ヨハネ福音書19・28~30

聖アウグスティヌス著作集から抜粋して要約しています。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。

ヨハネ19・28~29

主イエスは、神と人との仲保者であった。彼は、神であるが同時に人である。主に刑を下した人々は、この人を神として認めていなかった。実際、彼は神としての姿は隠されていた。神であり人として現れた方は、すべてのことを被られたが、その方がこうするように整えたのである。それゆえ、ぶどう酒を受けて引き取られる前に、起こるべきすべてのことが成就すしたのを見られたのである。

そして聖書が「乾いたときにわたしに酢を飲ませました」(詩編69・22)と預言したことが成就するために「わたしは渇く」と言われたのである。それは、あなたがたはまだこのことをしていない、あなたがた自身がそうであるものを与えなさい、と言っているかのようである。

実際、ユダヤ人たち自身がすっぱいぶどう酒であって、族長や預言者のぶどう酒から悪化し、いわばいっぱいになった器のように、この世の不義をいっぱい含んだ、穴の多い入り組んだへこみで欺く海綿のような心を持っているのである。

彼らが酢にひたした海綿をつけたヒソプは、みすぼらしい草で、胸を清めるので、彼らが取り巻いて捕らえたと思ったキリストご自身謙遜に適合するものとして受け取るべきである。

そこで「ヒソプでわたしを清めてください。そうすればわたしは清くなるでしょう」(詩編51・9)と歌われているのである。実際、私たちはキリストの謙遜によって清められるのである。なぜなら、もしキリストがご自身を低くされ、十字架の死に至るまで従順ではなかったならば、たしかに彼の血は罪人の赦しのために、すなわち私たちの清めのために流されることはなかったからである。

イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。   

ヨハネ19・30

このことは、預言がはるか以前に予告していたこと以外何であろうか。それから、死なれる前になねばならないことは何も残っていないので、ご自身の命を捨てたり、再びそれを受けたりする力をもっておられる方は、成就するように待ち望んだすべてのことをなし終えたかのように「頭を垂れて息を引き取られた」。イエスが欲するときに死なれたように、欲するときに眠れる者がだれかいるであろうか。イエスが欲するときに、欲するように受難を受けられたのである。

もし死ぬときにそれほどの力を現わされたとするならば、裁かれるときの力は、いったいどれほど待ち望まれるもの、あるいは恐るべきものであろうか。