「神の国3」

聖アウグスティヌス「神の国13巻」を簡略しています。

アダムは罪を犯したため、死の罰を招いた。その罪は自然状態から来るものではなくて、意志的行為である。  

1章 罪の罰としての死、その死は子孫にも及ぶ 

神は、もし罪を犯さなかったら、どのような死も味わうことがないように最初の人間をつくられた。最初の人間が従順の義務を果たすならば、天使の不死と永遠の至福が与えられ、死は介入することはなかった 。

しかし、最初の人間たちは罪を犯してしまった。彼らは死の罰を受け、彼らの子孫もみな、同じ罰を受けて、その呪われた起源を所有することになった。実際、彼らの本性は、彼らの罪の大きさゆえに、罰せられて劣るものとなった。

そして、罰として加わったものが、彼らから生まれるものに本性となって働くのである。なぜなら、生まれるものは、生むものと同じ性質をもつからである。最初の人間は、土くれからつくられたが、人間は生むことによって子孫を増やす。

二人は、創造されたときではなく、罪を犯して罰せられた時に子孫を生んだのである。少なくとも、罪と死の始まりに関する限りそうである。人間本性は、傷つき、変化し、欲望の不従順に苦しみ、死の必然に縛られるに至った。しかも、人は、罪と死に苦しむものを生むに至ったのである。

2章 死の種類、霊魂の死と身体の死、第一の死と第二の死。 

人間の霊魂が、不滅であることは間違っていないにしても、一種の死をこうむることは確かである。しかし身体は、生命を失うことがあり可死的である。 

霊魂の死は、神が霊魂を捨てる時に起こり、身体の死は、霊魂が身体を捨てる時に起こる。したがって両方の死は、神が捨てた霊魂が身体を捨てるときに起こる。これが、聖書で第二の死と呼んでいるものである。救い主もこれを指して「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10・28)と言ったのである。しかし、これは、霊魂が身体のうちにあるときには起こらない。  

断罪された霊魂は、その霊魂が不滅であるとしても、快いことは一切なく、むしろ罰せられて苦痛の中にあるのだから、その状態は生と呼ばれるより、むしろ死と呼ばれるのは当然である。これは第一の死の後に来る第二の死と呼ばれる。第一の身体の死は、善い人にとっては善いが、悪い人にとっては悪い。しかし第二の死は、善い人のものではなく、悪い人のものであり、彼らにとって悪でしかない。  

3章 神に背いた最初の人間の死、最初の人間の罪とそれに対する罰。 

最初の人間たちが、神から受けた戒めを破り、これに服従しない場合、神は「必ず死んでしまう」(創世記2・17)と警告した。

この死は、霊魂が神から離れるという、第一の死の最初の出来事、身体が霊魂から離れるという次の出来事、霊魂が神からも身体からも離れる出来事(第二の死)の全てを指す。

アダムとイブは罪を犯すと、神の恩恵はただちに取り去られ、二人は裸であることに気づいて心が乱れた。そこで彼らは、慌てて近くにあったイチジクの葉で恥部を覆った(創世記3・7)。

その器官は、以前と同じであったが、恥ずべきものでなかったのに、恥ずかしくなっていた。そのとき二人は、転倒した自己の自由を喜び、神への奉仕を拒み、ついには霊魂が最初肉体に対して持っていた支配力を失うに至ったのである。

そして霊魂は、自己の上にある主を欲するままに捨てたので、自己の下にある僕(肢体)を欲するままに抑えることができず、肉の支配ができなくなった。その時より、霊に逆らう肉の貪りが始まったのである。  

4章 霊魂の神への背きから来る第一の死  

「食べると必ず死んでしまう」(創世記2・17)、神は死を予示したが、この死は不従順によって私を捨てる日には、私は正義によって君たちを捨てるであろうという意味で言われた。

また神が、この死をもって、それに続いて確実に起こるそのほかの死をも予示した。というのも、二人は掟に従わなかった結果、肉の不従順を感じ恥部を覆ったが、そのとき霊魂は神に捨てられるという一つの死を知ったからである。 

その死は、恐怖を感じて身を隠した人に言われた「どこにいるのか」(創世記3・9)という言葉に暗示されている。これは無論、神がアダムの居場所を尋ねるために問うたのではなく、アダムのいる所に、神はいないことに気づくように大声をもって警告したのである。 

ところで、身体は年と共に朽ち、老いてすっかり衰えたとき、もう一つの死が至るのである。これについて「塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3・19)と言われた。こうして、二つの死によって全人間の死である第一の死が実現する。

人はこの第一の死から、恩恵によってでなければ解放されず、その解放なしには、最後の審判による第二の死が続くのである。 

5章 罪の罰である死が、今は神の憐みにより、死により義が満たされることがある。しかし、死自体は悪である。 

死はかつて罪の行為に続くものであったが、今は死によって義が満たされることがある。このことは、信仰を捨てるか、それとも死の苦しみを受けるかという選択をせまられている殉教者において明らかである。

「罪を犯せば死ぬだろう」(参:創世記2・17)と人間に言われたことが、いま殉教者には「もし死を拒むならば、戒めに背く者となろう」(参:マタイ10・28)と言われる。かつて死は、罪を犯さないための戒めだったものが、今は罪を避けるための道具となった。

こうして、神の憐みにより、悪徳の罰である死でさえも、徳の武具に変わり、罪人の受ける刑罰もまた義人の報いとなる。

そして最初の不義の者たちが信じなかったために受けたものを、今義しい者たちは信仰によって受けることを選ぶのである。

しかし、死自体は善ではなく、悪である 。なぜなら、「死につつある」人が経験する霊魂と身体の分離としての身体の死は、組み合わされていた二つのものを引き裂き、苦痛と反自然的な感情を起こすからである。 

6章 第二の死は最大の悪である。聖徒たちはそれを知り、それを避ける。 

人が真理のために神を信じ、神を讃えながら死ぬ場合、彼が引き受けた死は、第一の死であって、終わりなき第二の死が起こることがないためである。彼は霊魂の身体からの分離を引き受けたが、これはその分離の前に霊魂から神が離れることを避けるためであった。 

死につつある者が、苦痛を経験し、苦痛が彼の死の原因となる限り、死は誰にとっても善いものではない。しかし善を求める者は、神を賛美しながら、それに耐える。善い人はその悪いものをも善く用いることができるのである。なぜなら、敬虔と信仰をもってそれを耐えるものには忍耐の報いを増し加えられるからである。 

すでに死んでしまった者にとっては、死は悪人にとって悪く、善人にとって善い。前者は永遠の死(第二の死)に至るため、後者は永遠の生に至るために、もう一度生まれるのである。

私たちは贖い主の助けによって、少なくとも第二の死を避けるべきである。これは第一の死よりも厳しく、あらゆる悪の中でも最大である。

人はそこでは、生きているのではなく、死んでいるのでもなく、終わることなく「死につつ」あるのである。  

7章 聖徒たちの復活後のの身体は堕落前の身体にまさる。  

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」。

1コリント15・42~44

聖徒たちは、復活後、肉は霊に容易に服従し仕えるようになり、思いを確実に満たし、あらゆる苦痛、あらゆる腐朽と愚かさから解放されて、不死に至る。その時の身体は、罪を犯す前のアダムとエバの身体よりすぐれている。 

アダムとエバは罪を犯さなかったら死ぬことはなかったが、霊的ではなく霊的な地上の身体をまとっていたので、今の人間と同じように食物をとっていた。二人は、年老い、死なないために神の与えた生命の木の実を摂取していた。また、二人は、飢え渇かないために、生命の木の実以外の食物を摂取していた。 

その中で、知恵の木の実が禁じられていた。それは、その木が悪いのではなく、従順がどんなに善いかを教えるためであった。従順は、主なる創造者の下に置かれた理性的被造物にとって大きな徳であったのである。 

復活に際して与えられる義人たちの身体は、病気や老衰によって人を死なせることがないための木を必要とせず、また飢えや渇きを満たすための栄養を必要としない。なぜなら、彼らには確実で、汚されることのない不死の賜物が与えられるからである。彼らは欲するならば食事をすることができるが、それは必要に迫られてではなく、ただ出来るということに過ぎない。  

8章 自然の命の体と霊の体について 1  

罪を犯す前のアダムは、生命の木の実によって老いることなく、死ぬこともなかったが、罪を犯したあと、生命の木から遠ざけられ、老い、死ぬものとなった。 

この意味で使徒は「体は罪によって死ぬだろう」とは言わず、「体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(ローマ8・10)と言ったのである。

続いてこう記されている。「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(ローマ8・11)。 

このようにして義人の自然の命の体は、死者の中から復活するとき、霊の体となるであろう。使徒がいまある身体を「死んでいる」と言ったのは、死の必然に縛られているからである。しかし自然の命の体にある間は、「死んでいる」と言うのは正しくない。

しかし、「どこにいるのか」と神がアダムに言ったとき(創世記3・9)、神は、アダムが神を捨てることによって生じる霊魂の死を指して言ったのであり、また「塵にすぎないお前は塵に返る。」(創世記3・19)と言ったとき、身体の死を指して言ったのである。

ここでは第二の死については言っていない。神は聖書の啓示のためにまだ隠しておいたからである。したがって、ここでは、すべての人に共通の第一の死があり、その死は、最初の罪の結果、すべての人に共通のものとなったことを示している。

次に第二の死が来るが、これはすべての人に共通ではない。というのも使徒が言うように「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された」(ローマ8・28)者には第二の死が来ないからである。神は彼らを「御子が多くの兄弟の中で長子となられるため」(ローマ8・29)定められたのである。 

9章 自然の命の体と霊の体について 2

「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。

1コリント15・45

最初の人間は、自然の命の体でつくられたと使徒は言っている。もし、アダムが罪を犯さなかったならば、死ぬことはなかったであろう、そして褒美として霊の体をもつことができたであろう。しかしアダムは、罪を犯した時、生命の木から遠ざけられ、そのため老い、死ぬように定められたのである。私たちもその必然を受けて生まれた。 

しかし、現在の自然の命の体が、復活の時、霊の体に変わるのである。霊の体は、自然の命の体より優れている。最後のアダムは、キリストのことであり、霊の体は、キリストの中にすでにあったのである。そして霊の体は、死人たちの最後の復活の時にキリストの教会で実現するであろう。 

最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

1コリント15・46~49

ここで、これら二種の人間の明らかな相違を述べている。そしてこのことは、復活において霊的なものとなるとき真に実現するだろう。 

現在は、「わたしたちは、このような希望によって救われている」(ローマ8・24)。私たちは今、土からできた人の似姿であるが、やがて罪の赦しを受け、永遠の生命の恵みを受け天に属する者となるだろう。これは神と人間との仲保である人間イエス・キリストによってのみもたらされる新生の恵みである。

使徒が、天に属する者という語で示そうとしたのは、この方である。なぜなら、この方は天から来て、土からできた可死性の体をまとったが、やがて天の不死性によってそれを覆うからである。使徒がキリスト以外の者も天に属する者と呼んだのは、彼らが恩恵によってキリストの体となり、ちょうど頭と体のように、一人なるキリストが彼らと共にいるからである。 使徒は同じ手紙の中でこれをいっそうはっきりと述べている。

死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。

1コリント15・21、22

この「生かされる」とは、確かに、霊の体を与える方によって与えられた霊の体のなかに生きるということである。しかしこれは、アダムにおいて死んだすべての者がキリストの体になるというのではない。なぜなら、その中の多くの者が永遠の第二の死の罰を受けるからである。

「すべての人」が二度用いられているのは、アダムにおいて死んだ人はみな自然の命の体において死んだのであるが、キリストにおいて生きる者はみな霊の体において生きるという意味である。 

それゆえ、私たちが復活の時に持つ体を、最初の人間が罪を犯す前に持っていたもののように考えてはならない。なぜなら、最初の人間は霊の体を持っていなかったからである。私たちは、キリストにおいて生きるならば、復活のときに霊の体を与えられるのである。