「神の国5」

聖アウグスティヌス「神の国15巻」を簡略したものです。

カイン、アベルから洪水に至るまでの二つの国の歩み 

1章 人類の二つの系譜の始まりとそのおのおのの系譜 

私たちは人類を二つの類に分けた。一つは、人間を頼みとして生きる人々であり、もう一つは、神を頼みとして生きる人々である。私たちはまた、これを二つの国、二つの社会と呼ぶ。その一つは、永遠に神と共に支配することが予定され、もう一つは、悪魔と共に永遠の罰に服することが予定されている。 

さて、人類の祖先である二人から、最初にカインが生まれた。彼は人間の国に属した。しかし、後で、生まれたアベルは神の国に属した。 

この人間の国、神の国という順番は、私たちは人間の内にも認められる。「最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです」(1コリント15・46)とあるように、人は原罪によって罪の状態で生まれる。しかし、その後、人は神を信じ、その教えを守ることで、罪の状態から離れ、善いものとなり霊的なものになるのである。 

また、カインは、国を建てたと書かれているが、アベルは寄留者であり国を建てなかった。なぜなら、聖徒たちの国は上なる国だからである。彼らもこの世にその市民を生み、そこに寄留しているが、上なる国の支配の時が来ると、みな各自の身体において復活して集まって来る。そのとき、彼らに約束されていた王国が与えられるのである。 彼らはその王国で、世々の王である主君と共に、終わりなく支配し続けるであろう。

2章 地上の国における戦争と平和 

地上の国は、求める善を地上に持ち、それを所有することを喜ぶ。しかし、それらの善は、十分に満足や喜びを与えるものでないため、この国は通常、内部分裂を起こし、争いによって、死をもたらす勝利を追い求める。

しかし、勝利を得てたとしても、賞賛されますます高慢になるなら、その勝利は結局は死をもたらす。また、起こりうる不運に思い悩むなら、その勝利は死に瀕している。というのは征服して統合した諸民族を、いつまでも支配し続けることはできないからである。

しかし、この地上の国の求める善が、地上的平和であり、それを求めるために戦うならば、この欲する平和は善であると言うことができる。

けれども、地上の善のみが追及され天上の善よりも愛されるなら、そこには悲惨があり、またすでにあった悲惨も増大することになる。 

3章 地上の国の最初の建設者 

地上の国を最初に建てた者(カイン)は、その兄弟を殺した。彼は、神の国の市民である弟(アベル)を、嫉妬に負けて殺したのである。したがって、地上の国の頭となり、国が建てられるとき、この最初の模範、原型に似たものになるとしても不思議ではない。 

「最初の城壁は兄弟の血で塗られた」。ローマはレムスが兄弟ロムスに殺されたときに建てられた。彼らの場合、二人とも地上の国の市民であった。二人ともローマ国の創設という栄誉を求めていた。しかし、共同支配者がいるために自分の権力が減るならば、その支配も小さくなるだろう。だからこそ全支配権を一人で掌握するために、仲間を殺したのである。このようにしてロムレスは支配権を得たが、その罪によってますます悪くなったのである。 

さて、カインとアベルは、地上のものに対してお互い似た欲望を持っていたのではない。また殺人を犯したほうは、二人で支配したならば主権が制限されるという理由で相手をねたんだのではない。

そうではなくて、カインがアベルを殺したのは、悪人が善人を、一方が善人であり、一方は悪人であるというそれだけの理由だけで拒む悪魔的な嫉妬によるのである。 

善の所有は、他人によって減少することはない。むしろ仲間とその善を分かち共有するほど、豊かに所有することになる。だが、この善の所有は共有を望まない者には無理である。

そこで、レムスとロムレスの間に起こったことは、地上の国がどのようにして内部分裂を起こすのかを示しているが、カインとアベルの間の出来事は、二つの国、神の国と人間の国の敵対を明示した。それゆえ、悪人同士が争うのと同様に、悪人も善人も互いに争うのである。 

しかし善人同士の場合、もし彼らが完全であるならば互いに争うことはない。 

だが、善人であってもそれに向かって前進している人々は、自分自身に対して戦うような仕方で、他人と戦うことはありえる。「肉は霊に逆らって欲し、霊は肉に逆らって欲する」(ガラテヤ5・17)のである。 

それゆえ、霊の欲するものは、他の肉の欲するものに対抗して、あるいは肉の欲するものが他の人の霊の欲するものに対抗して、ちょうど善人と悪人とが互いに争うように、戦うことがありうる。 

あるいは善人であるがまだ不完全な人々の場合、彼らが善く導かれるまでは、二人の肉の欲が、ちょうど悪人同士のような争いを引き起こすことがありうる。 

4章 罪の罰としての弱さ 

実際こうした弱さは、神の不従順から来ていて、悪徳である。主は、この善人に対していろいろな戒めを与えた。(ガラテア6・1、2)(1テサロニケ5・14、15)(エフェソ4・26)(マタイ18・15~17)(マタイ18・21~35)(ヘブライ12・14)。 

これらの戒めに従うことで、神の民は癒されるのであるが、聖霊がその人の内で働くからこそ悪徳を避けることができるのである。もし内に働く恩恵によって知性が導かれないなら戒めに従うことはできない。

神は、これらのことを、隠れているが義しい導きによって、悪徳を避けるように働きかける。 

5章 カインの罪の原因とその執拗さ 

しかし、このような神の助けは、カインにとってどんな益があったであろうか。カインは、神の忠告の言葉を聞いたにもかかわらず、カインを殺したのである。 使徒聖ヨハネは、この兄弟についてこう言っている。

悪魔に属していたから自分の兄弟を殺したカインに倣うな、なぜ殺したかというと、自分の行いが悪くて、兄弟の行いが正しかったからである。

1ヨハネ3・12

それゆえ、こう理解できよう。これまで見たように、悪い者とは、神の意志ではなく、自分の意志を選ぶ者である。つまり、カインは、自分の意志を追求し、神の栄光のためではなく、彼のゆがんだ欲望を成就するため捧げ物をしたのである。別の言い方をすると、彼は、この世の利益のために神を利用したのである。 そしてカインは、自分の捧げ物が、神の受け入れられなかったことで、弟を激しくねたみ、殺そうとした。その時、神はカインに忠告した。

どうして怒るのか。どうして顔をふせるのだ。やましくないなら顔を上げられるはずだ。やましいのは罪が門口にひそんでいて、それがお前をうながすからだ。しかし、お前はそれを支配しなければならない。

創世記4・6(中央公論訳より)

このように、神はカインが罪を犯さないように命じた。しかし、カインは、この忠告を受けながら、まるで偽証人のように振舞った。彼は、嫉妬が激しくなり、罠をかけて弟を殺したのである。地上の国の建設者はこのようであった。 

6章 聖書に書かれている人物はわずかなのに、どうして国が建てられるのか? 

聖書には、地上に存在していたのは男がわずか3人(アダム、カイン、エノク)であったと思われる時代に、一人の人間によって国が建てられ、この国はエノクの名をとって呼ばれたという。

このことにつまずく人は、最初には当時存在したかもしれない人の名をすべて挙げる必要はなく、必要な者のみを挙げたということを考慮していない。

聖書の意図は、一人の人間から出た子孫たちを順次たどってアブラハムにまで至り、続いてアブラハムから神の民に至ることであった。 

聖書には「そして彼は息子や娘たちを生んだ。この人の生きた年数は何年であった。そして彼は死んだ」(創世記5)という言い方をし、この息子や娘たちの名を挙げていない。

したがって、この世の最初の時代に、彼らの生きた非常に長い年数の中で、もっと多くの人間が生まれ、その集合から国が建てられたであろうと解釈することは不適切ではない。 

「カインが妻を知り、彼女はみごもってエノクを生んだ」(創世記4・17)と書いてあるが、エノクが長子であるとは限らない。しかし「妻を知った」と言われているからといって、その時が初めて床を共にしたと考えるべきではない。さらに、その国にエノクの名がつけられたとしても、彼が長子であるとは限らない。 

また当時はかなり長命であり、洪水以前で最も短命で753才に達し、その多くの人は900才を越えていた。それゆえ、一人が生きている間に、一つではなく複数の国が建てられるまでに人が増えたとしても不思議ではない。

このことはアブラハム一人から、400年足らずの間に子孫が増え、この民がエジプトから脱出したとき、戦える若者が60万人であったことからも容易に推測できる。 

7章 最初の時代の結婚には後の時代とは違う婚姻の法があった。 

最初の人類はアダムとエバだけであった。この二人の結びつき依頼、男女の結合によって子を生み、子孫を増やさねばならなくなった。

しかも、これら二人から生まれた者以外にはどんな人間もいなかったのであるから、最初の時代、男たちは自分の姉妹を妻としたのである。

このことは古い時代に遡るほど、必要だから行われていたが、その後、人口が増え、その必然性がなくなり、掟によって禁じられて罪とされるようになったのである。 

8章 一人の父から生まれた二種類の父祖たちと君主たち 

アベルが殺され、その殺害において驚くべき奥義、つまり地に属する者によってキリストの死も神の国の市民への迫害がもたらされることが示されたあと、カインが地の国、セツが神の国の父祖となつた。

そして彼らの子孫で名を挙げる者たちにおいて二つの国の特徴が明らかに示された。 

「所有」を意味するカインは、地上の国の建設者であり、またこの国はその息子の名において建てられた。その息子エノクの意味する「献納」は、この世で見られるもの以上には何も望まないことを示している。 

アベルは「悲嘆」を意味する。そして「復活」を意味する弟セトにおいて、キリストの死と復活が象徴されている。この信仰から、主なる神の名を呼ぶことを望む人間エノスが生まれる。エノスは「人間」を意味する。

地上なる国から最初に分けられた最初の人セトの子エノスにおいて、神を頼みとする永遠の希望の幸福に生きる社会を前もって告げている。 

そしてセツを先祖とする子孫の(アダムを含め)7代目に「献納」を意味するエノクが生まれた。ところでエノクは神に喜ばれたため、天に移された者である。

エノクの帰天は、私たちの献納の遅延を予表している。主はもはや死ぬことのない者として甦ったが、同じようにエノクもまた移された。

しかし、もう一つ、神の国の市民の献納が残されている。この献納は、もはや死ぬことのない、すべての復活が起こる終末まで延ばされている。 

9章 アダムからカインを経る系図は8代で終わる。アダムからノアまでの系図は10代を数える。 

カインに始まる子孫は、洪水までであり8代で終わる。洪水により地上の国のすべての民は滅ぼされ、ノアの子によって再び興されたのである。 

カインの系図は長子ではなく、王をたどっている。カインがその息子エノクの名において建てられたこの国は、次第に大きくなり王を持つようになった。しかし複数の王が同時にいたのではなく、一人の王が生きている間は、彼が一人の王であった。

初代の王はカイン、第二代はその子エノクである。第三代はエノクの生んだイラデ、第四代はイラデが生んだメホヤエル、第五代はメホヤエルが生んだレメクである。王の長子が父の支配を継承したのではなく、子のうちで能力のあった者、運のあった者、王に愛された者があとを継いだのである。

そして洪水は、6代目の王レメクが生きて治めたときに起き、 箱舟にいた人を除き、他の人々と共に彼も滅ぼされたのである。

10章 カインの系図とセツの子エノスの系図との対比 

セツの子エノスの系図は、カインの6代目王レメクが殺人者であることを記した後、まずエノスが挙げられ、再びアダム自身から時が数えられている(創世記5・1)。

この表現で、これら二つの国を、一つは殺人者を経て、殺人者に至るもの(レメクも、二人の妻に人を殺したと告白している→創世記4・23)、セツは主なる神の名を呼ぶことを望んだ人間を経るものとして示している。

そして、この二つの国が、おのおのに固有なふさわしい終局に向かって進み出ることを示した後に、時が数え始められている。 

11章 人間の娘たちの愛に縛られた神の子たちの堕落 

人間の自由な意志の決定によって、人類の発展と増加に伴い、二つの国が混じりあい、不義を分有することによって二つの国の混合が生じた。この悪を引き起こした原因は、またも女であった。

彼女たちは、地上の国で邪悪な習慣に浸っていたが、この世に寄留する神の国の市民たちにも容姿が美しいために愛されたのである。

この容姿の美という善は、確かに神の賜物であるが、善い人々がこれを大きな善と思わないために、神はこれを悪人にも与えられた。

したがって人の美しさを、それよりはかり知れない大きな善である神より愛するならば、善人にも悪人にも共有される最小の善へと転落させられる。 

このようにして、神の子たちは、人間たちの娘たちの愛に捕らえられ、彼女を妻とするため、聖なる社会で守られた敬虔を捨て、地から生まれた社会の習慣の中に転落したのであった。 

また洪水以前に多くの巨人が存在し、人間たちの地上の社会の市民であったことが聖書に書かれている。巨人の創造が、創造主の御旨に適ったのは、知者たる者は、身体の美だけでなく、その大きさや強さにも高い価値を認めてはならないことが示されるためであった(バルク3・26、27)。 

形の美しさや、身体の強さ、大きさというものは、神につくられらたものであるが、時間的で最低の善であって、神という、永遠の、内なる、恒常的な善よりも優先されるならば、それは悪い仕方で愛されているのである。

すべての被造物はこのような関係にある。つまり秩序が良く保たれている場合には良く愛され、秩序が乱されるなら悪く愛されるのである。 

12章 神の後悔について 

洪水の原因はこう語られている。「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」(創世記6・5~7)。 

神の後悔は、可変的なものに対する不可変の根拠である。実際、神には人間のようにどのようなことであれ、自分の行為を後悔するということはない。万物について神の決定は、その予知の確実さと同様、確固不動のものである。

しかし、もし聖書がこのような言葉を用いなければ、あらゆる人々に親しく浸透することはないだろう。聖書は、あらゆる人々の助けとなるため、まず聖書が身をかがめ、下位にまで降りてくるのでなければ果たせないだろう。 

13章 ノアの箱舟はキリストの教会を象徴する 

ノアは義人であり、聖書によると、その時代における完全な人であった。神はこのノアに箱舟をつくり、その中に彼の家の者たち、つまり妻と息子たちと、その妻たち、さらにまたノアに与えられた神の命令によってやって来た動物たちと共に乗り込み、洪水による滅亡から逃れるように命じられた。 

このことは、この世に寄留する神の国、すなわち教会が「神と人間との仲保者である人間イエス・キリスト」がかけれれた木(十字架)によって救われることとを象徴している。 

実際、この箱船の長さ、高さ、横幅の測定値自体も、人間の体を象徴している。箱舟は長さ300キュビト、幅50キュビト、高さ30キュビトで造られたが、その比率を見てみると。人間の身長は、横幅、つまり一方の脇から他方の脇までの長さの6倍であり、また厚み、つまり脇における背から腹への測定値の10倍である。

そこからまた脇に入口が設けられたが、これは明らかに、十字架につけられたかたの脇が槍で刺し貫かれた時のあの傷口である。彼のもとに来る者たちは確かにその口を通って入って来る。 

「箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい」(創世記6・16)

二つの部屋は人間の二つの種類、割礼者と無割礼者であり、三部屋は、洪水の後、ノアの三人の息子たちによって全民族が再興されたことを象徴している。また、三つは、信仰、希望、愛も象徴している。