ヨハネ福音書 18・1~12

聖アウグスティヌス著作集より簡略して抜粋 

こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、イエスは弟子たちとその中に入られた。

ヨハネ18・1

「 こう話し終えると 」とあるように、ヨハネ17章の祈りのあと、ただちに園へ向かったのではない。そこで省略していることは、他の福音書が記している。こう書かれているのは、この言葉を終える前に園に入って行かれたと、私たちが推測しないためである。

「 イエスを裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。イエスは、弟子たちと共に度々ここに集まっておられたからである」

ヨハネ18・2

ユダは、主に罠をかけることを望みながら、どこで裏切っていいかを日頃から考えていたのである。

それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た。松明やともし火や武器を手にしていた。

ヨハネ18・3

「兵士」はローマの兵士である。したがって合法的な権力の行使という手順を踏んで、犯罪者を逮捕するように、その一隊を総督から受け取ったことがわかる。また多くの人が集まり、武装して向かったが、これはキリストを守ろうとする者がいれば、威嚇し、場合によっては攻撃するためであった。

イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。 

ヨハネ18・4~6

兵士たちは捕らえないで、後ずさりして倒れたのは、欲することは何でもできる方がそれを望まなかったからである。しかし、捕らえられることをお許しにならなかったら、主ご自身もこの世に来た目的を果たすことはできなかったであろう。したがって、主は、使徒たちを去らせたあと、捕らえられることを許可する。

そこで、イエスが「だれを捜しているのか」と重ねてお尋ねになると、彼らは「ナザレのイエスだ」と言った。すると、イエスは言われた。「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい。」 それは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」と言われたイエスの言葉が実現するためであった。 

ヨハネ18・7~9

主は、使徒たちを去らせる。なぜなら、その時彼らが死んだならば、信じないままの状態で死んだであろう。主は、彼らが信じている状態で死ぬことを望んでいたのである。

シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった。 

ヨハネ18・10

「マルコス」は、支配する者という意味である。切り落とされた耳は癒されるが(ルカ22・51)、癒された耳は新たにされて聞くことを表す。

イエスはペトロに言われた。「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか。」

ヨハネ18・11

ペトロは主を守るためにこれを行ったが、この受難の意味することを考えていなかった。したがって、言葉の前半は忍耐するように、後半はそれを理解するように言われたのである。

この父から渡される苦難の「杯」は、「 わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」(ローマ8・32)ことを言っている。一方、この「杯」を飲む主キリストについては、次のように言っている。「 キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださった」(エフェソ5・2)。

そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを捕らえて縛り、 

ヨハネ18・12

兵士たちは、近づくことのできないからを捕らえた。彼らは主を殺すためではなく、心で受け入れるために捕らえるべきであった。だが今や、主をこのように捕らえたとき、主からいっそう遠ざかることになった。