「神の国9」聖アウグスティヌス

最高善に関する哲学者たちの見解。これに対して、天の国にはいかなる幸福があるか、またキリスト教徒たちはこの悲惨な現世においていかなる状態にあるか、さらに来るべき世においていかなる報いを受けるか。

1章 この悲惨な生のなかでは、何人も最高の善を見出せない。 

神の国の人にとって、永遠の生命が最高善であり、それに対して、永遠の死は最高悪でる。それゆえ、私たちは、前者を獲得し、後者を回避するために、正しく生きなければならない。

「義人はその信仰によって生きる」(ガラ3・11)と記されている。なぜなら、私たちは、私たちの求める善を実際の目で見ることなく、信じつつ求めないといけないし、その信じることを与える者に対して祈り求め、その方の助力がないかぎり、正しく生きる力は私たち自身のうちにないからである。

ところで究極の善と悪が、この世において存在すると考えた者たちは、最高善を、快楽・休息・本性の根源的善、またはそれらを求める徳の中に求めた。そして、驚くべきうぬぼれから、この地上で幸福になり、しかも自分自身の力で幸福になることを欲した。

「主は知っておられる。知恵のある者たちの論議がむなしいことを」(1コリント3・20)と聖書にある。なぜなら、この世の悲惨を、どんなに語ったとしても、十分な説明はできないからである。

実際、本性の根源的善は、不慮の出来事に出会っても動揺することなしに、この世において常に保つことができるだろうか?快楽に反するいかなる苦痛も、休息に反するいかなる労苦も知者の体に起こることはないというのか?また、病気、身体の損傷・障害は、知者に襲うことはないのか?身体の動きも、上品で美しい時には、本性の根源的善のうちに数えられるが、損なうことがありうる。また魂の始原的なものはどうであろうか?そこでは感覚と知性が、真理の把握や理解のために存在する。だが、もし、身体に障害が生じたとしたら、どうなるのか?また、ある病気が、人を狂わせたのなら、理性や知性はどうなのか?「朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫します 」(知恵9・15)。このような状態にある私たちは、どのような、またどれほどの真理の知覚を持つことができるのか?

さらに、徳そのものは本性の根源的善に数えることはできない。なぜなら、徳は、後に教育によって導かれて本性の善に加えられるためである。そして、徳は人間の善のうちで第一位を要求している。しかし、その徳は、この世において、内面における悪徳との絶え間ない戦いによるものではないのか?

私たちがこの内面的な戦いのさ中にあるうちに、この戦いに打ち克って到達しようとする幸福を、すでに私たちは獲得していると考えるのはとんでもないことである。

例えば、節制の徳は、情欲が恥ずべき行為へと誘惑することに同意させることがないように、この情欲を抑制する徳である。私たちが最高善に達し、完成されることを望まないこと、また霊に反する悪徳が、私たちの内にはないことではなかろうか?しかし、私たちが、どんなに欲しても、この世でこれをなすことは不可能である。したがって、少なくとも神の助力のもと、努めるのである。

私たちは賢明の徳は、誤りがまぎれこまないように、注意を払い、善を悪から区別するが、このことによって、この徳も私たちが悪の内にあることを証明していないか?賢明が、その悪を教え、節制がその悪を退けようとするが、この悪を、賢明も節制も、この世から取り除くことはできない。

正義はどうか、人はこの正義により、人間の本性に秩序が生じ、魂は神に服し、また肉は魂に服し、こうして魂も肉も神に服するのである。正義は、働きを終え、休んでいるというよりも、今もなお働いていると言うほうが正しくないか?実際、魂はその思考のうちに神をとらえることが少なければ少ないほど、より少なく神に服しており、そして肉は霊に反して望むことが大きければ大きいほど、より少なく霊に服している。

それゆえ、この弱さ、この不幸、この病気がある限り、どうして、私たちはすでに健全であると言うことができるのか?そしてもし、まだ健全でないなら、どうして至福であるということができるのか?実に、勇気という徳がすでに、どれほど多くの知恵を伴っていても、忍耐強く、忍ばなければならない人間の悪の最も明らかな証人である。

この世で、究極の善を所有し、自分自身の力で幸福になれると考える人たちは、非常に高慢な愚かさがあって、彼らのうちの知者は、苦しみに満ちた病気、または苦しい拷問にかけられたりしても、これらに取り囲まれた生活に陥ったとしても、この生活を幸福であるということを恥じない。そして、その苦しみから逃げ出すべきであると主張する。

そして、その苦しみが、この世の悪により、非常に大きくなったとき、その被害者は自ら死を選ぶことによって、その悪から脱出すべきであると主張するものがいる。

ウァロは言う、「身体の責め苦や拷問は悪である。そして、それが大きければ大きいほど、ますます悪である。そのような悪から遠ざかるには、この世から逃げ出すべきである」。

このように、逃げ出さなければいけないという生が幸福であるのか?もし、その悪が永続するならば、そのような生は悲惨であると判断するであろう。したがって、生が短いがゆえに、その生が何ら悲惨でないと判断してはならず、また短く悲惨であるゆえに、幸福とも呼ぶのはいっそう不条理である。

この死すべき世において、究極の最高善を享受すべきであるなどと想像することを止めないならば、生は幸福とは呼ばれない。この世では人間にとって徳ほどすぐれていて有用なものはないが、その徳は危険や労苦や苦痛の力に対する大きな保護であればあるほど、いっそう悲惨の事実の忠実な証拠であるまいか。

もし真の徳が存在し、そしてそれは真の敬虔をもった者においてのみ存在するのであれば、その真の徳はこれを所有する人々をいかなる悲惨をこうむらないようにすることができると公言することなく、かえってこの世のこれほど多くのこれほど重大な悪のために悲惨にならざるをえない人間の生が、来るべき世への希望によって救われていて幸福であることを公言する。

使徒パウロもこう言っている。「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(ローマ8・24、25)。

それゆえ、私たちは希望によって救われているように、希望によって幸福にされる。そして、私たちはまだ現在の救いを持たず、未来の救いを期待しているように、現在の幸福を持たず、未来の幸福を期待している。しかも、それを「忍耐して」期待している。なぜなら、私たちが言い表し難い仕方で享受する善がすべて存在し、「もはや耐えなければ」ならないものは何もないようなあの善に到達するまでは、私たちは忍耐強く忍ばねばならない悪の中にいるからである。 

2章 聖徒たちの報い 

聖徒たちや信仰深い信者さえも、この地上において、悪魔の罠や誘惑から安全ではない。しかし、この地上のはかない場所において、このような試練に耐え忍ぶ人は幸いである。なぜなら、その人は適格者と認められ、神から命の冠をいただけるからである(ヤコブ1・12、13)。

天国では、私たちは、創造主により、人間本性への贈物を受けるであろう。それは善であるばかりか、永遠でもある。これを魂においてのみならず、また復活によって新たにされる身体においても受けるであろう。

そして、ここでは、徳は、いかなる悪に対しても争うことはなく、勝利の報いとして、どのような敵もかき乱すことのない永遠の平和を得るであろう。それは、究極の幸福であり、最後の完成である。

私たちが今生きているこの生においても、平和を持つとき、幸福であると言える。だが、この幸福は、私たちが究極の幸福と呼ぶあの幸福と比べるならば、全くの不幸でしかない。 

したがって、地上にいるとき、私たちは平和をもつとき、徳は、その善を正しく用いているのであり、もし平和をもたないならば、徳は、その禍いすらも良く用いるのである。

しかし、その徳が真の徳であるのは、それよりも大きな平和がありえない平和、すなわち永遠の至福にかかわる場合である。

3章 最高善としての永遠の平和 

平和は、私たちの究極の善であると言うことができる。そして、神の国も次のように言われている。「エルサレムよ、主をほめたたえよ、シオンよ、あなたの神を賛美せよ。主はあなたの城門のかんぬきを堅固にし、あなたの中に住む子らを祝福してくださる」(詩編147・12、13)。 エルサレムのかんぬきが固くされるとき、その門から誰も入って来ることはできないだろう。したがって、エルサレムは、終極のものと示される平和と解さないといけない。

ところが「平和」は、この世の過ぎ去って行く事物についてもよく用いられるものであるから、この天上の国の終極を平和と呼ぶよりも、永遠の生命と呼ぶのである。

この終極について使徒パウロは次のように言っている。「今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」。(ローマ6・22)

しかし、ある意味では悪人たちも永遠の命であると解することができるので、この国の最高善である終極は、永遠の命における平和、もしくは平和における永遠の命と言わなければならない。

なぜなら、平和は非常に重要であって、地上の滅びゆくものにおいては、人がこれほど好意持つ言葉はなく、これほど熱心に欲求するものもなく、これほど善いものを見つけることができないからである。 

4章 平和への普遍的な傾向 

人間は誰でも平和を欲する。勝利を願って戦争する人であっても、戦争によって光栄ある平和に至ることを望む。自分たちが今ある平和を乱すことを欲する者ですら、平和を憎むのではなく、平和が彼らの意向に適うように変えられることを望んでいる。彼らは、平和を欲していないのではなく、自分たちにとって、よりよい平和を持つことを欲しているのである。したがって、彼らは、平和によって他の人々から離れるとしても、自分の共謀者や共犯者とある種の平和を保とうと努める。

盗人たちすら、他の人々の平和をひどく脅かしながらも、仲間たちとは平和を保とうとする。しかし、その平和は幻影である。なぜなら、その首謀者は命令に従う者たちを喜ぶが、もし従わないなら、怒ったり、どなったり、罰したりする、そして平和は、彼の家では、首謀者に従わない限りありえないからである。

そしてもし民衆が彼に服従を申し出るならば、彼はもはや、盗賊として隠れ家に潜んでいないで、王として皆の前に姿を現すであろう。もっとも彼の欲望と、悪意は同じままなのだが…。

すべての人は自分の意志に従って生きることを欲する者たちと平和を保つことを願う。つまり、戦争の相手側をできることなら自分のものにして、その服従者たちに平和の法を課すことを欲する。

悪人たちでさえも、平和のために戦うのであるが、可能ならば、すべての人々を自分のもとに従えて、あらゆる人々やあらゆる者がただ一人に仕えるようにすることを望むのである。それは、すべての人々が愛から、もしくは恐れから、他に協同することによってである。

こうして高慢は神を不正に模倣する。つまり、高慢は神のもとで同僚と等しくあることを嫌い、神の代わりに自己の支配を同僚に課すことを欲する。それゆえ、神の正しい平和を嫌って、自己の正しくない平和を愛するのである。

それで、不正なものよりも正しいものを選ぶことを知る人々は、正しくない人々の平和を、正しい人の平和に比較するならば、それが平和とは呼ばれるべきでないことがわかる。 

5章 平和と秩序 

苦しみのないある種の生はあるが、ある生なしに苦しみはありえないように、何の戦争もないある種の平和があるが、ある平和なしに戦争はありえない。従って、いかなる悪もありえないような本性は存在するが、しかし、そのうちにいかなる善もないような本性は存在しえない。

そこで、悪魔自身の本性も、それが本性である限りは悪ではなく、意志の転倒が悪魔を悪くしたのである。こうして悪魔は真理の中にいなかったが、真理の審判を免れはしなかった。悪魔は秩序の静けさに留まっていなかったが、秩序づける御者の支配から脱しはしなかった。神はその創造した善を追求したのではなくて、悪魔が犯した悪を追求したのである。

神は本性に付与したすべてのものを取り除いたのではなく、そのあるものは取り去り、またあるものは残して、悪魔がその取り去られたものを嘆くようにした。この悲嘆こそは、取り去られた善と残された善との証拠である。というのは、残された善がなければ、失われた善を嘆くことはできないからである。

つまり、罪を犯す者は、もし正義の損失を喜ぶならば、なおいっそう悪いのである。しかし、罰に苦しむ者は、もしそのことから何らかの善をも得ないならば、少なくとも健康の損失を嘆く。そして正義と健康とはそのどちらとも善であり、善の損失は喜ぶべきであるよりか、むしろ嘆かわしいことである。

それで明らかに、不正な者は過失において喜ぶよりも、罰において嘆くのがいっそうふさわしい。それゆえ罪における善の損失を嘆くことは善い意志の証拠である。しかし正当にも最後の審判においては、不正で不敬虔な者たちは呵責のうちに本性の善の損失を嘆き、そしてその善を取り去った者が彼らの軽んじたきわめて恵み深い与えぬしにしてきわめて正義なる神であることを知るのである。

それゆえ、神は、人間にこの世でふさわしいある種の善を、つまり時間的な平和を死すべき生の規模として与えた。それは、健康、安全、人間の社会、平和を維持したり回復したりするのに必要なすべてのもの(たとえば、感覚の具合によく適合するもの、光、音声、空気、水、栄養、など…)であって、こうした人間の一時的な平和に適合した善を正しく用いる者は、さらに豊かな、さらに良いものを、すなわち永久的あ平和を受ける。それに反し不正に用いる者は永久的な平和を受けないばかりか、一時的な平和をも失ってしまうのである。 

6章 種々の平和 

信仰において、神は二つの掟を、つまり神への愛と隣人への愛とを教えてくれる。人間はその掟のうちに神と自分自身と隣人という三つの愛すべきものを見出す。そして神を愛する者は(人は自分を愛することは確実であるため)、自分自身のように愛することを命じられている隣人を、神を愛するために愛するということになる。

そこで、人は隣人がもし助けを必要とするなら、この自分に助けを求めているように欲する。こうして人は自分に頼るすべての人々と平和であり、ここに人間の秩序ある平和がある。その秩序は第一に何人も害しないこと、第二に助けることのできる人に役立つことである。

従って、社会秩序の中にあっても、信仰によって生きている者たちは、支配する者でさえ、その支配すると思われる者たちに仕える(ルカ22・26、27、ヨハネ13・16、17)。なぜなら、彼らは支配欲からではなく、人を助ける義務から支配し、また支配者の高慢からではなく、思いやりのある憐みから支配するからである。 

7章 罪と奴隷状態 

奴隷という語源は、戦争の掟により殺されてしかるべき者たちが、勝利者によって助命されたという義務に基づく。戦争は罪であるのでなければ生じない。なぜなら、正しい戦争がなされる場合でも、敵側の罪のため戦われるのであり、すべての勝利は、たとえ悪人が得る場合でも、神の審判により、罪を取り除くか、あるいは罰するかにして勝利者を謙虚にするからである。

例えば、預言者ダニエルは、捕らわれの身であったとき、自分の罪と自分の民の罪とを神に告白し、そしてこれらの罪が捕らわれた原因であることを、敬虔な嘆きによって証言したのである。 奴隷状態の最初の原因は罪である。このことは過失に応じて様々な罰を課すことを知っている神の審判による以外には生じない。

しかし「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(ヨハネ8・34)と言う通り、この世の主人は、もし罪の状態なら、この世で主人であっても自由ではない。一方、敬虔な者は、この世で奴隷であったとしても、罪には仕えていない。確かに、人に仕えることは、邪欲に従うよりも幸いである。

邪欲の中で、支配欲は、もっとも荒々しい支配で人間の心を荒廃させる。そして、謙遜が仕える人々を益するように、高慢は支配する人々を害する。

神が最初の人間を創造したときの人間の本性によっては、だれも人間の奴隷ではないし、罪の奴隷でもない。しかし罰としての奴隷状態は、本性の秩序を保つことを命じ、それを乱すことを禁じるあの法によって規定されている。なぜなら、もし罪を犯さないならば、罰としての奴隷状態をもたらすものは何もないからである。

そこで使徒パウロは奴隷たちに、主人に従うように、また心から善意をもって使えるように警告する(エフェソ6・5~8、コロサイ3・22~25、テトス2・9、10)。つまり、奴隷状態から解放されることが不可能なら、真実の愛をもって仕えるなら、この虚しい人間の世が過ぎ去り、神がすべてにおいて、すべてとなるとき、その奴隷状態から自由になるのである。

8章 家長の正しい支配 

私たちの正しい父祖たちは奴隷を所有し、彼らの息子を奴隷の身分のものから区別するという仕方で、家の平和を司っていたが、永遠の善が期待できる神の崇敬に関しては、彼らの家の全員を等しい愛情で接した。

真の家長である彼らは、その家にいる奴隷など全員を、自分の息子たちと同じように、神を崇め、功を立てるように配慮した。そして、そこでは人間を支配する義務を必要とせず、天上の家に彼らが至るように配慮して行動した。

家長は、奴隷たちよりも忍耐しないといけない。もし不従順によって家の平和を乱すなら、正しく許容された罰によって矯正しないといけない。なぜなら、人を大切にすることによって、より重大な悪に陥ることを許すならば、それは罪だからである。

それゆえ、誰にも害悪を及ぼさないだけでなく、また罪から人を引き留めたり、罪を罰したりすることは、罪なき人の義務に属するけれども、そうすることによって、罰を受けた者は、その経験によって矯正され、また他の人々はその実例により、恐れて犯罪を止めるのである。

9章 二つの国の平和 

信仰によって生きない人々は、地上の平和をこの時間的な生の事物と利益とに求める。しかし信仰によって生きる人々は、約束された永遠のものを期待し、地上的な事物や利益に対し、魂が捕らわれないように必要なものとして用いる。それゆえ、この世の事物を利用するのに際して、使用するものは同じであるが、使用する目的は変わってくる。 

地の国の人々は、地上の平和を欲し、支配する者と服従する者との間の和合を目指すが、それは死すべき生に属する事柄に関して、人間の意志のある種の結合にあるようにである。

天の国の人々は、むしろこの死すべき世においては寄留し、この死すべき世が過ぎるまで、地上の平和を必要なものとして用いる。したがって、彼らは地上で神から多大な恩恵を受けているが、地の国の法律に従っている。

こうしてこの死すべき世に、地の国の人々、神の国の人々が和合が保たれているのである。天の国の人々は、地上の平和を用い、敬虔と宗教を妨害しない限り、地の国の結合を保護し、かつ欲求する。そして地上の平和を天上の平和にももたらす。

天上の平和こそ真の平和である。その平和に到達したとき、確かに生ける生があるだろう。そして人間が退廃している間、魂を重苦しくしている動物的な身体はなく、何の欠乏もなく、あらゆる部分が意志に従う霊的な身体があるであろう。このような天上の平和を、天の国の人は寄留している間に信仰において持ち、そして神と隣人のためになす良い行動のすべてを、天の平和を得ることに関連づけるとき、その信仰によって正しく生きているのである。 

10章 希望における幸福 

神の国の最高善は、永遠で完全な平和があるゆえに、この生はもっとも幸福である。これと比べ、この地上の生は、いかに恵まれ、豊であるにしても悲惨である。

したがって、この世の生を、永遠の生のために用いるなら、現実においてというより希望において、今、幸福であると間違いなく言うことができる。

これに反して、この希望なしに現実に幸福であるとしても、それは偽りの幸福であり、大きな悲惨でしかない。なぜなら、魂の真の恵みは享受されていないからである。

したがって、私たちは、この世において、判断し、行動し、抑制するときに、その意図を永遠の生の目的に向けていないなら、それは真の知恵とは言えない。

11章 国家と正義 

キケロの本のなかにある定義によれば、ローマ国家は決して存在しなかったという。この本では、人民を、法への同意と利益によって結合された多くの人々の集団と定義した。

ここで、法は正義の泉から出たものが法であり、正しく考えない人々から出た強いものにとって有用なものは法ではないという。こうして真の正義のないところには、法への同意によって結合された人々は存在せず、人民もありえない。そして正義がないところに法がないならば国家はないと言う。この定義によれば、ローマは存在しなかったことになる。しかし、不正義なしに国家は存在しないことも強引に述べられている。

これに対して正義の立場からは、こう答えられる。そこには不正はない。なぜなら、支配される側の人々にとっては奴隷の状態は有用であり、その支配が正しく行われる場合には、すなわち悪人たちに不正なことをなす自由が許されない場合には、支配される人々にとって利益となる。彼らにとり、支配されないことはより悪いことであっただけに、支配されることは良いことである。

有名な例がある。「なぜ神は人間を、魂は身体を、理性は邪欲やその他魂の邪悪な部分を支配するのか」。明らかにこの例によって、奴隷の状態は、ある人々に対しては有益であるが、神に仕えることはすべての人々に有益であることが十分に示されている。

魂が神に仕えるとき、魂は身体を正しく支配し、理性や邪欲やその他の悪徳を正しく支配する。神に仕えない場合には、魂が身体もしくは理性が悪徳を支配することはとてもできない。そして、このような人間においては、いかなる正義もないし、このような人間の集団においても同じである。不敬虔に生きている者たちは、悪魔に仕えるすべての人々が生きているのと同じように、何らの利益はないのである。 

12章 真実の神の崇敬と真実の徳 

心は徳を所有していると思い、徳によって身体や悪徳を支配するのではあるが、その徳が神の他の何ものかを獲得し保持すべく関連づけられるならば、それは徳であるよりも、むしろ悪そのものである。

すなわち、ある者は、徳が自分自身に関連づけられて他のもののために求められるのではないとき、真実で高貴であると考えているけれども、そのときでさえ、徳はふくらまされ高慢にされているがゆえに、徳ではなく悪徳だと評価されるべきである。

実際、肉に生命を与えることは肉から起こることではなくて、肉を超えたことであるように、人間に幸福な生を与えることは、人間から起こるのではなくて、人間を超えたことである。そして単に人間だけを超えるのではなく、天上のあらゆる力や徳をも超えるのである。 

13章 地上の平和とその使用 

それゆえ肉の生命は魂であるように、人間の幸福な生命は神である。「いかに幸いなことか、主を神としていただく民は」(詩編144・15)と聖書にある。それとは逆に、神から退けられた民は不幸である。

もっとも、この民さえも、否認すべからざるある種の平和を愛してはいる。だが永平和を終わりには所有しないだろう。なぜなら、終わりに至る前に、彼らは平和をよく使用しないからである。

しかし、この世にいる間は、私たちは地の国の平和のもとに寄留している。それゆえ、使徒も教会に祈るように次のように警告している。

「王たちやすべての高官のためにも(祈りを)ささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです」(1テモテ2・2)。

14章 地上の平和の不完全さ 

私たちの固有の平和は、この地上では信仰によって神と共にあり、永遠には見ることによって神と共にあるのである。だが、この地上での平和は、善人と悪人とに共通の平和であれ、私たちの固有の平和であれ、幸福の喜びであるよりも、むしろ悲惨の慰めである。

私たちの正義もまた、この世においては悲惨の慰めである。私たちの正義もまた、この世においては徳の完成によりも、むしろ罪の赦しにあるだろう。というのも、私たちは「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」と祈るからである。

この祈りは、行いを伴わず、その信仰が死んでいる人には効果がなく(ヤコブ2・17~26)、その信仰が愛によって働いている人のためには効果がある(ガラテア5・6)。なぜなら、理性は神に従っているが、しかし、この死すべき境遇と、朽ちた身体(知恵9・15)のもとでは、悪徳を完全には支配できないので、あのような祈りが正しい人にとって必要なのである。

確かに理性は悪徳を支配しているけれども、それは決して争いなしではない。理性が悪徳とよく争い、あるいは勝利しているときでも、とにかく何者かが理性の弱点に忍び寄る。そこで理性は、確かに口をすべる言葉とか飛び去る考えにおいて罪を犯すのである。

それゆえ、理性が悪徳を支配している限り、完全な平和はない。なぜなら、今、悪徳を支配していても、次に支配できるという不安に悩まされるからである。それゆえ、この試練の中にあるこの世において、「私たちの罪をおゆるしください」と神に対して言う必要がないと思う人はいるだろうか。

そのように言う必要がないと思うのは高慢な人である。しかし高慢な人とて実は偉大なのではなく、高慢でふくれあがり傲慢になっているのであって、謙遜な者に恩恵を与える神はそのような者を正義にのっとって退ける(ヤコブ4・6)。

したがって、この地上では、霊魂が肉体を支配し、反対する悪徳を退け、そして人間が神に恩恵と過失への赦しを乞い求め、与えられた善のために感謝を示すところに、各人にとっての正義が存在する。

しかし、最終の平和において、不死性と不朽性によって人間は悪徳を所有しないし、人は他とも自分とも敵対しないので理性はもはや存在しない悪徳を支配する必要もないだろう。神は人間を、魂は身体を支配するであろうし、そこでは生きることを統治することの幸福があるように、また服従することの甘美さと幸福があるであろう。

そしてこの幸福はかしこでは全体においても、個々においても永遠であろうし、その永遠なることは確実であろう。それゆえに、この幸福な平和とこの平和な幸福とは最高善であるだろう。 

15章 邪悪な者たちの終わり 

それに反して、この神の国に属さない者には、第二の死と呼ばれる永遠の悲惨があるであろう。

そう呼ばれる訳は、神の生から遠ざけられた魂も、永遠の苦痛を受ける身体も、そこでは生きているとは言えないからである。したがって、この第二の死は死によって終わることができないだけに、いっそう耐えがたいものであろう。

しかし悲惨が幸福に、死が生に反するように、戦争は平和に反するがゆえに、善人たちの終わりには平和が予告され讃えられているように、逆に悪人たちの終わりには、全てにおいて戦争の状態であると理解することができる。

戦争はお互いの間の対立と争い以外の何物でもない。それゆえ意志が情念に、情念が意志に対立して、そのどちら側の勝利もそのような敵対に終止符を打つことができないということほど、また苦痛の力が身体の本性そのものと争って、そのどちら側も他方に屈服しないということほど、面倒で過酷な戦いが考えられうるであろうか。というのも、この地上では、このような争いが生じるときには、苦痛が感覚を克服して健康がこれを取り除くからである。

しかし、かしこでは、苦痛は継続して人を苦しめ、本性は忍耐して苦痛を感じる。なぜなら、罰が尽きないように、苦痛も本性も尽きることはないからである。 

ところで、人が求める最高善と、用心すべき最高悪に至るために、審判によつて善人たちは前者へ、悪人は後者へと移って行くことになる。