「神の国6」

聖アウグスティヌス「神の国16巻」を簡略しています。

ノアからアブラハムに至るまでの二つの国の歩みと、アブラハムから王国に至るまでの神の国の進展 

■目次

1章 ノアの息子たちにおいて預言的に象徴されているもの

洪水のあと、ノアがぶどうを植えたこと、その実で酩酊したこと、眠って裸になったこと、それを見た次男ハムが長男セムと三男ヤフェトに知らせ、その知らせを受けたセムとヤフェトの二人が父ノアの裸体を覆い、その後、目覚めて、これを知ったノアはずっと先に起こることを予見して、その二人の息子セムとヤフェトを預言的な祝福をし、父に対して罪を犯した次男ハムを、彼自身ではなく、その息子カナンを呪ったことが記されている(創世記9・25)。

このことは預言的な象徴である。ハムは、ノアの裸を表している救い主の受難を告知によって知らせながらも、悪い行いによって恥ずかしめている。一方、セムとヤフェトは、救い主の受難を意味する父の裸を知ったとき、着物をとって背にかつぎ、顔を背けながら進んで来て、父の裸を隠し、尊敬の念をもって覆い隠したもの(裸体)を見なかった。

実際、キリストの受難を見たとき、悪い人はただ声に出して告げ知らせるだけである。だが神に善しと認められた人々は、心の中で神の弱さと愚かさを敬うのである。それは人間と比べれば、強くかつ賢いからである。

ノアの二人の息子が祝福され、真ん中の息子が呪われたあと、アブラハムに至るまで、千年以上にわたって、義しい人々については何も述べられていない。

もちろん、義人がいなかったのではない。もし、すべての人々について記述すれば、きわめて長いものとなり、預言的なものというよりも、むしろ詳細な歴史という性格を持つものになるからであろう。

聖書の記者は、単に過去のことを語るばかりではなく、未来のこと、しかも神の国に関することを予告するために記している。神の国に属さない人々についても述べられているが、それはすべて比較することにより神の国を表すためである。 

2章 ノアの三人の息子たちの子孫 

ノアの長男セムの子孫(創世記10・21~31):セムの子孫の五代目であるエベルが最初にあげられている。エベルはセムから生まれていないにもかかわらず、最初に名前があがるのは、彼からヘブライ人が名をもらい、ヘブライ人になったからである。

エベルには子が二人生まれたが、一人をペレグと言い「分かつ者」を意味する。聖書は次いで、この名前の由来を加えて「その時代に土地が分けられた」(創世記10・25)と言っている。 

ノアの次男ハムの子孫:ハムの子は4人いたが、その一人のクシュの子ニムロドは、「主の御前に勇敢な狩人」(創世記10・9)と言われた。彼には、治めた王国、都市が記されている。

ノアの三男ヤフェトの子孫:ヤフェトには七人の息子が挙げられるが、そのなかの二人について子が生まれたことが記されている。

ここで名をあげられているのは、民族を興した人々を記しているので、他に子がいなかったということではない。

創世記10章には72人の名が記されているが、当時72の民族があり、そこから世界の諸民族が分かれ増えたと考えられる(創世記10・32)

3章 言語の多様化とバベル塔 

都市バベルは、力あるニムロドが建設した。この都市は、指導的地位を占め、この都市において、天まで届くと言われた驚くべき高さの塔の建設が計画されていた。

これを計画したのは「主の御前に勇敢な狩人」と言われたニムロドである。ニムロドは、自分の民と共に塔を神に向かって建てたのであるが、その塔は不敬虔な高慢を示していた。

ところで悪い望みは、たとえ遂げられていなくても正当に罰を受ける。さて命令する者の支配力は言葉にあり、神は、彼らの高慢を言葉において断罪された。

神は、それまで共通であった彼らの言語を混乱させ、言葉を通じないようにさせたのである。このようにして、この計画は無に帰されたのである。 

こうして、民族はそれぞれの言葉に分かれ、地上に散らされてしまった。

4章 塔を建てる人々の言語を乱すために神は天から降りられた 

神は、いつでも、どこでも全体としてあるため、場所を移動することはない。

したがって「主は降って来て」(創世記11・5)とあるのは、降りて行く天使たちの中におられる神が、天使たちを通して降りられたということに他ならない。

また「我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」(創世記11・7)と言われたのは、神が天使たちを通して自らの業をなし、天使たちは神の協力者であることを示している。 

5章 神の国系図はセムの子孫を経てアブラハムを目指す 

洪水からアブラハムに至るまでの年数は、1072年になる(70人訳)。この年数の中で、世界は72の民族に分かれ、人類を増やしていったのである。

アブラハムはセムの家系から出て、セム、アルパクシュド、シェラ、エベル、ペレグ、レウ、セレグ、ナホル、テラを経てアブラハムへと至る。

この時代には、人類は、早くも真の神の礼拝から離れてしまったのであるが、アブラハムに至るまでの家系のみが真の信仰を持っていたというわけではなく、他の家系の中にも真の信仰を持っていた人もいたであろう。

「神の国」「地の国」のどちら側の人間も、常に地上に存在していたと信じるべきである。

「善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩編14・2)と言われたことは、人の子について語られたのであり、神の子について語られたのではない。というのはその前に「主は天から人の子らを見渡し」とあり、それに続いて、人の子、つまり人を頼みとして生きる国に属する者が咎められるべきことを示しているからである。

6章 ヘブライ語と呼ばれる人類最初の言語は家族の中に残った。 

他の民族が異なる言語で分けられたとき、それ以前の人類の共通言語であった言語がエベルの家族に残ったので、彼らが話す言語はヘブライ語と呼ばれた。

エベルが自分の子に「分けられた」を意味するペレグと呼ばれる名をつけたのは、地が多くの言語で別れたときに、彼が生まれたからである。

実際、エベルが言語が多様になった時まで生きていなければ、彼のもとで存続した言語は、彼の名から名称をとることはなかったであろう。

アブラハムが使っていたのはこの言語であり、さらにアブラハムはこれをすべての子孫に伝えたのではなく、ただヤコブの子孫で、神の国に属する者のみに伝えた。

またエベル自身も、この言語をすべての子孫に伝えたのではなく、アブラハムに至る系図上にある子孫のみ伝えた。

ヘブライ民族は、エベルから出てアブラハムまで及び、さらに彼を経て代々引き継がれ、イスラエルという大きな国民となる。 

7章 アブラハムから始まる新しい時代 

アブラハムは、紀元前2000年ころアッシリア王国のウルで生まれた。その出生の地は、他と同様、不敬虔な迷信がはびこっていた。

アブラハムの生まれたテラの家は、唯一の真の神を礼拝しており、その家だけヘブライ語が存続していた(もっともテラ自身もメソポタミアで異郷の神に仕えていた→ヨシュア24・2)。

しかしエベルから出た他の子孫は、徐々に他の言語へ、他の国民へと消え去った。

テラはアブラハムとナホルとハランを生んだ。ハランはロトを生んだ。ハランはミルカの父であり、またイスカの父であった。このイスカはアブラハムの妻サラであると考えられる(創世記11・27~32)。 

8章  神のアブラハムへの約束

75才のときアブラハムは、神から命じられ、カナンの地に向かった。このとき、神はアブラハムに二つのことを約束した (創世記12・1~3)*第一の約束 。
1・彼はカナンの地を所有すること
2・肉による子孫ではなく霊的な子孫に関するものであり、イスラエルという一つの民族ではなく霊的な子孫に関するものであり、イスラエルという一つの民族だけでなく、彼の信仰の足跡に従うすべての民の父に、彼がなること

アブラハムは、妻サラと兄弟ロトを連れてカナンの地へ出発した。一行がシケムに着いたとき、アブラハムは再び神の神託を受け(創世記12・7)、カナンの地が与えられることを約束される*第二の約束。ここではイスラエル民族だけの約束である。アブラハムは、そこに祭壇を築き、そこから旅を続けネゲブ地方へ移った。

その後、飢饉のためやむをえずエジプトに行った。その地で、彼は自分の妻を妹と称したが、これは嘘をついたのではない。というのは近い血縁関係にあったので、彼女は妹でもあったからである。

彼は、彼女が妻であることを否定しなかったが黙っていて、妻の貞操の保護を神に委ね、人間のしかける罠を警戒した。それは、彼が警戒しうる限りの危険をもし警戒しないとすれば、神に望みを託したというよりも、神を試みたことになるからである。

結局はアブラハムが警戒していたことが起こった。すなわち、彼女を自分の妻にしたエジプトの王ファラオは非常な苦しみを受け(おかげでサラの貞操は守られた)、彼女を夫に返したのである。

その後、アブラハムはエジプトを離れ、カナンの地へと戻った。途中ロトと別れ、ロトはソドムの地に住んだ。

そしてアブラハムは、カナンにいたとき、神はアブラハムに話しかけ二つのことを約束された(創世記13・14~17)*第三の約束。 、1、イスラエル民族だけでなく、信仰により彼に従う人の父となること、2、カナンの地を世の終わりまで与えること

ここで「世の終わりまで」は「世」とこの箇所で、来るべき永遠の世は現世が終わる時に始まる、と私たちが信仰に従って解釈すれば迷うことはない。

実際、イスラエル人はエルサレムから追われたとはいえ、彼らはカナンの地の他の諸都市に残っているのであり、またその全地にキリスト教徒が住んでいるが、彼らもアブラハムの子孫に他ならない。 

9章 ソドムに対するアブラハムの勝利とロトの救出。またメルキセデクの祝福。 

この約束を受けた後、ヘブロンのマムレの樫の木のそばに居を定めた。そのころ、5人の王が4人の王に対して戦いを起こし、リドムの人々が敗北し、ロトもまた捕らえられたとき、アブラハムは奴隷318人を引き連れて、ソドムを襲った敵からロトを救い出した。彼は、ソドムの王たちのために勝利をおさめたが、彼によって勝利を得た王の差し出した戦利品を受け取らなかた。 

彼がいと高い神の祭祀であるメルキゼデクによって祝福されたのはその時である(創世記14・18~20)。それについてはヘブライ人への手紙の中で多くのことが書かれてある(ヘブライ5・7~14)。すなわち、今やミサ中に捧げられるパンとぶどう酒が、そこで初めて出現し、キリストに対して言われた「あなたは、とこしえの祭司メルキゼデク」(詩編110・4)という預言がずっと後に成就されるのである。すなわちキリストはアロンの位に従って永遠の祭司ではない。このアロンの位は、キリストによって取り去られるべきものであったのである。(ヘブライ15・28) 

10章 神の約束を信じたアブラハムは無割礼のまま義とされた 

このとき、神の言葉が幻のうちにアブラハムに告げられた(創世記15・1~5)。神がアブラハムに大きな報いを約束されたが、子孫のことで悩んでいた彼は、家で生まれた奴隷のエリエゼルが後継者になるだろうと答えたが、神はすぐさま、その奴隷ではなく、アブラハム自身から生まれる後継者を約束し、空の星のように数えきれないほどの多くの子孫を約束されたのである。

ここで「アブラハムは神を信じた。それゆえ彼を義と認められた」(創世記15・6)とある。つまり信じたアブラハムに対し信仰が義と認められたとき、彼はまだ割礼を受けていなかった。(ローマ4・3、9~12) 

11章 アブラハムに命じられた犠牲の意味 

主は言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。この土地をわたしが継ぐことを、何によって知ることができましょうか。」主は言われた。「三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしのもとに持って来なさい。」アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ。主はアブラムに言われた。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである。」日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。その日、主はアブラムと契約を結んで言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで、カイン人、ケナズ人、カドモニ人、ヘト人、ペリジ人、レファイム人、アモリ人、カナン人、ギルガシ人、エブス人の土地を与える。」

創世記15・7~21

アブラハムは神を信じ、それが彼にとって義と認められ、その後、「何によって知ることができるでしょうか」(創世記15・8)と言っている。これは彼が信じていないのではなく。すでに信じていることの何らかのしるしが与えられ、どのように成就されるかを知るために言ったことである。

処女マリアが「どのようにしてそのことはなるのでしょう。私はまだ男の人を知りませんのに」(ルカ1・34)と言うのが、信仰に欠けていないのと同様である。なぜなら、彼女は来るべきことについては確信していたのであって、どのようにして、それが成就するかを尋ねたのである。

犠牲の意味するものはなにかと言うと、雌牛によって立法のくびきの下に置かれた民が象徴され、雌山羊によって同じ民がやがて罪びとになることが象徴され、雄羊によっては同じ民がさらに支配するであろうことが象徴されている。

山鳩と鳩の雛は霊的な予表である。「鳥は裂かなかった」と言われているのは、ハトは決して分裂しないことの象徴であり、裂かれることのない約束の子、永遠の至福の中に留まる後継者を象徴している。

裂かれた動物たちの屍の上に降りた来た鳥たちは、肉の人々の分裂から自分たちの食物を探し求めようとしている悪い霊を表している。

アブラハムはそれらのそばに座ったことは、肉の人々の分裂の中で、信仰深い人々は最後まで耐え忍ぶことを表している。また陽が沈むころ、旋律がアブラハムを襲い、暗い大きな恐怖が見舞ったということは、この世の週末に大きな混迷と苦悩が信仰深い人々に来ることを表示する。

ここでイスラエル民族は、エジプト人の下で400年間奴隷になることを明白に預言している(創世記15・13)。

そして「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた」(創世記15・17)。

これは、世の終わりに肉の人々が火で裁かれねばならないことを表している。神のそれまで決してなかったような苦悩が日の沈む頃、すなわち世の終わりに近くなってアブラハムを見舞った暗い恐怖によって表示されている。

そして世の終わりになって、この燃える松明は裁きの日を象徴する。その裁きの日には、肉の人々は、火によって救われる人と、火の中で罰せられる人と分けられる。 

12章 サラの女奴隷ハガル 

アブラハムは、子がいないため、女奴隷ハガルと結ばれ子孫を得た。このことでアブラハムを罪としてはいけない。彼が彼女を用いたのは子孫を得るためであって、性欲を満たすためでなかった。

また彼は妻を侮辱したのではなく、むしろ彼女に従ったのである。彼女は子を生むことは自分には不可能だったので、自分自身によって生むことのできない子を別の女によって生むことで子孫を残すことを欲した。ここには何ら放埓な情欲も、下劣な醜悪さもない。 

13章 老いたアブラハムが諸国民の父となり、約束のしるしとして割礼が定められた。 

この後、ハガルからイシュマエルが生まれた。アブラハムは、この子を養子にしようとしたとき、「あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(創世記15・4)と言われたことが成就したとみなすことができたであろう。

そこで、神は、かれがこの約束は女奴隷の子において成就したと考えないために、アブラハムが99才ののときに、彼の妻サラによって子が生まれることを言ったのである(創世記17・15~199 )。

ここではイサク、すなわち約束の子における諸々の民の召命がいっそう明らかに約束されている。

この約束の子は自然本性ではなく恩恵を表すが、それは年老いた夫と、年老いた不妊の妻に約束された子だからである。このことは出生によってではなく、神による新生を通し行われるので、サラの子が約束された時点で割礼が命じられたのである。

しかしアブラハムの子だけでなく、家の奴隷たちも、割礼が命じられたのは、その恩恵がすべての人に及ぶことを表している。

アブラハムが笑った(創世記17・17)のは、喜ぶ者の歓喜の姿であって、信じない者の嘲笑ではない、また彼が言ったのは疑う者の言葉ではなく、感嘆する者の言葉である。 

14章 割礼を受けていない者は生命を絶たれる 

「包皮の部分を切り取らない無割礼の男がいたなら、その人は民の間から断たれる」(創世記2・17)。

たとえ生まれてくる子であってもすべての人は、一人の人のアダムが犯した罪によって必ず死んでしまうという契約のもとで生まれている。

割礼は新生のしるしであり、幼子といえども、新生によって救われなければ滅ぼされることになる。

しかし割礼は、それを行う人によって行われるものであるので、幼子が割礼を受けないことは、幼子がその契約を破ったのではない。

そして割礼を受けていない幼子の魂は、自分自身の不注意はまったくないのであるから、もし原罪の負債がなければ滅びることは不当であることに注意を払うべきである。 

15章 マムレの木のそばで、主がアブラハムに現れた 

マムレの樫の木のそばにいたアブラハムに、天使と思われる三人が人の姿で現れた。このうち一人はキリストと考えられる。

なぜなら、アブラハムが話かけるとき、主語が、複数と単数とが交錯しているからである。(創世記18・1~33)。

二人を迎えたロトも、二人を話しかけるとき単数と複数が交錯している(創世記19)。したがってアブラハムは三人の中に、ロトは二人の仲に主を認め、その主に単数形で語ったのであると考えられる。 

16章 ソドムの滅亡アビメルクとの出会い、イサクの誕生

ロトはソドムから救い出された。ソドムは、天から火の雨が降って不信仰な都市全域を滅ぼし灰となってしまった。

この都市では、男色は法律により容認され、慣習となるまで勢力を得ていた。アブラハムは、ゲラルでその国の王アビメルクのもとで、エジプトで妻にしたことを再び行ったが、同じように妻は汚されずに彼のもとに返された。彼女は、その年齢でもなお思いを寄せられる美しい人であった。

この後、神の約束どおりに、サラから息子が生まれた。その子は命じられた通り(創世記17・19)イサクと名付けたが、それは「笑い」という意味である。 

17章 イサクの献供

アブラハムは最愛の息子イサクを捧げるという試みに会わされる。それは彼の信仰に満ちた従順が良しと認められ、それが神ではなく、世の人々に知られるためであった。

アブラハムは、神が人間の犠牲を喜ばれるとは決して信じなかった。しかしアブラハムがその息子を捧げたあと、ただちに甦るであろうと確信していたことは賞賛されるべきである。それは神が「あなたの子孫はイサクによって伝えられる」(創世記21・12)と言われたからである。

この約束を堅く信じていた信仰深い父は、それが神の命令で殺されるイサクによって成就されるべきものであったので、イサクが一度捧げられても自分のもとに再び返されることを疑わなかった(ヘブライ11・17~19)。

最後に、イサクは殺されてはならなかったので、殺すのを禁じられた後、代わりに雄羊が与えられ燔祭として捧げられた。そして「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」(創世記22・12)。「分かった」は「分かるようにした」ということである。

そして「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」 (創世記22・16~18)。

このようにして、アブラハムにおいて、もろもろの国民が召命されるという約束が神自身の誓いによって確立された。神はしばしば約束されたが、しかし決して誓われたことはなかった。

ところで、神の誓いとは、約束の確証、および信じない者への一種の叱責以外の何であろうか。 

18章  イサクの子、エサワとヤコブ

イサクは自分の父方の叔父ナホルの孫娘リベカを40才のときに妻に迎えた。それは彼の父が140才のときであり、彼の母の死から3年後のことであった。その後アブラハムは175才のときに死んだ。

イサクの妻リベカは不妊であったため、イサクは神に願い求めた。主はその願いを聞き入れ、彼女はみごもった。

彼女は双子をみごもったが胎内で激しく動き苦しんだので、主に尋ねると、次のような答えを得た。「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」 (創世記25・23)。

兄が退けられ弟が選ばれるのは大いなる恩恵である(ローマ29・11~13)とパウロは記している。ところで「兄は弟に仕えるようになる」とは、年上であるユダヤの民が年下のキリスト教徒の民に仕えることの予表であり、事実としてイドマヤ族において成就された。この民は兄のほうから出たが、後から弟から出た民、つまりイスラエルの民に打ち負かされ、やがて服属することになるからである。 

19章 イサクの受けた告知と祝福

イサクは飢饉があったとき、ペシリテ人の王アビメルクのもとに行った。このとき、主が彼に現れて言われた。

「エジプトへ下って行ってはならない。わたしが命じる土地に滞在しなさい。あなたがこの土地に寄留するならば、わたしはあなたと共にいてあなたを祝福し、これらの土地をすべてあなたとその子孫に与え、あなたの父アブラハムに誓ったわたしの誓いを成就する。わたしはあなたの子孫を天の星のように増やし、これらの土地をすべてあなたの子孫に与える。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。 アブラハムがわたしの声に聞き従い、わたしの戒めや命令、掟や教えを守ったからである」 (創世記26・1~5)。

イサクは他の妻も、また一人の妻も持たず、一度の交わりで生まれた双子の子孫で満足していた。しかし、彼が父より優れていると考えてはならない。実際、父の信仰と従順は非常にすぐれていたので、神がイサクにたいしてなされる善いことは、その父ゆえになすのだと神に言われるほどであったからである。これによってアブラハムが情欲によって行ったと見えることも、彼がどれほど汚れなく行ったかを知ることができる。 

20章 エサワとヤコブにおいて予表される奥義 

兄エサワ、弟ヤコブは共に大きくなるが、年上の者にあった優先権は、二人の合意により年下の者に移されることになる。というのは、弟が食べようとしていたレンズ豆を兄は無茶苦茶欲しがり、その代価として自分の長子の権利を誓いを立てて売ったのである。

さて月日がすぎ、年をとり視力の衰えたイサクは、獲物をとって好物の料理を作ってくれるようエサワに頼み、食事のあとにエサワに祝福を与えることを告げた。

これを聞いたリベカはエサワが狩りに行った隙に、ヤコブがエサワになりきって祝福を受けるという計画を立てヤコブに命じた。ヤコブは母のすすめに従い、料理を作り、毛深い兄の代わりに、子山羊の皮を身につけ、ヤコブの手の下に身を置いたのである。

それをしらないイサクは祝福した。ヤコブが近寄って口づけをすると、イサクは、ヤコブの着物の匂いをかいで、祝福して言った。「ああ、わたしの子の香りは、主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が、天の露と地の産み出す豊かなもの、穀物とぶどう酒をお前に与えてくださるように。多くの民がお前に仕え、多くの国民がお前にひれ伏す。お前は兄弟たちの主人となり、母の子らもお前にひれ伏す。お前を呪う者は呪われ、お前を祝福する者は祝福されるように。」 (創世記27・27~29)。

ヤコブに対する祝福は、すべての国民へのキリストの予告である。このとき、律法は伝えられていないのであるから、イサクは律法であり、また預言である。したがって、イサクの祝福はキリストのものである。

さて、今度は兄が約束の祝福を求めたとき、イサクは驚いて、ヤコブに祝福したことを知った。しかし彼は欺かされたことを嘆かない。それどころか、すぐに彼の心の内奥に大いなる秘儀が明らかにされたので、ヤコブの祝福を追認する。(創世記27・38~40)。

もし、これらのことが地上的なやり方でなされたのであれば、弟は祝福を取り去られ、呪いを受けたであろう。しかし、これらのことがなされたのは、預言としてなされたのである。地上でなされたが、天からなされたのである。人間によってなされたが、神の働きによってなされたのである。 

21章 ヤコブは妻をめとりにメソポタミアへ行った 

その後、ヤコブは両親によってメソポタミアへ送り出された。それは、そこで妻を娶るためである。送り出される際、父イサクは、父祖アブラハムの祝福がヤコブに与えられることを願い、イサクとイサクの子孫の繁栄を祈り祝福する(創世記28・1~4)。

ヤコブはメソポタミアに向かう途中、眠っているとき託宣を受けた。「見よ、主が傍らに立って言われた。「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 (創世記28・13~15)。

そこからヤコブはメソポタミアに進んで行った。そこで妻を娶るためであった。そこで聖書で言うところによれば、彼は誰をも不義な仕方で求めたのではなかったが、4人の女を持つことになり、彼女らにより12人の息子と一人の娘を得た。

実際、彼は一人の女性を娶るために来たのであるが、ある女が別の女に代わりに彼に偽って与えられたとき、それと知らずに一夜交わった女を、彼は去らせなかったのである。それは、自分がその女をもて遊んだと思われないためであった。またその時代、子孫を増やすために複数の妻を持つことを、どんな法律も禁じていなかったので、すでに結婚の約束をしていた女をも娶ったのである。

リベカは不妊であったため、自分の女奴隷を夫に与えて、その女によって自分の子を持とうとした。彼女の姉もまた、すでに子を生んでいたにもかかわらず、子孫を増やそうとして妹のまねをした。

ヤコブは一人の女以外求めなかったし、多くの女と交わったのも、子を生むためだけであった。ヤコブは、その際、婚姻の義務を固く守り、夫の体を正当に自由にできる彼の妻たちが(1コリント7・4)そうすることを望まなかったなら、そうはしなかったであろう。こうして彼は4人により、12人の息子と一人の娘を得たのである。 

22章 ヤコブがイスラエルと呼ばれる理由 

ヤコブはイスラエルとも呼ばれる。この名は、ヤコブがメソポタミアから戻る途中に、彼と格闘した天使によって付けられたのであるが(創世記32・24~28)、この天使はキリストを象徴している。

ヤコブが優勢であったことは、キリストの受難を表している。受難の際に、ユダヤ人のほうがキリストよりも優勢であるかのように見えたからである。それにもかかわらず、彼は打ち負かした天使に祝福を願う。そのとき天使が彼に祝福を与えるとき、この名を与えたのである。(イスラエルは「神を見ている」という意味)。

さらに、同じ天使は、ヤコブの太ももを触ったので、彼は跛行するようになった。ヤコブは祝福もされ、跛行者にもされたのである。

それは同じ民から出てキリストを信じるようになった者が祝福され、また不信仰な者たちが跛行者にされたということである。

23章 ヤコブが75人(70人訳)の一団となってエジプトへ行ったこと

ヤコブは、12人の息子と一人の娘を得た。その後、息子ヨセフによってエジプトに移った。このヨセフは彼を妬む兄たちによって売られ、エジプトに連れて行かれ、その地で高い地位を得たのである。

ヤコブは、その息子たち、娘たちを加え、75人の人々が彼と共にエジプトに入ったことが記されている。

しかし、ヤコブのエジプトの下りは、聖書が彼を含めて75人の人々をあげるとき、それは、これらの人々がエジプトに入って来させたヨセフの生きていた全期間を指す。

なぜなら、その中にヨセフの曾孫まであげられているからである。当時130才のヤコブ、ヨセフは39才であった。ヨセフが妻を娶ったのは30才以降である。9年間の中で曾孫を持つことは不可能だからである。

24章 ヤコブの息子ユダに約束した祝福 

キリストを肉の子孫の中に探し求めるとき、イスラエルの子孫の中に求めるなら、ユダが出てくる。なざなら、キリストはユダ族の出身だからである。エジプトでイスラエルが死に臨んで息子たちを祝福したとき、どのように預言的にユダを祝福したのか見てみる。(創世記49・8~12)。 

ユダよ、あなたは兄弟たちにたたえられる。あなたの手は敵の首を押さえ、父の子たちはあなたを伏し拝む。  
ユダは獅子の子。(→「獅子」は死に対して力を持っていたことを告げている。この力についてはヨハネ10・18、19) 
わたしの子よ、あなたは獲物を取って上って来る。
彼は雄獅子のようにうずくまり、雌獅子のように身を伏せる。(主が墓に横たわり、葬られたことを表す)
誰がこれを起こすことができようか。(主を起こす者は誰もいない、自ら眠りから起きるように復活した) 
王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。
ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。 (シロは王国成立前の聖地→サムエル1・3、または統治者=メシア)
彼はろばをぶどうの木に、雌ろばの子を良いぶどうの木につなぐ。(イスラエルの理想の支配者はロバに乗る→ゼカリア9・9) 
彼は自分の衣をぶどう酒で、着物をぶどうの汁で洗う。 (主の衣服は、自分の血によって罪から清められる。衣服=教会)
彼の目はぶどう酒によって輝き、歯は乳によって白くなる。(彼に属する人々→詩編23・5、幼子たちが使徒のもとで御言葉によって養われる) 

25章 モーセ、ヨシュア、士師の時代より王国時代 

ヤコブが死に、ヨセフも死んだあと、エジプトの地から脱出する144年の間に、その民のあまりの増え方に驚いたエジプト人が恐れをなして、ある時には、生まれた男の子を殺してしまう、といった数々の迫害に痛めつけられていたにもかかわらず、信じられないほどにその民は増えた。

そのときモーセは、神が彼を通して大きなことを準備されたので、幼子たちを虐殺する者の手を逃れ、ひそかに王宮に運び込まれて、ファラオの娘に育てられ、養子とされた。彼は驚くほど増した民を、脱出させて導くという偉大な人物に成長したが、それはむしろ彼を通して神が、すなわちアブラハムにこのことを約束しておられた神がなしたのである。

実際彼は、最初エジプトから逃亡した。それは、あるイスラエル人を守ろうとしてエジプト人を殺し、恐ろしくなったからである。その後、彼は神によって遣わされて、神の霊の力の内にあって、彼に逆らうファラオの魔術師たちを負かした。

神の民を去らせまいとしたエジプト人が、彼によって10の大きな禍に襲われたのはそのときであった。血に変えられた、水、蛙、ぶよ、あぶ、家畜の死、腫れ物、ひょう、いなご、暗闇、初子の死である。

このように多くの災いに打ち砕かれたエジプト人は、とうとうイスラエルを去らせた。その後、40年間、神の民はモーセに率いれられて砂漠の中を進んだ。

さて、エジプトから出て、(羊を犠牲にして過越祭りを祝ってから)50日目に律法が山の上で与えられたが、これはこの民がキリストのひな型であることを示す。これらは、キリストが受難という犠牲を通して、この世から父のもとへ過ぎていくことを前もって示している。またその上、新しい契約が啓示された時には、私たちの過ぎ越し祭りとしてキリストが犠牲に捧げられてから50日目に、天から聖霊が降って来ることまで予告しているのである。

モーセが死んだあと、ヌンの子ヨシュアが民を率いて約束の地へ導き、その地を民に分けた。この驚嘆すべき指導者によって、戦いもまたきわめて有利に運び、驚くべき成果をもたらした。

それは神の証言によれば、ヘブライ民族にそれだけの功があったからというよりむしろ、この民によって征服された諸国民の罪ゆえに、彼らは勝利を得たのである。

これらの指導者の後に出たのは士師たちである。その頃、この民族はすでに約束の地に住み、アブラハムになされた、一つの民、すなわちヘブライ民族とカナンの地に関する第一の約束は成就され始めていたのである。

しかしすべての国民と全世界に関する約束のほうはまだであった。キリストの肉における来臨と、古い律法の順守ではなく福音の信仰が、やがてそれを成就することになっていた。

このことを予表するのは、民を約束の地に導き入れた者は、かつてシナイ山で、この民のために律法を受け取ったモーセではなく、神の命令で名を変えてヨシュアと呼ばれた者であったということである。

ところで、士師の時代には、民の罪と神の憐みに応じて、戦いも幸運と不運とが交互した。 

続いて王たちの時代が来た。その最初の王としてサウルが君臨した。彼が神に棄てられ、戦いに負けて倒れ、彼の一族から王が出ないようにその子孫が排斥された後、ダビデが王位を継いだ。キリストはとりわけダビデの子と言われる。このダビデにおいて一つの時代が刻まれ、ある意味で神の民の青年時代が始まった。