「神の国10」聖アウグスティヌス

最後の審判においていかなる出来事が起こるか、それについての聖書の証言 

1章 神の裁き この世における計りがたい神の裁き 

キリストは生ける者と死せる者とを裁くために天から来るであろうと言っていることを、私たちは「神の審判の最後の日」、つまり「最終の時」と呼ぶ(2テモテ4・1)。

この日は特に「裁きの日」と呼ばれるが、それはこの日には、なぜ不正な者が幸福であって、あの正しい人が不幸であるのか、といったへまな口論をする余地は全くないからである。

つまり、この時には、真実で完全な幸福はすべて善人だけのものであり、そして似つかわしい極度の不幸は悪人だけのものであろう。

また、世の初めからなされたすべての裁きや、その時までに直されるべきすべての裁きのこの上なく正しいことが明らかになるだろう。

そして、またその時には神の正しい裁きのために、今は非常に多くの、いやほとんどすべての神の正しい裁きが人間の感覚や精神に隠されているのが明白になるであろう。

もっとも、その隠されているものが正しいという事実は、敬虔な者の信仰には隠されていないが。 

2章 この世の空しさについてのソロモンの言葉 

「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」

コヘレト1・2、3

 ソロモンは、この世の空しさを述べ、続けて、この世の労苦と誤りについて、また確実なものは何一つなく、過ぎ去る時の経過について述べている。

そしてこの世にあっては、次のような空しいことも起こるという。

この地上には空しいことが起こる。善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある。これまた空しいと、わたしは言う。 

コヘレト8・14

この世の空しさを描写するために、ソロモンはこの「コヘレトの書」を捧げた。

しかし、その空しい日々において、真理に逆らうか、それとも従うか、また真実の経験にあずからないか、それともあずかるかということは非常に重要である。

それは空しく過ぎ去って行くこの世の幸いを得るため、あるいはわざわいを避けるために重要であるばかりではなく、また善人には幸福が、悪人には不幸が、終わりなく留まるようにする未来の裁きのためにも重要である。

そして最後に「コヘレトの書」を、次のように言って結論している。

「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。神は、善をも悪をも一切の業を、隠れたこともすべて裁きの座に引き出されるであろう。 

コヘレト12・13、14

3章 最後の審判・裁きの日

「しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。 また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」 


(マタイ11・22~24)

救い主は、ここで偉大な業をなしたのに信じなかった国々を叱責し、それらよりも他の国々を優先して述べる。そして「裁きの日」が来ることを明らかに預言している。

「ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。また、南の国の女王は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。」  


(マタイ12・41、42)

裁きが到来することと、その裁きは死者の復活と共に到来することを言っている。キリストがニネベの人々と南の国の女王について述べたとき、彼は死者たちについて語ったのだが、その死者たちが「裁きの日に復活する」であろうと預言したのである。キリストが「彼らを罪に定めるであろう」と述べたのは、彼ら自身が裁くのではなく、彼らと比較されて、この世の人々が正当に罪に定められるからである。

4章 最後の審判・毒麦のたとえ

イエスはお答えになった。「良い種を蒔く者は人の子、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子らである。 毒麦を蒔いた敵は悪魔、刈り入れは世の終わりのことで、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終わりにもそうなるのだ。人の子は天使たちを遣わし、つまずきとなるものすべてと不法を行う者どもを自分の国から集めさせ、燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。彼らは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。そのとき、正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。耳のある者は聞きなさい。」 


(マタイ13・37~43)

善人と悪人は混合しているが、裁きの日には分離される。それは世の終わりに到来することを言っている 。ここで裁きとか裁きの日という語は用いられていないが、しかしそのことを事実そのもので明らかに述べている。しかもこれが世の終わりに到来することを預言している。

5章 最後の審判・十二の座

イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。 


(マタイ19・28)

イエスがその弟子たちと共に裁くことを言っている。 「十二の座に座る」は、ただ使徒である十二人のみがキリストと共に裁くという意味ではなく、十二である全体的な数字が表されている。

この十二という数字は、裁かれる者についても同じで、イスラエルの民だけでなく、民全体を指して言っている。

また「新しい世界」と言うとき、疑いもなく、この言葉によって死者たちの復活のことを言っていることがわかる。なぜなら、私たちの魂が信仰によって再生しているように、私の肉体は腐敗しないことによって再生するであろうからである。

6章 最後の審判・永遠の善人と悪人の分離

「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』  そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」   


(マタイ25・31~46)

キリストのきわめて決然とした最後の審判による善人と悪人との分離、そして、その決別の状態は永遠に続くことを述べている。

7章 キリストを信じる者

父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。


(ヨハネ5・22~24) 

ここで、キリストは御父を信じる者たちは裁かれることがないと言っている。そして彼らは裁きによって悪人たちから分けられ、キリストの右側に座ることも言っている。つまり、この箇所で裁きが断罪の意味で用いられている。確かに、キリストの言葉を聞いて、彼を遣わされた方を信じる者は断罪されることがないのである。 

4章 第一の復活(憐みの復活)

はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。


ヨハネ5・25~26 

ここで、今起こる第一の復活のことについて述べている。この復活は身体ではなくて、魂にかかわる。というのは、魂もまた不正や罪によって死を持つからである。彼らについては、主キリストは、「魂が死んでいる者が身体において死んでいる者を葬ったらよい」(マタイ8・22)と言っている。

主キリストは彼らに対して次のように言っている。「魂が死んでいる者の中で、神の声を聞く者は生きる」(ヨハネ5・25、26)と 。ここで「聞く人」とは、従い信じ、終わるまで忍耐する人のことである(マルコ16・16)

この第一の復活は、善人と悪人の区別はない。というのも、不敬虔な死から、敬虔の生に移ることにより、神の声を聞いて生きることは、すべての人にとって善だからである。 

一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。


(2コリント5・14、15) 

一人の例外なくすべての人が罪のおいて死んだ。そしてすべての死者のために、一人の人が、すなわちまったく罪のない人が死んだ。こうして、私たちは、不敬虔な者を義とする方を信じて不敬虔から義とされ、死から生かされ、今起こる第一の復活にあずかることができるのである(ローマ4・5)。

この第一の復活は、新生の洗礼において行われ、永遠に祝福されている者でなければあずかれない。この第一の復活は「憐みの復活」とも言われる。

5章 第二の復活(裁きの復活)

また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。


ヨハネ5・27~29 

キリストは、まさに肉体によって裁かれるためにこの世に来たのであるが、そのため「子は人の子だからである」(ヨハネ5・27)と言うのである。

第一の復活で再生した者は、裁きという断罪には至らないであろう。第二の復活において、断罪されたくない者は、第一の復活によって甦るといい。そうすれば第二の死と呼ばれる断罪には至らないだろう。

その第二の死は、魂の復活である第一の復活において甦らない者が、身体の復活である第二の復活のあとで、突き落とされるであろう。

しかし、第一の復活のあと再生した人も、その状態を終わりまで保たなかった者も、第二に復活のあと突き落とされるであろう(ヨハネ5・28、29)。

6章 ヨハネの黙示録と第一の復活(黙示録20・1~6)

わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、

黙示録20・1、2

「千年」はこの世の年数全体を指す。解放されるはずの人を、悪魔がいざなったり所有したりする力を制限し抑制した。

この天使は、悪魔でもサタンでもある、 年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、底なしの淵に投げ入れ、

黙示録20・3

天使は悪魔を「底なしの淵」に投げ入れた。この「底なしの淵」は、その心が神の教会に対する悪意において非常に深い者たちの群れを意味している。

鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。

黙示録20・3


天使は悪魔が外に出ることを、つまり禁止事項に違反することを禁じた。悪魔はキリストに属する諸国民(諸国民で教会を表している)をいざなうことは禁じられ、引き止められている。

というのは神は彼らを闇の権力から引き離し、御国に移すことを世の創造以前に選んだからである。それは神として見るからであって、神において未来は隠されていない。しかし私たちは、現在しかしらないためそれを知ることはできない。そのことは悪魔においても同じで、そして、悪魔の側に属する者と、それに属さない者とが隠されている。

その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。

黙示録20・3

悪魔は、しばらくの間、解放されるが、教会は悪魔によって決して惑わされることはない。教会は、すべての時に渡って存在するであろう。

しかし、悪魔は教会に対する戦いにおいて地上のあらゆる所からまどわした諸国民を引きつれ、その数は海の砂のごとくであろう」(黙示録7・8)。そして聖なる者と愛される都を取り囲むが、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くすだろう。彼らは火の海に投げ込まれ代々、せめ苦しめられる」(黙示録20・9、10)。

この箇所は最後の審判に関連する。悪魔の捕縛とは、悪魔が人々を、誘惑することに対して、可能なあらゆる誘惑をほどこすことを許されていないことを指す。しかし、悪魔は短い期間だけは解放されるであろう。

黙示録によれば「42ケ月の間」(黙示録11・2)、悪魔は全力をあげて荒れ狂うであろう。しかし悪魔の敵は、あらゆることをしても征服されないであろう。

神は悪魔を終わりのときに解放するであろうが、それは神の国がいかに強力な敵対者に勝ったかを見、また同時に、その贖罪者、援助者、解放者の偉大な光栄を見るためである。

世の終わりまで、人々は不信仰から信仰に転じるとき、つまり悪魔の家財が奪われるとき縛られるのである。悪魔が閉じ込められている深淵は無くなることはなく、キリスト教徒を憎む者たちが新しく生まれ引き継ぎ、世の終わりまで引き継ぐ。悪魔はこのような者たちの盲目な心の中に、あたかも深淵の中のように閉じ込められている。 

わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。

黙示録20・4

これは、今教会をつかさどっている指導者の座と指導者そのものを示す。この人たちに与えられた裁きの権力は「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(マタイ18・18)のである。

わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。

黙示録20・4

これは、自分の身体に戻っていない殉教者の霊である。なぜなら敬虔な死者の霊は、今でもキリストの王国たる教会から分離されていないからである。彼らの魂は、まだ身体と結合していないが、千年を経過する間、キリストと共に支配するのである。教会はまず、生きている者と死んでいる者とにおいて、キリストと共に支配する。しかし、ヨハネが殉教者の魂だけを述べたのは、死に至るまで真理のために戦った死者がとくに支配するからである。

この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった

黙示録20・4

獣は、神の国に敵対する、不敬虔な国と不信仰な人々を指す。その像とは、信仰を告白するように見えるが、信仰なくして生きている人々における信仰の類似を指す。そしてこの者たちは、教会の中にいて、世の終わりに集められる毒麦である。

彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった

黙示録20・4

彼らは、死から生に移ることによって、生きなければいけなかった時に、生きなかった。そこで身体の復活が起こる日に、彼らは裁きのために、墓から出てくるだろう。

これが第一の復活である。第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である

黙示録20・5

罪のうちにある死から生き返るばかりでなく、この生き返った状態を保つ者たちこそ、第一の復活の参与者である。

この者たちに対して、第二の死は何の力もない。

黙示録20・6

第一の復活の後、その生活を保った幸いな者、聖なる者は、第二の死には至らない。

彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。

黙示録20・6

あたかも私たちが神秘的な聖油のために、そのすべての人々を、聖油を塗られた者と言うように、一人の祭司の四肢ゆえに、そのすべてを祭司と言うのである。「神とキリストの祭司となって」、つまり御父と御子の「司祭となって」と言うことによって、キリストが神であることを示唆した。 

7章 最後の迫害におけるゴグとマゴグ(黙示録20・7~9)

「この千年が終わると、サタンはその牢から解放され、地上の四方にいる諸国の民、ゴグとマゴグを惑わそうとして出て行き、彼らを集めて戦わせようとする。その数は海の砂のように多い」

黙示録20・7、8


これは最後の審判の間際に、地上で起こる最後の迫害を表している。ゴグは「屋根」、マゴグは「屋根から」の意味である。両者でいわば家と家から出てくる人々を表す。つまり悪魔がまるで深淵のなかにいるように閉じ込められ、そしてその中から彼自身が何らかの仕方で抜け出し現れて来たその諸国民なのである。それで諸国民は屋根で、悪魔は屋根からということになる。

彼らは地上の広い場所に攻め上がって行って、聖なる者たちの陣営と、愛された都とを囲んだ

黙示録20・9

この都は、地上の全域に広がっている教会を表す。その教会は、どこにあろうとも、そこには聖徒たちの陣営があり、また神によって愛された町がある。つまり、教会は息苦しい苦難の中にしめつけられ、圧迫され、取り囲まれるであろう。しかし、教会は、陣営という言葉どおり、戦いを放棄しないであろう。 

「天から火が下って来て、彼らを焼き尽くした」

黙牛六20・9

「天からの火」は、聖徒たちが荒れ狂う者たちに屈服せず、その志を行わない堅固さを表す。敵は燃え盛る嫉妬に身をさいなむ。「反キリストの迫害は42ヶ月続くであろう」(黙示録11・2~3、ダニエル12・7)。この期間は、短いため千年のなかには、あえて算定しない。従って、聖徒たちの支配の千年は終わらないが、悪魔の捕縛と監禁の千年は終わる。そのどちらの中に入れられても短いために、あえて算定に入れていない。 

10章 悪魔の断罪と死者たちの裁き(黙示録20・10~15)

このあと、最後の審判において、悪魔とその悪魔を頭とする敵の国とがこうむるであろうすねての事柄を手短に要約する。

そして彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄の池に投げ込まれた。そこにはあの獣と偽預言者がいる。そして、この者どもは昼も夜も世々限りなく責めさいなまれる 。 

黙示録20・10

この後、ヨハネは、死者たちの身体の復活である第二の復活において起こる最後の審判について、それがいかに啓示されたかを要約して述べる。

わたしはまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地も、その御前から逃げて行き、行方が分からなくなった

黙示録20・11

ここでは、裁きが完了して、新しい天と新しい地が始まるとき、そのとき、もはや、この天と地は終わることを言っている。この世は、変化によって移り変わるのであって、決して滅亡によるのではない。

わたしはまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。

黙示録20・12

ヨハネは、座っておられる方の王座の前に、死者たちが大きな者も、小さな者も、立っているのを見た。「幾つかの書」は、新約と旧約の聖書であり、これらの書の中には、神はその掟が果たされるような何かを命じたかが記されている。しかし各人の「命の書」であるもう一つの書においては、各人が神の掟のどれを果たさなかったか、あるいは果たしたか示されているのである。すべての人は、このようにして、行いに応じて裁かれるのである。 

海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。 

黙示録20・13

この箇所で海は、この世の意味で用いられている。死者は、この世で生きている人が復活した人たちを共に裁かれなければならないことを示そうとしたとき、その人たちが善人であっても、悪人であっても等しく死者と呼んだ。つまり、この世は、まだ死んでいないため、その中にいた人たちを出したのである。
「死も陰府も、その中にいた死者を出し」(黙示録20・13)。一方、死と陰府が死者たちを返したのは、彼らがすでにそこから立ち去っていた生へと呼び戻されたからである。そして死のほうは、ただ死のみをこうむり陰府はこうむらない善人のために、だが陰府のほうは、陰府における罰を受ける悪人のために述べられている。キリストによって贖われた善き信者たちは、身体を回復し、ふさわしい報いを受けるまで、陰府をまったく知らないのは確かである。

「彼らはそれぞれの自分の行いに応じて裁かれた」(黙示録20・13)。その裁きは、どうようなものであったかと言うと、

「死も陰府も火の池に投げ込まれた」(黙示録20・14)。

黙示録20・14

ここで「死も陰府も」とは、この名称によって、悪魔が死と陰府の苦しみの張本人にあることから、悪魔とその一味徒党の者たちが意味されている。

「その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた」

黙示録20・15

この「命の書」とは、永遠の生命が与えられる者たちへの予定を示すものである。なぜなら、神は彼らを知らず、それで彼らを知るために、この書を読むのではなく、むしろ彼らについて謝りえない神の予知そのものが命の書である。 

11章 新しい天と地 (黙示録21)

悪人たちの裁きは終了したので、次に善人について述べている。

「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」

黙示録21・1

これは(黙示録20・11)と、先取りして言った順序で起こるだろう。命の書に記されていない者たちが裁かれて、永遠の火に投げ入れられると、そのときこの世界の姿は、大規模な火の燃焼によって過ぎ去るであろう。世界は驚くべき変化によって不死となった身体に似合う性質をもつであろう。「海もなくなった」(黙示録21・1)、海という名前で象徴されたこの世、人間たちの不要に満ちた荒々しい生は、もはや存在しない。

更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」

黙示録21・2~4

ここでは新しいエルサレムの栄光について述べている。神の子イエス・キリストによって最後になされる神の裁き結果、その都は神の賜物によって、古いものの痕跡は何も残らないほどに、それほど強い、それほど新しい輝きを表すことであろう。その時には、私たちの身体も古い退廃と可死性から、新しい不朽と不死性へと変化するであろう。しかし、この死すべき世では、すべての人は、涙や苦痛なしに過ごすことはありえない。しかし、ここでは、未来の世と聖徒たちの不死性や永遠性がこのようにはっきりと述べられている。 

12章 最後の審判についてのペトロの預言(2ペテロ3・3~13) 

まず、次のことを知っていなさい。終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現れ、あざけって、 こう言います。「主が来るという約束は、いったいどうなったのだ。父たちが死んでこのかた、世の中のことは、天地創造の初めから何一つ変わらないではないか。」 彼らがそのように言うのは、次のことを認めようとしないからです。すなわち、天は大昔から存在し、地は神の言葉によって水を元として、また水によってできたのですが、時の世界は、その水によって洪水に押し流されて滅んでしまいました。しかし、現在の天と地とは、火で滅ぼされるために、同じ御言葉によって取っておかれ、不信心な者たちが裁かれて滅ぼされる日まで、そのままにしておかれるのです。愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません。神の日の来るのを待ち望み、また、それが来るのを早めるようにすべきです。その日、天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、熔け去ることでしょう。しかしわたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです。 

2ペテロ3・3~13

ここでは、裁きが行われた後、この世界は燃え、そのあと新しい天と地にとって代わることが述べられている。

ノアの時代、洪水の水から更新された世界は、裁きと不敬虔な人々の滅びの日まで、最後の火そのものから保たれている。人間もある大きな変化のためにいつかは滅びる。しかしその本性は、永遠の罰においてでさえも存続すると言う。

13章 反キリストについてパウロの預言(2テサロニケ2・1~12) 

さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストが来られることと、そのみもとにわたしたちが集められることについてお願いしたい。 霊や言葉によって、あるいは、わたしたちから書き送られたという手紙によって、主の日は既に来てしまったかのように言う者がいても、すぐに動揺して分別を無くしたり、慌てふためいたりしないでほしい。 だれがどのような手段を用いても、だまされてはいけません。なぜなら、まず、神に対する反逆が起こり、不法の者、つまり、滅びの子が出現しなければならないからです。 この者は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して、傲慢にふるまい、ついには、神殿に座り込み、自分こそは神であると宣言するのです。 まだわたしがあなたがたのもとにいたとき、これらのことを繰り返し語っていたのを思い出しませんか。 今、彼を抑えているものがあることは、あなたがたも知っているとおりです。それは、定められた時に彼が現れるためなのです。 不法の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えている者が、取り除かれるまでのことです。 その時が来ると、不法の者が現れますが、主イエスは彼を御自分の口から吐く息で殺し、来られるときの御姿の輝かしい光で滅ぼしてしまわれます。 不法の者は、サタンの働きによって現れ、あらゆる偽りの奇跡としるしと不思議な業とを行い、 そして、あらゆる不義を用いて、滅びていく人々を欺くのです。彼らが滅びるのは、自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからです。 それで、神は彼らに惑わす力を送られ、その人たちは偽りを信じるようになります。 こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれるのです。 

2テサロニケ2・1~12

神の最後の審判は、反キリストが先に来ないと起こらない。反キリストは、かしら自身だけでなく、それに属する人々の群れもあらわす。 

「不法の力の秘密の力は既に働いています。ただそれは、今のところ抑えらえている者が、取り除かれるまでのことです。その時が来ると不法なものが現れます」(2テサロニケ2・7、8)。キリストの敵である反キリストが、魂において死んでいる者たちをいざなうために来ない限り、キリストは生ける人と死せる者とを裁くために来ないであろう。

もっとも、魂において死んでいる者たちが反キリストによっていざなわれるのは、すでに神のひそかな裁きによるのである。というのも最後の時、サタンは解放され、あの反キリストにより、全力をあげ驚くべき仕方で、だが人を迷わせる仕方で働くのである。

いざなわれるに値する者たちが、このしるしや不思議によっていざなわれるであろう。それは「自分たちの救いとなる真理を愛そうとしなかったからである」。実際、神が迷いの業を送るのは、神が悪魔にそうすることを許すからであり、そして悪魔はたとえそれを不義で悪意のある意図からなすとしても、神自身の正しい裁きによるのである。また、「こうして、真理を信じないで不義を喜んでいた者は皆、裁かれる」ことになる。したがって、彼らは裁かれていざなわれ、いざなわれて裁かれるのである。 

14章 死者の復活についてパウロの預言 

兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。 主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。  

1テサロニケ4・13~17

ここでは、キリストが生ける者と死せる者とを裁くために来臨する時の、死者の復活を極めて明らかに示している。

キリストは再臨のとき、地上に生きているすべての聖徒たちは、彼らが連れて行かれる間に、死すべき身体から離れ、やがて不死になる身体に戻る。なぜなら、聖徒たちはたとえ短い間ではあれ、先に死ぬのでなければ、不死性によって生かされることはないからである(1コリント15・50~52)。

15章 復活と審判に関するイザヤの預言 

主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう、平和を大河のように、国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ、抱いて運ばれ、膝の上であやされる。母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ、あなたたちの骨は青草のように育つ。主の御手は僕たちと共にあり、憤りは敵に臨むことが、こうして示される。見よ、主は火と共に来られる。主の戦車はつむじ風のように来る。怒りと共に憤りを叱咤と共に火と炎を送られる。 主は必ず火をもって裁きに臨まれ、剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い。

イザヤ66・12~16

善人たちの幸福は、この川によってすべてのものが満たされるほどである。この川は、人間を天使と等しくするため、より高いところから、より低いところへの、あふれ出て流れる。

また、エルサレムを、天における永遠で自由な母として表している。私たちは、地上の労苦のあと、私たちは彼女の子供として肩や膝の上に運ばれて慰められるであろう。私たちにとって尋常でないあの至福は、そのいともやさしい保護によって未熟で未敬虔な私たちを包むであろう。

イザヤは、私たちが何を見るか言っていないけれど、それは神以外の何であろうか。すなわち「心の清い者は幸いである。彼らは神を見るであろう」(マタイ5・8)という福音書の約束が、私たちにおいて成就するように、私たちは今、見ないで信じているが、その時にはすべてを見るであろう。

「あなたたちは地上で信じ、天上では喜ぶであろう」そして、「あなたたちの骨は青草のように育つ」であろう。ここでは身体の復活を示唆している。

そして善人たちの復活を想起していることをしめすために、「主の御手は僕たちと共にあり」とつけ加えた。これは主をあがめる者たちを、主を軽んじる者たちから区別する手である。

イザヤは主を軽んじる者について次のように続けて言っている。「憤りは敵に臨むことが、こうして示される」。次に、イザヤは火や嵐や剣という語によって、裁きの罰を意味している(イザヤ66・15、16)。これらは、主の来臨が罰をもたらす者たちに対して言われている。だが、その乗り物(複数)は、天使たちの奉仕と解される。 

「主は必ず火をもって裁きに臨まれ、剣をもってすべて肉なる者を裁かれる。主に刺し貫かれる者は多い」。肉的な人々は、主の剣に刺し貫かれる。そして多くの者が、この傷によって第二の死がもたらされるであろう。

16章 反キリストと復活に関するダニエルの預言 

「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。 しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」 更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである。 その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。 見ていると、この角は聖者らと闘って勝ったが、やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである。さて、その人はこう言った。「第四の獣は地上に興る第四の国、これはすべての国に異なり、全地を食らい尽くし、踏みにじり、打ち砕く。十の角はこの国に立つ十人の王、そのあとにもう一人の王が立つ。彼は十人の王と異なり、三人の王を倒す。 彼はいと高き方に敵対して語り、いと高き方の聖者らを悩ます。彼は時と法を変えようとたくらむ。聖者らは彼の手に渡され、一時期、二時期、半時期がたつ。 やがて裁きの座が開かれ、彼はその権威を奪われ、滅ぼされ、絶やされて終わる。天下の全王国の王権、権威、支配の力は、いと高き方の聖なる民に与えられ、その国はとこしえに続き、支配者はすべて、彼らに仕え、彼らに従う。」 
ここでその言葉は終わった。わたしダニエルは大層恐れ悩み、顔色も変わるほどであった。しかし、わたしはその言葉を心に留めた。 


ダニエル7・17~28

ここで、最後の審判について、このダニエルもまず反キリストの到来を予告し、次いで聖徒たちの永遠の王国に話す、という仕方で預言している。彼は、4つの王国を示す、4匹の獣(このうちの4番目の獣は、反キリストの王に征服される)を見、また永遠の王国を見た。

そして教会に敵対する反キリストのきわめて残酷な王国が、神の最後の審判によって聖徒たちが永遠の王国を受けるまで、短い間であっても存続する。それは三年半(42ヶ月)で示されている。

彼はお前の民の子らを守護する。その時まで、苦難が続く、国が始まって以来、かつてなかったほどの苦難が。しかし、その時には救われるであろう、お前の民、あの書に記された人々は。 多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、ある者は永久に続く恥と憎悪の的となる。 目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々は。とこしえに星と輝く。


ダニエル12・1~12

ここで、苦難の後、時の終わりに「地の塵の中の眠りから目覚め」、そして時の終わりに、死者は復活し、善人と悪人のそれぞれの定めに従い、永遠に分けられることを述べている。そして、ダニエル自身の復活についてこのように言われている。

「 終わりまでお前の道を行き、憩いに入りなさい。時の終わりにあたり、お前に定められている運命に従って、お前は立ち上がるであろう。」 

ダニエル12・13

17章 詩編における世の終わりと最後の審判

「かつてあなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。それらが滅びることはあるでしょう。しかし、あなたは永らえられます。すべては衣のように朽ち果てます。着る物のようにあなたが取り替えられると、すべては替えられてしまいます。


詩編102・26~28 

世の終わりについて、天地が滅び去ることを言っている。天地が滅び去ることは
ペトロの手紙でも記されている。「主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。 このように、すべてのものは滅び去るのですから、あなたがたは聖なる信心深い生活を送らなければなりません」( 2ペテロ3・10~12 )。

わたしたちの神は来られる、黙してはおられない。御前を火が焼き尽くして行き、御もとには嵐が吹き荒れている。神は御自分の民を裁くために、上から天に呼びかけ、また、地に呼びかけられる。「わたしの前に集めよ、わたしの慈しみに生きる者を、いけにえを供えてわたしと契約を結んだ者を。」 

詩編50・3~5

この箇所で、最後の審判について語られている。このことを行うのは死せる者と生ける者とを裁くために来る主イエス・キリストである。

そして、主キリストは義しい者たちに対して言うだろう「わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」(マタイ25・34)と。

18章 最後の審判におけるマラキエルの預言

見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。

マラキ3・1

最後の審判について述べている。

だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を正しくささげる者となるためである。そのとき、ユダとエルサレムの献げ物は、遠い昔の日々に過ぎ去った年月にそうであったように、主にとって好ましいものとなる。 

マラキ3・2~4

ここでは、最後の審判で、ある者たちが、ある種の浄罪の罰を受けることがわかる。悪人たちが罰の裁きのときに、善人から分けられるとき、そのうちのある者は汚れから清められるとあるので、ある者たちは浄化を受けることがわかる。

裁きのために、わたしはあなたたちに近づき、直ちに告発する。呪術を行う者、姦淫する者、偽って誓う者、雇い人の賃金を不正に奪う者、寡婦、孤児、寄留者を苦しめる者、わたしを畏れぬ者らを、と万軍の主は言われる。 まことに、主であるわたしは変わることがない。

マラキ3・5~6

ここでは断罪に値する者について述べている。主は断罪に値する罪を数え上げたあと、「まことに、主であるわたしは変わることがない」と言われる。まるで、あなたたちは、あなたたちの咎によってより悪く変わり、またわたしの恩恵により良く変わるが、わたしは変わらないと言っているようである。

主の裁きにおいて証人を必要としないが、しかし主はすみやかな証人であるであろう。またパウロは言う。「人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(ローマ2・16)。 

わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。 見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。 わたしが備えているその日にあなたたちは神に逆らう者を踏みつける。彼らは足の下で灰になる、と万軍の主は言われる。

マラキ3・17~21

ここでは、最後の審判における義なる者と不義なる者との分離を表している。義しい者たちを不義なる者たちから分離するこの報酬と懲罰との違いは、空しいこの世の太陽のもとでは見分けることはできないが、永遠の生命があらわとなるあの正義の太陽のもとでそれが明らかになるとき、それまで決してなかったような裁きが確かになされるであろう。

わが僕モーセの教えを思い起こせ。わたしは彼に、全イスラエルのため、ホレブで掟と定めを命じておいた。

マラキ3・22

マラキは、律法を重んじる者と軽んじる者との大きな相違を明らかにしたあと、適切にも掟と裁きを思い起させる。そして次のように不平をもらしてはいけない。

「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を喪に服している人のように歩いても、何の益があろうか。 むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。」 

マラキ3・14、15

最後の審判においては、悪人は見かけの上でも幸福でないどころか、明らかな悲惨な者として現れ、そして善人たちはどんな一時的な悲惨によっても苦労しないどころか、晴れやかな幸福を享受するであろう。

見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。 

マラキ3・23、24

マラキは、モーセの律法を思い起こすように警告した後、彼らがこの律法を霊的に受け取ることは長い間しないだろうと予見したため、預言者エリアについて述べている。救い主が審判者として到来する前に、エリア自身が来ることを希望することは間違いではない。

19章 審判者としてのキリスト

ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ。わたしが呼び出したイスラエル。わたしは神、初めでありまた終わりであるもの。わたしの手は地の基を据え、わたしの右の手は天を延べた。わたしが彼らに呼びかけると、共に立ち上がる。皆、集まって聞くがよい。彼らのうちに、これを告げた者があろうか。主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い、主の御腕となる人が、カルデア人に行うことを。わたしが宣言し、わたしが彼を呼んだ。彼を連れて来て、その道を成し遂げさせる。わたしのもとに近づいて、聞くがよい。わたしは初めから、ひそかに語ったことはない。事の起こるとき、わたしは常にそこにいる。今、主である神はわたしを遣わし、その霊を与えてくださった。


イザヤ48・12~16

ここで「主なる神」は神ご自身であるが、「わたし」は主キリストである

主なる神として語ったのは神御自身であるが、しかしもし「 主である神はわたしを遣わし、その霊を与えてくださった」と付け加えなかったならば、イエス・キリストは理解されなかったであろう。

なぜなら、神は未来の事柄に関して過去形の動詞を用いながら、しもべの姿をとってこのように述べたからである。

栄光によってわたしを遣わされた、万軍の主が、あなたたちを略奪した国々に、こう言われる。あなたたちに触れる者は、わたしの目の瞳に触れる者だ。わたしは彼らに向かって手を振り上げ、彼らが自分自身の僕に奪われるようにする。こうして、あなたたちは万軍の主がわたしを、遣わされたことを知るようになる。


ゼカリア2・12、13

ここでのわたしは万軍の主のこと、つまり万軍の主が、万軍の主を遣わす。つまり、御父なる神が、御子なる神を遣わすのである。さらに、主はザカリアに語りながら言う。

その日、わたしはエルサレムに攻めて来るあらゆる国を必ず滅ぼす。わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。


ゼカリア12・9~11

「エルサレムに攻めて来る国」すなわち、エルサレムに敵対する諸国民を滅ぼすことは神以外にできない。またダビデと聖なる都に住む人たちに、恩恵と祈りの霊を注ぐことは神にしかできない。

さらに主は付け加えて言う。「 彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」。実際、恩恵と憐みを受ける人は、キリストの受難において、彼を侮辱したことを後悔する人である。

こういう人たちに、主は恩恵と祈りの霊を注ぐのである。

見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。 彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。 傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。 暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。諸国民の民は彼の名に希望をおくであろう。

イザヤ42・1~4  70人訳

「わたしの僕、わたしが支える者」はキリストを表している。主キリストは、健全さをなくしているゆえに「傷ついた葦」に例えられ、また光を失っているため「暗くなってゆく灯心」に例えられるユダヤ人たちを折ったり消すことはなかった。

なぜなら、主キリストはまだユダヤ人たちを裁くために来たのではなく、彼らによって裁かれるために来たので、彼らをいたわっていたのである。もしユダヤ人たちが悪意を持ち続けるなら、罰せられる時があることを彼らに予告しながら、真実を告げ知らせた。

「この地に裁きを置くまで」。私たちに隠されていた最後の審判が来るときまで諸国民は、彼の名に希望を置くだろう。

主が十字架につけられた時、弟子たちさえも彼に抱きはじめた希望を失っていたときに、諸国民がキリストの名に希望を置くことをだれが希望するだろうか。だがあの時、十字架上の一人の盗賊がかろうじて希望したことを、今は遠く散らばっている諸国民が希望しており、永遠に死なないようにとキリストがその上でなくなったあの十字架の印をつけているのである。

20章 最後の審判で起こること

聖書で予告されている通り、キリストによって最後の審判が起こることは確実である。そしてこの審判において次のことが起こることを理解する。

  1. テシベ人のエリヤ 
  2. ユダヤ人たちの信仰 
  3. 反キリストの迫害 
  4. キリストの審判 
  5. 死者の復活 
  6. 善人と悪人との分離 
  7. 世界の炎上と更新。 

これらのことは、これらの順番で起こるであろう。