謙遜について「聖ベネディクトの戒律」7章から抜粋

謙遜の第一段階「神に対する畏れを眼前に」(詩編36)揚げて(高くあげること)、これを決して忘れないこと。 

そして、神に命じられたことのすべてを、常に心に銘記し、神を侮る者はその罪のため地獄の火で焼かれ、神を畏れる者には永遠の生命が待っていることを絶えず思い起さなければなりません。

そして常に思い、言葉、手、足、我意に由来する罪と悪習、そしてまた肉の欲望を避け、神は絶えず天から見ておられ、その行いはどこにあっても、神の目を逃れることなく、天使たちは絶えずこれを神に報告していることを思い知るべきです。 

預言者はこのことを私たちに示すために、神が私たちの思いの中に常におられることを明らかにし、「神は思いと心を洞察する」(詩編7・10)、「主は人々の思いを知っている」(詩編94・11)、あるいは、「あなたは遠くから私の思いを読み取られた」(詩編139・2)、「人々の思いはあなたを賛美するであろう」(詩編76・11)と言われます。そこで修友は、その悪しき思いを警戒して、「もし悪を慎むならば、私は、神の御前で汚れない者として立であろう」(詩編18・24)と、絶えず心の内で繰り返さないといけません。 

我意を禁じること 
「あなたは自らの意志を避けなけれなならない」(シラ18・30)と言っています。同様に私たちは祈りの中で、私たちの「うちでみ旨が行われる」(マタイ6・10)ように神に願い求めます。そこで聖書の次の言葉に畏怖の念をもって耳を傾けるとき、自らの意志を行ってはならないという教えを学ぶのは正当なことです。「人々には正しい道と見えるが、地獄の底へと続く道がある」(箴言16・25)。また、このことを無視する者に関する次の言葉を聞いて、おそれおののく場合も同じです。すなわち、「彼らはその欲望において腐敗し、憎むべき者となった」(詩編14・1)と。 

肉の欲望に関して
預言者が主に向かって、「私の欲望はすべて御前にあります」(詩編38・10)と言う通りに、私たちの前に神が常におられるものと信じるべきです。そこで私たちは悪い欲望を警戒しなければなりません。死は快楽の門の近くにいるからです。そのために、聖書は「あなたのみだらな欲望に従って歩いてはいけない」(シラ18・30)と警告しています。そうゆう訳で、「主の目は善人も悪人も見ておられ」(箴言15・3)、「主は常に天から人の子を見渡し、神を理解しまた神を求めている人はいないかと探し」(詩編14・2)、また私たちの行いは、日々夜も昼も、私たちに付き添う天使たちに報告されています。そこで修友たちよ、預言者が詩編で語るように、私たちがいつか「悪に傾き、無用な人間となった」(詩編14・3)ところを神に見られることのないように、注意を怠ってはなりません。また神は慈悲深く、私たちが道を改めることを期待され、現在は容赦してくださっておられるが、ある日私たちに、「お前はこのようなことをした。しかし私は口を閉じて何も言わなかった」(詩編50・21)、と言われることがないように私たちも心掛けなければなりません。 

謙遜の第二段階は、我意を愛さず、また自らの欲望の満足を喜ぶことなく、「私が来たのは自己の意志を行うためではなく、私を遣わされた方の意志を行うためである」(ヨハネ6・28)と言われる主の言葉に、行動をもって従うことです。また「意志は罰を伴い、強制は栄光をもたらす」とも書かれています。 

謙遜の第三段階は、神に対する愛のために、徹底して従順に長上に従い、使徒の言葉にある通り、「死に至るまで従順であった」(フィリ2・8)主に見倣うことです。 

謙遜の第四段階は、この服従において困難で不利なことに出会い、あるいはどのような種類の不正な取り扱いを受けても、心を乱さず、忍耐に徹し、落胆せず、逃げ出さず、耐えることです。

聖書は、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10・22)、また「心を強くして、主を待ち望め」(詩編27・14)と言っています。聖書は忠実な人がすべてを、災いさえも、主のために耐えねばならないことを示して、苦渋をなめている者たちの口を借り、「私はあなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている」(ローマ8・36、詩編44・23)と語っています。また彼らは神の報いを堅く期待し、喜びの内に、「しかしこれらすべてのことにおいて、私たちは私たちを愛してくださった方のために勝利を収めている」(ローマ8・37)と言っています。また聖書は他の箇所で、「神よ、あなたは私を試みられた。銀を火に入れるように、私たちを試された。あなたは私たちを網に追い込み、艱難を背負わせた」(詩編66・10、11)とも言っています。そして、私たちが長上のもとにあるべきことを示すために、さらに次のように言っています。「あなたは私たちの頭上に人を置かれた」(詩編65・12)。事実、艱難と不正な取り扱いを受けても、忍耐強く主の命令を守る者は、「片方の頬を打たれたなら、他の頬も向け、下着を取る者には上着をも与え、一マイルを歩くことを強制されたら、二マイル行きます」(マタイ5・39~41)。彼らは使徒パウロとともに、「偽の修友たち」に耐え、「排斥を忍び」、「罵られては祝福します」(2コリント11・26、1コリント4・12)。 

謙遜の第五段階は、心に浮かぶ悪念あるいは密かに犯した過ちは、すべて謙虚に隠さず、修道院長に告白することです。聖書は、このことについて私たちに勧告して、「あなたの道を主に明らかにし、主に希望を置きなさい」(詩編37・5)と言い、また「主に告白しなさい、主は恵み深く、慈しみはとこしえに」(詩編106・1、118・1)とも言っています。また預言者は言います。「わたしは自らの罪をあなたに示し、自らの過ちを隠しませんでした。私が『主の前で過ちを暴こう』と言うと、あなたは私の心の咎を赦してくださった」(詩編32・5)。 

謙遜の第六段階は、修道士が最も卑しい最低のもので満足し、どのような作業が与えられても、自分を悪い、役立たずな働き手と見なして、預言者と共に、「私は無に帰せられ、知識がない。私はあなたの前にいる獣のようである。しかし私は常にあなたとともにいる」(詩編73・22、23)と言うことです。 

謙遜の第七段階は、自分は他の誰よりも劣り、卑しいと口先で言うだけではなく、心の底から固くそう信じて、自らへりくだり、預言者と共に「私は虫けらであり、とても人とは言えない。人間の屑、民の恥である」(詩編22・7)、「私は栄光の座につき、そして蔑まれ、困惑に覆われた」(詩編88・16)と言い、さらにまた、「卑しめられたのは私にとってよいことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました」(詩編119・71、72)と言うことです。