聖母への信心という美名のもとに、傲慢、貪欲、不品行、暴飲、憤怒、悪口、不正を隠している。彼らは、聖母を信心していると称しながら、一向に悪癖を直そうとせず、罪の中にころがっている。そしてまた、自分たちは後悔せずに死ぬことはあるまいから、神のゆるしを受けるであろう。ロザリオを唱え、土曜日には断食し、ロザリオやスカプラリオの信心会に入って、聖母のメダイを身に着けているのだから、地獄に落とされることはないであろうと安心して生きているのである。それは悪魔の迷わしである、あるいは、それは、あなたを亡ぼす危険な不遜な考え方だと言っても、彼らは信じようとしない。そしてこう言うだろう。神はあわれみ深いお方であって、私たちを亡ぼすために私たち人間を創ったのではない。およそ人間として生まれて罪を犯さない者はいない。私たちは死ぬ前に、きっと後悔して赦されて死ぬ、死が近いと知ったら痛悔すればよいのだ、などと言うだろう。さらにまた、こう言うに違いない。私たちは聖母を信心していて、スカプラリオを身に着けている。毎日へりくだって真心から聖母を敬い、七回主祷文と天使祝詞を唱え、時にはロザリオを唱え、小聖務日課を唱え、断食することもある、と。彼らは、自分たちの言い分を強調するために、嘘か本当かわからない次のような話を持ち出すこともある。その話とは、こうである。告解せずに、大罪を抱いて死んだある人があったが、生きている時に、聖母に対してある信心業を行ったから、告解するために、奇跡的によみがえった。あるいは、告解が終わるまで、奇跡的に体の中に霊魂が宿っていた。あるいはまた、聖母のあわれみによって死の間際に神から痛悔と罪の赦しの恵みを受けた、というのである。そして、自分たちも、そういうふうに救われるであろうと希望をかけている。 

98 キリスト教では、この不遜な信心家ほど、悪辣な、非難すべきものはないと言ってもよかろう。彼らは、自分たちの日々の罪によっておん子イエズス・キリストをあわれみなく鞭打ち、突き刺し、十字架につけているのに、なおかつ、のめのめと、聖母を信心している、愛していると言えるであろうか?もしマリアが御あわれみをもってそういう人間を救うとしたら、マリアは、罪を助けておん子をないがしろにし、再び十字架にかけるのを手伝うのと同じである。どうしてそういうことが考えられようか? 

99 ご聖体に対する信心に次いで、もっとも完全な聖なる信心を、彼らのように乱用することは、汚聖的な聖体拝領に次ぐゆるされない罪であると、私は思うのである。私は、聖母に対するまことの信心を持つために、どんな罪を避けるほどに、—もちろん、これは最も望ましいことであるが—聖人でなくてはならないということではない。しかし、少なくとも—これから私が言うことを、よく注意して聞いて欲しい。 

  • 第一に、おん母とおん子に侮辱を与えることになるすべての大罪を極力避けようという真実な決心を持たなければならない。 
  • 第二に、罪を避けようと努力しなければならない。 
  • 第三に、何かの信心会に入会して、ロザリオを唱え、その他の祈りを唱え、土曜日には断食をするなどしなければならない。 

100 これは、頑固な罪人のためにも、非常に有益な信心である。この本の読者の中に、もし、片足を地獄に突っ込んでいるような罪人があるとしても、私は、その人にも、この信心業を行うことをすすめる。しかし、それは、聖母の取り次ぎによって、神から、罪の痛悔と赦しと、そして悪にうち勝つ恵みとを願うためであって、決して良心の呵責を黙らせ、イエズス・キリストとその聖人たちとの模範に倣うことなく、罪の状態に安閑と休むためではない。 

(5)根気のない信心 

101 根気のない信心家とは、気ままに、聖母への信心を行う人をいうのである。彼らは、時には熱心で、時には冷淡である。時には聖母のためにどんなこともしようと奮い立つが、少し日がたつと、けろりとその決心を忘れている。聖母に対するどんな信心でも歓迎し、いろいろな信心会に入会するが、入って後、その規則を忠実に守ろうとはしない。月のように決心が変わるこういう人々を、聖母は決して喜ばれない。移り気な人間は、聖母のしもべの数に加えられる値打ちはないのである。聖母のしもべは、忠実と根気強さを特徴とするからである。たくさんの祈りや信心業を、口先だけでしないで、世間と悪魔と肉欲とに手向かって、いくつかの少ない祈りを、愛と忠実をもって唱える方が何倍かよいことである。 

(6)偽善的な信心 

102 もう一つ、偽りの信心家とは、他人の目に善く見られたいために、自分の罪と悪行とを、よいおん母マリアのマントの下に隠そうとする偽善的な信心家である。 

(7)利己的な信心 

103 最後に利己的信心家がある。彼らは、訴訟に勝ちたいから、危険を避けたいから、病気が治りたいから、あるいはそれと同じような何かの恵みを受けたいために、聖母に信心をする。その理由がなくなれば、聖母を忘れてしまうのである。 

以上述べたのは、偽りの信心であって、これらは、決して、神とおん母マリアとのみ前に、受け入れられないのである。 

104 では、あなたは、何も信じないで、何でも非難する批判的な信心家の一人にならないように。イエズス・キリストを思いはかって聖母をあまり信心してはならないという小心な信心家の一人にならないように。外部的な信心だけに重点をおく信心家の一人にならないように。聖母への信心という口実に隠れて、罪を改めようとしない不遜な信心家の一人にならないように、移り気に信心業を変え、ちょっと障害があるとすぐ信心を捨ててしまうような根気のない信心家にならないように。善人と言われたいために信心会に入って、聖母の礼服で外だけを飾る偽善的な信心家にならないように。また最後に、病気を治してもらいたいとか、その他物質的な利益を得たいためにだけ聖母を信心する利己的な信心家にならないように、十分に警戒しなければならない。 

(2)聖母に対するまことの信心の特長 

105 マリアに対する偽りの信心を調べて後、真の信心とは何かを、簡単に述べてみよう。まことの信心とは、①内面的な、②愛情のこもった、③聖なる、④根気強い、⑤利己的でない信心でないといけない。 

(1)内的な信心 

106 聖母に対するまことの信心は、内的であって、精神と心とから湧き出るものである。聖母をいかに高く評価するか、いかにその偉大さを崇めるか、いかに愛を持つかは、すべてそこから出る。 

(2)愛情のこもった信心 

107 この信心は、母に対する子供のような愛情と依頼に満ちたものでなければならない。もしそうなら、肉体的に精神的に何か必要なとき、単純と信用と愛情とをもってマリアに依り頼み、どんなことでも、どんな時でも、どんな所でも、このよい母の助けを願い求めることができる。疑いを晴らし、迷いを直し、誘惑のときに助け、弱さを強め、過失を反省し、失望を力づけ、小心を抜け出し、苦労を慰めるこのおん母は、彼らの体と精神との苦しみの時に、いつも変りなく彼らの依り頼みである。だから、マリアを煩わせるのではないかとか、あるいは、イエズス・キリストのお気に入らないのではないかとかを、彼らは決して恐れないのである。 

(3)聖なる信心 

108 聖母マリアへのまことの信心は、「聖なるもの」であって、霊魂に、罪を避けさせ、聖母の徳をまねさせるのである。つまり、聖母の深い謙遜、生き生きとした信仰、盲目的な従順、不断の祈り、例外なき節制、神々しいばかりの清さ、燃えるような愛徳、英雄的な忍耐、天使的なやさしさ、至上の知恵とを、まねさせようとする。以上あげたのは、聖母の主な十の徳である。 

(4)根気強い信心 

109 聖母に対するまことの信心は、根気強いものでなければならない。それは、霊魂の善を強め、信心を捨てないように導き、世間の風潮に抵抗し、肉体の煩いと欲望とを抑え、悪魔の誘いを退けさせる。だから、本当に聖母を信心する者は、決して、移り気、小心、臆病ではない。この霊魂も、時には、過失を犯すことがあり、また時には、信心の感情に揺らぎを覚えることがあろう。しかし、どんな時にも、聖母に手を伸ばして立ち上がり、信心の喜びがなくなって乾燥状態になっても決して心配しない。マリアの忠実なまことの信心家は、決して自分の感情で生きるのではなく、イエズスとマリアとの信仰によって生きるのである。 

(5)利己的でない信心 

110 最後に、聖母に対するまことの信心は、利己的なものであってはならない。まことの信心は、自分を求めるのではなく、ただおん母マリアにおいて神のみを求めるように、霊魂を指導する。この信心をする人が、女王マリアに奉仕するのは、儲けや功利のためでなく、時間的な永遠的な、あるいは肉体的な精神的なある善のためでもなく、ひとえに、マリアが、そしてマリアを通して神だけが、奉仕に値すると考えるからである。彼らがマリアを愛するのは、何か恵みを受けたいとか、あるいは受けるかもしれないからというのではなく、ただ、愛すべきお方であるから愛するのである。したがって、乾燥状態の時も、感情的な熱心にあふれている時と同様に、マリアに奉仕し、カルワリオの上でも、カナの婚礼のときと同様に、マリアを愛する。聖母に奉仕することだけで、自分を少しも求めようとしないこういう信心家は、神のみ前に、どんなに喜ばれることであろうか。残念ながら、そういう信心家は、この頃非常に少ないように思われる。私が宣教の間に、公に私的に教えて効果のあったこの信心について、改めてペンをとって書き出したのは、そういう信仰が、一人でも多くなってほしいからに他ならない。 

(6)この完全な信心についての預言 

111 聖なるおん母マリアについて、今までにも大分話してきたが、マリアを本当に信心する、イエズス・キリストの弟子の、一人でも多くの役に立ちたいために、まだ言いたいことがある。私は、学も乏しく、余裕の時間も持っていないから、それ以上のことは書かないが。 

112 おお、もしこの小さな本が、「血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく」、ただ神とマリアによって生まれたよい霊魂の手に入り、霊魂の恵みによって、私が述べようとするこの信心の優秀さと価値とが理解されるなら、私のペンは、報いを得たと言うべきであろう。私の愛するおん母、いと気高い女王をうやまって、私が、今書こうとする真理が、人々の心にしみ入るために、もし必要とあれば、私は、インキの代わりに自分の血を使っても悔いないだろう。私は、忘恩と不忠実をもって、このよいおん母に損害をおかけしたけれど、私のこの信心の本を読んで、忠実にマリアを崇め愛するよい霊魂が出るなら、何らかの償いとなるであろう。 

113 かなり以前から、神に切に願っていることであるが、聖母が今よりももっと愛の奴隷を数多く持ち、それによって、イエズス・キリストが、いっそう王として覇権を持たれることを、私はより強く信じ、希望しているのである。 

114 この小さな本と、聖霊がこの本を書くためにお使いになった人間とを、悪魔の牙で噛み裂くために、野獣が荒れ狂ってやって来るのを、私は知っている。また、それ程まででなくとも、少なくとも、この小さな本が世に出ないように、棚の奥に閉じ込めようとするであろうことも、私は知っている。また彼らは、この本を読み、これを実行する人々をも、迫害するだろう。しかし、そんなことは、どうでもよい。いや、むしろありがたいことである。それを考えると、私は勇気を奮い起される。そして、大成功をおさめるに違いないと確信する。つまり、来たりつつある嘆かわしい危険な時代に逆らい、世間と悪魔と、腐敗した肉体とに打ち勝つ、イエズスとマリアとの強力な大軍団が立つであろうことを期待できるのである。 「読む人は悟れ」。「理解できるものは、理解せよ」。

(3)聖母に対するまことの信心のためにどんな信心業を選ぶべきか 

A 内的な信心業 

115 聖母に対する内的なまことの信心業は、たくさんあるが、その主なものは次の通りである。 

  1. 神のおん母として、また、どんな聖人にもまさる恵みの傑作として、また、まことの人間、まことの神であるイエズス・キリストに次ぐ尊いお方として、聖なるマリアを敬い、褒めたたえること。 
  2. 聖母の聖徳、特権、行いを黙想すること。 
  3. その偉大さを仰ぐこと。 
  4. 聖母に対して、愛と称賛と感謝の心を行いに表すこと。 
  5. 心から聖母に祈ること。 
  6. 聖母に自分を捧げ、一致すること。 
  7. どんな行いでも、聖母をお喜ばせするためにすること。 
  8. 聖母によって、聖母において、聖母と共に、聖母のために、すべての行いを始め、続け、終わること。それは、その行いを、イエズス・キリストによって、イエズス・キリストにおいて、イエズス・キリストと共に、また、私たちの最終目的であるイエズス・キリストのために行うことである。この8番目の信心については、後で詳しく述べるつもりである。 

B 外部的信心業 

116 聖母に対するまことの信心には、また外部的な業もたくさんある。そのうち、主なものは次の通りである。 

  1. 聖母の信心会に入会すること。 
  2. 聖母を敬うため創立された修道会に入ること。
  3. 公に聖母を称賛すること。 
  4. 聖母を崇めるために、施し、断食など、精神と身体の苦業を行うこと。 
  5. ロザリオ、スカプラリオなどを、身につけること。 
  6. イエズス・キリストの15の奥義を称え、15連のロザリオを唱えること。あるいは、お告げ、訪問、ご誕生、奉献、神殿での発見という5つの喜びの玄義を称えてロザリオ5連、ゲッセマニのお苦しみ、鞭打ち、いばらの冠、十字架を担われる、十字架上でのご死去という5つの苦しみの奥義を称えてロザリオ5連、ご復活、ご昇天、聖霊降臨、聖母被昇天(肉霊共に)、聖三位一体の三つのペルソナによる戴冠という5つの光栄の奥義を称えてロザリオ5連などを唱えること。また聖母がこの世に生きられた年齢を尊んで、6連あるいは7連のコンタツを唱えることもある。また、12の星の冠、つまり12の特権を称えて、”天にまします”を3回、”めでたし”を12回からなる小さなロザリオを唱えることもある。また、全カトリック教会で、一般に唱える聖母の「小聖務日課」、聖ボナヴェントーラの手による愛と敬虔に満ちた「小詩編集」、聖母の14のお喜びを称えるために、”天にまします”を14回と、”めでたし”14回を唱えることもある。その他、サルヴェ・レジナ(聖霊降臨後節)、アルマ・レデムプトリス(待降節)、アヴェ・レジナ・チェロルム(復活節)など、また季節によって、レジナ・チェリ(復活節)、あるいは、アヴェ・マリス・ステラ、オ・グロリオザ・ドミナ、聖母賛歌マニフィカトなどの祈りや讃美歌を唱えることもある。(巻末の付録を参照) 
  7. 聖母を称える讃美歌を自分も歌い、人にも歌わせること。 
  8. 聖母を通じて神から、今日一日、み旨に忠実である恵みを頂くために、「めでたしマリア、忠実なおとめよ」と唱えながら、60度、あるいは100度、ひざまずくこと。また、夜になって、今日一日犯した罪の赦しを、マリアを通じて神に願うために、「めでたしマリア、あわれみのおん母よ」と唱えること。 
  9. 聖母の信心会のために働き、その祭壇を飾りつけ、そのご絵を飾ること。 
  10. 聖母のご絵、ご像を行列をして持ち、または持たせること、また、身につけること、悪魔に対する強力な武器として。 
  11. 聖母のご絵またはみ名を大きく書いて、聖堂、家、門などにかかげること。 
  12. 特別な荘厳な方法で自分を聖母に捧げること。 

117 聖霊が聖なる人々にすすめる信心で、非常に完徳に役立つこれ以外の業も、まだたくさんある。イエズス会のポール・バリ神父が著した「フィラジャに開かれた天国」という本には、そういう信心業がたくさん載せられている。それらの信心業は、霊魂を徳のほうに歩ませるために非常に役立つものであるが、実行するためには、次のような注意が必要である。 

  1. 神に喜ばれたい、最終目的であるイエズス・キリストと一致したい、隣人を善に導きたいという真実な意向をもって、 
  2. 意識して放心しない、注意を込めて、 
  3. 早くもなく、遅すぎもせず、敬虔に、 
  4. 慎みと尊敬とを表す模範的な態度をもって、以上の信心を行わなければならない。 

C もっとも霊魂を聖化する信心 

118 最後に、私は、聖母に対する信心を扱っているほとんどの書物を読み、最近、もっとも徳も学問もあると言われる人々と親しく交わったのであるが、その結果、私がここに記そうとする聖母への信心業について、次のように断言して、はばからないのである。つまり、私がのべる聖母に対する信心ほど、神のために霊魂の犠牲を要求し、自我を捨てさせ、恵みに富ませ、完全にイエズス・キリストと一致させ、神の光栄となり、霊魂を聖化し、隣人にとっても有益な信心はない、と言い切ることができる。 

D 徳から徳へ、恵みから恵みへ 

119 この信心の中核は、内的に存在するものであるから、誰もが、同じように理解できるわけでない。その外部だけに止まって、それ以上を出ない人々がほとんどであろう。少数の人が、その内部に入っても、一段しか昇れないであろう。二段目に昇る人は誰か?三段目に昇る人は?そしてその内部にいつも止まる人は誰か?それは、イエズス・キリストによって、その秘密を教えられる人々だけである。忠実な霊魂を、徳から徳へ、恵みから恵みへ昇らせるために、イエズス・キリストご自身で導かれる。やがてその霊魂は、イエズス・キリストにおいて変化させられ、地上におけるキリストの「完全な背丈」と、天におけるその栄光の充満とに到達させられるであろう。

 第4章 聖母マリアに対するまことの信心の本質

第一節 この信心はマリアを通して、イエズス・キリストへ自分を完全に捧げることにある。 

120 私たちの完徳は全部、イエズス・キリストに一致し、同調し、奉献することにある。したがって、信心としてもっとも完全なものは、自分をイエズス・キリストに一致させ、同調させ、奉献させるものでなくてはならない。被造物の中で、イエズス・キリストともっとも密接に一致するのは、マリアであるから、私たちの霊魂を主にもっとも完全に一致させるのは、おん母マリアに対する信心である。人間は、聖母マリアに自分を捧げれば捧げるほど、それだけイエズス・キリストに捧げられることになるのである。したがって、イエズス・キリストの完全な奉献は、私がここに記す聖母への全面的な、完全な奉献にある。私が教えるこの信心は、洗礼の約束の完全な更新である。 

(1)すべてを完全に捧げること 

121 それで、この信心は、マリアを通して、イエズス・キリストのものとなるために、自分自身のすべてを、聖母に与えることにある。つまり、聖母に捧げるものとは、 

①私たちの体とその機能と器官のすべて、 

②私たちの霊魂とそのすべての機能、 

③私たちの外部的善、つまり、現在と未来との財産 

④私たちの内部的善、つまり、私たちの功徳、徳、過去、現在、未来のすべての善業である。 

要するに自然界と恵みの世界において、私たちの所有するすべてのもの、そして将来に、自然界、恵みの世界、栄光界において、私たちが所有するすべてのものである。これらを、一本の髪に至るまで、一セン一リンのお金に至るまで、完全に余すところなく捧げなければならない。そして、この奉献は、聖母において、聖母によって、イエズス・キリストに従属するという栄光以外のどんな報酬も期待してはならない。マリアが、被造物の中で、何者よりも寛容な、何者よりもあわれみ深い方ではないと仮定しても—そんなことはあり得ないが—、やはり同じく、すべてを捧げ、どんな報酬も期待し、要求してはならない。 

(2)償いの価値と功徳となる価値 

122 ここに、私たちのいわゆる「善業」について、二つの点に注意してほしい。それは、罪の償いと功徳とである。つまり、善業の、償いの価値、あるいは祈願する価値と、功徳になる価値とである。前者は、罪の罰を償い、あるいは他の恵みを得る価値のあるものとしての善業であり、後者は、み恵み、あるいは永遠の栄光に値するものとしての善業である。ところで、聖母に対する私たちのこの献身では、以上のすべての善業による償いと功徳とを、聖母にまかせるのである。私たちが、聖母に、自分の功徳と恵みと徳とを任せるのは、他人にそれに与らせるためではない。(なぜなら、厳密に言えば、私たちの功徳、恵み、徳は、分け得ないもので、神のみ前に、ただイエズス・キリストのみ、私たちの保証人となって、ご自分の徳を私たちに分けられるのである)。そうではなく、私たちの徳や恵みを、おん母が、私たちの中に保たせ、増加させ、装飾されるのである。このことについても、後にもう少し詳しく説明しよう。私たちが、聖母に自分の償いを任せれば、神のより大いなる栄光のために、おん母は適切に、望みの人にそれを分けられるのである。 

(3)すべては奉献され、聖別される 

123 以上述べたことによって、次のように結論してよいと思う。 

まず、第一に、この信心によれば、もっとも完全に、—マリアの手を通してであるから—私たちの与え得るすべてを、他のどんな信心業よりも多く、イエズス・キリストに与えることができる。他の信心業では、自分の時間の一部とか、善業の一部とか、罪の償いと犠牲の一部とかを、イエズス・キリストに与えるだけであるが、この信心業によれば、全部が奉献され、聖別されるのである。自分の内的な善を処分、分配する権利も、自分が善業をしてから得た罪の償いさえも、マリアの思し召しに委ねるのである。これは、どんな修道会にもないことである。修道会では、清貧の誓願によって自分の財産を、貞潔の誓願によって自分の体を、従順の誓願によって自分の意志を、また時には、禁足または閉居の誓願によって自分の自由を神に捧げる。しかし、自分の善業の価値を処分分配する自由と権利を、神に捧げはしない。キリスト信者というものは、ありえる最も貴重なもの、つまり功徳と罪の償いとから、なかなか離れられないものである。 

(4)すべてはマリアのものになる 

124 こうして、自発的に、マリアを通して、自分自身をイエズス・キリストに捧げた人に、自分の善業の価値を、勝手に処分することはもうできない。この人が忍ぶ苦しみ、その抱く考え、行いかつ話す善は、もはや、すべて、マリアのものである。そしてマリアはおん子の思し召しに従って、神のより大きな栄光のために、その善業を処分分配する。しかし、すべてをマリアに与えたとしても、自分の現在のあるいは将来の身分に付随している義務を妨げるのではない。例えば、義務としてあるいは他の理由のために、自分が立てるミサの償いとなる価値と希願的価値とを他人の意向に任せなければならないことがあっても、それは司祭の義務であって、この信心業にはさしさわりがない。この奉献は、神の命令と、自分の職の義務とに従って行われるのである。 

(5)私たちの最高の目的として 

125 この信心によれば、聖なるマリアとイエズス・キリストとに、同時に、自分を奉献することになる。イエズス・キリストが私たちと一致し、私たちをご自分に一致させるために選んだ完全な手段としてマリアに自分自身を捧げ、なおまた、救い主として、私たちのすべてを与えなければならない最高の目的として、主イエズス・キリストに、自分自身を捧げるのである。 

第二節 この奉献は、洗礼の約束の完全な更新である 

126 先に私は、この信心業が、洗礼の約束の完全な更新であることに、一言触れておいた。なぜかと言えば、キリスト信者は、洗礼を受ける前に、悪魔の奴隷であり、悪魔の支配下にあった。ところが、洗礼を受けるとき、自分の口で、あるいは代母の口を借りて、サタンとその栄華とその業とを捨て、最高の主、救い主として、イエズス・キリストにつき従い、イエズス・キリストの愛の奴隷になることを、荘厳に誓ったわけである。この信心業においても、同様なことが行われる。奉献文にある通り、悪魔、世間、罪、自分自身を捨て、マリアのみ手を通してイエズス・キリストにすべてを与えるのである。しかも、この信心業においては、それ以上のものがある。つまり洗礼の時には、ほとんど他人の口を通して、代理の人によって、つまり代父、代母の口を借りて、自分をイエズス・キリストに捧げるのであるが、この信心業では、自分から、自発的に、意識的にすべてを捧げるのである。洗礼のときには、少なくとも、明白にマリアのみ手を通して、イエズス・キリストに自分の善業の価値を捧げるわけではない。洗礼を受けても、自分の善業を自分で保ってもよいし、自由に他人に適用してもよい。ところが、この信心業では、はっきり示しながら、マリアのみ手を通して、主にわが身と心を捧げ、すべての善業の価値を捧げるのである。 

127 「人は洗礼を受けて、悪魔とその栄華とを捨てる約束をする」と聖トマス・アクィナスは言っている。「この約束は、もっとも重大なもっとも必要なものだ」と、聖アウグスティヌスも言っている。教会法の学者も、「洗礼の約束は、もっとも重大である」と言う。しかし、この重大な約束を守れる者が、果たして何人いるであろうか?ほとんどのキリスト信者は、洗礼のとき、イエズス・キリストに約束した忠実を踏みにじっているのではあるまいか?この世界的堕落は、洗礼の約束と義務とを忘れ、代父、代母を通じて神と結んだ契約を自分から是認しないところから来るのではなかろうか? 

128 キリスト教社会の堕落を矯正するために、ルイ敬虔王の命令によって招集されたサンの教会会議において、この堕落の第一原因は、洗礼の義務を忘れ去ったこと、あるいは知らないことから来るのだと結論したことによってもわかる。なお、この腐敗を直すための手段は、キリスト者に、洗礼の約束を更新させ思い出させる以外にないと決議された。 

129 トレント公会議の公教要理は、先のサン会議の意向に沿ったものであって、信者は、奴隷として贖い主イエズス・キリストに結ばれて奉献されたものであることを、考え直させ信仰させるように勧めよと、主任司祭に要求して、こう書いている。「私たちの贖い主イエズス・キリストに奴隷としてわが身を捧げ、奉献するのは正しいことであると、主任司祭は信者たちに理解するように勧めなければならない」。 

130 歴代の公会議、教父、そして経験が、キリスト信者の心の迷いをさます最良の手段は、洗礼の義務を思い出させることであると教えているのであるから、聖母を通して、私たちの主イエズス・キリストに奉献することこそ、もっとも完全な、合理的な道ではないだろうか?「完全に」と言えるのは、自分自身をイエズス・キリストに捧げるために、最良の手段である聖マリアを通じて行うからである。 

第三節 質疑に答える 

(1)古代からの信心 

131 この信心は、最近のものであって、特にそれを重要視する必要はないのではないかと尋ねる人があれば、私ははっきり、そうではないと答えよう。この信心は、最近生まれたものではない。歴代の公会議でも、また、教父や教会博士たちでも、主へのこの奉献と、洗礼の約束の更新とは、古くから実行されてきた効果的な信心であるとして、信者に奨励しているのである。また、重要視しなくてもよいものでもない。キリスト信者が亡びに向かう主な原因は、この実行を忘れ去るか、またはそれに無頓着な態度をとるか、そのどちらかにあるからである。 

(2)イエズスとマリアは、他の誰にも感謝の点でひけをとらない 

132 この信心は、聖母のみ手を通して、私たちのすべての善業、祈り、苦業、施しなどの価値を、主イエズス・キリストに与えるのであるから、あるいは、私たちは、親戚や親しい友人、恩人たちの霊魂を助けるために、何一つできないではないかと尋ねる人もあろう。私は次のように答えよう。 

①私たちが無条件に主イエズス・キリストとそのおん母とに自分を捧げたために、私たちの友人、親戚、恩人たちが、何らかの損害を受けると考えるのは、常識が許さない。そう考えるのは、イエズスとマリアの力とあわれみとを侮辱することである。私たちの友人、親戚、恩人たちは、私たちの霊的な小さな資本によって、他の方法で、きっと助けられるであろう。 

②私たちの善業の価値をどう分配するかは、聖母の思し召しによるにしても、私たちが、死んだ人、生きている人のために祈ることは、妨げないのである。むしろ、より以上の依り頼む心をもって祈ることができるであろう。それを例えて言えば、ある王への尊敬を示すために、自分の財産を与えた人と同じである。この人は、より以上の信頼と依り頼む心をもって、自分の友人のなにがしに施してくださいと、王に頼むことができるだろう。自分を尊ぶために貧しくなり、自分を富ませるためにすべてを脱ぎ捨てたこの人に対して、王は、感謝の念をあらわす機会が来たことを、かえって喜ぶに違いない。イエズスとマリアとの場合、それと同様である。イエズスとマリアは、感謝という点で、他の誰にもひけをとらないであろう。 

(3)絶対にそうではない 

133 自分の善業の価値を分配するのを、全部、聖母の思し召しに任せてしまったら、私は長く煉獄で苦しまなければならないのではないかと尋ねる人があるかもしれない。神と聖母との寛大さを知らず、自愛心から出たこの質問は、愚かである。自分自身よりも、ただ神のことのみ考え、できる限りのものを無条件に神に与え、聖なるおん母を通して、ただイエズス・キリストのみ国と栄光とのためにすべてを損したその人が、他の人よりも寛大で非利己的であったがために、他の人よりも来世において苦しまなければならないという矛盾があってよいだろうか?後で述べるつもりであるが、主イエズス・キリストとそのおん母とは、こういう霊魂に対して、この世でも、来世でも特に寛大に惜しみなく報いてくださるであろう。 

134 これから、この信心を奨励する理由と、感嘆すべき効果について、ごく簡単に記そうと思う。 

第5章 完全な奉献の理由

第一節 第一の理由—完全な奉献のすぐれた点

135 聖母マリアのみ手によって、イエズス・キリストに、まったく自分を捧げることは、どれほどすぐれた行いであろうか。この世において、神に奉仕するより崇高な職はなく、この世の王侯たちが神の忠実なしもべでないなら、彼らにも勝って神のもっとも小さなしもべが気高いものであるなら、全面的に無条件に、できる限り忠実に神に仕えるしもべの、富と力と崇高さはどんなであろうか?聖母によって、「王の王」に自分のすべてを捧げ、自分のためには何一つ残そうとしない忠実な愛の奴隷が、それである。この世の全ての黄金の輝きも、空の果てしない美しさも、この奴隷の足元にもよれるものではない。 

136 キリスト教会において、多くの善業を行っている聖母の信心会、兄弟会、信者会なども、一物も残さず全てを捧げるわけではない。それぞれの会の規則によって会員に、ある信心と善業とを規定しているが、それ以上の行いは自由であり、それ以外の時間も自由に使うことができる。しかし、この信心はそうではない。これを行う人は、まったく、一物も残さず、自分の考え、言葉、行い、苦しみ、その他自分の生活の時間の全部を、イエズスとマリアに与えるのである。したがって、この人は、寝ている間も目覚めている間も、飲んでいる時も食べている時も、大事業をする時も、小さな業を行う時も、自分が意識しないでも、これはすべてイエズスとマリアのものとなる。もっとも、明白に、その奉献を取り消した場合は別である。なんという慰めであろう。 

137 その上、先にも言ったように、私たちの善業にさえも、無意識的に入り込むある種の執着を、この信心業ほど容易に取り除いてくれる信心は他にないと言ってよい。善業の価値をすべて、聖母を通してご自分に譲渡した寛大なこの信仰者に対して、イエズスは、十分に寛大に報いてくださるだろう。この世において、外部的な地上的なはかないものを捨てた人々にさえも、寛大な報いを惜しまれないイエズスは、内部的、霊的な財産をすっかり投げ出したこの人には、その何百倍のものをくださることであろうか? 

138 私たちの友であるイエズスは、私たちのために、ご自分のおん体、ご霊魂、み恵み、御功徳、ご聖徳のすべてをくださったのである。聖ベルナルドが言っている通り、「イエズスは、ご自分のすべてを、私たちに与えることによって、私というもののすべてをご自分のものとなさったのである」。したがって、私たちが、持っている全てを与えるのは、正義と感謝のためである。私より先にイエズスは、私に対して寛大に恵まれた。だから、私たちもそうでなければならない。そして私たちは、生きている間に、死の時にも、そしてことに永遠において、イエズスがいかに寛大にましますかを体験するであろう。「主は、寛大な者に対して、寛大であろう」。 

第二節 第2の理由—この奉献は正当なことであり、益あることである 

139 イエズス・キリストともっとも密接に一致するために、この信心によって、自分を捧げることは、キリスト信者にとって、益あることであり、そのものとして、正しいことである。私たちの恩師イエズスは、愛の奴隷として、囚人として、聖なるおとめの肉体に隠れ、生まれ出られてからも、30年間、マリアに従うことを厭われなかった。人間となられた永遠の知恵は、そうお出来になられたのに、直接ご自身お一人で人間の中に下ろうとはなさらなかった。聖なるおとめの肉体を通してこの世にお下りになったこと、そして、誰にも服従しないでもよい完熟の年にこの世に下るのをお望みにならず、おん母の養育と世話のもとに服従する小さな貧しい子として来られたことをよく考えてみると、人間の理性は、ここに迷わないではいられない。おん父である神に栄光を帰し、全人類を救うという広大な望みを抱いておられたこの無限の「知恵」は、その大事業を果たすために、もっとも完全なもっとも手早い手段として、聖なるおん母に完全に服従なさったのである。しかもそれはこの世の子供たちのように、わずか8年か10年か15年かの間ではなかった。30年という長い年月である。そしてイエズスは、聖母に服従して生きられたこの30年間に、奇跡を行いつつ、全世界に宣教し、全人類を改心させること以上の栄光を、おん父である神に帰すことができたのである。それを思えば、この模範にならって、マリアに服従すれば、おお、どんなに神をお喜ばせすることであろう!私たちの目の前には、これほど明らかな模範がある。それなのにマリアに服従するという、もっと完全で確実な早い道以外に、もっと適切な道で神に栄光を帰すことができるのではないかと思い悩むほど、私たちは愚かであろうか? 

140 私たちが聖なるマリアに対して、どれほど服従しなければならないかについて、先に述べたおん父とおん子と聖霊との模範を、もう一度思い返してみる必要があろう。おん父である神は、マリアによってご自分のおん子を人類に与え、また、与え続けられる。そしてマリアによって、神の子たちをつくり、ご自分の賜物をくだされるのである。また、おん子である神は、マリアによって、全世界のためにつくられ、しかも聖霊との一致において、今も日々つくられ、生まれ出られる。聖霊である神は、マリアによって、イエズス・キリストをお生みになり、マリアによって神秘体の肢体をつくり、マリアによって賜物と恵みとを分配されるのである。聖なる三位一体の、この偉大な模範がありながら、なおマリアによらず神に至り、マリアに服従しないで神に奉仕しようと思うほど、私たちは盲目であろうか。 

141 次に私は、以上のべた言葉を証拠立ててくれる教会の教父たちの言葉を抜粋しようと思う。「マリアは、二人の子を持っておられる。一人は、神であり人であるイエズス・キリスト、もう一人は人間である。マリアは、身体的に、”神人”の母であり、精神的に人間の母である」。「私たちが、どんなことでも、マリアを通して神から受けるというのが、神の思し召しである。したがって、私たちが、いくらかの望徳、恵みにめぐまれ、救いの賜物を持つとすれば、それは、聖母のみ手から流れ出たものである」。「聖霊の賜物と、徳と、恵みとは、マリアのみ手によって、マリアの望む人に、望む時に、望む方法で、望む程に、分配されるのである」。「天の恵みを受けるために、あなたはふさわしい人間ではなかった。そのために、恵みはマリアにくだった。それは、あなたが、マリアによってすべてのものを受けるためである」。 

142 聖ベルナルドは言っているが、私たちは、直接神から恵みを受けるのに値しないものであったから、神はその恵みをマリアにくだされたのである。そして私たちは、マリアのみ手を通して、それを分け与えられる。また神は、恵みを受けて、私たちが表す感謝と尊敬をも、マリアを通して受けることを喜ばれる。神のこの方法を模範とするのは、言うまでもなく正しいことである。同じく聖ベルナルドが言ったように、「恵みがくだった同じ運河を通して、そのつくり主に帰るのは、何よりも正しいことである」。私が述べた信心業は、つまりそれである。この信心業では、自分の全てと、自分が所有する全てを、聖なるマリアに奉献する。それは、マリアの仲介によって私たちの感謝と栄光とを、主がお受けになるためである。人間は、直接、無限の神に近づける値打ちがない。だから、聖母のおん取り次ぎを願うのである。 

143 この信心業には、神がもっとも好まれる謙遜の徳の実行がある。高ぶる霊魂は下げられ、へりくだる霊魂は高められる。神は、傲慢なものを打ち、謙遜なものに、より豊かな恵みをお下しになるのである。もしあなたが、神のみ前に出て、神に近寄るにはふさわしくない者と考えて自分からへりくだるなら、神の方からあなたのところへ来られて、あなたを固め、喜んで受け入れてくださるであろう。それに反して、僭越にも仲介者なしに、神に近づこうとするなら、神は逃げ、あなたは神に至ることができないに違いない。おお、神は、まことに、心の謙遜を喜ばれるのである。この信心こそ、謙遜の徳の実行である。なぜなら、神のあわれみをよく知っているにしても、それに甘えず、いつも聖なるおん母のおん取り次ぎをもって、主に近寄るからである。神のみ前に出る場合も、神に話す場合も、何かを捧げる場合も、自分を一致させ、奉献する場合も、いつも聖母を通して行うからである。 

第三節 第3の理由—この完全な奉献の感嘆すべき効果 

(1)マリアは、愛の奴隷にご自分を与えられる 

144 やさしいあわれみのおん母であり、愛と寛大さにおいてその右に出る者のないこのマリアは、ご自分を飾るためにあらゆるものを脱ぎ捨てて奉仕する人に対して、ご自分をお与えくださるのである。つまり、この人を恵みで包み込み、ご自分の功徳で飾り、ご自分の力で支え、ご自分の光で照らし、ご自分の愛で燃やし、ご自分の徳、謙遜、信仰、純潔を分配し、イエズスのみ前に、この人の保証人となり、補い者となられるのである。自分自身を捧げ尽くしたこの人は、全くマリアのものとなったのであるから、マリアもまた、すべてをこの人に与えられる。ここにおいて、マリアの完全なしもべとなり子となったこのものは、福音史家ヨハネと共に、「マリアを自分の財産のうちに引き取った」と言うことが出来るのである。 

145 この人が、もし忠実であるなら、自分自身を大いに軽蔑し、そして、よき女主人に対して、大いに信用と委ねとを持つようになるだろう。今までは、自分の資格、意志、功徳、善徳、善業などに信頼を置いていたのであるが、それらを皆、このよい母によってイエズス・キリストに捧げたのであるから、これからこの人の手中にあるのは、唯一欠けるところのない宝物、マリアだけである。こうなると、この人は、おずおずした小心な恐怖を忘れて、主に近づき、非常な信頼をもって、祈ることができるようになる。敬虔なルペルト大修道院長は、ヤコブが天使に対して得た勝利を引き合いにして、「おお、マリアよ、私の姫君よ、神であり人であるイエズス・キリストの汚れないおん母よ、私は、自分の功徳ではなく、あなたの功徳を盾にしてみ言葉と共に戦いたい」と言ったが、それと同じ言葉を、この人もまた言うことができるだろう。聖アウグスティヌスが言う通り、愛をもって全能者に勝ったこの尊いおん母の取り次ぎで武装すれば、イエズス・キリストのみ前に、恐れるものはないのである。 

(2)マリアは、私たちの善業を清め、飾り、そしておん子に受け入れられるものとしてくださる 

146 この信心業によって、私たちのすべての善業を、聖母のみ手を通して主に捧げるなら、マリアは、その善業を清め、飾り、そしておん子に受け入れられるにふさわしいものとしてくださるのである。 

①善業の中にさえもそっと忍び込む自愛心と執着とを、聖母は浄めてくださるのである。一点も汚れもなく清らかで、触れるものをみな清め、同時にまた、測りがたい程に寛大なマリアのみ手は、私たちが捧げる供え物の不完全と汚れとを洗い清めてくださるのである。 

147 ②また、聖母は、私たちの善業を、ご自分の功徳で美しく飾ってくださる。一人の農夫が王様のお情けを仰ぎたいと考えて、女王様のところに、自分の全財産である一個のりんごを贈ったとする。女王様は、農夫のこの貧しいわずかな贈り物を受け取り、それを黄金の盆にのせて、これこれの農夫の贈り物だと言って、王様のところに持っていく。一個のりんごは、それだけでは王様の前に贈れない物であるが、それを取り次いだ女王様と、黄金の盆の値打ちとに飾られて、ふさわしい贈り物として王様の手に渡るのである。 

148 ③聖母は、その善業を、イエズス・キリストに捧げられるのである。マリアは、ご自分に贈られる物を、ご自分だけの物として取って置かれることはなく、何でも、忠実に、イエズス・キリストに渡されるのである。聖母に何かを与えるなら、必ずイエズス・キリストに与えたことになる。マリアが称賛され栄光を帰せられるなら、すぐマリアは、イエズス・キリストを称賛し、栄光あるようになさるのである。その昔、聖女エリザベットから称賛されたときと同様に、今も、聖母は、ご自分があがめられ、祝せられる時には、必ず、「私の魂は主をあがめる」とほめ称えられるのである。 

149 ④聖母のみ手を通った贈り物は、どんなに小さな貧しいものであっても、イエズス・キリストに受け入れられるのである。もし私たちが、努力して得た善業を勝手にイエズス・キリストに捧げたとしても、その善業に、自愛心の汚れがあれば、拒否される場合が時々ある。昔、自己中心であったユダヤ人の信仰を、神が受け入れられなかったと同じことである。しかし、聖母の汚れないおとめのみ手を通して捧げれば、もしそう言ってよいなら、イエズスは急所を突かれたと同様で、捧げ物そのものよりも、それを持ってくるおん母をかえりみ、おん母のみ手を通して運ばれた物であるということによって、それを拒否なさらないのである。いつもおん子の歓迎を受けられるマリアは、贈り物の大小を問わず、持ってくる物を皆受け入れてもらえるのであって、マリアのみ手を通したというだけで十分なのである。聖ベルナルドが、完徳を目指す人々に与えた偉大な訓戒も、それであった。「あなたたちが、かみに何かを捧げて、それを拒否されたくないなら、マリアの良いみ手を通して捧げなさい」。 

150 この世で、小さな人々が、偉大な人の前に出るときには、そうするのである。無限に高い神に対して、無限に小さい私たちは、当然そうでなければならない。しかも、一度も神から拒否されたことのない力強い弁護者、神のみ心に受け入れられる秘訣を知っている賢い者、どんなに小さい悪い者でも追い返されない愛に満ちた者を味方に持っているなら、どうしてそのお方の手を通さないでいられようか?後で、ヤコブとレベッカの歴史に、以上述べたことの前表を見てみたいと思う。 

第四節 第4の理由—この信心は、神にもっとも大いなる栄光を帰すものである。 

151 この信心を実行することは、私たちの善業の価値を、神のより大いなる栄光のために使用する、まことにすぐれた手段である。人間の義務であるにも関わらず、神の栄光という崇高な目的のために、ほとんどの人が動かないのは、その栄光がどこにあるかを知らないため、あるいは望まないためである。自分の善業と功徳とを譲られた聖なるおん母は、神の最大の栄光がどこにあるかを知り、そしてそのために万事をお行いになるのであるから、このおん母に自分自身を捧げた完全なしもべは、前に私が述べたように、自分の行い、考え、言葉が、すべて神の最大の栄光のために使用されていると、大胆にも言い切ってよいのである。全く利己心を捨て、清い愛をもって神を愛し、神の益と栄光のみを求める霊魂にとって、それ以上の慰めがあるだろうか? 

第五節 第5の理由—この信心は、神との一致に導くものである 

152 この信心業は、キリスト信者の完徳である。「主との一致」に至るための、容易な、手早い、完全な、安全な道である。 

(1)容易な道である。 

それは、イエズス・キリストご自身で開発なさった道であって、目的に達するために、何の障害もない道である。もちろん、神との一致に至るためには、それ以外の道もあるが、そこには、幾多の十字架や、乗り越えられない困難がある。だから、暗夜を抜け、恐ろしい戦いをし、険しい山を越え、荒れ野の砂漠を横切らなければならないだろう。しかし、マリアの道は、もっと容易な安心な道である。言うまでもなく、ここにも、戦いと困難とがあるのは当然である。しかし、このよい御母が、彼の疑いを晴らし、闇を照らし、恐怖を消し、戦いを助けるためにおられるのであるから、他の道と比べるなら、バラと蜜の道と呼んでもよいだろう。聖エフレム、ダマスコの聖ヨハネ、聖ベルナルド、聖ベルナルディーノ、聖ボナヴェントーラ、聖フランシスコ・サレジオのような聖人は—その数は少ないが—イエズス・キリストに至るために、このやさしい道を通ったのだった。マリアを花嫁にされる聖霊が、この特別な恵みの道を、彼らに示されたからである。他の大部分の聖人たちは、皆、聖母に信頼を持っていても、この道に入ろうとはせず、あるいはちょっと足を踏み入れただけだった。したがって彼らは、実に危険な、辛い道を通らなければならなかった。 

153 このよいおん母の忠実なしもべが、その信心を持っていない人々よりも、多くの苦しみをなめているのは、なぜかと聞く人もあるだろう。彼らは迫害され、反対され、讒言され、苦しめられているではないかと。また、彼らは、天の露に潤されていない荒れ果てた砂漠を通らなければならないこともあろう。聖母への信心が、イエズス・キリストを見つける道をいっそう容易にするのなら、彼らはなぜ、それほど苦しむのだろうか? 

154 私は、それに対して答えよう。聖母の忠実なしもべは、マリアに良しとされて、天の大なる恵みといつくしみとを受けるのであるが、同時に、その十字架をも、いっそう栄光と功徳とをもって担うのである。他の人であったら、何度も足を止め、あるいは倒れる場合でも、このしもべたちは、そうではない。なぜなら、父のいつくしみと、聖霊の恵みに満ちあふれるこのよいおん母が、彼らの担う十字架を、母のようなやさしい純粋な砂糖の上に立てるからである。したがって、彼らは、その十字架を、苦い苦しみと思わず、砂糖菓子のように喜んで食べる。信仰をもってイエズスにたどり着くために、日々十字架を担い、迫害に耐えようと覚悟している人でも砂糖菓子の十字架に例えられる聖母への全くの信頼がないなら、おそらくその十字架を、最後まで担いきれないだろう、と私は思う。どんなに無理をしても、砂糖でくるまれていない生のくるみを、長く食べ続けられないのと同じであろう。 

(2)手早い道である 

155 聖母マリアへのこの信心は、イエズス・キリストを見出すための、もっとも手早い道である。この道を行けば、迷うことなく、喜びをもって進めるからである。マリアへの従順の道を通れば、自分の意志と自分の道の何倍も早く、目的地に達することができる。マリアに従順なものは、どんな敵にでも打ち勝って、勝利を歌うからである。マリアの支えと助けと導きに頼れば、彼は倒れることなく、退却することなく、遅れることもなく、巨人の歩みをもって、イエズス・キリストに近づいて行くであろう。同じく巨人の歩みをもって、イエズスが人間の方へお下りになったその道を通って。 

156 イエズスの、この地上における短い生涯のほとんどは、おん母への服従のうちに過ごされた。それはなぜだったろうか?ああ、罪を贖うために果たし尽くされたイエズス・キリストの短い生涯は、九百年以上生きたかもしれないアダムの生涯よりも長かった。長いと言うのは、おん父である神に服従するために、聖なるおん母に一致し服従しつつ生きられたからである。理由は、次の通りである。 

「自分の母を尊ぶ人は、宝物を積む人と同じである」と。 

聖霊はおっしゃっている。これこそ、成功の秘訣である。どんなことにおいても、その言い付けに背かないほどにおん母を尊敬している人は、日々宝をつみ重ねてゆくであろう。 

ここに聖霊の他の言葉の霊的解釈がある。
すなわち、「私の老齢は、母体のいつくしみのさ中にある」。つまり、マリアのご胎こそ、”完全な人間”(イエズス・キリスト)を包み生んだのであり、このご胎こそ、全宇宙が入れ得ないお方を入れたのである。また、マリアのご胎においてこそ若者は、光と聖徳と敬虔と知恵とにおいて年経たものとなり、わずかな間にイエズス・キリストの「背丈にまで」至るのである。 

(3)完全な道である 

157 この信心は、イエズス・キリストに行き、彼と一致するための完全な道である。マリアは、全被造物の中で、もっとも完全な、もっとも聖なるものであり、ただ、この道を通ってのみ、イエズス・キリストは私たちの中においでになったからである。この道を通ってのみ、いと高き者、包含し得ないもの、達しがたいもの、在るものは、地上のうじ虫であり無である私たちのもとへ来ようと思し召されたのである。いと高き者は、マリアを通して、その神性と聖性の何ものも失うことなく、完全に私たちのもとにおいでになった。したがって、もっとも小さい私たちも、マリアを通して、何の恐れることもなく、いと高き者に、完全に届くことができるのである。「包含されない者」は、その無辺性の何ものも失うことなく、小さきマリアに包含させられた。したがって、私たちも、無条件にマリアに包含されなければならない。「達しがたい者」は、その至尊の何ものをも失うことなく、マリアによって、完全に密接に、そして位格的に、私たちの人生に近寄り一致なさったのである。したがって、私たちも、拒否される恐れなく、マリアによって「達しがたい者」に近寄り、一致しなければならない。また「在る者」は「在るものでないもの」に来て、「在るものでないもの」を「在る者」に一致させようと思し召し、永遠に存在するものであることには変わりなく、しかも完全に全体的に、ご自分を若いおとめマリアに与えられ、服従なさったのである。したがって、私たちも、自分を無とし、マリアにおいてすべてとなるほど完全に全体的に自分を与えることによって、マリアを通じて恵みと栄光とを受け、神に似たものとなることができるのである。 

158 イエズス・キリストに至るために、新しい道ができたと仮定しよう。この道は、全聖人の徳と、全天使の美とで舗装され、その道を歩こうとする人々を導き守るために、彼らが皆、道端に立っていると仮定しても、実に、私は—これは大胆な言葉であるが真実である—それほど完全な道よりも、汚れないマリアの道のほうをよしとするのである。マリアの道には、一点の汚点もなく、原罪自罪の一点のかげりもない。愛するイエズスが、栄光に満ちて、再び地上においでになるとき、先と同じく完全な安全なマリアの道以外の道をお通りにならないであろう。第一の来臨と第二の来臨との差は、前者がひそかに隠れたものであるのに反し、後者は栄光に満ちた輝かしいものであるところにある。ああ、ここにも、理解しがたい奥義がある。ここにおいて、いづれの口も閉じられるべきである。 

(4)安全な道である 

159 聖母へのこの信心は、イエズス・キリストに至り、「イエズス」と一致するための、もっとも安全な道である。私が教えるこの信心は、新しいものではないというのが、その第一の理由である。聖徳のうちに死んだブドン師が書き残したように、この信心の起源は、正確にいつ、と定められないほどに古いものである。はっきりしているものだけでも、今から七百年前に、すでにカトリック教会内において、この信心が行われていた。クリュニ大修道院長、聖オディロ、(1040年頃の人)は、その伝記から明らかなように、この信心をフランスで公に実行した最初の人のうちの一人である。聖ペトロ・ダミアニが書き残している話は次の通りである。1706年、枢機卿の兄弟であった福者マリノが、指導司祭の前で、聖なるおん母に自分自身を捧げた。首に鎖をつけ、自分の体を鞭打ったマリノは、聖母への信心と奉献を表明するために、祭壇に十字架を置き、生涯この信心の約束を守り続けた。そのために死の間際に、聖母の訪問を受け、慰められ、そのおん口から、天国の約束を聞いたということである。1300年頃、聖母に奉献を行ったヴォティエ・ド・ビルバックという騎士があったことを、チェザリウス・ボランドゥスも記している。十七世紀までは、私的な信心として行われてきたが、それ以来、公の信心としてあまねく広められるようになった。 

160 奴隷解放の修道会と言われる三位一体の修道会の修道者であったシモン・デ・ロハスは、フィリペ三世王の説教師であったが、この信心を、スペイン、ドイツで広め、その後、フィリペ三世王の要請を受けて、グレゴリオ十五世教皇は、この信心を行う人に大きな免償を与えることになった。また、アウグスティノ修道会のデ・ロス・リオス神父は、親友であったロハス神父と共に、言葉と著書をもって、スペインとドイツにこの信心を広めた。デ・ロス・リハス神父は、「ヒエラルキア・マリアナ」というぶ厚い本を書き、その中には、この信心の起源と優秀さについて、まことに敬虔な、懇切な意見が述べられている。 

161 さらに、テアティノ修道会の神父たちは、前の世紀頃、イタリア、シチリア、サボアなどに、この信心を広めた。イエズス会のスタニスラオ・ファラチウス神父は、この信心を見事にポーランドに広めた。デ・ロス・リハス神父は、この信心を実行した諸国の殿下、妃殿下、侯爵、枢機卿などの名前をあげている。その敬虔と学識をうたわれたコルネリオ・ア・ラピデ神父は、何人かの司教や神学者から、この信心への検討を依頼された。彼は詳しく調べた結果、最大限の称賛を与えた。他の多くの有名人も、彼の手本に従って、この信心を称賛した。また、聖母への奉仕に熱心であるイエズス会の神父たちは、ケルンの信心会の名で、当時、ケルン大司教であったババリアの侯爵フェルディナンドに、この信心の小さな説明書を提出した。ェルディナンドは、この本を見て賛成し、出版許可をくだし、その教区の主任司祭や修道者たちに、この信心を広めようと勧めた。 

162 フランスの人々の思い出に残って祝福されているド・ペリュル枢機卿は、不敬の徒や悪口屋のざん言迫害をものともせず、広くその国にこの信心を広めた。反対者は、著書を出して、彼を迷信家と呼び、新しがりやとけなしたが、この偉大な聖者は、黙ってそれに耐え、ただ一冊の小さな本をもって、彼らの疑問と挑戦とに応えた。その小冊の中には、彼らの疑問が明白に反駁されている。つまり、この信心は、イエズス・キリストの模範に倣うもので、私たちが、神に対して負うべき義務と、洗礼のときにした約束に基づくものであるという。とくに、聖母を通して、自分をイエズス・キリストに捧げることは、洗礼の約束の完全な更新であることを強調しているのは見事な反駁である。 

163 先にあげたブドン師の著書の中には、この信心業に賛成した教皇の名、これを調査研究した神学者の名をはじめとし、この信心に対する迫害までが、詳しく述べられている。もちろん、代々の教皇は、この信心を非難することができなかったに違いない。なぜなら、そうすれば、キリスト教の土台をゆるがすことになるからである。要するに、この信心は、新しいものではない。ではなぜ、人々にあまり知れ渡っていないかといえば、それは、すべての人に実行されるには、あまりに貴重なものであろうと思うのである。 

164 この信心は、イエズス・キリストに至るために、もっとも安全な手段である。聖母の務めは、私たちを安全に、イエズス・キリストに導くことにあり、イエズス・キリストの務めは私たちを確実に、永遠のおん父に導くことにある。霊的な人が、神と一致するために、マリアが妨げになると考えるなら、それは大変な誤りである。神のみ前に喜び受け入れられたマリアが、霊魂が神と一致するのを妨げるなどとは、常識で考えてもわかるように、まったく不合理なことである。恵みに満ち溢れ、神のおん子のおん母となったほどに、神と一致したマリアが、人間が神に近づくのをなぜ妨げられよう?どんな聖人でも、マリア以外の人間なら、時には、他の人が一致するのを遅らせるようなことがあるかもしれない。しかし、マリアの場合は、そうではない。私は、何度もうるさいほどに、このことを繰り返して飽きないだろう。イエズス・キリストの「背丈にまで至る完全な」霊魂が少ないのは、イエズス・キリストのおん母で、聖霊のこの上ない花嫁であるマリアを、十分に心に持っていないからである。熟した果実を取りたい人は、よい木を持っていなければならない。それと同様で、生命の実であるイエズス・キリストを得たいなら、生命の木をもっていなければならない。それがマリアである。聖霊の働きを霊魂に得たい人が、その分かち得ない忠実な花嫁を持っていなければならないことは、先にも述べた通りである。 

165 あなたたちが、祈り、黙想、行い、苦しみなどのうちにマリアを眺めるなら—明白に意識的に眺めるのではなく、ぼんやり眺めている程度であっても—、偉大な、威光に満ちた、極まりなく高いイエズス・キリストが、天や全被造物におけるよりさらに完全に、さらに密接に、聖母マリアにましますことを知るに違いない。それで、完徳を目指す霊魂にとって、マリアが妨げになるどころか、マリアほど、その意味で、私たちの力となり、支え手となるものは、今までにもなかったし、また、これからもないのである。マリアは、ご自分が分配する恵みによって、人間と神との一致を助けるのである。ある聖人が言っている通り、「神で心を満たされるのは、マリアによってであり」、マリアによって、悪魔の迷いから守られるのである。 

166 マリアがおられる所、そこには悪の霊がない。私たちが、善い霊によって導かれているかどうかを知るには、マリアを信心し、マリアをしばしば考え、マリアについてしばしば話しているかどうかを調べればよい。ある聖人の意見を聞けば、呼吸することが、身体の死んでいない証拠であるように、マリアについて考え、愛をもってマリアに祈り願うことは、霊魂が罪によって死んでいない確かな証拠である、と言っているのである。 

167 聖霊と共に、カトリック教会が宣言している通り、「一人ですべての異端を亡ぼした」のはマリアだけである。したがって、反対者が何と言おうともマリアの忠実な信心家は、異端に走ったり、意識的に迷いに落ち込むことは、絶対にないのである。 この人は、虚偽と真理とを、悪霊と善とを区別することができる、万が一、迷いに落ちることがあるとしても、遅かれ早かれ、その過ちを悟り、そして、頑固に迷いに踏み止まることはしないだろう。 

168 だから、迷いに踏み込む恐れなく—祈りの人には、よく迷いがあるが—完徳の道に進み、「喜んで、快く」イエズス・キリストを見つけたいと望む人は、至聖なるマリアに対するこの信心を行わなければならない。この人は、多分まだ、この信心を知らなかったであろう。では、「私は、この後、なおすぐれた道を示そう」。この道は、一人間となられて知恵、私たちの唯一の頭イエズス・キリストが開拓なさった道である。肢体である人間は、この道を通れば間違うことがない。またこれは、満ち満ちた恵みと、聖霊の導きとのために、きわめて容易な道であり、疲れることもなく、退くこともない道であり、短時間で目的に到着できる道であり、塵もホコリも汚れもない完全な道であり、安全に永遠の生命にたどり着く道である。さあ、この道に分け入ろう、そして、この道をたどって、「みちみちるキリストの背丈にまで至る完全な人間」になろう。 

第六節 第6の理由—この信心は内的自由を与える 

169 この信心を忠実に実行する人とは、内的な自由、「神の子らの自由」を与えられるのである。この信心によって、イエズス・キリストの奴隷として自分自身を捧げればイエズス・キリストはまた、その愛の奴隷に、次のように報われるであろう。 

①霊魂をせばめ、迷わし、混迷させる奴隷的恐怖心をぬぎとらせる。 

②まかせきった心で神に頼り、心を広め、神を父と仰がせる。 

③神への孝心に満ちた愛を注がれる。 

170 いろいろな理由をあげて、この真理を証明するのもいいことであるが、私は次に一つの実例を記したいと思う。それは、1634年に、聖徳の香りも高く帰天したオベルニュのランジアクにあるドミニコ会修道院の、イエズスのアグネス修道女の伝記にあるエピソードである。七歳にもならないのに、アグネスは非常な心の苦しみを抱いていた。ある日、「その苦しみから解放され、敵の手から保護されたいなら、できるだけ早く、聖母を通して、イエズス・キリストの奴隷になれ」という声を聞いたのである。アグネスは、家に帰るとすぐ、それが何であるかも知らずに、ただ言われたままに、自分を奴隷としてイエズス・キリストに捧げ、鉄の鎖を見つけてそれを腰につけ、終生それを取らなかった。こうして身を捧げて以来、今までの苦しみと小心とがぬぐわれたように去り、そして、心には非常な安らぎが戻った。アグネスが、この信心を熱心に広めようと尽くしたのはそのためであった。アグネスに教えられて多くの人はこの信心に進歩したが、その中でサンスルピスの神学校を創設したオリエ師や、同じ神学校の多数の聖職者が、この信心を実行するようになった。ある日、聖母がアグネスに現れ、アグネスがおん子とご自分の奴隷になったことは、まことに喜ばしいことであると、アグネスの首に、黄金の鎖をかけられた。なお、そのとき、聖母に従って現れた聖女チェチリアは次のように言って、共に喜びを分けたという。「天の元后の忠実な奴隷は幸いなこと!その人は、まことの自由を味わうだろう。マリアよ、あなたに奉仕すること、それが自由である」。 

第七節 第7の理由—この信心は、隣人にすぐれた善を与える 

171 この信心をすすめるもう一つの理由は、そのために、隣人が、非常な利益を受けるということである。つまり、この信心を行えば隣人に対して、すぐれた愛徳を行うことができる。マリアを通して、私たちの持つもっとも貴重なもの―どんな小さなものでも—つまり、私たちの善業の、償いの価値と取り次ぐ価値を与える。私たちが得た、あるいは死ぬまでに得るであろうすべての善業は、聖母の思し召しにしたがって、罪人の改心のためとか、煉獄の霊魂の救いのためにとかに使用される。これ以上の愛徳があるであろうか?それは、愛であるイエズス・キリストのまことの弟子となることである。そして、虚栄心の恐れなく罪人を改心させる手段であり、それぞれの身分職業に付随する義務以外の何もせずに煉獄の霊魂を助けられる手段である。 

172 この理由が、どんなにすぐれた理由であるかを知るためには、まず、一人の罪人を改心させ、煉獄の一人の霊魂を救うことが、いかにすぐれた善であるかを知らなければならない。それこそ、天地を創造する以上の善である。なぜなら、それは、霊魂に神を与えることだからである。この信心を行うことによって、一生涯の間に、煉獄のたった一人の霊魂を助け、たった一人の罪人を改心させるだけでも、愛徳のある人にとって、十分な理由だと言えるのではなかろうか?ところで、私たちの善業が、マリアのみ手を通れば、その清さを増すばかりでなく、功徳と、償いの価値と取り次ぐ価値も増すという点に、あなたたちの注意を引きたいのである。したがって、私たちの善業は、聖なるおとめであるマリアの寛大なみ手を通ることによって、罪人を改心させ、煉獄を救うために、よりいっそう強力なものとなるのである。また、自分を捨て、没我的な愛徳によって行った業は、どんなに小さくとも、マリアのみ手を通すことによって、神の怒りをなだめ、そのあわれみを招くための実に強力な手段となる。この信心を忠実に守った人は、自分の小さな行いが、数多くの煉獄の霊魂を救い、数多くの罪人を改心させたことを、死んだ後に知ることができるであろう。ああ、その審判のときに、何という喜び!永遠において何という栄光! 

第八節 第8の理由—この信心は、善の道を続けさせる感嘆すべき手段である 

173 最後に、この信心を勧める重大な理由は、人々を善の道に勧め、忠実にそれを歩いて行かせる非常にすぐれた手段であるということである。罪人の改心が、多くの場合、長続きしないのはなぜだろうか?たやすく、再び罪に落ちるのは、なぜだろうか?義人でさえもが、徳から徳へと恵みの上に恵みを受けないで、むしろ、持っている恵みと徳とを、しばしば失ってしまうのは、なぜだろうか?それは、先にも言った通り、人間は全く腐敗した、弱い、根気のないものであるのに、自分自身に信頼しすぎて、自分で恵みや功徳を守ることができると考えるからである。この信心を行う人は忠実な聖なるおん母に、自分が持っているものを全部ゆだねるのである。つまり聖母は、その人の、自然的な、超自然的なすべての善を委任された人となる。その人は、聖母の真実を信じ、力に依り頼み、あわれみと愛とに自分をまかせるわけである。いくら、悪魔や世間がそれを奪い取ろうとしても、聖母は、任せられたその人の徳や功徳を守り、そして増やされるであろう。それは、子供が母に向かって、忠実なしもべが主人に向かって、「あなたに委ねられたものを守れ」と言うのと同じである。ああ、私のよいおん母よ、私は今まで、あなたのおん取り次ぎによって、思いがけないたくさんのお恵みを受けました。しかも私は、不幸な体験によって、私がそれらの恵みを、壊れやすい器に持っていること、それらを保存し続けるには、私が「小さなもの、軽んじられるもの」であることを知っています。どうぞ、私の所有するすべてを受け取り、それを、あなたの忠実とお力とによってお守りください。もし、あなたがお守りくださるなら、私は何一つ失わないでしょう。もしあなたが私を支えてくださるなら、私は倒れないでしょう。なおまた、あなたが私をご保護してくださるなら、私は敵に敗北することはないでしょう。 

174 それは、この信心を勧めた聖ベルナルドが、はっきり断言したことであった。「聖母があなたを支持するとき、あなたは倒れることがない。聖母があなたを保護するとき、あなたには恐れるものがない。聖母があなたを指導するとき、あなたは疲れることがない。そして、聖母があなたを喜び受け入れるとき、あなたは救いの港に着くであろう」。聖ボナヴェントーラも同じ意味のことを次のように、もっとはっきりと宣言している。「マリアは完全な聖人であるばかりでなく、他の聖人の徳を保ち守る人である。つまり、聖人たちの徳が散らないように、功徳がなくならないように、恵みが失せないように、悪魔が罠をかけないように守り、罪によって罰をくだされないように、導かれるのである」。 

175 不忠実なエヴァが人類にもたらした損害を、その忠実によって立て直したマリアは、またご自分に従属する敬虔な人々に、神から忠実と根気強さを得させるように計らわれる。ある聖人が、マリアを丈夫なイカリに例えたのは、そのためである。この世の嵐の中にあって、聖なる人々は、そのイカリにしっかりとしがみつき、そして、そのイカリについていない人々は溺れ死ぬであろう。「丈夫なイカリにつけるように、私たちは、自分の霊魂をあなたに結びつけます」。救われた聖人というのは、徳の生活を続けるために、その丈夫なイカリにしっかりとつき、また他人をもつけた人々のことである。とすれば、忠実にその丈夫なイカリである聖母に、自分を結びつけようとする人々は、何と幸福なものであろう。世間の嵐がどんなに吹きすさんでも、彼らは溺れず、天と宝を失わないだろう。ノアの箱舟に入るように、聖母の中に避難する人々は、なんと幸福なものであろう。多くの人を滅びに巻き込む罪の洪水も、彼らには触れることができないだろう。「私に従う者は、恥を受けることなく、私の業をするものは、罪を犯さないだろう」と神の知恵は仰せられた。不忠実なエヴァの不忠実な子であっても、いつも変わらない忠実な聖母についているものは、なんと幸福なものだろう。「私は、私を愛する人を愛する」。それは感情的な愛だけではなく、行動的効果的な愛である。つまり、豊かな恵みを与え、おん子イエズスの恵みを失うことのないように、徳の道から反れたり、退いたり、倒れたりするのを防ぐところの真実の愛である。 

176 よい御母は、常に純粋な愛徳によって、委託されたものをすべて受けられたからには、正義にのっとって、それを守られるのである。千の銀貨を委ねられた者は、それを守る義務があり、もし不注意でそれを失えば、その責任を取らなければならないのと同じである。ああ、しかし、忠実なマリアは、委ねられた者を失うことはないだろう。聖母にとっては、委ねられながら、怠惰や不忠実でいるよりも、天地がくつがえるほうが容易であろう。 

177 あわれな子たちよ、あなたたちの弱さ、根気のなさは、どんなに救い難く大であることだろう。あなたたちの心の奥底は、どんなに汚れていることだろう。それは疑うべくもない。あなたたちは、アダムとエヴァの汚れた子孫なのだから。だが、失望することはない。自分から慰め、そして喜べ。私は、キリスト信者でもその大部分が知らない秘訣を、あなたに教えたのである。あなたたちの黄金や銀を、悪魔に穴を開けられた金庫に蓄えるな。その金庫は、貴重な宝を入れるには、あまりに弱い。清い澄み切った泉の水を、汚れたあなたの器に入れるな。罪はもらないとしても、その悪臭はまだ残っているのである。悪いぶどう酒が一杯入っていた古い樽に、天下の銘酒を入れようとするな。それはきっと濁って、だめになってしまうだろう。 

178 救われるべき人々よ、私の言いたいことが、もうあなたたちに分かっているにしても、私は、もっとはっきりと断言したいと思う。あなたたちの愛徳の黄金を、清さの銀を、天の恵みの水を、功徳と徳との銘酒を、穴のある金庫や、汚れた器に入れるな。もしそうすれば、昼夜となく隙間をうかがっている盗人の悪魔に盗まれてしまうだろう。また、自愛心やうぬぼれなどの悪臭によって、せっかく神からいただいた罪も清いものが汚れてしまうだろう。では、あなたたちのすべての宝、すべての恵みを、マリアのふところに納めよ。それは「霊妙なる器」であり、「あがむべき器」であり、「信心のすぐれた器である」。神ご自身が完全な神性をもってこの器にお入りになってから、それは最も霊妙な霊魂の霊妙な住まいとなった。最も偉大な聖人たちの崇むべき永遠の栄光の座となった。また恵みと徳とのすぐれた住まいとなった。それは、「黄金の館」のように豊かで、「ダビデの塔」のように強く、「象牙の塔」のように清く気高いものとなった。 

179 マリアにすべてを与え、万事においてマリアに委ねる人の幸せよ。その人はマリアのものであり、また、マリアはその人のものである。ここにおいてその人は、ダビデと共に、「あなたは、私のためにつくられたもの」と、大胆にも言うことができるであろう。また、愛弟子ヨハネと共に、「マリアを自分の宝として引き取った」と言うこともできるであろう。あるいは、イエズス・キリストと共に、「私のものはみな、あなたのもの、あなたのものはみな、私のものです」と言うこともできるであろう。 

180 この本を読んで、私の言う言葉があまりに誇張しすぎていると考えるなら、それは大変な間違いである。そう思う人は、精神的なことを味わえない肉的な人間であるか、あるいは聖霊を受けることのできない世間の人であるか、それとも、自分が理解できないことをすべて軽蔑し非難する傲慢な人である。しかし、「肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ神によって生まれた」霊魂、神とマリアとから生まれた人は、私の言葉をきっと理解し、味わうであろう。私は、そういう人々のために、この本を書いたのである。 

181 ともあれ、私は、その両者に対して、なおまた、おとめ聖なるマリアは、どんな被造物にも劣らず、もっとも正しく、もっとも寛大で、もっとも愛に富んでいると、断言してはばからない。ある人が言ったように、マリアは一個の卵をもらえば、一頭の牛を返す人である。つまり、マリアに与えたものはどんなに小さくても、マリアは、神から受けた計りがたいほどたくさんのものを返してくださるのである。だから、ある人が、自分の霊魂を無条件で与えれば、マリアは、ご自分を無条件で、その人にくださるのである。それは、その人が自信とうぬぼれを投げ捨て、徳を得、欲望を抑えるために、絶対にマリアに信頼して、真剣な努力をする、という条件のもとにである。 

182 ここに、聖なるマリアの忠実なしもべたちは、ダマスコの聖ヨハネと共に、こう言い切ることができるだろう。「神のおん母よ、あなたに希望して、私は救われるでしょう。あなたの保護があれば、私は恐れないでしょう。あなたの助けがあれば、私は敵を敗走させるでしょう。なぜなら、あなたへの信心は、神が救おうと望んでおられる人々に神が与えられる武器だからです」。 

第6章 レベッカとヤコブ、聖マリアとその愛の奴隷

183 母レベッカの心づかいと世話によって、父イサクから祝福を受けたヤコブの話を聖霊は聖書で語っているが、私はそこに、聖マリアとその愛の奴隷の前表を見るのである。これから聖書にあるとおり、その歴史を語り、その後に私の説明を加えてみたいと思う。

第一節 ヤコブの歴史 

184 エサワが弟ヤコブに長子権を売ったので、ヤコブを深く愛していた母親のレベッカは、何年か後に、奥義に満ちた策略をねって、その長子権をヤコブの手に入れさせることに成功した。話はこうである。父親イサクは、大層な老齢であったので、死ぬ前に、息子たちを祝福しようと考えた。ある日、愛していた兄エサワを呼び、狩りに行って何か食べられるものを取って来いと命じ、そのあとで祝福を与えようと言った。それを知った母親レベッカは、さっそくヤコブを呼んで、すぐ山羊の群れの中から二頭の子山羊をとっておいでと命じた。ヤコブはすぐにそうした。そしてレベッカは、その子山羊を使って、イサクの大好物であった食事をつくり、それから、自分が持っていたエサワの服をヤコブに着せ、彼の手と首とを、子山羊の皮でおおった。父親のイサクは、もう目が見えなかったので、ヤコブの声を聞いても、その毛深い手触りから、ヤコブをエサワと考えるだろうと思ったからであった。果たして、イサクは、エサワだと思ったのが、ヤコブの声だったので驚き、近寄らせて、首と手との子山羊の皮をなで、「声はヤコブの声だが、腕はエサワの腕だ」と言った。それから、準備された食事をし、ヤコブに接吻し、その服の香りをかいだので、エサワだと思って祝福を与え、天の露と地上の豊かさとを約束し、彼を兄弟の頭として立て、「あなたを呪う者は、呪われ、あなたを祝福する者は、祝福されよ!」と言って祝福を終わった。そう言い終わったとき、エサワが、狩りでとったものを持って入って来て、父の祝福を願った。聖なる太祖イサクは、起こったことの間違いを知って、はっと驚いたが、これが神の干渉によるものだと知って、前言を取り消さないのみか、かえってこれを強め確認した。ここにおいて、エサワは、聖書にあるとおり、身をふるわして怒り、弟の策略を非難し、父に向かって祝福は一つだけかと聞いた。教父たちが言う通り、このエサワは、神と世間とを和睦させ、天の慰めと地上の慰めを同時に持とうと望む人々の前表である。父親イサクは、エサワの叫び声にまけて、気の毒に思い、彼にも祝福を与えたが、それは地上の祝福だけであって、地位も、ヤコブの下であった。このためにエサワの恨みは深く、父の死を待って、ヤコブを殺そうとねらった。愛する母レベッカのよい勧めを守らず、また母がことごとに、彼を助けなかったら、ヤコブはとうてい死を避けることはできなかったであろう。 

第二節 亡びる人の前表エサワ、救われる人の前表ヤコブ 

185 この興味ある歴史を説明する前に注意しておきたいことは、教父や聖書学者が解釈しているとおり、ヤコブが、イエズス・キリストと救われる人々の前表であり、エサワが、亡びる人々の前表だということである。果たして、この両者の行いを見ると、その解釈にうなづかされる。 

1 亡びる人の前表エサワ 

①兄のエサワは、屈強な若者で、弓矢にすぐれ、狩りに巧みであった。 

②彼はほとんど家におらず、腕に自信を持っていたので、外でだけ働いた。 

③彼は母親のレベッカを喜ばせるために、何かしようとは決して考えなかった。 

④彼は貪食で、あじ豆の一皿のために、長子権を売ったほどであった。 

⑤彼はカインのように弟を妬み、ひまがあればヤコブをいじめていた。 

186 それこそ、亡びる人々の日々の行動である。 

①亡びる人々は、地上の俗事を取り計らうことに巧みで、よく目がきくが、天のことに関しては、ほとんど盲目で無知である。「地上のことに関しては強く、天のことに関しては弱いものである」。 

187 ②そのために彼らは、家、つまり、そこに住めと神が人々に与えられた内的な家である「心」に住もうとはしない。しかし、神はいつも、ご自分の内に住んでおられる。彼らは、かえって、世間から離脱すること、精神生活、内的信心を好まない。むしろ、世俗を離れて、外よりも、内部で働く人々を、心の小さな者、信心ぶる者、野暮な者と軽蔑する。 

188 ③亡びる人は、救われる人の母である聖母の信心に関心を持たない。特に口をきわめて意識的にののしるというのでもなく、時には称賛もし、自分たちも愛していると言い、信心業も行うのであるが、それ以上に聖母が他の人から愛されるのを喜ばない。彼らは、ヤコブのような深い愛をおん母に対して持たないからである。聖母の愛を得ようとして、忠実な子やしもべたちが行う信心業を、彼らは非難する。それは聖母に対するこの信心が、救われるためにぜひ必要であることを信じないからである。そして、意識的に聖母を憎まず、公に聖母への信心を軽蔑しないだけで十分だとする。彼らは、それだけ、聖母に受け入れられていると公言し、自分を矯め治すために何の努力もせず、聖母を尊ぶために機械的に祈りを唱えるだけでありながら、聖母のしもべであると自称するのである。 

189 ④この亡びる人々は、自分の長子権、つまり天国の幸福を、あじ豆の一皿、つまり世間の快楽のために売るのである。彼らは、笑い、飲み、食べ、遊び、踊るばかりで、エサワのように、天のおん父の祝福を得るために努力しようとしない。言い換えれば、彼らは、地上のことしか考えず、世間だけしか好まず、世間とその快楽のことだけしか話さず、一瞬の楽しみのために、むなしい名誉心のために、果ては一かけらの黄色い白い土くれのために、洗礼の恵み、純白な礼服、天の遺産を売るのである。 

190 ⑤彼らは、日々、公にあるいはひそかに、救われるべき人々を憎んで迫害する。救われるべき人々にのしかかり、軽蔑し、非難し、侮辱し、盗み、だまし、陥れ、追い払い、倒させる。そして自分たちは、快楽にふけり、富を集め、地位を得、安楽な生活を送っている。 

Ⅱ 救われる人の前表ヤコブ 

191 ①弟のヤコブは、体もあまり強くなく情け深い人であったから、多くは家に留まって、愛する母レベッカを喜ばせようとしていた。彼が外出するのは、自分がそうしたいからではなく、自分の才能を頼みにしているからではなく、ただ母の命令に従順であるためであった。 

192 ②彼は、母を敬い愛していたから、いつも母の側にいて、母を見ることを無情の幸福としていた。彼は、母の気に入らないことを絶対にせず、気に入ることを何でも行おうとしていた。それで、いっそう母から愛されたのだった。 

193 ③彼は、どんな場合にも、愛する母に従順だった。母から何か言いつけられると一言の不平も言わず、喜んで、すぐ、それに従った。また、母の言うことなら、理屈なしに何でも信じた。たとえば、母から二頭の子山羊をもっておいでと命じられたときも、一人の人のために一頭では十分ではないかと言葉を返さなかった。すぐ、言われた通りのことをした。 

194 ④彼は、母を信用していた。自分の腕には少しも信頼を置かず、母の保護と世話だけを信じていた。事があれば母に走り、母と相談した。たとえば、こんなことをすると、私は、祝福ではなく呪いを受けるのではないかと母にたずねたとき、母が、呪いがくだれば、私がそれを引き受けると答えると、彼はすぐ信じて、母にまかせた。 

195 ⑤彼は、できるだけ、母の徳をまねた。彼が家に止まっていた理由の一つは、徳のある母に学び、腐敗した友を避けるためであった。これによって彼は、父親の二重の祝福を受けるのにふさわしい者となった。 

196 以上のべたことはそのまま、日々救われるべき人々の上に起こることである。 

①救われるべき人々は、自分たちの母と共に、家に閉じこもっている。すなわち静寂を好む内的な人間であり、祈りの生活をするが、おん母おとめ聖マリアの模範に従って生きる。マリアの栄光は、全部内面的なもので、その一生涯、世間を避けて、瞑想と祈りとをことのほか愛しておられた。ときたま外に出ることがあっても、それは、神と愛するおん母との思し召しに従って、社会的な義務を果たすためである。彼らは外でどんな大事業をしていても、内部で、聖母と共に行うことを、もっとも高く評価する。なぜなら、内部で行っていることは、完徳への大事業だからである。これと比べたら、他の業はみな、児戯に等しい。兄弟姉妹たちが、世間の称賛と賛美とをあびて、外部の生活で成功しているのにひきかえ、彼らが、聖霊の光によって、イエズス・キリストを模範とし、おん母にまったく服従して世俗を離れて生きているのは、世間においては多くのエサワと亡びる人たちのように、華やかに成功し、あるいは恵みの不思議を行う以上に、そこに幸福と楽しみとを見出しているからである。「その家には、豊かさと富」と書いてあるように、神のための栄光、そして人のための富は、マリアの家にのみあるのである。主イエズスよ、「あなたの天幕は慕わしい。すずめさえも住まいをつくり、つばめは巣を得、そこに、ひなを入れる」。あなたが真っ先に、ご自分の住まいとされたマリアの家に、住む者は幸せ!救われるべき人々の住まいであるその家で、あなたをたのみとする者は、幸せ。彼らは、この涙の谷に泣き叫びながらも、完徳を目指して、自分の心の中で徳から徳へと進み、一歩一歩上っていくのである。 

197 ②彼らは、よいおん母を主人として深く愛し、真実に尊ぶのである。外面だけでなく、心の底から、口先だけでなく、まことをもってマリアを愛する。ちょうどヤコブのように、おん母の喜ばれないことを全て避け、喜ばれるであろうと思う全てのことを、熱心に実行する。ヤコブは二頭の子山羊をもって来たが、彼らは、体と霊魂との二つを捧げる。それは、 
A 聖母が、その二つをご自分の所有物として受けられるためであり、 
B 彼らを、罪と自分自身とにおいて死なせ、自愛心という皮をはぎ、おん子イエズス・キリストのお気に召す友人と弟子とにならせるためであり、 
C 天のおん父のお口に合うように、つまり、天のより大きい栄光のために彼らを準備するためであり、
D 聖母の世話と取り次ぎとによって、いろいろな汚れを洗い清められ、よく皮をはぎとり、よく整えられた食物、つまり彼らの体と霊魂とが、天のおん父のお口と祝福とにふさわしい美味なものとなる。

それらはみな、私が教えたこの、マリアの手を通じ、このイエズス・キリストへのお捧げという信心を実行する人々が、イエズスとマリアとに、実際に示す行いに他ならない。亡びの人々は、自分たちがイエズスとマリアを愛していると、やかましく呼びかけている。しかし、彼らは、自分の財産を犠牲にしてまで愛していない。それは、救われる人々がする通りの、霊魂と欲望とを犠牲にするまでには至らないのである。 

198 ③救われるべき人々は、この世で三十三年間生き、そのうちの三十年間を、聖母にまったく服従して、父である神に栄光を与えられたイエズス・キリストの模範に従い、よいおん母マリアにまったく服従するのである。「息子よ、私のいいつけに従い、私の言う通りにしなさい」と言ったレベッカに従ったヤコブのように、また「なんでも、あの人の言う通りにしなさい」と言った聖母に従ったカナの婚宴の人々のように、彼らは、おん母の勧めを確実に守ろうと心掛けているのである。ヤコブは、母の勧めに従ったために、普通なら受ける権利がなかった長子権の祝福を得ることができた。また、カナの婚礼の人々は、マリアの勧めに従ったために、水をぶどう酒にかえたイエズスの最初の奇跡を見る栄光があった。マリアに従順な人々は、このようにして、神の祝福を受けるであろう。それに反して、エサワの仲間は、聖母に服従しないために、せっかくの祝福を失ってしまうのである。 

199 ④救われるべき人々は、よい御母の慈しみと力とに対して、絶大な信用を持っている。そのために、港にたどり着くための北極星として絶えず聖母のおん助けを願い、心を打ち明け、苦しみと必要のときに力を借り、罪の赦しを得るために、その取り次ぎを願い、母のやさしさを味わうために、その胸にすがりつくのである。また彼らは、清い愛を燃やされるために、汚点を清めてもらうために、栄光ある王座のように住まわれるイエズス・キリストを見出すために、完全に愛に満ちたおとめ聖マリアのふところに隠れようとする。おお、何という幸福であろう。「アブラハムのふところに住むほうが、聖母のふところに隠れるよりも幸せだと思うな。主は、おん母のふところに王座を置かれたのである」とグエリコ大修院長は言ったのである。ところが、亡びる人々は、自分自身にだけ信頼をかけ、放蕩息子のように豚の食べ物しか食べようとしないのである。彼らは、がまのように、土を食べ、世間しか、外見的なことしか好もうとしないから、マリアのふところとみ胸の甘美さを味わえないのである。彼らは、救われる人々が聖母に対して抱く信頼と支持とを必要としないのであろう。聖グレゴリオが言うように、彼らは、外部的なもので飢えることを好むのであろう。なぜなら、イエズスとマリアとの中にあるその甘さに背を向けるからである。 

200 ⑤救われる人々は、よいおん母の道を守り、その徳をまねようとするのである。そのために彼らは敬虔であり、幸福であり、間違いなく救われるという調印を持っている。「私の道を歩む人は、幸せである」と、このよいおん母もおっしゃっている。なぜなら、他の人よりもより豊富に、マリアの恵みと甘美さとを味わうことができるからである。また彼らは、死においても幸せである。その死は安らかで、聖母自身の手によって天国の喜びに導かれるからである。なぜなら、生きている間に聖母の徳をまねた人々は、だれ一人として亡びることがないからである。それに反して亡びる人々は、生きているときにも、死のときにも、永遠においても不幸なものである。彼らは、聖母の徳をまねようとせず、時には何かの信心会に入り、何かの祈りを唱えたとしても、それは単に外面にばかり留まって、内部的なものでなかったからである。おお、私のよいおん母、いとも聖なるおとめマリアよ、誤った信心業に迷わず、あなたの道、あなたの勧め、あなたの命令を忠実に守るものは、何と幸福であろう!私は、熱い心を込めて、もう一度繰り返します。何と幸福であろう!それに反して、あなたへの信心を濫用して、おん子の掟を守ろうとしない人々のみじめさよ。「あなたは、掟をそれるものを呪われる」。 

第三節 忠実なしもべに対する聖母の態度 

201 どんな母親よりもよい母である聖母が、ヤコブの前表が示すように、すべてをご自分に捧げる忠実なしもべを、どのように扱われるかについて、これから述べ進めてみたいと思う。 

A 聖母は彼らを愛される 

「私は、私を愛する人を愛する」とあるように、聖母は、ご自分の忠実なしもべを愛される。 

①なぜなら、聖母は、彼らのまことの母であり、彼らは、その子供である彼らを愛されるからである。 

②彼らが、よい母として聖母を実際に愛しているから、聖母のほうでも感謝の念をもって、彼らを愛される。 

③彼らが救われるべき人々として、神に愛されているから、聖母も彼らを愛される。「私はヤコブを愛し、エサワを憎んだ」。 

④彼らがマリアに捧げられたもの、「イスラエルの所有地に入れ」と聖書にあるように、マリアの所有物と遺産であるから、聖母は彼らを愛される。 

202 全世界のすべての母親が、子供に対して持っている愛情を、一人の母に結集したと想像してみよう。この一人の母の愛は、どんなに大きなものであろう。しかも、マリアの愛は、それ以上に大きなものである。マリアは、ご自分の子らを、行動的な、しかも感情的な愛をもって愛しておられる。それは、レベッカのヤコブに対する愛、いや、それ以上のものである。レベッカを前表とするこのよい母マリアが、ご自分の子供たちに天のおん父の祝福を得させようとして、どうなされるかを見よう。 

203 ①マリアは、レベッカのように、ご自分の子らに善を与え、偉大にし、富ませるために、よい機会を持っておられるのである。すべての善と悪、幸福と不幸、神の祝福と呪いとを見ておられるマリアは、ご自分のしもべが、悪を避け、善で満たされるように前から準備なさっている。それで、もしよい機会があれば、忠実に崇高な使命を果たすことができる恵みを、あるしもべに分けられるのである。「聖母は、私たちの便宜をはかられる」と、ある聖人は言った。 

204 ②レベッカが、ヤコブに対してそうであったように、マリアも私たちによいすすめを与えられる。「息子よ、私の言い付けに従い、私の言う通りにしなさい」。わけても、ご自分に、二頭の子山羊、つまり、私たちの体と霊魂とを捧げ、神の好まれる美味な食べ物とすることをすすめられる。また、おん子イエズス・キリストが、み言葉と行いとをもって教えられたすべてのことを踏み行えとすすめられる。このようなすすめを、ご自分で直接お与えにならなくても、天使たちを通じてお与えになることがある。天使たちは地上に下って、聖母のしもべを助けることを、この上もない喜びとしているのである。 

205 ③体と霊魂と、それに属するすべてを、無条件で聖母に捧げるとき、聖母は、どうなさるであろうか?それは、ヤコブがもってきた二頭の子山羊を、レベッカがどうしたかによってわかるのである。 

(a)その人を「古いアダム」の生活から死なせる。
(b)その人の自愛心と自分自身、悪い傾き、被造物に対する執着などの皮をはぐ。
(c)汚れと欠点と罪を洗い清める。
(d)神の味覚と、神のより偉大な栄光のために、その人を調理する。神の味覚と、その偉大な栄光をことごとく知っているのは、マリアだけであるから、そのしもべの体と霊魂とを、神のみ前に整えられるのは、また、マリアだけである。 

206 ④私が前に述べた信心を行う人から、功徳と罪の償いとの完全な奉献を受けたよいおん母は、その人が、神のみ前に出られるように身づくろいさせる。つまり、
(a)まず、聖母は、その人に、兄のエサワの、清潔な、新しい、香りのある、高価な服を着せる。先にも言った通り、マリアは、イエズス・キリストの功徳と徳との永遠の管理者であり、分配者であるから、望む人に、望む時に、望みのままに、それを分け与える。つまり、その高価な服とは、聖母がご自分の中に保存しているイエズス・キリストの服である。 

(b)聖母は、その人の首と手を、殺された子山羊の皮で覆うのである。その皮とは、その人自身の功徳である。聖母はしもべたちの不完全さ、不潔さをすべて清めるのであるが、恵みがその人たちに行わせた善を散らしてしまうわけではない。むしろ、それをその人の首と手との飾りにするために、守り、増加させてくださる。それは、主のくびきを担うように、その人を強めるためであり、神の栄光と、あわれな兄弟の救いのために、大きな業を行わせるためである。 

(c)聖母は、ご自分の功徳と徳とを分け与えて、その美しさをいっそう際立たせてくださる。前世紀の人で、聖徳の香りを放って昇天したある修道女に啓示されたように、聖母は、死の時に、ご自分の功徳をしもべたちに残すと遺言されたという。したがって、聖母の忠実なしもべと下男と召使とは、聖母の服と、おん子の服と、「二重の服で飾られている」わけである。だから、彼らは、雪のように白いイエズス・キリストの冷たさをおそれることはない。イエズスと、聖なるおん母との功徳をはがれた亡びの人々こそ、その冷たさに耐えられないであろう。 

207 ⑤最後に、聖母は、その人たちが、弟あるいは養子であって、順番から言えば長子権を受ける資格がないにもかかわらず、その人たちに、天のおん父の祝福を得させる。新しい、高価な、香気ある服をつけ、体と霊魂とをよく整えてもらったその人は、信頼をもって、おん父のみ前に進み出る。おん父は、その声を聞いて、罪人の声だなと考えられる。しかし、皮でおおわれたその手に触れ、その服の香気をかぎ、おん母が準備した食事を大変喜んで食される。それは、その人がおん子とおん母との香気ある功徳に包まれているからである。 
(a)おん父は、その人たちに、二重の祝福を与えられる。その一つは「天の露」、つまり、栄光の種である天の恵みである。「彼は、天上から、キリストにおいて、私たちを、霊のすべての祝福で満たされた」。そのもう一つは、「小麦とぶどう酒」である。つまり、日々の糧と、十分に豊かな、この世の富である。 
(b)おん父は、その人たちを、亡びの兄弟たちの上に立てられる。一瞬にして過ぎ去るこの世においては、亡びの人々が「勝ち誇り、高ぶっている」。また、「悪人が喜び踊るのを、私は見た。レバノンの杉のように茂るのを見た」と聖書にあるように、亡びの人々が支配権を握ると見えるが、しかし来世になったとき、永遠に、義人たちは、本当の支配者として現れるだろう。来世において、「彼らは、国々を支配し、民を治めるだろう」と聖霊も仰せられている。 
(c)永遠のおん父は、その人たちとその富とを祝福するだけでなく、その人たちを祝するものを祝し、その人たちを呪ったり迫害するものを呪われるであろう 

B 聖母は彼らを養われる 

208 聖なるおん母は忠実なしもべの体と霊魂とのすべてを、ご自分から養われる。聖母は、先に言ったとおり、その人たちに、二重の服を着せ、神の食卓のもっともおいしいものを食べさせ、ご自身でつくられた永遠のパンを与えられる。「私の実を食べよ」。知恵の書の言葉をもって、聖母は、こう仰せられるだろう。「愛する子供たちよ、私の子、あなたたちのために、私がこの世に生み出した命の実であるイエズスであなたたちを満たせ」。また、他のときに、こう仰せられる。「私のパンを食べに来るがよい。私の整えたぶどう酒を飲め」。「食べよ、飲め、愛する人たちよ、酔うがよい」。また、「私のパンであるイエズスを食べよ。私の母としての愛情とまぜたイエズスの愛のぶどう酒を飲め」。聖母は、いと高いものの、賜物と恵みとの分配者であり管理者であるから、それらの大部分のほとんどを、ご自分のしもべを養い育てるために与えられる。「彼は、若者たちを、小麦のように伸ばし、おとめたちを、甘いぶどう酒のように、栄えさせる」。その人たちは、ひざの上でなでられ、喜んで、イエズス・キリストのくびきを担う。なぜなら、「その日には、あなたの肩から荷が、あなたの首から、くびきが、おろされる」からである。 

C 聖母は彼らを導かれる 

209 聖母は、おん子の思し召しにしたがって、ご自分のしもべたちを導き指導される。レベッカは、愛する息子のヤコブを導き、しばしば、よい勧めを与えた。それは、父の祝福をヤコブの上にくだらせ、兄のエサワの憎みから、ヤコブを守るためであった。「海の星」であるマリアも、ご自分の忠実なしもべたちを導き、永遠の生命の道をさし示し、危険を避けさせ、手をとって正義の小道に案内し、倒れそうになるときには支え、倒れたときには立ち上がらせ、過ったときには愛をもって叱責し、ときによっては、愛するゆえに罰することもある。指導者であり母であるマリアに従順であるなら、どうして迷いに踏み込むことが出来ようか?「マリアに従えば、あなたは迷えない」と聖ベルナルドは言った。マリアのまことの子であれば、悪の霊にだまされて、意識しながら異端に「陥ることは、決してありえない」。マリアに導かれるところには、悪魔とその迷い、異端者とその謬説は、入りえないのである。 

D 聖母は、彼らを守り、保護される 

210 聖母は、忠実な子供たちとしもべたちを、敵から守り、保護される。レベッカは、注意を怠らず、巧妙な策を使って、ヤコブをその危険から守った。その危険とは、昔カインがアベルに対して持っていたような、兄エサワのねたみと憎しみであって、油断をすれば、死を免れなかったであろう。救われる人々のよい母マリアは、親鳥がひな鳥を隠すように、その翼の下に隠し、その人たちに下って話しかけ、その人たちの弱さに同情して、「武装した軍隊のように力強く」、その人たちのかたわらにあって、鳶(とび)とさぎの爪から守られるのである。整備された十万の軍隊を持っていれば、恐れる敵はないであろう。天下無敵の力とご保護とを持たれるマリアの忠実なしもべには、なおさら恐れる敵はないであろう。このよいおん母、威力ある天の姫君は、ご自分の忠実なしもべの一人が、敵の力と数と悪との前に降伏するのを見るよりも、むしろ、その一人を守るために、何百万の天使軍の陣頭に立つであろう。 

E 聖母は、彼らのために、取り次がれる 

211 聖母は、ご自分の忠実なしもべのために、おん子のみ前に取り次ぎ、ご自分の祈りでなだめ、密接におん子に一致させ、そこに止まらせになる。レベッカは、ヤコブを父の床に近寄らせた。よい父は、ヤコブに触れ、抱き、そして、よく整えられた美味な食事を喜んで食べ、その後、ヤコブの服の香りをかいで、満足してヤコブに接吻し、そして言った。「ああ、私の子の香りは、主が祝福なさった田畑の香りのようだ」。この野の香りは、マリアの徳と功徳以外の何ものでもない。父なる神が、救われる人々の種として、おんひとり子を播かれたところの、恵みに満ちあふれる畑とは、他ならぬマリアである。マリアのよい香りに満たされた人々は、「永遠の父」であるイエズス・キリストに、ああ、どんなに歓迎されることであろうか。そして、その人たちは、どんなに密接にイエズス・キリストと一致するであろうか。このことは、すでに前に、くわしく述べた通りである。 

212 聖母は、ご自分の忠実なしもべたちを、恵みで満たし、天の祝福をくだらせ、イエズス・キリストと一致させたのであるから、その人たちを、イエズス・キリストに止まらせ、また、イエズス・キリストを、その人たちに止まらせるのである。その人たちが、神の恵みを失い、敵の罠に落ちないように、終始警戒される。聖母は、義人たちを、その徳にとどめ、先に言ったように、最後までその道を続けるよう守られるのである。以上述べたのは、あまり広く知られていない、しかも深い神秘に満ちた旧約の前表の説明であった。

第7章 この信心が、忠実な霊魂にもたらす不思議な効果

第一節 自分自身を知ること 

213 愛する兄弟よ、私がこの後で教える内部的、外部的信心を、忠実に守るなら、聖霊が、愛する花嫁マリアによって与えられる光によって、あなたは、自分の心の奥底の腐敗を悟り、自分だけではどんな善も行えない無能者であることを知り、そのために、自分を嫌悪し、軽蔑するようになるに違いない。自分は、よだれを垂らして何でもよごしてしまう「かたつむり」のようだ、自分はその毒気で何でも毒してしまう「がま」のようだ、あるいは、罠をかけようとだけねらっている「へび」のようだと、あなたは考えるだろう。そして、謙遜なマリアから分け与えられた謙遜によって、他人を軽蔑せず、自分を軽蔑し卑下することだけを好むようになるだろう。 

第二節 マリアの信仰にあやかること 

214 この世に生きておられた時の、マリアの信仰は、すべての太祖、預言者、使徒、聖人たちの信仰よりも、偉大なものであった。あなたは、その信仰にあやかることができるのである。天におられる今は、聖母はこの信仰を持っていない。なぜなら、今は、栄光の光によって、すべてを明らかに見ているからである。しかし、栄光に入った今も、マリアは、いと高き者の承諾によって、その信仰を失っていないのである。「戦う教会」の、もっとも忠実なしもべにそれを分け与えるために、聖母は今もその信仰を保っておられるのである。あなたがこの尊い姫君、忠実なおん母に、気に入られれば入られるほど、あなたの信仰は純粋になるだろう。感覚的なことや、何か変わったことのために動じない清い信仰、愛徳によって生きる信仰、そうなれば、あなたはもう、純な愛徳のためだけに行うようになるだろう。大きな岩のように不動の信仰、そうなれば、あなたはもう、嵐にびくともしないだろう。行動的な鋭敏な信仰、それは、どこにでも通れる不思議な通過許可証のように、イエズス・キリストの神秘、人間の四終(死、審判、天国、地獄)、さらに神自身の心にまで、あなたを導き入れるだろう。勇敢な信仰、それは、神の栄光と隣人の救いのために、あなたに、大事業を企てさせ、そして成功させるだろう。燃える灯火、神的な生命、神の知恵のひそかな宝、全能な武器である信仰、それは、死の闇と陰とにいる人々を照らすため、冷淡な人々、そして愛徳の燃える黄金を必要とする人々を燃やすため、罪に死んだ人々に生命を与えるため、石の心とレバノンの糸杉(のように高慢な人々)とを動かし倒すため、悪魔と救いの敵とに抵抗するために、あなたを立たせるだろう。 

第三節 清い愛の恵み 

215 「美しい愛」であるおん母は、あなたの心に住む小心と奴隷的恐怖心とから解放されるであろう。神の子としての聖なる自由をもってあなたが、おん子の掟を実行するよう、そして清い愛の宝を心に入れるよう、聖母は計らわれるであろう。そうなると、あなたはもう、今までのように、恐怖をもって身を退けることなく、愛である神を父と仰ぎ、そのお気に入るように努力し、信頼をもって話しかけるようになるであろう。万一、不幸にも、神を侮辱することがあっても、すぐ自分を卑下し、謙遜に赦しを願って、神に単純に手を伸ばし、心配も迷いもなく再び立ち上がり、失望せずに神のほうへ歩み続けるであろう。これらの場合に、いつも、よいおん母マリアを仲介とし、弁護者とするなら、マリアは、その愛と信頼とを、あなたに勧めるであろう。 

第四節 神とマリアとに対する完全な信頼 

216 聖母は、神とご自分とに対する大きな信頼をもって、あなたを満たしてくださるであろう。つまり、 
①イエズス・キリストに対して、あなたは、自分自身を通して近寄らず、つねにマリアを通して近づくからである。
②聖母に、その思し召しのままに、功徳、恵み、罪の償いを処分してくださるように捧げたからには、聖母は、ご自分の徳を分配し、ご自分の功徳を、あなたに着せられるであろう。そして、あなたは、信頼をもって、次のように神に言うことができるであろう。「私は主のはしためです。あなたのお言葉の通りになりますように!」。 
③寛大なものに対して寛大な、そして誰よりも寛大なマリアは、体と霊魂とをすべて捧げたあなたに対して、まことに不思議な方法で、ご自分を与えられるであろう。ここにおいてあなたは、大胆に、こう言い切れるであろう。「私は、あなたのもの、どうぞ救ってください」。また、愛弟子ヨハネと共に、「聖なるおん母よ、私はすべての宝として、あなたを引き取りました」とも言えるであろう。あるいは、聖ボナヴェントーラと共に、こうも言えるであろう。「愛する主人、私の助け手であるマリアよ、私は信頼をもって行い、そして恐れないでしょう。あなたは、私の力であり、主において私の誇りです」。この聖人はまた、次のようにも言っている、「私は全くあなたのものであり、私の持っているものは全部、あなたのものです。どんな被造物にもまさって祝せられた、おお、栄光あるおとめマリアよ、私は、自分の心の上にあなたをしるしましょう。あなたの愛は、死のように強いのです」。あなたは、預言者の心をもって、また、次のように神に言うことができるであろう。「主よ、私の心は高ぶらず、私の目はおごらない、私は身に余ることを、偉大過ぎることを、追おうとしない。むしろ、私は魂をしずめ、やわらげた、母から乳離れした子のように。私の魂は、乳離れした子のようだ」。 
④あなたは、聖母に持っている良いものをみな保管して下さるように委ねたのであるから、これからは、自分に信頼を置かず、あなたの宝である聖母に対して、より大きな信頼を持つようになるだろう。神が、そのもっとも貴重なものを入れた神の宝であるマリアが自分の宝でもあると言える霊魂にとって、どれほどの慰めであり、頼りであろう。「聖母は、神の宝である」と、ある聖人は言ったのである。 

第五節 マリアの霊と精神にあやかること 

217 もしこの信心に忠実であるなら、聖マリアの霊は、主をほめたたえるために、あなたの心にくだるであろう。聖なるマリアの精神は、救い主である神において喜ぶために、あなたの心に入るであろう。「マリアの霊は、主を賛美するために、すべての人に宿るように!」。マリアの精神は、神において喜びに喜ぶために、すべての人々に宿るように! マリアに対して、熱い信心を持っていたこの時代の一聖人は、偉大にして唯一であるイエズスのもとに全人類を集めるために、貴いマリアが皆の心の主人として女王として立てられる幸福な時代はいつ来るのだろうかと詠嘆したのであった。体が空気を呼吸するように、人々の心がマリアを呼吸する時代は、いつ来るであろうか?そのとき地上においては、不思議が起こるであろう。愛する花嫁が人々の心に写されているようだと見た聖霊は、その人たちの心に下り、その豊富な賜物、とくに知恵の賜物で、恵みの不思議を行われるだろう。ああ、愛する兄弟よ、マリアによって神から良しとされた霊魂が、イエズス・キリストを愛し賛美するために、マリアの生きる写しとなる幸福な時代、まさにマリアの世紀というべき時代は、果たしていつ来るのであろうか?それは、私が教えたこの信心があまねく知られ、実行される時に来るだろう。「主のみ国が来るために、まずマリアのみ国が来ますように!」 

第六節 生命の木マリアは、忠実な霊魂に、イエズス・キリストを実らせるであろう。 

218 生命の木であるマリアが、忠実な信心によって私たちの霊魂に養われているなら、適当な時期に実がなるであろう。その実とは、他ならぬイエズス・キリストである。私は、この道をとり、あの道をとって、イエズス・キリストを探し求めている敬虔な人々があることを知っている。しかしその人たちは、夜の間に一生懸命に働いても、「先生、私たちは夜中働いて何ひとつとれなかったです」と言わなければならないことが多いだろう。そしてその人たちは、「あなたたちは多く播いたが、得たものは少ない」と答えてよいだろう。ああ、あなたたちの霊魂の中に、イエズス・キリストの影は、まだどんなに薄いことだろう。しかし、私が教えるこの信心によって、マリアの汚れない道をとれば、夜ではなく日中に、聖なる所で働くことができるのである。しかも、少ない働きですむ。罪のかけらさえ持たないマリアにおいては、夜がないのである。マリアは聖なる所であり、至聖所である。そこにおいて、聖人は鋳造されるのである。 

219 マリアにおいて聖人が鋳造されると言った私の言葉に、よく注意してほしい。槌とのみとで彫刻するのと、鋳造するのとでは、大きな違いがある。槌とのみとで彫刻するには、大変な労力と時間がいるが、鋳造すれば、労力も少なく、時間も少なくてすむのである。聖アウグスティヌスは、聖母のことを「神の鋳型」と言っている。「あなたは、正に神の鋳型です」と。それは神の類型をつくる鋳型である。この鋳型に流し込まれると、すぐ、イエズス・キリストにおいて形づくられ、また、イエズス・キリストが、その人のうちに形づくられる。費用も少なく、労力も少なくして、神に似たものが出来上がるのである。なぜなら、神であるイエズス・キリストをつくった同じ鋳型に流し込まれたからである。 

220 ここに教えた信心以外の方法で、自分をあるいは他人を、イエズス・キリストに一致させようとする信心家あるいは霊的指導者は、自分たちの技術によって、固い石や、でこぼこの荒木に、槌とのみで、イエズスの姿を刻もうとする彫刻家である。その人たちは、イエズス・キリストをよく知らないか、あるいは経験の不足か、あるいは技術がまずいために、そのみ姿を再現できない場合がしばしばある。それに反して、この恵みの秘訣を行う人たちは、神であり使徒であるイエズス・キリストを形づくったマリアという鋳型を見つけ、自分自身の技術ではなく、その鋳型の見事さに信頼をかけて、イエズス・キリストを再現するためにそこに流し込む鋳物師に例えてよいと思うのである。 

221 おお、何という美しい例えであろうか?しかし、これを理解できるものは誰か?それが私の愛する兄弟よ、あなたであることを、私は切に望んでいる。ところで、鋳型には、溶かされて液体となったものだけが流し込まれることを忘れてはならない。つまりマリアによって、新しいアダムとなるためには、あなたの古いアダムを殺し、溶かさなければならない。 

第七節 神の最大の栄光 

222 この信心を、もしも忠実に一カ月間守るなら、他のこれよりも難しい信心を、何年も続けるよりも、神に栄光を与えることができるであろう。その理由は、次の通りである。 
①この信心によれば、あなたは、全く聖母を通して行うのであるから、自分ではどんなに良いことだと思っても、自分自身の意向と行いとを脱ぎ去り、自分ではよくわからなくても、聖マリアの意向と行いの中に身を投げて、それを分け持つのである。マリアの意向というのは、言語に絶する純なるものであって、たとえば、つむざおで紡ぐとか、縫い物をするとかのごく小さな行いでさえも、金網で焼かれて痛ましい殉教をとげた聖ラウレンツィオや、その他の聖人たちの英雄的な行い以上に、神に栄光を与えることができたのである。だから、この世に生きておられた間の聖母は、充ち満ちると言っても及ばない、絶大な恵みと功徳とを得たのである。その恵みと功徳とをあげ、数えるよりも、むしろ、空の星を、海の水を、海岸の砂粒を数える方が容易であろう。そしてマリアは、すべての天使と聖人たちが与えた、そしてまた与えるであろうより以上の栄光を神に与えたのである。おお、感嘆すべき偉大さよ、あなたは、あなたに身を捧げ尽くす人々の霊魂に、どれほど感嘆すべき恵みの奇跡を行われることでしょう。 

223 ③忠実な人々の霊魂は、この信心を行うことによって、自分の考えや行いを無と見なし、イエズス・キリストに近寄って話しかけるために、マリアの意向だけに信頼を置くのである。したがって、この人々は、無意識にしろ、いくらかの自愛心と自尊心とを保っている人々よりも、謙遜なわけである。そのために、謙遜な小さな人々によって栄光を受けられる神に、より大きな栄光を与えるわけである。 

224 ③愛に満ちあふれるマリアは、ご自分のおとめとしてのおん手に、私たちの贈り物を受け、それに、言い表し難いほどの、美と光とを添え、何の困難もなく、これをイエズス・キリストに取り次がれるのである。したがって、私たちが、犯罪の手で捧げるより以上に神に栄光を与えるわけである。 

225 ④あなたがマリアのことを考えれば、マリアは、あなたに代わって神を考え、あなたがマリアを賛美すれば、マリアは、神を尊ばれるのである。マリアは、まったく「神と相関関係にあるもの」であるから、私はマリアのことを、「神との関係」と呼びたいのである。なぜなら、マリアは、神との関係のために存在し、神のこだまであり、繰り返し神のみ名だけを呼び続けているからである。私たちが「マリア」と言えば、マリアは「神」と答える。聖女エリザベットが、信じたために祝されたものとしてマリアを賛美したとき、神の忠実な「こだま」であるマリアは答えて、「私の魂は主を崇めます」と唱えたのであった。マリアの行いは、今も、その時と同じである。マリアが称賛され、愛され、尊ばれ、何か捧げものを受けるなら、つまり神が称賛され、愛され、尊ばれ、捧げものを受けられるのである。私たちは、マリアを通して、マリアにおいて、神に捧げるのである。 

第8章 聖母に対する信心の実行

第一節 外部的信心業 

226 もっとも重大なのは内部的信心であるにしても、外部的信心業も、決しておろそかにしてはならないものである。「さきのをも無視することなく、あとのをこそ行わねばならない」。外部的信心業を、立派に行うことは、内部的信心を助け、感覚にひかれがちな人々に、その行ったこと、または行うべきことを思い出させ、隣人のためにもよい模範となるのであるが、内部的信心は外に見えないものであるから、他人の模範となるわけにはいかない。まことの信心は、内部にあるのだから、外部的なことは全部避けよ、それは、名誉心の誘惑になるなどという、世間の人の非難を気にしてはならない。そういう人々に、私は、主と共に、こう答えよう。「このように、あなたたちも、人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちのよい行いを見て、天においでになるおん父を崇めるであろう」。聖グレゴリオが言っているように、外部的信心業は、人の気に入るためとか、称賛を得たいためにするのではなく、すべて、神の気に入るため、神に栄光を与えるためにするのである。以下、私は、簡単に、いくつかの外部的信心業を説明しよう。これらを「外部的」というのは、内部がないからではなく、外部的なある行いがあるから、純粋に精神的な信心と区別するためである。 

(1)外部的信心業のその1 奉献の前の準備 

227 この信心業は、正式の信心会に設立されるのは望ましいが、まだそうなっていないが、イエズス・キリストのみ国に入る準備として、第1部に述べているとおり、十二日間を、イエズス・キリストの精神に反する世俗精神を脱ぎ取るために用い、あとの三週間を、聖なるマリアによって、自分自身を、イエズス・キリストの精神で満たすために用いるのである。この修行は、次の順序で進めてもよい。 

228 その第一週は、謙遜の心をもって、自分自身を知ること、罪を悔い改めるために祈りと信心業とを使用する。もしできれば、私が先に記したように、自分の心底に巣くう悪を黙想し、自分は全くいやしい生きものに過ぎないと考え、そして、聖ベルナルドの次のような言葉を考えよう。「あなたは、かつて何であったかを考えよ、一握りの土くれではなかったか。今は何であるかを考えよ、肥料溜ではないか。また未来は何になるかを考えよ、うじ虫の餌食になるだけではないか」。また次にあげるような言葉で、主と聖霊とに照らされるように祈らなければならない。「主よ、見えるようにしてください」。「私に自分を悟らせてください」。「聖霊よ、来てください」。そして、聖霊の連願か、この本の第一部にのせた祈りを唱え、聖母に依り頼まねばならない。 

229 第二週は、信心業と祈りとをもって、聖母を知るように努めなければならない。そのために、聖霊のおん助けを求め、私がこの点について書き記したことを黙想してもよいだろう。第一週と同じく聖霊の連願と、「海の星めでたし」を唱え、毎日ロザリオ三環、少なくとも一環を唱えないといけない。これを全部聖母をよく知る、という意向で唱えること。 

230 第三週は、イエズス・キリストを知るように努めなければならない。先に、これについて書き記したことを読んで黙想し、この本の第二章のはじめに書いた聖アウグスティヌスの祈りを唱えてもよいだろう。同時に、「主よ、あなたを悟らせてください」、「主よ、私の目を開いてください」と日に何百度となく唱え、前週と同じく、聖霊の連願と「めでたし海の星」と、イエズスのみ名の連願とを唱えなければならない。 

231 この三週間を終わってから、マリアを通して、イエズス・キリストの愛の奴隷になるという意向をもって、告白し、聖体拝領をするのである。後に記すような方法に従って、聖体拝領をしてから、また、付録にのせた奉献文を唱えればよい。この奉献文は、もし印刷したものがなければ、自分で書き写し、奉献を行う日に、それに、署名しなければならない。 

232 その日にはまた、洗礼の約束に対して誠実でなかった償いとして、また、イエズスとマリアの奴隷になったしるしとして、何かを捧げてもよいだろう。この捧げものは、それぞれの能力に従って、たとえば断食とか、ちょっとした苦業とか、施しとか、あるいは一本のろうそくとかの類である。たとえ一本の釘を捧げたとしても、そのよい心だけをご覧になるイエズス・キリストにとっては、それで十分である。 

233 奉献を行った人は、少なくとも毎年同じ日に、同じ奉献を新たにし、三週間の信心業を守らなければならない。また、毎日、次のような短い言葉で、奉献を新たにしてよい。「私は、全くあなたのものです。また私の全てのものは、あなたのものです。おお、愛するイエズス・キリスト、あなたの聖なるおん母によって、私は、全部をあなたに捧げます」。 

(2)外部的信心業のその2 聖母の小さなロザリオ 

234 この信心業を行う人は、毎日—しかし自由に—”天にまします”三回と”めでたし”十二回によって成り立つ聖母マリアの小さなロザリオを唱える。それは、聖母の十二の特権と十二の偉大さを尊ぶためである。この信心業は、聖書に基づくもので、非常に古くからある。聖ヨハネの黙示録を読むと、太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていたとある。この婦人は、教父たちの解釈によると、聖なるおとめマリアである。 

235 この信心業を行うためには、いろいろな方法があるが、ここに全部をのせるわけにはいかない。忠実な敬虔な人々に、聖霊ご自身で教えられるであろう。しかし、簡単に記せば、このロザリオは、まず、「聖なるおとめマリアよ、あなたをふさわしく賛美させてください。あなたの敵に打ち勝つ力をお与えください」と、はじまり、それから、使徒信経、”天にまします”一回、”めでたし”四回、栄誦一回。これを三度繰り返すこと。最後に、「神のおん母よ、私たちはみ元に駆け寄って、ご保護を求めます。必要なときに、私たちの祈りを軽んじないで、すべての危険から、いつもお救いください、栄光に満ちた、幸せなおとめよ」という祈りを唱えます。 

(3)外部的信心業のその3 鉄の鎖 

236 イエズスとマリアの愛のしもべになった人々が、そのしるしとして、後にのせる祝福された「鉄の鎖」を身に着けることは、非常に誉めるべきことであり、ためになることである。こうした外部的なしるしは、もちろん本質的なものでないから、この信心業を行っている人でも、持たなければならないとは決して言わない。しかし、原罪と自罪とによって背負った悪魔の奴隷の鎖を脱ぎ捨てた人々が、イエズス・キリストの栄光ある奴隷となり、聖パウロと共にキリスト・イエズスの囚人となって、この鎖を身に着けることは、まことに立派な行いである。この鎖は、鉄製のもので、何の光沢ももっていないが、しかし、王と皇帝たちの黄金の鎖とは、比較にならない栄光あるものである。昔は、十字架より恥ずかしいものはなかったが、その十字架が、キリスト教のもっとも栄光あるものとなったのである。奴隷の鎖も、それと同じである。いにしえの人々にとって、奴隷の鎖ほど恥ずかしいものはなかったにしろ、キリスト信者にとっては、イエズス・キリストの鎖ほど、尊いものはないのである。 

237 この鎖は、私たちを、厭わしい悪魔の束縛から解放させ、強制ではなく子供としての愛によって、イエズスとマリアに結びつけるものである。「やさしい網で、愛の絆で、私は、彼らを引いた」と、神は、一人の預言者の口を借りて仰せられた。それは、愛の鎖であるから、死のように強いものであるが、死ぬまで忠実にそれを守る人々にとっては、死よりも強いと言えるだろう。死によって肉体が分解して灰になったとしても、その鎖は灰にならないだろう。そして復活の日、最後の審判の日には、その鎖が、光と栄えとに変化するだろう。マリアを通じてイエズスの奴隷となり、墓の中までその鎖を持っていく人々は、何と幸せものであろう。 

238 その鎖を身に着ける理由をあげれば、次の通りである。 

①洗礼の約束と義務、この信心業を新たにすること、それを守る理由などを、思い出させるためである。純粋な信仰によってでなく、感覚によって動かされがちな人間は、何か思い出されるものがないと、神への約束と義務とを、とかく忘れるものである。この鎖は、洗礼によって自分が罪の鎖を解かれ、イエズスのものとなったこと、その約束を繰り返して、もう一度確認したこと、などを思い出させるために、まことに有益なものである。多くのキリスト信者が、洗礼の日の約束を忘れ、無信仰者のように世間を泳いでいる理由の一つは、その約束を思い出させる外部的なしるしを持たないからである。 

239 ②イエズス・キリストの奴隷になったことを名誉とし、世間と罪と悪魔との鎖を脱ぎ捨てたという表示である。 

③罪と悪魔の鎖から、身を守るためである。私たちは、罪悪の鎖か、愛と救いの鎖か、いづれかを持たなければならないのである。 

240 ああ、愛する兄弟よ、罪と罪人、世間と世間の人、悪魔とその仲間の「鎖を破ろう。彼らの、その絆を振り捨てよう」。聖霊の言葉を借りれば、「あなたの足を、知恵の足枷にはめ、あなたの首を、その首枷に入れよ」。「知恵の荷を負うために、背をかがめ、その約束を嫌がるな」。聖霊は、そう言われる前に、「子よ、聞くがよい、私の考えを受け入れ、私たちの忠告を拒むな」と仰せられて、霊魂を準備されたのである。 

241 私の友よ、私がそれと同じくあなたに勧めて、「その束縛は、緋色の帯である」と、聖霊と共に、言わせてください。ともあれ、すべての者をご自分に引き付けるべきである十字架上のイエズス・キリストは、神の永遠の怒りと正義の復讐とのために、亡びる人々をも、その罪の鎖によって、ご自分に引き付けられるのである。しかし、この最後の時代にあたっては、とくに、愛の鎖で、救われる人々をご自分に、引き寄せられるであろう。「すべての人を、私のもとに引き寄せる」。「やさしい網で、愛の絆で、私は、彼らを引いた」。 

242 イエズス・キリストの愛の奴隷、イエズス・キリストの囚人は、その鎖を首に、腕に、足につけるべきであろう。1643年、聖徳の香りのうちに帰天したイエズス会の七代目総長ヴィンセンチオ・カラッファ師は、愛の奴隷のしるしとして、足に鉄の輪をはめていた。彼がつらかったのは、公にその鎖を引いて行けないことだったそうである。前にその名を出したイエズスのアグネス修道女は、鉄の鎖を腰につけていた。また、他のある婦人は、世間にいた時に首にかけていた真珠の首飾りの償いとして、鉄の鎖を首にかけていた。また、他の人々、仕事をしている時にも思い出すために手首にそれをかけていた。 

(4)外部的信心業のその4 ご托身の奥義 

243 この信心業を行う者は、み言葉のご托身の大奥義の祝日(三月二十五日)に、特別な信心を持たなければならない。聖霊は、次にあげる理由によって、この信心を勧められたのである。 

①おん子である神が、おん父である神の栄光のためと、私たちの救いのために、マリアに対して示された、ほめ称えるべき服従を、私たちは尊び、まねなければならない。その服従は、イエズスとマリアの肉体において囚人となり、奴隷となり、まったくマリアに従属されたというこのご托身の奥義にもっともよく表れている。 

②神がご自分のふさわしい母として、マリアに与えられた比類のない恵みを考えて、神に感謝するためである。この奥義は、それを示しているのである。以上記したのは、マリアにおいてイエズス・キリストへの奴隷の、主な二つの目的である。 

244 「マリアにおいて、イエズス・キリストの奴隷」あるいは、「マリアにおけるイエズス・キリストの奴隷制度」と、私が言っていることに留意してほしい。他の人々のように、「マリアの奴隷」、「聖なるマリアの奴隷制度」と言ってもよいのであるが、私は、先のように言ったほうがよいと思うのである。それは、その賢明と敬虔とを歌われたサン・スルピスの大神学校長トロンソン神父が、この問題について意見を求めたある聖職者に答えたすすめである。その理由は、次の通りである。 

245 ①私たちの生きている今の時代は、もっとも確実な信心業にさえも異議を申し立てる傲慢な批判者が多い時代であるから、彼らに、非難の隙を与えないように、「マリアを通して、イエズス・キリストの奴隷」と言ったほうがよいであろう。つまり、この信心の道であり手段であるマリアよりも、目的であるイエズス・キリストを置く方がよいのである。事実、私がそうしているように、どちらでもよいわけである。例えば、オルレアン市からアムブワーズを通って、トゥール市に行こうと思う人は、アムブワーズへ行くとも言えるし、トゥールへ行くとも言えるわけである。たとえ、目的地はトゥールであって、アムブワーズが、その通過点であるにしても。 

246 ②この信心が、尊び祝す主な奥義はご托身である。この奥義では、マリアの体内に肉となったイエズスを見るのであるから、マリアにおけるイエズス・キリストの奴隷、マリアを通じて君臨し住まわれるイエズス・キリストの奴隷と言うのがよいのである。多数の著名な人々も、「マリアにおいて生きるイエズス、成聖のあなたの霊を持っておいでになり、私のうちに生きてください」と祈っているのである。 

247 ③この言い方は、またイエズスとマリアとの密接な一致をあらわしている。イエズスは全くマリアにあり、マリアは全くイエズスにある。つまりマリアはもう無く、イエズスだけがマリアにあるとさえ言えるほどである。マリアをイエズスから引き離すよりも太陽から光線を分離させる方が容易であろう。そのために、私たちの主は、「マリアのイエズス」とも言え、聖母は、「イエズスのマリア」とも言えるであろう。 

248 マリアの内に生きて、君臨されるイエズス、あるいはみ言葉のご托身という、まことに偉大な奥義を、ここで詳しく説明する暇はないのであるが、ごく簡単に、これはイエズスのもっとも神秘な、もっとも崇高な、第一の奥義だと言いたいのである。この奥義において、イエズスはマリアと一致して—そのために、マリアは、「神の神秘の部屋」と言われている—選ばれたものを選び、おん父のみ旨に従って、これに続くすべての奥義を行われたのである。「そのために、キリストは世に入るときに言われた—神よ、私はあなたのみ旨を行うために来る」。したがって、この奥義は、他の奥義の計画と恵みとを含み、すべての奥義の結合であり、そしてまた、神のおんあわれみ、寛大さと栄光の王座である。私たちは、マリアを通してのみイエズスに近寄り、話しかけることができるのであって、そのためにこそ、私たちにとって、それは、神のあわれみの王座である。愛するおん母の願いをいつも聞き入れられるイエズスは、マリアを通して、あわれな罪人に、恵みとあわれみを与えられるのである。「信頼をもって恵みの王座に近づこう」。その奥義はまた、あわれみの王座である。新しいアダム(イエズス)が、まことの意味でのエデンの園であるマリアに隠れておられたとき、どれほどの不思議を行われたかは、天使も人間も、理解し得ないのである。そのために、聖人たちは、マリアを、「神の寛大さ」と言っている。神はマリアにおいてでなければ寛大でないかのように。その奥義はまた、おん父の栄光の王座である。なぜなら、イエズス・キリストは、マリアを通じて、人間に対して怒られたおん父を完全になだめ、罪がおん父から奪った栄光をとり戻し、ご自分の意志と犠牲とをもって、旧約の全いけにえが与えた以上の無限の栄光を与え、神がまだ人間から受けられたことのない絶大な栄光を与えられたからである。 

(5)外部的信心業のその5 ”めでたし”とロザリオ 

249 この信心業を行うものは、ごくわずかなキリスト信者しか、その価値、その功徳、その偉大さ、その必要性を知らない。”めでたし”の祈り(天使祝詞)を、とくに敬虔に唱えなければならない。聖マリアは、聖ドミニコ、聖ヨハネ・デ・カピストラノ、福者アラン・ド・ロシュのような大聖人にあらわれて、この祈りの功徳を見せられたのである。彼らは、霊魂の改心のために、この祈りがいかに不思議な効果をもっているかについて書き残し、この世の救いは、「めでたし、マリア」によって始まったのであるから、人間の個々の救いも、この祈りに結びついていることを、公に宣教し、声高く宣言したのである。不毛のやせ地であるこの世に、生命の実をもたらしたのは、やはりこの祈りである。天使祝詞こそ、この世の土、つまり霊魂を潤す天の露である。この露に潤されていない霊魂は、実を結ばないであろう。「茨とあざみとだけ生える土地は、捨てられ、呪いに定められ、ついには焼かれてしまう」。 

250 聖母が、福者アラン・ド・ロシュに示されたみ言葉は、彼の「ロザリオの威光」という著書に記され、また、カルタヘナによっても書き残されている。「わが子よ、全世界を亡びから救った天使祝詞を唱えるに当たって、抵抗を感じたり、無関心だったり、怠惰であることは、永遠の亡びの、確実に近いしるしであることを知りなさい。このことを、皆にも知らせなさい」。この聖母のみ言葉は、非常に慰めとなるものであるが、また、非常に恐るべきものである。これを書き残したのが、この有名な聖人であり、それより先に聖ドミニコの証言があり、そして、また、何世紀にも渡って、数多い聖なる人たちの保証があるが、それがなければ、信じがたいほど恐ろしい言葉である。異端者や不信仰者や、傲慢な人々や、亡ぶべき人々が、天使祝詞とロザリオを軽蔑し、憎悪していることは、常に人々の注目をあびて来た事実である。異端者は、今もなお”天にまします”を唱えるが、天使祝詞を嫌って口にしない。彼らは、ロザリオよりも、蛇を用いたいのであろう。カトリック信者であっても、傲慢な人々は、彼らの父ルチフェルと同様であって、天使祝詞を軽蔑し、あるいは冷淡に唱え、ロザリオを無学文盲の徒のもてあそぶ信心だと考えるのである。それに反して、救われるべきしるしを持っている人々は、真心からの喜びをもって、この祈りを唱えるのである。彼らが、「神のもの」であればあるほど、この祈りを好んでいる。それは、先にあげたみ言葉のあとで、聖母が、福者アランに教えた事柄である。 

251 なぜと言われても困惑するが、ある人が「神のもの」であるかどうかを知るためには、その人が天使祝詞とロザリオを好んでいるかどうかを調べる以上の方法はないだろうと、私は思うのである。好むか嫌うかという言葉を私は使ったが、それは、自然的な、あるいは超自然的な理由のために、天使祝詞を唱えられない場合があるが、しかし、唱えられなくても、好む人は好んでいるし、他人にも奨励しているからである。 

252 救われるべき人々よ、マリアにおけるイエズス・キリストの愛の奴隷よ、天使祝詞は、”天にまします”に次いで、どんな祈りよりも美しい祈りであることを忘れてはならない。それは、あなたたちが、マリアに対してすることのできる、もっとも完全な称賛である。何しろそれは、一人の大天使を送って、神が告げられた称賛なのであるから。この称賛の神秘的な魅力が、聖マリアに対して、どれほど威力のあるものであったかを知らなければならない。マリアは、その底知れぬほど深い謙遜な心にもかかわらず、すぐみ言葉のご托身に承諾したのであった。私たちも、この祈りをよく唱えるなら、きっと聖母を動かすことができるであろう。 

253 注意と敬虔と慎みとをもって、よく唱えた天使祝詞の威力について、聖人たちは語っている。それは、悪魔を叩き潰す金槌であり、悪魔の敵であり、霊魂を聖とするものであると。また、天使の喜びであり、救われる人々の音楽であり、新約の賛美歌であり、マリアの歓喜であり、聖なる三位一体の栄光であると。また、霊魂を富ませる天の露であり、マリアへの愛情にみちた清らかな口づけであり、マリアへの鮮紅色のバラの贈り物であり、貴重な宝石であり、甘美な食べ物、甘露の杯であると。これはすべて聖人の言葉である。 

254 では、イエズスとマリアとにおいて、私があなたたちに対して抱く愛のために、聖母の小さなロザリオを唱えるだけに止まらず、毎日ロザリオを唱えるようにと、切に切に希望する。そうすれば、あなたたちは、死んだときに、私の言葉を信じたその日その時を、祝福するだろう。そして、イエズスとマリアの祝福のうちに種をまいてから、天において、永遠の祝福の実を結ぶであろう。「豊かにまくものは、豊かに刈り取るであろう」。 

(6)外部的信心業のその6 聖母賛歌 

255 神が、聖なるおとめマリアに与えられた恵みを感謝するために、福者マリア・ド・ワイニ、その他の聖人の手本に倣って、しばしば「マニフィカト」(聖母賛歌)を唱えるように努めなければならない。「マニフィカト」は聖母が作った唯一の祈りであり、唯一の詩である。いや、むしろ、マリアの口を借りて、イエズスが作られたと言ってもよい。また、それは、新約の時代になってから、神が受けられた最大の賛美のいけにえであり、もっとも低い、もっとも感謝にあふれている一方には、もっとも崇高で、もっとも尊い賛美である。そこには天使でさえも悟り得ないほどの深い神秘がある。敬虔と学識において、一世に名をとどろかせたジェルソンは、生涯のほとんどを著作に専念したのである。その晩年になって、今までのすべての著述を飾ろうとして、恐れながら感謝のうちに、マニフィカトの説明に着手したのであった。その本の中には、聖母ご自身が聖体拝領後の感謝の祈りとして、このマニフィカトを唱えられたと書かれている。学識にとんだベンゾニオ師の本には、この愛の讃美歌によって行われた数々の奇跡が記され、「その御腕の力をあらわし、おごる思いの人々を散らし」と唱えるときには、悪魔が逃げると語っている。 

(7)外部的信心業のその7 世間を軽蔑する 

256 マリアの忠実なしもべは、腐敗の世を軽蔑し、憎悪し、回避しなければならないのであって、そのために、第一部に記した世間を軽蔑するための信心業を行わなければならない。 

第二節 内面的信心業 

257 それぞれの身分がゆるす限りにおいて、怠りや軽蔑のためにおろそかにしてはならない外部的信心業を述べたのち、これから、聖霊によって完徳に招かれる人々に特に益のある、内的信心業について述べたいと思う。簡単に言えば、それは、自分の行いのすべてを、イエズスによって、イエズスと共に、イエズスにおいて、イエズスのためにもっとも完全に行うために、マリアによって、マリアと共に、マリアにおいて、マリアのために行うことである。 

A マリアによって 

258 自分のすべての行いを、マリアによって行わなければならない。万事において聖母に服従し、神の霊であるマリアの霊に導かれなければならない。「 神の聖霊にみちびかれる人は、だれでも神の子どもです 」とある通り、神の霊に導かれるものは、神の子であり、マリアの霊によって導かれるものは、マリアの子である。したがって、私たちは先に言った通り、神の子である。聖母への信心を持っている者もたくさんあるが、マリアの霊によって導かれ、行動している者だけが、まことの忠実な信心家である。今私は、マリアの霊は神であると言ったが、それはマリアが、一度も自分の霊によって行動せず、いつも神の霊によって動いているので、ちょうど、「神の霊がマリアの霊となる程だ」と言えるからである。そのために、聖アムブロジウスは、「マリアの霊は、主を賛美するために、皆の心にあるように。マリアの霊は、神において喜ぶために、皆の心にあるように」と言ったのである。聖徳の誉れを残したイエズス会のロドリゲス修士にならって、柔和で剛毅、熱烈で慎重、謙遜で勇敢、清くて深いマリアの霊に導かれる者は、何と幸せであろう。 

259 霊魂が、マリアの霊によって導かれるためには、次のようにしなければならない。 

①何かを始めるとき、たとえば、祈りをする前とか、ミサを立て、あるいはミサにあずかる前とか、聖体拝領の前とかに、自分自身の霊と意志とを、全く棄てなければならない。なぜなら、私たちの闇の霊、私たちの意志と行いとは、どんなによく見えても、マリアの聖なる霊を妨げるのである。 

②聖母の思いのままに導いていただくためには、マリアの霊に自分を委ねなければならない。自分を、清らかなそのみ手の中に置かなければならない。ちょうど、労働者の手中にある道具のように、名演奏家の手にあるリュートのように、海に投げ込もうと握られた石ころのように。短時間で、ざっと精神を見回し、ちょっとした意志の働き、あるいは簡単な言葉で、例えば「私は、自分を棄てます、私をあなたに与えます、愛するおん母よ」ということによって、それを行うのである。この一致の行いによって、感情的な喜びを感じなくても、まことに一致したことになるのである。ちょうど同じように真実に、「私は、自分を悪魔に捧げます」と言ったなら—神がそれを避けさせてくださいますように—感情的にどんな変化がなくても、実際に悪魔のものとなったのと同様である。 

③何かの行いをしている時に、あるいはした後で、奉献と一致との行いを繰り返ししなければならない。そうすればする程、いよいよ早く完徳に至り、いよいよ早くイエズス・キリストと一致するに至るだろう。この一致は、常に必ず、マリアとの一致に連なっているのである。つまり、マリアの霊は、イエズス・キリストの霊だからである。 

B マリアと共に 

260 何をするに当たっても、マリアと共にしなければならない。事に当たって、マリアは聖霊が人間において作られた完徳のモデルであることを考えよ。つまり、事をする場合、マリアはこれをどうしたであろうか、あるいは、私たちの位置にあったら、マリアはどうするであろうかと考えよ。そのためには、聖母の偉大な聖徳を黙想しなければならない。とくに、 

①ためらいもなく神のみ言葉を信じ、カルワリオ山上の十字架の足元まで、絶えず信じてつき従ったその生きた信心を。 

②片隅にあって沈黙させ、すべてに服従させ、最後の席につこうとなさったその深い信仰を。 

③天の下に、存在したこともない、また存在し得ないであろうその神々しい清らかさ、そしてそれ以上のすべての徳を。少ない費用と短い時間とで、神の面影をつくることのできる偉大な神の鋳型はマリアであることを、もう一度考え直してほしいのである。この鋳型に流し込まれるものは、そのまま、イエズス・キリストに変化させられるということを。 

C マリアにおいて 

261 自分の行いのすべてを、マリアにおいてしなければならない。それをよく理解するために、次のことを考えなければならない。 

①聖母は、「新しいアダム」イエズスの、まことの「エデンの園」であって、その昔のエデンの園は、これらの前表であった。この「エデンの園」には、新しいアダム(イエズス)が残された、言語に絶する富と美と甘美さとがある。イエズスは、九ヶ月の間、この中で不思議を行い、また、その寛大さをもって、富をすべて陳列されるのである。この「天国」(マリア)、この至聖所(マリア)は、聖霊の行いによって、どんな汚点もない清らかな土で出来ている。そしてここには、生命の実であるイエズス・キリストを実らせた生命の木、善悪を知る木がある。そこには、神の手で植えられ、神の露で潤された木々があり、毎日神の味をふくむ実をみのらせているのである。また、そこには、天使さえも恍惚とさせるほどの芳香を放つ徳の花々が咲きほこっている。そこには、望徳のみどりの平原、不落の塔 、信頼の美しい家がある。物質的な、そういう象徴の下に隠されている真理を語れるのは、ただ聖霊だけである。そこにはまた、澄み切った無毒の空気、夜のない聖なる人性の真昼、影のない神性の太陽、鉄を燃やして黄金に変える愛徳のかまどがある。また、地上から源を発して、四つの支流に分かれ、その素晴らしい楽園を流れてゆく謙遜の川がある。この四つの支流とは四つの枢要徳である。 

262 聖霊は、聖なる教父たちの口を通して、マリアのことを、次のように呼んでおられます。 

①大司祭であるイエズス・キリストが入って、そして世に出た「東の門」である。イエズス・キリストは、マリアを通してこの世に来られ、ある日また、マリアを通して来られるであろう。 

②マリアは、神性の至聖所、三位一体の休みどころ、神の座、神の町、神の祭壇、神の神殿、神の世界である。これらの称号は、「いと高きもの」が、マリアに行われた不思議と恵みとに対応するものである。ああ、この事実こそ、何という富、何という栄光、何という幸福!「いと高きもの」が、その栄光の玉座をマリアに置き、そこに止まりになるとは! 

263 昔のエデンは、一人のケルビムが守っていた。しかし、このエデン(マリア)は、「私の姉妹、私のいいなずけは、閉じられた庭園だ。閉じられた庭園、封じられた泉だ」と、聖霊が絶対の主人として守られるのである。これほどに至高な場に、罪人の私たちがどうして入ることができるのか? 

264 マリアは、「閉じられたもの」、「封じられたもの」である。エデンを追われたアダムとエヴァとのみじめな子孫である人間は、聖霊の恵みなくしては、ここに入ることはできないのである。自分の忠実を見せて、この無情の恵みを得たら、喜んでそこに入り、平和に憩い、信頼をもって止まり、安心して隠れ、遠慮なく身心を投げかけることができるであろう。この聖なるおとめのふところにおいては、いつくしみの父とやさしい母とに養われ、迷いと恐れと小心とから解放されるのである。 

③霊魂はもう、そこにおいては、悪魔と世間と罪とを恐れる必要がないであろう。聖母によって事を行うものは、「罪を犯さないだろう」とあるが、聖母の内に住むものは、大罪を犯さないであろう。 

④それはまた、霊魂がイエズス・キリストにおいて作られ、イエズス・キリストが、その霊魂の中に作られるためである。教父たちが言っている通り、聖母のふところに、イエズス・キリストと、選ばれた人々とがつくられた神の神秘の部屋である。 

D マリアのために 

265 何をするに当たっても、マリアのためにしなければならない。自分のすべてを捧げたからには、給仕として、しもべとして、奴隷としてすべてをマリアのためにしなければならないはずである。それは、マリアを最終的にして奉仕するわけではなく、—最終目的はイエズス・キリストだけである。—手近な目標として、神秘的な中間として、目的に達するための容易な手段として、奉仕するのである。忠実なしもべは、怠惰ではない。マリアの保護にもたれつつ、大事業を企て、かつ遂行しなければならない。聖母の特権が議論の的となっている時には、それを守って立たなければならない。聖母の栄光が非難されている時には、それを守って戦わなければならない。できれば、すべての人々をマリアへの奉仕に呼び寄せ、まことの信心に入らせなければならない。この信心を軽蔑して、おん子を侮辱するものがあれば、糾弾の声を上げなければならない。そして、そういう小さな奉仕の報いとしてマリアに切に願うべきは、この愛すべき姫君のしもべ一人として止まっていることのできる名誉と、時間と永遠とにおいて、イエズスとマリアとに固く固く結びつき得るという幸福だけである。 

マリアにおいて、イエズスに栄えあれ!
イエズスにおいて、マリアに栄えあれ!
神のみに栄あれ! 

第9章 聖体拝領のときに、この信心を実行する方法

1 聖体拝領前 

1・神のみ前に深くへりくだりなさい。 

2・あなたの堕落した考えと感情を捨てなさい。あなたの自愛心が、それらをよいものと見せるにしても。 

3・自分の奉献を新たにして言いなさい。「愛すべきイエズスよ、私はすべて、まったくあなたのものです。私が持っているものも全部聖なるおん母を通じてあなたのものです」。 

4・おん子イエズスをマリアと同じ気持ちで迎えることができるように、このよいおん母に、お心を貸してくださいと願いなさい。”そうでないと、自分のような汚れた変わりやすい心にイエズスを迎えるとしたら、イエズスの不名誉になるからです”とマリアに言いなさい。もし、マリアが、おん子を受け入れるために、私の心に住みたいとお望みになるなら、マリアは、人々の心の女王であるから、そうする権利があります。そうなれば、御子は、何の傷も受けず、また、侮辱されたり、面目を失ったりする心配もなく、マリアから歓迎されるでしょう。「神は、その中におられる、ゆれ動きはすまい」。マリアをほめるために、すべてのものを捧げても、わずかでしかありませんが、聖体拝領をもって、永遠のおん父から受けられた同じ贈り物をしてあげたいと、信頼深くマリアに言いなさい。”そうすれば、全世界のすべての宝を贈るよりも、あなたは、はるかに大きな名誉をお受けになります”とマリアに言いなさい。また、マリアに、こうも言いなさい。「イエズスは、あなたを限りなく愛しておられるので、私の魂があの馬小屋よりも汚れていても、イエズスは、あなたの中に喜んで来られ、安らかに休むでしょう」と。事実、あの馬小屋に、イエズスが喜んで来られたのは、そこにマリアがおられたからです。最後に、次の言葉をもって、マリアの心を願いなさい。「私は、あなたを自分の宝としてひき受けます。あなたの心を、私にください、おおマリア」と。 

2 聖体拝領のとき 

267 天にましますの祈りの次に、イエズス・キリストを拝領しようとする直前に「主よ、私は、あなたをお迎えする値打ちのない者です。あなたが、ただ一言、おっしゃってくだされば、私の魂は癒されます」と三回言いなさい。一回目は、永遠のおん父に向かって、”私の悪い考えと、これほどやさしいおん父に対する忘恩のために、おんひとり子をお迎えする値打ちのないものです”と言いなさい。しかし、神のはしためマリアは、あなたの足りなさを補って威厳に満ちた神に対して、信頼と特別な希望を起こさせてくださいます。そうすると、こういうふうに祈ることになります。「主よ、私を安らかに休ませるのはあなたです」と。 

268 次に、おん子に向かって、「主よ、私は、あなたをお迎えする値打ちのないものです…」と言いなさい。すなわち、自分の無駄な悪い言葉と、その奉仕における不忠実のために、イエズスをお迎えする値打ちがないという意味です。しかし、あわれんでくださるように祈ってから、こう言いなさい。「これからあなたを、あなたご自身のおん母であり、同時に、私の母でもある”マリアの家”に迎え入れます。あなたがおん母マリアの家に住んでくださるまで、絶対にあなたを離しません。私はあなたを引き止めて、行かせません。私の母の家に、あなたを連れて行き、私を生んだものの部屋にあなたが入るまでは」。次にこう言いなさい。さあ、お立ちになって、あなたの憩いの家に、あなたの聖なる契約の櫃にお入りください。「主よ、立って、あなたの休みの所に行ってください。あなたと、そのおん力の聖櫃と共に」。また言いなさい。私は、エサワのように、自分の功徳、自分の力、自分の準備にもぜんぜん信用しません。かえって、小さなヤコブが母レベッカの心に信頼したように、あなたの愛するおん母マリアにすべてをゆだねます。それで、私が、エサワのように罪人であるにしても、おん母マリアの功徳に寄りすがり、その功徳を着て、あなたの限りない聖性に近づかせていただきます。 

269 「主よ、私は、あなたをお迎えする値打ちのないものです」と聖霊に言いなさい。すなわち、私は、生ぬるくて、悪い行いをして、神のいぶきに、背いたことがあるから、愛の傑作であるイエズスをお迎え入れる値打ちはありませんが、マリアが聖霊の忠実な花嫁であるから、すべての信頼をマリアに置きます、と。そして聖ベルナルドの言葉を借りて、「マリアは、私の最大の信頼、私の希望の理由のすべてです」と加えなさい。また、決して離れることのない花嫁であるマリアに再び下るようにと祈ることができます。マリアのふところは、純粋な愛で、そのみ心は、炎で燃えているから、聖霊が魂にくだらないと、イエズスも、マリアも発育しないで、ふさわしく迎え入れることもできません、と聖霊に言いなさい。 

3 聖体拝領後 

270 聖体拝領ののち、内的に注意深く目を閉じながら、イエズス・キリストをマリアのみ心の中に導き入れなさい。イエズスを、おん母に渡しなさい。おん母は、愛をもって、イエズスを歓迎し、礼拝し、かたく抱きしめて、私たちのこの暗闇の世界に知られていない多くの奉仕を霊と真理によってイエズスに与えるに違いありません。 

271 あるいはまた、マリアのうちに住んでおられるイエズスのみ前に、深くへりくだりなさい。あるいは、王の宮殿の門の前に立っている奴隷のように、振るまいなさい。王が女王と話し合っているうちに、あなたを必要としないその時、あなたは、精神をもって、天と地とを全部めぐって、すべての被造物に向かい自分の代わりに、マリアのうちにおられるイエズスに感謝と礼拝と愛を捧げるように願いなさい、来て、集まれ、「礼拝のかしらをたれ」。 

272 あるいは、あなた自身、マリアと共にイエズスに向かって、おん母を通じてみ国が地上に来ることを願いなさい。あるいは、知恵と神の愛、あるいは罪のゆるしを、あるいは他の恵みを願いなさい。しかし、その願いは、いつもマリアを通じて、マリアのうちに願うように。自分を見つめないで、こう言いなさい、「主よ、どうか私の罪を見ないでください。あなたのおん目が、私のうちに、マリアの全徳と功徳しか見ないように」。そして、自分の罪を思い出してこう加えなさい。「敵がこうしたのだ」。これらの罪を犯した一番悪い敵は、私です。あるいはこう言いなさい。「不実な非道な人から、私を救い出してください」。あるいはまた、「あなたは栄え、私は姿を消さねばならない」と。私の愛するイエズス、あなたが、私の魂の中で栄え、私は姿を消さねばなりません。マリアよ、あなたが、私のうちに栄え、私は今までよりも小さくならねばなりません。「産めよ、増えよ」、そうです、おおイエズスとマリアよ、私のうちに栄え、他の人たちのうちに増えてください。 

273 もしあなたが、内的生活を送り、犠牲心に富んでいて、私が教えてあげたこの偉大な素晴らしい信心に対して忠実であれば、聖霊は、他の数えきれないほどのよい考えをあなたに、今も息吹かれるし、これからも息吹いてくださるでしょう。しかし、聖体拝領のとき、あなたは、マリアが行うままにさせるなら、それだけイエズスとマリアは栄えるということを思い出しなさい。マリアがイエズスのために、そして、イエズスがマリアのうちに行われるのを、あなたが、任せれば、任せるほど、あなたは深くへりくだり、マリアを味わうとか、眺めるとか、感じるとかのために心配しないで、落ち着きと、沈黙のうちに、イエズスとマリアが、おっしゃることに耳を傾けるでしょう。なぜなら、義人は信仰によって生きるからです。それは、信仰の行いである聖体拝領のときには、なおさらそうです。「私の義人は、信仰によって生きる」と。 

(付録)種々の祈り

ここに、聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールの著書は終わっています。以下は、聖人が作り、あるいはすすめていた奉献文といろいろの祈りです。

 

1 自己奉献文 

人となられた知恵であるイエズス・キリストに、マリアのみ手を通してする自己奉献文。この奉献文は、「永遠の知恵であるイエズスの愛」という、もう一つのモンフォール師の著書からとったものです。 

人となられた永遠の知恵よ!最も愛すべき、最も礼拝すべきイエズスよ、あなたは、まことの神、まことの人間であり、永遠のおん父の、そして、終生おとめであるマリアのおんひとり子です。永遠からおん父のふところと輝きのうちにおられたとき、また、あなたの最もふさわしいおん母マリアの、おとめの胎内におたれたときのあなたを、私は、深く礼拝します。悪魔の残酷な奴隷制度から、私を解放するために、あなたが奴隷の姿をとって卑下なさったことを感謝します。マリアを通じて、私を、あなたの忠実な奴隷にするために、おん母マリアにすべてにおいて服従することを選ばれたあなたを、私は、ほめたたえ、光栄を帰します。でも、残念なことに、私は、なんと忘恩で、不忠実でしょう。私は、聖なる洗礼のときに、あれほど荘厳にした誓いと約束を守らず、また、自分の義務を果たしませんでした。私に、あなたの子供、あなたの奴隷とも呼ばれる値打ちはありません。私には、あなたに嫌われないもの、また、あなたの憤りをこうむらないものは一つもありませんから、あなたの最も聖なる、最も尊い威厳の前に、一人では、あえて近づくことはできません。それで、私は、あなたの聖なるおん母の、おん取り次ぎによりすがります。あなたのみ前に、仲介者としておん母を与えてくださったのは、あなたご自身です。おん母の取り次ぎによって、私は、あなたから痛悔の心、罪のゆるし、あなたの知恵をいただいて、これを守る恵みを受けたいと希望してやみません。めでたし、汚れないマリア、神の生きた聖櫃よ、永遠の知恵は、あなたの中に隠れて、天使からも人間からも礼拝されることを望んでおられます。めでたし、天と地の女王よ、神に服従するすべてのものは、あなたの支配権に服従しています。めでたし、罪人の安全なよりどころよ、あなたのおんあわれみは、誰に対しても不足したことはありません。私が、神の知恵について持っている望みを聞き入れて、このつたない願いと、捧げものを受け入れてください。 

私【名まえ     】は、不忠実な罪人でありながらも、洗礼のときの誓いを、み手を通じて新たにし、かためます。私は、いつまでも、悪魔とその栄華を打ち捨てて、人となられた知恵であるイエズス・キリストに完全に従いたいと思っています。それは、一生涯の間、ずっと、彼のみあとについて、私の十字架を担うためです。また、今までより、これからは、私がもっと忠実であることができるように、おおマリアよ、今日、あなたを、天のすべての天使と聖人のみ前で私の母とも女王として選びます。私は、奴隷として、自分を捨て、私の体と霊魂、私の内的、外的財産、過去、現在、未来の私の行いの功徳も、あなたに奉献します。私自身と、私のものもすべて区別なく、自由に処分する完全な権利をあなたに、ゆずります。それは、あなたに神のより大きなみ栄えのために、今も永遠にも、お望みのままにお使いになっていただくためです。いつくしみ深い聖母よ、私の奴隷としてのこの身分という小さな供え物を受け入れてください。それは、永遠の知恵が母としてのあなたに服従されたことを、ほめたたえ、この服従を私のものとするためです。また、あなたと、おん子が、これほどあわれな罪人である私に対して持っておられる権力をたたえ、至聖三位一体が、あなたにくださった数々の特権を感謝するためです。これから、私は、あなたの真の奴隷として、すべてにおいて、あなたの名誉と、あなたへの従順を求めることを望むと宣言します。おお、感嘆すべきおん母よ、私を永遠の奴隷として愛すべきおんひとり子に紹介してください。おん子が、あなたを通じて、私を贖われたように、あなたを通じて、私を贖われたように、あなたを通じて、私を歓迎してくださいますように。あわれみのおん母よ、神のまことの知恵を得る恵みと、あなたがご自分の子供、また、ご自分の奴隷として愛し、教育し、指導し、養い守ってくださる人々の数に受け入れていただく恵みを取り次いでください。おお、忠実なおとめよ、私を人となられた知恵であるおん子イエズス・キリストのすべてにおける完全な弟子、模倣者、奴隷としてください。それは、あなたの取り次ぎにより、み手本にならって、私が地上において、おん子の完全な背丈、天国におけるそのご光栄にたどりつけるためです。アーメン。 

2 イエズスに対する祈り 

最愛のイエズスよ、あなたの最も聖なるおん母を、あなたの威光のみ前に、私の弁護者とし、私のこの上もない貧しさを補うものとしてくださったことを心から感謝いたします。私をマリアの奴隷(しもべ)にするために、マリアに対する信心の恵みを感謝いたします。ああ主よ、これほどみじめな私に、これほどよい母がなかったら、必ず亡びてしまったでしょう。そうです、マリアは、すべてのことのために、あなたのみ前で私に必要です。私がこれほどあなたを侮辱し、毎日侮辱し続けているから、あなたの正しいおん憤りを和らげるために、マリアは必要です。あなたの正義による永遠の罰を避けるために、マリアは必要です。あなたをながめて、あなたと話し合い、あなたに祈りを捧げて、あなたに近づいて、あなたの気にいるものとなるために、マリアは必要です。一言で言えば、いつもみ旨を果たし、すべてにおいて、あなたの最大の光栄を探すために、マリアは必要です。ああ、あなたが私に示してくださったこのおん憐れみを、私が全世界に知らせることができましたら!マリアのおん助けがなかったら、私はすでに亡びたに違いないことを、すべての人に知らせることができましたら!この大きな恵みのためにふさわしい感謝を示すことができましたら!マリアは私のうちにおいでになります。おお、何という宝!何という大きな慰め!これから私は、全部マリアのものにならないなら、何と大きな忘恩でしょう!私の最愛の救い主よ、そんなことになるより、むしろ私は死んだ方がましです。全部マリアのものにならないよりも、私は死を選びます。十字架のもとに福音史家聖ヨハネのように、私はマリアを、幾度となく、私の宝としました。私は、幾度となくわが身をマリアに捧げたいのです。しかし、もし、あなたが望む前に、私がこの奉献をしなかったら、ああ、私のイエズスよ、この奉献を、お望みのままにします。もし、私の魂と体の中に、この尊い姫君にふさわしくないところがあったら、これを私から取り去って、遠く投げ捨ててください。なぜなら、マリアのものでなければ、あなたにも、ふさわしくないからです。おお、聖霊よ、すべての恵みを私にお与えください。まことの生命の木である愛すべきマリアを、私の心に植え、養い、水を注いで、世話してください。この木が成長し、花咲き、豊かに実りますように。おお、聖霊よ、マリアに対する深い信心と、熱烈な愛を注いでください。私が、マリアの母としてのふところに抱きしめられて、そのおんあわれみに常によりすがりますように。それはあなたが、マリアを通じて私の内にイエズス・キリストを育て、”みちみちたキリストの背丈にまでいたる完全な人間をつくるためです”(エフェソ4・13)。アーメン。 

3 マリアへの祈り 

めでたしマリア、あなたは、永遠のおん父の最愛の娘、神のおん子の感嘆すべきおん母、聖霊の忠実な花嫁。めでたしマリア、私の愛するおん母、私の愛すべき先生、私の力づよい女王、私の喜び、私の栄光、私の心と、私の魂!あなたは、あわれみによって、すべて私のものであり、私は、正義によって、すべてあなたのものです。でも、まだ十分にそうではありません。それで、私は、自分のため、他人のために何も保留することなく、永遠の奴隷として、再び私自身を完全にあなたにゆだねます。私の中に、まだあなたのものでない所を、ご覧になったら、どうぞそれを、ご自分のためにお取りになってください。私の中にある神のみ心にかなわないことをすべて亡ぼし、根こそぎにし、全滅してください。それは、神のみ心にかなったものをすべて、植え、建て、つくるためです。あなたの信仰の光が、私の精神の暗闇を照らし、あなたの深い謙遜が、私の高慢さのかわりとなり、熱烈な観想のあなたの精神が、心を散らす私の想像の不注意を遠ざけますように。たえず神を仰ぎみているあなたの心に倣って、神のことをいつも思い出し、あなたの愛の熱烈さが、私の心の冷淡さと冷たさを燃やし尽くし、私の罪があなたの善徳にかわり、あなたの功徳が、私の飾りとなって、神のみ前で、私の足りないところを補いますように。最後に、私の最も愛すべき、やさしい母よ、できるなら、私に、あなたの精神を持たせてください。こうして、イエズス・キリストの精神を知り、その神としてのみ旨を理解できるようにして下さい、主を賛美し、神に光栄を帰すために、あなたのように清い熱烈な愛をもって神を愛するあなたの魂、あなたの心をお与えください。私は、まぼろしも、示しも、楽しみも、慰めも、霊的慰めまでも願いません。暗闇なしに明らかに見ること、苦味なしに完全に楽しむこと、どんなはずかしめもなくおん子の右に光栄のうちに、勝利を得ること、絶対的な権利をもって、そのうえ、誰にも妨げられないで、天使たちと人間と悪魔に命令をくだすこと、何も保留されることなく、神のすべての宝を自由自在にすることは、あなたの特権です。これこそ、あなたに与えられ、あなたから決して取り去られることのない、あなたのよりすぐれた特長です。それは、私にとって最大の喜びとなります。地上における、私の遺産として、あなたが経験なさったこと以外に、私は何も望みません。すなわち、何も見ないで、何も味わわないで、無味乾燥のときにも信じること、被造物からの慰めなしに、喜んで、苦しみを耐え忍ぶこと、疲れることなく、たえず自分自身に死ぬこと、あなたの最も小さなしもべの一人として、どんな利益も要求しないで、死ぬときまであなたのために沢山働くこと、これが、私の望みです。おんあわれみだけによりすがって、私が願う唯一の恵みは、一生涯のすべての日々、すべての瞬間に、私が、あなたに三回アーメン(承知します)と、言えることです。 

あなたが地上に生きておられた時になさったすべてのことに対して、アーメン。 

あなたが、私の霊魂の中で働かれるすべてのことに対して、アーメン。 

私のうちに今も永遠にもイエズス・キリストを完全にたたえるために、あなた以外に、何も望みませんように、アーメン。 

4 イエズスのみ名の連願 

主よ、あわれんでください 〔くりかえす〕
キリストよ、あわれんでください 〔くりかえす〕
主よ、あわれんでください 〔くりかえす〕
キリストよ、この祈りを聞いてください 〔くりかえす〕
キリストよ、この祈りを聞き入れてください 〔くりかえす〕
神であるおん父 △あわれんでください
神であり救い主であるおん子 △あわれんでください
神である聖霊 △あわれんでください
唯一の神である聖三位 △あわれんでください
生きる神のおん子イエズス △あわれんでください
おん父の輝きであるイエズス △あわれんでください
永遠の光であるイエズス △あわれんでください
栄光の座であるイエズス △あわれんでください
正義の太陽であるイエズス △あわれんでください
おとめマリアのおん子イエズス △あわれんでください
愛すべきイエズス △あわれんでください
感ずべきイエズス △あわれんでください
力強い神であるイエズス △あわれんでください
来世の父であるイエズス △あわれんでください
大計画のみ使いであるイエズス △あわれんでください
もっとも力あるイエズス △あわれんでください
もっとも堅忍であるイエズス △あわれんでください 
もっとも従順深いイエズス △あわれんでください
心の柔和、けんそんなイエズス △あわれんでください
私たちを愛するイエズス △あわれんでください
平和の神であるイエズス △あわれんでください
命の泉であるイエズス △あわれんでください
善徳のかがみであるイエズス △あわれんでください
霊魂を深く愛するイエズス △あわれんでください 
私たちの神であるイエズス △あわれんでください
私たちのよりどころであるイエズス △あわれんでください 
貧しい人々の父であるイエズス △あわれんでくささい 
信ずる人の宝であるイエズス △あわれんでください
よい牧者であるイエズス △あわれんでください
まことの光であるイエズス △あわれんでください
永遠の知恵であるイエズス △あわれんでください
無限の善であるイエズス △あわれんでください
私たちの道と命であるイエズス △あわれんでください
天使たちの喜びであるイエズス △あわれんでください 
太祖たちの王であるイエズス △あわれんでください
使徒たちの師であるイエズス △あわれんでください 
福音史家の教師であるイエズス △あわれんでください 
殉教者の力であるイエズス △あわれんでください 
証聖者の光であるイエズス △あわれんでください
童貞者の清さであるイエズス △あわれんでください 
諸聖人の冠であるイエズス △あわれんでください 
いつくしみ深く △イエズスよ、おゆるしください 
いつくしみ深く △イエズスよ、聞き入れてください 
すべての悪より △イエズスよ、お救いください
おんいきどおりより △イエズスよ、お救いください 
悪魔のわなより △イエズスよ、お救いください 
あなたのよいすすめを無視することより △イエズスよ、お救いください
主の受肉によって △イエズスよ、お救いください 
主のご誕生によって △イエズスよ、お救いください
主の幼時によって △イエズスよ、お救いください
主の神的なご生活によって △イエズスよ、お救いください 
主のご苦労によって △イエズスよ、お救いください 
主の臨終とご受難によって △イエズスよ、お救いください
主の十字架ともだえによって △イエズスよ、お救いください
主のおん苦しみによって △イエズスよ、お救いください
主の死とほうむりによって △イエズスよ、お救いください 
主の復活によって △イエズスよ、お救いください
主の昇天によって △イエズスよ、お救いください 
主のご聖体の制定によって △イエズスよ、お救いください 
主の喜びによって △あわれんでください 
主の栄光にによって △あわれんでください 
世の罪を取り除く神の子羊 △イエズスよ、おゆるしください
世の罪を取り除く神の子羊 △イエズスよ、この祈りを聞き入れてください
世の罪を取り除く神の子羊 △イエズスよ、あわれんでくだい
イエズスよ △この祈りを聞いてください
イエズスよ △この祈りを聞き入れてください 

祈りましょう 
主イエズス・キリスト、あなたは、「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見出す。たたけ、そうすれば開かれる」と仰せられました。 
願わくは、主のいと神聖な徳を感じさせて、もっぱら心と言葉と行いとをもって主を愛し、絶えず主を賛美させてください。 
主よ、あなたのみ名をいつもうやまい、重んじる心をお与えください。 
あなたを固く愛する恵みを受けた人は、見捨てられることがないからです。
あなたは、世々に生き、支配しておられます。アーメン。 

5 イエズスのみ心の連願 

主よ、あわれんでください 〔くりかえす〕
キリストよ、あわれんでください 〔くりかえす〕
主よ、あわれんでください 〔くりかえす〕
キリストよ、この祈りを、聞いてください 〔くりかえす〕 

キリストよ、この祈りを聞き入れて下さい 〔くりかえす〕 

神であるおん父 △あわれんでください 

神であり救い主であるおん子 △あわれんでください 

神である聖霊 △あわれんでください 

唯一の神である聖三位 △あわれんでください 

永遠のおん父のおん子であるイエズスのみ心 △あわれんでください 

聖霊によって、おとめであるおん母のご胎内につくられたイエズスのみ心 △あわれんでください 

かぎりない威光にみちたイエズスのみ心 △あわれんでください 

神のとうとい神殿であるイエズスのみ心 △あわれんでください 

いと高きものの住まいであるイエズスのみ心 △あわれんでください 

神の家、天の門であるイエズスのみ心 △あわれんでください 

熱愛の燃えるかまどであるイエズスのみ心 △あわれんでください 

いつくしみと愛にあふれるイエズスのみ心 △あわれんでください 

すべての徳のふちであるイエズスのみ心 △あわれんでください 

すべてにこえて、ほめたたえるにふさわしいイエズスのみ心 △あわれんでください 

すべての心の王であり、中心であるイエズスのみ心 △あわれんでください 

知恵と知識のすべての宝をふくむイエズスのみ心 △あわれんでください 

神性にみちみちたイエズスのみ心 △あわれんでください 

おん父の喜びであるイエズスのみ心 △あわれんでください 

その満ち溢れるところから私たちすべてに恵みを与えるイエズスのみ心 △あわれんでください 

忍耐とあわれみに満ちたイエズスのみ心 △あわれんでください 

すべての依り頼みに対して恵み豊かなイエズスのみ心 △あわれんでください 

命と聖徳のいずみであるイエズスのみ心 △あわれんでください 

私たちの罪のためにくだかれたイエズスのみ心 △あわれんでください 

死に至るまで従順であったイエズスのみ心 △あわれんでください 

槍で貫かれたイエズスのみ心 △あわれんでください 

すべての慰めの泉であるイエズスのみ心 △あわれんでください 

私たちの平和と和睦であるイエズスのみ心 △あわれんでください 

罪人のために生贄に捧げられたイエズスのみ心 △あわれんでください 

あなたに希望する人の救いであるイエズスのみ心 △あわれんでください 

すべての聖人の楽しみであるイエズスのみ心 △あわれんでください 

世の罪を取り除く神の子羊 △主よ、おゆるしください 

世の罪を取り除く神の子羊 △主よ、この祈りを聞き入れてください 

世の罪を取り除く神の子羊 △主よ、あわれんでください 

先 柔和で、謙遜なイエズス、 

答 私たちの心を、み心にあやからせてください 

先 祈りましょう。全能、永遠の神よ、あなたの最愛の、おん子のみ心が、罪人のために捧げる、賛美と償いとを、かえりみてください。 

これになだめられて、おんあわれみを願う、すべての人に、おん赦しを、与えてくださいますように。聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられるおん子、私たちの主、イエズス・キリストによって。 

答 アーメン。 

6 聖霊の連願 

主よ、あわれんでください 〔くりかえす〕
キリストよ、あわれんでください 〔くりかえす〕
主よ、あわれんでください 〔くりかえす〕
キリストよ、この祈りを、聞いてください 〔くりかえす〕 

キリストよ、この祈りを聞き入れて下さい 〔くりかえす〕 

神であるおん父 △あわれんでください 

神であり救い主であるおん子 △あわれんでください 

神である聖霊 △あわれんでください 

唯一の神である聖三位 △あわれんでください 

おん父とおん子から発出する聖霊 △あわれんでください 

おん父とおん子と平等である聖霊 △あわれんでください 

おん父である神から約束された聖霊 △あわれんでください 

天の光線である聖霊 △あわれんでください 

すべての善のつくり主である聖霊 △あわれんでください 

生きる神の泉である聖霊 △あわれんでください 

燃え尽くすいろりである聖霊 △あわれんでください 

霊の注油である聖霊 △あわれんでください 

いと高きおん者のたまものである聖霊 △あわれんでください 

愛と真理の霊である聖霊 △あわれんでください 

知恵と聡明の霊である聖霊 △あわれんでください 

賢慮と力強さの霊である聖霊 △あわれんでください 

知識と孝愛の霊である聖霊 △あわれんでください 

慈しみと祈りの霊である聖霊 △あわれんでください 

平和と柔和の霊である聖霊 △あわれんでください 

つつしみと清さの霊である聖霊 △あわれんでください 

なぐさめの霊である聖霊 △あわれんでください 

成聖の霊である聖霊 △あわれんでください 

教会をつかさどる霊である聖霊 △あわれんでください 

天地に満ちておられる聖霊 △あわれんでください 

私たちを神の養子にしてくださる聖霊よ、 △罪を嫌わせてください 

聖霊よ、△おん光をもって私たちを照らしてください 

聖霊よ、△私たちの心に主の掟を刻んでください 

聖霊よ、△主の愛の火で燃やしてください 

聖霊よ、△主の賜物の宝を開いてください 

聖霊よ、△祈りを教えてください 

聖霊よ、△勧めをお与えください 

聖霊よ、△救いの道に導いてください 

聖霊よ、△唯一に必要な知識を悟らせてください 

聖霊よ、△善の行いを教えてください 

聖霊よ、△善徳の功徳をお与えください 

聖霊よ、△正義において私たちを固めてください 

聖霊よ、△私たちの報いとなってください 

世の罪を取り除く神の子羊 △おゆるしください 

世の罪を取り除く神の子羊 △この祈りを聞き入れてください 

世の罪を取り除く神の子羊 △あわれんでください 

世の罪を取り除く神の子羊 △あなたの愛の火を燃やしてください 

祈りましょう。 

聖なる父よ、神である聖霊をもって、 

私たちを照らし、燃やし、清めてください 

天の露をしたたらせ、 

私たちの善を豊かなものにしてください。 

聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられるおん子、私たちの主、イエズス・キリストによって。アーメン。 

7 ヴェニ・クレアートル・スピリトゥス 

つくり主、聖霊、おいでください。 

私たちの心を、おとづれ、あなたにつくられた、この胸を天の恵みで、満たしてください。 

あなたは、慰め主、いと高き方の賜物、生きる泉、火と愛、私たちの、霊的魅力であられます。あなたこそ、七つの賜物を与える方、おん父の、右の手の指、その約束される方、み言葉を告げさせるお方であられます。私たちの五感を照らし、心に愛を注ぎ、弱いこの体を、いつもいつも、強めてください。敵を遠ざけ、今、平和を与えてください。おん導きで、すべての悪を避けさせてください。私たちが、あなたによって、おん父と、おん子と、おん父とおん子の聖霊をいつも信じる恵みを与えてください。おん父、神に、み栄え。死者の中から、よみがえられたおん子と、なぐさめ主、聖霊にも、世々、とこしえに。アーメン。 

8 聖霊の続唱 

聖霊来てください。あなたの光の輝きで、
わたしたちを照らしてください。 

貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。 

あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、
だれも清く生きてはゆけない。 

汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。
固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。 

あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。 

9 聖母の連願 

(祈りの結びとして、聖母の連願を唱えるのは、伝統的で、はげますべき習慣であります。三位一体の神に祈ったのち、この祈りの中で、神が計画されたマリアの使命を示す数々の願いを唱えて、聖母に取り次ぎを求めます。 

主よ、あわれんでください 〔くりかえす〕
キリストよ、あわれんでください 〔くりかえす〕
主よ、あわれんでください 〔くりかえす〕
キリストよ、この祈りを、聞いてください 〔くりかえす〕 

キリストよ、この祈りを聞き入れて下さい 〔くりかえす〕 

神であるおん父 △あわれんでください 

神であり救い主であるおん子 △あわれんでください 

神である聖霊 △あわれんでください 

唯一の神である聖三位 △あわれんでください 

聖マリア△私たちのために、お祈りください 

おとめの中のおとめ△私たちのために、お祈りください 

キリストのおん母△私たちのために、お祈りください 

神の恵みのおん母△私たちのために、お祈りください 

すぐれて、みさお正しい△私たちのために、お祈りください 

汚れないおん母△私たちのために、お祈りください 

永遠のおとめであるおん母△私たちのために、お祈りください 

愛すべきおん母△私たちのために、お祈りください 

感ずべきおん母△私たちのために、お祈りください 

よい勧めのおん母△私たちのために、お祈りください 

つくり主のおん母△私たちのために、お祈りください 

救い主のおん母△私たちのために、お祈りください 

あわれみのおん母△私たちのために、お祈りください 

もっとも賢明なおとめ△私たちのために、お祈りください 

栄光にふさわしいおとめ△私たちのために、お祈りください 

賛美にふさわしいおとめ△私たちのために、お祈りください 

力あるおとめ△私たちのために、お祈りください 

正義の鑑(かがみ)△私たちのために、お祈りください 

知恵の座△私たちのために、お祈りください 

私たち喜びの源△私たちのために、お祈りください 

霊妙な器△私たちのために、お祈りください 

尊敬すべき器△私たちのために、お祈りください 

信心のすぐれた器△私たちのために、お祈りください 

神秘に満ちたバラの花△私たちのために、お祈りください 

ダビデの塔△私たちのために、お祈りください 

象牙の塔△私たちのために、お祈りください 

黄金の館△私たちのために、お祈りください 

契約の櫃△私たちのために、お祈りください 

天の門△私たちのために、お祈りください 

暁(あけ)の星△私たちのために、お祈りください 

病人の回復△私たちのために、お祈りください 

罪人の拠(よ)り所△私たちのために、お祈りください 

悲しむ人の慰め△私たちのために、お祈りください 

キリスト信者の助け△私たちのために、お祈りください 

天使の后△私たちのために、お祈りください 

太祖の后△私たちのために、お祈りください 

預言者の后△私たちのために、お祈りください 

使徒の后△私たちのために、お祈りください 

殉教者の后△私たちのために、お祈りください 

証聖者の后△私たちのために、お祈りください 

童貞者の后△私たちのために、お祈りください 

すべての聖人の后△私たちのために、お祈りください 

原罪なくして宿られた后△私たちのために、お祈りください 

天にあげられた后△私たちのために、お祈りください 

尊いロザリオの后△私たちのために、お祈りください 

平和の后△私たちのために、お祈りください 

世の罪を取り除く神の子羊△主よ、おゆるしください。 

世の罪を取り除く神の子羊△主よ、この祈りを聞き入れてください 

世の罪を取り除く神の子羊△主よ、あわれんでください 

先 神のおん母、私たちのためにお祈りください 

答 私たちがキリストのおん約束にふさわしくなりますように 

先 祈りましょう。あわれみ深い父よ、おんひとり子は、ご生涯とご死去と、復活をもって、永遠の救いの恵みを私たちに与えてくださいました。救いの奥義をおとめ聖マリアの尊いロザリオによって思いめぐらせてきた私たちに、この奥義が示す手本にならい、そこで約束される永遠の命をお与えください。私たちの主イエズス・キリストによって。 

答 アーメン。 

神の母よ、△私たちはみ元に、駆け寄って、ご保護を求めます。 

※必要なときに、私たちの祈りを軽んじないで、 

※すべての危険から、いつもお救いください 

※栄光に満ちた、幸せなおとめよ。 

10 アルマ・レデムプトリス・マテル 

救い主の尊いおん母、開かれた天の門、海の星、 

倒れてもなお立ち上がろうと努める民を、力づけてくださるお方。 

大自然の驚きのうちに 

ご降誕前にも、そのあとも、 

処女性を保たれたお方 

ガブリエルの口より、めでたしの挨拶を受けたお方よ、 

罪人をあわれんでください。 

11 アベェ・レジナ・チェロルム 

めでたし天の后、天使たちの女王。 

めでたし世に光を生み出した根よ、門よ。 

すべての人にまさって美しく、 

栄光あるおとめよ、お喜びください。 

めでたし、ああ、いとも美しいお方よ。 

私たちのためにキリストに祈ってください。 

12 お告げの祈り 

先 主の天使が、マリアに告げると、 

答 マリアは、聖霊によって、身ごもりました。めでたし。 

先 私は、主のはしためです。 

答 お言葉の通りに、なりますように。めでたし。 

先 み言葉は、人となり、 

答 私たちの上に、住まわれました。めでたし。 

先 神のおん母、私たちのために、お祈りください。 

答 私たちが、キリストのおん約束に、ふさわしくなりますように。 

先 祈りましょう。恵み豊かな父よ、私たちの心にいつくしみを注いでください。おん子キリストが人となられたことを、天使のお告げによって知った私たちが、おん子の苦しみと十字架によって復活の栄光にあずかることができますように。私たちの主、イエズス・キリストによって。 

答 アーメン 

栄唱 栄光は、父と、子と、聖霊に。△初めのように、今も、いつも世々に。アーメン。 

13 サルヴェ・レジナ(元后、あわれみのおん母) 

元后、あわれみの母 △私たちの、命、喜び、希望。 

旅路から、あなたに叫ぶエバの子、嘆きながら、 

泣きながらも、涙の谷にあなたをしたう。 

私たちのために執り成すかた、あわれみの眼を、私たちにそそぎ、 

尊いあなたの子イエズスを旅路の果てに示してください。 

おお、いつくしみ、恵みあふれる、喜びのおとめ、マリア。 

14 レジナ・チェリ(アレルヤの祈り) 

先 天の后よ、お喜びください。アレルヤ。 

答 あなたに宿られたお方は。アレルヤ。 

先 仰せの通り、よみがえられました。 

答 私たちのために、神にお祈りください。 

先 お喜びください、おとめマリア。アレルヤ。 

答 主は、まことに、よみがえられました。アレルヤ。 

先 祈りましょう。すべてを導かれる神よ、あなたは、おん子イエズス・キリストの復活によって、世界を喜ばせてくださいました。主のおん母、おとめマリアをたたえる、私たちが、終わりない、命の喜びを、受けることができますように。主キリストによって。 

答 アーメン。 

栄唱 栄光は、父と、子と、聖霊に。 

△はじめのように、今も、いつも世々に。アーメン。 

15 アヴェ・マリス・ステッラ(めでたし海の星) 

めでたし海の星、神の偉大なおん母よ、終生おとめ、幸いな天の門。 

終生おとめ、幸いな天の門 

ガブリエルの口から、あの祝詞(アヴェ)を受け、 

エヴァの名を改め、私たちを、平和のうちに固めてください。 

罪人の鎖を解き、見えない人に光を与え、 

私たちの罪をはらい清め、すべての恵みを取り次いでください。 

あなたが母であることを示してください。 

私たちのために生まれて、 

あなたのおん子となることを甘んじられたお方は、 

あなたを通して、私たちの祈りを聞かれますように。 

すべての人にすぐれてやさしく、 

並ぶもののないおとめよ、 

罪をゆるされた私を、 

やさしく清いものにしてください。 

私たちの命を浄め、安全な道を備えてください 

私たちが、イエズスを見て、永遠に喜ばれますように。 

父なる神にほまれ、偉大なキリストと、聖霊とに栄え、 

三位に等しく名誉あれ。アーメン。 

16 オ・グロリオザ・ドミナ(栄えある聖母よ) 

栄えある聖母よ、
星空たかくいます御方、 

御旨によりあなたを創られた御方を、 

聖い乳房ではぐくまれた。 

悲しいエヴァが奪ったものを、 

あなたは恵みの若芽で取り戻される、 

嘆きの星々のために、 

天国の通い路となられた。 

王の高い扉、光かがやく門、贖われた人々よ、 

マリアにあたえられた生命を、 

手をうち鳴らして賛美せよ。 

マリアより生まれたもうた 

主に栄光あれ、 

また聖なる御父と聖霊とにも、 

世々かぎりなく、アーメン。 

17 マリアの賛歌(マニフィカト) 

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、
この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
わたしを幸いな者と言うでしょう、
力ある方が、
わたしに偉大なことをなさいましたから。
その御名は尊く、
その憐れみは代々に限りなく、
主を畏れる者に及びます。
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らし、
権力ある者をその座から引き降ろし、
身分の低い者を高く上げ、
飢えた人を良い物で満たし、
富める者を空腹のまま追い返されます。
その僕イスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません、
わたしたちの先祖におっしゃったとおり、
アブラハムとその子孫に対してとこしえに。(ルカ1・46~55) 

18 伝統的なロザリオ 

ロザリオの唱え方について、公式に教会が要求しているのは、各奥義を思いめぐらしながら、「天にまします」を一回、「めでたし」を十回、栄唱を一回となえる進みかたです。これらに加えられる他の祈りは、自由選択で、国によって違います。ここではAとBの二種類の目立ったとなえ方を紹介します。 

A  

はじめに 

〔十字架のしるし〕父と、子と、聖霊のみ名によって。アーメン 

使徒信条天地の創造主、 

全能の父である神を信じます。 

父のひとり子、わたしたちの主 

イエス・キリストを信じます。 

主は聖霊によってやどり、 

おとめマリアから生まれ、 

ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、 

十字架につけられて死に、葬られ、 

陰府(よみ)に下り、 

三日目に死者のうちから復活し、 

天に昇って、 

全能の父である神の右の座に着き、 

生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。 

聖霊を信じ、 

聖なる普遍の教会、 

聖徒の交わり、 

罪のゆるし、 

からだの復活、 

永遠のいのちを信じます。アーメン。 

天にまします…(1回)、めでたし…(3回)、栄光は…(1回)、天にまします(1回) 

各連ごとに奥義(喜びか、苦しみか、栄えかの奥義) 

天にまします…(1回)、めでたし…(10回)、栄光は…(1回) 

〔ファチマの聖母が進められた次の祈りを自由に加えることができる〕 

ファチマの聖母の祈り 

ああ、イエズスよ、私たちの罪をゆるして、地獄の火から救い、 

すべての霊魂、とくに、おんあわれみを、もっとも必要とする霊魂を、 

天国に導いてください。 

B  

はじめに 

先 父よ、私を力づけ〔十字架のしるし〕 

答 いそいで、助けに来てください。 

栄唱 

先 栄光は、父と子と聖霊に 

答 はじめのように、今もいつも世々に。アーメン。 

先 イエズス、マリア、ヨゼフのみ名は 

答 いつも賛美されますように 

先 主よ、永遠のやすらぎを、彼らに与え、 

答 とわの光を、彼らの上に、照らしてください。 

先 安らかに、いこいますように 

答 アーメン 

元后、あわれみの母 

元后あわれみの母われらのいのち、喜び、希望。旅路からあなたに叫ぶエバの子。嘆きながら泣きながらも涙の谷にあなたを慕う。われらのために執り成す方。あわれみの目をわれらに注ぎ、とうといあなたの子イエスを旅路の果てに示してください。おお、いつくしみ、恵みあふれる喜びのおとめマリア。 

各連ごとに 

奥義(喜びか、苦しみか、栄えの奥義) 

天にまします…(1回)、めでたし…(3回)、栄光は…(1回)、天にまします(1回) 

先 イエズス、マリア、ヨセフのみ名は、 

答 いつも賛美されますように。 

先 主よ、永遠のやすらぎを彼らに与え、 

答 永久(とわ)の光を、彼らの上に、照らしてください。 

先 やすらかに、いこいますように。 

答 アーメン 

〔ファチマの聖母がすすめられた次の祈りを自由に加えることができる〕 

ファチマの聖母の祈り 

ああ、イエズスよ、私たちの罪をゆるして、地獄の火から救い、 

すべての霊魂、とくに、おんあわれみを、もっとも必要とする霊魂を、 

天国に導いてください。 

以下 一連ごとに同じ順序に従う 

喜びの奥義 

喜びの第一の奥義 

神から遣わされた大天使は、救い主の母となるために選ばれたことを、マリアに告げました。マリアは、救い主の母となるのは、この上もない光栄であると共に、大きい苦しみでもあることを知っておられましたが、「私は主のはしためです」と言って承知なさいました。 

▲私たちもマリアにお祈りして、神のみ旨をいつも立派に果たせる恵みを願いましょう。 

喜びの第二の奥義 

マリアは、神さまの母となる使命を果たすために、愛徳を実行します。まず親戚のエリザベットのお手伝いをしに、はるばる旅をして訪ねます。エリザベットは、マリアが救い主の母であることを知って、聖霊に満たされて、「あなたは女の中で祝福された方で、あなたのおん子、イエズスも祝福された方です!」と叫びます。 

▲私たちもマリアの愛徳の立派な手本に見習いましょう。 

喜びの第三の奥義 

人間の救い主、イエズスは、ベツレヘムという町で生まれました。おん母マリアと聖ヨセフとは、うやうやしく、生まれたばかりのイエズスをおがみます。イエズスさまが、まことの神だからです。天使たちに招かれて、羊飼いたちも幼な子イエズスをおがみに来ました。 

▲私たちの心にも、すべての人の心にも、イエズスが生まれたように、マリアに恵みをお願いしましょう。 

喜びの第四の奥義 

生まれてから四十日目に、イエズスは神殿に奉献されました。そのとき、年とったシメオンは幼いイエズスを抱きしめて、「この子は世の救い主です」と言い、マリアに向かって、「あなたの心もつるぎで貫かれるでしょう」と言って、多くの苦しみを預言しました。 

▲私たちも、神の掟を忠実に守るために、苦しみを耐え忍ぶとき、マリアが助けてくださるよう祈りましょう。 

喜びの第五の奥義 

十二歳のとき、イエズスはエルサレムにのぼり、祭りが終わると一人でそこに残りました。マリアとヨセフは、びっくりしてイエズスを探しまわり、やっと三日目に、神殿の学者たちの中で、話を聞いたり、質問したりしているのを見つけました。マリアとヨセフはどんなに喜ばれたことでしょう。 

▲私たちがもし罪を犯し、イエズスを見失っても、なるべく早く罪のゆるしをえて、イエズスに再び会う恵みを願いましょう。 

苦しみの奥義 

苦しみの第一の奥義 

イエズスのご受難がはじまります。私たち人間の罪を洗い清めるために、たいへん苦しまれるのです。イエズスは、人間の罪のこと、ご受難のことを考えて、力が弱るのを感じておられます。そこでゲッセマニの園にひれ伏して、おん父にお祈りし、み旨のままに苦しむことを承知なさいます。 

▲私たちが罪を犯せば、イエズスを悲しませることになるので、これからは決して犯さないように決心しましょう。 

苦しみの第二の奥義 

イエズスは悪い人々に捕らえられ、鞭で打たれます。なんとむごたらしい苦しめ方でしょう。私たちが罪を犯すたびに、イエズスの清いからだに鞭を加え、み心を苦しめることになります。 

▲どんなことがあっても、再びイエズスを苦しめないよう、マリアのお助けを願いましょう。 

苦しみの第三の奥義 

総督ピラトに聞かれたとき、イエズスは、「私は王です」と答えました。すべてのよい人の心の王であるという意味でした。しかし、悪いユダヤ人たちは、イエズスの言葉をあざけって、葦の王笏を持たせ、とがったトゲのある茨の冠をかぶせ、その前でおじぎをして、イエズスをばかにしました。 

▲悪い人々が、イエズスをあざけるのを償うために、私たちは、イエズスを、自分の本当の王として、その掟を忠実に守りましょう。 

苦しみの第五の奥義 

イエズスは、十字架につけられ、たいへん苦しまれましたが、悪い人々は、それをあざけって見ていました。イエズスは、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか知らないからです」とお祈りになられたのです。 

▲イエズスが、私たちの罪をゆるしてくださったように、私たちも、人を心からゆるせるようにマリアに恵みを願いましょう。 

栄えの奥義 

栄えの第一の奥義 

十字架でなくなられてから三日目に、イエズスはご復活なさいました。罪にも、罪の罰である死にも見事に勝利なさったのです。番兵が墓を守っているのに、イエズスは墓を出て、弟子たちに現れ、励まされました。イエズスのご復活は、まことの神である一番輝かしい証明です。 

▲私たちもイエズスを信じ、いつかよみがえって、イエズスのために苦しんだことが、この上もない喜びに変わる日を待ちましょう。 

栄えの第二の奥義 

ご復活の後、四十日目に、弟子たちに最後の教えを与えてから、イエズスは天にお昇りになりました。私たちのまことの国は、この世ではなく、天国にあることを教え、私たちのために、立派な場所を準備するために行かれたのでした。 

▲私たちは、いつも天国のことを考え、イエズスが準備してくださる、報いをいただくために、ふさわしい人間になれるよう、マリアのお助けを願いましょう。 

栄えの第三の奥義 

弟子たちは、マリアを囲んで、高間に集まっていました。イエズスの約束通り、聖霊の火が舌の形で、みんなの上にくだりました。聖霊を受けた弟子たちは、勇ましく、少しも恐れずにイエズスの教えを全世界に広めました。キリスト信者は、堅信の秘跡のときに、聖霊の賜物を授かります。 

▲私たちも、この弟子たちのように、勇ましく、自分の信仰をあらわす恵みを、マリアに祈りましょう。 

栄えの第四の奥義 

イエズスのおん母であるマリアは、たくさんの苦しみを耐え忍ばれたので、イエズスの栄えにあずかりました。地上でのご生活が終わり、天の輝かしい光の中から、イエズスがお呼びになる声を聞きました。そして少しの罪の汚れもない魂とお体はそのまま天に上げられました。 

▲私たちの体もいつかよみがえって、天国に入らなければなりません。今から神さまの神殿のように自分の体を清く保つことができるように、マリアにお取り次ぎを願いましょう。 

栄えの第五の奥義 

マリアは、天の光栄の中で、イエズスとおん父と聖霊から、天と地の女王の冠を受けます。マリアは私たちを天国で待っていてくださり、たくさんの恵みを取り次いでくださるのです。 

▲私たちは、天の母を心から愛し、その導きで天国に入れるよう熱心に願いましょう。 

聖母の連願 

ロザリオの祈りの結びとして、伝統的で、励ますべき習慣であります。三位一体の神に祈ったのち、この祈りの中で、神が計画されたマリアの使命を示す。数々の願いを唱えて、聖母に取り次ぎを求めます。十月中にロザリオの祈りに聖ヨセフに対する祈りを加えます。 

幸せなヨセフよ、 

▲困難の中から、あなたを呼び求めます。 

あなたの、尊い浄配の助けを求めた私たちは、また、あなたの愛の絆で結ばれ、あなたの、頼もしいご保護をもお願いします。あなたは、 

▲神のおん母、清いおとめと愛で結ばれ、おさな子イエズスに、父のいつくしみをもって尽くされました。イエズス・キリストが、そのおん血によって贖った私たちをあわれみ、必要のときに、力強いみ手を伸べてお助けください。 

聖家族の、忠実な守りよ、 

▲イエズス・キリストに選ばれた全ての人をお守りください。いつくしみ深い父よ、私たちから、世界にはびこる全ての迷いと悪徳を遠ざけてください。 

力ある保護者よ、 

▲やみの権威と戦う私たちをあわれみ、天からのお助けをお与えください。また、昔、おさな子イエズスを、命の危険から救われたように、今も、神の聖なる教会を敵のわなと全ての困難から守り、私たち一人一人の上にご保護をお与え下さい。 

こうして、私たちが、 

▲あなたにならい、おん取り次ぎによって、徳高く生き、信仰のうちに生涯を終え、天の終わりない幸福を得ることができますように。アーメン。 

19 聖母の十二の星の小さなロザリオ 

聖母の十二の星の小さなロザリオ、または十二の星のロザリオと呼ばれるこの信心業は、黙示録の第十二章からヒントをとったもので、毎度違った祈りと十二の「めでたし」からなります。聖ルイ・グリニョン・ド・モンフォールをはじめ、聖ヨゼフ・カラサンシオ、聖アンドレア・アベリーノ、その他の聖人たちが普及したものです。 

はじめに 

おお、聖なるおとめよ、私たちの賛美を、いつくしみ深く受け入れ、あなたの敵に対して、私を強めてください。 

天にまします(1回)、めでたし(1回)。 

おとめマリアよ、あなたは幸せです。 

世界のあるじ、世のつくり主をお宿しになり、 

聖徳の願い 

あなたを創られたお方を生み、 

終生おとめの特権を保たれたからです。 

先 お喜びください、おとめマリアよ、 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

めでたし(1回) 

汚れない聖なるおとめよ、私は、ふさわしく、 

あなたをたたえることはできません。 

ご胎内にお迎えになりました。 

先 お喜びください、おとめマリアよ、 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

めでたし(1回) 

あなたはすべて美しい、おおマリアよ。 

原罪の汚れが、あなたにありませんように 

先 お喜びください、おとめマリアよ、 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

めでたし(1回) 

おおマリア、あなたの美徳は、 

星の数よりも多い。 

先 お喜びください。 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

栄唱(1回) 

栄光は父と子と聖霊に。はじめのように、 

今もいつも世々に。アーメン。 

能力の願い 

天にまします(1回)。めでたし(1回)。 

宇宙の女王マリアよ、あなたにみ栄え! 

天の喜びに、私たちをお導きください。 

先 お喜びください。 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

めでたし(1回)。 

神と人との間の仲介者マリアよ、あなたにみ栄え! 

神のおんあわれみをお注ぎください。 

先 お喜びください、おとえマリアよ、 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

めでたし(1回)。 

すべての異端と悪魔に対して勝利を得たマリアよ、あなたにみ栄え! 

いつくしみ深く、私たちをお導きください。 

栄唱(1回)。 

いつくしみの願い 

天にまします(1回)。めでたし(1回)。 

罪人のよりどころであるマリアよ、あなたにみ栄え! 

神のみ前に取り次いでください。 

先 お喜びください。 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

めでたし(1回)。 

みなし子のおん母マリアよ、あなたにみ栄え! 

天のおん父のいつくしみを得させてください。 

先 お喜びください。 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

めでたし(1回)。 

聖人の喜び 

天国の喜びにお導きください。 

先 お喜びください。 

答 満ち溢れるほどお喜びください。 

栄唱(1回)。 

結びの祈り 

めでたしマリア、神のおん独り子のおん母、めでたしマリア、聖霊の花嫁。 

めでたしマリア至聖三位一体の神殿。 

めでたしマリア、いつくしみと愛に溢れるもっとも愛すべき、私の姫君。 

あなたは、私の女王、母、命、親しみ、希望。 

あなたは、私の心と霊魂の完全な喜び。私は、すべて、あなたのもの、 

女のうちに祝福されたおとめよ、私のものは、みなあなたのもの。 

あなたの魂が、私のうちで主をほめたたえ、あなたの精神が私のうちで、 

神によって喜びおどるようにと、私は願います。 

忠実なおとめマリアよ、あたなの愛を、私にお注ぎください。 

それは、私が、あなたにおいて、また、あなたを通じて、 

神への忠実を守ることができるためです。 

おん母よ、いつくしみをもって、あなたが子らとして愛し、教育し、育て、 

守ってくださる人々の中の一人として、私をお考えください。 

私が、あなたの愛のために、地上の慰めにひかれないで、 

心の中で神と天のことを探せるようにしてください。 

聖霊の忠実な花嫁であるあなたは、聖霊と共に、私のうちで、イエズスが完全な人間の背丈となるようにしてください。アーメン。