聖母マリアへのまことの信心①聖母マリアに対する信心の必要性

2019年10月9日

序 聖母マリアの偉大さ 

1 イエズス・キリストがこの世に来られたのは、比類なく清いおん母マリアによってであったが、またイエズス・キリストがこの世を支配されるのも、御母マリアによってである。 

2 マリアは、いつも、隠れて生活された。そのために、聖霊は教会を通じて、マリアのことをアルマ・マーテル(Alma mater)、隠れたおん母と呼んでいる。神以外のどんな被造物にも知られたくないと望んだほどに、マリアの謙遜は深かった。 

3 隠れていたい、貧しくありたい、謙遜でありたいというマリアの望みを聞き入れて、神は、イエズスのご誕生とご生活との奥義、ご復活とご昇天などに当たって、いつも、マリアを表に立てないように計らわれた。他人はもちろん、親類の者さえ、マリアのことを知らなかった。天使たちも、「あのお方は誰だろう?」、と尋ねあっていた。「いと高きもの」は、天使たちにさえも、マリアのことを隠されたからである。いや、いくらかは、知らせられたとしても、隠されている部分とは比較にならない程、少しのことしか知らせなかったのである。 

4 父である神は、聖母が、その生活の間に、奇跡を…少なくとも皆に知れわたるような奇跡を…行わないでいることを、お望みになった。奇跡を行う能力は、十分にお与えになったとしても。おん子である神は、聖母が、公にはほとんど話さないでいることを、お望みになった。ご自分の上智を、おん母に分け与えておいでになったとしても。聖霊である神は、使徒や福音史家が、イエズス・キリストを知らせるために、必要最小限度の事柄しか聖母について話さないようにと、お望みになった。聖母は、聖霊の、欠けるところのない花嫁であったとしても。「いと高きもの」の傑作であるマリアを、完全に知りそして所有するのは、ご自分おひとりであった。 

5 マリアは、おん子の、たたえるべきおん母であった。おん子は、おん母の謙遜を受け入れられ、マリアの生活を、小さな隠れたものとして残し、ご自分の心の中では、どんな天使よりも、どんな人間よりも愛し尊んでおられたにもかかわらず、他人のように「婦人よ」と呼ばれた。「封じられた泉」であったマリアに入ることができるものは、その配偶者である聖霊だけである。マリアは、聖なる三位一体の神殿であり、いこいの場である。ケルビムとセラフィムの上に座する玉座よりも、宇宙の中で、おごそかに壮麗に、神がお住まいになる所は、そのマリアである。どんなに清い人間でも、被造物である限りは、そこに入ることができない。 

6 聖人たちにならって、私も言いたい。聖霊は、神々しいマリアの中において、人間の理解しえない感嘆すべき業を行われた。そしてマリアは、人となられた新しいアダム(イエズス)の、地上の天国となった。また、マリアは、筆舌に尽くしえない美と宝とを持つ神の偉大な宇宙である。また、マリアは「いと高きもの」の壮麗さを示すものである。神は、ご自分のふところにおさめるように、マリアのふところにおんひとり子を入れ、そのおんひとり子の中に、ありとあらゆるものの中で最も尊いもの、最もすぐれたものを、おさめられた。おお、いかに神秘にみちた偉大な業を、神は、このマリアに行われたことであろうか。謙遜なマリアでさえも、「全能のお方がわたしに偉大なことをなさった」と、賛美しなければならなかった。この世は、その偉大さを理解することが出来ないし、また、それを知らされる値打ちがないのである。 

7 神の「聖なる町」マリアについて、聖人たちが話すときには、他のどんなことについて話すときよりも、深い喜びと、わきあがる雄弁とを感じたという。神の玉座までのぼるマリアの功徳の高さは視界をこえ、この世よりも広いその愛徳の幅は尺度を超え、神ご自身さえも動かすその力の偉大さは理解を越え、その恵みと深さは、人間の測量をゆるさない深淵であると、聖人たちは語っている。おお、視界をこえる高さ、おお、はかりがたい広さ。おお、言い尽くせない偉大さ、おお、探りえないその深さよ。 

8 地上の、この果てからあの果てまで天の高みから地獄の深みまで、日々絶え間なく万物は皆、感嘆すべきマリアについて語り、宣言する。天使の九級をはじめ、性別、年齢、宗教、善悪を問わずあらゆる人間は、いや、悪魔たちまで、言いたい言いたくないにかかわらず、真理の力によって、「マリアよ、祝されたものよ」と叫ばないではいられない。天国の天使たちは、たえずマリアを称えつづけていると、聖ボナヴェントゥーラは言っている。「神のおん母、おとめマリア、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」。そして、たえまなく、「めでたしマリア」と祝詞をおくり、マリアの前にひれ伏して、自分たちが何かお役に立つ光栄はないか、と願い続けている。また、天使の九級のかしらである聖ミカエルさえも、マリアに尊敬をあらわそうと一番熱心につとめており、聖母の命令一つで、すぐに、聖母への信心をもつしもべたちにでも奉仕する名誉はないかと待ちのぞんでいると、聖アウグスティヌスは語っている。 

9 この世の国々も、聖母の光栄にみち満ちている。特にキリスト信者の国ではそうである。聖母を、保護者、弁護者として仰ぐ国、州、教区、町は数知れず、聖母の名のもとに祝別された大聖堂も枚挙にいとまがない程である。「聖堂は、聖母に祭壇をささげ、どんな恵みでも受けるという奇跡のご絵は、ひろく全世界にゆきわたっている。おびただしい信心会は、聖母の名をいただき、数知れない修道会は、聖母の保護のもとにある。また、信者会の兄弟姉妹、修道会の修道女たちは、日々聖母をほめたたえ、そのあわれみを告げ知らせる。幼児は、まだ口が、まわらない頃から、たどたどしくアヴェ・マリアをとなえ、罪人はその固い心の奥底に、聖母への信頼を宿し、地獄の悪魔さえも、マリアをおそれ尊んでいる。 

10 わたしたちも、聖人たちと共に言いたい。「マリアについて言い尽くすことはない」。今までは、マリアは、十分には、あがめられ、尊ばれ、称賛され、愛され、奉仕されていない。マリアは、もっと称賛され、もっと尊敬され、もっと愛され、もっと奉仕されなければならない。 

11 また、私たちは、聖霊と共に、こう言いたい。「王の娘の光栄はすべて内面にある」と。天地が争って捧げようとする外部的な栄光、名誉は、内部から、創造主から受けたもの、小さな被造物には、神である「王の秘密」の中に立ち入ることが出来ないその光栄に比べれば、無に等しいと言ってよいだろう。 

12 また、わたしたちは、使徒と共に、こう言いたい。マリアの美しさと偉大さ、恵みの奇跡を、「人間の目は見ず、耳は聞かず、心は悟りえなかった」。ある聖人はこう言っている。「もし、おん母を理解しようとするなら、そのおん子を理解せよ。マリアは、神であるおん子にふさわしい母である。ここに至って、すべての口は、だまるように」と。 

13 神のおん母が、今まであまり知られていなかったこと、それは、イエズス・キリストが、当然知られなければならない程にも知られていないという理由の一つであることを、皆に理解してもらおうとして、わたしは今から、非常な喜びと励ましを得て、それを記そうとしている。もし、…いや、確実なことなのだが…イエズス・キリストが、よりよく人々に知られ、そのみ国が、この世に広まったなら、それは、イエズス・キリストを、はじめてこの世に送り出し、そして再び「おん子」に光栄を帰させる至聖なるおとめおん母マリアが、より広く知られるようになったからに違いない。 

第一章 聖母マリアに対する信心の必要性 

14 全教会が宣言しているとおり、マリアは「いと高きもの」のおん手につくり出された単なる被造物にすぎないのであるから、無限全能である神と比較すれば、とるに足りない原子アトムよりも小さなものであり、むしろ無と言ってもよい程のものである。つまり唯一の全き存在、「在るものであるお方」は、ただ神おひとりである。したがって、神は、自ら存在するものであり、完全そのものであって、ご自分の思し召しを実行し、ご自分の栄光をあらわすために、聖なるおとめをお使いになる必要は少しもなかった。神は、その望みのままに、どんなことでもお出来になるのである。 

15 だが、それでも、私はこう宣言するだろう。み摂理の計画がそうであって、神が聖なるおとめを、ご自分の大事業に協力させ、全うさせることをお望みになったとすれば、その計画は、決して変わらないであろう。なぜなら、神は、ご自分の考え、ご自分の行動を、決して変えられないからである。 

第一節 ご托身の神秘とあがないの実現のために神はマリアを選ばれた 

16 おん父である神は、そのおんひとり子をこの世に送られたのは、マリアによってであった。太祖たちが、どれほど、嘆願の吐息をついても、旧約の預言者や聖人たちが、四千年という長い間、どんなに祈願をこめても、神のみ前に恵みをえて、イエズス・キリストを受けるにふさわしいものとされたのは、ただ、マリアひとりであった。聖アウグスティヌスが言っている通り、この世は、直接神のみ手から、おん子を受ける値打ちのないものであった。神は、マリアにおん子を宿らせ、マリアから、この世は、おん子を受けたのである。おん子である神は、わたしたち人間の救いのために、人間となられたが、それは、マリアにおいてマリアによってであった。聖霊である神は、マリアの中に、イエズス・キリストをお宿らせになった。しかしそれも、ご自分の宮廷の大臣を派遣して、マリアの承諾をえられてからであった。 

17 おん父である神は、おんひとり子と、その神秘体の肢体とも生む力をさずけるために、マリアに、生む力を分け与えられた。 

18 アダムが地上の楽園におかれたように、新しいアダムであるおん子は、おとめのふところに下られた。それは、マリアを受け入れ、マリアにかくれて、恵みの奇跡を行うためであった。人間となられた神は、このおとめの胎内に捕らえられることに自由を見出し、この小さなおとめに抱き運ばれることによって、おん自らの力を発揮し、ご自分とおん父との栄華を、地上のあらゆる被造物にかくし、ただマリアだけに示すことにおいて、ご自分の光栄をあらわされた。また、その懐胎、ご誕生、奉献、そして、ご死去までの30年のご生涯のあいだ、この愛するおとめである母に服従されることにおいて、神としての自存と光栄をお示しになった。その昔、アブラハムが神の思し召しを承諾したことによって、イサクがいけにえにされたのと同様に、マリアも、イエズスがご死去になるとき、同じいけにえとなったのである。神の服従という、ああ、感嘆すべき計りがたい奥義よ。人間となられたイエズスは、その片隅のご生活の間に行われた数知れない不思議を、ほとんど、私たちに知らせようとなさらなかった。しかし、その価値と無限の栄光とを、沈黙のままにおくに忍びず、福音書にその一端をお示しになったのである。イエズス・キリストが、30年の間、おん母に服従された事実は、大奇跡によって全人類を改心させること以上に、おん父である神に栄光を帰させることであった。私たちがこの模範に従ってマリアに服従するなら、本当に、どれほどの栄光を神に帰することになるだろう。 

19 イエズス・キリストのご生活をしらべると、イエズスが奇跡を始められたのは、マリアによってであったことを知るであろう。つまり、イエズスは、洗礼者ヨハネがエリザベットの胎内にあるとき、マリアの言葉を通じて、それを聖となさったのである。マリアが話しかけるやいなや、エリザベットの胎内にあったヨハネは聖なるものとされた。これは、最初の、そして最も偉大な恵みの奇跡であった。またカナの婚礼のときには、おん母の謙遜な願いを聞き入れて、水をぶどう酒に変えられた。これは、最初の自然に対する奇跡であった。マリアを通じて奇跡を始められたイエズスは、そのように、同じくマリアを通じて、世の終わりまで行いつづけられるであろう。 

20 神である聖霊は、神において他の神的位格を生み出さなかったのであるが、マリアを花嫁とし、マリアによって、「生むもの」となられた。聖霊が、人間となった神をお生みになられたのは、マリアと共に、マリアにおいて、マリアによってであった。世の終わりまで、日々たえることなく、救われる人々と、尊いかしらをいただく神秘体の「肢体」をお生みになるのも、またマリアによってである。そのために、ある霊魂の中に、ご自分と分かちえない愛する花嫁マリアが在ることを知られるなら、その霊魂の中にイエズスをつくり、また同時に、イエズスによってその霊魂を生み出すために、霊魂は、ますます活発に、ますます力強く働かれるのである。 

21 といっても、それは、聖霊が生む力をもっておられないから、聖母がそれを与えるという意味では決してない。聖霊は神であるから、いうまでもなく、おん父とおん子と同様に、生む力をもっておいでになる。つまり、聖霊は、ご自分おひとりでどんなことでもお出来になるにもかかわらず、聖なるおとめを通して働くことをお望みになり、マリアによって、イエズス・キリストと、その神秘体とをお生みになるのである。いかに霊的にすぐれ、いかに知者であっても、ここまで理解しつくすことのできない恵みの奥義とは、これを言うのである。 

第二節 神は人間を救うためにマリアの協力を望まれる 

22 三位一体の三つのペルソナが、ご托身のときに示された方法は、また、日々、不可見的に、カトリック教会に対して行われ、世の終わりまで、行い続けられるであろう。 

23 おん父である神は、すべての水を集めて、これを海と名づけ、すべての恵みを結合して、これをマリアと名づけられた。神は、この上なく貴い宝庫を持ち、この中に、美しいもの、輝かしいもの、貴いものをすべて、果ては、ご自分のおん子まで納められた。この宝庫というのは、聖人たちが「主の宝」と呼んでいるところの、マリアである。その宝庫から、私たち人間も、宝を分けられるのである。 

24 おん子である神は、ご自分のご生活とご死去とによって得たすべてのもの、無限の功徳と感嘆すべき善徳とを、おん母マリアに分け、おん父から受けた財産の管理者となさった。イエズス・キリストはマリアを通じて、ご自分の功徳を人間に与え、ご自分の善徳を分け、恵みを分配される。マリアこそは、イエズスが、豊かに、そして甘美に、ご自分のあわれみを通らせようとなさる運河であり、水道である。 

25 聖霊である神は、言い尽くしえない賜物を、忠実な自分の花嫁であるマリアに分け与え、ご自分が所有されるすべてのものの分配者として、マリアを置かれた。それゆえマリアは聖霊が望まれる人間に、お望みになる方法で、望まれるだけの賜物と恵みとを分配する。聖なるおとめのみ手を通らないで、人間に下る天の賜物はないのである。それが、神の思し召しである。その生涯を通して、深い謙遜に徹し、虚無の底まで自分をへりくだらせ、さげすみ、小さくしたマリアは、「いと高きもの」によって、これ程に富ませられ、上げられ、尊ばれたのである。これは、教会と聖なる教父たちの思想である。 

26 もし私が、現代の高慢な学者を相手にしているなら、以上のように簡単にかたづけることをしないで、聖書と教父たちとの言葉をかり、そのラテン語テキストをも引用し、そればかりではなく、プアレ神父の名著「聖なるおとめの三つの冠」から言葉をかりて、証拠を提示するだろう。しかし、私はそんな人々を相手にするつもりはない。むしろ、私がここで話かけているのは、一般の知識人よりも善意と信仰とをもち、より多くの功徳を受けて、もっと簡単に信じる単純な小さな人々である。だから、私は、単に真理を宣言するだけであって、読んでも分からないようなラテン語は、できるだけ避けたいと考えている。それでも、少しばかりは引用するが、長くはしない。(この訳本ではラテン語のことばをのせない)。では、先を続けよう。 

27 恵みは自然を完成し、天の栄光は恵みを完成するのである。したがって、私たちの主、イエズス・キリストは、今も、地上におられた時と同じく、マリアのおん子であり、どんな母よりもすぐれたそのおん母に対して、どんな子供よりも完全な子としての従順を持ち続けられるはずである。しかし、従順であるからと言って、イエズス・キリストに何らかの不完全さ、何らかの卑しさがあると考えるなら、それは、大きな間違いである。おん子は神であるから、マリアとおん子と比べれば、比較にならない程低いものである。だから、服従と言い、命令と言っても、この世の母親が、子供たちに命じるのと同等に考えてはならない。聖人たちを、神の思し召しに一致させる恵みと栄光とによって、マリアは、神と完全な一致に至っているのであるから、永遠不変な思し召しに反することは絶対に望まず、また求められない。だから、聖ベルナルド、聖ベルナルディーノ、聖ボナヴェントーラなどの聖人たちの本を読んで、天にあるもの、地にあるもの、至聖なる神までが、聖母に従われると書いてあるのを見たなら、それは、次のように解釈しなければならない。つまり、神は、聖母に、非常に大きな権力を与えられたので、マリアは、まるで、神と同じほどの権力を持つように思われる。また、聖母はつねに謙遜で、神の思し召しと完全に一致しておられるので、聖母の祈りと願いとは、いつも神に聞き届けられ、まるで命令と同じようである、という意味である。かつて、モーセは、イスラエル人に対する神の怒りを、自分の祈りでもってくい止め、神から、「祈りをやめよ、反逆の民に罰を下させよ」と、頼まれた程である。モーセですらそうなら、まして、神のふさわしいおん母である謙遜なマリアの祈りなら、天と地とのすべての天使と聖人たちの祈りと取り次ぎよりも、神のみ前に聞き入れられる値打ちがある。 

28 天国のマリアは、天使たちと聖人たちの上に、命令権をもっている。傲慢のために堕落した天使たちの空席を、聖人で満たすための権力と役目とを、神は、謙遜なマリアに与えられたのである。へりくだる者を高める「いと高きもの」の思し召しが、これであった。天も地も、地獄さえも謙遜なマリアに服従しなければならないと、神はお定めになった。神は、マリアを天地の女王と定め、ご自分の軍隊の長官、計ることのできない財宝の管理者、恵みの分配者、不思議を行うもの、人類のつぐないの者、人類の代願者、神の敵を敗走させるもの、神の偉大と勝利との協力者としてお置きになった。 

29 おん父である神は、マリアによって、世の終わりまで、ご自分の子らをつくろうと思し召される。そして「ヤコブに住まいを定めよ」とおおせられた。つまり、エサワによってかたどられている悪魔の子の中ではなく、ヤコブによってかたどられている神の子らの中に住めとおおせられた。 

30 人間には、誰にでも、父と母があるように、超自然的誕生においても、神であるおん父と、マリアというおん母とがまします。神のまことの子らは、父として神を、母としてマリアをあおいでいる。母としてマリアを持たない者は、父として神を持たない。聖なるマリアを憎み、あるいは軽蔑し、あるいは冷淡にあしらう悪人どもや異端者たちは、自分では、神は私たちの味方だとうぬぼれていても、真実には、父としての神を持っていない。彼らは、母としてマリアを持っていないからである。もし彼らが、母としてマリアを持っていたなら、きっと愛し、尊ぶはずである。よい子供たちが、自分に命を与えてくれた母を、愛し敬うのと同様に。異端者、邪説者、亡びるべき人々と、救われる人々との相違は、片方が、汚れなく尊いおとめの母を軽蔑し、あるいは冷淡に扱い、あるいは何かの理屈を並べて、その崇敬を減らそうと計るところにある。いかにも、それは当然なことで、おん父である神は、エサワの仲間である悪人の中に住めと、マリアにご命令になったことはないのである。 

31 おん子である神は、ご自分の愛するおん母を通じて、弟子たちをつくり、日々彼らの中に受肉しようとお望みになっておられる。彼はおん母に向かって「イスラエルの所有地に入れ」とおおせられたが、その意味は、次の通りである。神は地上のあらゆる国々と、善人も悪人もふくめたすべての人間とを、キリストにお与えになった。キリストは、よい人間を黄金の杖で指導し、悪人に鉄の棒で指図される。彼は、よい人々の父であり、弁護者であり、悪い人々の報復者であり、そしてすべての人間の審判者である。だが、おん母マリアは、イスラエルがその前表であった救われるべき人間を所有している。彼らのよい母として、彼らを生み、養い、育て、そして女王として彼らを守り、指導し、支配するのである。 

32 「この人も、あの人も、かの女から生まれた」と聖霊はおおせられた。ある教父の説明によれば、マリアにおいて生まれた最初の人は、神であり人間であるイエズス・キリストであり、第二に生まれたのは、神の子らでありマリアの養子であるよい人々である。人間のかしらであるイエズス・キリストがおん母マリアから生まれたとすれば、その肢体であるよい人々も、当然マリアにおいて生まれ出なければならない。肢体のない頭だけのものが生まれるはずはなく、また、頭のない肢体が生まれるはずもない。そういうものが生きれれば、完全な奇形物である。恵みの世界においても、頭と肢体とは、同じおん母から生まれる。神秘体の肢体の一つであって救われる人間が、イエズス・キリストという頭を生んだ母から生まれなかったなら、その人は、救われる人間ではなく、神秘体の肢体でもなく、ひとりの奇形児である。 

33 天と地が日々絶え間なく繰り返しているように、イエズス・キリストは、「ご胎内のおん子イエズスも祝福しておられます」と称えられているのであって、今もいつも、マリアのおん子である。だから、イエズスをもっている人々にとって、そのもっているイエズスは、マリアのおん子であり、マリアの業である。それで、彼は、次のように断言してよいだろう。「マリアに感謝いたします。私の中にあるお方は、あなたのおん子であり、あなたがなければ、私は、”このお方”を受けることができませんでした」と。そして、聖パウロよりも、もっともっと真実な意味で、次の言葉は、マリアにあてはめてよいだろう。「小さな子らよ、あなたたちのうちにキリストが形づくられるまで、私はまた生みの苦しみを受ける」。救われるべき人々は、神の子に一致するために、この世では、聖なるおん母の胎内にかくれ、守られ、養われ、育てられ、そして死んで後、…これが厳密な意味での誕生である…マリアによって栄光に生み出されるのであると、聖アウグスティヌスは言っている。おお、亡びる人には知らされず、救われる人々も深くは理解しがたい恵みの奥義よ。 

34 聖霊である神は、マリアによって、「選ばれた人々」を作ろうと思し召され、こうおおせられる。「栄光にみちた民に、根を張りなさい」と。「私の愛するもの、私の花嫁よ、あなたの徳の根を、選ばれた人たちの中に伸ばしなさい。そうすれば、彼らは、徳から徳へ、恵みから恵みへと成長するだろう。あなたが、最もすぐれた徳を実行しつつ地上に生きていたとき、私はそれを見て、どんなに喜んだことだろう。だから、あなたを天国に置きながら、同時にまた、もう一度地上であなたを見たいと思うほどである。それゆえ私は、選ばれた者の中に、あなたが再生されることを望む。あなたの不動の信仰、深い謙遜、たゆみない節制、すぐれた祈り、燃える愛徳、固い徳への望みなど、あなたの徳の根をすべて、彼らの中に見つけたいのである。あなたは、永遠に変わらぬ忠実な私の花嫁であり、常に清く、常に殖やすものである。あなたの信仰が、私に信じる者を与え、あなたの清さが、私に清い者を与え、あなたの”生む力”が選ばれたものの神殿となるものを私に与えることを望む」。 

35 マリアは、自分の徳の根をある霊魂に植え付けるとき、マリアだけが出来る感嘆すべき恵みの業を行う。マリアだけが、その清さ、その生む力において、二人とない栄えあるおとめだからである。マリアは、聖霊と共に、神人、つまり、神であって同時に人間であるお方、イエズス・キリストを生むという、最もすぐれた業を行った。そのためにまたマリアは、世の終わりにあらわれる最も偉大なものをつくるであろう。世の終わりの近くになって現れる大聖人は、マリアによって作られ、教育されるものであろう。なぜなら、聖霊と共に、もっとも大きな不思議を行うことが出来るのは、この不思議なおとめただ一人だからである。 

36 ある霊魂の中にマリアが住んでいるのを見つけると、その花婿である聖霊は、その霊魂に入り、豊かにご自分をお与えになる。この霊魂が、聖霊の花嫁マリアに場所をゆずればゆずるほど、聖霊も、ますます豊かにお下りになる。このごろ、聖霊が、霊魂の中に不思議を行いになることが少ないのは、ご自分の忠実な不可分的な花嫁マリアと一致する霊魂が少ないからである。不可分的な花嫁と私は言った。なぜなら、おん父とおん子との本質的な愛である聖霊は、選ばれたものの頭であるイエズスを、そしてまた、選ばれた者の中にイエズスを、マリアを通して生み出そうとなさって以来、マリアが常に忠実そのものであり、また、マリアがいつも豊かな産み育てる力に恵まれているからこそ、聖霊はマリアを棄てられることが出来なかったのである。 

第一の結果―心の女王マリア 

37 以上述べたことから、マリアは、「選ばれた人々の霊魂を支配する権力をうけた」と結論してよいだろう。おん父である神から命じられたように、マリアは、選ばれた霊魂のうちに住み、養い、その中にイエズス・キリストをつくり、徳の根を伸ばそうと働かれる。それは、「いと高きもの」から、霊魂に対する権利と支配権をうけてこそ初めて出来る業である。神の本性をもつおんひとり子に対しての権力をマリアに与えられた「いと高きもの」は、神の養子たちに対しても、その権力を与えられたのである。その権力は、体の上にだけではなく、霊魂にも及ぶのである。

38 マリアは恵みによって、天地の女王である。その本性と支配権とにおいて、イエズス・キリストが天地の王であると同時に。そして、イエズス・キリストの王国は、「神の国は、実に、あなたたちの中にある」とあるとおり、主として人間の霊魂に存在するものであるが、聖なるおとめであるみ国もまた、人間の霊魂にある。そのために、私たちは、聖人たちと共に、マリアを「心の女王」と呼ぶのである。 

第2の結果―人間がその目的に到達するためには、マリアが必要である 

39 神の思し召しに基づくものであるから、絶対的に必要だとは言えないにしても、神にとって聖なるマリアが必要であったとすれば、人間がその究極目的に達するためには、それ以上に聖母が必要であると言わなければならない。だから、マリアへの崇敬を、他の聖人たちへの崇敬と同等に取り扱ってはならない。聖母への信心は、何よりも第一に必要なことである。 

(1)聖母に対する信心は救いを得るために必要である。 

40 聖アウグスティヌス、エデッサの助祭聖エフレム、エルサレムの聖チリロ、コンスタンティノポリスの聖ゲルマヌス、ダマスコの聖ヨハネ、聖アンセルモ、聖ベルナルド、聖ベルナルディーノ、聖トマス・アクィナス、聖ボナヴェントゥーラなどの教父の思想に基づいて、学識と敬虔とに富むイエズス会のスワレス師、同じくルーベンの博士ユスト・リプシウス、その他の学者たちは、聖母への信心が、救いのために、ぜひとも必要なものであることを、明白に証明した。そして―エコランパディウスなどの異端者さえも、その意見であったが―聖なるおとめに対して崇敬と愛とを持たないのは、例外なく亡びるしるしである。その反対に、マリアに対して全面的な真実な信心を持つものは、確実に救われるしるしであると断言した。 

41 旧約聖書の前表も、新約聖書の言葉も、それを証明し、聖人たちの行いと言葉もそれを確認し、人間の理性と敬虔もそれを是認する。悪魔とその一味のものでさえ、真理の力に抗しきれずに、やむなくそれを告白する。聖なる教父たちと教会博士たちは、この真理を証明するために数多い断言をしたが、私はそれをたくさん集めたが、その文献の中からあまり長くならないように、目立っているただ一つだけ記しておこう。ダマスコの聖ヨハネの次の言葉である。「聖母に対する信心は、神が選ばれた人々にお与えになる救霊の武器である」と。 

42 この真理を証明するおびただしいエピソードの中で次の二つを記しておこう。
(A)アッシジの聖フランシスコの伝記の中にある。彼は脱魂状態にあって、天まで届く高い梯子を見た。その上端に、聖母が立っておられた。これによって彼は、天に行くために聖母を通してのぼらなければならないことを示されたのである。 

(B)もう一つは、聖ドミニコの伝記の中にある。彼がカルカソンという町の付近で、ロザリオの説教をしたときのことである。一人の異端者の霊魂を占領していた一万五千の悪霊が、偉大な慰めである聖母への信心について告白せよと、聖マリアから命じられて、仕方なくそれに従った。聖母への信心について悪魔が告白させられたこの誉め言葉を読むと、聖母に冷淡な人々さえも、喜びと感謝の涙をとどめえないであろう。 

(2)完徳に召されている者にとっては、特に必要である 

43 聖なるおとめのおん母に対する信心が、救いのために必要なら、特に完徳に召されている者にとっては、なおさら必要である。ある人が、聖母と一致してそのおん助けによりたのむなら、主イエズス・キリストと一致し、聖霊に対して完全な信仰を得るようになれると、私は思う。 

44 他の被造物の助けを借りないで、神に受け入れられたのは、マリアただお一人である。その後に神に受け入れられた者は、マリアの助けを借りたものであり、今後もそうであろう。大天使ガブリエルのあいさつを受けたとき、聖マリアは恵みに満ちあふれていた。また、聖霊の言い尽くし難いかげに覆われたとき、その恵みは満ちあふれるばかりとなった。その後、マリアは、この恵みを、日々ますます増加させたので、その莫大な恵みは、おそらく私たちの想像を許さない程のものである。そのために神は、マリアを、ご自分の財宝の管理者とし、ご自分の恵みの分配者とされた。それは、マリアが望む人間を高め、豊かにし、狭い天の門をくぐらせ、玉座と王笏と王冠とを分け与えようと思し召されたからである。イエズス・キリストは、常に、どこにあっても、マリアの果実であり、おん子である。マリアは、常にどこにあっても、生命の実をもつ木であり、おん母である。 

45 神はマリアだけに、神の愛の部屋(=神殿)に入る鍵を与え、完徳のもっとも神秘な道に入らせ、他の人もそこに導き入れる力を与えられた。敵の攻撃に会うこともなく、死を恐れることもなく、命と善悪を知る木の実を楽しく味わい、ほとばしる泉の水を心ゆくまで飲ませるために、不忠実だったエヴァの、あわれな子たちを、楽園に呼び入れられるのは、マリアだけである。いやむしろ、罪人のアダムとエヴァが追い出されたあの清らかな喜びの祝福のエデンは、マリア自身であると言ってよいだろう。マリアがご自分に呼び入れられるのは、聖人になさろうと望む人にだけである。 

46 聖ベルナルドの説明に基づき、聖霊のお言葉を借りて言えば、「民の中の大金持ち」は、世々にいつもそのみ顔を仰ぎ望むであろう、特に世の終わりが近づいたころには、大聖人、恵みと善徳に富む人々は、聖なるおとめに祈り、マリアを模範とし、力強い助け手として、マリアへの信心を強めようと努めるだろう。 

(3)世の終わりが近い頃に、マリアの信心は特に必要となる 

47 「それは、近い世の終わりに起こることであろう」と私は言った。「いと高きもの」は、聖なるマリアと共に、大聖人たちを起こすであろう。この大聖人たちはレバノンの糸杉のように、聖徳において、他の聖人たちを越えるであろう。ド・ランティが伝記を書いたある聖なる霊魂に啓示されたのも、それである。 

48 恵みと熱心に満ちたこの偉大な聖人たちは、八方に荒れ狂う神の敵を打ち破るために、神から選ばれた者である。彼らは、特に聖母に信仰を持ち、聖母の光に照らされ、その乳で養われ、その精神に指導され、そのおん腕に支えられ、そのご保護に守られる人々である。彼らは、一方の手で戦い、一方の手でうち建てるであろう。一方の手では、異端者とその異端、離教者とその離教、偶像崇拝者とその偶像、罪人とその罪とを倒し破壊するであろう。また、他方の手では、まことのソロモンの神殿と、神の神秘の町とを建設するであろう。つまり、それは、聖なるおん母のことである。教父たちは、マリアを、ソロモンの神殿、あるいは神の町と呼んでいる。彼は、自分たちの模範と言葉をもって、すべての人々を聖母への信心に導くであろう。そのために彼らには、おびただしい敵が刃向かってくるであろうが、また一方には神のために、計りがたい勝利と栄光がもたらされるであろう。それは、その時代の大使徒であった聖ヴィンチェソシオ・フェレーリに啓示されたことであり、彼がその著書に見事に書き残していることである。聖霊は、詩編にも、それを啓示しておられるようである。「ヤコブは神が治められると、皆に知らせよ、地の果てまで。彼らは、夕べに帰って、犬のようにうなり、町をかけ回る」。世の終わりが近い頃、改心するために、そして正義の飢えをみたすために人々が見つけるであろうこの町は、聖霊が「神の町」と呼ばれる聖なるおとめである。 

第3節 世の終わりにおけるマリアの特殊な役割 

49 世の救いは、マリアによって始まり、マリアによって完成されるのである。イエズス・キリストがはじめてこの世にお現われになったとき、おん母の姿がほとんど噂にのぼらなかったのは、おん子のことを充分に理解しない人間が、あまりに強く、あまりに無分別に、マリアに愛着することを、神が望まれなかったからである。マリアの表にも輝き出るその美しさに、人間があまりに激しく執着するおそれは充分にあった。アレオパゴスの聖ディオニジオは、「マリアを見たとき、その内的な魅力、その不思議なほどの美しさに打たれ、深い信仰が、そうでないと教えなかったら、一人の女神と間違えただろう」と書き記している程である。しかし、イエズス・キリストが再臨の時になれば、マリアも知られ、聖霊によって現わされるであろう。それは、マリアが知られることによって、イエズス・キリストが知られ、愛され、奉仕されるためである。聖霊が、ご自分の花嫁マリアを、その生涯片隅に隠し、福音の宣教に際しても、ほんのわずかしか現わさなかった理由は、もう存在しないからである。 

(1)マリアは啓示される 

50 ゆえに、神は、世の終わりに当たって、マリアを啓示し、ご自分のみ手の傑作であることを知らせられるであろう。その理由は、次の通りである。 

1・この世に生きておられた間、マリアは、塵よりも低くへりくだり、その謙遜によって、身を隠しておられた。また、神と、その使徒たちと、福音史家たちに、ご自分を公に知らせないようにと、お頼みになったかもしれない。 

2・地上においては恵みによって、天においてはその栄光によってマリアは実に、神のみ手の傑作である。そのため神は、この点において、人間から栄光を帰せられ、称賛されることを望まれる。 

3・マリアは、正義の太陽であるイエズス・キリストに先立つ暁の星である。ゆえに、イエズス・キリストがあまねく知られておられるように、マリアも知られなければならない。 

4 マリアは、イエズス・キリストが地上にお下りになられた道であるから、イエズス・キリストが再臨になられる時にも、違った方法であろうが、マリアを通して行われるであろう。 

5 マリアは、イエズス・キリストを完全に見つけるための確実な手段であり、汚れのない道であるから、聖徳を輝かせるべき聖なる霊魂たちは、マリアによって、イエズス・キリストを見つけなければならない。マリアを見出す者は、道を、つまりイエズス・キリストを見出すであろう。イエズス・キリストこそは、道であり、真理である。しかし、探さないなら、マリアを見出すことはできない。また、マリアを知らないなら、探そうとはしないだろう。知らない者は、探そうとも、求めようとも望まないからである。ゆえに、聖なる三位一体をより明らかに認識し、より大きな栄光を帰するために、さらによくマリアを知る必要がある。 

6・特に、この最後の時代においては、マリアのあわれみと恵みが輝くであろう。改心してカトリック教を信じなければならないあわれな罪人を導き、迎えるために、マリアのあわれみが必要である。約束と脅迫とで人々を迷わす偶像崇拝者、棄教者、回教信徒、ユダヤ人、改心を拒む罪人などの、神の敵に対して、マリアの大きな力が必要である。また、イエズス・キリストのために戦う勇敢な兵士と忠実なしもべとを鼓舞し、支持するために、とくにマリアは、恵みにおいて輝かなければならない。 

7・特にこの時代に、マリアは、サタンに対して戦闘準備を整えた軍隊のように、雄々しくあらねばならない。なぜなら、悪魔は、最後の悪あがきをするだろうからである。あらん限りの力をつくし、大迫害を引き起こし、特にマリアの忠実なしもべたちを目標に、打ってかかるだろうからである。 

(2)マリア方とサタン一味との戦い 

51 楽園において、神が蛇に向かって仰せられた最後の有名な預言と威嚇とは、反キリストの国を建てるまで日々ますますつのるサタンの残酷な迫害に対して、特に考え合わせなければならない言葉である。今ここに、その神のみ言葉を、聖なるおとめの栄光のために、聖母の子らの救いのために、悪魔の不名誉のために、説明する必要があろう。「お前とかの女の間に、またお前の子孫とかの女の子孫との間に、私は敵対を置こう、彼は、お前の頭を踏み砕き、お前は、彼のかかとをかむであろう」 

52 神が置かれた唯一の敵対は、最後の日まで止まることなく増大するものである。つまりそれは、聖なるおん母マリアと悪魔との、聖母のしもべたちとルチフェルの子らとの敵対である。つまり、神がつくられた最もおそろしい「悪魔の敵」は、神のおん母である。楽園の預言のとき、マリアは、まだ神のご計画の中に存在したにすぎなかったが、しかもその時からすでに、マリアの中に、神に呪われた敵に対する激しい憎悪と、蛇の悪意を見抜くするどい賢明と、この傲慢な不敬なものを踏み砕く絶大な力とを与えられていた。それで、悪魔は、すべての天使や人間はいうまでもなく、ある意味では神ご自身よりも、マリアを恐れている程である。といっても、もちろん、限りある被造物にすぎないマリアよりも、神のおん怒り、おん憎しみ、ご勢力は、想像を絶する強大なものである。それなのに、なぜ悪魔が、それほどにマリアを恐れるのかといえば、まず第一に、傲慢なサタンは、神の謙遜な小さなはしために負けて罰せられることを、神ご自身に負けるよりも辛く感じる。謙遜なマリアに負けることは、偉大な神の勢力に屈するよりも、サタンにとって恥辱である。神は、悪魔にうち勝つ絶大な力をマリアに与えられた。だから、悪魔は、しばしば悪魔つきの口を通して、真実を告白しなければならないことがあった。悪魔にとっては、聖人全部の祈りを一まとめにしたよりも、聖母の一つの嘆きや願いが恐ろしく、他のどんな苦しみよりも、聖母の一つの脅しのほうが恐ろしかった。 

53 ルチフェルが、その傲慢によって失ったものを、マリアは謙遜によって受け、エヴァが不従順によって失くしたものを、マリアは従順によって得た。蛇に服従したエヴァは、自分をはじめすべての子らを悪魔の手に渡してしまった。しかし、完全に神に忠実であったマリアは、ご自分のすべての子らを救い、彼らを、いと高き神に奉献したのである。 

54 神は、マリアと悪魔との間に敵対を置いたばかりでなく、マリアの末と悪魔の末との間にも敵対を置かれた。つまり、マリアの子らとの間には、反感と敵対と憎悪がある。ベリアルの子ら、サタンの奴隷たち、世間の友人(皆同じことだが)は、今でもそうであったように、これからもますます聖なるマリアの味方につく者を迫害するであろう。ちょうどその昔、カインが兄弟アベルを、エサワが兄弟のヤコブを迫害したと同様に。それは、救われる人々と、亡びる人々との前表である。しかし、マリアは常に勝つであろう。そして、傲慢の居住である敵の頭を踏み砕くであろう。マリアは、蛇のわなを見抜き、脅迫を未然に防ぎ、世の終わりまで、ご自分の忠実なしもべたちを、敵の残酷な足から守りぬくであろう。 

(3)世の終わりのときの使徒たち 

55 サタンがマリアの足のかかとに襲いかかるとき、つまり、悪魔に対抗するために謙遜なしもべたちを、マリアが起こして攻撃させるとき、マリアの権力は、特に明らかに、輝かしく発揮されるであろう。このしもべたちというのは、世間の目で見れば、もっとも小さく貧しい者であり、足のかかとのように皆に軽蔑されるものであり、踏まれ、迫害されるものである。しかし、天の目で見れば、マリアから分配される恵みに富むものである。彼らは、神のみ前に、徳に富む者であり、その熱心さのためにすべての人々の上に立つものであり、かかとのように謙遜であるために、マリアと一致して悪魔の頭を踏み砕き、イエズス・キリストの勝利に協力するものである。また、神は、その聖なるおん母が、もっとよく知られ、もっと愛され、今までよりも、もっと尊ばれることを、お望みになる。救われる人々が、聖霊の恵みと光とに導かれて、内的な完全な信心を行えば、必ず、神のそのお望みは達せられるであろう。信仰の深さに従って、彼らは、「海の星」であるマリアをよりはっきりと認め、その聖母の指導にまかせれば、嵐があっても、海賊が襲っても、無事に、目的の港に着くことができるであろう。そして、この女王の偉大さを知った彼らは、マリアの家来であり、愛のしもべであることを誇りとして、自分自身を捧げるであろう。マリアの母のような慈愛と甘美さとを知った彼らは、愛される子供の喜びをもって、マリアを愛するであろう。自分たちに、マリアのあわれみがどんなに必要であるかを知った彼らは、愛する弁護者として、イエズス・キリストへの取り次ぎ者として、マリアに信頼するであろう。イエズス・キリストに達するための、もっとも安全な、もっともやさしい、もっとも近い、もっとも安全な道がマリアであることを知った彼らは、イエズス・キリストのものとなるために、自分の霊魂と体とを、無条件でマリアに委託するであろう。ところで、このマリアの家来、マリアのしもべ、マリアの子らとは、何であろうか?それは、あちらこちらに神の愛の火を点じるものであり、神の敵を降伏させる力強いマリアの手から放たれる鋭い矢であり、燃え盛る烈火のような主の奉仕者である。また、彼は、偉大な艱難の火によって浄められ、完全に「主につく者」であり、レヴィの子孫である。彼は、愛の黄金を心に持ち、祈りの香りを精神に持ち、節制の投薬を体に持っている。貧しい小さな人に対しては、彼らは、イエズス・キリストのよい香りであるが、傲慢な人々や富におごる人々にとっては、死の臭気である。 

57 彼らは、聖霊の息吹によって空中に舞い、雷鳴を生む雲のようでもある。彼らは、どんな物にも執着せず、どんなことにも驚かず、どんなことにも心配せずに、神のみ言葉と、永遠の生命との雨を降らせるであろう。彼らは、罪に対して雷鳴のようにとどろき渡るものである。彼らは、世俗を叱責し、サタンとその一味とを打ち叩き、神のみ言葉という両刃の剣を使って、一方では生命のために、一方では死のために、すべての人々を片っ端から刺し貫くであろう。 

58 力ある言葉が与えられ、不思議を行って、敵の上に輝かしい勝利を得る能力を与えられるまことの使徒は、彼らである。彼らは、他の司祭や聖職者と共に、黄金も銀も持たないが、何の心配もなく生活している。しかし、聖霊に招かれる所には、神の栄光を霊魂の救いという混じり気ない意向をもって出向いて行くための、雌鳩の銀の翼をもっている。そして、自分たちが説教した土地に、「律法の完成」であるところの愛徳の黄金を残すであろう。 

59 最後に、私たちは、清貧、謙遜、脱俗、愛徳などの、イエズスの足跡を踏むまことの弟子が、彼らであることを知っている。彼らは、世間の教えではなく福音に従って、神の真理を教え、どんなことにも心配せず、どんな人の前に立っても、卑屈ではない。悪を許さず、聞かず、恐れない。彼らは、口に神のみ言葉を持ち、肩に血まみれの十字架と旗を持ち、右の手にイエズスの十字架を持ち、左の手にロザリオを持ち、心にイエズスとマリアの聖なるみ名を持ち、行いの上にイエズスの慎みと節制とを再現する人々である。来るべき「偉大な人々」とは、彼らである。「いと高きもの」のご命令によって、マリアは、彼らを立たせた。それは、無信仰者、偶像崇拝者、回教徒などを改心させて、神のみ国を広げるためである。しかしそれが、いつ、どんなふうに実現されるかは、ただ神だけがご存知のことである。私たちとしては、ただ、黙って、祈り、願い、期待するばかりである。