聖母マリアへのまことの信心⑤完全な奉献の理由

2019年9月30日

第一節 第一の理由—完全な奉献のすぐれた点

135 聖母マリアのみ手によって、イエズス・キリストに、まったく自分を捧げることは、どれほどすぐれた行いであろうか。この世において、神に奉仕するより崇高な職はなく、この世の王侯たちが神の忠実なしもべでないなら、彼らにも勝って神のもっとも小さなしもべが気高いものであるなら、全面的に無条件に、できる限り忠実に神に仕えるしもべの、富と力と崇高さはどんなであろうか?聖母によって、「王の王」に自分のすべてを捧げ、自分のためには何一つ残そうとしない忠実な愛の奴隷が、それである。この世の全ての黄金の輝きも、空の果てしない美しさも、この奴隷の足元にもよれるものではない。 

136 キリスト教会において、多くの善業を行っている聖母の信心会、兄弟会、信者会なども、一物も残さず全てを捧げるわけではない。それぞれの会の規則によって会員に、ある信心と善業とを規定しているが、それ以上の行いは自由であり、それ以外の時間も自由に使うことができる。しかし、この信心はそうではない。これを行う人は、まったく、一物も残さず、自分の考え、言葉、行い、苦しみ、その他自分の生活の時間の全部を、イエズスとマリアに与えるのである。したがって、この人は、寝ている間も目覚めている間も、飲んでいる時も食べている時も、大事業をする時も、小さな業を行う時も、自分が意識しないでも、これはすべてイエズスとマリアのものとなる。もっとも、明白に、その奉献を取り消した場合は別である。なんという慰めであろう。 

137 その上、先にも言ったように、私たちの善業にさえも、無意識的に入り込むある種の執着を、この信心業ほど容易に取り除いてくれる信心は他にないと言ってよい。善業の価値をすべて、聖母を通してご自分に譲渡した寛大なこの信仰者に対して、イエズスは、十分に寛大に報いてくださるだろう。この世において、外部的な地上的なはかないものを捨てた人々にさえも、寛大な報いを惜しまれないイエズスは、内部的、霊的な財産をすっかり投げ出したこの人には、その何百倍のものをくださることであろうか? 

138 私たちの友であるイエズスは、私たちのために、ご自分のおん体、ご霊魂、み恵み、御功徳、ご聖徳のすべてをくださったのである。聖ベルナルドが言っている通り、「イエズスは、ご自分のすべてを、私たちに与えることによって、私というもののすべてをご自分のものとなさったのである」。したがって、私たちが、持っている全てを与えるのは、正義と感謝のためである。私より先にイエズスは、私に対して寛大に恵まれた。だから、私たちもそうでなければならない。そして私たちは、生きている間に、死の時にも、そしてことに永遠において、イエズスがいかに寛大にましますかを体験するであろう。「主は、寛大な者に対して、寛大であろう」。 

第二節 第2の理由—この奉献は正当なことであり、益あることである 

139 イエズス・キリストともっとも密接に一致するために、この信心によって、自分を捧げることは、キリスト信者にとって、益あることであり、そのものとして、正しいことである。私たちの恩師イエズスは、愛の奴隷として、囚人として、聖なるおとめの肉体に隠れ、生まれ出られてからも、30年間、マリアに従うことを厭われなかった。人間となられた永遠の知恵は、そうお出来になられたのに、直接ご自身お一人で人間の中に下ろうとはなさらなかった。聖なるおとめの肉体を通してこの世にお下りになったこと、そして、誰にも服従しないでもよい完熟の年にこの世に下るのをお望みにならず、おん母の養育と世話のもとに服従する小さな貧しい子として来られたことをよく考えてみると、人間の理性は、ここに迷わないではいられない。おん父である神に栄光を帰し、全人類を救うという広大な望みを抱いておられたこの無限の「知恵」は、その大事業を果たすために、もっとも完全なもっとも手早い手段として、聖なるおん母に完全に服従なさったのである。しかもそれはこの世の子供たちのように、わずか8年か10年か15年かの間ではなかった。30年という長い年月である。そしてイエズスは、聖母に服従して生きられたこの30年間に、奇跡を行いつつ、全世界に宣教し、全人類を改心させること以上の栄光を、おん父である神に帰すことができたのである。それを思えば、この模範にならって、マリアに服従すれば、おお、どんなに神をお喜ばせすることであろう!私たちの目の前には、これほど明らかな模範がある。それなのにマリアに服従するという、もっと完全で確実な早い道以外に、もっと適切な道で神に栄光を帰すことができるのではないかと思い悩むほど、私たちは愚かであろうか? 

140 私たちが聖なるマリアに対して、どれほど服従しなければならないかについて、先に述べたおん父とおん子と聖霊との模範を、もう一度思い返してみる必要があろう。おん父である神は、マリアによってご自分のおん子を人類に与え、また、与え続けられる。そしてマリアによって、神の子たちをつくり、ご自分の賜物をくだされるのである。また、おん子である神は、マリアによって、全世界のためにつくられ、しかも聖霊との一致において、今も日々つくられ、生まれ出られる。聖霊である神は、マリアによって、イエズス・キリストをお生みになり、マリアによって神秘体の肢体をつくり、マリアによって賜物と恵みとを分配されるのである。聖なる三位一体の、この偉大な模範がありながら、なおマリアによらず神に至り、マリアに服従しないで神に奉仕しようと思うほど、私たちは盲目であろうか。 

141 次に私は、以上のべた言葉を証拠立ててくれる教会の教父たちの言葉を抜粋しようと思う。「マリアは、二人の子を持っておられる。一人は、神であり人であるイエズス・キリスト、もう一人は人間である。マリアは、身体的に、”神人”の母であり、精神的に人間の母である」。「私たちが、どんなことでも、マリアを通して神から受けるというのが、神の思し召しである。したがって、私たちが、いくらかの望徳、恵みにめぐまれ、救いの賜物を持つとすれば、それは、聖母のみ手から流れ出たものである」。「聖霊の賜物と、徳と、恵みとは、マリアのみ手によって、マリアの望む人に、望む時に、望む方法で、望む程に、分配されるのである」。「天の恵みを受けるために、あなたはふさわしい人間ではなかった。そのために、恵みはマリアにくだった。それは、あなたが、マリアによってすべてのものを受けるためである」。 

142 聖ベルナルドは言っているが、私たちは、直接神から恵みを受けるのに値しないものであったから、神はその恵みをマリアにくだされたのである。そして私たちは、マリアのみ手を通して、それを分け与えられる。また神は、恵みを受けて、私たちが表す感謝と尊敬をも、マリアを通して受けることを喜ばれる。神のこの方法を模範とするのは、言うまでもなく正しいことである。同じく聖ベルナルドが言ったように、「恵みがくだった同じ運河を通して、そのつくり主に帰るのは、何よりも正しいことである」。私が述べた信心業は、つまりそれである。この信心業では、自分の全てと、自分が所有する全てを、聖なるマリアに奉献する。それは、マリアの仲介によって私たちの感謝と栄光とを、主がお受けになるためである。人間は、直接、無限の神に近づける値打ちがない。だから、聖母のおん取り次ぎを願うのである。 

143 この信心業には、神がもっとも好まれる謙遜の徳の実行がある。高ぶる霊魂は下げられ、へりくだる霊魂は高められる。神は、傲慢なものを打ち、謙遜なものに、より豊かな恵みをお下しになるのである。もしあなたが、神のみ前に出て、神に近寄るにはふさわしくない者と考えて自分からへりくだるなら、神の方からあなたのところへ来られて、あなたを固め、喜んで受け入れてくださるであろう。それに反して、僭越にも仲介者なしに、神に近づこうとするなら、神は逃げ、あなたは神に至ることができないに違いない。おお、神は、まことに、心の謙遜を喜ばれるのである。この信心こそ、謙遜の徳の実行である。なぜなら、神のあわれみをよく知っているにしても、それに甘えず、いつも聖なるおん母のおん取り次ぎをもって、主に近寄るからである。神のみ前に出る場合も、神に話す場合も、何かを捧げる場合も、自分を一致させ、奉献する場合も、いつも聖母を通して行うからである。 

第三節 第3の理由—この完全な奉献の感嘆すべき効果 

(1)マリアは、愛の奴隷にご自分を与えられる 

144 やさしいあわれみのおん母であり、愛と寛大さにおいてその右に出る者のないこのマリアは、ご自分を飾るためにあらゆるものを脱ぎ捨てて奉仕する人に対して、ご自分をお与えくださるのである。つまり、この人を恵みで包み込み、ご自分の功徳で飾り、ご自分の力で支え、ご自分の光で照らし、ご自分の愛で燃やし、ご自分の徳、謙遜、信仰、純潔を分配し、イエズスのみ前に、この人の保証人となり、補い者となられるのである。自分自身を捧げ尽くしたこの人は、全くマリアのものとなったのであるから、マリアもまた、すべてをこの人に与えられる。ここにおいて、マリアの完全なしもべとなり子となったこのものは、福音史家ヨハネと共に、「マリアを自分の財産のうちに引き取った」と言うことが出来るのである。 

145 この人が、もし忠実であるなら、自分自身を大いに軽蔑し、そして、よき女主人に対して、大いに信用と委ねとを持つようになるだろう。今までは、自分の資格、意志、功徳、善徳、善業などに信頼を置いていたのであるが、それらを皆、このよい母によってイエズス・キリストに捧げたのであるから、これからこの人の手中にあるのは、唯一欠けるところのない宝物、マリアだけである。こうなると、この人は、おずおずした小心な恐怖を忘れて、主に近づき、非常な信頼をもって、祈ることができるようになる。敬虔なルペルト大修道院長は、ヤコブが天使に対して得た勝利を引き合いにして、「おお、マリアよ、私の姫君よ、神であり人であるイエズス・キリストの汚れないおん母よ、私は、自分の功徳ではなく、あなたの功徳を盾にしてみ言葉と共に戦いたい」と言ったが、それと同じ言葉を、この人もまた言うことができるだろう。聖アウグスティヌスが言う通り、愛をもって全能者に勝ったこの尊いおん母の取り次ぎで武装すれば、イエズス・キリストのみ前に、恐れるものはないのである。 

(2)マリアは、私たちの善業を清め、飾り、そしておん子に受け入れられるものとしてくださる 

146 この信心業によって、私たちのすべての善業を、聖母のみ手を通して主に捧げるなら、マリアは、その善業を清め、飾り、そしておん子に受け入れられるにふさわしいものとしてくださるのである。 

①善業の中にさえもそっと忍び込む自愛心と執着とを、聖母は浄めてくださるのである。一点も汚れもなく清らかで、触れるものをみな清め、同時にまた、測りがたい程に寛大なマリアのみ手は、私たちが捧げる供え物の不完全と汚れとを洗い清めてくださるのである。 

147 ②また、聖母は、私たちの善業を、ご自分の功徳で美しく飾ってくださる。一人の農夫が王様のお情けを仰ぎたいと考えて、女王様のところに、自分の全財産である一個のりんごを贈ったとする。女王様は、農夫のこの貧しいわずかな贈り物を受け取り、それを黄金の盆にのせて、これこれの農夫の贈り物だと言って、王様のところに持っていく。一個のりんごは、それだけでは王様の前に贈れない物であるが、それを取り次いだ女王様と、黄金の盆の値打ちとに飾られて、ふさわしい贈り物として王様の手に渡るのである。 

148 ③聖母は、その善業を、イエズス・キリストに捧げられるのである。マリアは、ご自分に贈られる物を、ご自分だけの物として取って置かれることはなく、何でも、忠実に、イエズス・キリストに渡されるのである。聖母に何かを与えるなら、必ずイエズス・キリストに与えたことになる。マリアが称賛され栄光を帰せられるなら、すぐマリアは、イエズス・キリストを称賛し、栄光あるようになさるのである。その昔、聖女エリザベットから称賛されたときと同様に、今も、聖母は、ご自分があがめられ、祝せられる時には、必ず、「私の魂は主をあがめる」とほめ称えられるのである。 

149 ④聖母のみ手を通った贈り物は、どんなに小さな貧しいものであっても、イエズス・キリストに受け入れられるのである。もし私たちが、努力して得た善業を勝手にイエズス・キリストに捧げたとしても、その善業に、自愛心の汚れがあれば、拒否される場合が時々ある。昔、自己中心であったユダヤ人の信仰を、神が受け入れられなかったと同じことである。しかし、聖母の汚れないおとめのみ手を通して捧げれば、もしそう言ってよいなら、イエズスは急所を突かれたと同様で、捧げ物そのものよりも、それを持ってくるおん母をかえりみ、おん母のみ手を通して運ばれた物であるということによって、それを拒否なさらないのである。いつもおん子の歓迎を受けられるマリアは、贈り物の大小を問わず、持ってくる物を皆受け入れてもらえるのであって、マリアのみ手を通したというだけで十分なのである。聖ベルナルドが、完徳を目指す人々に与えた偉大な訓戒も、それであった。「あなたたちが、かみに何かを捧げて、それを拒否されたくないなら、マリアの良いみ手を通して捧げなさい」。 

150 この世で、小さな人々が、偉大な人の前に出るときには、そうするのである。無限に高い神に対して、無限に小さい私たちは、当然そうでなければならない。しかも、一度も神から拒否されたことのない力強い弁護者、神のみ心に受け入れられる秘訣を知っている賢い者、どんなに小さい悪い者でも追い返されない愛に満ちた者を味方に持っているなら、どうしてそのお方の手を通さないでいられようか?後で、ヤコブとレベッカの歴史に、以上述べたことの前表を見てみたいと思う。 

第四節 第4の理由—この信心は、神にもっとも大いなる栄光を帰すものである。 

151 この信心を実行することは、私たちの善業の価値を、神のより大いなる栄光のために使用する、まことにすぐれた手段である。人間の義務であるにも関わらず、神の栄光という崇高な目的のために、ほとんどの人が動かないのは、その栄光がどこにあるかを知らないため、あるいは望まないためである。自分の善業と功徳とを譲られた聖なるおん母は、神の最大の栄光がどこにあるかを知り、そしてそのために万事をお行いになるのであるから、このおん母に自分自身を捧げた完全なしもべは、前に私が述べたように、自分の行い、考え、言葉が、すべて神の最大の栄光のために使用されていると、大胆にも言い切ってよいのである。全く利己心を捨て、清い愛をもって神を愛し、神の益と栄光のみを求める霊魂にとって、それ以上の慰めがあるだろうか? 

第五節 第5の理由—この信心は、神との一致に導くものである 

152 この信心業は、キリスト信者の完徳である。「主との一致」に至るための、容易な、手早い、完全な、安全な道である。 

(1)容易な道である。 

それは、イエズス・キリストご自身で開発なさった道であって、目的に達するために、何の障害もない道である。もちろん、神との一致に至るためには、それ以外の道もあるが、そこには、幾多の十字架や、乗り越えられない困難がある。だから、暗夜を抜け、恐ろしい戦いをし、険しい山を越え、荒れ野の砂漠を横切らなければならないだろう。しかし、マリアの道は、もっと容易な安心な道である。言うまでもなく、ここにも、戦いと困難とがあるのは当然である。しかし、このよい御母が、彼の疑いを晴らし、闇を照らし、恐怖を消し、戦いを助けるためにおられるのであるから、他の道と比べるなら、バラと蜜の道と呼んでもよいだろう。聖エフレム、ダマスコの聖ヨハネ、聖ベルナルド、聖ベルナルディーノ、聖ボナヴェントーラ、聖フランシスコ・サレジオのような聖人は—その数は少ないが—イエズス・キリストに至るために、このやさしい道を通ったのだった。マリアを花嫁にされる聖霊が、この特別な恵みの道を、彼らに示されたからである。他の大部分の聖人たちは、皆、聖母に信頼を持っていても、この道に入ろうとはせず、あるいはちょっと足を踏み入れただけだった。したがって彼らは、実に危険な、辛い道を通らなければならなかった。 

153 このよいおん母の忠実なしもべが、その信心を持っていない人々よりも、多くの苦しみをなめているのは、なぜかと聞く人もあるだろう。彼らは迫害され、反対され、讒言され、苦しめられているではないかと。また、彼らは、天の露に潤されていない荒れ果てた砂漠を通らなければならないこともあろう。聖母への信心が、イエズス・キリストを見つける道をいっそう容易にするのなら、彼らはなぜ、それほど苦しむのだろうか? 

154 私は、それに対して答えよう。聖母の忠実なしもべは、マリアに良しとされて、天の大なる恵みといつくしみとを受けるのであるが、同時に、その十字架をも、いっそう栄光と功徳とをもって担うのである。他の人であったら、何度も足を止め、あるいは倒れる場合でも、このしもべたちは、そうではない。なぜなら、父のいつくしみと、聖霊の恵みに満ちあふれるこのよいおん母が、彼らの担う十字架を、母のようなやさしい純粋な砂糖の上に立てるからである。したがって、彼らは、その十字架を、苦い苦しみと思わず、砂糖菓子のように喜んで食べる。信仰をもってイエズスにたどり着くために、日々十字架を担い、迫害に耐えようと覚悟している人でも砂糖菓子の十字架に例えられる聖母への全くの信頼がないなら、おそらくその十字架を、最後まで担いきれないだろう、と私は思う。どんなに無理をしても、砂糖でくるまれていない生のくるみを、長く食べ続けられないのと同じであろう。 

(2)手早い道である 

155 聖母マリアへのこの信心は、イエズス・キリストを見出すための、もっとも手早い道である。この道を行けば、迷うことなく、喜びをもって進めるからである。マリアへの従順の道を通れば、自分の意志と自分の道の何倍も早く、目的地に達することができる。マリアに従順なものは、どんな敵にでも打ち勝って、勝利を歌うからである。マリアの支えと助けと導きに頼れば、彼は倒れることなく、退却することなく、遅れることもなく、巨人の歩みをもって、イエズス・キリストに近づいて行くであろう。同じく巨人の歩みをもって、イエズスが人間の方へお下りになったその道を通って。 

156 イエズスの、この地上における短い生涯のほとんどは、おん母への服従のうちに過ごされた。それはなぜだったろうか?ああ、罪を贖うために果たし尽くされたイエズス・キリストの短い生涯は、九百年以上生きたかもしれないアダムの生涯よりも長かった。長いと言うのは、おん父である神に服従するために、聖なるおん母に一致し服従しつつ生きられたからである。理由は、次の通りである。 

「自分の母を尊ぶ人は、宝物を積む人と同じである」と。 

聖霊はおっしゃっている。これこそ、成功の秘訣である。どんなことにおいても、その言い付けに背かないほどにおん母を尊敬している人は、日々宝をつみ重ねてゆくであろう。 

ここに聖霊の他の言葉の霊的解釈がある。
すなわち、「私の老齢は、母体のいつくしみのさ中にある」。つまり、マリアのご胎こそ、”完全な人間”(イエズス・キリスト)を包み生んだのであり、このご胎こそ、全宇宙が入れ得ないお方を入れたのである。また、マリアのご胎においてこそ若者は、光と聖徳と敬虔と知恵とにおいて年経たものとなり、わずかな間にイエズス・キリストの「背丈にまで」至るのである。 

(3)完全な道である 

157 この信心は、イエズス・キリストに行き、彼と一致するための完全な道である。マリアは、全被造物の中で、もっとも完全な、もっとも聖なるものであり、ただ、この道を通ってのみ、イエズス・キリストは私たちの中においでになったからである。この道を通ってのみ、いと高き者、包含し得ないもの、達しがたいもの、在るものは、地上のうじ虫であり無である私たちのもとへ来ようと思し召されたのである。いと高き者は、マリアを通して、その神性と聖性の何ものも失うことなく、完全に私たちのもとにおいでになった。したがって、もっとも小さい私たちも、マリアを通して、何の恐れることもなく、いと高き者に、完全に届くことができるのである。「包含されない者」は、その無辺性の何ものも失うことなく、小さきマリアに包含させられた。したがって、私たちも、無条件にマリアに包含されなければならない。「達しがたい者」は、その至尊の何ものをも失うことなく、マリアによって、完全に密接に、そして位格的に、私たちの人生に近寄り一致なさったのである。したがって、私たちも、拒否される恐れなく、マリアによって「達しがたい者」に近寄り、一致しなければならない。また「在る者」は「在るものでないもの」に来て、「在るものでないもの」を「在る者」に一致させようと思し召し、永遠に存在するものであることには変わりなく、しかも完全に全体的に、ご自分を若いおとめマリアに与えられ、服従なさったのである。したがって、私たちも、自分を無とし、マリアにおいてすべてとなるほど完全に全体的に自分を与えることによって、マリアを通じて恵みと栄光とを受け、神に似たものとなることができるのである。 

158 イエズス・キリストに至るために、新しい道ができたと仮定しよう。この道は、全聖人の徳と、全天使の美とで舗装され、その道を歩こうとする人々を導き守るために、彼らが皆、道端に立っていると仮定しても、実に、私は—これは大胆な言葉であるが真実である—それほど完全な道よりも、汚れないマリアの道のほうをよしとするのである。マリアの道には、一点の汚点もなく、原罪自罪の一点のかげりもない。愛するイエズスが、栄光に満ちて、再び地上においでになるとき、先と同じく完全な安全なマリアの道以外の道をお通りにならないであろう。第一の来臨と第二の来臨との差は、前者がひそかに隠れたものであるのに反し、後者は栄光に満ちた輝かしいものであるところにある。ああ、ここにも、理解しがたい奥義がある。ここにおいて、いづれの口も閉じられるべきである。 

(4)安全な道である 

159 聖母へのこの信心は、イエズス・キリストに至り、「イエズス」と一致するための、もっとも安全な道である。私が教えるこの信心は、新しいものではないというのが、その第一の理由である。聖徳のうちに死んだブドン師が書き残したように、この信心の起源は、正確にいつ、と定められないほどに古いものである。はっきりしているものだけでも、今から七百年前に、すでにカトリック教会内において、この信心が行われていた。クリュニ大修道院長、聖オディロ、(1040年頃の人)は、その伝記から明らかなように、この信心をフランスで公に実行した最初の人のうちの一人である。聖ペトロ・ダミアニが書き残している話は次の通りである。1706年、枢機卿の兄弟であった福者マリノが、指導司祭の前で、聖なるおん母に自分自身を捧げた。首に鎖をつけ、自分の体を鞭打ったマリノは、聖母への信心と奉献を表明するために、祭壇に十字架を置き、生涯この信心の約束を守り続けた。そのために死の間際に、聖母の訪問を受け、慰められ、そのおん口から、天国の約束を聞いたということである。1300年頃、聖母に奉献を行ったヴォティエ・ド・ビルバックという騎士があったことを、チェザリウス・ボランドゥスも記している。十七世紀までは、私的な信心として行われてきたが、それ以来、公の信心としてあまねく広められるようになった。 

160 奴隷解放の修道会と言われる三位一体の修道会の修道者であったシモン・デ・ロハスは、フィリペ三世王の説教師であったが、この信心を、スペイン、ドイツで広め、その後、フィリペ三世王の要請を受けて、グレゴリオ十五世教皇は、この信心を行う人に大きな免償を与えることになった。また、アウグスティノ修道会のデ・ロス・リオス神父は、親友であったロハス神父と共に、言葉と著書をもって、スペインとドイツにこの信心を広めた。デ・ロス・リハス神父は、「ヒエラルキア・マリアナ」というぶ厚い本を書き、その中には、この信心の起源と優秀さについて、まことに敬虔な、懇切な意見が述べられている。 

161 さらに、テアティノ修道会の神父たちは、前の世紀頃、イタリア、シチリア、サボアなどに、この信心を広めた。イエズス会のスタニスラオ・ファラチウス神父は、この信心を見事にポーランドに広めた。デ・ロス・リハス神父は、この信心を実行した諸国の殿下、妃殿下、侯爵、枢機卿などの名前をあげている。その敬虔と学識をうたわれたコルネリオ・ア・ラピデ神父は、何人かの司教や神学者から、この信心への検討を依頼された。彼は詳しく調べた結果、最大限の称賛を与えた。他の多くの有名人も、彼の手本に従って、この信心を称賛した。また、聖母への奉仕に熱心であるイエズス会の神父たちは、ケルンの信心会の名で、当時、ケルン大司教であったババリアの侯爵フェルディナンドに、この信心の小さな説明書を提出した。ェルディナンドは、この本を見て賛成し、出版許可をくだし、その教区の主任司祭や修道者たちに、この信心を広めようと勧めた。 

162 フランスの人々の思い出に残って祝福されているド・ペリュル枢機卿は、不敬の徒や悪口屋のざん言迫害をものともせず、広くその国にこの信心を広めた。反対者は、著書を出して、彼を迷信家と呼び、新しがりやとけなしたが、この偉大な聖者は、黙ってそれに耐え、ただ一冊の小さな本をもって、彼らの疑問と挑戦とに応えた。その小冊の中には、彼らの疑問が明白に反駁されている。つまり、この信心は、イエズス・キリストの模範に倣うもので、私たちが、神に対して負うべき義務と、洗礼のときにした約束に基づくものであるという。とくに、聖母を通して、自分をイエズス・キリストに捧げることは、洗礼の約束の完全な更新であることを強調しているのは見事な反駁である。 

163 先にあげたブドン師の著書の中には、この信心業に賛成した教皇の名、これを調査研究した神学者の名をはじめとし、この信心に対する迫害までが、詳しく述べられている。もちろん、代々の教皇は、この信心を非難することができなかったに違いない。なぜなら、そうすれば、キリスト教の土台をゆるがすことになるからである。要するに、この信心は、新しいものではない。ではなぜ、人々にあまり知れ渡っていないかといえば、それは、すべての人に実行されるには、あまりに貴重なものであろうと思うのである。 

164 この信心は、イエズス・キリストに至るために、もっとも安全な手段である。聖母の務めは、私たちを安全に、イエズス・キリストに導くことにあり、イエズス・キリストの務めは私たちを確実に、永遠のおん父に導くことにある。霊的な人が、神と一致するために、マリアが妨げになると考えるなら、それは大変な誤りである。神のみ前に喜び受け入れられたマリアが、霊魂が神と一致するのを妨げるなどとは、常識で考えてもわかるように、まったく不合理なことである。恵みに満ち溢れ、神のおん子のおん母となったほどに、神と一致したマリアが、人間が神に近づくのをなぜ妨げられよう?どんな聖人でも、マリア以外の人間なら、時には、他の人が一致するのを遅らせるようなことがあるかもしれない。しかし、マリアの場合は、そうではない。私は、何度もうるさいほどに、このことを繰り返して飽きないだろう。イエズス・キリストの「背丈にまで至る完全な」霊魂が少ないのは、イエズス・キリストのおん母で、聖霊のこの上ない花嫁であるマリアを、十分に心に持っていないからである。熟した果実を取りたい人は、よい木を持っていなければならない。それと同様で、生命の実であるイエズス・キリストを得たいなら、生命の木をもっていなければならない。それがマリアである。聖霊の働きを霊魂に得たい人が、その分かち得ない忠実な花嫁を持っていなければならないことは、先にも述べた通りである。 

165 あなたたちが、祈り、黙想、行い、苦しみなどのうちにマリアを眺めるなら—明白に意識的に眺めるのではなく、ぼんやり眺めている程度であっても—、偉大な、威光に満ちた、極まりなく高いイエズス・キリストが、天や全被造物におけるよりさらに完全に、さらに密接に、聖母マリアにましますことを知るに違いない。それで、完徳を目指す霊魂にとって、マリアが妨げになるどころか、マリアほど、その意味で、私たちの力となり、支え手となるものは、今までにもなかったし、また、これからもないのである。マリアは、ご自分が分配する恵みによって、人間と神との一致を助けるのである。ある聖人が言っている通り、「神で心を満たされるのは、マリアによってであり」、マリアによって、悪魔の迷いから守られるのである。 

166 マリアがおられる所、そこには悪の霊がない。私たちが、善い霊によって導かれているかどうかを知るには、マリアを信心し、マリアをしばしば考え、マリアについてしばしば話しているかどうかを調べればよい。ある聖人の意見を聞けば、呼吸することが、身体の死んでいない証拠であるように、マリアについて考え、愛をもってマリアに祈り願うことは、霊魂が罪によって死んでいない確かな証拠である、と言っているのである。 

167 聖霊と共に、カトリック教会が宣言している通り、「一人ですべての異端を亡ぼした」のはマリアだけである。したがって、反対者が何と言おうともマリアの忠実な信心家は、異端に走ったり、意識的に迷いに落ち込むことは、絶対にないのである。 この人は、虚偽と真理とを、悪霊と善とを区別することができる、万が一、迷いに落ちることがあるとしても、遅かれ早かれ、その過ちを悟り、そして、頑固に迷いに踏み止まることはしないだろう。 

168 だから、迷いに踏み込む恐れなく—祈りの人には、よく迷いがあるが—完徳の道に進み、「喜んで、快く」イエズス・キリストを見つけたいと望む人は、至聖なるマリアに対するこの信心を行わなければならない。この人は、多分まだ、この信心を知らなかったであろう。では、「私は、この後、なおすぐれた道を示そう」。この道は、一人間となられて知恵、私たちの唯一の頭イエズス・キリストが開拓なさった道である。肢体である人間は、この道を通れば間違うことがない。またこれは、満ち満ちた恵みと、聖霊の導きとのために、きわめて容易な道であり、疲れることもなく、退くこともない道であり、短時間で目的に到着できる道であり、塵もホコリも汚れもない完全な道であり、安全に永遠の生命にたどり着く道である。さあ、この道に分け入ろう、そして、この道をたどって、「みちみちるキリストの背丈にまで至る完全な人間」になろう。 

第六節 第6の理由—この信心は内的自由を与える 

169 この信心を忠実に実行する人とは、内的な自由、「神の子らの自由」を与えられるのである。この信心によって、イエズス・キリストの奴隷として自分自身を捧げればイエズス・キリストはまた、その愛の奴隷に、次のように報われるであろう。 

①霊魂をせばめ、迷わし、混迷させる奴隷的恐怖心をぬぎとらせる。 

②まかせきった心で神に頼り、心を広め、神を父と仰がせる。 

③神への孝心に満ちた愛を注がれる。 

170 いろいろな理由をあげて、この真理を証明するのもいいことであるが、私は次に一つの実例を記したいと思う。それは、1634年に、聖徳の香りも高く帰天したオベルニュのランジアクにあるドミニコ会修道院の、イエズスのアグネス修道女の伝記にあるエピソードである。七歳にもならないのに、アグネスは非常な心の苦しみを抱いていた。ある日、「その苦しみから解放され、敵の手から保護されたいなら、できるだけ早く、聖母を通して、イエズス・キリストの奴隷になれ」という声を聞いたのである。アグネスは、家に帰るとすぐ、それが何であるかも知らずに、ただ言われたままに、自分を奴隷としてイエズス・キリストに捧げ、鉄の鎖を見つけてそれを腰につけ、終生それを取らなかった。こうして身を捧げて以来、今までの苦しみと小心とがぬぐわれたように去り、そして、心には非常な安らぎが戻った。アグネスが、この信心を熱心に広めようと尽くしたのはそのためであった。アグネスに教えられて多くの人はこの信心に進歩したが、その中でサンスルピスの神学校を創設したオリエ師や、同じ神学校の多数の聖職者が、この信心を実行するようになった。ある日、聖母がアグネスに現れ、アグネスがおん子とご自分の奴隷になったことは、まことに喜ばしいことであると、アグネスの首に、黄金の鎖をかけられた。なお、そのとき、聖母に従って現れた聖女チェチリアは次のように言って、共に喜びを分けたという。「天の元后の忠実な奴隷は幸いなこと!その人は、まことの自由を味わうだろう。マリアよ、あなたに奉仕すること、それが自由である」。 

第七節 第7の理由—この信心は、隣人にすぐれた善を与える 

171 この信心をすすめるもう一つの理由は、そのために、隣人が、非常な利益を受けるということである。つまり、この信心を行えば隣人に対して、すぐれた愛徳を行うことができる。マリアを通して、私たちの持つもっとも貴重なもの―どんな小さなものでも—つまり、私たちの善業の、償いの価値と取り次ぐ価値を与える。私たちが得た、あるいは死ぬまでに得るであろうすべての善業は、聖母の思し召しにしたがって、罪人の改心のためとか、煉獄の霊魂の救いのためにとかに使用される。これ以上の愛徳があるであろうか?それは、愛であるイエズス・キリストのまことの弟子となることである。そして、虚栄心の恐れなく罪人を改心させる手段であり、それぞれの身分職業に付随する義務以外の何もせずに煉獄の霊魂を助けられる手段である。 

172 この理由が、どんなにすぐれた理由であるかを知るためには、まず、一人の罪人を改心させ、煉獄の一人の霊魂を救うことが、いかにすぐれた善であるかを知らなければならない。それこそ、天地を創造する以上の善である。なぜなら、それは、霊魂に神を与えることだからである。この信心を行うことによって、一生涯の間に、煉獄のたった一人の霊魂を助け、たった一人の罪人を改心させるだけでも、愛徳のある人にとって、十分な理由だと言えるのではなかろうか?ところで、私たちの善業が、マリアのみ手を通れば、その清さを増すばかりでなく、功徳と、償いの価値と取り次ぐ価値も増すという点に、あなたたちの注意を引きたいのである。したがって、私たちの善業は、聖なるおとめであるマリアの寛大なみ手を通ることによって、罪人を改心させ、煉獄を救うために、よりいっそう強力なものとなるのである。また、自分を捨て、没我的な愛徳によって行った業は、どんなに小さくとも、マリアのみ手を通すことによって、神の怒りをなだめ、そのあわれみを招くための実に強力な手段となる。この信心を忠実に守った人は、自分の小さな行いが、数多くの煉獄の霊魂を救い、数多くの罪人を改心させたことを、死んだ後に知ることができるであろう。ああ、その審判のときに、何という喜び!永遠において何という栄光! 

第八節 第8の理由—この信心は、善の道を続けさせる感嘆すべき手段である 

173 最後に、この信心を勧める重大な理由は、人々を善の道に勧め、忠実にそれを歩いて行かせる非常にすぐれた手段であるということである。罪人の改心が、多くの場合、長続きしないのはなぜだろうか?たやすく、再び罪に落ちるのは、なぜだろうか?義人でさえもが、徳から徳へと恵みの上に恵みを受けないで、むしろ、持っている恵みと徳とを、しばしば失ってしまうのは、なぜだろうか?それは、先にも言った通り、人間は全く腐敗した、弱い、根気のないものであるのに、自分自身に信頼しすぎて、自分で恵みや功徳を守ることができると考えるからである。この信心を行う人は忠実な聖なるおん母に、自分が持っているものを全部ゆだねるのである。つまり聖母は、その人の、自然的な、超自然的なすべての善を委任された人となる。その人は、聖母の真実を信じ、力に依り頼み、あわれみと愛とに自分をまかせるわけである。いくら、悪魔や世間がそれを奪い取ろうとしても、聖母は、任せられたその人の徳や功徳を守り、そして増やされるであろう。それは、子供が母に向かって、忠実なしもべが主人に向かって、「あなたに委ねられたものを守れ」と言うのと同じである。ああ、私のよいおん母よ、私は今まで、あなたのおん取り次ぎによって、思いがけないたくさんのお恵みを受けました。しかも私は、不幸な体験によって、私がそれらの恵みを、壊れやすい器に持っていること、それらを保存し続けるには、私が「小さなもの、軽んじられるもの」であることを知っています。どうぞ、私の所有するすべてを受け取り、それを、あなたの忠実とお力とによってお守りください。もし、あなたがお守りくださるなら、私は何一つ失わないでしょう。もしあなたが私を支えてくださるなら、私は倒れないでしょう。なおまた、あなたが私をご保護してくださるなら、私は敵に敗北することはないでしょう。 

174 それは、この信心を勧めた聖ベルナルドが、はっきり断言したことであった。「聖母があなたを支持するとき、あなたは倒れることがない。聖母があなたを保護するとき、あなたには恐れるものがない。聖母があなたを指導するとき、あなたは疲れることがない。そして、聖母があなたを喜び受け入れるとき、あなたは救いの港に着くであろう」。聖ボナヴェントーラも同じ意味のことを次のように、もっとはっきりと宣言している。「マリアは完全な聖人であるばかりでなく、他の聖人の徳を保ち守る人である。つまり、聖人たちの徳が散らないように、功徳がなくならないように、恵みが失せないように、悪魔が罠をかけないように守り、罪によって罰をくだされないように、導かれるのである」。 

175 不忠実なエヴァが人類にもたらした損害を、その忠実によって立て直したマリアは、またご自分に従属する敬虔な人々に、神から忠実と根気強さを得させるように計らわれる。ある聖人が、マリアを丈夫なイカリに例えたのは、そのためである。この世の嵐の中にあって、聖なる人々は、そのイカリにしっかりとしがみつき、そして、そのイカリについていない人々は溺れ死ぬであろう。「丈夫なイカリにつけるように、私たちは、自分の霊魂をあなたに結びつけます」。救われた聖人というのは、徳の生活を続けるために、その丈夫なイカリにしっかりとつき、また他人をもつけた人々のことである。とすれば、忠実にその丈夫なイカリである聖母に、自分を結びつけようとする人々は、何と幸福なものであろう。世間の嵐がどんなに吹きすさんでも、彼らは溺れず、天と宝を失わないだろう。ノアの箱舟に入るように、聖母の中に避難する人々は、なんと幸福なものであろう。多くの人を滅びに巻き込む罪の洪水も、彼らには触れることができないだろう。「私に従う者は、恥を受けることなく、私の業をするものは、罪を犯さないだろう」と神の知恵は仰せられた。不忠実なエヴァの不忠実な子であっても、いつも変わらない忠実な聖母についているものは、なんと幸福なものだろう。「私は、私を愛する人を愛する」。それは感情的な愛だけではなく、行動的効果的な愛である。つまり、豊かな恵みを与え、おん子イエズスの恵みを失うことのないように、徳の道から反れたり、退いたり、倒れたりするのを防ぐところの真実の愛である。 

176 よい御母は、常に純粋な愛徳によって、委託されたものをすべて受けられたからには、正義にのっとって、それを守られるのである。千の銀貨を委ねられた者は、それを守る義務があり、もし不注意でそれを失えば、その責任を取らなければならないのと同じである。ああ、しかし、忠実なマリアは、委ねられた者を失うことはないだろう。聖母にとっては、委ねられながら、怠惰や不忠実でいるよりも、天地がくつがえるほうが容易であろう。 

177 あわれな子たちよ、あなたたちの弱さ、根気のなさは、どんなに救い難く大であることだろう。あなたたちの心の奥底は、どんなに汚れていることだろう。それは疑うべくもない。あなたたちは、アダムとエヴァの汚れた子孫なのだから。だが、失望することはない。自分から慰め、そして喜べ。私は、キリスト信者でもその大部分が知らない秘訣を、あなたに教えたのである。あなたたちの黄金や銀を、悪魔に穴を開けられた金庫に蓄えるな。その金庫は、貴重な宝を入れるには、あまりに弱い。清い澄み切った泉の水を、汚れたあなたの器に入れるな。罪はもらないとしても、その悪臭はまだ残っているのである。悪いぶどう酒が一杯入っていた古い樽に、天下の銘酒を入れようとするな。それはきっと濁って、だめになってしまうだろう。 

178 救われるべき人々よ、私の言いたいことが、もうあなたたちに分かっているにしても、私は、もっとはっきりと断言したいと思う。あなたたちの愛徳の黄金を、清さの銀を、天の恵みの水を、功徳と徳との銘酒を、穴のある金庫や、汚れた器に入れるな。もしそうすれば、昼夜となく隙間をうかがっている盗人の悪魔に盗まれてしまうだろう。また、自愛心やうぬぼれなどの悪臭によって、せっかく神からいただいた罪も清いものが汚れてしまうだろう。では、あなたたちのすべての宝、すべての恵みを、マリアのふところに納めよ。それは「霊妙なる器」であり、「あがむべき器」であり、「信心のすぐれた器である」。神ご自身が完全な神性をもってこの器にお入りになってから、それは最も霊妙な霊魂の霊妙な住まいとなった。最も偉大な聖人たちの崇むべき永遠の栄光の座となった。また恵みと徳とのすぐれた住まいとなった。それは、「黄金の館」のように豊かで、「ダビデの塔」のように強く、「象牙の塔」のように清く気高いものとなった。 

179 マリアにすべてを与え、万事においてマリアに委ねる人の幸せよ。その人はマリアのものであり、また、マリアはその人のものである。ここにおいてその人は、ダビデと共に、「あなたは、私のためにつくられたもの」と、大胆にも言うことができるであろう。また、愛弟子ヨハネと共に、「マリアを自分の宝として引き取った」と言うこともできるであろう。あるいは、イエズス・キリストと共に、「私のものはみな、あなたのもの、あなたのものはみな、私のものです」と言うこともできるであろう。 

180 この本を読んで、私の言う言葉があまりに誇張しすぎていると考えるなら、それは大変な間違いである。そう思う人は、精神的なことを味わえない肉的な人間であるか、あるいは聖霊を受けることのできない世間の人であるか、それとも、自分が理解できないことをすべて軽蔑し非難する傲慢な人である。しかし、「肉体の意志ではなく、人の意志ではなく、ただ神によって生まれた」霊魂、神とマリアとから生まれた人は、私の言葉をきっと理解し、味わうであろう。私は、そういう人々のために、この本を書いたのである。 

181 ともあれ、私は、その両者に対して、なおまた、おとめ聖なるマリアは、どんな被造物にも劣らず、もっとも正しく、もっとも寛大で、もっとも愛に富んでいると、断言してはばからない。ある人が言ったように、マリアは一個の卵をもらえば、一頭の牛を返す人である。つまり、マリアに与えたものはどんなに小さくても、マリアは、神から受けた計りがたいほどたくさんのものを返してくださるのである。だから、ある人が、自分の霊魂を無条件で与えれば、マリアは、ご自分を無条件で、その人にくださるのである。それは、その人が自信とうぬぼれを投げ捨て、徳を得、欲望を抑えるために、絶対にマリアに信頼して、真剣な努力をする、という条件のもとにである。 

182 ここに、聖なるマリアの忠実なしもべたちは、ダマスコの聖ヨハネと共に、こう言い切ることができるだろう。「神のおん母よ、あなたに希望して、私は救われるでしょう。あなたの保護があれば、私は恐れないでしょう。あなたの助けがあれば、私は敵を敗走させるでしょう。なぜなら、あなたへの信心は、神が救おうと望んでおられる人々に神が与えられる武器だからです」。