「神の国11」聖アウグスティヌス

悪魔とそれに属する邪悪な者たちが断罪されて受ける永劫の罰と、それを否定する考えを持つ者たちに対する反論。 

1章 極度苦痛が永遠に継続するが、死ぬことはない。 

このことに疑いを持つ人は、苦痛は感じることができるが、それによって死ぬことのない身体は存在しないと言っている。 

しかし、それはただ人間が身体の感覚や経験から推測したことではないのか。実際、彼らは可死的な肉の他の肉を知らない。そして経験しないものは存在しないというのが、この議論のすべてである。 

苦痛は生きていることの証拠であるのに、それを死の論拠にするとは、なんという議論であろうか。なぜなら、たとえいつまで生き続けることができるかは問題であるにしても、すべて苦痛を感じる者は生きていて、苦痛は生きている者にしか存在しないからである。 

それゆえ、苦痛を感じるものが生きていることの必然であるが、苦痛が死をもたらすことは必然的ではない。というのは、この世において死は、極度の苦痛に負けて、魂が体から離れるという形で魂と体が結ばれているからである。 

しかし、かの時には、いかなる苦痛によっても身体から魂が離れないように、魂は身体に結びつけられている。したがって、かの時には、死も今とは違うのである。その時、魂は神を所有することないため死んでいるが、その死んでいる状態で身体の苦痛は継続するため、死は存在しないどころか、永遠の死が存在するのである。 

身体の苦痛は、よく注意するなら、むしろ魂に属している。なぜなら、身体が傷つけられとき、苦痛を感じるのは魂であり、身体ではないからである。また何か悲しい時があるとき、身体に傷がなくても、魂は苦痛を感じる。 

実際、あの金持ちが「わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(ルカ16・24)と言ったとき、まだ最後の審判は来ていないため、彼は魂のみであったが確かに苦痛を感じていたのである。 

彼は極度の苦しみの中にいたが、なぜ死ぬことはないのか?それは苦痛を感じさせるものが死をもたらすということが必然ではないからではないか。したがって、苦痛は死が将来起こることの必然的な証拠ではない。 

2章 永遠の刑罰にある人間の身体は、火の中で限りなく燃え続け、滅びることなしに苦痛を味わう。 

永遠の火に、身体が焼かれても、死なないというの事について信じられないという人がいる。 

そしてその理由を説明しなさいと言われたならば、できないことを認めよう。しかし、それにも関わらず、私たちの理性は、人間の弱い魂が理由を説明できなくても、全能者は理由もなしに行わないことを確信している。 

また、実際、多くの事柄において、全能者が何を欲しているか、私たちは不確かであっても、それらのうちのどれも、彼が欲すれば彼にとっては不可能ではないということは、きわめて確かである。また、私たちは彼が預言することを信じるが、彼が無能力者であるとか、嘘つきであるということは、信じることはできない。 

ところで、自然の成り行きに反するように見える事柄に対して、人は、どんな答えを持っているのだろうか。私たちが見ていることで、理由が説明できないことはたくさんある。そして理由が説明できなくても、そのことは起きる。それと同じように、私たちが見えないことでも、その理由を説明できなくても、将来それが起こらないわけではない。 

しかし、彼らは「地獄は決して存在しないし、私たちは信じない。これらについて聖書に書かれていることも偽りである」と言うかもしれない。 

しかし、聖書に書かれてある預言はいずれも実現していることを見るならば、聖書に書かれていることは偽りと言うことはできない。 

そもそも預言は、将来起こることを、神がいかなる困難に妨げられることも自然法則に制限されることもなく、行うだろうということを示しているもである。これらのことは前巻においてその一部を示した。 

3章 地獄の永劫の罰の本質 

断罪された者たちの永遠の懲罰について、神がその預言者を通して語ったことは確かに起こるだろう。永遠の懲罰について次のように書かれている。 

「蛆は絶えず、彼らを焼く火は消えることがない」(イザヤ66・24)。 

またイエスも、同じことを次のように言っている。 

もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。(マルコ9・44) 

もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。(マルコ9・46) 

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。(マルコ9・48)  

彼は一つの箇所で同じ言葉を三回も語ることを、面倒とは思わなかったのである。 

地獄の罰である尽きることのない火と蛆は、魂と身体のどちらか一方に関係づけるよりも、身体に関係づけるほうが理解しやすい。なぜなら、身体が苦しむときに魂も苦しむのは当然であるためである。 

4章 霊である悪魔も火によって永遠に焼かれることについて 

「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」(マタイ25・41)。 

悪魔は純粋な霊であり身体を持たない。しかし、霊である悪魔は非物体であっても、苦しみをもたらす物体的な火と接触する。そしてその火は、彼らを永遠に苦しめるであろう。この火は、悪魔にも断罪された人間にも同じである。 

霊が燃えることについて次の記述がある 

「わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(ルカ16・24) 

実際、あの金持ちはこれを言ったとき、彼が地獄で燃えているように、霊は身体がなくても燃えるだろうと言ったかもしれない。あの火炎は、金持ちがそれを上に向けてラザロを見た目や、それに注がれることを望んだ舌や、求めたラザロの指と同じようなものである。しかも、そこでは、魂が身体なしに存在したのである。実際、そのとき、身体ではなく、霊で現れるはずであるのに、まったく区別がつかないほど自分自身を見ていたのである。 

5章 罰の期間は罪のそれよりも長くあるべきだという議論 

私たちは、どんな大きいにせよ、短い間になされた罪に対して、誰もが永遠の罰に定められるのは不正であると考えている。まるで法の正義は、罪を犯した期間だけ罰を受けるように配慮しているかのようである。 

この世の法には、さまざまな罰があるが、罪を犯したのと同じ期間だけ罰するようにするものが、何かあるだろうか。 

例えば、例えば他人の妻に接吻したことに対する罰が、その行為が一瞬で行われたならば、罰は一瞬であるのか。また、主人を一撃で打った奴隷が、同じ期間だけの獄にいればいいのか。実際、それらに対する罰が、罰金にせよ、名誉はく奪にせよ、苦役にしても、たいていは恩赦によって弛められることなく課される。 

この例になぞるなら、永遠の罰に似ていないだろか?確かに、これらの罰を受ける生そのものは、永遠に続くわけではないので永遠ではありえない。しかし、きわめて長期間の罰を課される罪は、きわめて短期間に行われたり、また、時間の長さによって測られるべき殺人や姦淫や涜神やその他の犯罪において、それを犯した者の苦しみはそれを実行するのに費やされたと同じ時間で終わるべきだと考えている人は誰もいない。 

この世において死刑によって、ある者をこの世から取り去ることは、永遠にこの世に戻すことはできない。それと同様、断罪され第二の死の刑罰に定められた者は、永遠にの生命に戻すことはできない。 

6章 最初の違反の大きさ 

人間が神を享受すればするほど、神を捨てる不敬虔はそれだけ大きくなる。そして、永遠であることのできる善を自分のうちで滅ぼす者は、永遠の悪にふさわしい者になる。この点で、人類全体が断罪された集団となったのである。なぜなら、最初に罪を犯した者は、彼を起源とする子孫と共に罰せられたからである。こうして、憐みに満ちた無償の恩恵によるのでなければ、だれもこの正しい当然な刑罰から解放されない。 

7章 罪びとたちに死後加えられる刑罰は浄罪ではない 

この可死的な生において、ある罰は浄罪のためである。しかし、この世の罰で矯正される人にとっては浄罪であるが、しかし、その生活がそれらによってよくならなかったり、むしろ、それによって悪くなったりする人にとっては、浄罪とはならない。 

すべての罰は神の摂理によって課せられる。それは過去の罪、罰せられた人がまだ生きている場合の罪であったり、あるいは徳が実行され明らかにされるためであったりする。 

一時的な罰は、ある人はこの生においてだけ、ある人々は死後、ある人々は現在もかの時にも受けるが、いずれにしても最後の審判の前に受けるのである。 

だが、死後に一時的な罰を受けるすべての人が、最後の審判の後に来る永遠の罰に入るのではない。実際、ある人々は、この世で赦されなかったことが、来るべき世において赦されるのである。 

8章 この世における時間的な罰 

この生においては、いかなる罰も受けず、ただ死後にそれを受けるという人はまれである。確かに、死すべきものの一生は罰そのものである。なぜなら、それはすべて試練だからである。愚鈍や無知そのものが小さくない罰である。泣きながらこの世に生まれてくることが、どんな悪に出会わなければならないかを知らず知らずのうちに予告しているのである。 

「どんな人にも苦しい定めがあり、重いくびきがアダムの子孫にかかっている」(シラ40・1)。この言葉は真実であり、洗礼によって原罪の軛から解放された幼児でさえ、ある者たちは多くの悪をこうむり、時には悪霊の攻撃を受けるほどである。そのような苦難が押しつぶして魂を体から切り離し、彼らがその年齢でその生を終わるとしても、その苦難が彼らの来るべき幸福に対して妨げになることはない。 

9章 神の恩恵は来るべき世の更新に関わる 

楽園で犯した非道な罪によって、この生は罰に満ちたものになったこと、そして新しい契約によって、私たちに提示されていることは新しい世における相続に関わり、この世ではその担保を受け取り、しかるべき時にその担保によって保証されているものを獲得するが、今は希望のうちに歩み、日々霊によって肉の行いを殺すべきであるということである。 

私たちが、神の子となるのは恩恵によるのであって、自然本性によるのではない。本性によって神の御独り子は、私たちのために憐みによって人の子となられたが、それは人の子の本性によって、私たちが彼を通じて恩恵により神の子となるためである。 

実際、彼は不変のままでありながら、私たちが負っている私たちの本性を私たちから受け取り、自分の神性をしっかり保持しつつ、私たちの弱さを共有する者となったのである。それは、私たちがより良いものに変えられ、彼の不死と正義に与ることによって、私たちが罪人や死すべき者ではなくなり、私たちの本性のうちに彼が善として造ったものを、彼の本性の善性のうちにある最高善によって満たされたものとして、私たちは、こんなにも高い善に至るからである(ローマ5・12)。 

だれも、いかなる試練もないところに至るまでは、すなわち、肉が霊に逆らって欲し、霊が肉に逆らって欲する(ガラ5・17)、この争いが求めている平和を得るまでは、そこに移ったと確信すべきではない。 

10章 新生を得た者の生涯を支配する恩恵の法 

私たちは、悪徳に対する戦いをはじめ、激しく戦わなければならない。悪徳に対して、連続して勝利するなら、悪徳は力を持たないため、容易に打ち負かし屈服するであろう。しかし、悪徳が連続して勝利しているなら、悪徳を征服するのは極めて困難である。悪徳に対する勝利は、真の正義を喜ぶことによってのみ、すなわちキリストへの信仰において初めて起こる。実際、もし命令する法が存在し、助ける霊が存在しないなら、禁止そのものによって罪の欲望は増大して、罪が勝利し、違反の罪過がそれに加わるのである。時には、きわめて明らかな悪徳が、徳のように見えながら、その中には高慢と自分を楽しませようとする有害な尊大さとが支配して、他の悪徳に打ち負かされることがある。したがって、悪徳は、神への愛によって打ち負かされたときにだけ、征服されたとみなされるべきである。この愛は、ただ神御自身が与えるものであり、しかも神と人との仲保者、すなわち人なるキリスト・イエスを通じてのみ与えられるものである。さて、信仰の生活において、最初から生涯を通じて、邪悪な不信仰に入らず、大罪を犯すこともなく、肉の楽しみを抑制する人はきわめて稀である。ほとんどの人は、信仰の教えを受けながら、まず優勢な悪徳に打ち負かされて違反者となり、それから恩恵による助けに逃れるのである。この恩恵によって、いっそうつらい悔い改めと激しい戦いを経て、初めて神に従うものとされ、肉に対して精神が優位を占めて、勝利者とされるのである。 

11章 いかなる罰も永遠に続くことはないという考え 

あの裁きによって断罪された人たちの悲惨は一時的であり遅かれ早かれ解放されると考える人の情けは、大きな間違いであり、人間的な情愛によるものである。もし、この考えが真であり、善であるなら、情けが深いほど真であり、善であろう。それゆえ、この情けは、断罪された天使たちをも長い年月の後に解放するほどでないといけない。しかし、その情けを広げて、悪魔の解放まで及ぼそうとする人はいない。これによって、自分が寛大だと見えれば見えるほど、それだけいっそう神の正しい言葉に逆らい、ひどい誤りを犯していることがわかる。 

12章 最後の審判において聖徒たちのとりなしはありうるのか 

信者でありながら、非難すべき生活を送り、自己を弁護するために、裁きの時に憐みがまさるであろうと言う人がいる。彼が言うところによれば、憐み深い神は、聖徒たちの祈りと執り成しで彼らを赦すであろう。聖徒たちが、罪なしでいられないこの世にいたとき、敵のために祈っていたのに、いかなる罪を持たなくなったときに、その取り次ぎを願った者のために祈ることは間違いない。これら聖徒たちの祈りを神が耳を傾けないことがあろうか、と彼らは主張する。 

しかし、彼らは、悪魔とその使いとが解放されるとか断罪されないとか言うところまで、その主張は広げていない。彼らは、ただ人間に対する人間的な憐みによって動かされ、また特に自分たちの弁護をしているのである。すなわち、自分たちの堕落した生活のために、人類に対する普遍的な憐みが罰を免れさせてくれるとかという偽りの約束を信じているのである。 

13章 異端の人もキリストの身体に与るならば、罪は許されるか? 

永遠の刑罰からの解放を、キリストの洗礼を受けた者は当然であると主張する人がいる。さらに、これを悪い生活を送っていても約束されていると主張する人がいる。なぜなら、「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が同じパンを分けて食べるからです」(1コリント10・17)とあるように、洗礼によってだけでなく、実際にキリストの身体を食べたからである。またカトリック教会にとどまる者のみ、悪い生活をしていても、火によって救われることを約束する人たちがいると主張する者もいる。 

(1コリント3・11~15) 

14章 施しの業の中で犯された罪は、裁かれることはないのか。 

「人に憐みをかけない者には、憐みのない裁きが下されます」(ヤコブ2・13)という言葉と結び付けて、自分の罪にふさわしい施しをすることを怠った者だけが、あの永遠の刑罰で焼かれると考えている人がいる。そして彼らは、憐みを行った者は、たとえ邪悪な生活を送っていても、断罪されず、憐みを伴った裁きが下されるであろうと主張する。また 

この世で邪悪な生活を送っていても、自分に対して罪を犯し何らかの害を与えた人が自分に赦しを乞うたとき、心から赦すようにということだけを心にとめておけば、「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」という祈りによって、すべての罪がゆるされるという人がいる。 

15章 悪魔にとっても邪悪な人間にとっても刑罰は持続しないと主張に対して、 

「呪われた者ども、私から離れ去り、悪魔とその手下のために用意されている永遠の火に入れ」(マタイ25・41) 

「この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」(マタイ25・46)
「彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も、世々限りなく責めさいなまれる」(黙示録20・10)。ここで挙げられている通り、永遠の生命も、永遠の刑罰も、その言葉通りに終わりがないことは明らかである。 

16章 神の裁きの日に、聖徒たちの祈りのゆえにすべて咎ある者が赦されるという主張に対して 

聖徒たちの祈りは、神の前に効力があり、神に聞き届けられるにふさわしい。では、彼らは、なぜ、永遠の火の中にいる悪魔たちや、断罪された人間たちのために祈らないのか。神は、敵のために祈れと命じているが、悪魔とその使いのために祈れとは命じていない。したがって、教会がその敵であること知っている悪魔のために祈らない理由は、裁きの時に、永遠の火に苦しめられるべき人たちのために祈らないのと同じである。今は、まだ悔い改めの実を結ぶ時があるので、人類の中にいる敵のために祈るのである。そういうわけで、もしある人たちについて、まだこの生のうちにいても、悪魔と共に永遠の火に入ることがあらかじめ定められているのが確実に分かったら、教会は悪魔のために祈らないのと同じように、彼らのためにも祈らないであろう。しかし、このことは誰についても確かではないため、教会は、すべての、少なくともこの身体のうちにいる敵の人間のために祈るのである。だが、その祈りはすべての人のために聞かれるのではない。なぜなら、たとえ教会に逆らっていても、その人のために教会の祈りが聞かれて、教会の子とされるようにあらかじめ定められている人たちのためだけ、祈りは聞かれるからである。教会は、死者のために祈るが、永遠の罰を受けている人のためには祈らない。教会がある死者のために祈るのは煉獄にいる人たちに対してである。煉獄にいる者たちは、この世にいるとき、キリストにおいて生まれ変わり、この世での生活が、断罪されるほど悪くはなかったが、そのような憐みを必要としないほど、善くもなかった人たちである。 

20章 洗礼を受けたのち異端や分派に移った者、あるいは邪悪な生活を続けた者は、洗礼の特権によって永遠の罰を逃れることができるか。 

洗礼を受けた者は、異端や不信仰に陥っても断罪されることはないと言う人々は矛盾していることを言っている。 

「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像、礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、異端、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」(ガラテア5・19~21)。もし、このような人間が、ある期間後に解放されても、神の国を継ぐことはできない。 

「私は、天から降って来たパンである。このパンを食べる者は、永遠に生きる」(ヨハネ6・50) 

「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です」(1コリント10・17) 

これらの言葉から、救われるのはすべての人であり、たとえ邪悪な生活を送っていて救われると主張する人がいる。しかし、この身体の統一性から離れた異端や分派は、同じ秘跡を受けていても、彼らにとって害となる。なぜなら、もっとも重い裁きを受けるからであり、カトリック教徒にならずに悪魔の罠に落ちたものよりも、カトリックの教えを受け、悪魔の罠に落ちた者のほうが罪が重いからである。第二に(ガラテア5・19~21)にあるように、「このようなことを行う者は神の国を受け継ぐことはできない」と警告しているからである。「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(マタイ10・22)と言っても、それはカトリック教会に留まった者も、邪悪な生活をするなら安心してはならない。彼らは、生活の不義によって生活の義を捨てたのである。このような者は、神の国に入ることはできず、永遠の刑罰に入る他はない。実際、この生の終わりまで耐え忍んでも、キリストの信仰において耐え忍ぶことだからである。 

17章 キリストを土台にするとはどういうことは、また火の中をくぐってきた者のよに救われるのは誰か。 

カトリック教徒は、キリストを土台にしており、どのような悪い生活をしても救われるという人に対して、使徒ヤコブは言っている。「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(ヤコブ2・14)。キリストを土台にするとは、地上的なものをキリストよりも優先させないように、キリストを心のうちに持つことである。しかし、地上的なものをキリストよりも優先させるなら、キリストの信仰を持っているように見えても、キリストは彼の土台ではない。もしキリストの教えに反して、邪悪な行いをするなら、命令や許可を与えるキリストを先にせず、後にしたとしていたら、いっそう非難される。 

(1コリント3・12~15) 

この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。  

キリストを土台にするとは、この世のことよりも、キリストを優先して生きることである 。「火の中をくぐり抜けて来た者」、ここで火は苦難をあらわし、それぞれの仕事はどんなものであるか、その火が試すだろう。もしある人の仕事が、そのまま残れば(残るとは、どのようにして神を喜ばようかと、神のことを考えることである)、報酬を受けるであろう。

だが、もしある人の仕事が焼けてしまえば、損失をこうむるであろう(愛していたものがなくなるからである)。しかし彼自身は、火の中をくぐって来た者のようにではあるが、救われるであろう。なぜなら、キリストを土台とする人は、この火の中で、地上的な物への愛を、燃えるような苦痛をもって失うからである。この火(=苦難)は、善人、悪人の両方を試す。この火は、悪人にとって損失をこうむるが、善人にとっては、その人たちを試すものである。ある者たちは、苦難によって損失をこうむるように試すが、キリストを固く土台として愛をもって保持している人にとっては救われる。 

18章 施しのわざがあれば罪のうちにとどまっていても罰せられないという主張に対して 

「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ2・13)。  

この箇所に関連づけて、自分の罪に応じたふさわしい施しをすることを怠った者だけが永遠の火によって焼かれるのだと主張する人がいる。彼らは、憐みを行わなかった者は、堕落した生活を改めず、施しをしながら邪悪な生き方をしても、まったく断罪されないか、もしくはある期間の後に最後の断罪から解放されるように、憐み深い裁きが下される、と主張する。キリストは、右にいる人たちと左にいる人たちの間に、ただ施しに熱心であったか、それを怠っていたかということで、区別をつけ、一方を御国に、一方を地獄に送るのだと、彼らは考えている。 

彼らが、罪に応じたふさわしい施しをするべきである、というのは正しい。しかし、施しが金銭や財産であるなら、裕福な人は殺人や、どんな悪行もゆるされることになる。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(マタイ3・8)とあるように、罪に応じた施しをする人は、それをまず自分自身から始めるべきである。神が「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(マタイ22・39、マルコ12・31、レビ19・18)、と言っているのを聞いているのに、それを隣人に対してしながら、自分に対してしていないのは間違っている。この施しを、すなわち神を喜ばせることを、自分の魂にしないで、どうして自分の罪に応じたふさわしい施しをしていると言えようか。 

「自分を痛めつけて、だれかに楽をさせようとでもいうのか。その人は決して自分の財産を楽しむことはない(ペンシラ14・5)、」。 と書かれているのである。 

また「子らよ、あなたがたは罪を犯した。さらに続けるな。そして過去の罪が許されるように祈れ」(ペンシラ21・1)「子よ、お前は罪を犯した。二度と繰り返すな。過去の罪については、赦しをこいねがえ」 

と書いてあることにも注意すべきである。それゆえ、私たちが過去の罪のために祈るとき、その祈りが聞かれるように、施しをすべきであって、罪のうちにありながら悪を行う許可を施しによって手に入れるのだと信じてはいけない。 

主が右にいる人たちに対して彼のなした施しを評価し、左にいる人たちにはそれをしなかったことで非難するであろうと預言したのは、施しが、罰を受けずに常に罪を犯すことに対してではなく、以前の罪を取り除くことに対して、いかに力があるかを示すためであった。 

だが、習慣に縛られ、悪い生活をより良い生活へ変えることを望まない人は、そのような施しをしていると言うべきではない。なぜなら、「私の最も小さい者の一人にしなかったのは、すなわち、私にしてくれなかったことなのである」(マタイ25・45)という言葉は、自分がしたと思っている時でも実はしていないのだということを示しているからである。 

実際、飢えているキリスト教徒にキリスト教徒であるからということでパンを与えたら、キリストご自身である義のパンを自分に対して拒まないことになる。なぜなら、神は、だれに与えたかではなく、どんな心で与えたかに注目するからである。それゆえ、キリストを愛する者は、キリストに近づこうとする心を持って施しをなすのであって、罰を受けずにキリストから離れたいという心でそれをするのではない。なぜなら、人は、キリストを非難するものを愛すれば愛するほど、いっそうキリストを捨てることになるからである。 

しかし、自分の兄弟に向かって「愚か者」と言わないように、(この言葉を言うときには、兄弟であることに怒っているのではなく、兄弟の罪に対して怒っているのである)。逆に、キリスト教徒に施しをなす人は、彼においてキリストを愛するのでなければ、キリスト教徒にそれをなすことはしない。 

キリストにおいて義とされることを拒む人はキリストを愛していない。主の祈りで「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」ということを、ただ祈るだけで実行したときには、確かに日々の罪をも取り除く。しかし、それは罪が生じたから祈るのであって、祈ったから生じないというのではない。 

実際、この祈りによって救い主は、この世にあってどんなに正しく生きていても、私たちの罪がなくなるわけでなく、私たちはその罪のゆるしのために祈り、また私たちもゆるしてもらうように、罪を犯す人をゆるさないといけない、ということを示そうとしたのである。 

したがって、この祈りによって大胆になり、日々安心して悪行をなすためでなく、もろもろの咎を免れていても、私たちは罪なしであるなどと考えないように、この祈りによって学ぶためである。「私たちの罪」は「どんな罪」と言っていない。これは、義とされる弟子たちに語ったものである。だからこれは「義とされ聖とされているあなたがたさえ免れていない罪を意味する。決して大きい罪のことではない。義人さえも、それを免れることはできない極めて小さい罪を犯す。義人でさえも免れることのできない極めて小さい罪が、それより他の仕方でゆるされないとするならば、たくさんの大きな悪事に巻き込まれている人は、たとえ悪事をしなくなっても、もし誰かが彼らに対して犯した罪に対して非寛容であるならば、なおさら赦しを得ることはないだろう。 

だから「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをおゆるしになる」(マタイ6・14)と言ったのである。また、使徒ヤコブは 

「人に憐みをかけない者には、憐みのない裁きが下されます」(ヤコブ2・13)と言ったのもこのためである。実際、1万タラントの負債をゆるしてもらいながら、自分に100デナリの負債がある僕を憐れまなかったために、後に返却を命じられたあの僕を思い出すべきである(ルカ16・9)。それゆえ、約束の子であり憐みの器である者たちに対して、同じ使徒が続けて「憐みは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ2・13)と言ったのである。 

なぜなら、清い生活を送った正しい人たちも、神の恩恵によって、憐みをもって解放されたからである。 

聖徒たちの執り成しによって救われる霊魂は隠されている、おそらく、あらゆる罪を避けようとする向上の熱心が鈍くならないためである。