聖アウェンティヌスの「神の国11巻」を簡略しています。
神の国 二つの国の真の起源は、神の天地創造に際して造られた天使たちの従順と不従順の中に求められる。
■目次
1章 神の国の主題
私たちが「神の国」と呼ぶものを証するのは聖書である。
(マタイ6・33)何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
( マタイ 19・ 24)重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。
(2テサロニケ1・5)これは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする、神の判定が正しいという証拠です。あなたがたも、神の国のために苦しみを受けているのです。
(知恵10・10)兄弟の怒りを逃れた義人を、知恵は正しい道に導き、神の国を彼に示し、聖なる事柄についての知識を授け、労苦を通して繁栄をもたらし、その働きに対して豊かに報いた。
・・・・・など多数例他にあり
私たちは、その国の市民になることを熱望している。しかし「地の国」の人たちは、この聖なる国の創始者を選ぶ代わりに、自分たちの神を選んでいる。この偽りの神とは、聖なる国の創始者から不変の光を奪われた闇の天使である。
「神の国」では、この二つの国「神の国」、「地の国」の起源、経過、定められた終局を論じていく。
2章 神は仲保者を通じてのみ知ることができる
人間は原罪や自分の罪によって弱くなっているため、神の光の中に固着することは難しい。神の光の中にとどまるためには、まず信仰によって、その光に慣れ清まっていかないといけない。
真理であり神の子である神は、神性を棄てることなく人性を引き受けた。これにより信仰が始まった。その信仰は「人なる神」によって人間の神へ至る道である。この「人なる神」とは、神と人間との仲保者であるイエス・キリストである。
彼は、人間であることにより仲保者であり、私たちが歩むべき道であり、同時に、神であるために目標でもある。
この仲保者イエス・キリストは、最初に預言者、次に彼自身により、その後は使徒によって伝えられ、聖書が世に与えられた。私たちは、神について知るためには、聖書やそれを学んだ人たちや、聖なる人が記したものなどから知ることができる。
3章 宇宙は創造されたものである
すべて見えるものの中で最大のものは宇宙であり、すべて見えないものの最大のものは神である。私たちは宇宙が存在することを見て知るが、神が存在することは信じるのである。
神が宇宙をつくったことは、神自身によって知らせた「聖書」により知ることができる。もちろん、最初の章である創世記を書いたモーセは、そこにいたのではない。神がモーセに啓示したものである。
しかし、聖書によらないでも、宇宙は神によってつくられたものではないと主張するならば真理に背いている。なぜなら、宇宙そのものは限りなく整えられた運動変化と、また見られる限りの美しさを持っていて、それはつくられたものでないと存在しえないからである。
4章 宇宙は時間と共につくられた。
時間は何らかの運動変化なしには存在しない。一方、永遠の中にはどんな変化もない。したがって、なんらかの運動により変化を起こす被造物が存在しないなら時間は存在しない。
聖書には「初めに、神は天と地を創造された」(創世記1・1)と述べている。このことは、神がそれ以前には何もつくられなかったことを表す。また神は天と地をつくったとしても、時間をも含んでつくられたのである。
それゆえ、宇宙は時間の中につくられたのではなく、むしろ時間と共につくられたのである。
5章 創造の日について
神は、天と地をつくられたが、それらは最初、混沌としたものであった。創世記にはそれらを6日間で神によって整えられ完成されたことが書かれている。その一日は「夕とあり朝となった」との言葉で区切られている。
私たちが経験する一日というものは、太陽が沈み、夕となり、太陽が昇り、朝となる。ところが聖書のいう3日は太陽なしに過ぎ行き、その太陽は4日目につくられたことが書かれている。つまり、創世記で記されている一日は私たちが経験する一日ではない。
被造物は、創造者と比べるならば夕のようである。しかしそれらが神により光をあてられるならば、光を増して朝となる。
創世記では、未完成なものを夕とあらわし、神の光によって整えられたものを朝と記している。そして神が見捨てない限り被造物は夜に変わることはない。神は、混沌とした宇宙を6区切りに分けて創造されたのである。
このことは、言葉によって時間なしに瞬時に被造物がつくられたのではないことを意味する。神の業は日という時間間隔のうちでなされたのである。
6章 7日目の神の安息について
創世記で、7日目に安息した(創世記2・1~3)と記されているが、このことで神は仕事を辞めてしまったことを言っているのではない。
神の安息は、神の中に安息する人の休みを意味している。これは、例えば「家の楽しみ」が「その家にいる人たちの楽しみ」を意味しているのと同じである。
預言者は、この神の安息を告げ、かつ書き記したが、また次のことも約束した。 「私たちは、この世で信仰によって神に近づくなら、神の中に永久の休みを得るだろう」,,,,ということである。
参考)天地創造の7日間
- 1日目→天と地をつくる。次に光をつくり、光と闇が分けられた。
- 2日目→屋根をつくり、屋根の上にある水と、屋根の下にある水とに分け、この屋根を天と呼ばれた。
- 3日目→天の下にあった水を集め、大陸が現れた。大地に植物を生じさせる。
- 4日目→星、太陽をつくり、昼と夜、季節、年のしるしとなるようにした。
- 5日目→海に住む生物と、翼ある鳥とをつくる。
- 6日目→さまざまな動物をつくり、最後に人間をつくられる。
- 7日目→神は働きを終え休まれる。
7章 三位一体の神
神のみが純一であり、不変の善を持つ。すべてのものは、神によってつくられた。つくられたものは純一でなく、可変的である。つくられたものは生まれたものではない。なぜなら、純一の善から生まれたものは、生む方と等しく純一であり、同じ本性をもつからである。この生む方と、生まれた方を、私たちは御父、御子と呼ぶ。
御父と御子は、その霊と共に一なる神である。この霊は聖霊と呼ばれる。聖霊は御父と御子とも異なる方である。しかし「異なる方」であって「異なるもの」ではない。なぜなら、聖霊もまた等しく純一にして不変的な善であるからである。
これらの三つは、おのおののペルソナ(位格)の固有性ゆえに三者であり、その非分離な神性のゆえに一なる神である。この一なる神は、すべての見えるもの、すべての見えないものを創造された。
8章 天使の創造
ハレルヤ。天において主を賛美せよ。高い天で主を賛美せよ。御使いらよ、こぞって主を賛美せよ。主の万軍よ、こぞって主を賛美せよ。日よ、月よ主を賛美せよ。輝く星よ主を賛美せよ。天の天よ、天の上にある水よ主を賛美せよ。主の御名を賛美せよ。主は命じられ、すべてのものは創造された。
詩編148・1~5
「主は命じられ、すべてのものは創造された」とここに書かれているため、天使たちも造られたことが明らかに書かれている。
しかし、創世記には天使がいつ創造されたのか明らかに書かれていないが、天使が創造されたのであれば、「光」である。
神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。
創世記1・3
正しく解するならば、この光の中に天使の創造があったと解される。たしかに天使は永遠の光にあずかるものとして造られた。 この光は永遠の知恵であり、私たちはそれを神の独り子と呼んでいる。
言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。
ヨハネ1・4
この光は、人間と同じように、すべての潔い天使を照らし、それによって天使は自己にあってではなく、神によって光となる。
しかし、もし天使が神に背くなら、もはや潔くあることはなく不潔となる。 彼らは永遠の光を預かることを失い、もはや主にあって光であるのではなく、自己自身の中にあって闇となったのである。悪は、善の喪失によりその名が与えられたのである。
9章 神の光に背く悪い天使たち。
天使たちは創造されると同時に光を預かる者となった。天使がつくられたのは、天に照らされて知恵と至福の中に生きるためである。ある天使たちは、この照明に背いたため知恵と至福の生の高みに達することはできなかった。
天使たちは、最初、至福について完全な知識はもっていなかった。しかし善い天使たちは、その至福が永遠であることを一度も疑わず、その至福に留まったので真に充実した至福を生きた。
一方、悪い天使たちは、その知恵に等しくあずかっていたが、その永遠の至福を疑い、別の至福を求めた。
神は真の至福であり、それよりも大きい至福はありえない。そして天使たちは、自分たちの中にそれがある限り、その最高の至福によって至福である。
しかし、至福な生という語を狭く解するなら、神のみが至福であるということではない。けれども、これは神の至福と比べるなら、どのようなものであろうか?
知的存在者が、正しい目標として求める至福の状態は、次の二つである。
- 神である不変の善を、どんな労苦もなしに楽しみ続けること。
- 自分が永遠にこの善の中に留まることを確信し、欺かれないこと。
現在、光の天使たちは、この至福の中にある。
10章 「悪魔は初めから罪を犯した」とは。
ああ、お前は天から落ちた。明けの明星、曙の子よ。お前は地に投げ落とされた。もろもろの国を倒した者よ 。
イザヤ14・12
お前は神の園であるエデンにいた。あらゆる宝石がお前を包んでいた。ルビー、黄玉、紫水晶、かんらん石、縞めのう、碧玉、サファイア、ざくろ石、エメラルド。それらは金で作られた留め金で、お前に着けられていた。それらはお前が創造された日に整えられた。わたしはお前を、翼を広げて覆うケルブとして造った。お前は神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いていた。お前が創造された日からお前の歩みは無垢であったが、ついに不正がお前の中に見いだされるようになった。
エゼキエル28・13~15
この二つの例から、悪魔はかつて罪がなかったと知ることができる。
悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。
ヨハネ8・44
したがって、ここで「彼の内に真理がない」とは、真理の中にいたにもかかわらず、そこに留まらなかったという意味で解することができる。
「悪魔は初めから罪を犯した」
1ヨハネ3・8
このことは、創造されたときから罪を犯したというのではなく、むしろ自身の高慢から罪が存在し始めたという意味で解すべきである。
11章 「光と闇の分離について」
神は光と闇とを分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
創世記1・5
最初に光が創造されたのと同時に天使が創造され、ここに記されている時に、神は聖い天使たちと、聖くない天使たちの分離を行った。
ここで神はよしと言われていない。なぜなら、聖くない天使は善いと呼ばれることがあってはならないのである。
闇の天使たちは、神の秩序ともとに置かれたとはいえ、決して善しとするものではなかったのである。
12章 神はすべて善いものをつくった(悪の創造者ではない)。
神はすべてのものを善いものとしてつくった。天使が神から離れ、邪悪な天使になるとしても、そこに先行するものは善い自然本性であり、悪によって損なわれた状態ではない。
被造物は神から光をあずかることで光となるが、神から離れることは被造物にとって欠陥を招く。そしてその欠陥は自然本性に逆らい、害を与えることしかできない。もしそうでないなら、神から離れても、自然本性が損なわれることはないだろう。
それゆえ、悪い意志が存在することは自然本性が善いものであることの大きな証明である。
悪い意志は、その善い被造物を悪く用いる。しかし、神はそのような悪い意志を善く用いる。悪魔は、神の聖徒たちにとって益となることしかできない。
神は、もともと神の善性によってつくった天使が、自らの予知により悪くなることを知っていた。しかし神は、その悪を善く用いることを用意していたのである。
神は人間も将来悪くなることを予知しながらつくったのであるが、同時にこの被造物を、どのように用いれば有益なものとすることを知り、かつ世界の諸時代の秩序をちょうど見事な対照によってつくられた詩のように飾ることを知らなかったらなされなかったであろう。それは次のように表現される。
悪に対するのは善
ペン・シラ33・14、15
死に対するのは生命
敬虔な人に対するのは罪びと
さて、いと高き者の、すべての業をながめよ
それは一つずつ対照がある。
13章 創造における神の不変の知
「神は見て、善しとされた」という言葉が、すべての被造物について言われている。ただし、神はそれをつくった後に、それを見て善いことが解ったのではない。
被造物のどれ一つとして、あらかじめ神に知られていなかったものは生じないからである。神は私たちのように、未来を予測し、現在のものを直観し、過去のことを振り返って見ることはない。神は現在・過去・未来を動くことのない永遠の今において所有している。
そして神の知識は、私たちの知識と異なり、現在・過去・未来によって異なることはない。また神は、一つの思考から他の思考に移ることはない。そして神のしるすべてのものは、神の非物体的な直視作用の許に存在する。神はどんな時間的認識にもよらず知るが、これは神が被造物を、どんな運動にもよらず創造し、動かすのと同様である。神はやがてつくられるべきものが善くあるのを見た限り、その造ったものをよしとしたのである。
それゆえ、だれが光をつくったのかという問いに対して「神が光をつくった」と答えるだけで十分であろう。何によってつくったかと問われるなら、「神は言われた、光あれ、すると光が成った」と聖書に書かれたことを示せば十分である。何のためにつくられたと問われるなら、「善しとされたから」であると答えることができる。すなわち神の善性こそがよいものを創造する原因である。
14章 創造の三位一体的根拠
被造物は誰がつくったか、何によってつくったか、何のためにつくったか、と問われる中に三位一体が暗示されている。
「成れ」と言ったのは、御言葉の御父である。そして被造物は、御父が語ることによって成ったのであるから、疑いもなく御言葉によってつくったのである。また「神は、見て善しとされた」という言葉は、善いという理由でそれをつくったことを意味している。そしてこう言われたのはつくられたものが創造の目的である神の善性に適合することを示している。この善性が聖霊である。
15章 人間の精神の中に見られる三位一体の似像―存在・知識・愛
私たちは、自身の中に神の似像、すなわち三位一体の似像をもっている。
私たち自身のことについて考えると、私は存在し、私はその存在を知り、かつこの二つを愛している。私にある実在(存在、知識、愛)を疑う必要はない。
なぜなら、私が存在し、私がその存在を知り、私がこの二つを愛していることは確実だからである。
私はこの三つにより私であることを知る。この事実は、五感や思考や記憶によって確認する必要はない。
16章 天使による三位一体の認識
聖なる天使たちは、不変の真理の現前そのものによって神を知っている。聖なる天使たちの三位一体の神の知識は、私たちが私たち自身を知ること以上に確実である。
彼らは、被造物を被造物においてよりもむしろ神の知恵において一層よく知っている。また神の中に、自己を知るとき、その知識は言わば真昼の中にあるが、神の中にいないで自己の中に自己を知るときは、言わば夕の中にあるのである。
17章 天使の二群について
聖い天使たちは光と呼ばれ、神に背く天使たちは闇と呼ばれる。したがって「神は言われた。光あれ、すると光があった」。また「神は光と闇とを分けられた」。ここに天使の二種の社会があると解する。
一つは「神を喜ぶもの」であり、もう一つは「高慢によってふくれあがったもの」である。「神を喜ぶもの」は天国に住み、神を喜び、神への聖い愛によって燃えている。敬虔な心をもって静まっており、落ち着いて神の命令に従い、神の恵みの業に奉仕する。また悪魔を嘲っている(ヨブ40・19)。なぜなら、悪魔が欲しないでも益を受けるからである。
「高慢によってふくれあがったもの」は地獄に住み、最後の審判を待つ。彼らは貪欲の闇の中で騒ぎ、自分が高くなる不潔な煙を出す。善い天使たちをねたみ、神に逆らう。
このように、これらの二種の天使たちの社会は互いに分かれ対立している。一方は善い本性と善い意志のものである。他方は本性は善くても意志は転倒している。このことは創世記において、光と闇という語に暗示されている。