聖母マリアへのまことの信心②聖母マリアに対する信心とは何か

2019年10月9日

第2章 聖母マリアに対する信心とは何か 

基礎的真理 

60 今まで私は、聖母マリアに対する信心がなぜ必要かについて卑見を述べてきたが、これから、その信心とはどんなことかについて、述べ進みたいと思う。神のおん助けを借りて、私は、この偉大な信心の前提ともいうべき基礎的真理を、まず考えてみたいと思う。 

(1)第一の真理―マリアへの信心の最終目的は、イエズス・キリストである 

61 まことの神であり、まことの人間である私たちの救い主イエズス・キリストは、あらゆる信心の最終目的である。そうでない信心は誤った信心であり、人を惑わすものである。イエズス・キリストは、すべてのものの「アルファ」であり、「オメガ」である。すべてのものの始まりであり、終わりである。使徒パウロが言っているとおり、私たちが働いているのは、すべての人々を、イエズス・キリストにおいて完全なものにしようとするためである。つまり、イエズス・キリストだけに欠けるところなき神性、欠けるところなき恵み、聖徳、完全さがあるのである。私たちは、イエズス・キリストによって、霊的に祝福された。私たちを教え導く唯一の先生はイエズスであり、私たちが従うべき唯一の主はイエズスであり、私たちが一致すべき唯一の頭はイエズスであり、私たちが模範とすべき唯一の手本はイエズスであり、私たちがついて行く唯一の道はイエズスであり、私たちを養う唯一の牧者はイエズスであり、私たちを治す唯一の医者はイエズスであり、私たちが信じるべき唯一の真理はイエズスであり、私たちを生かす唯一の生命はイエズスである。つまり私たちを満足させる唯一の「完全なもの」は、イエズス・キリストである。私たちが救われるのは、イエズス・キリストのみ名以外のなにものでもない。私たちの救い、私たちの完徳、私たちの栄光の土台として、神は、イエズス・キリスト以外のものを置かれなかった。イエズス・キリストという岩の上に立っていない建物は、砂の上に立てたようなもので、遅かれ早かれ、倒壊してしまうであろう。ぶどうの木であるイエズスに、しっかりとついていない枝は、すぐ枯れ落ちて、火に投げ込まれるであろう。イエズス・キリスト以外のものはすべて、迷いであり、虚偽であり、罪悪であり、無駄なものであり、死と滅びとである。だが、私たちが、イエズス・キリストによりたのみ、イエズス・キリストが私たちのうちにおいでになるなら、私たちは、恐れも亡びもない。天の天使たちも、地上の人間も、地獄の悪魔も、他のどんなものも、私たちを傷つけることはできない。なぜなら、イエズス・キリストにある神の愛から、私たちを離せるものはないからである。イエズス・キリストと共に、イエズス・キリストにおいて、イエズス・キリストによって、私たちはどんなことでも出来るのである。つまり、聖霊と一致して、おん父に栄光と名誉を招き、私たち自身を完成させ、隣人に対しては、永遠の生命の香りを感じさせることができる。だから、聖なるおとめに対する信心を深めることは、イエズス・キリストに対する信心をもっと完全にするための、イエズス・キリストを見つけるための一番確かな、やさしい手段を見つけることに他ならない。マリアへの信心が、私たちの心をイエズス・キリストから引き離すことになれば、それは、悪魔の迷いに違いない。しかし、先にも言ったとおり、また、これから述べるとおり、決してそんなことはない。だから、イエズス・キリストを見出し、心から愛し、忠実に仕えるためには、どうしても、おん母への信心が必要である。 

63 ここで私は、おお、愛するイエズスよ、あなたの方をふり仰いで、キリスト信者のほとんどが、学問のある者もない者も、あなたとあなたのおん母との間に、どれほど深い結びつきがあるかをよく理解していないという点について、心から嘆きたいのです。主よ、あなたはいつもマリアと共にあり、おん母はいつもあなたと共におられます。あなたなしにはあり得ないのです。ですから、おん母は、もう、マリアという存在は生きていないと言えるほどに、恵みによって、あなたご自身に変化しておられるのです。おお、私のイエズスよ、どんな天使よりも、どんな聖人よりも、おん母の中において、より完全に生き、治められるのは、あなたです。ああ、もし、この美しいおん母によって、あなたがどれほどの愛と栄光とを受けておられるかを知ったら、きっと世の人々も考え直すでしょう。太陽から光を引き離し、火から熱を取るほうがもっと容易であろうと思われるほどに、聖母は、あなたと強く一致しておられます。いや、それどころではなく、すべての天使と聖人とをあなたから引き離すほうが、マリアお一人を引き離すよりも容易でしょう。マリアこそは、どんな被造物よりも熱くあなたを愛し、誰よりもよく、あなたに栄光を帰しておられるからです。 

64 こう考えてくると、愛する私の主よ、この世の人々が、あなたの聖なるおん母に対して、これほどに無知であると知るのは、嘆かわしく、驚くべきことではありませんか。と言っても、私は今、あなたを知らないからおん母をも知ろうとしない、偶像崇拝者や異教徒を相手にしているのではありません。また、あなたと、そしてあなたの聖なる教会から離れて、自然に、おん母をないがしろにする異端者や離教者について話しているのでもありません。私が、誰について話しているかと言えば、カトリック信徒たち、いやそればかりではなく、人々に真理を教えることを恥としているカトリックの教師たちについてです。これらの人々は、冷たい理論と、血も熱もない冷淡さでしか、あなたとあなたのおん母のことを考えようとはしません。聖なるあなたのおん母と、そのおん母に対する信心について、あまり話そうとしません。それはなぜかと言うと、おん母をあまり尊ぶことは、あなたへの侮辱になると、彼らは言うのです。そうでしょうか?聖なるおん母を深く信心しているある人が、この信心は、迷いのない確実な手段だ、危険のない近道だ、完全に清い道だ、キリストへの愛に至る不思議な神秘だ、と見事に証明したとします。すると、先にいった人々は、その信心家をけなし、聖母に対する信心について、そういうふうに話してはいけない、それは迷いになりやすい、むしろその信心を弱めるように努めて、人々をイエズスだけ向けさせなければならないと申します。彼らも、時々は、あなたのおん母について話しますが、それはその信心をすすめるためではないのです。彼らは、マリアへの信心を持っていないから、当然、あなたへの信心も持っていないわけです。ですから、ロザリオとか、スカプラリオとかは、無学者か老婆の信心の道具であって、救いのために必ずしも必要なものではないと申します。聖母を信心している人が堕落するようなことがあると、これ見よと言わんばかりに、聖母への信心をやめて、七つの詩編を唱えよとか、イエズス・キリストへの信心をせよなどとすすめます。おお、愛するイエズスよ、この人たちが、本当にあなたの精神を持っていると言えるでしょうか?彼らのこのやり方は、あなたをお喜ばせするものでしょうか?あなたのお気に入らないのではないかと恐れて、あなたのおん母のお気に入るように努力しないことが、果たしてよいことでしょうか?おん母への信心が、あなたへの信心を妨げるでしょうか?おん母への尊敬は、おん母のためだけのものでしょうか?聖母のお気に入るように努めることは、あなたのお気に召さないでしょうか。聖母に自分を捧げて、マリアを愛することが、あなたへの愛から遠ざかることになるのでしょうか? 

65 それなのに、愛する主よ、学者と言われる多くの人は、私が今言ったことを肯定するかのように、人々を、聖母への信心から引き離そうと熱を入れています。それは、彼らの傲慢の罰ではなくて何でありましょう。主よ、彼らのそういう考え方から、私を守ってください。そして、私があなたを模範とし、あなたに従えば従うほど、あなたを愛し、あなたの栄光のために働くことができますように、私を守ってください。あなたが、あなたのおん母に対して抱いておられる感謝と尊敬と愛の気持ちを、私たちにも分けてください。 

66 また、私のつたない手を導き、「聖なるおん母にふさわしい尊敬と称賛とを捧げられるように恵みを与えてください」。私も、聖人たちと共に、こう唱えましょう。「聖なるおん母を侮辱する者は、神のあわれみを願う資格がない」。 

67 あなたのあわれみによって、おん母に対するまことの信心を受け、それを地上にあまねく広められるように、あなたへの熱烈な愛を与えてください。聖アウグスティヌスをはじめ、あなたの真の友人たちと共に捧げる私のこのあつい祈りを、どうぞ聞き入れてください。「イエズス・キリストよ、あなたは聖なる父であり、あわれみ深い神であり、偉大なる王です。また私のよい牧者であり、唯一の恩師であり、もっともよい助力者です。また、私の生きるパンであり、永遠の司祭であり、この上なく美しいものであり、み国への導き手であり、まことの光であり、聖なる甘美さです。そしてまた、私の曲がることのない道であり、比類ない上智であり、汚れない単純さであり、なごやかな調和です。あなたこそは、私の保護者であり、私の永遠の救いです。ああ、イエズス・キリスト、愛する主よ、なぜ私は、神であるイエズス以外の何ものかを望もうとしたのでしょうか?私の心があなたから離れていたとき、私は一体どこにいたのでしょうか?私の希望よ、今より後は、主イエズス・キリストに向かって猛然と流れ込め。遅れていることに気づいた今、一心に走れ、目標に向かって急げ、探しているものを探し出せ。イエズスよ、あなたを愛さない者は破門されよ。あなたを愛さない者は、苦しみで満たされよ。…おお、限りなくやさしいイエズスよ、あなたの栄光のために身を捧げた心が、あなたを見出し、あなたにおいて楽しみを見つけ、あなたをほめ称えますように。私の心の主であり、私の賜物であるイエズス・キリストよ、私の心が失われ、その代わりに、あなたが私の中で生きてくださいますように。私の心に、あなたへの愛に燃える火が起こり、それが、心の祭壇に、絶え間なく燃え盛り、私の心を焼き、霊魂の奥底を燃えさせ、やがて、私の死の日に、あなたへの愛の火に燃え尽くされたものとして、あなたのみ前に現れることができますように。アーメン。 

(2)第2の真理—私たちは、イエズス・キリストとマリアのものである 

68 私たちにとって、イエズス・キリストは何に当たるかという観点から見れば、使徒パウロが言っているように、私たちは、私たち自身のものではなく、まったくイエズス・キリストのものである。無限に高価な値でもって、つまり、ご自分のおん血をもって、キリストに贖われた肢体として、そして奴隷として、私たちは、イエズスのものである。私たちは、洗礼の前には、サタンの奴隷であった。洗礼を受けてのち、イエズス・キリストの奴隷となった。だから私たちは、この「神であり人である」お方のために実を結ぶように。イエズスのために生き、働き、死ななければならない。また私たちの体において、イエズスが栄光を受けられるように努め、「イエズス」を私たちの心の王としなければならない。私たちは、イエズス・キリストに征服されたものであり、選ばれたものであり、遺産を継ぐべきものだからである。このために、聖霊は、 

  1. 恵みの水にそって教会の畑に植えられ、時が来ては実を結ぶ木に、 
  2. イエズス・キリストという木についていて、よいぶどうの実を結ぶ枝に、 
  3. イエズス・キリストに牧され、養われ、数を増やす羊の群れに、 
  4. 神に種をまかれ、あるいは百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍の実を結ぶよい地に、私たちをなぞらえられたのである


イエズス・キリストは実を結ばないいちじくの木を呪い、預けられたタレントを増やさなかった役立たずのしもべを罰せられた。つまり、イエズス・キリストは、貧しい私たちも、何かの実を得ようと望まれるのである。その実とは、善業である。と言っても、この善業は、ただ、イエズスのみのものでなければならない。「私たちは、神が予め備えられた善に励むよう、キリスト・イエズスによって新たにつくられた者である」。聖霊のこのみ言葉が私たちに教えることは、イエズス・キリストこそ、私たちの善業の唯一の原因であり、目的であること、また私たちは、使用人としてではなく、愛の奴隷として、イエズスに奉仕しなければならないこと、これである。今言ったことをもう少し説明しよう。 

69 この世では、他人の権威に従属するために、二つの様式がある。一つは普通の使用人、しもべであり、もう一つは奴隷である。ある人は使用人であり、ある人は奴隷である。使用人というのは、ある期間、ある賃金で、あるいは、ある報酬を得て、ある人に仕えると契約した人である。奴隷は、一生涯、完全にある人のものになってしまうのであって、賃金や報酬を要求できない。主人は、その生殺与奪権を持っている。家畜となんら変わるところはない。 

70 奴隷の中にも、三種類ある。本来の奴隷と、強制的奴隷と、自発的奴隷との三つである。本来の奴隷という点から見れば、被造物はすべて、主のもの、神の奴隷である。「地とそこにあるもの、世とそこに住むもの、すべて主のもの」。悪魔と亡ぶべき霊魂とは、強制的奴隷であり、義人と聖人とは、自発的奴隷として神に従属する。自発的奴隷は、もっとも完全なものであって、神に栄光を招くことができる。なぜもっとも完全なものであるかというと、その人は、それが本来の義務ではないにも関わらず、すべてのものに超えて、神と神への奉仕を選ぶからである。神は心を見、心に要求されるもので、心の神、あるいは、愛をもつ意志の神と呼ばれている。 

71 しもべと奴隷とは全く異なるものである。 

  1. しもべは、自分自身、自分の所有するもの、自分あるいは他人によって自分が取得するもの、それらを全部主人に与える義務はない。ところが奴隷は自分自身、自分の所有するもの、自分が収得するもの、それらを全部主人に与えなければならない。 
  2. しもべは、主人への奉仕に対して、その報酬を要求することができる。しかし、奴隷は、どんなに勤勉に、どんなに巧妙に、どんなに精力を使って働いたとしても、その報酬を要求することができない。 
  3. しもべは、望みのままに、いや少なくとも仕事の期間が終わったら、主人のところを去ることができる。しかし、奴隷には、望みのままに主人のもとを去る権利がない。 
  4. しもべに対して、主人には生殺与奪権がないから、もししもべを殺したとすれば、その罰を受けなければならない。しかし、奴隷の主人には、法律によって、奴隷の生殺与奪権が与えられているから、馬や牛のように奴隷を売っても殺してもかまわないことになっている。 
  5. しもべがある主人に仕えるときには、期間を契約するが、奴隷は、そうではない。 

72 人間の世界では、一人の人間を他の人間の所有物にするため、奴隷制度以上の制度はない。キリスト教の世界でも、絶対的にイエズス・キリストと聖なるおん母のものになるために、自発的奴隷となる以上の方法はない。私たちを愛するあまり「奴隷の姿をとった」イエズス・キリストは、そのよい模範である。また、聖なるおん母も、「主のはしため」「主の奴隷女」と、ご自分のことを呼んでおられる。使徒パウロは、喜びと誇りをもって、自分から「キリストの奴隷」と名乗った。また聖書はキリスト信者を「キリストの奴隷」としばしば呼んでいる。「しもべ」という言葉は、ある学者が言っているように、昔は「奴隷」の意味だけに用いられていた。昔は、使用人と言えば、奴隷のことで、現在のような形の使用人や働き人ではなかったからである。トレント公会議のとき、キリスト信者がイエズス・キリストの奴隷であることを、無条件に明瞭に認めて、「キリストの奴隷」と呼んだ。 

73 私たちは、使用人としてではなく、愛の奴隷であることの喜びと誇りをもって、イエズス・キリストに奉仕しなければならない。洗礼の前、私たちは、悪魔の奴隷であったが、それが洗礼によって、イエズス・キリストの奴隷となった。つまり、キリスト信者は、キリストの奴隷か、そうでなければ、悪魔の奴隷である。 

74 イエズス・キリストについて、今までに絶対的な表現を使って述べてきたことは、相関的に、聖母についても言えることである。イエズス・キリストは、そのご生活とご死去と、栄光とおん力との、分かち難い協同者として、聖母マリアを選ばれたのである。そのために、イエズスが本性として持っておられるすべての特権と権力とは、恵みによって、マリアにも与えられたのである。「本性として神が持つものは、恵みによってマリアにもある」と、聖人たちも言っている。これによって、神とマリアとは、同じしもべ、同じ奴隷を持っているわけである。 

75 それで、聖人たちと、多くの権威ある学者たちの意見に従えば、より完全にイエズス・キリストの奴隷となるためには、聖なるおん母マリアの、愛の奴隷とならなければならない。おとめ聖母マリアは、主イエズス・キリストが私たちにお下りになるためにお使いになった手段である。したがって私たちは、イエズス・キリストに至るために、マリアを通してしなければならない。他の被造物の場合、それに愛着すると、神に近づくよりもむしろ遠ざけるようなものがあるが、マリアはそうではない。そればかりではなく、マリアのもっとも強烈な望みは、私たちを、おん子イエズス・キリストに近づけたいことである。また、おん子のもっとも強い望みは聖なる御母を通して、私たちをご自分に近づけたいことである。それはちょうど、女王のより良い奴隷となることが王の喜びとなり、名誉ともなるのと同じである。そのために、聖なる教父たちの意見についで、聖ボナヴェントーラも、聖なるおとめは、私たち主に行き着くための道であると言った。「マリアに近づくことは、キリストに行き着く道である」。 

76 先に言った通り、マリアが天地の女王であり、聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルディーノ、聖ボナヴェントーラなどが言うように、「見よ、すべては神の支配にある、おん母も。見よ、すべてはおん母の支配にある、神も」と言うことが出来るなら、マリアのしもべは、この世の被造物と同数であろう。これほど数多い強制奴隷の中に、女王であるマリアへの愛の奴隷となる善意の人々があるのは、当然ではなかろうか。人間にも悪魔にも、自発的な奴隷があると言うのに、マリアにないわけなかろう。この世の王様は、妃である女王に奴隷があることを喜び、女王の名誉と権力とを自分の名誉とし、権力とする。そして、私たちの主がご自分の権力をおん母に分け与えたのなら、マリアが奴隷を持つのを喜ばないわけはなかろう。アスエロ王は自分の王妃エステルを尊び、ソロモンはベツァベアを尊敬したが、主イエズス・キリストがそれ以上の尊敬と愛とを、おん母に対してお持ちにならないわけがあろうか。そんなことを誰が言えるだろう、だれが考えることすらできるだろう。 

77 私は何を言おうとしているのだ。これほど明らかなことを、証明しようとするだろうか。自分はマリアの奴隷と言いたくないなら、言わなくてもよかろう。自分は、イエズス・キリストの奴隷と名乗れば、つまりマリアの奴隷でもある。実にイエズスは、マリアの果実であり、栄光である。私がこれから話す信心を行えば、完全に、イエズスの奴隷となれるのである。 

(3)第3の真理—私たちは、自分の持っている悪い傾きを脱ぎ取らねばならない 

78 私たちが、よいと考える行いさえも、普通は、私たちの心底にある悪いものによって、汚され、濁らされている。清い水であっても、それを、汚れた容器に入れたり、すえたぶどう酒の残っている瓶に新しいぶどう酒を入れたりすると、悪い臭いがついてしまって、なかなか取れない。それと同様なことであるが、私たちの霊魂の器は、原罪と自罪とで濁らされているので、その中に、神の恵みや、香しい天の朝露や甘露な愛のぶどう酒が注ぎ入れられても、普通は、濁らされて、汚されてしまうのである。つまり、私たちの好意は、どんな高尚なものであっても、その汚れがついている。それで、イエズス・キリストの一致によって完成される完徳に至るためには、私たちの奥底にあるその悪を拭い取らなければならない。そうしないと、私たちの霊魂にある見えないほどの汚点でも嫌われる主は、私たちをみ前から追い払い、私たちと一致してくださらないであろう。 

79 自分の汚れを拭い取るためには、次のようにしなければならない。
①私たちの奥底にある悪いもの、善を行うに当たって、私たちがいかに無能であるかということ、私たちの弱さ、根気のなさ、恵みを受ける資格がないことなどを、恵みの光に照らされて、よくよく知らなければならない。パンだねによって、パンが苦くされ、ふくらされ、変質するように、私たちは、太祖アダムの罪によって、汚され、苦くされ、ふくらされ、変質させられたのである。また、私たち自身が犯した大罪小罪によっても、たとえそれがすでに許されているものであっても、私たちの欲望と、根気なさと、腐敗とを強め、拭い難い汚れた残骸を残したのである。私たちの体は、聖霊によって、「罪の体」と呼ばれた程に汚れたものである。この体は、罪の中にはらまれ、罪の中に養われ、行えるのは罪だけである。病気に責められ、日々腐敗しつつ、疥癬や虫を生じさせている。私たちの体に合わせられている霊魂も、「肉体」と呼ばれる程に肉体的なものに堕した。「すべての肉が地上で堕落した生活をしていた」。私たちの持っているものと言えば、精神の傲慢と盲目、心の頑固さ、霊魂の弱さと根気のなさ、体の肉欲と病気である。私たちの自然の傾向を見ると、私たちは、クジャクよりも傲慢、ガマよりも地上に執着し、牡山羊よりも下劣、蛇よりも恨み深く、豚よりも貪食、虎よりも荒々しく、亀よりも怠惰、葦よりも弱く、風見よりもふらふらしている。つまり、私たちの中には、罪と虚無だけがある。私たちは、神の怒りと永遠の地獄に値するものである。 

80 主イエズス・キリストは、「自分の命を愛する人はそれを失い、この世でその命をにくむ人は、永遠の命のために、それを保つだろう」と仰せられた。先に言ったことを考え合わせると、イエズスのこのみ言葉も、よく理解できるであろう。理由のない掟を与えないこの至上の上知(イエズス・キリスト)が、私たちに、自分を憎めとおおせられたのは、自分が憎みに値するからである。愛する価値があるのは、神お一人であり、憎みにふさわしいのは、私たち人間である。 

81 ②自分を脱ぎ捨てるためには、日々、自分に死ななければならない。つまり、私たち自身の霊魂の働きと、体の機能の働きとを制御し、見ても見えないように、聞いても聞かないように、この世のものを利用していても、まったく利用していないようにしなければならない。このことを、聖パウロは「日々死ぬ」と言っている。麦の粒も、地に落ちて死なないなら、ただ一つのまま残る残るという。だから、私たちの信心も、この死を経なければ、実を結ばず、無益なものであろう。そして私たちの善業は、勝手気ままな意志と、自愛心とによって汚されるであろう。そうなれば、神は、私たちの払うどんな大きな犠牲も、私たちの行うどんなよい善業も、受け入れられないであろう。そのままに死ねば、私たちは、功徳の何一つない空の手と、純粋な愛の炎を持たない心を持って、神のみ前に出なければならないであろう。「その命は、キリストと共に神の中に隠されている」。つまり、自分自身を殺した霊魂にだけ、その愛の炎は分け与えられるのである。 

82 ③聖なるマリアに対する数多い信心の中で、もっとも完全で、もっとも良いものは、先に言った意味の「死」に、私たちを導くものでなければならない。光り輝くものは何でも黄金であり、甘いものは何でも蜜であり、行い易くて誰でも行っているものが、完全な信心業だと考えてはならない。何かをする場合に、時間を短く、費用を少なく、そして容易に完成させる秘訣があるように、恵みの世界においても、自分を捨て、自分を神で満たし、完徳に至るために、短期間で行える恵みの秘訣がある。私がこれから述べようとする信心は、キリスト信者の大部分がまだ知らないもので、ごく少数の信心家が実行している恵みの秘訣の一つである。この信心を発見し、そしてよく味わうために、先に第4の真理を説明しよう。 

(4)第4の真理—仲介者イエズス・キリストに至るためには、もう一人の仲介者が必要である。 

83 仲介者なしに、直接神に近寄るのをひかえるのは、謙遜なことである。先に言った通り、私たちの心の奥底は腐敗しているのだから、私たちだけの業をもってしては、とうてい神に受け入れられる値打ちがない。神が、そのみ前に出る仲介者を定められたのには、それ相当の理由があったはずである。私たちをあわれまれた神は、ご自分のあわれみにふさわしい者とならせるために、権力ある仲介者を、人間のために定められた。その仲介者をないがしろにして、その推薦を退けて、至高の座に近寄ろうというのは、明らかに謙遜の不足であり、神への崇拝の不足である。この世の王であってさえも、その前に出るには適当な取り次ぎ者がいるのであるから、まして「王の王」のみ前に出るには、そうでなければ不敬の罪に当たるであろう。 

84 主イエズス・キリストは、いと高き神のみ前にあって、私たちの弁護者であり、救いの仲介者である。私たちは、「勝利の教会」と「戦う教会」と共に、イエズス・キリストを通して祈らなければならない。私たちが、至高者のみ前に立つことができるのは、イエズスによってである。イエズス・キリストの功徳によりかかり、その功徳を着て、至高者のみ前に立てるのである。若いヤコブは、父イサクの祝福を受けるために、子山羊の皮を着て出なければならなかった。 

85 しかし、私たちにとっては、この取り次ぎ者イエズス・キリストのみ前に立つのに、もう一人の取り次ぎ者を必要とするのではなかろうか?私たちは、直接イエズス・キリストのみ前に立てるほどに清いものであろうか?イエズスは、万事においておん父と平等な神ではないのか?とすれば、おん父と同様に尊敬しなければならない至聖なるお方ではないか?イエズス・キリストが、その無限の愛徳によって、おん父の怒りをなだめ、人間の負債を支払うあがない者となり仲介者となったとしても、それだからといって、イエズスをおん父よりも畏敬しなくてよいというわけではない。では、私たちを、聖ベルナルドと共に、仲介者イエズスに対して、私たちには、もう一人の仲介者が必要であり、その愛徳の役目を果たすには、マリアが最も適切であると断言しよう。イエズス・キリストは、マリアを通してこの世に下ったのであるから、私たちがイエズス・キリストに達するにも、やはりマリアを通してでなければならない。イエズス・キリストの無限の偉大さを考え、私たち自身の卑小さを顧みて、直接イエズスに向かうのを恐れるなら、私たちは、聖母の取り次ぎを乞い願おう。マリアには、近寄りがたい程に厳しい所も、目がくらむばかりに輝かしい所もない。私たちは、罪に汚れない以前の人間を、マリアにおいて見つける。マリアは、私たちの目が弱く、その光が強いために、目を見えなくさせる程の太陽ではない。太陽の光線を受けて、私たちの弱さ、小ささに相応しいようにその光を和らげる、月のように美しく、やさしい。愛に富むマリアは、取り次ぎを願う者を、一人として退けることはない。聖人たちも言っている通り、この世が始まって以来、委ねる心と忍耐強さをもってマリアにより頼んだ人々の中で、その願いを聞き届けられなかった者はないのである。また、マリアの願いは、いつも神のみ前に聞き届けられる。おん子のみ前に立ちさえすれば、イエズス・キリストは、すぐにマリアの願いを入れられる。イエズス・キリストは、愛する母の願いに、すぐに負けてしまわれるのである。 

86 今まで書いてきたのは、聖ベルナルドと、聖ボナヴェントーラとの言葉である。彼らは、神に上るために、私たちには三段階があると言う。その第一段階は、私たちにもっとも身近く、私たちの能力にもっともふさわしいマリアであり、第二段階は、イエズス・キリストであり、第三段階は、おん父である神である。イエズス・キリストに届くためには、取り次ぎ者マリアを通さなければならない。永遠のおん父に上るためには、私たちの救いの仲介者であるイエズス・キリストを通さなければならない。私たちが後に述べる信心業は、正確に、今言った順序を踏んでいるのである。 

(5)第5の真理—神の恵みと宝を保つことは難しい 

87 私たちは、まことに弱く、まことに面白い者であって、せっかく神から受けた恵みと宝とを、長く自分の中に保つことは非常に難しい。 
①天地にも勝るこの宝を、どこに持っているかと言えば、人間という壊れやすい器の中である。「私たちは、この宝を陶器の器の中に持っている」。変わりやすく、落胆しやすく、壊れやすい霊魂と、腐敗する体の中に持っているのである。 

88 ②ずる賢いサタンは、その宝を私たちから盗み取ろうとして、狙いを定めて飛び掛かってくる。サタンは昼夜を問わず、一刻も目を離さずに私たちを狙っている。一瞬間の大罪で、長年蓄えた恵みと功徳とをすっかり奪い取ろうとして、私たちの周りを回っているのがサタンである。私たちよりも、経験もあり、恵みもある何人かの人々がこのずる賢い悪魔に突然襲われ、その不幸な餌食となったことを考えて、力を尽くして警戒しなければならない。ああ、レバノンの糸杉と空の星とが、一瞬にしてその高さとその美しさを失ったことは幾度あったろうか?この堕落は何のためであろう?それは、人間皆が分け与えられている恵みが足りなかったからではない。謙遜が足りなかったのである。彼らは、実際以上に、自分たちの力を過信し、自分で、その宝を守ることが出来ると自信を持っていた。彼らは、自分自身により頼み、自分自身を信頼した。恵みの貴重な宝を守るために、自分の家は充分安全で、自分の金庫は充分にしっかりしていると考えた。表面だけ見れば、神の恵みに信頼しているように見えたけれども、実際は、そういう自信にふくらんでいたので、正義である神は彼らの思い通りに振るまわせ、彼らが宝を盗まれるのを打ち捨てて置かれたのである。ああ、もし彼らが、私が次に述べる信心業を知っていたら、自分の宝を全部聖母のおん手にまかせたであろう。そして聖母は、その宝を自分のもののように、力強く守ってくださったであろう。 

89 ③世間は腐敗しているから、恵みを維持することは、大変むつかしいことである。こういう世の中に生きていると、信心のある人でも、いくらかその塵をかぶらないではいられないとさえ言える程である。こういう激流の中にあって押し流されず、こういう嵐の大海の中にあって難船せず、また海賊の難に会わず、こういう不潔な空気の中にあって毒されないでいるのは、一種の奇跡だと言ってもよい。快く誠意をもって自分に奉仕する人間に、こういう奇跡を与えるのは、蛇にかまれたことのない唯一の人、かのおとめマリアである。