聖母マリアへのまことの信心⑧聖母に対する信心の実行

2019年10月3日

第一節 外部的信心業 

226 もっとも重大なのは内部的信心であるにしても、外部的信心業も、決しておろそかにしてはならないものである。「さきのをも無視することなく、あとのをこそ行わねばならない」。外部的信心業を、立派に行うことは、内部的信心を助け、感覚にひかれがちな人々に、その行ったこと、または行うべきことを思い出させ、隣人のためにもよい模範となるのであるが、内部的信心は外に見えないものであるから、他人の模範となるわけにはいかない。まことの信心は、内部にあるのだから、外部的なことは全部避けよ、それは、名誉心の誘惑になるなどという、世間の人の非難を気にしてはならない。そういう人々に、私は、主と共に、こう答えよう。「このように、あなたたちも、人の前で光を輝かせよ。そうすれば、人は、あなたたちのよい行いを見て、天においでになるおん父を崇めるであろう」。聖グレゴリオが言っているように、外部的信心業は、人の気に入るためとか、称賛を得たいためにするのではなく、すべて、神の気に入るため、神に栄光を与えるためにするのである。以下、私は、簡単に、いくつかの外部的信心業を説明しよう。これらを「外部的」というのは、内部がないからではなく、外部的なある行いがあるから、純粋に精神的な信心と区別するためである。 

(1)外部的信心業のその1 奉献の前の準備 

227 この信心業は、正式の信心会に設立されるのは望ましいが、まだそうなっていないが、イエズス・キリストのみ国に入る準備として、第1部に述べているとおり、十二日間を、イエズス・キリストの精神に反する世俗精神を脱ぎ取るために用い、あとの三週間を、聖なるマリアによって、自分自身を、イエズス・キリストの精神で満たすために用いるのである。この修行は、次の順序で進めてもよい。 

228 その第一週は、謙遜の心をもって、自分自身を知ること、罪を悔い改めるために祈りと信心業とを使用する。もしできれば、私が先に記したように、自分の心底に巣くう悪を黙想し、自分は全くいやしい生きものに過ぎないと考え、そして、聖ベルナルドの次のような言葉を考えよう。「あなたは、かつて何であったかを考えよ、一握りの土くれではなかったか。今は何であるかを考えよ、肥料溜ではないか。また未来は何になるかを考えよ、うじ虫の餌食になるだけではないか」。また次にあげるような言葉で、主と聖霊とに照らされるように祈らなければならない。「主よ、見えるようにしてください」。「私に自分を悟らせてください」。「聖霊よ、来てください」。そして、聖霊の連願か、この本の第一部にのせた祈りを唱え、聖母に依り頼まねばならない。 

229 第二週は、信心業と祈りとをもって、聖母を知るように努めなければならない。そのために、聖霊のおん助けを求め、私がこの点について書き記したことを黙想してもよいだろう。第一週と同じく聖霊の連願と、「海の星めでたし」を唱え、毎日ロザリオ三環、少なくとも一環を唱えないといけない。これを全部聖母をよく知る、という意向で唱えること。 

230 第三週は、イエズス・キリストを知るように努めなければならない。先に、これについて書き記したことを読んで黙想し、この本の第二章のはじめに書いた聖アウグスティヌスの祈りを唱えてもよいだろう。同時に、「主よ、あなたを悟らせてください」、「主よ、私の目を開いてください」と日に何百度となく唱え、前週と同じく、聖霊の連願と「めでたし海の星」と、イエズスのみ名の連願とを唱えなければならない。 

231 この三週間を終わってから、マリアを通して、イエズス・キリストの愛の奴隷になるという意向をもって、告白し、聖体拝領をするのである。後に記すような方法に従って、聖体拝領をしてから、また、付録にのせた奉献文を唱えればよい。この奉献文は、もし印刷したものがなければ、自分で書き写し、奉献を行う日に、それに、署名しなければならない。 

232 その日にはまた、洗礼の約束に対して誠実でなかった償いとして、また、イエズスとマリアの奴隷になったしるしとして、何かを捧げてもよいだろう。この捧げものは、それぞれの能力に従って、たとえば断食とか、ちょっとした苦業とか、施しとか、あるいは一本のろうそくとかの類である。たとえ一本の釘を捧げたとしても、そのよい心だけをご覧になるイエズス・キリストにとっては、それで十分である。 

233 奉献を行った人は、少なくとも毎年同じ日に、同じ奉献を新たにし、三週間の信心業を守らなければならない。また、毎日、次のような短い言葉で、奉献を新たにしてよい。「私は、全くあなたのものです。また私の全てのものは、あなたのものです。おお、愛するイエズス・キリスト、あなたの聖なるおん母によって、私は、全部をあなたに捧げます」。 

(2)外部的信心業のその2 聖母の小さなロザリオ 

234 この信心業を行う人は、毎日—しかし自由に—”天にまします”三回と”めでたし”十二回によって成り立つ聖母マリアの小さなロザリオを唱える。それは、聖母の十二の特権と十二の偉大さを尊ぶためである。この信心業は、聖書に基づくもので、非常に古くからある。聖ヨハネの黙示録を読むと、太陽に包まれた婦人があり、その足の下に月があり、その頭に十二の星の冠をいただいていたとある。この婦人は、教父たちの解釈によると、聖なるおとめマリアである。 

235 この信心業を行うためには、いろいろな方法があるが、ここに全部をのせるわけにはいかない。忠実な敬虔な人々に、聖霊ご自身で教えられるであろう。しかし、簡単に記せば、このロザリオは、まず、「聖なるおとめマリアよ、あなたをふさわしく賛美させてください。あなたの敵に打ち勝つ力をお与えください」と、はじまり、それから、使徒信経、”天にまします”一回、”めでたし”四回、栄誦一回。これを三度繰り返すこと。最後に、「神のおん母よ、私たちはみ元に駆け寄って、ご保護を求めます。必要なときに、私たちの祈りを軽んじないで、すべての危険から、いつもお救いください、栄光に満ちた、幸せなおとめよ」という祈りを唱えます。 

(3)外部的信心業のその3 鉄の鎖 

236 イエズスとマリアの愛のしもべになった人々が、そのしるしとして、後にのせる祝福された「鉄の鎖」を身に着けることは、非常に誉めるべきことであり、ためになることである。こうした外部的なしるしは、もちろん本質的なものでないから、この信心業を行っている人でも、持たなければならないとは決して言わない。しかし、原罪と自罪とによって背負った悪魔の奴隷の鎖を脱ぎ捨てた人々が、イエズス・キリストの栄光ある奴隷となり、聖パウロと共にキリスト・イエズスの囚人となって、この鎖を身に着けることは、まことに立派な行いである。この鎖は、鉄製のもので、何の光沢ももっていないが、しかし、王と皇帝たちの黄金の鎖とは、比較にならない栄光あるものである。昔は、十字架より恥ずかしいものはなかったが、その十字架が、キリスト教のもっとも栄光あるものとなったのである。奴隷の鎖も、それと同じである。いにしえの人々にとって、奴隷の鎖ほど恥ずかしいものはなかったにしろ、キリスト信者にとっては、イエズス・キリストの鎖ほど、尊いものはないのである。 

237 この鎖は、私たちを、厭わしい悪魔の束縛から解放させ、強制ではなく子供としての愛によって、イエズスとマリアに結びつけるものである。「やさしい網で、愛の絆で、私は、彼らを引いた」と、神は、一人の預言者の口を借りて仰せられた。それは、愛の鎖であるから、死のように強いものであるが、死ぬまで忠実にそれを守る人々にとっては、死よりも強いと言えるだろう。死によって肉体が分解して灰になったとしても、その鎖は灰にならないだろう。そして復活の日、最後の審判の日には、その鎖が、光と栄えとに変化するだろう。マリアを通じてイエズスの奴隷となり、墓の中までその鎖を持っていく人々は、何と幸せものであろう。 

238 その鎖を身に着ける理由をあげれば、次の通りである。 

①洗礼の約束と義務、この信心業を新たにすること、それを守る理由などを、思い出させるためである。純粋な信仰によってでなく、感覚によって動かされがちな人間は、何か思い出されるものがないと、神への約束と義務とを、とかく忘れるものである。この鎖は、洗礼によって自分が罪の鎖を解かれ、イエズスのものとなったこと、その約束を繰り返して、もう一度確認したこと、などを思い出させるために、まことに有益なものである。多くのキリスト信者が、洗礼の日の約束を忘れ、無信仰者のように世間を泳いでいる理由の一つは、その約束を思い出させる外部的なしるしを持たないからである。 

239 ②イエズス・キリストの奴隷になったことを名誉とし、世間と罪と悪魔との鎖を脱ぎ捨てたという表示である。 

③罪と悪魔の鎖から、身を守るためである。私たちは、罪悪の鎖か、愛と救いの鎖か、いづれかを持たなければならないのである。 

240 ああ、愛する兄弟よ、罪と罪人、世間と世間の人、悪魔とその仲間の「鎖を破ろう。彼らの、その絆を振り捨てよう」。聖霊の言葉を借りれば、「あなたの足を、知恵の足枷にはめ、あなたの首を、その首枷に入れよ」。「知恵の荷を負うために、背をかがめ、その約束を嫌がるな」。聖霊は、そう言われる前に、「子よ、聞くがよい、私の考えを受け入れ、私たちの忠告を拒むな」と仰せられて、霊魂を準備されたのである。 

241 私の友よ、私がそれと同じくあなたに勧めて、「その束縛は、緋色の帯である」と、聖霊と共に、言わせてください。ともあれ、すべての者をご自分に引き付けるべきである十字架上のイエズス・キリストは、神の永遠の怒りと正義の復讐とのために、亡びる人々をも、その罪の鎖によって、ご自分に引き付けられるのである。しかし、この最後の時代にあたっては、とくに、愛の鎖で、救われる人々をご自分に、引き寄せられるであろう。「すべての人を、私のもとに引き寄せる」。「やさしい網で、愛の絆で、私は、彼らを引いた」。 

242 イエズス・キリストの愛の奴隷、イエズス・キリストの囚人は、その鎖を首に、腕に、足につけるべきであろう。1643年、聖徳の香りのうちに帰天したイエズス会の七代目総長ヴィンセンチオ・カラッファ師は、愛の奴隷のしるしとして、足に鉄の輪をはめていた。彼がつらかったのは、公にその鎖を引いて行けないことだったそうである。前にその名を出したイエズスのアグネス修道女は、鉄の鎖を腰につけていた。また、他のある婦人は、世間にいた時に首にかけていた真珠の首飾りの償いとして、鉄の鎖を首にかけていた。また、他の人々、仕事をしている時にも思い出すために手首にそれをかけていた。 

(4)外部的信心業のその4 ご托身の奥義 

243 この信心業を行う者は、み言葉のご托身の大奥義の祝日(三月二十五日)に、特別な信心を持たなければならない。聖霊は、次にあげる理由によって、この信心を勧められたのである。 

①おん子である神が、おん父である神の栄光のためと、私たちの救いのために、マリアに対して示された、ほめ称えるべき服従を、私たちは尊び、まねなければならない。その服従は、イエズスとマリアの肉体において囚人となり、奴隷となり、まったくマリアに従属されたというこのご托身の奥義にもっともよく表れている。 

②神がご自分のふさわしい母として、マリアに与えられた比類のない恵みを考えて、神に感謝するためである。この奥義は、それを示しているのである。以上記したのは、マリアにおいてイエズス・キリストへの奴隷の、主な二つの目的である。 

244 「マリアにおいて、イエズス・キリストの奴隷」あるいは、「マリアにおけるイエズス・キリストの奴隷制度」と、私が言っていることに留意してほしい。他の人々のように、「マリアの奴隷」、「聖なるマリアの奴隷制度」と言ってもよいのであるが、私は、先のように言ったほうがよいと思うのである。それは、その賢明と敬虔とを歌われたサン・スルピスの大神学校長トロンソン神父が、この問題について意見を求めたある聖職者に答えたすすめである。その理由は、次の通りである。 

245 ①私たちの生きている今の時代は、もっとも確実な信心業にさえも異議を申し立てる傲慢な批判者が多い時代であるから、彼らに、非難の隙を与えないように、「マリアを通して、イエズス・キリストの奴隷」と言ったほうがよいであろう。つまり、この信心の道であり手段であるマリアよりも、目的であるイエズス・キリストを置く方がよいのである。事実、私がそうしているように、どちらでもよいわけである。例えば、オルレアン市からアムブワーズを通って、トゥール市に行こうと思う人は、アムブワーズへ行くとも言えるし、トゥールへ行くとも言えるわけである。たとえ、目的地はトゥールであって、アムブワーズが、その通過点であるにしても。 

246 ②この信心が、尊び祝す主な奥義はご托身である。この奥義では、マリアの体内に肉となったイエズスを見るのであるから、マリアにおけるイエズス・キリストの奴隷、マリアを通じて君臨し住まわれるイエズス・キリストの奴隷と言うのがよいのである。多数の著名な人々も、「マリアにおいて生きるイエズス、成聖のあなたの霊を持っておいでになり、私のうちに生きてください」と祈っているのである。 

247 ③この言い方は、またイエズスとマリアとの密接な一致をあらわしている。イエズスは全くマリアにあり、マリアは全くイエズスにある。つまりマリアはもう無く、イエズスだけがマリアにあるとさえ言えるほどである。マリアをイエズスから引き離すよりも太陽から光線を分離させる方が容易であろう。そのために、私たちの主は、「マリアのイエズス」とも言え、聖母は、「イエズスのマリア」とも言えるであろう。 

248 マリアの内に生きて、君臨されるイエズス、あるいはみ言葉のご托身という、まことに偉大な奥義を、ここで詳しく説明する暇はないのであるが、ごく簡単に、これはイエズスのもっとも神秘な、もっとも崇高な、第一の奥義だと言いたいのである。この奥義において、イエズスはマリアと一致して—そのために、マリアは、「神の神秘の部屋」と言われている—選ばれたものを選び、おん父のみ旨に従って、これに続くすべての奥義を行われたのである。「そのために、キリストは世に入るときに言われた—神よ、私はあなたのみ旨を行うために来る」。したがって、この奥義は、他の奥義の計画と恵みとを含み、すべての奥義の結合であり、そしてまた、神のおんあわれみ、寛大さと栄光の王座である。私たちは、マリアを通してのみイエズスに近寄り、話しかけることができるのであって、そのためにこそ、私たちにとって、それは、神のあわれみの王座である。愛するおん母の願いをいつも聞き入れられるイエズスは、マリアを通して、あわれな罪人に、恵みとあわれみを与えられるのである。「信頼をもって恵みの王座に近づこう」。その奥義はまた、あわれみの王座である。新しいアダム(イエズス)が、まことの意味でのエデンの園であるマリアに隠れておられたとき、どれほどの不思議を行われたかは、天使も人間も、理解し得ないのである。そのために、聖人たちは、マリアを、「神の寛大さ」と言っている。神はマリアにおいてでなければ寛大でないかのように。その奥義はまた、おん父の栄光の王座である。なぜなら、イエズス・キリストは、マリアを通じて、人間に対して怒られたおん父を完全になだめ、罪がおん父から奪った栄光をとり戻し、ご自分の意志と犠牲とをもって、旧約の全いけにえが与えた以上の無限の栄光を与え、神がまだ人間から受けられたことのない絶大な栄光を与えられたからである。 

(5)外部的信心業のその5 ”めでたし”とロザリオ 

249 この信心業を行うものは、ごくわずかなキリスト信者しか、その価値、その功徳、その偉大さ、その必要性を知らない。”めでたし”の祈り(天使祝詞)を、とくに敬虔に唱えなければならない。聖マリアは、聖ドミニコ、聖ヨハネ・デ・カピストラノ、福者アラン・ド・ロシュのような大聖人にあらわれて、この祈りの功徳を見せられたのである。彼らは、霊魂の改心のために、この祈りがいかに不思議な効果をもっているかについて書き残し、この世の救いは、「めでたし、マリア」によって始まったのであるから、人間の個々の救いも、この祈りに結びついていることを、公に宣教し、声高く宣言したのである。不毛のやせ地であるこの世に、生命の実をもたらしたのは、やはりこの祈りである。天使祝詞こそ、この世の土、つまり霊魂を潤す天の露である。この露に潤されていない霊魂は、実を結ばないであろう。「茨とあざみとだけ生える土地は、捨てられ、呪いに定められ、ついには焼かれてしまう」。 

250 聖母が、福者アラン・ド・ロシュに示されたみ言葉は、彼の「ロザリオの威光」という著書に記され、また、カルタヘナによっても書き残されている。「わが子よ、全世界を亡びから救った天使祝詞を唱えるに当たって、抵抗を感じたり、無関心だったり、怠惰であることは、永遠の亡びの、確実に近いしるしであることを知りなさい。このことを、皆にも知らせなさい」。この聖母のみ言葉は、非常に慰めとなるものであるが、また、非常に恐るべきものである。これを書き残したのが、この有名な聖人であり、それより先に聖ドミニコの証言があり、そして、また、何世紀にも渡って、数多い聖なる人たちの保証があるが、それがなければ、信じがたいほど恐ろしい言葉である。異端者や不信仰者や、傲慢な人々や、亡ぶべき人々が、天使祝詞とロザリオを軽蔑し、憎悪していることは、常に人々の注目をあびて来た事実である。異端者は、今もなお”天にまします”を唱えるが、天使祝詞を嫌って口にしない。彼らは、ロザリオよりも、蛇を用いたいのであろう。カトリック信者であっても、傲慢な人々は、彼らの父ルチフェルと同様であって、天使祝詞を軽蔑し、あるいは冷淡に唱え、ロザリオを無学文盲の徒のもてあそぶ信心だと考えるのである。それに反して、救われるべきしるしを持っている人々は、真心からの喜びをもって、この祈りを唱えるのである。彼らが、「神のもの」であればあるほど、この祈りを好んでいる。それは、先にあげたみ言葉のあとで、聖母が、福者アランに教えた事柄である。 

251 なぜと言われても困惑するが、ある人が「神のもの」であるかどうかを知るためには、その人が天使祝詞とロザリオを好んでいるかどうかを調べる以上の方法はないだろうと、私は思うのである。好むか嫌うかという言葉を私は使ったが、それは、自然的な、あるいは超自然的な理由のために、天使祝詞を唱えられない場合があるが、しかし、唱えられなくても、好む人は好んでいるし、他人にも奨励しているからである。 

252 救われるべき人々よ、マリアにおけるイエズス・キリストの愛の奴隷よ、天使祝詞は、”天にまします”に次いで、どんな祈りよりも美しい祈りであることを忘れてはならない。それは、あなたたちが、マリアに対してすることのできる、もっとも完全な称賛である。何しろそれは、一人の大天使を送って、神が告げられた称賛なのであるから。この称賛の神秘的な魅力が、聖マリアに対して、どれほど威力のあるものであったかを知らなければならない。マリアは、その底知れぬほど深い謙遜な心にもかかわらず、すぐみ言葉のご托身に承諾したのであった。私たちも、この祈りをよく唱えるなら、きっと聖母を動かすことができるであろう。 

253 注意と敬虔と慎みとをもって、よく唱えた天使祝詞の威力について、聖人たちは語っている。それは、悪魔を叩き潰す金槌であり、悪魔の敵であり、霊魂を聖とするものであると。また、天使の喜びであり、救われる人々の音楽であり、新約の賛美歌であり、マリアの歓喜であり、聖なる三位一体の栄光であると。また、霊魂を富ませる天の露であり、マリアへの愛情にみちた清らかな口づけであり、マリアへの鮮紅色のバラの贈り物であり、貴重な宝石であり、甘美な食べ物、甘露の杯であると。これはすべて聖人の言葉である。 

254 では、イエズスとマリアとにおいて、私があなたたちに対して抱く愛のために、聖母の小さなロザリオを唱えるだけに止まらず、毎日ロザリオを唱えるようにと、切に切に希望する。そうすれば、あなたたちは、死んだときに、私の言葉を信じたその日その時を、祝福するだろう。そして、イエズスとマリアの祝福のうちに種をまいてから、天において、永遠の祝福の実を結ぶであろう。「豊かにまくものは、豊かに刈り取るであろう」。 

(6)外部的信心業のその6 聖母賛歌 

255 神が、聖なるおとめマリアに与えられた恵みを感謝するために、福者マリア・ド・ワイニ、その他の聖人の手本に倣って、しばしば「マニフィカト」(聖母賛歌)を唱えるように努めなければならない。「マニフィカト」は聖母が作った唯一の祈りであり、唯一の詩である。いや、むしろ、マリアの口を借りて、イエズスが作られたと言ってもよい。また、それは、新約の時代になってから、神が受けられた最大の賛美のいけにえであり、もっとも低い、もっとも感謝にあふれている一方には、もっとも崇高で、もっとも尊い賛美である。そこには天使でさえも悟り得ないほどの深い神秘がある。敬虔と学識において、一世に名をとどろかせたジェルソンは、生涯のほとんどを著作に専念したのである。その晩年になって、今までのすべての著述を飾ろうとして、恐れながら感謝のうちに、マニフィカトの説明に着手したのであった。その本の中には、聖母ご自身が聖体拝領後の感謝の祈りとして、このマニフィカトを唱えられたと書かれている。学識にとんだベンゾニオ師の本には、この愛の讃美歌によって行われた数々の奇跡が記され、「その御腕の力をあらわし、おごる思いの人々を散らし」と唱えるときには、悪魔が逃げると語っている。 

(7)外部的信心業のその7 世間を軽蔑する 

256 マリアの忠実なしもべは、腐敗の世を軽蔑し、憎悪し、回避しなければならないのであって、そのために、第一部に記した世間を軽蔑するための信心業を行わなければならない。 

第二節 内面的信心業 

257 それぞれの身分がゆるす限りにおいて、怠りや軽蔑のためにおろそかにしてはならない外部的信心業を述べたのち、これから、聖霊によって完徳に招かれる人々に特に益のある、内的信心業について述べたいと思う。簡単に言えば、それは、自分の行いのすべてを、イエズスによって、イエズスと共に、イエズスにおいて、イエズスのためにもっとも完全に行うために、マリアによって、マリアと共に、マリアにおいて、マリアのために行うことである。 

A マリアによって 

258 自分のすべての行いを、マリアによって行わなければならない。万事において聖母に服従し、神の霊であるマリアの霊に導かれなければならない。「 神の聖霊にみちびかれる人は、だれでも神の子どもです 」とある通り、神の霊に導かれるものは、神の子であり、マリアの霊によって導かれるものは、マリアの子である。したがって、私たちは先に言った通り、神の子である。聖母への信心を持っている者もたくさんあるが、マリアの霊によって導かれ、行動している者だけが、まことの忠実な信心家である。今私は、マリアの霊は神であると言ったが、それはマリアが、一度も自分の霊によって行動せず、いつも神の霊によって動いているので、ちょうど、「神の霊がマリアの霊となる程だ」と言えるからである。そのために、聖アムブロジウスは、「マリアの霊は、主を賛美するために、皆の心にあるように。マリアの霊は、神において喜ぶために、皆の心にあるように」と言ったのである。聖徳の誉れを残したイエズス会のロドリゲス修士にならって、柔和で剛毅、熱烈で慎重、謙遜で勇敢、清くて深いマリアの霊に導かれる者は、何と幸せであろう。 

259 霊魂が、マリアの霊によって導かれるためには、次のようにしなければならない。 

①何かを始めるとき、たとえば、祈りをする前とか、ミサを立て、あるいはミサにあずかる前とか、聖体拝領の前とかに、自分自身の霊と意志とを、全く棄てなければならない。なぜなら、私たちの闇の霊、私たちの意志と行いとは、どんなによく見えても、マリアの聖なる霊を妨げるのである。 

②聖母の思いのままに導いていただくためには、マリアの霊に自分を委ねなければならない。自分を、清らかなそのみ手の中に置かなければならない。ちょうど、労働者の手中にある道具のように、名演奏家の手にあるリュートのように、海に投げ込もうと握られた石ころのように。短時間で、ざっと精神を見回し、ちょっとした意志の働き、あるいは簡単な言葉で、例えば「私は、自分を棄てます、私をあなたに与えます、愛するおん母よ」ということによって、それを行うのである。この一致の行いによって、感情的な喜びを感じなくても、まことに一致したことになるのである。ちょうど同じように真実に、「私は、自分を悪魔に捧げます」と言ったなら—神がそれを避けさせてくださいますように—感情的にどんな変化がなくても、実際に悪魔のものとなったのと同様である。 

③何かの行いをしている時に、あるいはした後で、奉献と一致との行いを繰り返ししなければならない。そうすればする程、いよいよ早く完徳に至り、いよいよ早くイエズス・キリストと一致するに至るだろう。この一致は、常に必ず、マリアとの一致に連なっているのである。つまり、マリアの霊は、イエズス・キリストの霊だからである。 

B マリアと共に 

260 何をするに当たっても、マリアと共にしなければならない。事に当たって、マリアは聖霊が人間において作られた完徳のモデルであることを考えよ。つまり、事をする場合、マリアはこれをどうしたであろうか、あるいは、私たちの位置にあったら、マリアはどうするであろうかと考えよ。そのためには、聖母の偉大な聖徳を黙想しなければならない。とくに、 

①ためらいもなく神のみ言葉を信じ、カルワリオ山上の十字架の足元まで、絶えず信じてつき従ったその生きた信心を。 

②片隅にあって沈黙させ、すべてに服従させ、最後の席につこうとなさったその深い信仰を。 

③天の下に、存在したこともない、また存在し得ないであろうその神々しい清らかさ、そしてそれ以上のすべての徳を。少ない費用と短い時間とで、神の面影をつくることのできる偉大な神の鋳型はマリアであることを、もう一度考え直してほしいのである。この鋳型に流し込まれるものは、そのまま、イエズス・キリストに変化させられるということを。 

C マリアにおいて 

261 自分の行いのすべてを、マリアにおいてしなければならない。それをよく理解するために、次のことを考えなければならない。 

①聖母は、「新しいアダム」イエズスの、まことの「エデンの園」であって、その昔のエデンの園は、これらの前表であった。この「エデンの園」には、新しいアダム(イエズス)が残された、言語に絶する富と美と甘美さとがある。イエズスは、九ヶ月の間、この中で不思議を行い、また、その寛大さをもって、富をすべて陳列されるのである。この「天国」(マリア)、この至聖所(マリア)は、聖霊の行いによって、どんな汚点もない清らかな土で出来ている。そしてここには、生命の実であるイエズス・キリストを実らせた生命の木、善悪を知る木がある。そこには、神の手で植えられ、神の露で潤された木々があり、毎日神の味をふくむ実をみのらせているのである。また、そこには、天使さえも恍惚とさせるほどの芳香を放つ徳の花々が咲きほこっている。そこには、望徳のみどりの平原、不落の塔 、信頼の美しい家がある。物質的な、そういう象徴の下に隠されている真理を語れるのは、ただ聖霊だけである。そこにはまた、澄み切った無毒の空気、夜のない聖なる人性の真昼、影のない神性の太陽、鉄を燃やして黄金に変える愛徳のかまどがある。また、地上から源を発して、四つの支流に分かれ、その素晴らしい楽園を流れてゆく謙遜の川がある。この四つの支流とは四つの枢要徳である。 

262 聖霊は、聖なる教父たちの口を通して、マリアのことを、次のように呼んでおられます。 

①大司祭であるイエズス・キリストが入って、そして世に出た「東の門」である。イエズス・キリストは、マリアを通してこの世に来られ、ある日また、マリアを通して来られるであろう。 

②マリアは、神性の至聖所、三位一体の休みどころ、神の座、神の町、神の祭壇、神の神殿、神の世界である。これらの称号は、「いと高きもの」が、マリアに行われた不思議と恵みとに対応するものである。ああ、この事実こそ、何という富、何という栄光、何という幸福!「いと高きもの」が、その栄光の玉座をマリアに置き、そこに止まりになるとは! 

263 昔のエデンは、一人のケルビムが守っていた。しかし、このエデン(マリア)は、「私の姉妹、私のいいなずけは、閉じられた庭園だ。閉じられた庭園、封じられた泉だ」と、聖霊が絶対の主人として守られるのである。これほどに至高な場に、罪人の私たちがどうして入ることができるのか? 

264 マリアは、「閉じられたもの」、「封じられたもの」である。エデンを追われたアダムとエヴァとのみじめな子孫である人間は、聖霊の恵みなくしては、ここに入ることはできないのである。自分の忠実を見せて、この無情の恵みを得たら、喜んでそこに入り、平和に憩い、信頼をもって止まり、安心して隠れ、遠慮なく身心を投げかけることができるであろう。この聖なるおとめのふところにおいては、いつくしみの父とやさしい母とに養われ、迷いと恐れと小心とから解放されるのである。 

③霊魂はもう、そこにおいては、悪魔と世間と罪とを恐れる必要がないであろう。聖母によって事を行うものは、「罪を犯さないだろう」とあるが、聖母の内に住むものは、大罪を犯さないであろう。 

④それはまた、霊魂がイエズス・キリストにおいて作られ、イエズス・キリストが、その霊魂の中に作られるためである。教父たちが言っている通り、聖母のふところに、イエズス・キリストと、選ばれた人々とがつくられた神の神秘の部屋である。 

D マリアのために 

265 何をするに当たっても、マリアのためにしなければならない。自分のすべてを捧げたからには、給仕として、しもべとして、奴隷としてすべてをマリアのためにしなければならないはずである。それは、マリアを最終的にして奉仕するわけではなく、—最終目的はイエズス・キリストだけである。—手近な目標として、神秘的な中間として、目的に達するための容易な手段として、奉仕するのである。忠実なしもべは、怠惰ではない。マリアの保護にもたれつつ、大事業を企て、かつ遂行しなければならない。聖母の特権が議論の的となっている時には、それを守って立たなければならない。聖母の栄光が非難されている時には、それを守って戦わなければならない。できれば、すべての人々をマリアへの奉仕に呼び寄せ、まことの信心に入らせなければならない。この信心を軽蔑して、おん子を侮辱するものがあれば、糾弾の声を上げなければならない。そして、そういう小さな奉仕の報いとしてマリアに切に願うべきは、この愛すべき姫君のしもべ一人として止まっていることのできる名誉と、時間と永遠とにおいて、イエズスとマリアとに固く固く結びつき得るという幸福だけである。 

マリアにおいて、イエズスに栄えあれ!
イエズスにおいて、マリアに栄えあれ!
神のみに栄あれ!