「神の国2」

聖アウグスティヌスの「神の国12巻」を簡略しています。

従順な天使は至福に至り、反逆する天使は悲惨に至る。これらの運命は交替したり、循環したりはしない。 

1章 善い天使も悪い天使も共に自然本性においては善い。 

善い天使も、悪い天使も、初めは等しく善いものとしてつくられた。善い天使と悪い天使の相違は、異なる本性から起こったのではなく、むしろ異なる意志と欲望から起こったのである。

善い天使は神の真理と愛の中に常に留まっているが、悪い天使は自分が善であるかのように自分の力を楽しみ、自分だけの善を求めるのである。善い天使の至福の原因は神に寄りすがることである。悪い天使の悲惨の原因は神に寄りすがらないことである。

理性的被造物を至福にするものは自分自身によってではなく(無からつくられたのであるから)、彼をつくった方によって至福になることができる。不変的な善は神だけに存在する。一方、被造物は神によってつくられた限りで善いが、神からでなく無から生じたため可変的であり、至高の善ではない。しかし、この可変的な善も不変的な善に寄りすがることで至福となることができる。

理性的な存在者にとっての欠陥は、神に寄りすがらないことである。そして、その欠陥は自然本性を損ない、自然本性に逆らうものとする。それゆえ神に寄りすがらないものは、神に寄りすがるものと自然本性において異ならないが、欠陥によって異なる。 

2章 神の敵と呼ばれるもの 

聖書には神の敵と呼ばれるものがある。彼らは自然本性によってではなく、欠陥(悪徳)によって神に逆らう。

しかし、神は不変であり、不壊である。

それゆえ、神の敵の欠陥は、神にとってではなく彼ら自身にとって悪であり、他のものではなく、彼ら自身の本性の善を破壊するのみである。欠陥が自然本性を破壊するとは、完全・美・健康・力などを自然本性から奪うことである。 

もし自然本性の中に善がないならば、欠陥により損なうものはないだろう。また欠陥は(最高善の中にはありえないが)なんらかの善の中にでなければありえないだろう。

実際、損なわれた自然本性が罰を受ける場合でも、罰を受けずには済まされないという点でも善いのである。なぜなら、罰は正しく、正しいものはみな善いからである。 

3章 過ぎ行く諸物の秩序とその本性の効用 

動物や樹木など、知性や感覚や生命を持たない被造物の欠陥を罰とみなすことは意味のないことである。これらの被造物は、その限度を創造者の指図に従って受け取り、去っては現れつつ、この世の時間の諸部分にふさわしい小さい美を完成させている。

それゆえ、この世で、生成消滅が相次ぎ、小さいものが大きいものに従い、負けたものが勝ったものの性質に変えられるとき、そこに諸物の秩序がある。私たちは可死性を負って、その中に組み込まれている。

しかし、私たちは、見て喜びを感じる自然本性が欠陥によって奪われるのを好まないのである。実際、この場合、人はそれらを本性ではなく効用に従って考えている。

しかし、自然本性は、私たちに役立つか役立たないかの観点を離れて見るならば、自らの創造者に光栄を帰しているのである。

4章 自然本性はみな神を讃える。 

すべての自然本性は善いものである。そして、すべての自然本性は、創造者の法に従い、より善いものへ、あるいはより劣るものへと変化するが、その変化の中で、神の摂理に導かれ終わりへと向かう。この終わりは神の摂理によって定められている。神以外のすべての実在は、神からつくられたのである。無から生じたものは、この神と等しい存在を要求することはできず、神によってでなければ存在することもない。それゆえ、被造物にどんな欠陥があっても、それを非難して神を冒涜することは許されない。私たちはむしろ、すべての自然本性を眺めて、神を賛美しなければならない。 

5章 善い天使の至福と悪い天使の悲惨の原因 

悪い天使の悲惨の原因は、最高に存在する方に背いて、最高に存在するのではない彼ら自身に向くことである。彼らは、神以外のものに目を止め、それを神よりも愛し、高慢になることで神に背いた。彼らは、彼らの力である方に目を止めることを拒んだ。彼らがもし最高に存在する方に寄りすがったならば、彼らの至福は継続していたであろう。 

しかし、彼らはその方よりも自分自身を選び、小さい存在を選んだ。これが自然本性の最初の堕落、最初の欠陥である。その自然本性は、神から離れた結果、無となったのではないが存在において小さくなり悲惨となった。 

悪い意志は、神がつくった自然本性ではない。悪い意志は悪い自然本性の中にあったのではなく、むしろ善い自然本性の中にあったのである。ただし、その善い自然本性といえども可変的であって、欠陥がそれを損ないえたのである。 

自由意志が、自分よりすぐれたものを捨てて、神より劣るものに向かうとき悪い意志となる。なぜなら、その劣るものが悪いからではなく、そこに向かうこと自体が転倒した意志だからである。 

例えば、精神も身体もまったく同じ状態にある二人が、一人の女性の美しい身体を見て、一方は彼女を不義に楽しもうと目をやり、他方は清い心を持ち続けたとしよう。何が原因で一方に悪い意志が生じ、他方に生じなかったのか? 

彼女の美しい肢体がそれなのではない。なぜなら、二人の目が彼女に向かったとしても、二人の中に悪い意志が生じていないからである。それならば一方において作用しないのはなぜか?二人とも精神も身体も同じ状態にあると仮定したのである。

あるいは、一方は邪悪な霊の見えない誘惑にあったのであろうか?ただし、その誘惑は、彼が自分の意志をもって同意しないことのできるものである。まさに、この悪い誘惑に従う同意が、悪い意志であって、それが悪い意志の作用因である。

したがってこの場合、二人が同じ誘惑に会ったとしても、一方は屈服して同意し、他方は依然と同じ状態にあり続けたのであるから、この問題に対する答えは、一方が清い心を捨てることを拒み、他方はそれを欲し同意したということである。

むろん、同意した人も、悪い意志の生じる前は確かに善い人であった。そこでもし誰かが悪い意志を生んだのは、その人であったと言おうとすれば、なぜそれを生んだのかを問わねばならない。

自然本性は可変的であるが、悪い意志を持つ前は善いものであった。この自然本性が悪の原因、すなわち悪い意志となるということがどうしてありえようか? 

6章 意志の堕落について 

悪い意志の始まりは、最高存在者から他の低い存在に向かうことである。これは減少の欠如として現れ、非常に気付きにくいものである。私たちは、多くの善をなすとき、多くの消極的原因を持っている。 

一方、堕落し、その結果多くの悪をなすとき、多くの消極的原因を持つ。そして、ある人に悪い意志が生じるとき、その人が生じるのを欲しなかったもの、つまり堕落が生じる。この堕落は罰に値するものである。というのも堕落は悪だからである。 

例えば、貪りは金銭の咎ではなく、誤った仕方で金銭を愛し、金銭とは比べられない価値を置くべき正義を捨てた人の咎である。
放縦は、美しい魅力ある身体の咎ではなく、誤った仕方で身体の快楽を愛し、霊的な美と不滅のうるわしさとに結ばれるために節制を無視した人の咎である。
うぬぼれは、賞賛の咎ではなく、誤った仕方で世間の賞賛を愛し、良心の証しに心を止めなかった人の精神の咎である。
傲慢は、権力を授ける人の、あるいは権力そのものの咎ではなく、転倒した仕方で権力を愛し、全能者の正義を軽蔑する人の咎である。 

こうして、自然本性の善を転倒した仕方で愛する(神よりも神以外の被造物を愛する)人は、たとえそれを手に入れたとしても、悪い悲惨な人になるのである。 

7章 神は聖い天使の善い意志をつくった。 

最初の天使たちの悪は、彼らの悪い意志から生じ、それによって自然本性の善が減少して奪われるのである。そして堕落した意志は、神を捨てた。 

天使たちの善い意志は神によってつくられた。彼らはつくられると同時に、彼らをつくった方を愛し、寄りすがった。しかし彼らが同じ善い意志の中に留まっていた時に、他の一群の天使たちは、彼らとの交わりを捨て、堕落してしまった。 

この善くつくられたが悪くなった天使たちは、神の恵みを受け取ることに留まった天使たちよりも少なかった。 

「わたしは、神に近くあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く」(詩編73・28)と書かれているが、この善は天使にとっても善であったのである。 

8章 神は常に主である。 

時間は被造物であり、あらゆる時に存在したがために常に存在したと言われる。けれども、天使たちは常に存在したがゆえに被造物でなかったと言うことはできない。むしろ、天使たちはあらゆる時に存在したがゆえに常に存在したと言うべきである。 

天使たちの運動は時間の経過を生み、現在から未来と進み、そして現在は過去になるので、神のように永遠に存在することはできない。

というのも創造者の運動の中に、過去や未来があることはできないからである。それゆえ、神は常に主であったし、常にその支配に仕える被造物を持っていたのであるが、その被造物は生まれたのではなく、無からつくられたのであり、神と等しく永遠ではない。

神は被造物より先にあったが、そこには被造物はなかったのであるから、時間の中にあったのではない。神は不断の持続により先立つのである。 

神は永遠であって始めのない方であるが、ある時、始めを取り、以前にはつくられなかった時間と人間とをつくり、そのことを新しい突然の思いつきによってではなく、不変の計画をもって行ったのである。そして、一人の人から人類を増し加えたのである。 

9章 神の永遠の約束について

これは永遠の命の希望に基づくもので、偽ることのない神は、永遠の昔にこの命を約束してくださいました。神は、定められた時に、宣教を通して御言葉を明らかにされました。

テトス1・2、3

ここで使徒は未来ではなく過去の永遠の時間があったことを語っているが、それは神と等しく永遠にあったのではない。 

神はこの永遠の時間に先立って存在しただけではなく、永遠の生命を約束したのである。しかし、そうだとすれば、それらは神の御言葉以外に何があるのだろうか。その御言葉が永遠の生命である。 

そして神が、永遠の時間以前に存在しなかった人間にそれを約束したのであれば、その約束は、神が善しとした時に起こるであろうことを固く予定しているのである。 

10章 神は休みつつ働き、働きつつ休む。

神は休んでいる時と働いている時とで異なる状態にあるのではない。異なる状態にあるということは、神の本性の中に以前なかったものが生じると言うことと同じである。異なる状態に置かれるものは変化を受けるものであり、変化を受けるものはすべて可変的である。 

それゆえ、神の休みに無為や怠惰や疲労があるかとか、神の働きには労苦や努力や勤勉があるのではない。神は休みつつ働き、働きつつ休むことを知っておられる。 

また神は新しい業を新しい計画によってではなく、永遠の計画に従って行うことができるのである。 

一方、神において、先にあった意志が後に生じた意志によって変えられたり棄てられたりすることはない。神がつくるものは、同一の、永遠に変わることのない意志によってつくられるのである。 したがって、存在しなかったものは、以前にも存在すべきものでなかったし、後に存在するものは存在すべきものだったのである。 

11章 人間の創造

神は新しいものを創造するとしても、その永遠性のゆえに新しい意志をもって行うのではない。したがって、神が最初に一人の人間をつくり、それから人類を増したことは、多くの人間から始めるよりも、はるかに善いことであった。 

神は人間の本性を天使と動物との中間のものとしてつくった。それゆえ、人間がその創造者を真実の主として仕えるならば、やがて天使の仲間に加えられ、終わりのない至福に達するであろう。しかし、もし主なる神に向かって、高慢かつ不従順に反抗するならば、動物のように生き、欲情に仕えて、死後に永遠の罰に達するであろう。 

神は、人間を個々につくったが、それは人間が本性の一致によってのみならず、親近さによって結ばれるならば、人間社会の統一ときずなとが、強くなるためであった。 

神は最後に女をつくり、これを男と合わせようとしたが、この場合、女を男からつくることにより、全人類が一人の人間から広がるようにしたのである。 

12章 神は最初の人間の罪と救いを予見した。

神は人間がやがて罪を犯し、その結果死ぬべきものとなり、死ぬべき子孫を生むであろうことを予見していた。また神は、人間の罪が限りなく大きくなることも予見していた。

しかし、神はまた信仰の民が神の恩恵によって後継ぎとして召され、聖霊によって罪の赦しを得て、義とされ、最後の敵である死が滅ぼされるとき、永遠の平和の中に、聖い天使たちとの交わりに入ることも予見していたのである。 

13章 人間は神の像に似せてつくられた。

神は、神の像に似せて人間をつくった。すなわち人間が理性と知性とにより、地上の動物や海の魚や空の鳥にまさるように創造した。神は土くれでもって男を形作り、これに霊魂を与えたのである、次に神は、この男の胸から骨を取り、これを妻として生殖の助けとなるようにした。 

14章 神のみが被造物の本性と形相の創造者である

形相には二種類ある。一つは、物体的なものを外から加工するものである。例えば、陶工、機械、建設物などである。この形相の創造者は人間である。もう一つは、それら加工される前のもので形相をもつものである。この形相の創造者は神である。

大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 

1コリント3・7

この意味で、私たちは、農夫をどんな穀物の創造者とも呼ばない。

あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。

1コリント15・37、38

大地は明らかにすべてのものを実らせる母であり、その成長を促進させ、根をかたく張らせて保つが、これも創造者とは呼ばない。

わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。

エレミア1・5

子をはらむ女の心の状態は様々であり、まだ生まれていない子に何らかの性質を与えることができるが、その子が生まれるために働く自然本性そのものは、至高の神の他何ものによっても造られなかったのである。

自然本性を造ったものは神以外にありえない。神がその自然本性を造らなければ、私たちは、そこから何かを造ることはできないだろう。

15章 最初の人間が人類と二つの国の起源をなす。

私たちは最初につくられたこの最初の人間の中に、神の摂理により人類の二つの起源がすでに置かれていたのである。すなわち、最初の一人から多くの人間が起こり、そのある者たちは悪い天使たちと交わって罰せられ、ある者たちは善い天使たちと交わって報いを得たが、このことは神の隠れたしかし義しい裁きによるのである。