聖母マリアへのまことの信心⑥レベッカとヤコブ、聖マリアとその愛の奴隷

 

183 母レベッカの心づかいと世話によって、父イサクから祝福を受けたヤコブの話を聖霊は聖書で語っているが、私はそこに、聖マリアとその愛の奴隷の前表を見るのである。これから聖書にあるとおり、その歴史を語り、その後に私の説明を加えてみたいと思う。 

第一節 ヤコブの歴史 

184 エサワが弟ヤコブに長子権を売ったので、ヤコブを深く愛していた母親のレベッカは、何年か後に、奥義に満ちた策略をねって、その長子権をヤコブの手に入れさせることに成功した。話はこうである。父親イサクは、大層な老齢であったので、死ぬ前に、息子たちを祝福しようと考えた。ある日、愛していた兄エサワを呼び、狩りに行って何か食べられるものを取って来いと命じ、そのあとで祝福を与えようと言った。それを知った母親レベッカは、さっそくヤコブを呼んで、すぐ山羊の群れの中から二頭の子山羊をとっておいでと命じた。ヤコブはすぐにそうした。そしてレベッカは、その子山羊を使って、イサクの大好物であった食事をつくり、それから、自分が持っていたエサワの服をヤコブに着せ、彼の手と首とを、子山羊の皮でおおった。父親のイサクは、もう目が見えなかったので、ヤコブの声を聞いても、その毛深い手触りから、ヤコブをエサワと考えるだろうと思ったからであった。果たして、イサクは、エサワだと思ったのが、ヤコブの声だったので驚き、近寄らせて、首と手との子山羊の皮をなで、「声はヤコブの声だが、腕はエサワの腕だ」と言った。それから、準備された食事をし、ヤコブに接吻し、その服の香りをかいだので、エサワだと思って祝福を与え、天の露と地上の豊かさとを約束し、彼を兄弟の頭として立て、「あなたを呪う者は、呪われ、あなたを祝福する者は、祝福されよ!」と言って祝福を終わった。そう言い終わったとき、エサワが、狩りでとったものを持って入って来て、父の祝福を願った。聖なる太祖イサクは、起こったことの間違いを知って、はっと驚いたが、これが神の干渉によるものだと知って、前言を取り消さないのみか、かえってこれを強め確認した。ここにおいて、エサワは、聖書にあるとおり、身をふるわして怒り、弟の策略を非難し、父に向かって祝福は一つだけかと聞いた。教父たちが言う通り、このエサワは、神と世間とを和睦させ、天の慰めと地上の慰めを同時に持とうと望む人々の前表である。父親イサクは、エサワの叫び声にまけて、気の毒に思い、彼にも祝福を与えたが、それは地上の祝福だけであって、地位も、ヤコブの下であった。このためにエサワの恨みは深く、父の死を待って、ヤコブを殺そうとねらった。愛する母レベッカのよい勧めを守らず、また母がことごとに、彼を助けなかったら、ヤコブはとうてい死を避けることはできなかったであろう。 

第二節 亡びる人の前表エサワ、救われる人の前表ヤコブ 

185 この興味ある歴史を説明する前に注意しておきたいことは、教父や聖書学者が解釈しているとおり、ヤコブが、イエズス・キリストと救われる人々の前表であり、エサワが、亡びる人々の前表だということである。果たして、この両者の行いを見ると、その解釈にうなづかされる。 

1 亡びる人の前表エサワ 

①兄のエサワは、屈強な若者で、弓矢にすぐれ、狩りに巧みであった。 

②彼はほとんど家におらず、腕に自信を持っていたので、外でだけ働いた。 

③彼は母親のレベッカを喜ばせるために、何かしようとは決して考えなかった。 

④彼は貪食で、あじ豆の一皿のために、長子権を売ったほどであった。 

⑤彼はカインのように弟を妬み、ひまがあればヤコブをいじめていた。 

186 それこそ、亡びる人々の日々の行動である。 

①亡びる人々は、地上の俗事を取り計らうことに巧みで、よく目がきくが、天のことに関しては、ほとんど盲目で無知である。「地上のことに関しては強く、天のことに関しては弱いものである」。 

187 ②そのために彼らは、家、つまり、そこに住めと神が人々に与えられた内的な家である「心」に住もうとはしない。しかし、神はいつも、ご自分の内に住んでおられる。彼らは、かえって、世間から離脱すること、精神生活、内的信心を好まない。むしろ、世俗を離れて、外よりも、内部で働く人々を、心の小さな者、信心ぶる者、野暮な者と軽蔑する。 

188 ③亡びる人は、救われる人の母である聖母の信心に関心を持たない。特に口をきわめて意識的にののしるというのでもなく、時には称賛もし、自分たちも愛していると言い、信心業も行うのであるが、それ以上に聖母が他の人から愛されるのを喜ばない。彼らは、ヤコブのような深い愛をおん母に対して持たないからである。聖母の愛を得ようとして、忠実な子やしもべたちが行う信心業を、彼らは非難する。それは聖母に対するこの信心が、救われるためにぜひ必要であることを信じないからである。そして、意識的に聖母を憎まず、公に聖母への信心を軽蔑しないだけで十分だとする。彼らは、それだけ、聖母に受け入れられていると公言し、自分を矯め治すために何の努力もせず、聖母を尊ぶために機械的に祈りを唱えるだけでありながら、聖母のしもべであると自称するのである。 

189 ④この亡びる人々は、自分の長子権、つまり天国の幸福を、あじ豆の一皿、つまり世間の快楽のために売るのである。彼らは、笑い、飲み、食べ、遊び、踊るばかりで、エサワのように、天のおん父の祝福を得るために努力しようとしない。言い換えれば、彼らは、地上のことしか考えず、世間だけしか好まず、世間とその快楽のことだけしか話さず、一瞬の楽しみのために、むなしい名誉心のために、果ては一かけらの黄色い白い土くれのために、洗礼の恵み、純白な礼服、天の遺産を売るのである。 

190 ⑤彼らは、日々、公にあるいはひそかに、救われるべき人々を憎んで迫害する。救われるべき人々にのしかかり、軽蔑し、非難し、侮辱し、盗み、だまし、陥れ、追い払い、倒させる。そして自分たちは、快楽にふけり、富を集め、地位を得、安楽な生活を送っている。 

Ⅱ 救われる人の前表ヤコブ 

191 ①弟のヤコブは、体もあまり強くなく情け深い人であったから、多くは家に留まって、愛する母レベッカを喜ばせようとしていた。彼が外出するのは、自分がそうしたいからではなく、自分の才能を頼みにしているからではなく、ただ母の命令に従順であるためであった。 

192 ②彼は、母を敬い愛していたから、いつも母の側にいて、母を見ることを無情の幸福としていた。彼は、母の気に入らないことを絶対にせず、気に入ることを何でも行おうとしていた。それで、いっそう母から愛されたのだった。 

193 ③彼は、どんな場合にも、愛する母に従順だった。母から何か言いつけられると一言の不平も言わず、喜んで、すぐ、それに従った。また、母の言うことなら、理屈なしに何でも信じた。たとえば、母から二頭の子山羊をもっておいでと命じられたときも、一人の人のために一頭では十分ではないかと言葉を返さなかった。すぐ、言われた通りのことをした。 

194 ④彼は、母を信用していた。自分の腕には少しも信頼を置かず、母の保護と世話だけを信じていた。事があれば母に走り、母と相談した。たとえば、こんなことをすると、私は、祝福ではなく呪いを受けるのではないかと母にたずねたとき、母が、呪いがくだれば、私がそれを引き受けると答えると、彼はすぐ信じて、母にまかせた。 

195 ⑤彼は、できるだけ、母の徳をまねた。彼が家に止まっていた理由の一つは、徳のある母に学び、腐敗した友を避けるためであった。これによって彼は、父親の二重の祝福を受けるのにふさわしい者となった。 

196 以上のべたことはそのまま、日々救われるべき人々の上に起こることである。 

①救われるべき人々は、自分たちの母と共に、家に閉じこもっている。すなわち静寂を好む内的な人間であり、祈りの生活をするが、おん母おとめ聖マリアの模範に従って生きる。マリアの栄光は、全部内面的なもので、その一生涯、世間を避けて、瞑想と祈りとをことのほか愛しておられた。ときたま外に出ることがあっても、それは、神と愛するおん母との思し召しに従って、社会的な義務を果たすためである。彼らは外でどんな大事業をしていても、内部で、聖母と共に行うことを、もっとも高く評価する。なぜなら、内部で行っていることは、完徳への大事業だからである。これと比べたら、他の業はみな、児戯に等しい。兄弟姉妹たちが、世間の称賛と賛美とをあびて、外部の生活で成功しているのにひきかえ、彼らが、聖霊の光によって、イエズス・キリストを模範とし、おん母にまったく服従して世俗を離れて生きているのは、世間においては多くのエサワと亡びる人たちのように、華やかに成功し、あるいは恵みの不思議を行う以上に、そこに幸福と楽しみとを見出しているからである。「その家には、豊かさと富」と書いてあるように、神のための栄光、そして人のための富は、マリアの家にのみあるのである。主イエズスよ、「あなたの天幕は慕わしい。すずめさえも住まいをつくり、つばめは巣を得、そこに、ひなを入れる」。あなたが真っ先に、ご自分の住まいとされたマリアの家に、住む者は幸せ!救われるべき人々の住まいであるその家で、あなたをたのみとする者は、幸せ。彼らは、この涙の谷に泣き叫びながらも、完徳を目指して、自分の心の中で徳から徳へと進み、一歩一歩上っていくのである。 

197 ②彼らは、よいおん母を主人として深く愛し、真実に尊ぶのである。外面だけでなく、心の底から、口先だけでなく、まことをもってマリアを愛する。ちょうどヤコブのように、おん母の喜ばれないことを全て避け、喜ばれるであろうと思う全てのことを、熱心に実行する。ヤコブは二頭の子山羊をもって来たが、彼らは、体と霊魂との二つを捧げる。それは、 
A 聖母が、その二つをご自分の所有物として受けられるためであり、 
B 彼らを、罪と自分自身とにおいて死なせ、自愛心という皮をはぎ、おん子イエズス・キリストのお気に召す友人と弟子とにならせるためであり、 
C 天のおん父のお口に合うように、つまり、天のより大きい栄光のために彼らを準備するためであり、
D 聖母の世話と取り次ぎとによって、いろいろな汚れを洗い清められ、よく皮をはぎとり、よく整えられた食物、つまり彼らの体と霊魂とが、天のおん父のお口と祝福とにふさわしい美味なものとなる。

それらはみな、私が教えたこの、マリアの手を通じ、このイエズス・キリストへのお捧げという信心を実行する人々が、イエズスとマリアとに、実際に示す行いに他ならない。亡びの人々は、自分たちがイエズスとマリアを愛していると、やかましく呼びかけている。しかし、彼らは、自分の財産を犠牲にしてまで愛していない。それは、救われる人々がする通りの、霊魂と欲望とを犠牲にするまでには至らないのである。 

198 ③救われるべき人々は、この世で三十三年間生き、そのうちの三十年間を、聖母にまったく服従して、父である神に栄光を与えられたイエズス・キリストの模範に従い、よいおん母マリアにまったく服従するのである。「息子よ、私のいいつけに従い、私の言う通りにしなさい」と言ったレベッカに従ったヤコブのように、また「なんでも、あの人の言う通りにしなさい」と言った聖母に従ったカナの婚宴の人々のように、彼らは、おん母の勧めを確実に守ろうと心掛けているのである。ヤコブは、母の勧めに従ったために、普通なら受ける権利がなかった長子権の祝福を得ることができた。また、カナの婚礼の人々は、マリアの勧めに従ったために、水をぶどう酒にかえたイエズスの最初の奇跡を見る栄光があった。マリアに従順な人々は、このようにして、神の祝福を受けるであろう。それに反して、エサワの仲間は、聖母に服従しないために、せっかくの祝福を失ってしまうのである。 

199 ④救われるべき人々は、よい御母の慈しみと力とに対して、絶大な信用を持っている。そのために、港にたどり着くための北極星として絶えず聖母のおん助けを願い、心を打ち明け、苦しみと必要のときに力を借り、罪の赦しを得るために、その取り次ぎを願い、母のやさしさを味わうために、その胸にすがりつくのである。また彼らは、清い愛を燃やされるために、汚点を清めてもらうために、栄光ある王座のように住まわれるイエズス・キリストを見出すために、完全に愛に満ちたおとめ聖マリアのふところに隠れようとする。おお、何という幸福であろう。「アブラハムのふところに住むほうが、聖母のふところに隠れるよりも幸せだと思うな。主は、おん母のふところに王座を置かれたのである」とグエリコ大修院長は言ったのである。ところが、亡びる人々は、自分自身にだけ信頼をかけ、放蕩息子のように豚の食べ物しか食べようとしないのである。彼らは、がまのように、土を食べ、世間しか、外見的なことしか好もうとしないから、マリアのふところとみ胸の甘美さを味わえないのである。彼らは、救われる人々が聖母に対して抱く信頼と支持とを必要としないのであろう。聖グレゴリオが言うように、彼らは、外部的なもので飢えることを好むのであろう。なぜなら、イエズスとマリアとの中にあるその甘さに背を向けるからである。 

200 ⑤救われる人々は、よいおん母の道を守り、その徳をまねようとするのである。そのために彼らは敬虔であり、幸福であり、間違いなく救われるという調印を持っている。「私の道を歩む人は、幸せである」と、このよいおん母もおっしゃっている。なぜなら、他の人よりもより豊富に、マリアの恵みと甘美さとを味わうことができるからである。また彼らは、死においても幸せである。その死は安らかで、聖母自身の手によって天国の喜びに導かれるからである。なぜなら、生きている間に聖母の徳をまねた人々は、だれ一人として亡びることがないからである。それに反して亡びる人々は、生きているときにも、死のときにも、永遠においても不幸なものである。彼らは、聖母の徳をまねようとせず、時には何かの信心会に入り、何かの祈りを唱えたとしても、それは単に外面にばかり留まって、内部的なものでなかったからである。おお、私のよいおん母、いとも聖なるおとめマリアよ、誤った信心業に迷わず、あなたの道、あなたの勧め、あなたの命令を忠実に守るものは、何と幸福であろう!私は、熱い心を込めて、もう一度繰り返します。何と幸福であろう!それに反して、あなたへの信心を濫用して、おん子の掟を守ろうとしない人々のみじめさよ。「あなたは、掟をそれるものを呪われる」。 

第三節 忠実なしもべに対する聖母の態度 

201 どんな母親よりもよい母である聖母が、ヤコブの前表が示すように、すべてをご自分に捧げる忠実なしもべを、どのように扱われるかについて、これから述べ進めてみたいと思う。 

A 聖母は彼らを愛される 

「私は、私を愛する人を愛する」とあるように、聖母は、ご自分の忠実なしもべを愛される。 

①なぜなら、聖母は、彼らのまことの母であり、彼らは、その子供である彼らを愛されるからである。 

②彼らが、よい母として聖母を実際に愛しているから、聖母のほうでも感謝の念をもって、彼らを愛される。 

③彼らが救われるべき人々として、神に愛されているから、聖母も彼らを愛される。「私はヤコブを愛し、エサワを憎んだ」。 

④彼らがマリアに捧げられたもの、「イスラエルの所有地に入れ」と聖書にあるように、マリアの所有物と遺産であるから、聖母は彼らを愛される。 

202 全世界のすべての母親が、子供に対して持っている愛情を、一人の母に結集したと想像してみよう。この一人の母の愛は、どんなに大きなものであろう。しかも、マリアの愛は、それ以上に大きなものである。マリアは、ご自分の子らを、行動的な、しかも感情的な愛をもって愛しておられる。それは、レベッカのヤコブに対する愛、いや、それ以上のものである。レベッカを前表とするこのよい母マリアが、ご自分の子供たちに天のおん父の祝福を得させようとして、どうなされるかを見よう。 

203 ①マリアは、レベッカのように、ご自分の子らに善を与え、偉大にし、富ませるために、よい機会を持っておられるのである。すべての善と悪、幸福と不幸、神の祝福と呪いとを見ておられるマリアは、ご自分のしもべが、悪を避け、善で満たされるように前から準備なさっている。それで、もしよい機会があれば、忠実に崇高な使命を果たすことができる恵みを、あるしもべに分けられるのである。「聖母は、私たちの便宜をはかられる」と、ある聖人は言った。 

204 ②レベッカが、ヤコブに対してそうであったように、マリアも私たちによいすすめを与えられる。「息子よ、私の言い付けに従い、私の言う通りにしなさい」。わけても、ご自分に、二頭の子山羊、つまり、私たちの体と霊魂とを捧げ、神の好まれる美味な食べ物とすることをすすめられる。また、おん子イエズス・キリストが、み言葉と行いとをもって教えられたすべてのことを踏み行えとすすめられる。このようなすすめを、ご自分で直接お与えにならなくても、天使たちを通じてお与えになることがある。天使たちは地上に下って、聖母のしもべを助けることを、この上もない喜びとしているのである。 

205 ③体と霊魂と、それに属するすべてを、無条件で聖母に捧げるとき、聖母は、どうなさるであろうか?それは、ヤコブがもってきた二頭の子山羊を、レベッカがどうしたかによってわかるのである。 

(a)その人を「古いアダム」の生活から死なせる。
(b)その人の自愛心と自分自身、悪い傾き、被造物に対する執着などの皮をはぐ。
(c)汚れと欠点と罪を洗い清める。
(d)神の味覚と、神のより偉大な栄光のために、その人を調理する。神の味覚と、その偉大な栄光をことごとく知っているのは、マリアだけであるから、そのしもべの体と霊魂とを、神のみ前に整えられるのは、また、マリアだけである。 

206 ④私が前に述べた信心を行う人から、功徳と罪の償いとの完全な奉献を受けたよいおん母は、その人が、神のみ前に出られるように身づくろいさせる。つまり、
(a)まず、聖母は、その人に、兄のエサワの、清潔な、新しい、香りのある、高価な服を着せる。先にも言った通り、マリアは、イエズス・キリストの功徳と徳との永遠の管理者であり、分配者であるから、望む人に、望む時に、望みのままに、それを分け与える。つまり、その高価な服とは、聖母がご自分の中に保存しているイエズス・キリストの服である。 

(b)聖母は、その人の首と手を、殺された子山羊の皮で覆うのである。その皮とは、その人自身の功徳である。聖母はしもべたちの不完全さ、不潔さをすべて清めるのであるが、恵みがその人たちに行わせた善を散らしてしまうわけではない。むしろ、それをその人の首と手との飾りにするために、守り、増加させてくださる。それは、主のくびきを担うように、その人を強めるためであり、神の栄光と、あわれな兄弟の救いのために、大きな業を行わせるためである。 

(c)聖母は、ご自分の功徳と徳とを分け与えて、その美しさをいっそう際立たせてくださる。前世紀の人で、聖徳の香りを放って昇天したある修道女に啓示されたように、聖母は、死の時に、ご自分の功徳をしもべたちに残すと遺言されたという。したがって、聖母の忠実なしもべと下男と召使とは、聖母の服と、おん子の服と、「二重の服で飾られている」わけである。だから、彼らは、雪のように白いイエズス・キリストの冷たさをおそれることはない。イエズスと、聖なるおん母との功徳をはがれた亡びの人々こそ、その冷たさに耐えられないであろう。 

207 ⑤最後に、聖母は、その人たちが、弟あるいは養子であって、順番から言えば長子権を受ける資格がないにもかかわらず、その人たちに、天のおん父の祝福を得させる。新しい、高価な、香気ある服をつけ、体と霊魂とをよく整えてもらったその人は、信頼をもって、おん父のみ前に進み出る。おん父は、その声を聞いて、罪人の声だなと考えられる。しかし、皮でおおわれたその手に触れ、その服の香気をかぎ、おん母が準備した食事を大変喜んで食される。それは、その人がおん子とおん母との香気ある功徳に包まれているからである。 
(a)おん父は、その人たちに、二重の祝福を与えられる。その一つは「天の露」、つまり、栄光の種である天の恵みである。「彼は、天上から、キリストにおいて、私たちを、霊のすべての祝福で満たされた」。そのもう一つは、「小麦とぶどう酒」である。つまり、日々の糧と、十分に豊かな、この世の富である。 
(b)おん父は、その人たちを、亡びの兄弟たちの上に立てられる。一瞬にして過ぎ去るこの世においては、亡びの人々が「勝ち誇り、高ぶっている」。また、「悪人が喜び踊るのを、私は見た。レバノンの杉のように茂るのを見た」と聖書にあるように、亡びの人々が支配権を握ると見えるが、しかし来世になったとき、永遠に、義人たちは、本当の支配者として現れるだろう。来世において、「彼らは、国々を支配し、民を治めるだろう」と聖霊も仰せられている。 
(c)永遠のおん父は、その人たちとその富とを祝福するだけでなく、その人たちを祝するものを祝し、その人たちを呪ったり迫害するものを呪われるであろう 

B 聖母は彼らを養われる 

208 聖なるおん母は忠実なしもべの体と霊魂とのすべてを、ご自分から養われる。聖母は、先に言ったとおり、その人たちに、二重の服を着せ、神の食卓のもっともおいしいものを食べさせ、ご自身でつくられた永遠のパンを与えられる。「私の実を食べよ」。知恵の書の言葉をもって、聖母は、こう仰せられるだろう。「愛する子供たちよ、私の子、あなたたちのために、私がこの世に生み出した命の実であるイエズスであなたたちを満たせ」。また、他のときに、こう仰せられる。「私のパンを食べに来るがよい。私の整えたぶどう酒を飲め」。「食べよ、飲め、愛する人たちよ、酔うがよい」。また、「私のパンであるイエズスを食べよ。私の母としての愛情とまぜたイエズスの愛のぶどう酒を飲め」。聖母は、いと高いものの、賜物と恵みとの分配者であり管理者であるから、それらの大部分のほとんどを、ご自分のしもべを養い育てるために与えられる。「彼は、若者たちを、小麦のように伸ばし、おとめたちを、甘いぶどう酒のように、栄えさせる」。その人たちは、ひざの上でなでられ、喜んで、イエズス・キリストのくびきを担う。なぜなら、「その日には、あなたの肩から荷が、あなたの首から、くびきが、おろされる」からである。 

C 聖母は彼らを導かれる 

209 聖母は、おん子の思し召しにしたがって、ご自分のしもべたちを導き指導される。レベッカは、愛する息子のヤコブを導き、しばしば、よい勧めを与えた。それは、父の祝福をヤコブの上にくだらせ、兄のエサワの憎みから、ヤコブを守るためであった。「海の星」であるマリアも、ご自分の忠実なしもべたちを導き、永遠の生命の道をさし示し、危険を避けさせ、手をとって正義の小道に案内し、倒れそうになるときには支え、倒れたときには立ち上がらせ、過ったときには愛をもって叱責し、ときによっては、愛するゆえに罰することもある。指導者であり母であるマリアに従順であるなら、どうして迷いに踏み込むことが出来ようか?「マリアに従えば、あなたは迷えない」と聖ベルナルドは言った。マリアのまことの子であれば、悪の霊にだまされて、意識しながら異端に「陥ることは、決してありえない」。マリアに導かれるところには、悪魔とその迷い、異端者とその謬説は、入りえないのである。 

D 聖母は、彼らを守り、保護される 

210 聖母は、忠実な子供たちとしもべたちを、敵から守り、保護される。レベッカは、注意を怠らず、巧妙な策を使って、ヤコブをその危険から守った。その危険とは、昔カインがアベルに対して持っていたような、兄エサワのねたみと憎しみであって、油断をすれば、死を免れなかったであろう。救われる人々のよい母マリアは、親鳥がひな鳥を隠すように、その翼の下に隠し、その人たちに下って話しかけ、その人たちの弱さに同情して、「武装した軍隊のように力強く」、その人たちのかたわらにあって、鳶(とび)とさぎの爪から守られるのである。整備された十万の軍隊を持っていれば、恐れる敵はないであろう。天下無敵の力とご保護とを持たれるマリアの忠実なしもべには、なおさら恐れる敵はないであろう。このよいおん母、威力ある天の姫君は、ご自分の忠実なしもべの一人が、敵の力と数と悪との前に降伏するのを見るよりも、むしろ、その一人を守るために、何百万の天使軍の陣頭に立つであろう。 

E 聖母は、彼らのために、取り次がれる 

211 聖母は、ご自分の忠実なしもべのために、おん子のみ前に取り次ぎ、ご自分の祈りでなだめ、密接におん子に一致させ、そこに止まらせになる。レベッカは、ヤコブを父の床に近寄らせた。よい父は、ヤコブに触れ、抱き、そして、よく整えられた美味な食事を喜んで食べ、その後、ヤコブの服の香りをかいで、満足してヤコブに接吻し、そして言った。「ああ、私の子の香りは、主が祝福なさった田畑の香りのようだ」。この野の香りは、マリアの徳と功徳以外の何ものでもない。父なる神が、救われる人々の種として、おんひとり子を播かれたところの、恵みに満ちあふれる畑とは、他ならぬマリアである。マリアのよい香りに満たされた人々は、「永遠の父」であるイエズス・キリストに、ああ、どんなに歓迎されることであろうか。そして、その人たちは、どんなに密接にイエズス・キリストと一致するであろうか。このことは、すでに前に、くわしく述べた通りである。 

212 聖母は、ご自分の忠実なしもべたちを、恵みで満たし、天の祝福をくだらせ、イエズス・キリストと一致させたのであるから、その人たちを、イエズス・キリストに止まらせ、また、イエズス・キリストを、その人たちに止まらせるのである。その人たちが、神の恵みを失い、敵の罠に落ちないように、終始警戒される。聖母は、義人たちを、その徳にとどめ、先に言ったように、最後までその道を続けるよう守られるのである。以上述べたのは、あまり広く知られていない、しかも深い神秘に満ちた旧約の前表の説明であった。