キリストの苦しみ、祈り、清貧

2019年6月1日

「幻視と教えの書 第二部 教え」(福者アンジェリカ)から簡略抜粋しています。

第一章 主の生涯における苦しみの神秘について考察 

1 イエスの聖心が受けた7つの苦しみ

①神の配慮による苦しみ

神の配慮とはキリストが人間の犯した罪を償うことで、人間が贖われるということである。したがって神の配慮が大きければ大きいほど、キリストは苦しみを受けることとなった。

②神の光の賜物としての苦しみ

キリストの苦しみは彼に与えられた神の光の賜物である。

この光の賜物は神の配慮と結合することにより、キリストを神の光の中で変容したが、キリストに与えられた苦しみは無限のものとなった。

③人間が犯しつつある、あるいは犯してしまった罪を償うための苦しみ

キリストは自分に属する選ばれた人々の一人一人が犯した、または犯すであろう罪と、これらに課せられている償いとを知っておられた。

キリストは言葉に尽くせぬほど彼らを愛しており、 彼らの一人一人に注ぐ愛のうちに、それらを絶えず現前させ感じ取っていた。

そして彼らを無限に愛しておられたキリストは、憐みに駆られて、彼らが償うべき罰をその身に引き受け、大いなる苦しみに耐えたのである。

選ばれた人々へのキリストの愛が深ければ深いほど、キリストの憐みと苦しみはよりいっそう激しさを増し、償いの罰と苦しみをその身に担うことになった。

④自分自身に対する憐みから来る苦しみ

もし誰かが、極限にして言語を絶する苦しみと償いの罰とが確実にその身に降りかかることを確実に知っており、たえずその苦しみを眼にしなければならないとすれば、その苦しみが大きいものであればあるほど、自分自身に対して憐みを抱くであろう。

キリストは、かならずやわが身に降りかかるであろう言語を絶する苦しい償いの罰を理解していた。そして選ばれた人々すべての苦しみと償いの罰をわが身に担うために父から遣わされること、かくも苛烈で言語を絶する苦しみを免れるわけにはいかないこと、そのために自分が完全に引き渡されていることを知っていた。

このため、キリストは自分自身を憐れんだ。その憐みが苛烈な苦しみをもたらした。

⑤聖母への憐みに由来する苦しみ。

キリストは自分がその肉体を受けた聖母を、他の被造物にもまして愛しており、聖母は他のいかなる被造物にもまして、特別なあり方で、まことのわが子であるキリストのために悲しんだ。他のすべての被造物を凌駕する、いかにも気高く深淵なる能力を備えていたからである。

このように聖母の大いなる苦しみを見て、キリストは憐みを抱き、大いに苦しんだ。

実に聖母は極限まで苦しみ、その苦しみをその身に担ったのである。そしてその苦しみの根拠は神の配慮のうちにあった。

⑥使徒や弟子たちへの憐みに由来する苦しみ。

彼らはいとも甘美なるキリストの身体的な現存を大いに歓び味わったのであるが、その現存を奪い去られることによって、きわめて苛烈な苦しみをこうむった。

キリストのこの身体的な現存が驚嘆すべきもの、愛に値するもの、いかにも心地良いものであったからこそ、受難によってこの現存が奪い去られたとき、聖母と使徒たちは、すべての弟子たちとともに、言語を絶する苦しみを味わうことになった。

それは神にして人であるイエスが、たえずその身に担った苦しみであった。

⑦彼自身の優しくこの上なく気高く繊細な魂ゆえにくる苦しみ。

キリストの魂が気高く繊細であればあるほど、苛烈で激しい苦しみに苛まれた。

2 キリストに敵対する人々が振りかざす五種類の剣 

イエスに逆らう頑なな心の持ち主たちの彼に逆らう思い、彼に逆らって吐かれる言葉、多くの残虐な怒りや行いは、彼の魂をたえまなく貫き通す剣となった。

イエスを貫いた剣は次の五種類であった。

①ゆがんだ残酷さ。

彼らの心はイエスにたえず頑なに抵抗し、破廉恥かつ残虐に、イエスをこの地上から抹殺せんと務めたのである。

②イエスに逆らって悪口雑言をまき散らす悪意に満ちた舌。

彼らのおぞまじい心は常に不安に振るえ、悪意と欺瞞に満ちたその舌で、さまざまな毒を含んだ言葉を絶え間なくイエスに浴びせかけたのであるが、これらの悪口雑言は彼らの頑なな心に由来する。

③節度なきおおげさな怒り。

彼らは殺意に満ちた頑なな心で、キリストを幾度となく殺害し致命傷を負わせるべく、言葉でキリストに噛みつき続けた。

④呪うべき意図を余すところなく実現した行為。

彼らはキリストをおのれの意のままにした。

⑤キリストを十字架に打つ付けるために用いた恐るべき釘

彼らは粗悪で、先の鈍った、汚らしい、角ばった釘を選んだが、かかる形状の釘は極度の苦しみをもたらすからであり、彼らの悪意が余すところなく実現されるためであった。 

3 キリストは自分の苦しみの三つの意義を私たちの救いのために示した 

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

マタイ27・46

この言葉を発した三つの理由

①神が見棄てられることはありえないが、イエスは苦しみのうちにあったとき、自分は神に見棄てられた人間も同然であることを宣言するため。

②キリストが私たちのために受けた苦しみ、この上なく苛烈で言語を絶する苦しみを明らかにするため。

キリストの父である神はキリストの苦しみを熟知していたが、イエス自身も自らが担ったこの苦しみを同様に熟知していた。

それゆえ彼は私たちのためにあの言葉を発した。自分のためではなく私たちのために耐え忍んだ果てしない苦しみを示し、自分が常に苦しみに苛まれていることを私たちに思い起こさせるために叫んだのである。

また、イエスが弟子たちに「私の魂は死なんばかりに悲しんでいる」(マタイ26・38、マルコ14・34)と言ったのも、弟子や私たちのためであって、私たちが彼の言葉から救いを引き出すために他ならない。すべての人々、とりわけ神の正当な子らに、イエスの苦しみを常に己が苦しみとせよと指摘するためであった。

③私たちに希望と慰めを与えるため

私たちが苦難や呵責を受けるとき、苦しみのうちに見棄てられたと感じるときでさえも、彼自身の模範にならって、絶望に陥ることなく、かえって誘惑を有益な試練に変えることができること、そして神は私たちをすみやかに助けて下さることを、私たちがはっきりと見て取るためであった。 

第二章 「生命の書」のもとづく祈りの至高の必要性についての考察 

1 魂の聖化のために祈りは必要であり、その祈りは「神の光」によって完成される。 

神の光なしにはいかなる人間も救われない。神の光こそが人間にことを始めさせ、さらに先へと進めさせ、完徳の極みへと導く。

それゆえ、何かを始めるにあたり、神の光を望むならば、祈れ。始めたことを進めるにあたり、神の光が自分のうちに増し加わることを望むならば、祈れ。完徳を望むならば、祈れ。信仰を望むならば、祈れ。愛を望むならば、祈れ。清貧を望むならば、祈れ。従順を望むならば、祈れ。貞潔を望むならば、祈れ。謙遜を望むならば、祈れ。勇気を望むならば、祈れ。何かの徳を得たいと望むならば祈れ。

それも次のように祈れ。たえず神にして人であるイエス・キリストの生命に照らし合わせて、祈れ。イエス・キリストの生命こそが、清貧、苦しみ、軽蔑、真の従順そのものだからである。

また、この道を進もうとすると、悪魔やこの世および肉の誘惑など数多くの艱難があなたを襲い、猛烈に苦しめるだろう。しかしそれに打ち勝つことを望むならば、祈れ。

また悪を善に変えなければならないのであって、多くの悪しき人々のように善を悪に変えてはならない。こうして魂は純粋さのうちに精錬され、いっそう信頼をもって、罪の告白と罪からの清めの道を進む。

さらに自分の中に何一つ不浄なものを残さないために自己点検を行え。祈りを捧げ、自分の行った善と悪について思いめぐらし自分の行った善き業の意図を探るのである。

すると、断食、祈り、痛恨の涙、その他すべての善き業の背後に、自分がいかに欺瞞に行動したか、不十分にして欠点だらけの行動をしたかに思い至るであろう。

それゆえ悪しき人々のように行動せず、熱心に自分の罪を告白し、忍耐強くあれ。この告白によって魂は純粋さに達する。

こうして常に祈りに立ち戻り、他の営為に囚われてはならない。かくて以前よりも神の現存を豊かに感じるのであるが、それはあなたの口が以前よりも神を味わうに適うものとされたからだ。このように神と自己を見るための至高の光は、祈りを通して与えられるのである。 

2 誘惑に陥らないために祈る

たえず様子をうかがっている敵対者たちに隙を見せないように警戒せよ。祈りをやめれば彼らに隙を見せてしまう。

激しく誘惑されればされるほど、祈りのうちに踏みとどまるべきである。祈りのおかげで、誘惑されるにふさわしい者となる。黄金は浄められ試されねばならない。祈りにとどまり続けるならば、誘惑から解放されるにふさわしい者であり続ける。

祈りによって照らされ、祈りによって誘惑から解放され、祈りによって浄められ、祈りによって神と結合するのである。 

3 祈りの「書」の定義、性質、段階、効用 

祈りとは神と自己の表明にほかならない。そして神と自己の表明とは完全にして真の謙遜である。謙遜という状態は、神が祈る人を見たときに生まれる。

祈るとき魂は謙遜の中にあり、この深い謙遜によって、神の恩寵はよりいっそう与えられる。神の恩寵が大きくなるほど、魂は真の謙遜へと進むのである。そして祈りを続けることで、神の光と恩寵が増し加わる。

すでに述べたように神にして人であるイエス・キリストの生涯を知ることで、神の光と恩寵は魂をますます深く真の謙遜にする。

「生命の書」すなわち神にして人であるイエス・キリストの生命は、真の祈りを捧げる者の前に置かれており、神の子らはこの書に見出せないものは何一つ望まない。

このようにすることで、彼らは至福の叡知に満たされ、そこに自己と他の人々が必要とする教えの一切を見出す。

至高の天啓と教えを得たいと望むならば、この「生命の書」を読みなさい。この書を深く読み込むならば、自分自身と他の人々が必要とする一切について、天啓と教えを受けるであろう。

この書を心して読むならば、神の焔に激しく焼かれて、あらゆる艱難をこの上ない慰めとして受け入れるようになり、自分がいかに艱難を受けるにふさわしくないかにも気づかされるだろう。

「生命の書」を読むならば、栄光が自分のものではないことを理解し、その人を謙遜にするだろう。高慢にならず謙遜であり続けることが、その人が神の恩寵に満たされているか否かを見定める兆候の一つである。

祈れば祈るほど、よりいっそう照らされるだろう。照らされれば照らされるほど、至高の善なる方と至高の善とをよりいっそう気高く見るだろう。深く気高く見れば見るほど、よりいっそう愛するようになるだろう。愛すれば愛するほど、よりいっそう歓びを感じるだろう。歓びを感じれば感じるほど、よりいっそう理解が深まり、さらに理解する能力が高まるだろう。こうして充溢する光へと導かれ、ついには理解が不可能なのだということを理解するに至るだろう。 

4 あらゆる模範に優れる祈りの模範は、イエスと処女マリア自身である。 

①イエスの模範

イエスは言葉と行いをもって祈ることを教えた。

誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。

マタイ26・41

イエスはこの言葉をもって私たちに祈りを示した。イエスはこの他にも福音書の多くの箇所で祈りを教えている。

またイエスは自身の祈りを頻繁に示すことによって、祈りがイエス自身にとっていかに大切であるかを万人に教えている。

そしてイエスは、祈りを免れる口実を与えないために、彼自身が祈ることを欲した。彼の模範に魅せられて、私たちが何より祈りを愛するためである。

イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。

ルカ22・44

この光景を眼の前に思い浮かべ、この祈りを少しでもわがものにすべく全身全霊を挙げて励め。イエスは自分のためではなく、あなたのために祈ったのだから。

「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」 

マタイ26・39

この言葉は祈りであった。キリストが常に自分の意志ではなく神の意志を優先させたことを見て、あなたも彼の模範に倣って行動せよ。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」

ルカ23・46

このイエスの最後の言葉も祈りであった。彼の生涯は祈りであった。常に神と自己の表明にとどまったのである。

祈りなしには何一つ得られないというのに、あなたはなぜ祈りを怠るのか。真の神にして人であるイエス・キリストが、自分自身のためではなく、あなたが真の祈りの模範に倣うようにと、あなたのために祈ったというのに。

彼から何かを得たいと望むならば祈らねばならない。祈りなしには得ることはできない。

②マリアの模範

彼女の子、神にして人であるイエス・キリストは、聖母の祈りを軽んじない。彼女はその至聖なる模範を示して、私たちに祈りを教えた。

彼女は処女性を守り抜くことを神に願うにあたって、祈りを捧げた。こうして祈りを捧げた彼女の中で、神の光がより豊かに沸き上がった。この神の光によって、彼女はその処女性を捧げ、さらには魂のすべてと身体をも、それらがいっそう栄光に満ちたものとなるようにと神に捧げた。

この同じ神の光の中で、彼女は神と自己を余さず表明した。この祈り、すなわち神と自己の表明とは、彼女が捧げ続けた言語を絶する観想だったのである。

第三章 清貧の完全な模範についての考察 

1 神の貧しさが人間の誤っている貧しさを救う 

貧しさの道のりで最初の人間は罪に堕ちたが、同じ道のりにおいて第二の人間、つまり神にして人であるキリストは私たちを助け起こした。

最悪の貧しさは無知である。アダムは無知ゆえに罪に堕ちた。かつても、今も、これからも罪に堕ちる人々は皆、この無知が原因で罪に堕ちる。

それゆえ神の子らが逆の貧しさによって救われ、元の状態に立ち戻ることは、まことに理にかなっていよう。 

2 私たちに真の貧しさを示す三例。キリスト、処女マリア、イエスとともに十字架につけられた善き盗賊 

①貧しさ・主キリストの模範

神にして人であるイエス・キリストは貧しさによって私たちを助け起こし、立ち直らせた。実にあれほど大いなる権能と高貴さをことごとく隠したわけであるから、この貧しさは言語を絶するものであった。

イエスは冒涜され、蔑まれ、罵られ、非難され、捕らえられ、引き立てられ、鞭打たれ、十字架につけられることを受け入れ、しかも無力な人間のように振舞った。この貧しさこそ私たちの生の模範である。

私たちは、わざわざ権能を隠す必要はない。私たちに権能などないのだから。むしろ、私たちがいかに無力であるかを露わにし、悟らねばならない。

②聖母の模範

「わたしは主のはしためです」

ルカ1・38

受胎告知のとき、聖母がこのように自分を卑しい名で呼んだ。この言葉によって、聖母は私たちと同じく堕落した肉から生まれたことを言明した。

このことは貧しさについて私たちを教え諭している。それほどこの名称は賤しい。かかる貧しさことが神に何よりも嘉される貧しさである。

③十字架につけられたよき盗賊の模範

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。    

ルカ23・40~43

この盗賊は悪い生を送り、多くの悪行を働いてきたのであるが、神の光を受け、神の善を目の当たりにしたとき、すぐさま自分の貧しさを悟り、これを告白した。そしてイエスを嘲る仲間の盗賊に、この言葉をいったのである。

その瞬間、彼は救われたのである。私たち罪人がすることで、自分の貧しさを余すところなく悟ること以上に、神に嘉されるものはないだろう。

魂が自己の貧しさをつくづく思い知るならば、神の裁きを待つまでもなく、自分自身を裁き、罪に定める。その後すぐさま、魂は罪を償うために悔悛の業や苦痛になんら制限を設けることなく、新たに悔悛の方法を探し求めるであろう。 

3 完全な清貧を実践した聖フランシスコは、清貧の独特な二様相を教えた 

至聖フランシスコは二つのことを私たちに教えた。

第一の教えは、私たちを神に、つまり魂のすべてを神の無限に委ねることである。

彼は神に無限に自分を委ねた。その結果、聖霊は彼の魂と体を浄め、彼を聖化し、万事において彼を力づけた。

彼自身が聖霊に満たされたものとなり、すべての行いに聖霊の恩寵が満ち溢れていた。

第二の教えは、真の貧しさつまり清貧、真の苦痛、真の軽蔑、真の従順である。

彼は内においても外においても清貧を体現し、清貧に生き、清貧にとどまった。神にして人であるイエスが愛したものすべてを、彼もまた心を込めてこよなく愛し、言葉に尽くせぬ完璧さでイエスの足跡をたどった。それは万事においてできる限りイエスに一致するためであった。

神は彼を特別に召し出し、彼と他の人々に益するために、彼に独特の賜物を与えた。そして神自身が、聖フランシスコのうちに真の充溢を、私たちに明示しようとした。

フランシスコはこの独特の賜物と充溢を、たえまなき真の祈りによって所有するに至ったのである。

4 堕落した人間の貧しさは、それとは逆の人間イエスの貧しさに倣い、イエスの神性を観想することで癒される、と聖フランシスコは教える。 

私たちは神にして人であるキリストを見る度合いに応じて、私たちは愛によってイエス・キリストのうちで変容する。

神にして人であるイエス・キリストの言葉に尽くせぬほどの苦しみを見れば見るほど、魂は苦しみによってイエス・キリストのうちに変容をこうむる。

神にして人であるイエス・キリストの高邁さと繊細さを見るにつけ、魂は愛によってイエス・キリストのうちに変容させられる。

神のすべてを超えた無限あるいはすべてを超えた高邁がへりくだって、賤しい人間たちに友愛と親しさを示しているのを深く見るにつれ、魂は神にして人であるイエス・キリストの苦しみのうちに、より心を込めて、より深く変容させられる。

イエス・キリストを見るとき、自分という被造物を眺めるのであるが、欠点の多さに目が眩んでしまう。欠点の膨大さに比べて、理解力があまりに微小だからである。

魂が澄んだ眼で見れば見るほど、魂はよりいっそうの苦しみをもって、神にして人であるイエス・キリストの苦しみへと変容させられる。

さらに、神の光によって広い視野を得た魂が、この無際限と思える苛烈な苦しみの原因が、今も、かつても、ただ自分にあると悟ったとき、魂自身もまた苛烈な苦しみへと変容させられる。

神のすべてを超えた無限または善が死すべき人間となり、この世にあったときはたえまなく言語を絶する苦しみを進んで甘受し、天と地の創造主である存在がかくも賤しい死を迎えたことを見て、魂はますます至高の苦しみへと変容さえられる。

諸王のなかの王である方は、言語を絶する苦しみを絶え間なく担い続け、その生涯を言葉に尽くせぬ十字架としたのであるが、死の瞬間には、金箔を貼りつめた部屋と深紅の寝台の代わりに、おぞましき十字架を手に入れた。

魂はこれらすべてをより明晰な眼で見るにつけ、ますます愛に促され、神にして人であるイエス・キリストの言語を絶するたえまなき苦しみへと吸収され、変容をこうむるのである。

かくて魂は悟る。貧しさゆえに堕ちた自分が、神にして人であるイエスの逆の貧しさによって救い上げられたと。

さらに魂は悟る。果てしなく続く苦しみを招いたのは自分なのに、神にして人であるイエスは、自分をこの苦しみから解放するために、瞬時もひるまず無制限と思える苦しみを彼自身が担うことを欲したのだと。

そのとき魂は、神にして人であるイエスの苦しみのうちに変容させられ、一切は言語を絶する森羅万象のうちに呑み込まれるであろう。

私たちの師父、至聖フランシスコにあっては、これらすべてが完璧なまでに実現していた。私たちがたどるべき道は彼の道である。