聖母マリアへのまことの信心③聖母マリアに対するまことの信心

2019年9月28日

第3章 聖母マリアに対するまことの信心 

90 以上述べた五つの真理を土台にして、これから、聖母マリアへのまことの信心をより出さなければならない。このごろ特に、聖母への偽りの信心が横行しているのは嘆かわしいことである。にせ金造りの悪魔、ずる賢い詐欺師の悪魔は、聖母マリアに対する偽りの信心を使って、どれほど多くの霊魂を迷わせ、亡ぼしたことであろうか?また、今も、毎日、一人でも多くの霊魂を亡ぼそうとして、その悪魔的な経験を駆使している。どういう方法で、悪魔は人間を亡ぼそうとするのであろうか?それは口先だけの祈りや、外部的な信心業でも、霊魂を楽しませ、罪の上に伏させるという方法である。にせ金つくりは、金貨や銀貨のにせ金はつくるが、その他の金のにせ金は、あまり作らないようである。黄金や銀ほどの値打ちが、他の金にはないからである。悪魔の方法も、それとよく似ていて、特にイエズスとマリアへの信心、ご聖体に対する信心などの真似をさせようとする。これらの信心こそ、他の数多い信心に比べて、実に黄金と銀との値打ちがあるからである。 

91 それで、次の事柄を知ってほしい。 
①それを避けるために、聖母への偽りの信心を知り、それを行うために、まことの信心を知る必要がある。
②まことの信心の中でも、どれを実行すれば、聖母からもっとも喜ばれるか、どれが聖母の一番のお望みで、一番完全なものであるか、またどれが、一番神の栄光のためになり、私たちの聖徳のためになるのかを知らなければならない。 

(1)マリアに対する偽りの信心 

92 私は、聖母に対する偽りの信心家と信心業とを、七つに分類してよいと思う。すなわち、①批判的信心、②小心な信心、③外部的な信心、④不遜な信心、⑤根気のない信心、⑥偽善的信心、⑦利己的信心 、である。

(1)批判的信心 

93 批判的な信心家も、何らかの聖母への信心は持っている。しかし、単純な素朴な人々が、敬虔をもって行う聖母への信心業のほとんどを、自分たちの気に入らないという理由で、批判し、非難する傲慢な知識人や自己陶酔に浸っている人々の信心を、私は、批判的信心と名づける。彼らは、修道会の年代記や、信じるべき文献などに載せられている、聖母のお力とあわれみとを証明する奇跡や伝説を、頭から疑ってかかる。単純な信心深い人々が、聖母の祭壇やご絵の前で、あるいは道かどにあるマリアのご像やご絵の前などでひざまずいて祈るのを見ると、まるで、木や石を礼拝する偶像崇拝者のように、彼らは、毒々しく非難するのである。彼らは、そういう外部的な、うわべだけの信心を好まず、そして、聖母の行ったことだと言われる子供だましのおとぎ話や、伝説や奇跡を信じるほど、自分たちは弱い者ではないと豪語している。もし彼らに、教父たちが、聖母をどのように讃えたかを告げるとすれば、彼らは、それは教父たちの修辞的な誇張であると言うに違いない。 

(2)小心な信心 

94 この人々は、聖母をあまり尊ぶと、おん子に対して不敬に当たるのではないか、聖母を称えることは、御子を蔑むことになるのではないかと恐れる人々で、これを、小心な信心家と呼ぶ。彼らは、聖なる教父たちが聖母マリアに捧げた、ごく当たり前の称賛を、今の信者が同じように捧げるのを我慢できない。また、ご聖体の祭壇の前よりも聖母の祭壇の前に信者が集まることを喜ばない。それは、おん子とおん母とが対立しているような考え方である。聖母に祈れば、イエズス・キリストをないがしろにするのだと、彼らは考えるのである。そして、聖母を称賛し、聖母に依り頼もうとすることをよくないとする。彼らは、口をそろえて、次のように言っている。これほどたくさんの聖母信心会や、ロザリオ会や、その他聖母への信心業が行われているのは、人々が無学だからである。そういうことをすれば、私たちの宗教が笑いものになるばかりである。イエズス・キリストへの信心業についてだけ話せばよい。イエズスは、人間の唯一の仲介者であるのだから。また、イエズス・キリストについてのみ説教せよ、これだけが本当の信心であるのだからと。なるほど、彼らが言うのも、ある意味では真実である。しかし、彼らの言葉がそれ以外の何かを含んでいるとすれば、つまり、彼らの言葉が、聖母への信心を妨害するものであれば、そこには、鋭い悪魔の爪が潜んでいると考えなければならない。なぜなら、聖母を尊べば尊ぶほど、イエズス・キリストは、尊ばれるからである。聖母を尊ぶのは、より完全にイエズス・キリストを尊ぶためである。つまり、聖母を尊ぶのは、終点であるイエズス・キリストに至るよりよい道に出るためである。 

95 聖なるカトリック教会は、聖霊と共に、「あなたは女のうちに祝せられています」と、まずマリアを祝し、次にイエズス・キリストを祝する。それは、言うまでもなく、聖母がイエズス・キリストより高いもの、あるいはイエズス・キリストと平等なものというわけではない。より完全にイエズス・キリストを祝するために、まずマリアを祝さないといけないからである。よって私たちは、この小心な偽善家に対して、まことの信心家と共に言おう。「おお、マリアよ、あなたは女のうちに祝せられ、ご胎内のおん子イエズスも祝せられます」 

(3)外部的信心 

96 これは、聖母に対する信心が、外部的な行いにあると称する人々の信心である。彼らは、内部的な精神を持っていないから、聖母への信心でも、その外部だけしか知ろうとしないのである。したがって、彼らは、大急ぎでロザリオを唱え、気を散らしながら、ミサや行列にあずかり、生活を直そうとか、欲望を抑制しようとか、聖母の徳をまねようなどとは全然考えずに、数多いいくつかの信心会に入会する。彼らは、感情的な信心を好んで、その着実な方面に目を向けようとはしないのである。そういうふうであるから、自分の行っている信心業から何も感激を受けなくなると、すぐ飽きて、信心をやめるか、あるいは冷淡になってしまう。まことにこの世は、こういう悲しむべき信心家に満たされていると言ってもよい。そして、外部的慎みをおろそかにせず、しかも自ら内部的信心を行う祈りの人々に対して、彼らほど批判家はないのである。 

(4)不遜な信心 

97 欲望の流れるままに任せ、世俗の泥にまみれる不遜な信心家は、キリスト信者という、あるいは聖母への信心という美名のもとに、傲慢、貪欲、不品行、暴飲、憤怒、悪口、不正を隠している。彼らは、聖母を信心していると称しながら、一向に悪癖を直そうとせず、罪の中にころがっている。そしてまた、自分たちは後悔せずに死ぬことはあるまいから、神のゆるしを受けるであろう。ロザリオを唱え、土曜日には断食し、ロザリオやスカプラリオの信心会に入って、聖母のメダイを身に着けているのだから、地獄に落とされることはないであろうと安心して生きているのである。それは悪魔の迷わしである、あるいは、それは、あなたを亡ぼす危険な不遜な考え方だと言っても、彼らは信じようとしない。そしてこう言うだろう。神はあわれみ深いお方であって、私たちを亡ぼすために私たち人間を創ったのではない。およそ人間として生まれて罪を犯さない者はいない。私たちは死ぬ前に、きっと後悔して赦されて死ぬ、死が近いと知ったら痛悔すればよいのだ、などと言うだろう。さらにまた、こう言うに違いない。私たちは聖母を信心していて、スカプラリオを身に着けている。毎日へりくだって真心から聖母を敬い、七回主祷文と天使祝詞を唱え、時にはロザリオを唱え、小聖務日課を唱え、断食することもある、と。彼らは、自分たちの言い分を強調するために、嘘か本当かわからない次のような話を持ち出すこともある。その話とは、こうである。告解せずに、大罪を抱いて死んだある人があったが、生きている時に、聖母に対してある信心業を行ったから、告解するために、奇跡的によみがえった。あるいは、告解が終わるまで、奇跡的に体の中に霊魂が宿っていた。あるいはまた、聖母のあわれみによって死の間際に神から痛悔と罪の赦しの恵みを受けた、というのである。そして、自分たちも、そういうふうに救われるであろうと希望をかけている。 

98 キリスト教では、この不遜な信心家ほど、悪辣な、非難すべきものはないと言ってもよかろう。彼らは、自分たちの日々の罪によっておん子イエズス・キリストをあわれみなく鞭打ち、突き刺し、十字架につけているのに、なおかつ、のめのめと、聖母を信心している、愛していると言えるであろうか?もしマリアが御あわれみをもってそういう人間を救うとしたら、マリアは、罪を助けておん子をないがしろにし、再び十字架にかけるのを手伝うのと同じである。どうしてそういうことが考えられようか? 

99 ご聖体に対する信心に次いで、もっとも完全な聖なる信心を、彼らのように乱用することは、汚聖的な聖体拝領に次ぐゆるされない罪であると、私は思うのである。私は、聖母に対するまことの信心を持つために、どんな罪を避けるほどに、—もちろん、これは最も望ましいことであるが—聖人でなくてはならないということではない。しかし、少なくとも—これから私が言うことを、よく注意して聞いて欲しい。 

  • 第一に、おん母とおん子に侮辱を与えることになるすべての大罪を極力避けようという真実な決心を持たなければならない。 
  • 第二に、罪を避けようと努力しなければならない。 
  • 第三に、何かの信心会に入会して、ロザリオを唱え、その他の祈りを唱え、土曜日には断食をするなどしなければならない。 

100 これは、頑固な罪人のためにも、非常に有益な信心である。この本の読者の中に、もし、片足を地獄に突っ込んでいるような罪人があるとしても、私は、その人にも、この信心業を行うことをすすめる。しかし、それは、聖母の取り次ぎによって、神から、罪の痛悔と赦しと、そして悪にうち勝つ恵みとを願うためであって、決して良心の呵責を黙らせ、イエズス・キリストとその聖人たちとの模範に倣うことなく、罪の状態に安閑と休むためではない。 

(5)根気のない信心 

101 根気のない信心家とは、気ままに、聖母への信心を行う人をいうのである。彼らは、時には熱心で、時には冷淡である。時には聖母のためにどんなこともしようと奮い立つが、少し日がたつと、けろりとその決心を忘れている。聖母に対するどんな信心でも歓迎し、いろいろな信心会に入会するが、入って後、その規則を忠実に守ろうとはしない。月のように決心が変わるこういう人々を、聖母は決して喜ばれない。移り気な人間は、聖母のしもべの数に加えられる値打ちはないのである。聖母のしもべは、忠実と根気強さを特徴とするからである。たくさんの祈りや信心業を、口先だけでしないで、世間と悪魔と肉欲とに手向かって、いくつかの少ない祈りを、愛と忠実をもって唱える方が何倍かよいことである。 

(6)偽善的な信心 

102 もう一つ、偽りの信心家とは、他人の目に善く見られたいために、自分の罪と悪行とを、よいおん母マリアのマントの下に隠そうとする偽善的な信心家である。 

(7)利己的な信心 

103 最後に利己的信心家がある。彼らは、訴訟に勝ちたいから、危険を避けたいから、病気が治りたいから、あるいはそれと同じような何かの恵みを受けたいために、聖母に信心をする。その理由がなくなれば、聖母を忘れてしまうのである。 

以上述べたのは、偽りの信心であって、これらは、決して、神とおん母マリアとのみ前に、受け入れられないのである。 

104 では、あなたは、何も信じないで、何でも非難する批判的な信心家の一人にならないように。イエズス・キリストを思いはかって聖母をあまり信心してはならないという小心な信心家の一人にならないように。外部的な信心だけに重点をおく信心家の一人にならないように。聖母への信心という口実に隠れて、罪を改めようとしない不遜な信心家の一人にならないように、移り気に信心業を変え、ちょっと障害があるとすぐ信心を捨ててしまうような根気のない信心家にならないように。善人と言われたいために信心会に入って、聖母の礼服で外だけを飾る偽善的な信心家にならないように。また最後に、病気を治してもらいたいとか、その他物質的な利益を得たいためにだけ聖母を信心する利己的な信心家にならないように、十分に警戒しなければならない。 

(2)聖母に対するまことの信心の特長 

105 マリアに対する偽りの信心を調べて後、真の信心とは何かを、簡単に述べてみよう。まことの信心とは、①内面的な、②愛情のこもった、③聖なる、④根気強い、⑤利己的でない信心でないといけない。 

(1)内的な信心 

106 聖母に対するまことの信心は、内的であって、精神と心とから湧き出るものである。聖母をいかに高く評価するか、いかにその偉大さを崇めるか、いかに愛を持つかは、すべてそこから出る。 

(2)愛情のこもった信心 

107 この信心は、母に対する子供のような愛情と依頼に満ちたものでなければならない。もしそうなら、肉体的に精神的に何か必要なとき、単純と信用と愛情とをもってマリアに依り頼み、どんなことでも、どんな時でも、どんな所でも、このよい母の助けを願い求めることができる。疑いを晴らし、迷いを直し、誘惑のときに助け、弱さを強め、過失を反省し、失望を力づけ、小心を抜け出し、苦労を慰めるこのおん母は、彼らの体と精神との苦しみの時に、いつも変りなく彼らの依り頼みである。だから、マリアを煩わせるのではないかとか、あるいは、イエズス・キリストのお気に入らないのではないかとかを、彼らは決して恐れないのである。 

(3)聖なる信心 

108 聖母マリアへのまことの信心は、「聖なるもの」であって、霊魂に、罪を避けさせ、聖母の徳をまねさせるのである。つまり、聖母の深い謙遜、生き生きとした信仰、盲目的な従順、不断の祈り、例外なき節制、神々しいばかりの清さ、燃えるような愛徳、英雄的な忍耐、天使的なやさしさ、至上の知恵とを、まねさせようとする。以上あげたのは、聖母の主な十の徳である。 

(4)根気強い信心 

109 聖母に対するまことの信心は、根気強いものでなければならない。それは、霊魂の善を強め、信心を捨てないように導き、世間の風潮に抵抗し、肉体の煩いと欲望とを抑え、悪魔の誘いを退けさせる。だから、本当に聖母を信心する者は、決して、移り気、小心、臆病ではない。この霊魂も、時には、過失を犯すことがあり、また時には、信心の感情に揺らぎを覚えることがあろう。しかし、どんな時にも、聖母に手を伸ばして立ち上がり、信心の喜びがなくなって乾燥状態になっても決して心配しない。マリアの忠実なまことの信心家は、決して自分の感情で生きるのではなく、イエズスとマリアとの信仰によって生きるのである。 

(5)利己的でない信心 

110 最後に、聖母に対するまことの信心は、利己的なものであってはならない。まことの信心は、自分を求めるのではなく、ただおん母マリアにおいて神のみを求めるように、霊魂を指導する。この信心をする人が、女王マリアに奉仕するのは、儲けや功利のためでなく、時間的な永遠的な、あるいは肉体的な精神的なある善のためでもなく、ひとえに、マリアが、そしてマリアを通して神だけが、奉仕に値すると考えるからである。彼らがマリアを愛するのは、何か恵みを受けたいとか、あるいは受けるかもしれないからというのではなく、ただ、愛すべきお方であるから愛するのである。したがって、乾燥状態の時も、感情的な熱心にあふれている時と同様に、マリアに奉仕し、カルワリオの上でも、カナの婚礼のときと同様に、マリアを愛する。聖母に奉仕することだけで、自分を少しも求めようとしないこういう信心家は、神のみ前に、どんなに喜ばれることであろうか。残念ながら、そういう信心家は、この頃非常に少ないように思われる。私が宣教の間に、公に私的に教えて効果のあったこの信心について、改めてペンをとって書き出したのは、そういう信仰が、一人でも多くなってほしいからに他ならない。 

(6)この完全な信心についての預言 

111 聖なるおん母マリアについて、今までにも大分話してきたが、マリアを本当に信心する、イエズス・キリストの弟子の、一人でも多くの役に立ちたいために、まだ言いたいことがある。私は、学も乏しく、余裕の時間も持っていないから、それ以上のことは書かないが。 

112 おお、もしこの小さな本が、「血統ではなく、肉体の意志ではなく、人の意志ではなく」、ただ神とマリアによって生まれたよい霊魂の手に入り、霊魂の恵みによって、私が述べようとするこの信心の優秀さと価値とが理解されるなら、私のペンは、報いを得たと言うべきであろう。私の愛するおん母、いと気高い女王をうやまって、私が、今書こうとする真理が、人々の心にしみ入るために、もし必要とあれば、私は、インキの代わりに自分の血を使っても悔いないだろう。私は、忘恩と不忠実をもって、このよいおん母に損害をおかけしたけれど、私のこの信心の本を読んで、忠実にマリアを崇め愛するよい霊魂が出るなら、何らかの償いとなるであろう。 

113 かなり以前から、神に切に願っていることであるが、聖母が今よりももっと愛の奴隷を数多く持ち、それによって、イエズス・キリストが、いっそう王として覇権を持たれることを、私はより強く信じ、希望しているのである。 

114 この小さな本と、聖霊がこの本を書くためにお使いになった人間とを、悪魔の牙で噛み裂くために、野獣が荒れ狂ってやって来るのを、私は知っている。また、それ程まででなくとも、少なくとも、この小さな本が世に出ないように、棚の奥に閉じ込めようとするであろうことも、私は知っている。また彼らは、この本を読み、これを実行する人々をも、迫害するだろう。しかし、そんなことは、どうでもよい。いや、むしろありがたいことである。それを考えると、私は勇気を奮い起される。そして、大成功をおさめるに違いないと確信する。つまり、来たりつつある嘆かわしい危険な時代に逆らい、世間と悪魔と、腐敗した肉体とに打ち勝つ、イエズスとマリアとの強力な大軍団が立つであろうことを期待できるのである。 「読む人は悟れ」。「理解できるものは、理解せよ」。

(3)聖母に対するまことの信心のためにどんな信心業を選ぶべきか 

A 内的な信心業 

115 聖母に対する内的なまことの信心業は、たくさんあるが、その主なものは次の通りである。 

  1. 神のおん母として、また、どんな聖人にもまさる恵みの傑作として、また、まことの人間、まことの神であるイエズス・キリストに次ぐ尊いお方として、聖なるマリアを敬い、褒めたたえること。 
  2. 聖母の聖徳、特権、行いを黙想すること。 
  3. その偉大さを仰ぐこと。 
  4. 聖母に対して、愛と称賛と感謝の心を行いに表すこと。 
  5. 心から聖母に祈ること。 
  6. 聖母に自分を捧げ、一致すること。 
  7. どんな行いでも、聖母をお喜ばせするためにすること。 
  8. 聖母によって、聖母において、聖母と共に、聖母のために、すべての行いを始め、続け、終わること。それは、その行いを、イエズス・キリストによって、イエズス・キリストにおいて、イエズス・キリストと共に、また、私たちの最終目的であるイエズス・キリストのために行うことである。この8番目の信心については、後で詳しく述べるつもりである。 

B 外部的信心業 

116 聖母に対するまことの信心には、また外部的な業もたくさんある。そのうち、主なものは次の通りである。 

  1. 聖母の信心会に入会すること。 
  2. 聖母を敬うため創立された修道会に入ること。
  3. 公に聖母を称賛すること。 
  4. 聖母を崇めるために、施し、断食など、精神と身体の苦業を行うこと。 
  5. ロザリオ、スカプラリオなどを、身につけること。 
  6. イエズス・キリストの15の奥義を称え、15連のロザリオを唱えること。あるいは、お告げ、訪問、ご誕生、奉献、神殿での発見という5つの喜びの玄義を称えてロザリオ5連、ゲッセマニのお苦しみ、鞭打ち、いばらの冠、十字架を担われる、十字架上でのご死去という5つの苦しみの奥義を称えてロザリオ5連、ご復活、ご昇天、聖霊降臨、聖母被昇天(肉霊共に)、聖三位一体の三つのペルソナによる戴冠という5つの光栄の奥義を称えてロザリオ5連などを唱えること。また聖母がこの世に生きられた年齢を尊んで、6連あるいは7連のコンタツを唱えることもある。また、12の星の冠、つまり12の特権を称えて、”天にまします”を3回、”めでたし”を12回からなる小さなロザリオを唱えることもある。また、全カトリック教会で、一般に唱える聖母の「小聖務日課」、聖ボナヴェントーラの手による愛と敬虔に満ちた「小詩編集」、聖母の14のお喜びを称えるために、”天にまします”を14回と、”めでたし”14回を唱えることもある。その他、サルヴェ・レジナ(聖霊降臨後節)、アルマ・レデムプトリス(待降節)、アヴェ・レジナ・チェロルム(復活節)など、また季節によって、レジナ・チェリ(復活節)、あるいは、アヴェ・マリス・ステラ、オ・グロリオザ・ドミナ、聖母賛歌マニフィカトなどの祈りや讃美歌を唱えることもある。(巻末の付録を参照) 
  7. 聖母を称える讃美歌を自分も歌い、人にも歌わせること。 
  8. 聖母を通じて神から、今日一日、み旨に忠実である恵みを頂くために、「めでたしマリア、忠実なおとめよ」と唱えながら、60度、あるいは100度、ひざまずくこと。また、夜になって、今日一日犯した罪の赦しを、マリアを通じて神に願うために、「めでたしマリア、あわれみのおん母よ」と唱えること。 
  9. 聖母の信心会のために働き、その祭壇を飾りつけ、そのご絵を飾ること。 
  10. 聖母のご絵、ご像を行列をして持ち、または持たせること、また、身につけること、悪魔に対する強力な武器として。 
  11. 聖母のご絵またはみ名を大きく書いて、聖堂、家、門などにかかげること。 
  12. 特別な荘厳な方法で自分を聖母に捧げること。 

117 聖霊が聖なる人々にすすめる信心で、非常に完徳に役立つこれ以外の業も、まだたくさんある。イエズス会のポール・バリ神父が著した「フィラジャに開かれた天国」という本には、そういう信心業がたくさん載せられている。それらの信心業は、霊魂を徳のほうに歩ませるために非常に役立つものであるが、実行するためには、次のような注意が必要である。 

  1. 神に喜ばれたい、最終目的であるイエズス・キリストと一致したい、隣人を善に導きたいという真実な意向をもって、 
  2. 意識して放心しない、注意を込めて、 
  3. 早くもなく、遅すぎもせず、敬虔に、 
  4. 慎みと尊敬とを表す模範的な態度をもって、以上の信心を行わなければならない。 

C もっとも霊魂を聖化する信心 

118 最後に、私は、聖母に対する信心を扱っているほとんどの書物を読み、最近、もっとも徳も学問もあると言われる人々と親しく交わったのであるが、その結果、私がここに記そうとする聖母への信心業について、次のように断言して、はばからないのである。つまり、私がのべる聖母に対する信心ほど、神のために霊魂の犠牲を要求し、自我を捨てさせ、恵みに富ませ、完全にイエズス・キリストと一致させ、神の光栄となり、霊魂を聖化し、隣人にとっても有益な信心はない、と言い切ることができる。 

D 徳から徳へ、恵みから恵みへ 

119 この信心の中核は、内的に存在するものであるから、誰もが、同じように理解できるわけでない。その外部だけに止まって、それ以上を出ない人々がほとんどであろう。少数の人が、その内部に入っても、一段しか昇れないであろう。二段目に昇る人は誰か?三段目に昇る人は?そしてその内部にいつも止まる人は誰か?それは、イエズス・キリストによって、その秘密を教えられる人々だけである。忠実な霊魂を、徳から徳へ、恵みから恵みへ昇らせるために、イエズス・キリストご自身で導かれる。やがてその霊魂は、イエズス・キリストにおいて変化させられ、地上におけるキリストの「完全な背丈」と、天におけるその栄光の充満とに到達させられるであろう。