「神の国12」聖アウグスティヌス

神の国の至福について 

1章 天使と人間の創造 

はじめに世界をつくり、すべての善きもの(目に見えるものであれ、見えないものであれ)でもって世界を満たしたのは神である。世界の中で、神のはじめたもののうち、霊的存在者よりも善いものはない。神は彼らに知性を与えて、神を観想する素質と能力のあるものとし、かつまた一つの社会のうちに彼らをつなぎ合わせた。私たちはその社会を聖なる上なる国と呼ぶ。そこにおいて神自身が彼らの存在と至福の源であり、いわば彼らの共通の生命、共通の食物である。

神はこの知性的存在者に自由な選択(自由意志)をさずけたが、そのため彼らはもし欲するならば神を、すなわち自らの至福を捨てて、悲惨が続くことがありえたのである。

神は天使たちのある者が、自分の力に頼るだけで至福の生を獲ようと望み、その高慢により大いなる善を捨てるに至ることを予知したが、それにもかかわらず、彼らから選択の自由を奪い取ることはしなかった。なぜなら、神は、悪しきものからさえも善きものをつくることのほうが、悪の存在を認めないよりも、ずっと力と善に満ちたことだと判断したからである。

可変的な存在者は善きものであり、あらゆる善きものを創造した至高なる神によってはじまった。したがって、可変的な存在者自らが、罪を犯し、悪を生んだのでないならば、どんな悪も生じなかったであろう。

しかしまた、彼らの罪は、彼らの創造された自然本性が善であることを証明している。なぜなら、その本性が創造者に等しくないことは言うまでもないが、可変的な存在者自身が大いなる善でないならば、神に背くことが彼らの悪になることなどありえないからである。例えば、盲目について言うと、盲目は目の欠陥である。しかしこの事実も、目は光を見るためにつくられたことを教え、それゆえこの欠陥自体、目は身体の他の部分にまさって光を見る力を備えていることを証明している。これと同様、かつて神を享受していた被造物は、その欠陥により今は神を享受せず、そのため悲惨な状態に陥っているが、その欠陥自体、その自然本性が善きものとしてはじまったことを告げている。 

神は、天使たちの意志的な堕落に対しては永遠の不幸という、もっとも義しい罰を負わせたが、他方、至高の善に固くとどまっている天使たちには、終わることない至福にとどまり続けることを保証し、これを報酬としたのである。

神は人間も天使と同様、自由な選択を働かせる正しい被造物としてつくった。人間は確かに地上の動物であるが、自らの創造者に寄りすがるならば天にふさわしい者となり、これと反対に創造者を棄てるならば、堕落した天使の場合と同様に悲惨な状態が伴うのである。

神は、人間が神の律法に背き、神を捨てたとしても、人間から自由選択の力を奪い取りはしなかった。なぜなら、神はそれを予知すると同時にその悪からさえも何らかの善きものをつくることを予見したからである。 

2章 神の永遠かつ不変の意志 

悪人たちが、神の意志に逆らって多くの悪をなすにしても、神は偉大であり、神自らが善しとした予知した結末に向かう。 

したがって、神がその意志を変えると言われる場合、変化するのは神ではなくむしろその人々であり、彼らは自分たちの経験に照らして神が何か変わったというように感じるのである。

例えば、「神が欲する」と言われるとき、これは神自ら欲するというより、神が人間に欲するようにさせるという意味である。すなわち、神がその意志に基づいて、未来のことを知らない人々に望みを起こさせることである。

世界を創造した神は、一切に先立って予知した計画を持つ。そしてその計画が、生じるべき時が来るまでは、「神の欲する時になるだろう」と表現できる。他方、起こるかどうか知らない場合、「神が欲するならばなるだろう」と表現できる。これはむろん、神が以前持たなかった新しい意志をその時持つに至るという意味ではない。むしろ、神の不変の意志のうちに永遠の昔から用意されていたことがその時なるだろう、との意味である。 

3章 聖徒に対する永遠の至福と、不信者に対する終わりなき刑罰の約束。 

「地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る」

創世記22・18

預言者によって告げられた神の計画は、神が欲する時に実現するであろう。こういう意味でアブラハムに対するこの約束が、今キリストにおいて成就されたことを知るのである。同様に、神が預言者を通して言われた預言はすべて実現するだろう。その例をあげる。

「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する。 わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」。

イザヤ65・17~19

「その時、大天使長ミカエルが立つ。彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く、国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる」。

ダニエル12・1、2

「いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう」。「天下の全王国の王権、権威、支配の力は、いと高き方の聖なる民に与えられ、その国はとこしえに続き、支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う」(ダニエル7・27) 

ダニエル7・18、27

ほかにも聖書に書かれた預言はたくさんあるが、これらすべては起こるであろう。なぜなら、神が約束し、あるいは、起こるべきことをあらかじめ約束したからである。 

4章 身体の復活を信じない人々 

世界は、キリストが復活し天に昇ったという信じがたいことを信じるに至った。しかし世界が信じるに至るためには次の三つの信じがたいことが存在する。
第一に信じがたいことは、キリストが肉において甦り、肉と共に天に昇ったことである。
第二に信じがたいことは、これほど信じがたいことを世界が信じたことである。第三に信じがたいことは、高貴の家柄でもなく、地位も高くなく、学識のない少数の者が、世界とその中の有識の士とに向かって、これほど信じがたいことを強く説得することができたことである。

確かに、世界はほんの少数の下層の、無学な者によってこの教えは広められ、世界はこのことを信じたのであるが、その訳は、神の力が不思議な仕方で働いて、この軽蔑された証人たちの口を通して説得したからに他ならない。すなわち、彼らが説得しようとして語った弁舌は、言葉だけではなく、奇跡の出来事によったのである。 

実際に、キリストが甦り、天に昇ったことを見ていないものでも、その後、使徒たちの奇跡を多くの者が見たのである。それは最初に、使徒たちが、あらゆる国民の言語で語られるのを聞いたこと(使徒2・4~12)から始まり、使徒たちが病気を癒し(使徒3・2~10、19・12、5・15)。最後に死人が甦るのを見たのである(使徒9・36~42、20・9~12)。

これらを見た人々は、かたくなに信じない者であっても、これらの奇跡で信じるように至ったのである。 

5章 ローマ人はロムルスを愛して神に祀り上げたが、教会はキリストを神と信じて愛する。 

紀元前700年ころには、もはや人々は作り話などにより、人が神になることを容易に信じていなかった。しかし、ローマが建設され大帝国になるにあたり、ロムルスは神であることをローマの中枢部の人々が広めた。諸国民がロムルスを神と呼ぶことを拒まなかったのは、自分たちに隷属を強いる国に対して、創設者のことで反対することができなかったからである。 

これに対して、キリストは、天の国の創設者であるが、キリストを神と信じた者は、天の国が彼らを愛した。この天の国は最初に信仰の対象を持ち、その結果、無謀に偽りの善を愛することなく、むしろ正しい信仰をもって真なる善を愛するに至るのである。 

実際、キリストの神たることをローマに説得した、大きな奇跡が一つも起こらなかったとしても、完全に信じるに値する預言が先行したのであり、しかも、これらの預言は、今ではキリストにおいて成就したことが証明されたのである。 

一方、ロムルスの場合、起こったことに関してのことだけであり、預言はされていない。そして、どんな奇跡も不思議も徴もないのである。 そして、ロムルスであれ他であれ、だれかがそれを神であると宣言して捕らえられ、その禁止命令に従うよりもむしろ死を選んだ例があったであろうか。またどの国民が、ローマの名を恐れるあまり強制に抵抗できなかたという理由以外で、ロムルスを神々として拝んだことがあっただろうか。 

他方、キリストを神と告白することを拒むよりは、むしろどんなに多くの、どんなにむごい仕方であろうと死を選ぶのをよしとした群衆を、だれが数え尽くすことができようか。しかもキリストの国はこの迫害の時代、迫害する不敬虔なものたちと戦おうとしなかった。なぜ戦わなかったかといえば、永遠の救いを得るためである。この国の民は、縛られ、牢獄に入れられ、鞭打たれ、拷問を受け、焼かれ、引き裂かれ、殺されたりしたが、それにもかかわらず数を増やして行った。

彼らにとっては身の安全のために戦うとは、救い主のために安全を軽蔑することに他ならなかった。神の国の安全とは、地の国の安全のように武器をとることで守られるものではなく、信仰と共に、信仰によって保たれ、獲得されるものである。もし信仰を失えば、神の国に至ることはできないだろう。この考えは、強い信仰を持つ人々をとらえた。その結果、あれほど高貴な殉教者たちを生んだのである。 

6章 世界が神を真いるのは神の力による 

ロムルスが生きていた紀元前700年頃には、この世で起こりえないことをすべて拒否するほど開けていた。したがって、それから700年たった時代は、はるかにそうであり、人々は、キリストの復活や昇天などは全然起こりえないこととしてこれに耐えられず、聞いても一笑に付し、心に浮かんでも退けるだけだっただろう。

というのも、真理そのものである神の力が不思議な徴でもって確証し提示するのでなければ、人々がキリストの復活や昇天を信じることは起こりえないし、また事実起こらなかったのであろう。しかし、この神の力によって、あれほど大きな迫害と反対にもかかわらず、キリストの復活と昇天、および肉の不死のことが不屈の信仰でもって信じられるに至ったのである。 

つまり、預言者の告知が先行して読まれ、その預言が成就していることが証明され、かつ奇跡を目の当たりにするに従い信じるに至ったのである。 

7章 奇跡はキリストを信じるためにある 

これを聞いた人々は言う。その起こった奇跡が今起こらないのはなぜなのか。私はこれに対して、世界がそれらをまだ信じていなかったときに信じるようになるために必要だったのだ、と答えることができよう。

しかし、今なお信じようとして徴を尋ねている人は、その人自身が、世界が信じたにもかかわらず信じないことの大いなる徴である。結局、彼らの問の目的は、それらの奇跡がかつて起こったにもかかわらず、それらを信じないようにさせることにある。

それでは、これほど強い信仰をもって、キリストが肉をまとったまま天に挙げられたことが、これほど強い信仰でもって至るところで賛美されていることはどうしてなのか。どんな奇跡にもよらずして世界に信じられているのはどうしてなのか、その人に聞きたい。

この開けた時代においてすべての起こりえないことが退けられているのに、あまりにも不思議で信じがたいことが、どんな奇跡にもよらず世界において信じられているのはどうしてなのか。それとも、それは信じうることであったからだと、彼らは言おうとしているのか、それならどうして彼らは信じないのか。 

つまり、人の目に見えない信じがたいことが、実際に起こって人に見られた信じがたいことによって信じられるに至ったのか、それとも、その出来事は他の奇跡により支持を必要としないほどのものであったのか。 

実際、キリストが甦った肉をもちながら天に昇ったという奇跡を、保証するための多くの奇跡が起こったことは確実である。それらはみな、どんな偽りも含まない聖書に記録されているもので、人々が信じる者となるために起こったことである。それらは信仰を生み出すために知られるものとなり、それらが生んだ信仰によって、いっそう広く知られるようになった。そして、その記録は諸国民の間で読まれ、信じられるに至ったのである。実際、多くの奇跡が今もキリストの名のもとに、秘跡によってか、祈りによってか、あるいは聖徒たちの記念によって起こっているが、それらはかの奇跡と同じ評判で広まるほど明るみに出ていない。 

8章 聖徒は新しい霊的な身体に変えられる 

「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」

1コリント15・44

復活の際には、生きた身体から失われたすべてのもの、あるいは死後であれば死体から失われたすべてのものは回復されるだろう。そして、古い自然の命の体が新しい霊的な体に変わって甦り、不滅性と不死性をまとうに至るであろう。それゆえ、その時には肉は霊のもとに服して霊的となるだろう。ここにあげた聖書の言葉が成就するとき、身体においても霊的になるであろう。  

9章 キリストの恩恵なしにはだれも悲惨と禍から救われない。 

人類の起源に関し、死ぬべき者のすべての子孫が罰せられたことは、私たちのこの生がこんなにも多くの悪に満ちていることからも証明される。けれども、神の支配は罪びとをそのままに放置せず、また神の憐みは怒りのうちに閉ざされていないがゆえに、神は禁止と教えとを示して、人類が持って生まれたこれらの暗闇に対して警戒し、抵抗する力を与えたのであるが、それにも関わらず、苦痛なしには、その命令に従うことはできない。 

例えば、私たちは学んだことを想起するためには苦痛をもってするが、忘れるためには苦痛はなく、また勤勉であるためにも苦痛をもって行うが、怠惰でいるためには苦痛はない。これは一体どういうことであろうか。私たちの傷ついた本性があたかも自分の重さに従うかのように傾いて落ちて行くその行先がどこか、そしてそこから解放されるにはどれほどの助けが必要であるかが、ここからして明らかではないだろうか。怠惰と無気力は実に苦痛を逃れようとする悪徳である。なぜなら、苦痛は有用でありながら、それ自身罰だからである。 

その他にも、人類はどんなに多くの、どんなに厳しい罰によって苦しまされていることだろうか。それらは悪人どもの不正と不義のためのものばかりでなく、万人に共通する悲惨な運命である。これらは、この世がいかにつらく、あの世の幸福がいかに慕わしいかを示して、人がいかに自分により頼むべきではないことを教えているのである。 

この悲惨な生から解放してくれるのは、私たちの神にして主なる救済者キリストに他ならない。ことにその恩恵なしには、この世は後に来るのはもっと悲惨でしかも永遠のものであるが、それは生ではなく死である。もし恩恵がこの世の不幸のうちにある善き人々を助けたとするならば、それはその人々の信仰が増すにつれて、いっそう勇敢に苦痛に耐えることを示すためである。

10章 義人の受ける苦しみ 

義人は、この世において善人・悪人にも等しく出会う不幸の他に、彼自身に固有の苦しみを持っている。すなわち、彼はその苦しみを持って悪徳と戦い、かつその戦いの中で試練と危険にさらされている。

実際、私たちは、肉の思いが霊に逆らい、霊の思いが肉に逆らうことが止まず、そのため私たちは欲することを行わず、悪い欲望をことごとく滅ぼさないのである。しかし、私たちが神の助けを得てすることは、その欲望に同意せず、かえってこれを私たちの意志に服従させることである。私たちはいつも目覚めて注意していなければならない。この苦しみと危険に満ちた戦いのなかで自分の力で勝利を得ようと願ってはならない。あるいは獲得した勝利を自分の力に帰してはいけない。それは使徒の言葉にあるように神に恩恵を帰すべきである(1コリント15・57、ローマ8・37)。そこで私たちは、たとえどんなに大きな勇気をもって私たちに戦いを挑んでくる諸悪と戦い、あるいは諸悪を征服し縛り上げることができたとしても、この身体のうちにある限り、神に向かって「私たちの罪をおゆるしください」と祈らずにすむ理由はないことを知らないといけない。 

しかし、私たちが永遠に不死の身体を持つに至るかの御国においては、私たちを苦しめる闘争も負い目もなくなるであろう。これらは、たとえ私たちの本性が創造されたままの正しい姿勢であり続けたとしても、決して生じないものである。それゆえ、私たちを危険におとしいれ、そして私たちが最後の勝利によって解放されることを願うこの争い自体がまたこの世の悪の一部であり、私たちはこれらすべての悪にもとづいて、この世が罰せられたものであることを認めるのである。 

11章 創造者の与えるこの世の善 

「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」

創世記1・28

神が人間にこの祝福を与えたのは人間の堕罪前である。神は、人間が堕罪したのちもこの祝福を無効にしなかった。 

神が人間に与えた最初の善は、生殖と養育の二つである。神はこれを今日まで続くわざの中で与えている。確かに、もし神がこの二つの力を被造物から無くしてしまうならば、被造物は存在を継続することはできないだろう。それゆえ、神は人間を造ると共に、これに増加の力を与え、それによって人間が他の人間を生み、その子孫に生殖の可能性を渡すことができるようにしたのである。 

だがこの生殖に加えて養育がともなわなかったならば、人間の類としてのあり方が継続することはなかったであろう。使徒は、人間が敬虔と義に従ってかたち造られる霊的誕生を、このような肉的誕生になぞって次のように述べている。

「たいせつなのは植える者でもなく、水を注ぐ者でもなくて、成長を与える神である」 

1コリント3・7

それゆえ、ここでも次のように言ってよい。大切なのは交合する者でもなく種を産む者でもなく、形を与える神である、と。また、大切なのは、産み、育てる母親ではなく、成長を与える神である、と。実に、神は今日まで続くその働きにより、種を造ってそこから多数のものを展開させ、私たちは隠された見えない包みものを広げて、その中から見える様々な形を示したのであるが、私たちはその美しさに呆然としているのである。

すなわち、神は非物体的本性と物体的本性とを、また先に置かれた本性のあとに続く本性とを不思議な仕方で一緒にし、結合させて、魂的な本性を造った。そのわざの偉大なること、驚くべきことは、理性的動物であって、その点で地上のすべての動物にまさって尊い人間のみならず、どんなに小さなネズミをもよく眺めるならば、精神の高揚を引き出し、創造者への賛美をまきおこすであろう。 

こうして神は、人間の魂に精神を与えられた。精神を座とする理性と知性は、子供にあってはまだ眠ったままで、いわばないに等しいのであるが、年齢が進んで行くと目覚め、大きくなって知識と教えおとを受け取ることができるようになり、真理を認識し善を愛する能力を持つようになる。精神はその能力によって知恵を吸収し、徳を備え、思慮と勇気と節度と正義とに従って生き、誤謬その他の生まれながらに持つ悪徳と戦い、ただ神の至高にして不変なる善のみを希求することによってのみ、それに打ち勝つのである。

たとえこれに失敗することがあったとしても、このような善を受け入れる力は神によって理性的存在者のうちに置かれたのである。その善のいかほど大きいか、全能者のわざのいかに驚くべきかを、ふさわしく語りまた熟慮する者がだれがいるだろうか。実際、人間には良く生きて不死の幸福に達するための力が残されている。その力は徳と呼ばれるもので、キリストにある神の恩恵によってのみ約束の子らと御国の子らに与えられるのである。

しかしこれにならんで、人間の才能が必要に応じて、あるいは快楽を満たそうとして発見し増大させた偉大な力がある。それらは余分であるだけでなく、危険であり有害でさえあるが、そうしたもののうちに示される精神と理性の力はきわめてすぐれたものであって、それらを発見し、学習し、増大させる人間の本性の善がどんなに大きいかを証明しているのではないだろうか。 

そして、これほど大きな力を持つ自然本性の創造者は、言うまでもなく真にして至高の神である。神は自ら造ったすべてのものを支配し、至高の力と至高の義を保っているのであるから、それらが悲惨のうちに陥ることは決してなく、また救いに与らない者はみなこの世の悲惨から永遠の悲惨への道を歩むということもない。ただしこれは、人類の始祖たる最初の人によって、はなはだしく大きな罪が先立って生じたことがなかった限りである。 

身体は理性的霊魂に仕えるように造られたが、このことは感覚器官と肢体のたくみな配置が、また身体全体の姿形とつくりの均衡が示している。身体の各部分の必要性は言わないまでも、すべての部分に調和と一致があり、その美しい等しさを見ると、これが美よりも有用性をより大きな基準として造られたのではないかと思わせるほどである。実際、身体のなかには、美に場所をあけることなしにただ有用性のためにのみ造られたものは何ひとつ見当たらないのである。このことは、互いに結合しているすべてのものがどんな数的基準によって成っているかを知るならば、いっそう明瞭となるだろう。 

身体のどの一部であっても、ただ機械的にのみ存在して美のためには存在しないようなものは見当たらないのであるが、これと反対に、美のためににに存在して有用性のためには存在しないようなものもないのだとすれば、身体の創造にあたって、尊さのほうが有用性に先んじたことは容易に理解される。なぜなら、有用性はやがて移り行くのであり、私たちは互いに相手を少しの情欲もなしに楽しみ喜ぶ時を持つだろうからである。実にこの最後のことこそ、次に述べているように創造者への賛美と帰すのでなければならない。 

「主よ、わたしの神よ、あなたは大いなる方。栄と輝きをまとい、光を衣として身を被っておられる」(詩編104・1、2)

詩編104・1,2

人間は罰せられてこの世の労苦と悲惨のただ中に投げ出されるとはいえ、神の憐みによって、その他にも多くの被造界の美と有用性を眺め、用いることが許されている。しかしこれらすべては、至福な者に与えられている報いではなくて、裁きの下にある悲惨な者に対するなぐさめである。

だがこのような者にこれほど多くの、これほど良い、これほど大きな恵みがあるとするならば、至福な者に報いられるそれはいかほであろうか。死に定められたものにもこれだけのものを与えた神は、生命に定められた者にはどれほどのものを与えるであろうか。この悲惨な世において独り子が死に至るまでこれほど大きな禍に耐えることを彼らのために良しとした神は、あの至福な世においてはいかほど大きな善を選びとられるであろうか。使徒は次のように言っている。

「わたしたちすべてのために、その御子さえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」

ローマ8・32

この約束が成就するとき、私たちは何者となるだろうか。私たちの状態はいかばかりであろうか。私たちために死んだキリストからこれほど確かな保証を受けたのであれば、御国において受ける善はいかばかりであろうか。

12章 来るべき世において聖徒にゆるされる神の直視 

「あらゆる人知を超える神の平和」(フィリピ4・7)がそこにある。あらゆる人知には、人間の知性とともに、天使の知性をも含んでいる。すなわち、私たちも、どの天使たちも、平和を神が知るように知ることはできない。つまり「あらゆる人知を超える」というとき、神自身の知性はそこに含まれない。けれども、私たちもまた、私たちに許された限度において神の平和に与れるように造られたのである。 しかし人間は、その平和を今ははるかに低い程度においてしか知らない。 

聖なる天使たちは常に神を見ている。

彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」

マタイ18・10

聖なる天使たちは次のような仕方で神を見ている。

「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」。

1コリント13・12

私たちは、今は神を見ることはできない。したがって使徒はこのことを言ったのである。 しかし、私たちも天使と同じように神を見ることができるようになるだろう。神を見ることは、私たちに信仰の報いとしてとって置かれている。このことについて使徒ヨハネは言う。

「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」 

1ヨハネ3・2

このことは、天国で聖徒たちは神を身体の目を通して見るのか、そして目を閉じても神を見るのか、どちらなのか、列王記5・8~27の例から考える。皮膚病を癒してもらったナアマンがエリシャにお礼を渡そうとしたが、エリシャは断った。ナアマンが帰路の途中、エリシャの僕ゲハジは彼を追いかけ銀と衣服を受け取った。預言者エリシャは、そこに居合わせていなかったが、「あの人が戦車から降りて引き返し、お前を迎えたとき、わたしの心がそこに行っていなかったとでも言うのか」(王下5・8・26)と、神の不思議な力に助けられて、心のうちに見たと言っている。エリシャは、そこにいない僕を見るための肉の目を必要としなかったが、そのことは現にあるものを見るのに肉の目を用いないということではない。とはいえ、彼が目を閉じていても霊によって見ることができるのは、ちょうど自らそこに居合わせていないときにも、その現にないものを見たのと同様である。この例から、かの国では、聖徒たちがあの世において目を閉じた時には神を見ないと考えにくい。むしろ、彼らは霊において常に神を見続けるであろう、と考えられる。

したがって「顔と顔を合わせて」と使徒が語ったことは、肉の目を持つ肉の顔によって神を見るというように解するのではなく、霊によって、神を休みなく見る、と解される。 というのも、それが内なる人の顔を指すのではないなら、同じ使徒が次のように言うのはありえないだろう。

「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられていきます。これは主の霊の働きによることです」

2コリント3・18

 また、次の詩編においても同じ意味に解することができる。

「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない」

詩編34・6

ここで「主を仰ぎ見る」のは肉の目によってではない。なぜなら、神に近づくのは信仰によってであり、信仰は身体ではなく心に属しているからである。 

しかし私たちは、霊的な身体がどのような運動をするかを知らない。実際私たちの語っていることは、まだ経験していない事柄なのである。それゆえ、私たちの理解の超えることに対しては次のようにと読まれることが妥当である。 

死すべき人間の考えは浅はかで、わたしたちの思いは不確かです。 

知恵9・14

預言者エリシャの物語は、身体によらずに霊によって物体的なものが知られることを示している。すると霊的な身体を持つ力もまた、霊的なものを身体の器官によって見るほど大きくあるのではないか。なぜなら、神は霊だからである。

このようなわけで、そのとき私たちは、新天地のものとなる新しい世界の身体を見るであろう。それは、あまねく存在してすべての形態的なものを統治する神を、そのとき私たちが持つであろう身体を通して、またどこに目を向けても見ることができるであろう身体を通して、透き通るほどの明瞭さをもって見るのと同様であろう。このことはきわめて確実である。そしてそれは、今神の見えないものを、造られたものを通して、一部分だけを見て悟るのとは違っている。そのとき、私たちの信じる信仰は、身体の目によって見られる形態的諸物の形象よりもはるかに強い現実となるであろう。 

例えばこうである。私たちは今人々の間で生き、生命の運動をくり広げているのであるが、私たちが彼らを見たとき、彼らが生きているのを信じるのではなく、むしろそれを見て知るのである。そこでもし彼らに身体がなかったならば、彼らが生きているのを知ることはできない。私たちが少しも疑いもなく彼らのうちに生命を見るのは、その身体によってである。このように、私たちの将来持つであろう霊的なまなざしを向ける所では、どこでもこの身体によって、非形態的な神が万物を支配しているのを見るであろう。

その目は、あのすぐれた状態のなかにあって、非形態的な諸物を見分ける精神にも似た能力を持っているのである。このことは次のように言うほうが理解しやすい。すなわち、神は、私たちが各人によって、各人相互に、またその人自身において霊的に見られるような仕方で私たちに知られ、かつ見れれるであろう。神は新天新地において、そのとき成るであろうすべての被造物のうちに見られるであろう。また神は、霊的な身体のまなざしがどこに向かう時でも、身体によって、あらゆる身体のうちに見られるであろう。 

13章 神の国の永遠の至福と永遠の安息 

「いかに幸いなことでしょう。あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美することができるなら」。 

詩編84・5

今は様々な仕事の必要ためにある肢体も器官も、そのとき霊的身体にあっては、必要のためではなく、不変の至福となり、神の賛美に用いられるであろう。全身のすべての部分は、理性的精神に火をともして、偉大な神を讃えさせ、その知性的な美を楽しむであろう。そのときの身体の運動は美しいであろう。霊の欲するところには、常に身体があるだろう。そして霊に、霊にも体にも必要でないものを欲することはない。神の国において、誤った称賛はなく、真の光栄があるだろう。真の名誉がそれにふさわしいくすべての人に与えられ、それにふさわしい者しかそこに住めないため、そこには真の平和があるだろう。徳への報いは神自身であるだろう。神は預言者を通して次のように言います。

「わたしはあなたたちのうちを巡り歩き、あなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる」

レビ26・12

この意味は「私は彼らを満ち足らせよう。私は人々が真実に願い求めるもの、すなわち生命、健康、食物、富、光栄、誉れ、平和、その他あらゆる善きものとなるであろう」である。同じことを、使徒は「神がすべてにおいてすべてのなられるためです」(1コリント15・28)と語ったが、その意味は、「神は私たちの願い求めるものの終わりである。この神は終わることなく見られ、飽きることなく愛され、うむことなくたたえられる。神こそすべての者に対する賜物、愛、活動となり、その永遠の生命はすべての者にとって共同の交わりとなる」ということである。 

天国において、さまざまな功績に対する報いとして与えらえる名誉や功績は存在するが、そこでは劣る者がすぐれた者をうらやみ、天使たちが大天使をうらやむことはない。だれも自分が受けなかったものを受けようとは思わないが、すでに受けた人とは固い一致で結ばれている。身体においても指は目になろうとは望まない。なぜなら、全身の肢体のそれぞれが、しっかりと結ばれて、一続きになっているからである。同じように、人が他人より少ししか賜物を受けていないとしても、それ以上には望まないという賜物を受けているのである。 

彼らが罪のうちにあって喜ぶことができないという事実は、彼らが自由意志を失ったということを意味するのではない。むしろ、意志は罪を犯す喜びから解放されて、罪を犯さないことの喜びへと向かうほうが、いっそう自由である。

というのも、最初の自由意志は、罪を犯さないことのできる能力であったが、しかしそれは罪を犯すこともできたのである。だが、最後に与えられる自由は、罪を犯すことができないという点で、はるかに力あるものである。

これも神の賜物によるのであって、人間本性の力によるものではない。神となることと、神との交わりに入ることは別である。神の本性は罪を犯すことができない。しかし神との交わりに入れられた者は、罪を犯すことができないということを神からの賜物として頂くのである。

だが、神の賜物の諸段階が守られねばならなかった。すなわち、最初に人が罪を犯さないことのできる自由意志が与えられ、そして最後に罪を犯すことのできないそれが与えられる。最初のものは功績を獲得するためであり、最後のものは報いを受け取るためである

しかし生まれながらの人間は、罪を犯すことができたため罪を犯したのであるから、罪を犯すことのできない自由へと至るためには、いっそう大きな恵みによる解放がなければならない。というのも、アダムが犯して失った最初の不死性は、死を避けることのできる自由であったが、最後の不死性は死ぬことのできないという自由であった。このように、最初の自由意志は罪を犯さないことができたが、最後の自由意志は罪を犯すことができないのである。 

御国においては自由意志が存在するであろう。それはすべての人のうちにあって同じであり、各人のうちい分割されずにあるだろう。それはあらゆる悪から自由であり、あらゆる善に満たされ、永遠の喜びを絶え間なく楽しむであろう。それは罪や刑罰をも忘れさらせるであろう。しかし自分が自由にされたことを忘れて、神への感謝を忘れることはないだろう。それゆえ、魂は過去のさまざまの罪を忘れることはないが、経験的な知覚としては想い出すことはできないであろう。 

悪についての二通りの知識がある。一つは精神の力によって明らかになるものであり、もう一つは経験的知覚に内在するものである。同様に、悪の忘却には二通りある。一つは探求し教えられたことを忘れるものであり、もう一つは、経験し遭遇したことを忘れるものである。前者は真実の知識に至れば忘れてしまうものであり、後者は悲惨を逃れてしまえば忘れるものである。聖徒たちが過去の悪を思い出さないのは、第一の忘却よりもむしろ第二の忘却によってである。なぜなら、彼らはすべての悪を逃れるので自分たちの悪からすっかり消し去られるからである。 

この国は、夕べのない、まことの最大の安息であって、主が世界を造る最初のわざのなかで言及したものである。 

「第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」 

創世記2・2、3

神の祝福と聖別によって私たちが満たされ、造り変えられるとき、私たち自身もまたこの第七日となるであろう。私たちは、そこで神自身を見るであろう。 

最初の悪魔の誘惑から、私たちは神から離れて、私たち自身が神になろうと欲した。私たちは神を棄てるのではなく、神に与ることによって神のようになるべきであるのに、私たちを造ったまことの神から離れ落ちたのである。いったい、神なしには、神の怒りのなかに落ちるほかの何を私たちはなしたであろうか。

しかし神によって造り変えられ、さらに大きな恩恵によって完全な者とされ、私たちは永遠のうちに休むのである。そして神がすべてにあってすべてとなるとき、神自身を見、神によって満たされるであろう。