聖母マリアへのまことの信心⑦この信心が、忠実な霊魂にもたらす不思議な効果

2019年10月9日

第一節 自分自身を知ること 

213 愛する兄弟よ、私がこの後で教える内部的、外部的信心を、忠実に守るなら、聖霊が、愛する花嫁マリアによって与えられる光によって、あなたは、自分の心の奥底の腐敗を悟り、自分だけではどんな善も行えない無能者であることを知り、そのために、自分を嫌悪し、軽蔑するようになるに違いない。自分は、よだれを垂らして何でもよごしてしまう「かたつむり」のようだ、自分はその毒気で何でも毒してしまう「がま」のようだ、あるいは、罠をかけようとだけねらっている「へび」のようだと、あなたは考えるだろう。そして、謙遜なマリアから分け与えられた謙遜によって、他人を軽蔑せず、自分を軽蔑し卑下することだけを好むようになるだろう。 

第二節 マリアの信仰にあやかること 

214 この世に生きておられた時の、マリアの信仰は、すべての太祖、預言者、使徒、聖人たちの信仰よりも、偉大なものであった。あなたは、その信仰にあやかることができるのである。天におられる今は、聖母はこの信仰を持っていない。なぜなら、今は、栄光の光によって、すべてを明らかに見ているからである。しかし、栄光に入った今も、マリアは、いと高き者の承諾によって、その信仰を失っていないのである。「戦う教会」の、もっとも忠実なしもべにそれを分け与えるために、聖母は今もその信仰を保っておられるのである。あなたがこの尊い姫君、忠実なおん母に、気に入られれば入られるほど、あなたの信仰は純粋になるだろう。感覚的なことや、何か変わったことのために動じない清い信仰、愛徳によって生きる信仰、そうなれば、あなたはもう、純な愛徳のためだけに行うようになるだろう。大きな岩のように不動の信仰、そうなれば、あなたはもう、嵐にびくともしないだろう。行動的な鋭敏な信仰、それは、どこにでも通れる不思議な通過許可証のように、イエズス・キリストの神秘、人間の四終(死、審判、天国、地獄)、さらに神自身の心にまで、あなたを導き入れるだろう。勇敢な信仰、それは、神の栄光と隣人の救いのために、あなたに、大事業を企てさせ、そして成功させるだろう。燃える灯火、神的な生命、神の知恵のひそかな宝、全能な武器である信仰、それは、死の闇と陰とにいる人々を照らすため、冷淡な人々、そして愛徳の燃える黄金を必要とする人々を燃やすため、罪に死んだ人々に生命を与えるため、石の心とレバノンの糸杉(のように高慢な人々)とを動かし倒すため、悪魔と救いの敵とに抵抗するために、あなたを立たせるだろう。 

第三節 清い愛の恵み 

215 「美しい愛」であるおん母は、あなたの心に住む小心と奴隷的恐怖心とから解放されるであろう。神の子としての聖なる自由をもってあなたが、おん子の掟を実行するよう、そして清い愛の宝を心に入れるよう、聖母は計らわれるであろう。そうなると、あなたはもう、今までのように、恐怖をもって身を退けることなく、愛である神を父と仰ぎ、そのお気に入るように努力し、信頼をもって話しかけるようになるであろう。万一、不幸にも、神を侮辱することがあっても、すぐ自分を卑下し、謙遜に赦しを願って、神に単純に手を伸ばし、心配も迷いもなく再び立ち上がり、失望せずに神のほうへ歩み続けるであろう。これらの場合に、いつも、よいおん母マリアを仲介とし、弁護者とするなら、マリアは、その愛と信頼とを、あなたに勧めるであろう。 

第四節 神とマリアとに対する完全な信頼 

216 聖母は、神とご自分とに対する大きな信頼をもって、あなたを満たしてくださるであろう。つまり、 
①イエズス・キリストに対して、あなたは、自分自身を通して近寄らず、つねにマリアを通して近づくからである。
②聖母に、その思し召しのままに、功徳、恵み、罪の償いを処分してくださるように捧げたからには、聖母は、ご自分の徳を分配し、ご自分の功徳を、あなたに着せられるであろう。そして、あなたは、信頼をもって、次のように神に言うことができるであろう。「私は主のはしためです。あなたのお言葉の通りになりますように!」。 
③寛大なものに対して寛大な、そして誰よりも寛大なマリアは、体と霊魂とをすべて捧げたあなたに対して、まことに不思議な方法で、ご自分を与えられるであろう。ここにおいてあなたは、大胆に、こう言い切れるであろう。「私は、あなたのもの、どうぞ救ってください」。また、愛弟子ヨハネと共に、「聖なるおん母よ、私はすべての宝として、あなたを引き取りました」とも言えるであろう。あるいは、聖ボナヴェントーラと共に、こうも言えるであろう。「愛する主人、私の助け手であるマリアよ、私は信頼をもって行い、そして恐れないでしょう。あなたは、私の力であり、主において私の誇りです」。この聖人はまた、次のようにも言っている、「私は全くあなたのものであり、私の持っているものは全部、あなたのものです。どんな被造物にもまさって祝せられた、おお、栄光あるおとめマリアよ、私は、自分の心の上にあなたをしるしましょう。あなたの愛は、死のように強いのです」。あなたは、預言者の心をもって、また、次のように神に言うことができるであろう。「主よ、私の心は高ぶらず、私の目はおごらない、私は身に余ることを、偉大過ぎることを、追おうとしない。むしろ、私は魂をしずめ、やわらげた、母から乳離れした子のように。私の魂は、乳離れした子のようだ」。 
④あなたは、聖母に持っている良いものをみな保管して下さるように委ねたのであるから、これからは、自分に信頼を置かず、あなたの宝である聖母に対して、より大きな信頼を持つようになるだろう。神が、そのもっとも貴重なものを入れた神の宝であるマリアが自分の宝でもあると言える霊魂にとって、どれほどの慰めであり、頼りであろう。「聖母は、神の宝である」と、ある聖人は言ったのである。 

第五節 マリアの霊と精神にあやかること 

217 もしこの信心に忠実であるなら、聖マリアの霊は、主をほめたたえるために、あなたの心にくだるであろう。聖なるマリアの精神は、救い主である神において喜ぶために、あなたの心に入るであろう。「マリアの霊は、主を賛美するために、すべての人に宿るように!」。マリアの精神は、神において喜びに喜ぶために、すべての人々に宿るように! マリアに対して、熱い信心を持っていたこの時代の一聖人は、偉大にして唯一であるイエズスのもとに全人類を集めるために、貴いマリアが皆の心の主人として女王として立てられる幸福な時代はいつ来るのだろうかと詠嘆したのであった。体が空気を呼吸するように、人々の心がマリアを呼吸する時代は、いつ来るであろうか?そのとき地上においては、不思議が起こるであろう。愛する花嫁が人々の心に写されているようだと見た聖霊は、その人たちの心に下り、その豊富な賜物、とくに知恵の賜物で、恵みの不思議を行われるだろう。ああ、愛する兄弟よ、マリアによって神から良しとされた霊魂が、イエズス・キリストを愛し賛美するために、マリアの生きる写しとなる幸福な時代、まさにマリアの世紀というべき時代は、果たしていつ来るのであろうか?それは、私が教えたこの信心があまねく知られ、実行される時に来るだろう。「主のみ国が来るために、まずマリアのみ国が来ますように!」 

第六節 生命の木マリアは、忠実な霊魂に、イエズス・キリストを実らせるであろう。 

218 生命の木であるマリアが、忠実な信心によって私たちの霊魂に養われているなら、適当な時期に実がなるであろう。その実とは、他ならぬイエズス・キリストである。私は、この道をとり、あの道をとって、イエズス・キリストを探し求めている敬虔な人々があることを知っている。しかしその人たちは、夜の間に一生懸命に働いても、「先生、私たちは夜中働いて何ひとつとれなかったです」と言わなければならないことが多いだろう。そしてその人たちは、「あなたたちは多く播いたが、得たものは少ない」と答えてよいだろう。ああ、あなたたちの霊魂の中に、イエズス・キリストの影は、まだどんなに薄いことだろう。しかし、私が教えるこの信心によって、マリアの汚れない道をとれば、夜ではなく日中に、聖なる所で働くことができるのである。しかも、少ない働きですむ。罪のかけらさえ持たないマリアにおいては、夜がないのである。マリアは聖なる所であり、至聖所である。そこにおいて、聖人は鋳造されるのである。 

219 マリアにおいて聖人が鋳造されると言った私の言葉に、よく注意してほしい。槌とのみとで彫刻するのと、鋳造するのとでは、大きな違いがある。槌とのみとで彫刻するには、大変な労力と時間がいるが、鋳造すれば、労力も少なく、時間も少なくてすむのである。聖アウグスティヌスは、聖母のことを「神の鋳型」と言っている。「あなたは、正に神の鋳型です」と。それは神の類型をつくる鋳型である。この鋳型に流し込まれると、すぐ、イエズス・キリストにおいて形づくられ、また、イエズス・キリストが、その人のうちに形づくられる。費用も少なく、労力も少なくして、神に似たものが出来上がるのである。なぜなら、神であるイエズス・キリストをつくった同じ鋳型に流し込まれたからである。 

220 ここに教えた信心以外の方法で、自分をあるいは他人を、イエズス・キリストに一致させようとする信心家あるいは霊的指導者は、自分たちの技術によって、固い石や、でこぼこの荒木に、槌とのみで、イエズスの姿を刻もうとする彫刻家である。その人たちは、イエズス・キリストをよく知らないか、あるいは経験の不足か、あるいは技術がまずいために、そのみ姿を再現できない場合がしばしばある。それに反して、この恵みの秘訣を行う人たちは、神であり使徒であるイエズス・キリストを形づくったマリアという鋳型を見つけ、自分自身の技術ではなく、その鋳型の見事さに信頼をかけて、イエズス・キリストを再現するためにそこに流し込む鋳物師に例えてよいと思うのである。 

221 おお、何という美しい例えであろうか?しかし、これを理解できるものは誰か?それが私の愛する兄弟よ、あなたであることを、私は切に望んでいる。ところで、鋳型には、溶かされて液体となったものだけが流し込まれることを忘れてはならない。つまりマリアによって、新しいアダムとなるためには、あなたの古いアダムを殺し、溶かさなければならない。 

第七節 神の最大の栄光 

222 この信心を、もしも忠実に一カ月間守るなら、他のこれよりも難しい信心を、何年も続けるよりも、神に栄光を与えることができるであろう。その理由は、次の通りである。 
①この信心によれば、あなたは、全く聖母を通して行うのであるから、自分ではどんなに良いことだと思っても、自分自身の意向と行いとを脱ぎ去り、自分ではよくわからなくても、聖マリアの意向と行いの中に身を投げて、それを分け持つのである。マリアの意向というのは、言語に絶する純なるものであって、たとえば、つむざおで紡ぐとか、縫い物をするとかのごく小さな行いでさえも、金網で焼かれて痛ましい殉教をとげた聖ラウレンツィオや、その他の聖人たちの英雄的な行い以上に、神に栄光を与えることができたのである。だから、この世に生きておられた間の聖母は、充ち満ちると言っても及ばない、絶大な恵みと功徳とを得たのである。その恵みと功徳とをあげ、数えるよりも、むしろ、空の星を、海の水を、海岸の砂粒を数える方が容易であろう。そしてマリアは、すべての天使と聖人たちが与えた、そしてまた与えるであろうより以上の栄光を神に与えたのである。おお、感嘆すべき偉大さよ、あなたは、あなたに身を捧げ尽くす人々の霊魂に、どれほど感嘆すべき恵みの奇跡を行われることでしょう。 

223 ③忠実な人々の霊魂は、この信心を行うことによって、自分の考えや行いを無と見なし、イエズス・キリストに近寄って話しかけるために、マリアの意向だけに信頼を置くのである。したがって、この人々は、無意識にしろ、いくらかの自愛心と自尊心とを保っている人々よりも、謙遜なわけである。そのために、謙遜な小さな人々によって栄光を受けられる神に、より大きな栄光を与えるわけである。 

224 ③愛に満ちあふれるマリアは、ご自分のおとめとしてのおん手に、私たちの贈り物を受け、それに、言い表し難いほどの、美と光とを添え、何の困難もなく、これをイエズス・キリストに取り次がれるのである。したがって、私たちが、犯罪の手で捧げるより以上に神に栄光を与えるわけである。 

225 ④あなたがマリアのことを考えれば、マリアは、あなたに代わって神を考え、あなたがマリアを賛美すれば、マリアは、神を尊ばれるのである。マリアは、まったく「神と相関関係にあるもの」であるから、私はマリアのことを、「神との関係」と呼びたいのである。なぜなら、マリアは、神との関係のために存在し、神のこだまであり、繰り返し神のみ名だけを呼び続けているからである。私たちが「マリア」と言えば、マリアは「神」と答える。聖女エリザベットが、信じたために祝されたものとしてマリアを賛美したとき、神の忠実な「こだま」であるマリアは答えて、「私の魂は主を崇めます」と唱えたのであった。マリアの行いは、今も、その時と同じである。マリアが称賛され、愛され、尊ばれ、何か捧げものを受けるなら、つまり神が称賛され、愛され、尊ばれ、捧げものを受けられるのである。私たちは、マリアを通して、マリアにおいて、神に捧げるのである。