「神の国8」

聖アウグスティヌス「神の国18巻を簡略しています、

同時代の地の国の歴史と並行させながら、アブラハムからキリストに至るまでの歴史を叙述する。またキリストと教会の事柄がどのように預言されているかを明らかにする。

■目次

1章 アブラハムのいた時代

死すべきもの(人間)の社会は、地上の至るところに拡がったが、それぞれの利益と欲望を追求し、その求めるものは同じでないため、ほとんどの者を満足させず、しばしば対立しあって分裂し、力ある部分が他の部分を圧迫している。被征服者は征服者に服従して、権力はもちろんのこと自由さえも犠牲にして平和を願い、生きながらえることよりも、むしろ、滅びることを選ぶ者がいれば大いに驚嘆されるほどである。ほとんどすべての民は戦争によって滅びるよりは、自分たちを打ち負かした勝利者に従うことを望む。そこで、支配権が与えられたり、支配者い服従したりするのは、神の摂理によるのである。

ところで、地上の利益や欲望のために人間社会が分かれてきたが、この地の国がどのように進んできたかは、ギリシアとラテン人とを比べて見ていく。なぜなら、他の民族より知られていあるからである。 

アブラハムハ紀元前2000年ごろ、都市ウルで出生した。アブラハムがバビロニアを出るに際して、神がアブラハムに、彼から大いなる民族がおこり、彼の子孫によって、すべての民族が祝福を受けるであろうと約束したとき、シキュオン人の間での王位はテルクシオンであった。彼が支配している間は穏やかで楽しい時代だったので、彼が死ぬと、人々は彼を神として崇め、犠牲を捧げたり、競技を催したりするほどであった。

2章 イサク、ヤコブのいた時代

このテルクシオン王の時代に、イサクが神の約束によって生まれ、そしてイサクからヤコブとエサワが生まれた。その後アブラハムが175才で死んだ。この頃、シキュオン人は王の墓に犠牲を捧げることをならわしとしていた。

神はイサクに語り、彼の父に対して同じように、二つのことを約束した。この二つのことは、ヤコブにも約束された。この頃、ギリシアはフォロネウス王のもとで法と裁判官とを定めて有名になった。そしてフォロネウスの弟ペゲウスが死んだとき、彼の墓に宮が建てられ、彼は神として祀られ、牛が犠牲として捧げられた。人々が彼を神に値すると考えたのは、月や年ごとに時間を観察することを教えたからだと思われる。こうした彼の新しさに驚いて、まだ無教養だった人々は、彼は死んで神になったと信じたり、あるいは望んだのである。

同じ頃、エジプトでは、ファラオの妻イオが、広大な領土を正義に基づいて治め、人々のために多くの有益なことや文字を定めたので、その地で死ぬと人々から神としての栄誉が与えられ、偉大な女神として祀られるようになった。この栄誉は非常に大きく、誰かが、彼女はだだの人間だったと言おうものなら死罪に処せられるほどであった。

3章 ヤコブとその子ヨセフのいた時代

イサクは180才で死に、120才になる双子を残した。弟ヤコブは12人の子をもうけた。そのうちヨセフはファラオの前に地位を得た。ヤコブが130才のとき飢饉が起こり、ヤコブ一族は、ヨセフのいるエジプトに移り住んだ。この時代に、アルゴス人のアピス王は、エジプトに渡ったが、その地で死ぬと、エジプトの神々のうちで最高の神セラピスになった。そして、彼が人間であったと言う者はだれでも重罪に処せられるということも定められた。

他方、エジプト人が、驚くほど虚妄に惑わされて、彼の栄誉のために豊かな御馳走で養った雄牛は崇められアピスと呼ばれた。この雄牛が死ぬと同じ色の子牛が探し求められたが、それが見出されると、彼らはこれを自分たちに対する神の不思議な配慮によるものだと信じた。

4章 ヤコブが死んだときの地の国

ヤコブは147才でエジプトで死んだ。彼は死に先立ち、息子たちにはっきりとキリストを預言した。すなわち、ユダの祝福の中で次のように言っている。「王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う」(創世記49・10)。 この頃ギリシアは、アルゴスが治めていたが、彼はギリシアに麦の栽培を教えた。アルゴスもまた死後に神と見なされるようになり、神殿や犠牲を捧げられる栄誉を受けた。ヨセフは110才でエジプトで死んだ。彼の死後、イスラエル人は145年間エジプトに留まり、驚くほど増加したが、ヨセフの死後、次第にその増加ぶりが妬まれるようになり、奴隷として働かされるようになった。

3章 モーセの生まれた時代 

モーセがエジプトで生まれた。彼によってイスラエル人は奴隷状態から解放された。この頃、ギリシアで多くの作り話が作られ始めた。プロメテウスは知恵の最善の教師であり、彼の兄弟アトラスは偉大な占星家であった。アトラスの孫メルクリウスは技術の巧みな人であった。この2人は死後、その功績ゆえに、人々は彼らが神になることを望んだばかりでなく、実際神であったと信じるようになった。その他にも、この時代の神々は、人間であり、この生を快適に送るのに有益なたくさんのものを人間にもたらしたために、死後、人々から神としての栄誉を受けた。ミネルウァは、彼らよりずっと古い。彼女は、多くの技術の発明者であった。彼女も死後、神として祀られた。

4章 アテネ市の名の起こり について

その地に突然オリーブの木が生え、他の所に水が湧き出したとき、王はひどく驚き、使いをアポロンに遣わし、この二つを、どのように理解し、また何をしたらいいのか尋ねた。アポロンは答えて「オリーブはミネルウァを、水はポセイドンを表しており、この町がこれらのしるしのもとである二人の神々のうちで、どう呼ばれるかは市民に尋ねられている」と言った。これを聞いた王は男女のすべての市民で投票し、男性はポセイドン、女性はミネルウァに投票したが、女性のほうが一人多かったのでミネルウァが勝った。そこでポセイドンは怒り、アテネに洪水を起こした。ポセイドンの怒りをなだめるため、女性は三重の罰を受けるようになった。1・女性は二度と投票に加わらない。2・生まれてくる子は母親の名をつけない。3・だれも彼女たちをアテネ人と呼ばれないこと(3→のちに許される)。女性たちの投票によって女神が勝利をおさめた結果、アテネという名をもったが、敗北した男神から損害を受けたために、ミネルウァも敗北したのである。(この洪水は史実ではデウカリオンの洪水) 

5章 モーセが神の民をエジプトから導き出した時期

モーセがイスラエル人をエジプトから導き出し、砂漠で40年間、民を治め、幕屋や祭司職や犠牲や、その他、多くの秘儀的な規定など、この世で守るべきものの象徴を通してキリストを預言してから120才で死んだ。ヌンの子ヨシュアがモーセの後を継いで民を約束の地に導き、そこを占有していた民族を征服して、神の権威に基づいて、その地に住まわせた。彼もまたモーセの死後27年間民を治めてから死んだ。

ヌンの子ヨシュアが民を治めている間に、偽りの神々の祭儀がギリシアの王たちによって始められた。それは洪水と洪水からの解放、高地から平地へ移住した苦難に満ちた生活の記憶を呼び起こすものであった。同じ頃、アポロンのために、彼の怒りをなだめるべく音楽の競技が始められた。それは王がギリシアに侵略してアポロンの神殿に火をつけたとき、ギリシア地方は不毛で苦しめられたからである。

また、この頃、神霊を喜ばせようとする芝居の材料として新しい神々が作り出された。コピテル、ヘラクレス、エリクトニクスなど、詩人たちが歌い、劇場で観衆が大いに楽しんだ。

これらの作り話は偽りに満ちていて、神々の虚偽の罪行を歌ったり、演じられていた。

しかし、たとえ作り話が神々の虚偽の罪行について歌っているとしても、虚偽の罪を喜ぶことは真実の罪である。

6章 士師時代の地の国

ヌンの子ヨシュアの死後、神の民は士師たちに指導された。彼らの時代の人々は、交互に、その罪ゆえに苦難を与えられて謙虚になったり、神の憐みのゆえに慰めを与えられて繁栄を味わったりした。

この頃、過去の事実を含んでいる歴史を利用しながら、神霊への非難に結びつかないように、神話が作り出された。例えば、ユピテルが淫蕩のために美少年がリュデスを誘拐した(この罪はタンタロス王が犯したものであるが、物語はユピテルに帰している)話とか、黄金の雨によってダナエと交わろうとした話(女性の慎みは黄金の雨によって損なわれるものと解される)などである。

しかし、どのような形であれ、このような虚偽の話を我慢できる人間の心について、彼らがどんなに悪く考えていたか、語ることもできないほどである。実際、それらは喜んで受け入れられていたからである。

確かに、人々はユピテルを熱心に崇拝すればするほど、彼に対しても不遜にもこのような話を語った人々をいっそう厳しく罰すべきだったかもしれない。ところが今や、そのような話を考え出した人々に対して怒らないばかりか、そのような作り話を劇場で上演しなければ、むしろ神々自身を怒らせると怖れている有様である。また、この頃、バッコスの祭りが始められたが、その後長いことたってから、祭りの凶暴な下劣さを恥ずかしく思って、ローマ市で執行を禁止した。 

7章 神学的詩人たち

同じころ、神々について詩を作ったために神学者とも呼ばれる詩人たちがあらわれた。その神々は、偉大な人間とはいえ人間に過ぎない神々、世界の諸要素であるような神々、創造主の意志と自分たちの功績に応じて支配と権能に定められた神々であった。 

これらの詩人たちは、多くの空しい偽りに満ちた詩の中で、神について何か歌ったとしても、神でないものを拝み、真の神を正しく伝えず、また自分たちの神々についても恥ずべき作り話を控えることができなかったのである。

オルフェルス、ムサイオス、リノスたちでさえそうである。彼ら神学者たちは神々を拝したのであって、自分たちが神々に代わって拝されたわけではない。それにもかかわらず、不敬虔な者たちは、彼らの死後、彼らを神々の内に列した。 

8章 士師デボラの時代

ヘブライ人のもと女性デボラが裁いていたとき、ローマ人の起源であるラウレントゥムの人々は、イタリアで王国を形成していたが、ピクスが初代王位についた。このピクスの父は熟達した農耕者であり、動物の糞で土地を肥沃にする方法を発明した。彼は農耕の功績で神とされた。人々はピクスも神々の列に入れ、すぐれた占者、戦士であったとする。トロイア戦争の前には、人々は功績のあった王を、死後、神としての栄誉を与えていた。

9章 ディオメデスとその仲間 

トロイアの陥落後、その滅亡は至るところで歌われ、子供にもよく知られているが、それは滅亡の大きさと作家たちのすぐれた文筆によって際立って有名になり、よく知られるようになった。破壊されたトロイヤを捨てて祖国へ帰った勝利者のギリシア人たちは、さまざまな恐ろしい災難に傷つけられ、悩まされた。しかしまたギリシア人は、彼らのうちにある者たちを神々にして、自分たちの神々の数を増やしていった。 

10章 ウィロの伝える人間の変身(変身物語) 

この時に、またこのような作り話も作られた。あるアルカディア人は運命に導かれて沼を泳ぎ渡り、そこで狼に変えられ、自分たちに似た獣と一緒にその地方の荒れ地に住んだ。彼らはもし人間の肉を食べなければ9年後に再び同じ沼を泳ぎ戻って人間に変えられる。またデメネテスという人の名が挙げられている。アルカディア人には自分たちの神リユカイオスに犠牲として子供を捧げる慣わしがあり、デメネテスはその犠牲を食べて狼に変えられたが、10年後にもとの姿に戻り、拳闘家として訓練を積み、オリンピア競技で勝利を治めた。アルカディアでパン・リュウカスというようにその名が付け加えられるのは、この人間の狼への変身のために他ならないと考えている。というのは、そのような変身は神の力のよる以外には怒らないと見なされているからである。 

11章 ダイモンのたくらみによる人間の変身 

これらの話は虚偽であり、信じなくてもよいような法外なものである。悪魔は何かするにしても、実在を創造することはできず、真なる神に造られたものを違ったものに見えるようにするだけである。そのように考えるのは、一方では本物の物体を見て、他方では駄獣の虚偽の姿を見ているのである。

しかし、これらの話は、ダイモンによって狼に変えられたとかを言う人が嘘をつくような人々によってではないときがある。ダイモンによって狼に変えられたとか、もし事実だとすればデイオメデスの鳥たちについては、人間が変身してなかったのではなく、デイオメデスの仲間は突然見えなくなり、殺され、後にどこにも現れなかったので、彼らの身代わりになる鳥が現れ、彼らは鳥になっあと信じられたという類のものである。 

12章 士師アブドン、サムソンの時代

アブドンがヘブライ人たちの裁き人であったとき、トロイアが占領され、破壊された後に、アエネアスはトロイア人の生き残りを乗せた20隻の船とともにイタリアにやって来た。アエネアスがイタリアを3年間治めた。

サムソンがヘブライ人の裁き人であったとき、アエネアスは死んだ。そのとき、アエネアスの姿が見えなくなったので、ラテン人たちは彼を神とした。同じころ、アテネ王コドロスは、敵に自分が誰か分からないように殺させた。彼はこうして祖国を救った。というのは、敵はアテナイ人の王を殺さない限り、勝利を治めることができるという神託を受けていたからである。アテネ人は彼を神として崇め、犠牲を捧げる栄誉をもって崇めた。 

13章 士師時代の後のイスラエルにおける王の継承 

サムエルが預言者をしていたときに、イスラエル王国がサウル王から始まった。サウルが即位して40年後に、ダビデが王を継いだ。その頃、アテネ人は、王制を廃止して、公共のことを司るために政務官を置くようになった。ダビデは40年間治めた後、彼の子ソロモンがイスラエルの王となり、有名な神殿をエルサレムに建てた。ソロモンの後は、子のレハベアムが継ぎ、彼のもとで民は二つの国に分けられ、それぞれの国がそれぞれの王を持つようになった。 

14章 ラティウムの王たち 

神とされたアエネアス以後、ラティウムには11人の王が出たが、そのうち、誰も神とされることはなかった。しかし、アエネアスのあと、12代の後継者アウェンティヌスは、戦いに倒れ、葬られたあと神々の列に加えられた。彼の後では、ローマ建国者ロムルス以外に、ラティウムで神とされた者はいない。ロムルスの次はプロカス、アムリウスが王となった。アムリウスは、ロムルスの母であるレアを巫女にした。人々はマルスによって双生児を生んだと言い張るが、そのようにして彼女の不貞を美化し、捨てられた幼児を雌狼が養ったという証拠に利用したのである。 

15章 ローマの建設 

ローマは、第二のバビロンとして建設された。このローマを通して全地を支配し、政体と法の単一な社会へともたらし、広く平和を作り出すことを神はよしとされたのであった。というのは、すでに戦いに鍛え抜かれた民族がいたからである。彼らは恐るべき困難を伴うにしても征服される必要があった。ローマ帝国は、少しずつ発展した。それはどの方向に拡がるにしても、出会う相手は強く好戦的だったからである。ローマが建設された頃には、イスラエルの民は約束の地に718年過ごしていた。そのうちの28年はヌンの子ヨシュアの時代に、続く329年間は士師の時代に属している。さらにその国に王制が始まってから326年たっている。その当時のユダの王はアハズ、イスラエルの王はホセアの治世が始まっていた。 

16章 ロムレスとヌマ 

ロムレスの治世の頃、イスラエルと呼ばれた10部族がカルデア人に征服され、彼らの地に捕虜となって連れて行かれた。ロムレスも死んで(彼もまた見えなくなったので)、ローマ人は、彼を神々の列に加えた。

こうしたことは、もはやその時代には行われなくなったので、このような栄誉を与えられたことでロムレスを大いに讃えている。

しかし、後の時代は、死者を神としてたてることはなかったにせよ、昔の人々によってたてられたものたちを神として礼拝したり認めたりすることを辞めなかったわけではなかった。

実際、古い時代の人たちが持っていなかった像を使って、虚しい冒涜的な迷信へとますますそそのかすようになった。その結果、神々の悪行に関する作り話が、偽りの神の忠誠として見世物の中でみだらに演じられていた。

ロムルスの後は、ヌマが治めたが、彼は死んでから神々の列に加えられる栄誉を受けなかった。この頃、ヘブライ人の国では、預言者イザヤを殺したと伝えられるマナセ王の治世であった。 

17章 七賢人および同時代の学者たち 

ローマはプリキウスが治め、ヘブライ人ではゼデキヤが治めていた頃、エルサレムは征服されて、神殿は破壊された。そしてユダヤの民はバビロニアに捕囚となって連れて行かれた。預言者たちは民の悪行を非難し、この出来事が起こると前もって告げていたが、特にエレミヤは、年数までも明らかにした。 

ユダヤ人がバビロニアで捕囚されていたころ、七賢人のうち六人(ピュタコス、ソロン、キロン、ペリアンドロス、クレオブロス、ビアズ)が生きていた。彼らの称賛すべき生活によって他の人々を凌駕し、いくつかの道徳上の戒めを短い文句にまとめた。 

その後、ペルシア王キュロスは、ユダヤ人の捕囚をある程度まで解き、神殿を復興させるために彼らのうちの5万人を帰国させた。彼らは、工事をはじめたが、敵が侵入してきたため祭壇が築いたのみで、ペルシア王ダウリスの時代まで延ばされた。そして、ダリウス王のもとで預言者エレミヤが預言した70年が満ち、ユダヤ人は捕囚から解放されて帰国した。 

18章 12預言者時代

12預言者とは、イザヤ、エレミヤなどの大預言者に対して、小預言者と呼べれる。ホセア、ヨエル、アモス、オバデア、ヨナ、ミカ、ナホム、ハバクク、ゼパニア、ハガイ、ゼカリアである。この最初であるホセアの書の初めに次のように書かれている。 

「 ユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代、イスラエルの王ヨアシュの子ヤロブアムの時代に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉」(ホセア1・1)。 

アモスもまた、ウジヤの世に預言した。イザヤも、ホセアがあげたユダの4人の王の時代に預言した。ミカは、「ヨタム、アハズ、ヒゼキアの時代に預言した。ヨナはウジア王の治世のときに預言した。

この時代は、ラティウム王プロカスから、ロムルス、ヌマにまで渡っている。したがって、アッシリア王国が滅び、ローマ王国が始まった時代に、彼らはまるで預言の泉のように同時代にいたのである。

19書 ホセアとアモスの預言 

預言者ホセアはイスラエルの民を預言して次のように言った。
主は言われた。「その子を、ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。あなたたちはわたしの民ではなく、わたしはあなたたちの神ではないからだ。」(ホセア1・9)。
イスラエルの人々は、その数を増し、海の砂のようになり、量ることも、数えることもできなくなる。彼らは「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と言われるかわりに、「生ける神の子ら」と言われるようになる。ユダの人々とイスラエルの人々は、ひとつに集められ、一人の頭を立てて、その地から上って来る。(ホセア2・1、2)
イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす(ホセア3・4)。ユダヤ人は今このような状態にある。
その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく(ホセア3・5)。  ダビデの名によってキリストを表している。
二日の後、主は我々を生かし、三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる(ホセア6・2)。三日後にキリストが復活することを暗示している。

同じ問題について、アモスは次のように預言している。
イスラエルよ、わたしはお前にこのようにする。わたしがこのことを行うゆえに、イスラエルよ、お前は自分の神と出会う備えをせよ。見よ、神は山々を造り、風を創造し、その計画を人に告げ、暗闇を変えて曙とし、地の聖なる高台を踏み越えられる。その御名は万軍の神なる主。(アモス4・12、13)
「 その日には、わたしはダビデの倒れた仮庵を復興し、その破れを修復し、廃虚を復興して、昔の日のように建て直す。こうして、エドムの生き残りの者と、わが名をもって呼ばれるすべての国を、彼らに所有させよう、と主は言われる。主はこのことを行われる。 」(アモス9・11、12)

20章 キリストと教会に関するイザヤによる預言 

イザヤほ小預言者のうちに入っていないが、預言の時代がホセアとアモスと同じようなのでここで紹介する。 

●キリストの受難に関する預言(イザヤ52.13~イザヤ53・12)
見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。だれも物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を刈る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに、その墓は神に逆らう者と共にされ、富める者と共に葬られた。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし、彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。               

●教会に関する預言(イザヤ54・1~4) 
喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声をあげ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは、夫ある女の子供らよりも数多くなると、主は言われる。あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまず綱を伸ばし、杭を堅く打て。あなたは右に左に増え広がり、あなたの子孫は諸国の民の土地を継ぎ、荒れ果てた町々には再び人が住む。恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな。    

21章 ミカ、ヨナ、ヨエルの預言 

●ミカ4・1~3 ここでキリストを「神殿の山」で表している。 
終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。 

●ミカ5・1~3 キリストが生まれた場所を預言 
エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。まことに、主は彼らを捨ておかれる、産婦が子を産むときまで。そのとき、彼の兄弟の残りの者は、イスラエルの子らのもとに帰って来る。彼は立って、群れを養う、主の力、神である主の御名の威厳をもって。彼らは安らかに住まう。今や、彼は大いなる者となり、その力が地の果てに及ぶからだ。

●ヨナ2・1~4 自らの受難によってキリストを預言した。巨大な魚に飲み込まれ三日目に戻ったのは、キリストが3日目に復活することを示す。 

●ヨエル3・1、2(神の霊の降臨)聖霊降臨を預言。 
その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その日、わたしは、奴隷となっている男女にもわが霊を注ぐ。 

22章 オバテア、ハバククの預言 

●オバテアの預言 
シオンの山には逃れた者がいて、そこは聖なる所となる。ヤコブの家は、自分たちの土地を奪った者の土地を奪う。(オバテア17)
救う者たちがシオンの山に上って、エサウの山を裁く。こうして王国は主のものとなる。(オバテア21)
オバテアは、イサクの子孫であるエドムを異邦人の代わりと見なしている。シオンの山とはユダヤを意味し、そこで来るべき救いと聖所、すなわちイエス・キリストが預言されたのである。エサワの山は異邦人の教会を指している。

●ハバクク2・2~3 キリスト以外の者の来臨について 
主はわたしに答えて、言われた。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。 定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。

23章 ハバククの祈りとそこに含まれる預言 

主よ、あなたの名声をわたしは聞きました。主よ、わたしはあなたの御業に畏れを抱きます。→なぜなら、人間の救いを聞いたときの、表現できない驚嘆を表している。
数年のうちにも、それを生き返らせ、数年のうちにも、それを示してください。怒りのうちにも、憐れみを忘れないでください。
神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。→テマンは真昼つまり、愛の熱と真理の輝きのこと。パラン影の多いうっそうとした山のこと(パランは、民数10・12、12・16、13・3、26に例あり)。
その威厳は天を覆い、威光は地に満ちる。威光の輝きは日の光のようであり、そのきらめきは御手から射し出でる。
御力はその中に隠されている。
 疫病は御前に行き、熱病は御足に従う。
 主は立って、大地を測り、見渡して、国々を駆り立てられる。
とこしえの山々は砕かれ、永遠の丘は沈む。→高慢なものは奇跡の力によって砕かれた。そして謙遜なものは永遠に立てられるために、しばらくの間低くされた
永久なるその歩みはただ神のもの。
わたしは見た、クシャンの幕屋が災いに見舞われ、ミディアンの地の天幕が揺れ動くのを。→クシャンとは「クシュの属するもの」の意味、クシュ人が住んでいたエチオピア(ナホ3・9)。ミディアンは「争い」の意。民族としてはアブラハムとケトラの間の子である。ミディアン人は西ヨルダン地域に侵入し略奪する者として登場する(士師6・1~)。ローマの支配下にない諸国民さえもが、あなたの不思議なわざを告げ知らされておののく、キリスト教徒の群れに入るということ。
 主よ、あなたが馬に乗り、勝利の戦車を駆って来られるのは、川に向かって怒りを燃やされるためか。怒りを川に向け、憤りを海に向けられるためか。→彼が今、世を裁くためではなく 、世が彼によって救われに来たので、言われたのである
あなたは弓の覆いを取り払い、言葉の矢で誓いを果たされる。
あなたは奔流を起こして地をえぐられる。→宣教者の言葉によって、人々の心が告白へと開かれる。
山々はあなたを見て震え、水は怒濤のように流れ、淵は叫び、その手を高く上げる。
あなたの矢の光が飛び、槍のきらめく輝きが走るとき、日と月はその高殿にとどまる。→キリストが天に昇り、教会が彼の支配のもとに定められた。
 あなたは、憤りをもって大地を歩み、怒りをもって国々を踏みつけられる。
あなたは御自分の民を救い、油注がれた者を救うために出て行かれた。
あなたは神に逆らう者の家の屋根を砕き、基から頂に至るまでむき出しにされた。
あなたは矢で敵の戦士の頭を貫き、彼らを嵐のように攻められた。
彼らの喜びは、ひそかに貧しい者を食らうように、わたしを追い散らすことであった。
あなたは、あなたの馬に、海を、大水の逆巻くところを通って行かせられた。

それを聞いて、わたしの内臓は震え、その響きに、唇はわなないた。
腐敗はわたしの骨に及び、わたしの立っているところは揺れ動いた。
わたしは静かに待つ、我々に攻めかかる民に、苦しみの日が臨むのを。
いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。
わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる

24章 エレミヤ、ゼパニア、ダニエル、エゼキエルの預言。 

エレミヤは大預言者の一人である。ヨシヤがエルサレムを治めた時代~捕囚5ケ月前まで続いた。エレミヤはキリストを預言した。 

●キリストは主であり、苦難を受けた(哀歌4・20) 
主の油注がれた者、わたしたちの命の息吹、その人が彼らの罠に捕えられた。異国民の中にあるときも、その人の陰で生き抜こうと頼みにした、その人が。 

●キリストは王である(エレミヤ23・5、6) 
見よ、このような日が来る、と主は言われる。わたしはダビデのために正しい若枝を起こす。王は治め、栄え、この国に正義と恵みの業を行う。彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。

●異邦人の召命(エレミア16・19、20)
主よ、わたしの力、わたしの砦、苦難が襲うときの逃れ場よ。あなたのもとに、国々は地の果てから来て言うでしょう。「我々の先祖が自分のものとしたのは、空しく、無益なものであった。人間が神を造れようか。そのようなものが神であろうか」と。

●キリストを仲介とする新しい契約(エレミヤ31・31) 
見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 

預言者ゼパニアは、エレミヤと同じ頃に予言した。 

●キリストについて
それゆえ、お前たちはわたしが獲物に向かって、立ち上がる日を待つがよい、と主は言われる。なぜなら、わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国を呼び寄せ、彼らの上に、憤りと、激しい怒りを注ぐことを定めたからだ。必ず、地上はくまなく、わたしの熱情の火に焼き尽くされる。 (ゼパニア3・8) 

主は彼らに対して恐るべき者として臨まれ、地上のすべての神々を滅ぼされる。島々に住む諸国の民も、それぞれの地で主にひれ伏す。 (ゼパニア2・11) 

●エルサレムへの裁きと贖い(ゼパニア3・8~13) 
それゆえ、お前たちはわたしが獲物に向かって、立ち上がる日を待つがよい、と主は言われる。なぜなら、わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国を呼び寄せ、彼ら(堕落を重ね悪事を行う者)の上に、憤りと、激しい怒りを注ぐことを定めたからだ。必ず、地上はくまなく、わたしの熱情の火に焼き尽くされる。 
その後、わたしは諸国の民に清い唇を与える。彼らは皆、主の名を唱え、一つとなって主に仕える。 「清い唇」は永遠の御言葉のこと。
クシュの川の向こうから、わたしを礼拝する者、かつてわたしが散らした民が、わたしのもとに献げ物を携えて来る。→ 「クシュの川」はエチオピアの川のこと。ナホム3・9参照。
その日には、お前はもはや、わたしに背いて行った、いかなる悪事のゆえにも、辱められることはない。

そのとき、わたしはお前のうちから、勝ち誇る兵士を追い払う。お前は、再びわが聖なる山で驕り高ぶることはない。
わたしはお前の中に苦しめられ、卑しめられた民を残す。

彼らは主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は不正を行わず、偽りを語らない。→「残りの者」とはイスラエルの民のなかでキリストを信じた者
その口に、欺く舌は見いだされない。彼らは養われて憩い、彼らを脅かす者はない。

バビロニア捕囚時代に、大預言者の他の二人、ダニエルとエゼキエルがまず預言した。ここでは割愛するが、ダニエルは、キリストの来臨と受難時期を、年数を挙げて明細に述べた。 

●ダニエル7・13~14 
夜の幻をなお見ていると、見よ、「人の子」のような者が天の雲に乗り、「日の老いたる者」の前に来て、そのもとに進み、権威、威光、王権を受けた。諸国、諸族、諸言語の民は皆、彼に仕え、彼の支配はとこしえに続き、その統治は滅びることがない。  →「人の子」は神あるいは啓示を受ける人間を指して用いる。この表現がメシア的に解釈されて、イエスによって自分自身に適用された。

●エゼキエル34・23~24 ダビデに擬してキリストを表す。
わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、その牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわたしがこれを語る。   

●エゼキエル37・22~24 
わたしはわたしの地、イスラエルの山々で彼らを一つの国とする。一人の王が彼らすべての王となる。彼らは二度と二つの国となることなく、二度と二つの王国に分かれることはない。彼らは二度と彼らの偶像や憎むべきもの、もろもろの背きによって汚されることはない。わたしは、彼らが過ちを犯したすべての背信から彼らを救い清める。そして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。わたしの僕ダビデは彼らの王となり、一人の牧者が彼らすべての牧者となる。彼らはわたしの裁きに従って歩み、わたしの掟を守り行う。     

25章 ハガイ、ゼカリア、マラキの預言 

捕囚の終わりに予言した三人の小預言者、ハガイ、ゼカリア、マラキがいた。

(ハガイ2・6~7)最後の来臨についての預言
まことに、万軍の主はこう言われる。わたしは、間もなくもう一度、天と地を、海と陸地を揺り動かす。諸国の民をことごとく揺り動かし、諸国のすべての民の財宝をもたらし、この神殿を栄光で満たす、と万軍の主は言われる。 

(ゼカリア9・9~10)キリストのエルサレムに入るときの預言 
娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。
(ゼカリア9・11)キリストの御血による罪の赦し
またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。 →「穴」はしばしば陰府の世界を象徴する。「水のない」は正義の流れのなくて不義に満ちたことを表す。

(マラキ1・10~11)キリストの祭司職、教会 
あなたたちのうち誰か、わが祭壇に、いたずらに火が点じられることがないよう、戸を閉じる者はいないのか。わたしはあなたたちを喜ぶことはできないと万軍の主は言われる。わたしは献げ物をあなたたちの手から、受け入れはしない。
日の出る所から日の入る所まで、諸国の間でわが名はあがめられ、至るところでわが名のために香がたかれ、清い献げ物がささげられている。わが名は諸国の間であがめられているからだ、と万軍の主は言われる。
→ 「あなたたち」はユダヤ人を指す。

(マラキ2・5~7)キリストは万軍の主の使者 
レビと結んだわが契約は命と平和のためであり、わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもたらす契約であり、彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいた。真理の教えが彼の口にあり、その唇に偽りは見いだされなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み、多くの人々を罪から立ち帰らせた。祭司の唇は知識を守り、人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である。 → イエス・キリストは全能の神の使者である。なぜなら、彼が人間のもとにやって来たそのしもべの形ゆえに「しもべ」と呼ばれるように、彼が人々に伝えた福音ゆえに「使者」と呼ばれるからである。

(マラキ3・1~2)キリストは第一、第二の来臨
見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は、突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者、見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。

(マラキ3・13~17)裁きの日:神をないがしろにする者と神を畏れる者
あなたたちは、わたしにひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う、どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても、万軍の主の御前を、喪に服している人のように歩いても、何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え、神を試みても罰を免れているからだ。」  そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された。→「記録の書」は人のすべての言動や思いについて記録する。
わたしが備えているその日に、彼らはわたしにとって宝となると、万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう。見よ、その日が来る、炉のように燃える日が。高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる。到来するその日は、と万軍の主は言われる。彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない。しかし、わが名を畏れ敬うあなたたちには、義の太陽が昇る。その翼にはいやす力がある。あなたたちは牛舎の子牛のように躍り出て跳び回る。 →「その日」は裁きの日と言われる。     

26章 預言者は異教の哲学者たちよりも時代が古い。 

預言者の時代に、異教の哲学者たちの登場した。サモスのピュタゴラスから始まるものである。それゆえ他の哲学者たちは預言者よりもずっと後であることがわかる。アテネのソクラテスでさえ、預言者エズラの後である。また、初めて哲学者を名乗るピュタゴラスより前の、七賢人やその後の自然哲学者たちを付け加えても、時代の古さでは旧約の預言者全部をしのぐことはない。 

一方、エジプトにおいて、彼らの知恵と呼ばれる何らかの学問がモーセ以前に存在していたことがモーセはエジプト人からあらゆる知恵を教え込まれたと記されている。

しかし、このことから、エジプト人の知恵も、私たちの預言者の知恵よりも古いと言うことはできない。なぜなら、アブラハムも預言者であるからだ。さらにもっと古くにさかのぼればノアもいる。アダムから七代目のエノクも、ユダの手紙において、彼が預言したと述べられている(ユダ14)。 

27章 学問の古さを誇るエジプト人の虚言(歴史認識について) 

エジプト人は10万年以上も前に星野測定を理解したと言って自慢しても無駄である。紀元前1500年にもならない頃にイシスから文字を習ったという彼らは、どのような書物にその数を記録したのであろうか。アダムと呼ばれた最初の人から時間の感覚について、確かめられた真理とは違う。 (アダムは70人訳で解すると紀元前5509年9月1日) 

28章 哲学者の不一致と聖書の調和 

哲学者は、その研究において、ただひたすら幸福を獲得するのにふさわしい生き方はどのようなものかを見出すために努力していたように思われる。 

なぜ師と弟子、弟子の間で意見の食い違いがあるのであろうか?それはただ、彼らが人間として、人間的感覚や人間的推理によってそれを探求したからではないだろうか? 

神の権威が導いてくれなければ、幸福に到達するために、不幸な人間はいったい何をし、またどこに、どのように向かうのであろうか?

聖書の聖典は著者たちの間で正当にも固定され限定されているが、彼らの間に何らかの不一致があると考えてはならない。彼らが書物を書いたとき、神が彼らに語った、あるいは彼らを通して語ったことは、多くの人が信じてきたのである。もちろん宗教において貴重なものが無価値とならないため、彼らは少数でなければならなかったが、彼らにおいて一致が見られる。しかし哲学者の間であらゆる点で考えの一致している者を見出すことは容易ではない。

不敬虔な者たちは、ほとんど無数と言ってよいほどの哲学者たちの不一致を、一方は認め、他方を拒み非難するといったことに心を用いたであろうか。意見の違う人々の争いを、何らかの判定を下すことなく混乱したままに、手当たり次第に、その懐の中に入れていたのではなかろうか?

意見の違いとは言っても、人を幸福にしたり、不幸にしたりするものについての違いである。不敬虔な者たちの国では、何らかの真実が語られたとしても、虚偽も同等の権利を持って語られたのである。そのような国がバビロンという象徴的な名称で呼ばれたのは、理由のないことではない。 

しかし、イスラエルは、決して偽りの預言者と真の預言者を同等として混同することはなかった。むしろ預言者は互いに和合し、いかなる点においても意見の異なることなく、聖書の真の著者として、彼らに認められて支持されている。

聖書の著名たちこそ、彼らにとって哲学者、賢者、預言者、教師であった。だれでも、彼らに従って、分別を持ち生きた者は、人間によってではなく、彼らを通して語った神によって分別を持ち生きたのである。 

29章 旧約聖書がギリシア語に訳された事情 

マケドニアのアレクサンドロス大王は、きわめて短期間であったが、アジア全地のみならず、ほとんど全世界を武力や威嚇によって支配した。

彼の死後、エジプトは王を立て、プトレマイオス1世ソテルが王となった。彼は多くの捕虜をユダヤからエジプトに移した。ところが、その後を継いだ、プトレマイオス2世は、初代の王が捕らえて連れて来た者すべてを解放し、帰国させた。そればかりか神殿に捧げ物を贈り、当時の大祭司エレアザルに聖書を贈ってくれるように頼んだ。

王は聖書の評判を聞き、彼が建てた有名な図書館にそれを納めたいと思ったからである。大祭司が彼にヘブライ語の聖書を送ると、彼はさらに翻訳者を求めた。

そこで12部族から、それぞれ6名ずつ、両方の言語、すなわちヘブライ語とギリシア語に精通した72名が遣わされた。彼らの訳は、慣習上、70人訳と呼ばれている。

30章 70人訳の権威について 

教会は70人訳を唯一の訳であるかのように、ギリシア語を話すキリスト教徒はこれを用いた。この70人訳からラテン語に訳され、ラテン教会はそれを保持している。しかしながら、現在(400年頃)、学識深く、三つの言語すべてに精通しているヒエロニムスがいて、聖書をギリシア語からではなく、ヘブライ語からラテン語に訳した。 

31章 神殿復興後のユダヤの歴史 

ユダヤ民族に預言者がいなくなってから、すなわち、バビロニア捕囚後、神殿が復興されてより善くなることを期待していたその時期に、彼らは明らかに一層悪くなってしまった。

その後、間もなく、アレクサンドロスがやって来て、ユダヤ民族を屈服させた。そのとき、ユダヤ人たちはあえて抵抗せず、ただちに屈服したので、荒廃させられることはなかったが、かの家には、かつてその主たちが自由な権力を持って支配していたような、大いなる栄光は見られなかった。

それから、アレキサンドロスの死後、エジプト王プトレマイオス1世は、捕虜をエルサレムからエジプトに移したが、彼の後継者プトレマイオス2世は、きわめて好意的にユダヤ人たちを解放した。それから、ユダヤ人は、マカベア書に説明されているような戦争によって打ち砕かれてしまった。

その後、エピファネスと呼ばれる、アレクサンドリアの王アンティコスによって、多くの極めて厳しい苦難を受けつつ、偶像崇拝を強制され、また神殿そのものも、異邦人の冒涜的な迷信に満たされてしまった。

しかしマカバエウスとも呼ばれる指導者ユダは、アンティコスの将軍たちを撃ち、あらゆる偶像崇拝の汚れから神殿を清めた。ところが、アルキムスという人物が、不法であるのに野心から大祭司になった。それ以後、平和はなく、約50年後、アリストブロスが初代のユダヤ王兼大祭司になった。その後、彼を継いだアレクサンドロスが王兼大祭司となったが、国民に対し残酷な支配をし、その後彼の妻アレクサンドラがユダヤ人の女王となり、ユダヤ人は厳しい苦難が続いた。

その頃、ローマはすでにアフリカとギリシアを征服していたが、深刻な内紛、戦争によって弱体していたので、政体を変更して王によって支配されるような体制が求められていた。そこでローマの将軍ポンペイウスは、軍隊と共にユダヤに侵入して町を占領した。彼は、ヒルカヌスを大祭司と認め、アンチィオパロスを代官とし、アリストブロスを鎖につないで連行した。これ以後、ユダヤもまたローマの属領となった。

後にクラッシスは神殿を略奪さえした。その後、数年して、ユダヤ人は外国の王ヘロデを王としなければならなかったが、彼の治世に、キリストは生まれたのである。

今や、新しい契約によって契約されたことが、そのためにとっておられた方が来て、万国民の期待となるべき時となった。だが、彼がへりくだった忍耐をもって、裁きを受けるため来た時、彼を信じるものでなければ、諸国民が、彼が輝かしい力を持って裁きを行うために来ることを期待するのは不可能である。

32章  キリストの誕生とユダヤ人の離反

ヘロデがユダヤを治め、ローマでは政治形態が変わり、カサエル・アウグストゥスが支配し、彼によって全世界が平和になったとき、キリストは以前から預言に従って、ユダヤのベツレヘムに生まれた。

彼は、現れた姿としては、人間の乙女から生まれた人であったが、隠れた姿としては父なる神から生まれた神であった(ミカ5・2)。彼は、神であることを表すために、多くの不思議な業を行った。その中で、不思議な業の、第一はとても不思議な仕方で生まれたことである。その最後は死人の中から甦った体と共に天に昇ったことである。

彼を殺し(彼は死んで甦るように定められていたのである)、彼を信じようとしなかったユダヤ人は、ローマによって、いっそう惨めな仕方で滅ぼされ、その国から全く絶やされてしまった。そして、そこは、外国人が彼らを支配し、彼らは根こそぎにされ全地に散らされたが、私たちにとっては、彼ら自身の聖書によって、キリストに関する預言がねつ造されたものではないことの証明になった。

彼らのうちの多くのものは、この預言のことをキリストの受難以前に、また特にその復活以後に思いめぐらして、キリストを信じたが、彼らには次のように前もって告げられている。「あなたの民イスラエルが海の砂のようであっても、そのうちの残りの者がけが帰って来る」(イザヤ10・22)。

他のものたちは目が見えなくされ、そして次のように告げられている。「どうか、彼らの食卓が彼ら自身の罠となり、仲間には落とし穴となりますように、彼らの目を暗くして見ることができないようにし、腰は絶えず震えるようにしてください」(詩編69・23、24)。こうして、彼らが私たちの聖書を信じないときは、彼らが目の見えないまま読んだ聖書が彼らにおいて成就したのである。

私たちには、彼らの意に反して提供してくれる、この証拠のために、キリストの教会が拡がってゆくあらゆる民族のうちに彼ら自身もまた散らされたことをよく知っている。実際、彼らも読んでいる詩編の中に、このことの預言がある。「彼らを殺さないでください。御力が彼らを動揺させ、屈服させることを」(詩編59・12)。それゆえ神は教会に、教会の敵であるユダヤ人のことで、その憐みを示したのである。使徒が言っているように、「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となる」(ローマ11・11)だからである。そこで、彼らが神の律法を忘れて、私たちが論じている事柄についての証拠として役立たなくなることがないように、彼らを殺さなかったのである。すなわち、ローマ人に征服され圧迫されていても、彼らがユダヤ人であることを奪わなかった。彼らは全地に散らされた結果、彼らの反論は、キリストについて前もって知らせたことの証人となった。 

33章 神の民はイスラエル民族以外にもいた 

旧約の時代、神の市民が、イスラエルの中のみいるということはない。他の民族の中にも、この世的な交わりによってではなく、天的な交わりによって、真のイスラエル人 、すなわち上なる祖国の市民がいることを、彼らは否定できない。

なぜなら、たとえ、彼らが否定したとしても、聖なる人物ヨブのことで容易に納得させられるからである。彼はユダヤ人ではなく、改宗者でもなく、エドム族の出身で、そこで生まれ、そこで死んだ者であった。彼は義と信仰に関して同時代で比較できる者はいなかったと、神の口を通して称賛されている。私たちが、この一つの例から、霊的なエルサレムに属し、神に従って生き、神に喜ばれた人々が、他の民族にいたことを知る。

だが、このことは、神と人との唯一の仲介者、神であり人であるイエス・キリストが啓示された人のほかには、誰にも許されていないことを信じるべきである。キリストが人となられることは預言されていたので、彼を通じて、同一の信仰が神の国に定められている人々を神へと導くのである。 

34章 ハガイの預言はキリストにおいて成就した。 

捕囚から解放されたユダヤ人たちはエルサレムに戻った後、神殿の再建に取り掛かったが中断を余儀なくされたが、神殿の再建工事が再開される。預言者ハガイが民衆を激励し、総督ゼルバベルと大祭司イエシュアが指揮をとり、約五年にわたる工事のすえ、紀元前515年、神殿は完成した。

神はこの「神殿を栄光で満たす」(ハガイ2・7)と言われ、この神殿はソロモンの建てた神殿よりも栄光に輝く。預言者ハガイの言葉は、新しい契約を象徴しているからである。「この場所に平和を与える」(ハガイ2・9)と言われたのは、「この場所が象徴している場所に平和を与えよう」という意味に解するべきである。

新しい神殿の栄光は、最初の古い契約の家よりも大きく、また捧げられた場合、さらに大きなものとしてあらわれるであろう。なぜなら、そのとき、まことに選ばれた者だけが、やって来るからである。 

35章 教会の中には、選ばれる者と退けられる者とが混在している 

教会は、この邪悪な世にあっては、多くの退けられる者たちが、善い人々と混在し、両者はいわば福音の綱によって集められているのである。この世においては、ちょうど海の中と同じように、海岸にたどり着くまで、両者は無差別に網の中に囲まれて泳いでいる。そこに着けば、悪い者たちは善い人々から分けられ、善い人々にとって「神がすべての者にあって、すべてとなる」(1コリント15・28)。

キリストは弟子を選び、使徒と呼んだ。彼らは身分の低い者で、名誉も教育もなかったので、彼らのうちに、または彼らの行われたことで何か偉大なことがあれば、それはキリストが彼らのうちにあり、行っているのである。彼らのうちには預言を成就するため善用した悪い弟子が一人いた。

キリストは、聖なる福音を伝えてから、苦しみを受け、死んで甦った。それは、苦難によって、私たちが真理のために何を耐え忍ばなければならないかを示し、復活によって、私たちが永遠のうちに何を望まなければならないかを示すためであった。彼の御血が罪の赦しのために流される秘跡の深遠さについては、言うまでもないであろう。

そこから、キリストは弟子たちとともに40日間、地上で過ごし、彼らの見ている間に天に昇り、10日後、約束していた聖霊を遣わした。信じる者たちに聖霊が到来したことの最大で重要なしるしは、使徒たちがあらゆる民族の言語で語ったことである。そのようにして、あらゆる民族の間に拡がり、あらゆる言語を語るようになるカトリック教会の統一を示したのである。 

36章 福音は全地に宣べ伝えられた 

それから、「主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出る。」(イザヤ2・3)という預言が成就した。すなわち、キリストは、復活の後、弟子たちに対して「 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(ルカ24・45~48) 

またさらに、弟子たちが彼の最後の来臨について尋ねたとき、次のように答えて言われた。「イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」 (使徒1・7、8)。

これらの預言に従って、教会はまずエルサレムから拡がり、そしてユダとサマリアで多くの者たちが信じると、信じた者たちにより、他の国民まで進んでいった。キリストが彼らを言葉によって整え、聖霊によって燃え立たせたからである。キリストは彼らに「身体を殺しても、魂を殺すことのできない者たちを恐れるな」と言った。彼らは恐れによって冷たくならないように、愛の火によって燃えた。最後に使徒たちの死後、彼らの後継者たちによって、福音は恐ろしい迫害にも関わらず全地に宣べ伝えられた。神は、しるしや証拠、聖霊のさまざまな力や賜物によって、それを確証した。

そこで、諸国民は、彼らのために十字架につけられた方を信じ、悪魔のような狂気によって流された殉教者の血をキリスト教的な愛をもって尊んだ。また自分たちの法に従って、彼らを迫害した王たちも救われるためにキリストに従った。 

37章 異端との衝突 

キリスト教が発展するにつれ、悪魔は異端をそそのかし、キリスト教の名のもとにキリスト教の教えに反するように導いた。

キリストの教会で、何か不健全で邪悪な考えを持ち、健全で正しい考えを持つよう咎められても強く拒み、自分たちの考えを正そうとしない者は、異端となり、外に出て、教会を鍛錬する敵となる。

それにも関わらず、真のカトリック教徒は、異端の悪によって益を受ける。なぜなら、神は悪をも善用し、「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8・28)からである。

実際、すべての教会の敵は、教会を肉体的に苦しめるなら、教会の忍耐を鍛えることになる。そして悪い意見によって対立するなら知恵を鍛える。そして敵と接するとき、敵をも愛するように教会の善意と善行を鍛える。

こういう訳で、悪魔が神の国の人々に攻撃しても、いかなる危害を加えることはできない。神の摂理は、教会に対して、逆境に対して堕落しないように、逆境には慰めを、そして殉教には堕落しないように、訓練を準備する。こうして、それぞれ他のものによって和らげられるのである。ここで聖書の言葉を認めるのである。(詩編94・19)(ローマ12・12)。 

そして「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(2テモテ3・12)と言ったことは常に起こると考えるべきである。なぜなら、迫害がなくなり、平穏になったとしても、教会内には信心深く生きる者たちの心を非道な行いによって苦しめる者たちがたくさんいるからである。

彼らによって教会とカトリックの名は汚されている。そしてそれにより、その名が愛されなくなることを一層悲しむのである。また異端でさえも、キリスト教の名と秘跡と聖書と信仰告白とをもっていると考えられているので、異端そのものが信心深い者たちの心に大きな悲しみを引き起こす。なぜならキリスト教に倣おうとする多くの者が、このような分裂のために躊躇せざるを得なくなったり、多くの中傷者が、異端もまたある意味ではキリスト教徒と呼ばれるために、異端の中にキリスト教の名を汚す材料を見つけたりするからである。

信心深く生きる人々は、たとえ身体に暴行を受けていなくても、これらによって迫害を身体ではなく心に受ける。しかし、この信心深い人々に起こる悲しみは、その人にとって益となる。その悲しみは、他の人が滅びることを欲せず、その救いを妨げようとしない愛から出ているからである。

最後に、彼らの懲罰さえ大きな慰めが生じる。それは信心深い者たちが滅びのことで悩みながら味わった苦痛と同じ大きさの喜びをもって、彼らの魂を満たしてくれるからである。こうして、この悪い世にあって、最初の義人アベルから、この世の終わりに至るまで、教会は世の迫害と慰めのうちに寄留しているのである。 

38章 最後の迫害の時は、誰にも示されていない 

キリストの来臨について、いつそれが起こるかとよく問われる。まったく見当外れの問いである。実際、主はその時期を答えただろうか。弟子たちが尋ねたのである。「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのは、この時代ですか?」(使徒1・6)。しかし、主は「父が御自分の権威をもってお定めになった時や、時期は、あなたがたの知るところではない」(使徒1・7)と答えた。彼らは、時や日や年についてではなく、時期について尋ねたのであるが、その時の答えである。したがって、この世に残されている年数を数えることは無駄である。 

39章  二つの国

二つの国のうち、地の国は、自ら欲するままに何からでも、自分たちからさえ偽りの神々を自らのために作り、それに犠牲を捧げ仕えてきた。他方、地上に寄留する天の国は、偽りの神々を作らず、むしろ真の神によって造られたのであり、自らこそが真の犠牲なのである。しかし、信仰と希望と愛において異なりながら、両者は同じようにこの世の善を用い、同じように悪を被り、最後の審判に至って初めて分けられ、決して終わることのない自らの終局をそれぞれ受け取るのである。