天使の説教1 聖ビルギッタ

「天使の説教」から抜粋しています。

若年の頃、主への畏れがマリアにとって最初の苦難であった。悪を避けようと身を整えるとき、きわめて強く畏れただけでなく、いかに善い行いをふさわしく実行するかを考えるときに襲われる畏れは小さくなかった。神の誉れのためにいかに細心の注意を払って思いと言葉と行いを整えたとしても、まだ何か、そこに不足がないかを畏れたのであった。 

さまざまな悪徳の誘惑に絶えず積極的に進んで身を任せる者たちは、この栄えある処女が、あらゆる罪から免れて、神の望みを万事に超えて畏怖を込めて実行する姿を見、いかに多くの呵責と惨めさが処女の身に積み重なったかを考えてみるがよい。 

マリアは、神の子を身籠ったとき、言語を絶する歓喜が処女に訪れたが、同様に、来るべき過酷極まる受難を思うとき、さまざま苦しみが彼女の心を打ちのめした。しかし処女は喜んだ。人が楽園において悪しき欲望により全身で罪を犯したように、処女の子は、自分の民を新たにするためにこの世において己が体の苦渋の死で償いを果たしたが、処女はこのことを予知していたからである。処女は喜び踊った。なぜなら自分の子を罪なしに、また肉体の喜びなしに身籠り、しかも苦痛なしに産み落としたからである。また処女は苦しんだ。わが子を醜い死に追いやるために産むことになり、さらにわが子の受難を苦渋に満ちた心で眺めることになることを知っていたから。処女は喜んだ。わが子が死から復活すると予知し、受けた苦難のために最高の誉れをうけることになるから。だが処女は苦しんだ。おぞましいほどの不名誉が、かの誉れを凌駕し、わが子が責めぬかれることを予知したからである。 

薔薇は、どんなに刺(とげ)がどんなに強く鋭くなるとしても、自分の場に確固としてとどまる。同様に、この祝された薔薇であるマリアは確固とした魂をもっていた。苦難の刺がどんなに多く彼女の心を突き刺しても、自分の意志を決して変えずに耐え忍び、神が望むことは何でも実行する意志を明白に表した。処女は、花開く薔薇、まことにエリコの薔薇に例えられる(シラ24・14)。そこにある薔薇の花は、他のどの花にもまさって美しい。同様にマリアは、ただわが子を除いて、この世に生を授かったすべての者にまさって最も美しい品位と徳を備えていた。天において神と天使たちが、徳に満ち堅忍な彼女を喜んだように、マリアがいかに忍耐強く苦難を耐え、いかに慰めのうちにあって賢明に自らを持すかを思いめぐらす人々は、地において喜んだのである。 

さて処女が神の子を産み落として最初に抱いたとき、その子が預言者たちの言葉を成就するであろうことすぐに思い浮かべた。そしてその子に産着を着せたとき、なんと鋭い鞭によってその子の体が引き裂かれ、ひどい皮膚病に罹ったかのようになるか(イザヤ53・4)を思いめぐらした。さらに処女はわが子の小さな手と足を帯で結んだとき、鉄の釘がなんと残酷に十字架に打ち込まれるかを考えた。どの子供たちより見目麗しいわが子の顔を見ながら、人々が無礼にもその不潔な口から唾を吐き、わが子の顔を汚すことを黙想した。わが子がどんなに多くの平手打ちで両頬を打たれるか、その祝された耳がなんと多くの蔑みと非難を聞くかを、彼女はたびたび考えた。またわが子がどのように血を流して目を塞いでしまうか、苦みを混ぜたぶどう酒がその口に溢れるかを考えた。また、その腕がどのように綱で縛られることになるかを思い描いた。さらにその神経と欠陥、あらゆる肢体がどんなふうに十字架上に無情にさらされるか、死ぬときにその内臓はどんなにしめつけられるか、その栄光に満ちた体が、内的にも外的にも死ぬまでどれほど苦渋に責められるかを思い浮かべた。十字架上で息絶えたわが子の脇腹をこの上なく鋭い槍が貫き、その心臓の真ん中を貫くことを、処女は知っていた。彼女は、神の子が自分から生まれるのを見たとき、その子が真の神にして人間であり、人間としては死すべき者であるが神性においては永遠に不死な者であることを真に知っていたがゆえに、すべての母の中で最も喜んだように、わが子の苦痛に満ちた受難を予知したがゆえに、どの母にもまして悲嘆にくれた。 

このように、最もひどい悲しみは最も大きな喜びを伴うものである。子を産もうとしている女性に対して、ちょうど次のように言われている通りである。「あなたは元気で健康な体の子供を産んだが、出産のときに受けた苦しみはあなたが死ぬまで続くだろう」。それを聞いたその母は、わが子の命と救いに喜び、自分の苦しみと死を悲しむ。自分の体の苦痛と死への思いから出るその母の苦悩は、処女マリアの苦悩より大きいとは確かに言えない。 

マリアは最愛の子が将来受けるであろう死をどれほどたびたび心に思い浮かべたことだろうか。処女は、自分の愛する子がひどい苦しみを多く受けると預言者がかつて預言したことを理解した。預言者ほど時を遡らないかの義人シメオンも、処女の面前で、彼女の魂も剣で刺し貫かれると預言した(ルカ2・35)。善悪をわきまえる力は、体よりも霊魂のほうが強く感受性に富んでいる。同様に剣が刺し貫くことになる祝された彼女の魂が、わが子が苦しみを受ける前に激しい苦悩に翻弄されたことに心を留めるべきである。それは、世の母の身体が子供を産む前に苦しむ以上であった。愛する子が苦しみを受ける時が近づくほど、その悲しみの剣は、処女の心になおいっそう近づいた。だから、この上なく経験で無垢な神の子が母の苦しみをたびたび慰めた。そうでなければ、母はその苦しみを死の時まで耐えることができなかっただろう。