カルメル山登攀

十字架の聖ヨハネのカルメル山登攀を短くまとめたものです

■目次

第1章 感覚の暗夜について

1 すべてのことに欲求をなくすこと。また、欲求をなくすことが夜とよばれる理由

私たちは夜に光がないならば何も見えない状態になる。 これと同じように、すべてのものに対する欲求の楽しみから心をはぎとってしまえば、霊魂は暗く何もない状態におかれる。

霊魂は、欲求によって、それぞれ味わうことのできるものに養われるので、欲求が消えるならば、霊魂は、味わうことから得られる楽しみの中に糧を見出すことがなくなり、霊魂は暗く、いわば空白の状態になる。

欲求を受け取る機能として、耳、目、鼻、口、触れることなどがある。これらの機能から受け取る喜びを奪いとるならば、霊魂はこの感覚に関して暗く空虚になる。つまり感覚から受け取る楽しみを退け、それから離れれば、すべてが暗く、何もなくなってしまう夜のようなものになるということができる。

というのは、霊魂は、感覚によって知ること以外、なにも手段をもたないからである。人間は、聞いたり見たり、嗅いだり味わったり、感じたりするのをすっかりやめてしまうというわけにはいかない。

ここでは、聞くこと、見ること、臭いをかぐこと、口にすること、触れることなどを、行わないことを言っているのではなく、その行為から受ける楽しみとか欲望から離れ、そうしたことを行っても心を自由にしておくことを言っている。

2 神との一致のため、感覚の暗夜(=欲望の克服)が大切な理由

愛は愛するもの同士を同じもの、または互いに似たものにする。したがって、神以外の何かを愛するというそのことだけで、もう我々には、神との純粋な一致も、またそれによる変容も不可能になる。

なぜなら、創造主の高みと被造物の低さとの間には、闇と光りとの差以上のものがあるからである。この世のすべてのことにおける心の楽しみ、またその快さというものは、すべて、神という、豊かさそのものの楽しみに比べるならば、この上もない苦痛、呵責、にがみでしかない。

また地上のものはすべて、その富も、その光栄も、神という富そのものと比べれば全くの“まずしさ”と“みじめさ”というものでしかない。すべて天のもの、地のものを数えても、神に比すれば無に等しい。

地上のものはすべて神の無限に比すれば無であるように、地上のものに愛着するものは、神の御前において同じく無である。というのは、愛は二つのものを等しく、また相似たものとし、更に、愛する人をその愛の対象となるものより、さらに劣ったものとするからである。

地上のものを愛するものは、神の無限の存在と一致することなどということはまったく不可能である。というのは無なるものは、存在者と結びつくことはありえないからである。地上のものに愛着をもつものは、神の御前においては、まったく醜さそのものである。

したがって、神との一致の妨げとなるすべてのことに対する欲望を失くしてしまうことなしに、神との一致という高い状態にまで達することはできない。また、そうした欲望を失くさないならば神をはなはだしく侮辱することになる。なぜなら、神とは雲泥の差のあるものを、神と共に一つの秤にかけることになるからである。 とすれば、そうしたものを神以上に愛するなら、一体どういうことになるであろう?

3 欲望が霊魂に与える損害

1、欲望は心に、神を受け入れにくくさせる

二つの全く反対する性質のものがある一つのところに入ろうとすれば、お互いが反発し、どちらかは追い出されないといけない。

これと同じように我々の心は、神ならぬものの欲望に占められれば、占められるほど、神を受け入れることができなくなる。そして神ならぬ欲望に全く支配されているなら、神を受け入れることはできない。

2、欲望は心を疲れさせる

欲望したものを求めるものを追うために人は疲労する。しかし手に入れたとしても、それで心を満たすことができないため、すぐ次のものへと追い求める。そのように始終疲労する。

何か地上的なものにその欲望を満たそうとしても、満たされることはない。なぜならば、満たすことのできる唯一のものを捨て去って、飢えを、ますますひどくするものをもって自分を養おうとするからである。

3、欲望が心を悩ませる

欲望に心が支配されるなら、欲望がその求めるものが欲しさに、心を叩いたり、つついたりして心を苦しめる。

それは、農夫が期待する収穫を望むばかりに鋤にしばった牛を叩いたり、つついたりする姿に似ている。

欲望は強くなればなるほど、いっそう心にとって拷問になる。欲望を持てば持つほど拷問になるから、心の中に欲望があれば、それだけ一層拷問がつのるわけである。

4、欲望は心を盲目にさせ暗くする。

欲望は、それ自体としては盲目なものであるから、われわれの心を盲にし、また暗くする。

なぜなら、欲望自身に、知恵がある訳でなく、盲の手引きになるものは、常に理性だからである。

したがって、心が欲望に引きずられるとき、いつも盲になってしまう。これは、目の見えるものが、盲に導かれているということになり、結局二人とも盲というのと同じになってしまう。その結果として、「盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう」(マタイ15・14)となってしまう。

また、欲望は理性の目を暗くする。この原因は、目の前に本物でない光を置くために、視覚はその中間に置かれたものだけに囚われて、他のものが見えなくなってしまうからである。

欲望は、霊魂の非常に近いところにあるため、人は、その最初に出会う光にぶっかって、その中に糧を求めるために、欲望による惑わしが、すっかりなくなるまで、明らかな理性の光を見ることはできない。

5、欲望は心を汚す

霊魂と他の物質的なものとの間には、非常に澄んだ液体と、ひどく汚れた泥との間にあるよりも大きな違いがある。したがって澄んだ水と泥が一緒になるならば濁ってしまうように、地上的なものに執着する心はにごってしまう。

さまざまな欲望が、心の中にひきおこすいろいろな汚さは、言葉で表現できないほどである。個々の欲望はその大きさと性質に応じて、あるいは大きくあるいは少なく、霊魂に不潔と醜さによるよごれを与える。

6、欲望は徳の実行することを冷淡にさせる

欲望で力が分割されるという事実のために、徳を行うということに集中できなくなる。

事実たくさんのものに力が分けられれば分けられるほど、個々のものに振り当てられる力は弱くなる。逆に一つに結びついた力は、分散された力より強い。

したがって、意志の欲求が徳以外のものに分散すれば、徳に対して一層弱くなってしまうことは明らかなことである。

4 神との一致に達するためには、たとえ些細なものであっても、欲望のすべてを捨てなければならない

自然に生じる欲望は、それが意志によって承諾されず、第一衝動といわれる域を出なければ、少しも神との一致を妨げることはない。これらのものを地上にあるうちに消してしまうことは不可能なことである。

しかし、その他の意志的な欲望はすべて、たとえ小さいものでも、神との一致に到達するために持ってはいけない。そのわけは、神との一致の状態とは、神の意思のうちに、われわれの意志が全く変容し、そこでは神のみ旨に反するものは何ものもなく、その意志の動きはすべてにおいてすべてとなるために、ただひとえに神の意志でなくてはならないからである。

したがって、もし人が、神のお望みにならない何か不完全なものを望むとすれば、神の意志と一つになっていないわけで、神が、御心にお持ちでないことを心にかけていることになる。

ゆえに、神と完全に一致するためには、いかに小さいものであれ意志から生じる欲望をすべてをなくさないといけないことは明らかである。すなわち知りながら、気づいていながら、不完全なことを、すすんで承諾しないことである。

気づいていながら行う不完全というものは、たとえば、通常よくあるおしゃべりのくせ、決して断ち切ろうと思わない何かものに対する愛着、すなわち、ある人、服、本、部屋、さらには食物とか会話、何かのことで満足を求めたり、または知ろうとし、あるいは聞こうとしたり、それらに類したことなどである。

こうした不完全さの、いずれのものにしても、それに執着し、それが習性になってしまうならば、徳における成長と進歩の妨げになる。

そして、一層悪いことには、ただ前進しないだけではなく、その執着のために退歩してしまい獲得してきたものをも失ってしまうことである。

なぜなら、一つの不完全があるだけで、それが他の不完全を引き寄せ、さらにまた、他の不完全を、というふうになっていくものである。

一つの欲望に打ち勝つことに努力を払わないものは、この欲望が持っているのと同じような弱さと過ちから出てくる他の多くの欲望へと導かれる。そのようにして絶えず落ち込んで行くのである。

この道においては、目的地に達するために、常に歩いていなくてはならない。すなわち、いつも欲望を捨て、決してそれを育てずに前進するということである。すべてのものを捨ててしまうのでなければ、その目的に達することはできないのである

5 感覚の暗夜に入るために、とるべき方法

欲望に打ち勝つために、われわれが行うこと

第一には、なにごとにおいてもすべてキリストに倣うことそのために、その御生涯を省察し、すべてのことにキリストと同じ態度をもっていどまないといけない。

第二には、感覚を楽しませるものは、それが神の名誉と光栄のためでないのなら、どんなものでも、それを退けること。そして、イエス・キリストへの愛ゆえに、そうしたものに全く無関心でいなくてはならない。

例えば、神のために大切でないことを聞く楽しみが与えられても、それらのことを楽しもうとも、聞こうとも望まないこと。何かを見る機会が与えられても、それが神を愛するために役立たないようなものであるなら、その楽しみを求めないし、そうしたものも見たいと思わないことである。他のいかなることにおいても、そうしたことがあれば、同じ態度をとるのである。

そのように逃れることができるものならば、同じことが言えるが、逃れることができないことならば、そうしたものが心を通り過ぎても、それを楽しもうとしないだけで十分である。

このようにできるだけ欲望を抑え、感覚の楽しみをなくし、あたかもそれらに対しては暗闇にあるように目を閉じなければならない。この心掛けがあれば、短期間のうちに多くの進歩をすることができるであろう。

外的感覚に触れる、この世的な楽しみを、その知覚と共に皆すて去ってしまわないといけない。

自然の欲情である楽しみ、望み、恐れ、苦しみの四つの感情を抑えるために心がけること

よりたやすいことよりも、よりむつかしいことに、
より快いことよりも、より不快なことのほうに、
より味わいあることよりも、むしろ、より味気ないことに
休息ではなく、骨の折れることに、
慰めになることよりも、むしろ慰めのないことに、
より大いなることよりも。より小さいことに、
より高く、より貴重とみえるものより、よりいやしく、ないがしろにされるものへと、
この世のよりよいものでなく、より悪いものを探し求め、そして、キリストのために、この世にあるすべてのことから全く裸になり、虚ろく、心貧しくなるように。

こうしたことを心から抱きしめ、それによって意志をうちくだくようにしなくてはならない。というのは、これらのことを、地味に、賢明に、心から実行するならば、短時間の間に大きな喜びと慰めを、そこに見出すに至るであろう。

肉の欲、目の欲、生活のおごりを抑制する方法

第一に、自分を蔑(ないがし)ろにすることにつとめ、すべての人がそうしてくれることを望むこと。
第二に、話す場合にも、自分を卑しめるようにし、すべての人がそうしてくれることを望むこと。
第三に、考えにおいても、自分自身を低く見下げることで、また、すべての人がそうしてくれるのを望むこと。

神との一致の高みに至るための言葉

すべてを味わうに至るためには、何ごとにも嗜好をとどめようとしてはならない。
すべてとなるに至るためには、何ごとにおいても無きものとされるように望まなくてはならない。
すべてを知るに至るためには、何ごとも知ることのないように望まなくてはならない。
味わったことのないものに至りつくためには、何ごとも味わうことなしに通りすぎていかなくてはならない。
まだ知らないものに至りつくためには、何ごとも知らないままに通りすぎてゆかなくてはならない。
まだもたないものに至りつくためには、何ものも、もたないままに通りすぎてゆかなくてはならない。
まだ達していないものに至りつくには、途中、何ものにも足をとめてはならない。

すべてにましますおん者を妨げない方法

なにごとかに心をとめるならば、すべてであるものに、自身をゆだねきっていないことになる。実際、すべてのあるものに、全く至りつくためには、すべてにおいて全く己を捨てなくてはならない。
すべてであるものをもつに至るときには、何ものも望むことなく、それを持たなくしなければはならない。なぜなら、すべてにおいて何かを持ちたいと望むならば、神のうちに、宝を清く保つことにはならないからである。
霊的な人は、この赤裸のなかに、静けさと憩いを見出す。なぜなら、かれは謙遜そのものとなり、何ものにも、ことさらに望みはないので、上に向かって疲れさせるものもなければ、また、下におしつけるものもないからである。
実際、何かをことさらに望むとき、そのことだけで、人は疲れてしまうのである。

第2章 精神の能動的暗夜(知性)

1 なぜ、精神の第二夜が感覚の第一夜よりも暗いのか

感覚の暗夜を第一夜といい、精神の暗夜を第二夜と呼ぶ。 精神の第二夜は第一夜よりも暗い。 なぜなら感覚の第一夜が、人間のより低い部分、すなわち感覚的なものに属し、したがって外部的なものである。それに対し精神の第二夜は、人間のより高い部分、すなわち理性的なもので、それだけにさらに内的であるからである。

2 信仰は霊魂に対して、どのように暗夜であるのか

信仰とは、人間の理解を越える神によって啓示された真理を信じることであり、そしてそれは至高の光である。ここで信仰によって与えられる極度の光が霊魂にとって闇になる。

それは、あたかも、太陽の輝きがわれわれの弱い視力をつぶしてしまい、他の光を見えなくするようなものである。

同じように信仰の光は、余りにも大きいため、知性の光を押さえ、打ち負かしてしまうのである。

知性は感覚を通して対象を知る。知るということは「対象と、それをとらえる能力から生じる」ものである。

したがって、一度も知ったこともなく、見たことがないならば、そのことについて話しても、それについて何の光も残ることはないだろう。

たとえば、どんな色を見たことがない生まれながらの盲目な人に、白色とか黄色とかどんなものかを説明しても、当人はそれを理解することはない。というのは、それらについて判断できるだけの、そのような色も、またそれに類したものさえも見たことがないからである。

信仰について、これと同じことが、その霊魂との関係において言える。 信仰は、われわれがまだ一度も見たこともないことを告げ、われわれは信仰が示すことを知るために匹敵する感覚的なものは何もないのである。

しかし、われわれは、信仰を聞くことによって知り、信仰がわれわれに教えることを信じ、われわれの自然的な知性を通すことなしに、それに従わせるのである。

聖パウロの言っているように、「信仰は聞くことから生じる」ものだからである。その意味は、信仰とは、ただ聞くことによって入ってくるものに対する同意である、ということである。

他の知識は理性の光をもって獲得されるけれども、信仰の知識は、信仰によって理性の光を否定し、この光なしに獲得されるもので、自分自身のもつ光を暗くするのでなければ、その知識は失われてしまうものである。

3 信仰により神との一致に至るために、霊魂を暗黒にとどまらせること

信仰によるよき導きを得るためには、地上的なものや感覚的な低俗なものに対して目をつむっていかなくてはならないだけでなく、霊的な関連をもつ、理性的な高い部分についても、やはり同じように目をつむって、真っ暗な状態にとどまらないといけない。なぜなら、信仰は、私たちが理解したり、味わったり、感じたり、想像したりすることを超えて、その上にあるからである。また神の存在も、理性にも、また欲求にも、想像にも、その他いかなる感覚のうちに捉えられることができないからである。 この世において、神について、いかに高く感じ、かつ味わうことができるができるにしても、神そのものから無限に隔たりがある。

だから、この世において神と完全に一致するためには、目から入ってくることのできるもの、耳から受け取ることのできるもの、想像力で描き出すことのできるもの、霊魂で悟ることのできるすべてのものに対して目を閉じないといけない。

それゆえ、この道において、自分の道を捨てるということが、この道に入ることである。

4 神との一致とは何であるか

神からつくられたすべての被造物は、いかなるものであれ、神よりまったく劣るものであり、神に至りつくものでもないから、すべてつくられたものを味わうこととか、感じるというようなことから離脱しないといけない。 というのは、神ではない被造物、神の意向にそわないものを、ことごとく捨ててこそ神に似るものとなり、神のみ旨ではないものが心に残ることがなくなり、このようにして神の中に変容されることになる。

そして愛において成長すればするほど、すなわち神のみ旨に自分の望みをいっそう深く一致させればさせるほど、神はそれだけいっそう御自分をお与えになる。そして、その一致が完全なものであれば、神のうちにおける一致と変容も完全なものとなる。

5 精神の三つの能力(知性・記憶・意志)を完成させる対神徳(信仰、希望、愛)について

精神には知性と記憶と意志との三つの能力がある。神に対する信仰、希望、愛は、この精神の三つの能力に空白をつくり出す。

信仰は知性をもって理解できないことを告げるものである。聖パウロは「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11・1)といった。つまり信仰とは、知性によって見出されるものではない。なぜなら、もし見出されるなら、それは信仰でなくなるからである。 信仰は、知性を強くしてくれるが、それを照らし出すというよりも、暗黒にするものである。

神に対する希望とは、まだ所有していないについてである。聖パウロも「見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。」といっている。 つまり、この徳も記憶に対して空白をつくり出す。それは、所有しているものではなく、まだ所有していないものに関するものだからである

愛徳もまた、意志において、すべての事物から心を空白にさせる。というのは、愛徳は、われわれに、すべてに越えて神を愛する義務を負わせるので、われわれの愛着をすべて切り離さないと神を愛することができないからである。

三つの対神徳へと導くために、知性、記憶、意志の三つの精神能力を空にしないといけない。これが精神の暗夜である。

6 被造物、概念など、いかなるものも、神との一致の手段になり得ない

理性が、この世において神と一致するためには、神と結びつく、神に最も近い、似ているものを持つ手段によらないといけない。

しかし、すべての被造物は、一つとして神に直接結びつくものも、また、神の本質と似たものをもっていない。

同じように、この世において、想像力がつくり出すことができるもの、また知性が受け取り、かつ理解できるものは、いかなるものであっても、神との一致のための至近の手段とはなりえない。

というのは、知性は、外部の感覚を通して受け入れられるものの形やイメージとして捉えられているものだけしか理解できないのであって、このようなものは手段として役立たないものであるからである。

知性を神に達するために用いたいなら、理解しようと思うよりも、むしろ理解しないようにすべきであり、より一層の神の光に近づくためには、目を開いているよりも、むしろ、盲となり、闇にとどまるべきである

もし知性を神との一致のための至近の媒介として利用するならば、それらは、かえって障害となるだけでなく、ひどく踏み迷い、あざむかれるもととなる。

7 知性にとって神との一致に至るには、信仰がふさわしい手段である

神と霊魂との一致にふさわしい唯一で身近な手段は信仰である。信仰と神はまったく類似していて、見られる神と、信じられる神ということのほかに違いはないくらいだからである。

神が無限の御者であるならば、信仰も、やはり神を無限のものとして示す。また、神が三位であると同時に一体でいるならば、信仰もやはり三位にして一体のものとして示すからである。また神は、われわれの知性にとって闇であれば、信仰も、またわれわれの知性を盲目にし、またその目をくらませるものである。

このようにして神は、すべての知性をこえた神的光の中に、この信仰という唯一の媒介によって、われわれに自らをお示しになるのである。したがって、信仰が深ければ深いほど、神との一致も大であるということになる。

すなわち、神と一致するためには、信仰のみとなって、知性はその目を閉じ、闇の中にとどまっていないといけないということである。というのは、この闇の下において、知性は神と一致し、この闇の中に神は隠れているからである。

☆ 聖書からの抜粋から

「あなた方が塔を建てようと思うとき、まず座って、それを造り上げるだけの経費があるかどうかを計算しないだろうか。そうしないで、土台を据えただけで完成しないことになれば、それを見る者はみなあざ笑って、『あの人は建て始めたが、完成することができなかった』と言うだろう。また、どんな王でもほかの王と戦いを交える際には、まず座って、二万の兵を率いて進撃して来る敵に、一万の兵で対抗できるかどうかを考えないだろうか。
もしできないと分かれば、敵の王がまだ遠方にいる間に、使者を遣わして和を講じるであろう。それと同じように、一切の持ち物を捨てるものでなければ、あなた方は誰も、私の弟子になることはできない」

ルカ14・28~33

キリストの弟子になるためには

「すべてを捨てなければ私の弟子となることはできない」。これは当然すぎることであるということである。

「命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。 」

マタイ7・14

完徳に至る道は狭いことについて

この言葉のなかで、「なんと」の上にどれほど強調と切願が込められているか注意すべきである。すなわち、その道は、あなたたちが考えるよりもずっと狭いということである。

また注意すべきは、最初に「門は狭い」と言われていることで、キリストの門に入るためには、何ものにも超えて神を愛し、感覚的及び現世的なすべてのものに対し、心をひきしめ、そうしたものからまったく離れないといけないことで、これは感覚の暗夜に属することである。

それからすぐに「その道は細い」という言葉がある。これはすなわち、完徳のことで、完徳の道を通って行くためには、感覚的なものだけでなく、精神的な面からも、すべて引き離すことが必要であることを示している。

「それを見いだす者は少ない」は、その原因に注意を注がないといけない。というのは、精神の徹底した赤裸と無一文の境地に入ろうとし、これを望む人が少ないからということである。完徳の高い山の小径は、上に行くに従って狭くなるもので、われわれの低い欲求がその重さをますもの、また高い欲求がさまたげになるような一切のものを持とうとしない旅の人でないといけない。

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」

マルコ8・34、35

主に従うことについて

神の内に自分自身を求めるとは、神から何かの贈りもの、あるいは楽しみを求めることである。

それに対して神自身を求めるというのは、神のためにそうしたものが、むしろないことを求めることだけでなく、キリストのために、神からも、また世間からも、すべて味気ないものだけを選び取るように心掛けることで、これこそ神への愛なのである。

このことは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うのことばのうちに示されている。つまり自分のために何かを所有しようとし、または探し求めるものは、これを失うというのである。

次に「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うというのは、自分の意志が渇望し、かつ味わうことのできるすべてのものを、キリストゆえに退け、いっそう、十字架となるものを選び取るものは、その命を得るということである。

この小径には、自己放棄と十字架以外になにも入ることはできない。十字架はこの小径を通って到達するための杖であって、これをもっていれば自己放棄も軽く、容易になる。 それゆえ主は、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11・30)と言われたのであって、その荷とは十字架のことである。

というのは、この十字架をとって、それを担って行く決意をしたもの、すなわち、神のために、すべてのことがらのうちに真の労苦を探して、それを担う決心をしたものは、なにも望まず全く赤裸になり、この道をゆくためには、大いなる身軽さと快さとを、すべての中に見出すからである。

われわれにとって必要なことはただ一つしかない。それは、外的なことにも内的なことにも自分を捨てることで、キリストのために苦しみに身をゆだね、すべてのことにおいて自己をまったく無にすることである。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」

マタイ27・46

十字架上の主の模範

主は、感覚的なものに対して死んでおられたことは確かなことで、ご生涯中に霊的に死に、その後命を失われた。というのは、その御言葉通り、その生活には、頭を横たえるところもなかったのであり、その死においてはなおさらであった。

主の死が迫ってきたときに、その心は、上述の叫びがでるほど、何の慰めもなく、御父からも全く乾燥のうちに投げ捨てられていた。これは、キリストがその御生涯で最も強く身にしみて経験した死の遺棄であった。

しかし、まさにこの時こそキリストは、その全生涯にわたる多くの奇跡や御業よりも大きい業、すなわち、恩恵による神と人との和解と一致という業を成し遂げたのである。そしてそれは、主がすべてにおいて最もみじめなまでに打ち砕かれたその時、その瞬間であったのである。

御父は、人間と神と一致させるために、キリストをお見捨てになり、そのようにして御子は全く打ち砕かれ、無に帰せられたのである。

これは、神との一致するためのキリストの門とその道の神秘を、霊的な道をよく歩む人々が理解するため、すなわち、感覚的、霊的のいずれにおいても、神のために自己を無にすればするほど、一層、人は神との霊的一致がなされることをわれわれに教える。

それは休息や甘味、霊的な感情ということにあるのではなく、感覚的な、精神的な、すなわち、内外的なひとつの生々しい十字架の死のうちにあるのである。

第3章 精神の能動的暗夜(記憶)

(注意)これからのべる記憶、意志の機能を働かせないことを述べるが、これらは神との一致に至るべく観想に進歩する人のためのものである。

これらは初歩の人のものではない。なぜなら彼らにとって頭を働かせ、知覚に訴えることは必要だからである。

1 記憶による知解から離れることについて

記憶による知解というのは、聞く、見る、かぐ、味わう、触れるという体の五感の対象によって記憶が形づくることのできるもののことである。

神と一致するために、これら記憶のうちにある全てから離れ、いろいろ想像を働かせることのないように努め、何の思い出も残さないようにしなくてはならない。あたかも過去に何もなかったかのように、何もかも忘れ、すっかり空になってしまわなくてはならない。

なぜなら、神は、何かの形をとったり、何かはっきりとした概念としてとらえられるものではないのであるから神ではない全ての形から離れてしまわなければ、神との一致は不可能だからである。

神は記憶によってとらえられるような形やイメージを持っていないのだから、記憶が神と一致する場合には、記憶は何のイメージもなく、想像もこえて、記憶は忘却のうちに至福のうちに置かれる。というのはその神的一致はイメージをなくし、形や概念を一掃し、記憶を超自然に高めるからである。ただ注意すべきは、こうした記憶の停止は完全な状態に達した人には生じないということである。そうしたことは、一致の初めにあることである。

人は言うであろう。そのようなことを行えば、人は何もかも忘れて動物のようになり、頭を働かせることもなくなり、次に行うことも思いだせなくなってしまうではないか。

これに対しては次のように答えよう。記憶は、神と一致すればするほど、個々の観念はますます高く昇華し、全くの一致に至るときには、すっかりなくなってしまう。

したがって、この一致が行なわれる当初においては、どうしても万事について全く忘れてしまうわけである。そしてイメージや観念がなくなってしまうため、外部的なことがらについては、おびただしい過ちをおかす。

たとえば、食べること、飲むこと、何をしたか、何をみたか、それとも見なかったか、人が何を言ったか、言わなかったかなど、神のうちに記憶が呑みこまれてしまうため、何も思いだせないのである。

しかし、一致が最善の固定状態にまでになると、記憶は、道徳的なことや通常のことがらにおいて、そのような忘れっぽさを保つことはない。それどころか、しかるべく必要なことにおいては、いっそう大いなる完全さをもつようになる。

といっても、そうしたことを、記憶のイメージや観念によってなすのではない。というのは、神との一致が不動になると、記憶および、その他すべての機能の、それ本来の働きは弱まり、自然的なところから超自然的な神のところへと移ってゆくからである。

このように、記憶か神のうちにおいてその姿を変えてしまうと、神はその人の記憶やその他の機能の主として、それらを所有なさるため、神自らその霊と意志に対して、神的に動かし、かつお命じになるからである。それで、霊魂のなすことは、神のもの、神的な働きとなる。

したがって、このような人のすることは、すべて時宜に適した、理性に合ったことばかりで、それにふさわしくないようなことは何もしない。

☆記憶に対する戒め→まず、聞いたり、見たり、かいだり、味わったり、触れたりするすべてのことを記憶に留めないようにすること。そして次にそうしたことを忘れるように努めること。まるで、そうしたものはこの世になかったかのように、記憶の中に何の印象もイメージも残さないで、高いことにしても低いことにしても、記憶を何かの考えに結びつけるようなことなく、記憶が邪魔ものであるかのように、そのまま忘れ去り、洗い落として全く自由にすることである。(注意)しばらくの間、考えやイメージをなくしてしまうことの利益に気づかないとしても、そのために疲れてはならない。なぜなら、しかるべき時に、神は助けてくださるからである。

2 記憶から生じる弊害について①世俗的弊害

世俗的弊害とは、例えば誤謬や、不完全、欲望、判断、時間の浪費、その他、多くの不純を霊魂のうちにつくりだすものなどである。

もし、聞いたり、見たり、触れたり、嗅いだり、味わったりすることを記憶にとどめるならば、その度に不完全が伴う。そこでは何かの執着が生ずる。

そして、その執着から、苦痛とか、恐れ、憎しみ、あるいは、むなしい希望や、はかない喜び、虚栄心などがでてくる。

こうした知解や頭の働きは、霊魂の中に多くの不純を目につかないほど細かく浸み込ませるものである。

そのように不純なものに浸された霊魂から欲望が出てくる。したがって、この欲望から出て来る考えや推理を用いたいと思うことだけで欲望と言えるのである。

またあれこれと心に少なからず出て来るのは当然で、他人の善悪について何かと記憶を働かせないといけないことになり、時に悪いことが良く見えたり、良いことが悪いことに見えたりする。

すべてのことについて記憶の目を閉じ、暗くしなかったならば、そこからうまれるすべての弊害から免れることはできない。そして、もし、そうした知解に気をとめるなら、すべての弊害に打ち勝つことはできない。

故に、そうしたものを一挙になくすための最も優れた方法は、すべてにおいて記憶を否定してしまうことである。

これは、神がその人に恵みをお与えになるための有益な神についてのすぐれた考えと思いを失わせることにならない。

なぜなら、神の恵みをうけとるために一番有益なものは心の純潔であるからである。それは被造物や、この世のものに対する愛着に心が囚われないことである。

3 記憶が生じる弊害について②悪魔が霊魂におよぼす弊害

何かのことを忘れないでいるために、霊魂に及ぼされる第二の弊害というのは悪魔からくるもので、悪魔はこれによって、霊魂に大きな力を及ぼすことになる。

というのは、悪魔は何かのイメージや知解や推理をもって、あれこれと次々に心を煩わせることによって、傲慢や貪欲や、怒りや嫉妬などで心を汚し、さらに憎しみ、むなしい愛を吹きこみ、さまざまの形で欺くことかできるからである。

また、悪魔は、これらのことを、誤りがほんとうのように思われ、ほんとうのことが誤りにみえるように、妄想に刻みつけてしまうからである。

悪魔が霊魂に対してなす大部分の欺瞞や悪は、むだな思い出をあれこれとめぐらすことによって入りこんでくるのである。

したがって、これらのすべてのことに対し、記憶の目を閉じ、すっかり忘れきってしまうなら、悪魔からくるこれらの弊害に対し、完全に門を閉ざすことになりる。

4 記憶から生じる弊害について③善の喪失

記憶から生じる第三の弊害は、倫理的な善の喪失である。

われわれは何かを考えるごとに、その知解に応じて多少とも動かされ、変化をうける。知覚が重苦しいものであれば、悲しみが生じ、快いものであれば、欲望やよろこびが生ずるなど。したがって、その知解の変化によって、心の乱れが生じることになる。

これらのことを忘れるよう努めないならば、心の静けさから生みだされるいつも変わらぬ一貫した態度を保つことができない。

倫理的善は、欲望を抑えることから生まれる霊魂の静かさと平和、落ちつきと徳のことである。 故に、記憶を留めることが、倫理的善をはなはだしく妨げるものであることは明らかである。

その上、人間は一つのことにしか注意を向けられないのに、いろいろなことにとらわれているなら、測ることのできない神のために自由であることはできない。

5 記憶から離れることにより霊魂がうける益について

記憶から離れることから得られる利益は次の三つある。

第一には、心の平安と落ちつきとを、心ゆくまで味わうことができることである。

というのは、思い出から生ずるいろいろの考えのため心が乱されたり、動かされたりしないため、その結果として、より大切な、良心と心の純潔をもつことができるからである。

第二の利益は、悪魔からくる数多くの示唆や誘惑や働きかけから逃れることができることである。

悪魔は、思いや考えを通じて、多くの不純と罪を心の中に入れ、そこに陥らせるからである。したがって、そのきっかけとなる思いを捨ててしまえば、悪魔は霊魂に挑む手段を失うことになる。

第三の益は、こうしたすべてのものを忘れ去ることによって、霊魂は、聖霊によって動かされ、かつ教えられるための心構えを保つことになる。

なぜなら聖霊は「 偽りを避け、愚かな考えからは遠ざかり、不正に出会えばそれを嫌う」(知1・5)だからである。 

記憶をからにすることによって、心を平安にすることができるだけでも大きな徳であり宝である。なぜなら、不安から生ずる苦しみ、悩みというものは、悩みを静めるために何の役にも立たず、それどころか通常ただ霊魂を傷つけるだけだからである。

いつも静かな落ちつきをもって、すべてを耐えしのぶことは、多くの善を得るために役立つだけではなく、同じ逆境にあっても、それらについて、よりよい判断を下すことができるのである。

第4章 精神の能動的暗夜(意志)

1 意志の欲情について

意志という機能を積極的に洗い清め、神の愛を育てるために、最も適切な言葉は次の言葉である。

「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」

申命6・5

この言葉の中に、愛による神の意志の一致まで達するためのすべてが含まれている。というのは、自分のすべての機能や欲求や行ないや愛着を神に向け、あるだけの能力をあげて、ただこのことだけに集中するよう命じているからである。

これは、ダビデの言葉をかりれば、「わたしの力をあなたのために蓄える」ことである(詩5・10)。霊魂は、欲情と欲求のうちにあり意志によってコントロールされている。したがって意志が、自然の心の動きや欲求を神に向かわせ、神ならぬすべてのものを引離すとき、神のために力を蓄えるのであり、力をつくして神を愛することになる。

このようなことがことができるため、神のために力を蓄えておくことを不可能にする乱れた欲望や愛着や動きのもとになるすべてのよこしまな執着から意志を洗い清めることが必要である。

このような欲情には、喜び・期待・悲しみ・恐れの四つがある。これらの欲情が神に向かい、神の光栄以外に何も喜ぶことがなく、神以外に何の期待ももたず、神に関係しないことを悲しむことなく、神しか恐れることがなくなれば、霊魂の力と働きを神に向かわせて蓄えることになる。

なぜなら、神以外のものを楽しむほど、それだけ神における喜びをもつ力が弱くなり、また、神ならぬものを期待すればするほど、神に期待することが減るわけで、他もこれと同じである。

意志が、神から離れ、被造物によりかかればよりかかるほど、この四つの欲情は霊魂を統治し攻撃するようになる。なぜなら、そのとき霊魂は、喜ぶ値打ちのないものを喜び、ためにならないものを望み、喜ぶべきことを悲しみ、恐れることもないことを恐れるからである。これらの執着が度を過ごすと、そこからあらゆる不徳や不完全が生じ、反対にそれが正しく秩序づけられていると、あらゆる徳が生れてくる。

そこで注意すべきことは、この四つの欲情のうちの一つが、理性に従って正しく整えられると、他のものも、同じく整えられるということである。というのは、霊魂のこの四つの欲情は、しっかり結びついているため、そのうちの一つが向かうところに、他の三つもまた隠れてついていくからである。

例えば、意志があることを喜ぶとすると、喜ぶのと同じように望み、かつそのことについての苦しみや恐れも、喜びに隠れた形で含まれることになる。反対に、意志からその喜びを奪いとるなら、それと同じように恐れも苦しみも、痛みも意志から消え去り、望むこともなくなるわけである。

このように、各々の愛着は、他の愛着に結びつけられているため、そのいずれかが働きかけると、他の愛着もそれにひかれて共に動きだす。そして一つが低められれば、他のすべてが低くなり、一つが高められると他のすべてが高められてくる。同じように、何かを望めば、それについて喜びも恐れも苦しみも伴ってくる。

そこで注意すべきことは、欲情がどこに行くにせよ、霊魂の機能もそこに行き、意志もその他の機能もすべてその欲情のとりことなって生きることになるということである。そして他の欲情も、一つの欲情の中で生きることになり、枷をもって霊魂を苦しめることになる。この結果、神との一致の自由と平安を得るために霊魂んは飛び立つことができない。

それで必要なことは、喜び、望み、恐れ、苦しみのこれら四つの欲情を捨て去ることである。

2 喜びとは何か、および意志が喜ぶことのできる対象について。

欲情と、意志の第一の愛着となるものは、喜びである。喜びというのは、ふさわしいと思うあることを大切にする心の満足に他ならない。なぜならば意志は、価値あるものと思い、満足を与えるものでなければ決して喜ばないからである。

これは、積極的な喜びの場合で、その喜ぶものについて明白に理解している時のことである。

この喜びは、六種類の対象からでてくる。すなわち、地上的なもの・自然的なもの・感覚的なもの・倫理的なもの・超自然的なもの・霊的なものである。

意志を理性の下におき、喜ぶ力を神に集中できるようにするたの基礎は、神の光栄に関することのみを意志の喜びとすべきであること。そして、神に捧げ得る最も大きい光栄は、福音的完徳に従って神に仕えるということ、これ以外のものは人間にとって無価値であり無益であるということである。

3 第一の喜び、この世の宝ついて

喜びの第一のものは、この世的な宝である。この世の宝というものは、富、地位、職、その他立身出世などがある。

富や肩書、地位、職などそうしたものを喜ぶことが、いかにむなしいものであるかは明らかである。もし、富むことによっていっそう神に仕えることができるというならば富を喜ぶべきである。

ところが、富は神に背く原因となる。富はそれ自体として、必ず罪を犯させるものではないが、富からくる愛着に心を奪われ神に背くのであって、これが罪なのである。なぜならば罪とは神に背くことだからである。

それで主は、福音書の中で、富を茨と呼ばれている(マタイ13・23、ルカ8・14)。それは意志的に富にかかわるならば、何かの罪を犯すことになることを示すためであった。

また福音書の他の箇所で「財産のある者が天国に入るのは、なんと難しいことだろう」(ルカ18・24)という嘆息は富を喜ぶ心のことを言っていて、富を喜ぶことは、多くの危険に身をさらすため人間は富を喜んではならないことをよく分からせるために言っている。

この危険から離れるために、ダビデは「富において豊かであっても、そこに心をおいてはならない」と言ったのである。

富をもって神に仕えるというのでないかぎり、自分が富をもっていても、兄弟が富んでいるにしても、それを喜ぶべきではない。

というのは、富が神に仕えるために使用される時だけ富を喜ぶべきであり、それ以外では富は何の得にもならないからである。

これと同じことが、肩書とか役目とか、その他のものについても言える。それらが、いっそう神に仕え、永遠の生命に至る道をさらに安全に進んでいくためのものでないなら、それらを喜ぶことはむなしい。

故に、万事がそろって順風に帆を張るように進んだとしても、喜ぶより恐れるべきである。なぜなら、そこに神を忘れる動機と危険が増すからである。

以上のことすべてが、われわれに教えていることとは、神に仕えること以外の喜びをもつのは、むなしく、かつ無益なことで、神によらない喜びは、霊魂のためにならないということである。

4 この世のものを楽しむことによって生ずる害について

地上的なものに心を奪われるために霊魂を襲う弊害は、ちょうど火の粉のように、それが消されなければ、世界を焼き尽くす大きな火になるのにも似ている。

すべての善き宝が神に心を奪われることから出てくるのと同様、すべて悪いものは地上的なものと結びつく楽しみや、愛着に心を奪われることから始まる。

なぜなら、地上的なものに心を奪われることは神から離れることであり、神から離れるならば、大小の差こそあれ、霊魂に弊害を与えるからである。

この弊害には四つの段階がある。そして、その第四の段階に達するとき、あらゆる悪と弊害に至りつく。

第一段階は、地上的な楽しみに心を置くことで「あと戻りする」という弊害が生じる。「あと戻りする」とは神について心が鈍くなり、神の宝を見えなくすることであり、霊的な道を歩む人が、地上的な何かの楽しみに心を置き、欲望に手綱を委ねることで生じるものである。

それらの楽しみや欲望を抑えることなしにいると第二段階になる。

第二段階は、神ではない他のことを喜び、たくさんの不完全や好ましくないことや、楽しみやむなしい喜びに自らをゆだねることになる。

この第二段階がいきつくところまでいくと、今まで絶えまなく行なっていた修練を止めさせ、その人の心も、欲求も、すべて世俗的なものに向かわせるようになる。

この第二段階にある人々は、まだ第一段階にとどまっている人々と異なり、真理や、ものごとの正しい筋道を知るための判断と理性とを暗くするだけではなく、それらを学んだり、実行したりすることについて、怠惰に陥り、生温く、緊張に欠けている。

第三段階というのは、神を捨て去ることであって、神の掟を果たそうと努めず、貪欲のため大罪に陥るままに身を任せることである。

この段階にはこの世のことや、金銭や商売にすっかり没頭し、神の掟にもとづく義務をまるで顧みない人々のすべてが含まれる。かれらは自分の救いに関することについて全く忘れ、感覚が鈍っているのに対し、この世ことに関しては、全く勢いづいて、頭がよく働く。

キリストはかれらを福音書の中で、「この世の子ら」と呼ばれたほどで、かれらは神のことについては無に等しく、この世のことについては万事を心得ている。かれらはまさしく、欲望そのもので、その欲望と楽しみを地上的なものの中に広げる。

しかし、その中に渇きをいやす何ものも見つけることができず、かれらを真に充たすことのできる唯一の神から離れれば離れるほど、その欲望はひどくなる。これが、この世の宝を愛するためにさまざまの罪に陥る人々であって、その弊害は非常に大きい。

第四の段階は、自己の救いである神から完全に離れ去ってしまうことである。

彼らはこの世の宝にとらわれて、神の掟に心をとめず、記憶においても、知性と意志とにおいても神からは非常に遠ざかり、あたかも神が存在しないかのように神を忘れている。

この第四の段階の人々は金銭を神としている。彼らは、神的なこと、超自然的なことを、その偶像であるこの世の事物に、あっさり従わせてしまう。

この第四の段階の人々は、霊的なことがらには、その貪欲のために理性が曇らされ、金銭に仕えて、神に仕えず、金銭に動かされて神に動かされず、目の前に金のことをおき、神的価値やその報いをみない。かれらの最高の神であり、目的である金銭を、終極目的である神よりも先にし、そのためにはあらゆる手を尽くす。

この最後の段階の人は、まことに哀れである。というのは、そうした宝に心奪われ、自分たちの神としているため、このかれらの神に何かの窮乏が生ずると、すぐに絶望し、惨めな目的のために、自らに死を与え、結局かれらは、このような神から与えられる不幸な報いを、身をもって示すことになる。このような神に期待できることは、絶望か死以外はない。

この死という最後の惨めさまで追いつめられなかった人々は、煩悩やその他の惨めさのうちに生き、心のうちに喜びはなく、常に金銭に心を配り、思い悩み、そのために来るべき永遠の滅びという当然の結果を招くまで金銭に執着しているのである。

この世の楽しみ、財産を得ることを究極の目的とするならば、それらは人間に上に述べてきたような害をもたらすことになる。もしその害が少ないとしても、悲しむべきである。というのは、神への道において、霊魂を後退させているからである。

5 現世的な喜びを遠ざけることによって、霊魂に生ずる益について

霊的な道を歩むものが注意しなければならないことは、この世のことに心を奪われないようにすることである。

小事が大事に至ることを恐れなくてはならない。最初にはわずかなことであったものが、終わりには重大なことにまで発展するもので、それは山のすべてを焼きつくすためにはひとつの火の粉で十分であるのと同じである。

だから、そうした執着が小さなものであると油断をしていてはならない。まだ始めの小さいとき、それを断ち切ってしまう勇気がなければ、それが大きくなり、根を張ってから、切り倒すことができないからである。

主は福音書の中で、「ごく小さなことに不忠実な者は、大きいことにも不忠実である」(ルカ16・10)と言われている。なぜなら小さい執着を退けないものは、それより大きなことを退けることができないからである。

したがって、神のため、キリスト教的完徳のために、この世の多くの益のためにも、前に述べたような楽しみから、心を全く自由にしなくてはならない。なぜなら、それによって、前章に述べたような最も悪質な弊害から免れるばかりではなく、この世の宝に対する楽しみを捨てることによって、寛容という徳を得ることができるからである。

また、それ以外に魂の自由、理性の明晰、平安、静けさ、神における落ちついた信頼と神に対する心からのまことの崇敬と礼拝を捧げることができるようになり地上的にも大きな喜びと憩いとを得ることができる。その喜びは、所有欲をもって地上的なものを見ている人が受けとることのできないものである。

所有欲は一種の不安となって、ちょうど縄のように心を地上にしばりつけ、心を自由にさせることがない。したがって地上的なものから離れれば離れるほど、地上的なものに対する真理を正しく認識することができる。

地上から心を離している人は、地上的なものを喜ぶにしても、所有欲にとらえられている人とは甚だしく異なり、はるかに優れたものをとりだす。なぜなら、前者は地上的なものをそのあるがままに受けとり、後者は錯覚によって受けとるからである。また、前者はよいものに従い、後者は悪いもの、前者は実質的なもの、後者は付随的なものによって、地上的なものを感じとるからである。

事実、感覚は、付随的なものより奥に達することはできない。しかし、目をまどわす付随的なものから清められた霊魂は、事物の真理と価値をみつめ洞察する。これがその対象だからである。

そもそも楽しみというものは、霧のように判断を曇らせる。というのは愛着がなければ、地上的なものを進んで楽しむということはないわけで、これはちょうど、心の中に愛着をもっていなければ、楽しみという感情をもつことがないのと同じである。

地上的なものの楽しみを退けることは霞のはれた空気のようにものを見る目をはっきりさせてくれる。前者はどのようなことについても、とらわれた愛着をもたないため、かえって、それらのすべてを所有しているかのように喜びをもつのに対し、後者は、自分のものとしたいという所有欲をもってみるため、すべてに対し、喜びを全く失うことになる。

前者は心のうちに何ももっていないのであるから、聖パウロのいうように、すべてを大きな自由のうちに所有している(コリント後6・10)。それに対し地上的なものに愛着のある後者は、地上的なものが彼の心をとらえているため、彼はまるで奴隷のように苦しみのうちに所有している。

地上的なものを楽しみたいと思う人は、その奪われた心の中に、どうしてもそれだけの苦しみと悩みとをもつことになる。地上的なものから離れ去った人は、祈りの時も、それ以外のときも、彼を苦しめる心痛はなく、時間を失わず、容易に多くの霊的宝をつくりだす。それに対し後者は、その心がつながれ、奪われている縄に巻かれて回っているだけで、どんなに努力しても、その心がつながれている思いや楽しみから自由になることはほとんどない。

霊的な道をゆく人は、地上的なことに楽しみを覚えるとき、その最初の衝動において、抑制し、次の教えを思いだすべきである。すなわちすべてのことにおいて、ただ神に仕え、神のご光栄のために努めること以外に、人間の喜ぶべきものはなく、そのためにすべてのものを、そのことのためにのみ向け、むなしいものから離れて、地上的なものの中に、喜びや慰めを求めないようにしなくてはならない。

地上的なものの楽しみをなくすることは、他にきわめて大きな利益がある。それは神に対して自分を全く開ききることができるということである。これは神が人間に与えてくださった、すべての恵みを受けとるための、第一の心構えで、この心構えがなければ、神は恵みを与えてくださることはない。その恵みは、福音書で神が約束されているように、たとえこの世のものであっても、そのひとつの楽しみを、神に対する愛と、福音的完徳のために捨てるならば、この世においてすでにそれに百倍する喜びをお与えくださるということである(マテオ19・29)。

しかし、このような利益は別として、地上的なものを楽しむことで神にお与えする不快というだけで、これらの楽しみを心から消さないといけない。現に福音書をみると、長年の生活を支えるに足る宝を蓄えて、楽しい生活をしていたあの富者は、ただ、それだけのために神の大きな怒りを買い、彼に向かってお前の魂は、この夜のうちにも裁きに呼ばれると言われたほどであった(ルカ12・20)。このようにわれわれが空しい楽しみに耽るたびに、神はそれをみて、その当然の報いである罰をお思いになっているわけで、その苦しみは、楽しみの何百倍ものものであることを信じなくてはならない。

神は聖ヨハネを通じ、黙示録の中で(18・7)、快楽に耽っていたバビロンのことを話し、それが楽しんでいただけの苦しみと罰とを与えよと言われているのは事実であるが、束の間の楽しみにも永遠の苦痛が与えられることも事実である。

神がここにおいてお示しになっているのは、どんなこともそれ相応の罰なしにはすまされないということである。なぜなら無益な言葉を罰する神が、むなしい楽しみをお許しになるはずはないからである。

6 第二の喜び、自然の宝について

ここで、自然の宝というのは、美しさ、優しさ、風采、容姿、その他の体の特質のことであり、精神においては、優れた知性とか鑑識眼など、その他理性的な特質のことである。

こうした自然の宝を自分自身または自分の身近なものがもっていることで喜ぶが、そうした賜を与えられた神に感謝を捧げない。そのように喜ぶことは、むなしいことである。なぜなら、そうした宝のために人間は神の愛を忘れ、虚栄心に陥り、欺かれるからである。したがって、こうした賜や、自然の美しさから空しい高慢や極度な愛着が生じ、神に背く原因にならないかと恐れなくてはならない。

霊的な道を歩む人々は、美しさとか、その他の人性の優れたものなどは、すべて土からのもので、土に帰っていくものであることを思い、その空しい楽しみから、意志を浄め暗くしないといけない。

美しさは土および土からの蒸気のようなものである。虚栄に陥らないため、このことをはっきり自覚し、神はすべての地上的なものを超えて、これらすべてをぬきんでた無限の美しさを備えておられることを、喜びをもって考え、心のすべてを神に向けなくてはならない。

自然の宝に対して、自分の喜びを神に向かわせなかったら、その喜びは常に間違いであり錯覚である。だからソロモンは被造物に心をひかれそうになるときに言った。「喜びに向かって私は言う。お前は、なぜ空しいものへと私を誘うのか」と。

7 自然の宝に心を奪われることによって霊魂に生じる害について

自然の宝を喜ぶときの六つの害
①虚栄心、傲慢と、隣人に対する軽蔑
ある一つを大切にするなら、当然心は、他のものを退けて、自分が大切にするその一つのことに集中するので、他のことを軽視することは当たり前である。
②官能的な満足や楽しみ、さらに淫らな気持へと誘われる。
③へつらいや、むなしい賞賛のワナにかかり、錯覚と虚栄心のとりこになる。
④理性や霊の意識をひどく鈍らせる。

この賜物は人間に密接しているため、こうしたものを喜ぶことは、すぐに心に響いて、心に深い跡を残し、ひどく意識をマヒさせる。そのため理性と判断は、自然の宝の楽しみのとりこになって、光を失ってしまう。
⑤地上的なものに心を散らす。(④に続き生じる)
⑥生ぬるさ、気のゆるみなどが生じる。(⑤に続き生じる)

その人全体にひろがり、神のことについては非常に退屈で、心の重荷になり、ひどく嫌悪するまでになる。

自然の宝を楽しむ場合、少なくともその始めに、霊魂は必ず心の純潔を失う。そして、そのとき霊魂は霊の中にあるのではなく、感覚の楽しみの中にある。なぜなら楽しみを求める心の傾きのなかにいるならば、霊は感覚の弱さのうちに生きているからである。

ここで第二段階の害について話を戻す。人が自然の宝を楽しむことが官能的なことを楽しむことに至る場合、これには無数の害を生じる。

私たちは、毎日このために、多くの人々の死、多くの名誉失墜、多くの侮辱、蕩尽された財産、嫉妬と争い、姦通、暴行、邪淫のほか、地に堕ちた多くの聖なる人々でさえ見ることができるからである。

どんなにすぐれた人であっても、天性の美しさを喜んだり楽しんだりするならば、酒酔いのために麻痺した人のようになる。この楽しみの酒に少しでも酔うと、すぐに心はそこに釘づけにされ、酔わされ、まるで酔っぱらいのように理性がくらんでしまう。それによりその人は霊的な力を奪われ、多くの災いをもたらされるからである。

これを防ぐために、自然の宝に対するむなしい楽しみに心が動かされるようなことがあったなら、すぐに、神に仕える以外の喜びはどんなに虚しいものであるか、また自然の宝を楽しむことは、どんなに危険で、有害であるかを思い起こさなくてはならない。

みだらにならないために詩人は次のように言っている。「わたしは目と契約をした。どのような娘にも目をとめない」と。なぜなら、人の美しさに目をとめるならば、それを楽しむことになり、美しさを楽しむことは情欲の誘惑が入り、その誘惑に同意することで罪を犯し、情欲に同意することは行為に移るからである。

8 自然の宝を楽しまないことによって得られる益について

人を欺く、外見の美しさに全然こだわらないことは非常に有益である。なぜなら神がお望みになる愛をもって理性的かつ霊的に隣人を愛することができ、心は自由かつ明るく澄んだものとなるからである。

もしその人に執着があるなら、それは神を愛するための大きな執着である。なぜなら、人を欺く美しさにとらわれることなしに隣人を愛れば愛するほど、それだけ神への愛がますます大きくなり、神への愛が増せば、それだけますます隣人に対する愛が大きくなるからである。というのは神のうちにある愛がその人の力となっているからである。

この種の楽しみを退けることによって、他のきわめて大きな益が生ずる。すなわち「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を担って、私に従いなさい」(マタイ16・24)といわれた主の勧めを守ることになるからである。

もし、自分の生まれつきの宝におぼれているならば、決してできないことである。なぜなら、自分にこだわっているものは、自分を否定することができず、したがってキリストに従うことができないからである。

この種の楽しみを退けることには、その他の大きな益がある。それは心のうちに大きな平安をもたらし、気を散らさず、五官、とくに、目にしずかな落着きを与える。なぜなら、何も楽しみたいと思わないため、それを見ることも、他の感覚をそこに向けようともせず、そうしたものに引きよせられても、それに囚われることなく、時間も、考えもそんなことに浪費しないからである。心の門である五官を警戒することは、心の平安と純潔をよく守ることであり、それを増すことになる。

この種の楽しみの抑制に進歩した人は、なお他にもこれに劣らぬ利益がある。すなわち何か芳しくないものや考えが、心に残ったり心を汚したりしなくなるわけで、そのようなものに何か満足感をもつ人とはちがう。こうした楽しみを否定し抑制することから生ずることは、霊魂と体、すなわち精神と五官の霊的清さということで、霊魂と体を聖霊の神殿にさせ、それらは神に対し天使のようなふさわしさを持つようになる

もし、生まれつきの美しさや長所におぼれているならば、このようなことはあり得ない。それも何か醜いことを自分から受けとったり、あるいは思いだしたりしなくても、ただ自然の宝を楽しむ心があれば十分霊魂と五官は汚れてしまうのである。

なおそのほかにも続いて益が生ずる。というのは、多くの虚栄や、数多くの害から身を守ることができ、特に自分についてあるいは他の人についての生まれつき与えられたものを褒められたいとか、それにおぼれたりする人が与える軽蔑を気にしないですむからである。

このような人が尊敬する人は、神の御望みになること以外に関心をもたない人である。上に述べた益から、神に仕えるために必要な精神の自由という、きめてすぐれた益が生ずる。これがあれば、誘惑を克服することも容易となり、困難にも立派にたえしのび、徳において非常に進歩することができるようになる。

9 第三の喜び、すなわち感覚的なものについて

さて、今感覚的な楽しみについて論ずるわけであるが、これは心をとりこにするもののうちの第三の種類に属する。ここで注意しなくてはならないのは感覚的なものとは生活において、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚および想像の働きをつくりだす内的にも、外的にも体の感覚に属するものを意味する。

これら感覚的な楽しみに対して心の目を閉じ、それを洗い清め、心を神に向かわせるためには一つの真理が前提となる。すなわち、人間の低い感覚的な分野は、今までも述べたように、神をそのあるがままに知ることも理解することもできないということである。

たとえば、神または神と思われるようなものを目は見ることはできず、耳は、神の声またはそれらしきものを聞くことができない。嗅覚は、それほど快い香りをかぐことはできないし、味覚はそれほどまでにずば抜けた美味を味わうことができず、また触覚はそれほどにデリケートで快いもの、またはそれと似つかわしいものに触れることはできない。また、神を表すような何かのイメージや映像が、思考や想像のうちに入ることもできない。

そこで注意しておくことは、内的に何か神から受け取る精神の側からにせよ、あるいは、感覚に与えられた外的な事物の側からにせよ、ともかく感覚はそうしたものから楽しみや快さを受け取るということである。

ところで、今、述べたように、感覚的な部分は、霊的な道によっても、感覚の道によっても、神を知ることはできない。なぜなら、感覚的な部分はそこまで達するだけの力を持っていないため、霊的なことも感覚的なことも感覚の枠内で受け取るだけで、それ以上に出ることができないからである。

したがって何か感覚的にとらえられたものによって生じる楽しみに意志を浸すことは神にのみ喜びを見出し、神にのみにすべてを与える意志をそぐことになる。感覚的な楽しみは他の場合と同様、それを洗い落し、それに目をつむってしまわないかぎり、「全く神のみに」ということはできなくなる。

したがって「全く神のみに」なるために、聞いたり、見たり、触れたりすることに楽しみを感じることがあったとしても、すぐにその感覚的な楽しみから離れ、神における喜びへと心をあげることが必要である。

そして、このよな楽しみを欲しいと思う気持ちが自分のうちに支配していることが分かったなら、それを失くしてしまわないといけない。なぜならばそれが強くなればなるほど、ますます不完全になりもろくなるからである。

10 感覚的な楽しみのために霊魂が受ける害について

感覚的なものから生じる楽しみを神の方に向け、その目を閉じて打消さなければ、霊魂はその楽しみから次のような害を受ける。

  1. 目に見えるものの楽しみからは、それを神に向けるためその楽しみを拒否しないならば、すぐに虚栄心が生じ、集中力を失い、欲が深くなり、恥ずかしいことも平気になり、外的にも内的にもしまりがなく、不純な考えや嫉妬が生ずる。
  2. 無益なことを聞く楽しみからは、すぐに気が散ったり、おしゃべりになったり、嫉妬や不確かな判断、さまざまの思い、その他数多くの危険な弊害が生ずる。
  3. こころよい香りを楽しむことからは、貧しいものに対する嫌悪感が生ずる。なお服従に対する逆らいや、卑しいことも素直に受けとる心をもてなくなり、霊的無感覚が、その欲求に比例して現われてくる。
  4. 食物の味覚を楽しむことからは、貪食や酩酊、怒りや不和、隣人や貧しい者に対する愛の欠如が出てくる。さらに精神がきわめて鈍感になり、霊的なことに対する欲求を抑えてしまうため、霊的なものを味わうことも、そこに心をとめることも、また問題にすることもできなくなってしまう。またこの味覚の楽しみは、その他のことに集中しにくくなり、それにより不満が生じるようになる。
  5. 快いものに触れる楽しみからは、もっとたくさんの、またさらに危険な害が生じ、感覚的なものが精神の中にまで流れこみ、精神の力とたくましさとをなくしてしまう。

これらの楽しみの多少に応じて、怠慢あるいはその傾きという忌むべき悪徳が生じてくる。欲情が生じ、精神は柔弱になり、臆病となり、ひどく感覚的になって、すぐに罪をおかし、心を傷つけるようになる。むなしい楽しみや喜びが心に浸潤し、舌を抑えることができず、目の慎みに欠け、その他の感覚は、このような欲のために、多少の差こそあれ、麻痺し、鈍くなる。

そして霊的無知と愚鈍に留まるために、正しいことの判断ができず、倫理的には臆病と不安定とをつくりだす。精神は暗く、心は弱くなるため、何も恐れることはないのに恐れたりする。これは時として精神をくらますため、ものごとの見分けがつかず、心または良心が無感覚になり、理性をひどく弱くさせ、よい意見を与えることも、受け入れることもできなくなり、霊的、倫理的な宝に対して、用をなさぬものとなり、あたかも壊れた器のように役に立たぬものとなるのである。

すべてこのような害は、この種の楽しみから生ずるもので、その楽しみの大きさ、それに陥るたやすさや脆さ、不安定の度に応じてその程度を異にする。

11 感覚的なものについての楽しみを退けることによって受け取る霊的および、この世での益について

この種の楽しみを退けることによってうけとる益は、まことに驚くべきもので、それには、霊的なものと、この世のものとがある。


第一の益は、余りに感覚を使いすぎて、さまざまのことに気を散らしていたのが、神に自己を集中するようになる。そしてすでに獲得した徳と心とを保ち、育くみ、自らのものにしていくことである。

第二の益は、感覚的なものについて楽しみを求めなくなることである。これはすばらしいことである。すなわち、感覚的なものから霊的なものが生みだされ、動物的なものが理性的なものとなり、またさらに人間が天使的な道を歩むようになり、現世的、人間的なものから神的、天上的なものが現われるようになる。

というのも感覚的なものの楽しみを求め、そこに満足を求めるような人間は、感覚的、動物的、現世的と言うより外はなく、それに対して、これら感覚的な楽しみを求めないならば、霊的、天上的という言葉に全くふさわしいものとなるからである。

これは明らかな真理で、使徒パウロの言っているように、

霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。  

ガラテア5・16、17

感覚を働かせることや、五官の力というのは、霊的な働きや力に反するもので(ガラテア5・17)、一方の力をおさえるならば、他方の力を増すことになるわけで、一方の妨げを受けると他方は成長することはない。そのように神との関連や交わりをもつ、高貴な部分である霊が完全なものになれば、上述のものをことごとく獲得し、霊的かつ天上的な宝や、神の賜によって満たされるのである。

動物的な人間は神の霊のことを受け入れません。その人にとって愚かなことに思えるので理解することができないのです。なぜなら、霊のことは霊によって判断すべきものだからです。

1コリント2・14 バルバロ訳

意志を感覚的なものにのみ向けている人間を、聖パウロは神のことを知らない動物と呼び、神にまで意志を高めるものを、神の深いところまで、すべてを見抜き、かつ見定める霊的な人と呼んでいる(コリント前2・14)。このようにして人は神からの宝、霊的賜をうけとるだけの大きな整えをする益をもつことになる。

第三の益は、意志の喜びと楽しみが、すでにこの世で、非常に大きなものとなるということである。その益は、主が仰せになったように、この世において、一に対して百が与えられるからである。

というのは、一つの楽しみを退けるならば、主はすでにこの世において、霊的にも、地上的にも、百をもってお答えになるという意味である。それと同じように、感覚的なことに対する一つの楽しみからは百の後悔と悲しみが生まれることになる。

なぜなら、見る楽しみにおいて浄められたひとみから霊的な喜びが生じ、見るものが神的なものでも、この世のものであっても、その全てが神に向けられるからである。

また聞く楽しみが浄められた耳からは、その百倍の非常に大きな霊的喜びが生じ、聞くことが、神的なものであれ、世間的なことであっても、聞くことのすべてが神に向けられる。その他の感覚が浄められた場合もそれと同様である。

欲望の楽しみを克服しないものは、神のおつくりになったものや、そのみ業を通して、神におけるすんだ喜びを受け取ることができない。感覚的な生活を送らないものは、その感覚と機能のすべてが、神的観想に向けられている。

その結果として、心の清い人は何ごとにおいても、神を喜び楽しむ、清くすんだ、霊的かつ明るい愛にみちた考えをもつようになるのである。

以上のことから次のように言うことができる。すなわち、感覚的な楽しみからいつも清められ、感覚的な楽しみを直ちに神に向かわせることができるまで、感覚的な楽しみや喜びを退け、感覚的な生活から心を引き離すようにしなくてはならない。

12 第四の喜び、倫理的な宝について

意志が楽しむことのできる第四のものは倫理的な宝である。ここで倫理的宝というのは、倫理徳とか、徳の習性の、慈悲の行ない、神の掟の遵守、礼儀その他よい性質や傾きをもってするすべての行ないのことである

これらの倫理的な宝は、それがすでに所有され、実行されているときには、おそらく前に述べた他の三種類(この世の宝、自然の宝、感覚的なもの)のいずれよりも、いっそう大きな意志の喜びを生みだす。

そこで、前述の三種類の宝をもつことは、心からそれを喜ぶにふさわしいものでないことにわれわれは気づく。それに対し倫理的な宝は、それ自体がもつ価値からして、それを持つものにとって何かの喜びとなるにふさわしい。

なぜなら、倫理的な宝は平安と静かさをもち、理性を正しく秩序立てて用い、調和ある行動をとり、この世において人間にこれ以上に優れたものを持つことはできないからである。

これらの徳は、人間的に言うなら、それ自体として愛され、尊重されるのにふさわしく、それをもっていることを喜んでよいのであり、この世において人間によきものであるため、それを実践するよう努めることができる。

しかしキリスト信者は、この世で行なう倫理的宝と善業を、神の愛のために役立ち、永遠の生命を得させるためのものとして喜ばなくてはならない。したがって、自分のよい行ないと徳とによって、神に仕えあがめるためのものでなくてはならない。

なぜならこの見地に立たなかったら、徳さえも神のみ前に価値はないからである。ゆえにキリスト信者は善業をし、よい風習に従うというだけでなく、他の何も顧みず、ただ神を愛するためにだけ、これらのことを行なうべきである。

そこで倫理的な宝において、喜びを神に向けるため、キリスト信者の注意すべきことは、断食や、施しや、償いなどの善業の価値を、それらの量や質に置かず、その中になくてはならない神の愛に置くべきである。

そのようにすれば、あれやこれやで、喜びや楽しみ、慰めや、賞賛などに関心をもつことが少なければ少ないほど、神への愛が、いっそう純粋かつ完全なものとなり、そうした行ないの価値が生みだされる。

したがって、善業をなすことや、その修業に通常伴う喜びや、慰めや、味わい、その他心ひかれることに、心を置いてはいけない。

そのような行ないをもって神に仕えることを望み、自らを清め、喜びに対して心を閉じ、心を神に集中させていくべきで、それらの善業を喜び、ひそかに快く思われるのはただ神だけであるように望み、神のご光栄のためという以外、何の考えも心の糧とするようなことがあってはならない。このようにすれば倫理的な宝に向かう意志の力が、すべて神に集中されることになるであろう。

13 倫理的な宝に心を奪われるために生ずる七つの害について

自分の善業や、よい倫理的宝についてのむなしい喜びのために陥るおもな害は七つあり、それが霊的なものであるだけに害もはなはだしい。

第一の害は虚栄と傲慢と自負と僭越である。自分の行ないについて喜ぶのであるから、そのことを重んぜずにはおれない。ここからうぬぼれやその他のものが生まれてくるのであって、これは福音書の中にでてくるファリザイ人について言われているとおりである(ルカ18・4)。彼は自分が神に祈り、断食し、善業をなしているといううぬぼれにいい気になっていた。

第二の害は、他人を自分と比較して、その人を悪いもの、劣ったものと考え、人は自分ほどよい行ないをしていないと思い、心の中でその人を軽蔑し、ときにはそれを言葉にだしてさえ言うようになることである。あのファリザイ人が、その祈りの中で、「神さま、わたしは他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します」(ルカ18・11)と言っているのは、このような害をもっていたことを意味する。このように、ただ一つの行為から、二つの害をうけるわけで、その一つは自らを高潔とし、他の一つは他人を軽蔑することである。

第三の害は、行ないのうちに楽しみを求めることで、その行ないをすることによって何かの喜びと称賛が続かないかぎり、その行ないをしようとしない。つまり、キリス卜の言われたように、その行ないのすべては、「人に見られるため」(マタイ23・5)であって、神の愛によってのみするのではない。

第四の害はこの世において喜びや慰め、名誉とかその他のものを、その業のうちに求めるため、神から報いをうけることがないことである。これについて主は、「かれらはすでにその報いをうけた」(マタイ6・2)と言われている。

こうした害を避けるため、神だけがそれをご覧になり、他のものは気づかないよう、その行いを隠さなくてはならない。それをただ他人の目に触れないようにするだけではなく、自分自身に対してもそれを隠さないといけない。

というのは、自分の行いが何か大きいことであるかのように考えて、いい気になったりしてはならないのであって、これは主が「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6・3)と言われたことの霊的な意味である。つまり、霊的になす業を、この世的な目や肉の目をもってしてはならないということである。このようにして意志力が神に集中されると、その業が神の御前に実を結ぶようになる。

第五の害は、完徳の道において進歩が止まることでおる。かれらは自分の業の楽しみや慰めにすっかり心をとられているために、自分のしていることや、修練にそうした慰めや楽しみを見いだせなくなると、通常気落ちし、仕事に興味がもてなくなって忍耐を失ってしまうのである。

第六の害は、通常自分に気にいらないことよりも、気にいることや業を、いっそうよいものと考え、そのために欺かれることである。

一般に、自分の慰めを見出し、そこでいっそう時分自身を探しやすいような業よりは、自分を抑えることが、神はお喜びになる。最も喜びとなることは大切なことである。というのも、自分を抑えることで人は自らを捨てるからである。

第七の害は、そうした倫理的な行ないにも感ずるむなしい楽しみを打消さないなら、なすべき業に対して与えられる勧告や正しい教えを受け入れるだけの包容力がなくなるということである。

彼らは心の脆さのため、そのむなしい喜びにしばられて、他人の勧告をよりよいものと考えず、たとえ、よいものと思っても、それに従うだけの勇気をもち合わせないのである。こういう人々は、神と隣人に対する愛において非常に弱い。なぜなら自分の業に対してもつ自己愛がその愛がその愛徳を冷却させてしまっているからである。

14 倫理的な宝についての楽しみから離れることによって、霊魂に生ずる益

倫理的宝を楽しまないことから生まれる五つの益

第一にそのようなよいことがらのうちに隠されている悪のおびただしい誘惑や欺瞞に陥ることからまぬがれることである。

悪魔はむなしい楽しみや、むなしい業の中で、霊魂を欺くのである。このような楽しみのうちに、いつのまにか悪魔に欺かれるのは不思議なことではない。なぜなら悪魔からのそそのかしがなくとも、そのむなしい楽しみ自身が欺瞞であり、特によいことをしたとき、心の中に少しでもうぬぼれをもつときには、そうであるからである。このような自己満足から洗い清められれば、欺瞞をまぬがれることができるのである。

第二の益は、仕事をするのにも徹することができることで、もしその仕事に喜びや楽しみの気持ちがあるなら、そうはいかないからである。

なぜなら楽しみたいという熱にかけられて、怒りとか欲望が幅をきかし、理性に席を譲らず、大抵はこれをやめて、あれをしてみたり、始めてみたり、やめてみたりして、結局なにもすることなく、することにおいて猫の目のように変わりやすくなるのである。というのも、楽しみゆえにするのであるから、楽しみというものは元来、他のものより変わりやすいものであるため、この楽しみがなくなれば、どんな大切なことでもする気がなくなってしまう。それというのも仕事の力、その励ましとなっているのが楽しみであるからで、楽しみが消えれば、仕事も終わりで、堪え続けることがない。

第三は神的な益で、これは何ごとをなすにもそのむなしい楽しみを消し、神の御子が言われた真の幸福の一つである心の貧しさを全うさせる。すなわち「幸いなるかな心の貧しきもの、天国はかれらのものである」(マタイ5・3)ということである。

第四は、こうした喜びを否定してかかる人は、そのような仕事をする場合にも柔和、謙遜であり、賢明となる。なぜなら楽しみを追う欲や、それが得られない憤りにおされて、荒々しくなったり、あせったりしないからである。また自分の仕事の楽しみから、それを高くかいかぶってうぬぼれることもなく、その楽しみのために注意を欠いたり、盲になったりすることもない。

第五の益は、神にとっても人々にとっても愛されるものとなることであって、貪欲や貪食、霊的怠惰や嫉妬その他無数の悪徳からも自由になる。