「神の国4」

聖アウグスティヌス「神の国14巻」を簡略しています。

アダムの罪は原罪となって人類に及び、キリストの救いによらなければ消えることはない。 

1章 人類にとって第二の死は必然であるか。 

神は人間たちが一人の人間から始まることを欲した。そして人類が本性の類似、血縁関係の必然性からしても、平和に一致することを、神は望まれた。この人類は、もし最初の二人が不従順による罪を犯さなかったなら、誰も死ぬことはなかったであろう。

アダムとイブの罪は大きく、その罪によって人間本性は劣ったものへ変えられ、子孫までも、その状態を伝達されたのである。そして、人は必ず死ぬものとなり、すべての人は、神の無償の恩恵によって解放されない限り、罪の価として、終わりのない第二の死に至るのである。

そのため、この世界には多数の民族、さまざまな宗教と道徳、多数の言葉などによって区別されるとしても、人間社会は二種類以上のものとはならなかった。聖書に従って二つの国と呼ぶことができる。その一つは、肉に従って生きることを選ぶ人間たちの国であり、もう一つは霊に従って生きることを選ぶ人たちの国である。

2章 肉に従って生きるとは何か 

聖書で肉と呼んでいるのは、身体だけでなく、人間の自然本性も含まれる。肉の本性自体は悪ではないが、「肉に従って生きる」ことは悪である。「肉に従って生きること」はガラテアの手紙に書かれている。

「肉の業は明らかです。不品行、汚れ、好色、偶像崇拝、まじない、敵意、争い、ねたみ、怒り、論争、異端、ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐいである 。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません」。 

ガラテア5・19~21

使徒が断罪している肉の業には、不品行、汚れ、好色、泥酔、宴楽といった肉体の欲望だけでなく、精神の悪徳を示す偶像崇拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、論争、異端、ねたみがある。

偶像礼拝や異端を行っていても、肉体の欲望が抑えられることがある。しかし、その人もまた、たとえ肉欲を抑え、節制していても、この使徒の権威によれば、肉に従って生きる者であることは確実である。

3章 罪の原因は肉ではなく霊の中にある。 

罪の原因は肉ではない。今は「朽ちるべき体は魂の重荷となり、地上の幕屋が、悩む心を圧迫している」(知恵9・15)けれど、霊魂のすべてのわざわいが身体から来ると考えるのは誤りである。

身体が霊魂の重荷となったのは、最初に罪を犯した原因ではなく、罪の罰である。確かに、肉の堕落により、悪徳や悪い願望が刺激を受ける。しかし、悪人の悪徳をすべて肉に帰するのは正しくない。

すべての悪徳の原因は肉ならば、悪魔は肉を持たないから、悪を持たないことになる。しかし悪魔はすべての悪徳の持ち主である。悪魔は高慢とねたみに満ちている。

悪魔は肉を持たないが、彼らを支配している悪徳は、使徒は肉に属するものとしている。すなわち、敵意、争い、そねみ、怒り、ねたみは肉の働きである。

さて、これらすべての悪の中で最も悪く、悪の始まりとなるものは高慢である。

高慢は肉がなくても常に悪魔を支配している。悪魔は神よりも自分を選び、神より自分を高めた結果、堕落した者である。

したがって人間が悪魔と似た者となるのは、悪魔の持たない肉を持つ時ではなく、自分自身に従って、すなわち、神ではなく、人間に従って生きる時である。

4章 神に従って生きるとは、どういう意味か。 

人間が人間に従って生き、神に従って生きないならば、悪魔に似る者となり、虚偽に生きる者となる。

一方、自分自身に従ってではなく、神に従って生きているなら、神から光を受け、真理に従って生きる者となる。

人間は、自分自身に従って正しくあるようにつくられたのではなく、人間をつくった方に従って生き、自分の意志ではなく、その方の意志に従って生きるようにつくられたのである。そのように生きるべくつくられているのに、そのように生きないこと…これが虚偽である。 

すべての罪は偽りとは、まったく至言である。というのも、罪は私たちが善くなることを欲しなければ生じないからである。虚偽とは、私たちが善くなろうとして、かえって悪を生じさせる。 

なぜこのようなことが起こるのか…それは、人間が善くなるのは自分自身によってではなく、神によってでなければならないからである。 罪を犯す者は、神を捨てる者であるが、それは人間が従って生きるべき方を捨てることである。 

「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」(1コリント3・3)とあるように、人間として歩むことは、肉の人間を表している。このことを、同じ手紙で「肉の人」を「自然の人」と呼んで次のように言っている。

わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。そして、わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです。自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。

1コリント2・11~14

そこで、このような人々に向かって次の章でこう述べている。

兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。

1コリント3・1

そしてこの「肉の人」を次に「ただの人間にすぎない」と言っている。

ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。

1コリント3・4

この意味は、「あなたたちは神に従ってではなく、人間に従って生きている。しかし神に従って生きるなら、あなたたちは神に似た者となろう」ということである。

5章 意志が情念の源である。 

情念を生む重要な要素は、人間の意志の性格である。というのも、意志が転倒しているならば、動きも転倒し、意志が正しいなら動きは賞賛すべきだからである。*情念=情念 感情が刺激されて生ずる想念。抑えがたい愛憎の感情。

あらゆる動きは意志の働きに他ならない。私たちが欲するものを求め、それに同意することが欲望であり、私たちが欲するものを享受し、それに同意することが喜びであり、私たちに起こることを欲しないものに同意しない場合、そのときの意志の働きが悲しみと呼ばれる。

そして一般に、私たちが求めたり、避けたりするものの対象に応じて人の意志が引き付けられたり反発したりする。同じように、意志の働きも種々の傾向性の中で変化する。

それゆえ、人間に従ってではなく、神に従って生きる人は、当然、善を愛する人となり、悪を憎む者となる。さらに、神に従って生きる人々は悪い者たちに対して正しい憎しみを持たないといけない。

悪い人は、だれも本性上悪いのではなく、本性の欠陥ゆえに悪いのであるから、神に従って生きる人々は、人を欠陥ゆえに憎んではならず、また人ゆえに欠陥を愛してはならず、むしろ欠陥を憎み、人を愛すべきである。もし欠陥が癒されたならば、すべては愛すべきものとなり、そこには憎むべきものは何も残らないであろう。

6章  善い人の情念、悪い人の情念

人は誰でも、善い人でも、悪い人でも、欲し、恐れ、喜び、悲しむ。しかし人間には正しい意志と転倒した意志があるように、前者は善い意味でそのようにし、後者は悪い意味でそのようにする。

愛に反するものを避けることが恐れであり、その恐れが現実に起こる時に感じられるのが悲しみである。これらの情念は、愛が悪ければ悪く、善ければ善い。

例えば、ある議員が「私は、あなたたちに寛大でありたいと願っている」と言ったとき、ここでの「願い」は善い意味で言われている。一方、ある若者が「私が願うのはフィルメナ以外にない」と言ったとする。この意志が欲情だった場合、この「願い」は善いものではない。 

善い悲しみとして、例えば、コリント人への手紙で、使徒はコリント人を、神に従って悲しんだことを賞賛している。

確かに、あの手紙が一時にもせよ、あなたがたを悲しませたことは知っています。たとえ後悔したとしても、今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました。神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。

2コリント7・8~11

これと反対に、「悲しみ」の、悪い例の一つとして失望がある。そのような悲しみは善いものではない。 一方、「主を信じる者は、だれも失望することがない」(ローマ10・11)。

7章 聖徒たちの正しい情念 

神の国の市民たちは、神に従って生きつつもこの世に寄留する間は、恐れと願望、苦痛と喜びを抱いている。この感情や情念は、彼らの愛が正しい限り、みな正しい。

彼らは、永遠の罰を恐れ、永遠の生を願っている。彼らは現実の姿を見て苦しんでいる。なぜなら、身体の贖われることを待ち望んで、心の中でうめいているからである(ローマ8・23)。彼らは希望の中にあって喜んでいる(ローマ8・24、25)、なぜなら、勝利がやがて実現するからである(1コリント15・54)。「不義が満ちるとき、多くの人の愛が冷える」(マタイ24・12)という言葉を聞き、罪を恐れ、「最後まで耐え忍ぶものは救われる」(マタイ10・22)を聞き、堅忍を願う。「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません」(1ヨハネ1・8)を聞いて、自分たちの罪に苦しみ、「喜んで与える人を神は愛してくださる」(2コリント9・7)を聞いて、善い業を喜ぶ。同様に彼らは自分の弱さか、あるいは堅固さに応じて、試みに会うことを恐れ、あるいは願い、試みの中で苦しみ、あるいは喜ぶ。

彼らがこれらの情念に動かされるのは、自分自身に関してだけでなく、解放されることを望んでいる人々い関してでもある。彼らはその人々が滅びはしないかと恐れ、実際に滅んだのを見て嘆き、あるいは実際に解放されたのを見て喜ぶ。

ところで、聖なる神の市民は、世間的なものに対しては恐れることはない(1ヨハネ4・18)。しかし、神に対する純真な恐れ(ローマ8・15)がある。この純真な恐れは永久に続くものである。それが未来の世にもあるならば、それは、悪を避ける恐れではなく、むしろ失われることのない善の中に自分を保つ恐れである。

すなわち、神から受け取った善への不変の愛がある時、そこには確かに悪を避ける快活な恐れがある。というのも、純真な恐れは、決して罪を犯そうと欲しない意志であり、それは罪を犯しはしないかという弱さから来る不安によってではなく、愛の静けさによって罪を避ける意志だからである。

正しい生活とは、至福の生に達するように喜び導かれるものであるから、これらの情念を正しく保ち、間違った生活は、間違った仕方で情念を保つことになる。

しかも永遠の至福の生は、愛と喜びとを正しく保つだけでなく、確実に保つ。そこには恐怖と苦しみは少しもない。

ここからして、神の国の市民たちが、この寄留の生活の中で、どのように生きるべきかは、きわめて明らかである。彼は肉に従ってではなく、霊に従って、すなわち、人間に従ってではなく、神に従って生きるべきである。

これに反して、神に従ってではなく、人間に従って生きる不信仰な人々は、真の神を軽蔑して偽りの神を拝み、人間と悪魔の教えに従い、病気や地震のように、汚れた情念によって苦しまされている。

たとえ彼らのある者は、このような混乱を通じて秩序と抑制を得るように見えたとしても、彼らは高慢と不敬虔とによって、自らを高くし、苦痛が減少するにつれ傲慢は一層大きくなる。

もし、彼らのある者が、まったく稀なほど、どはずれた虚栄心をもって自分自身のこの状態にしがみつき、もはやどんな情念にも動かされることがないならば、彼らは本当の平静に達したのではなく、むしろ人間性をすっかり失っているのである。

8章  アダムとイブの堕落

神は人間を創造した。これを神の像に似せ、他の動物にまさるものとし、楽園に住ませた。神はすべての必要なものと安全に役立つものをふんだんに与えた。楽園における人間は、神の命じたことを欲する限りで、欲するままに生きていた。二人は、神を喜びつつ生き、この善い神によって善い者であった。欠乏なく生き、永久に生きることを自分の権能の中に持っていた。飢えと渇きを防ぐ食物と飲み物を与えられ、老衰と死を防ぐ生命の木も与えられていた。老いが身体に入ることはなく、苦痛が身体から来ることもなかった。病気になったり、傷を受けたりする恐れはなかった。身体の最大の健康と霊魂のまったくの平静がそこにあった。また欲望や恐れが善い意志に逆らって近づくことはなかった。悲しみはまったくなく、真の喜びが神から出て、愛と良心と偽りのない信仰(1テモテ1・5)が神に向かって燃え上がっていた。夫婦の間には尊敬と愛に基づく信頼関係があり、精神と身体の調和があり、また神の命令に安んじて従う忠実さがあった。仕事をしても倦怠によって疲れたり、意に反して眠りが襲うこともなかった。また神は守るのに困難な戒めを課さず、むしろ従順による健やかな生に至るために、一つのまことに短い、まことに軽い戒めをもって支えた。神はその戒めにより、自分が主であることを被造物に教え、被造物の自由な奉仕を益あるものとした。

しかし、かの高慢な天使(悪魔)がやって来たのである。彼は高慢ゆえに嫉み深く、その高慢ゆえに神に背いて、神に服従するのではなく、むしろ自分に服従することを喜び、自ら選んで霊的楽園から落ちたのである。この堕落の後、悪だくみをもって人間の心に侵入しようという思いを燃やし、すでに自分は堕落していたので、まだ堕落していない人間をねたんだ。彼は、そのため楽園の中の蛇を代弁者として選んだ(楽園にはおとなしい危害を加えない動物たちも住んでいた)。悪意をもって、この蛇を自分に仕えさせ、道具として用いて、欺瞞に満ちた言葉を女にもちかけた。これはもちろん弱いほうから攻め、次に男を落とすためであった。男を騙すのは簡単ではないが、他方が失敗すれば、一緒について来るだろうと考えたのである。

女は蛇の言葉に騙され実を食べた。一方、男は女と固く結ばれていたので女の説得に従った。女は蛇の言葉を真実とみなして聞き入れた。男はたとえ罪の仲間に加わろうとも、ただ一人の相手から離れることを欲しなかった。「だまされたのはアダムではなく、女である」(1テモテ2・14、2コリント11・3)と使徒が言ったことは間違いではない。とはいえ、男がそれを知り罪を犯したとしても、罰が軽くされることはない。なぜなら、罪を知って犯したからである。(女はだまされて罪を犯したが、それを罪とは思わなかった)。

9章 最初の罪の性格 

最初に犯された罪が食物に関するものだという理由で軽い小さなものと考えてはいけない。神の戒めのなかには服従も含まれている。被造物は神に服することが益であり、自分のつくった方の意志を行わずに自分の意志を行うことは滅びを招くようにつくられている。

実際、ほかに食物が多く与えられている時に一つの種類だけが食べるのを禁じられたというこの戒めは守るのにきわめて容易であり、きわめて速やかに記憶にとどめることができるものである。ことに、それはまだ願望と意志との対立がない時のことであった。

それゆえ戒めを尊び守ることが容易であるのに比例して、それを犯す不義はきわめて大きいのである。 

10章 悪い意志が悪い行いに先行する 

二人が明らかな不従順に陥る前にすでに隠れた所で彼らの悪は始まっていた。すなわち、悪い意志が先行していなければ、悪い行いに至ることはないのである。

ところで、悪い意志の始まりは高慢以外の何であろうか。その高慢とは、転倒した仕方で高くなるのを求める以外の何であろうか?転倒した仕方で高くなるとは、霊魂が寄りすがるものを捨てて、自分が始源となり、始源であるということである。

それは霊魂が自分を大いに楽しませる時に起こる。そして自分をそのように楽しませるのは、霊魂が自分を楽しませるのに勝って楽しむべき不変の善から離反する時に起こる。

それゆえ、もし人間が先に自分自身を喜ばせることを始めていなかったならば、悪魔の罠に陥って、神の禁じたことを行い、罪を犯すに至ることはなかったであろう。しかし、そうしたからこそ「あなたたちは神のようになるだろう」(創世記3・5)との蛇の言葉を喜んだのである。

二人は、高慢により罪を犯した時にも、言い訳をして逃れようとした。女は、「蛇がだましたので、食べてしまいました」(創世記3・13)と言い、男は「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。」(創世記3・12)と言った。

ここには赦しを求める懇願はまったく聞かれない。二人の高慢は、その不正な行いを他に帰することを求めた。すなわち女の高慢は蛇に、男の高慢は女に求めたのである。

11章 不従順に対する義しい罰 

人間は、神の命令を軽蔑したために、義しい罰が加えられた。その罰により、人間は、肉であっても霊的な存在であったが、精神においてすら肉的なものへと変化した。

その結果、あらゆる点で自分を支配することができなくなった。そして自分自身に矛盾し、罪を犯した時に同意したかの蛇の支配下に置かれ、激しく望んだ自由に代わってつらく悲惨な奴隷の生をおくることになった。

人間は永遠の生を捨てたのであるから、恩恵によって自由にされない限り、永遠の死へと罰せられる。

このような罰を不正、不当と考える人は、まったく容易に罪を犯さないことができたにも関わらず、犯した不義がどんなに大きいかを全然測ることができないのである。